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 今回の城巡りは、日本100名城(日本城郭協会選)に選ばれている「伊賀上野城」、「松阪城」と選外の「伊勢亀山城」を訪れました。現在の伊賀上野城の城郭は、慶長13年(1608年)藤堂高虎が整備したが、天守については昭和10年(1935年)地元の名士川崎克氏が私財を投じて再建したものです。伊勢亀山城は天正18年(1590年)岡本宗憲が亀山古城の東に新たに築城したのが現在の亀山城です。松阪城は天正12年(1584年)豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が飯高郡矢川庄四五森の独立丘陵に、夜を日に継いで天正16年(1588年)に完成させた平山城が現在の松阪城です。<br /> この3城は、築城時からの天守閣は残っておらず、見るべきところは城郭の石垣です。<br />表紙は伊賀上野城の模擬天守閣です。

100名城・伊賀上野城、伊勢亀山城、松阪城を訪ねて/三重県・伊賀市、亀山市、松阪市

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2013/08/20 - 2013/08/20

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ひま人

ひま人さん

 今回の城巡りは、日本100名城(日本城郭協会選)に選ばれている「伊賀上野城」、「松阪城」と選外の「伊勢亀山城」を訪れました。現在の伊賀上野城の城郭は、慶長13年(1608年)藤堂高虎が整備したが、天守については昭和10年(1935年)地元の名士川崎克氏が私財を投じて再建したものです。伊勢亀山城は天正18年(1590年)岡本宗憲が亀山古城の東に新たに築城したのが現在の亀山城です。松阪城は天正12年(1584年)豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が飯高郡矢川庄四五森の独立丘陵に、夜を日に継いで天正16年(1588年)に完成させた平山城が現在の松阪城です。
 この3城は、築城時からの天守閣は残っておらず、見るべきところは城郭の石垣です。
表紙は伊賀上野城の模擬天守閣です。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
  •  上野城跡石碑。

     上野城跡石碑。

  •  伊賀上野城石垣。高石垣(38m)として、大阪城の石垣と一二位を争っています。

     伊賀上野城石垣。高石垣(38m)として、大阪城の石垣と一二位を争っています。

  •  伊賀上野城模擬天守閣。天正13年(1585年)、伊賀の国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者の地位を確立するに及んで、慶長13年(1608年)、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り本丸を高石垣で囲み大拡張しました。しかし、竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612年)の9月2日の台風で倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止されました。

     伊賀上野城模擬天守閣。天正13年(1585年)、伊賀の国を領した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者の地位を確立するに及んで、慶長13年(1608年)、定次を失政を理由に改易、藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治城から移り本丸を高石垣で囲み大拡張しました。しかし、竣工直前の五層大天守は、慶長17年(1612年)の9月2日の台風で倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したので城普請は中止されました。

  •  伊賀上野城鯱。

     伊賀上野城鯱。

  •  伊賀上野城天守閣に設置されている藤堂高虎像。

     伊賀上野城天守閣に設置されている藤堂高虎像。

  •  天守閣に設置されている川崎克像。この現在の天守閣は昭和10年(1935年)地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建しました。<br /> 城跡は昭和42年(1967年)国史跡に、天守は昭和60年(1985年)に伊賀市の文化財に指定されています。

     天守閣に設置されている川崎克像。この現在の天守閣は昭和10年(1935年)地元の名士川崎克氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建しました。
     城跡は昭和42年(1967年)国史跡に、天守は昭和60年(1985年)に伊賀市の文化財に指定されています。

  •  伊賀上野城天守から見た伊賀市街です。

     伊賀上野城天守から見た伊賀市街です。

  •  石垣上からの水濠です。

     石垣上からの水濠です。

  •  筒井定次時代の石垣です。

     筒井定次時代の石垣です。

  •  俳聖殿(国重要文化財)。松尾芭蕉は伊賀の国出身で、伊賀上野城一帯は公園になっており、その一角に地元の名士川崎克氏により昭和17年9月2日、俳聖松尾芭蕉を顕彰する施設「俳聖殿」を私費で建築されています。

     俳聖殿(国重要文化財)。松尾芭蕉は伊賀の国出身で、伊賀上野城一帯は公園になっており、その一角に地元の名士川崎克氏により昭和17年9月2日、俳聖松尾芭蕉を顕彰する施設「俳聖殿」を私費で建築されています。

  •  亀山城趾石碑。天正18年(1590年)岡本宗憲が亀山古城の東に築城したのが現在の亀山城です。築城時には、本丸、二の丸、三の丸からなり天守もあげられていたとされる。この天守は寛永9年(1632年)に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が、伊勢亀山と間違えて天守を取り壊したとされるが事実関係は一切不明です。

     亀山城趾石碑。天正18年(1590年)岡本宗憲が亀山古城の東に築城したのが現在の亀山城です。築城時には、本丸、二の丸、三の丸からなり天守もあげられていたとされる。この天守は寛永9年(1632年)に丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴が、伊勢亀山と間違えて天守を取り壊したとされるが事実関係は一切不明です。

  •  伊勢亀山城多聞櫓。寛永13年(1636年)本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造されました。

     伊勢亀山城多聞櫓。寛永13年(1636年)本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造されました。

  •  伊勢亀山城多聞櫓。

     伊勢亀山城多聞櫓。

  •  伊勢亀山城多聞櫓内部。

     伊勢亀山城多聞櫓内部。

  •  伊勢亀山城多聞櫓壁構造模型。

     伊勢亀山城多聞櫓壁構造模型。

  •  松阪城跡石碑。天正12年(1584年)近江日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。天正16年(1588年)氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させました。

     松阪城跡石碑。天正12年(1584年)近江日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。天正16年(1588年)氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させました。

  •  城内の松阪城跡石碑。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3層5階の天守が構えられた。

     城内の松阪城跡石碑。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3層5階の天守が構えられた。

  •  松阪城石垣。

     松阪城石垣。

  •  松阪城石垣。

     松阪城石垣。

  •  松阪城本丸跡。

     松阪城本丸跡。

  •  松阪城天守閣跡。

     松阪城天守閣跡。

  •  城南側の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)。美しい槇垣と石畳みが残る。江戸末期に松阪城警護のために派遣された旧紀州藩士たちの組長屋。現在も子孫が維持管理し暮らしています。

     城南側の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)。美しい槇垣と石畳みが残る。江戸末期に松阪城警護のために派遣された旧紀州藩士たちの組長屋。現在も子孫が維持管理し暮らしています。

  •  御城番屋敷内部。

     御城番屋敷内部。

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