上海 旅行記(ブログ) 一覧に戻る

<br /><br />                <br />               儘の皮 老いらくの恋 旅晩夏<br /><br /><br /><br />   7月の終わり頃、蘇州の知人から、カナダに留学中の娘さんが、バイオ分野の研究で博士号を取得したとのメールをもらった。本人が帰国したら一族で盛大にお祝いはされるのであろうが、気の早い僕は、小学校低学年から知っている娘さんのことでもあるので、それを肴にと考え、とりあえず皆さんと前祝と暑気払いをいたしましょうという誘いのメールを出しておいた。その上で、前から関心のあった「杜月笙の、上海での日々を辿る旅」を、同時に辿る準備を始めていた。<br />   そして、盆明けのある日の朝、日本を発ち、上海から、バスで蘇州に向かい、平江路近くの常宿には、午後2時過ぎに到着した。「黄氏令嬢、博士号取得前祝」と「暑気払い」を兼ねたその日の夕食会は、【李公堤】にある【蘇州郎庭別苑】で開かれた。肝心の本人がいない前祝ではあるが、10人ほどの身近な親族が集まり、賑やかに本人との思い出に話が弾んだ。僕もこの娘さんが大学生時代に住んでいた、成都の女子寮を訪ねた時のことを話しながら、あの子も、いよいよ博士かと、次第に酔い痴れていった。<br />   翌朝、高速鉄道で上海に戻ったが、この日は朝からとても暑い日であり、お昼ごろには40度近くまで気温が上がっていた。結局、夕方までは、そのままホテルで寛ぐことにした。<br /><br />【杜月笙】は,1888年8月21日,陰暦の7月14日盂蘭盆で、中元節の名月の日に、江蘇省川沙庁高橋南杜家宅(現在の上海市浦東新区高橋鎮付近)で、生まれたので、【月生】と名付けられ、後に【月笙】と改名した。 杜月笙は、1920年代から40年ごろまで、上海の裏社会である青幇の実力者となり、表の社会では、上海の経済・政界まで影響を持つ男であった。国民党の蒋介石との関係は微妙ではあるが、最後まで、それなりの関係が続いていたようだ。<br />  杜月笙が青幇に入ったのは、【黄公館】と呼ばれていた同孚理に在った当時の実力者黄金栄の家を訪れた時である。当時黄金栄は、フランス租界地警察の刑事部長であったので、彼の夫人の桂生が、実質的な闇のボスであった。杜月笙はこの夫人に気に入られ、この社会での出世街道を登り詰めていくのである。桂生夫人の遠縁にあたる沈月英との結婚も、すべて夫人の肝煎りであり、結婚後も黄公館に住むことになった。<br />   絶頂期には、杜月笙は上海に二つの公館を持っていた。一つは,【東湖路】(当時は【杜美路】)にあった家であり、もう一つは、【寧海西路】(当時「ワグナー通り」)にあった家である。<br /><br />  夕方になり、僕は散歩がてら、まずは、徐匯区の【東湖路】と【新楽路】が交差する辺りにある嘗ての【杜月笙】の家であった【東湖賓館】に向かうことにした。<br />  この場所には、1921年に,ユダヤ人の貿易商が、フランス人の建築家に依頼して建てたのが最初で、現在では全部で6棟の洋館が残っている。その内の1号楼は、杜月笙ら3人が実質支配していた慈善事業と阿片の流通を握っていた【三〇公司】の社長であった配下の金廷〇が、航空彩票(宝くじ)の儲けから30余万ドルかけて建造し、それを杜月笙に献上したものであると言われている。<br />  杜月笙は、建物内部の構想を自ら提案している。建物は、東西でシンメトリーとなっており、東と西の両端は出窓のように、前に突き出た設計である。一階の客間は、テーブルを50卓並べることができる大宴会場であり、通常は客用として利用する。一階の東端には、居住用の部屋を造り、西端を、大食堂とする。二階は、第二夫人の居住区、三階中央部は、第一夫人の居住区で、西端の洋間は、第三夫人の、そして東端の洋間を、第四夫人の、各居住区とする。新しい公館の主楼は、装飾を雅な色調で統一し、家具類はすべて仏蘭西製家具で整え、食堂、客室、宴会場は、古典的な雅やかさを基調としている。また、外観のデザインは、中国の南方の裁判所風でもあり、いわゆる1925年様式のアールデコ調の特徴も見られる。<br />   実は、この家に引越しようとした時に、8・13事変(1937年8月13日,いわゆる第二次上海事変)が勃発したので、杜月笙の一家は、ここには、結局住むことはできなかった。後に、この建物を40万ドル(60万ドル程度との説もある)で、アメリカの新聞社に売却し、香港での晩年の生活費に当てていたようである。その後、このビルは、アメリカ領事館として利用されていたこともあるようだ。<br />  <br />   プラタナスの大木の並木道が続く、【東湖路】と【新楽路】には、既に夕方の慌しい雰囲気が漂っていた。嘗ては落ち着いた街並みの住宅地を形成していたのであろうが、今は、ホテルの敷地内から一歩外に出ると、車の流れも渋滞し、クラクションの音も騒がしい通りは、夕方の買い物客や通勤帰りの人々で溢れ、生活の匂いが強い、賑やかな街である。通りには鉄板焼屋や、寿司屋、バーなどの店も並んでおり、夜の準備の真最中であった。古い建物が多いが、その古い建物も、増築や、時には極めて奇妙は継ぎ足しの結果、異様な建物となり、雑居ビルとしての混在利用も進み、雑然とした些か騒々しいダウンタウンへと変貌しているようだ。<br /><br />   <br />   もう一つの杜月笙の公館は、嘗てのワグナー通りにあった。この家は、親分の【黄金栄】が、自身の女性問題の絡みから、ある軍閥に誘拐され、それを助け出した杜月笙に、無償で譲ったと言われている。<br />   東隣には、仲間の【張嘯林】の家があり、表通りからは、二つの家は連棟式の石庫門の家となっていた。奥行きの深い敷地には、二棟の建物が建っており、前の建物は、二階建ての石庫門住宅であり、その二階には、第一夫人沈月英が、杜月笙もわが子のように可愛がった養子の林宝と住んでいた。背後の建物は、洋館であり、一階に事務所、客間、大食堂があり、二階には、第二夫人陳幗英、三階には第三夫人孫佩豪が住んでいた。<br />  その後、杜月笙が、名士への仲間入りとなるに連れ、人の出入りが激しくなり、その家を大規模に改造している。玄関の両わきには、「友天下士、読古人書」(天下の士を友とし、古人の書を読む)と一対の聯を掛け、読書人の心がけを目標としていたようである。前の石庫門住宅は、一階をぶち抜き、広いホールとし、一般の客間兼用とした。背後の洋館の一階西側の部屋は、前に秘書室を配し、その奥は骨董品で飾つけた客間とし、東側の部屋は、特別な客の接待を兼ねた密談のための部屋に改装している。<br />   この家の前には、いつも武装警官が5,6人が警備しており、平日には500人の食客が食事をするという噂もあったようだ。<br />   そこに、ある日、清朝の皇族で、日本人川島浪速の養子となった男装の麗人、川島芳子が訪ねている。この時彼女は恐らく、背後の洋館の東側の部屋に通されたに違いない。彼女が杜月笙に会いに来たのは、彼が支配している職業テロ団の便衣隊が、当時、日本人狩りをしていたが、それに対抗して日本軍が便衣隊狩りをし、無辜の中国人までも殺戮していた。それを止めさせようとしての来訪であった。翌日からの虹口での便衣隊の日本人狩りは影をひそめたそうだ。こうした陳情への対応は、表稼業では勿論であるが、裏稼業でも大きな仕事であったのであろう。<br />   1937年8月13日(第二次上海事変勃発)、日本海軍陸戦隊は上海に上陸し、市街戦となり、間もなく国民党軍は逃走し、上海は日本軍に占拠された。杜月笙は、蒋介石の指示により、レジスタンス活動のための「蘇浙皖行動委員会」を設立したが、蒋介石軍はあっけなく上海を放棄した。上海は陥落し、租界地は陸の孤島となった。その頃、この家に、満州事変の首謀者であった土肥原少将等が訪れ、杜月笙に日華協力の意向を打診している。当然に,彼らも、背後の洋館の東側の部屋、特別な客の接待兼密談用の部屋に通されたのであろう。その時、杜月笙は「何分重大なことなので考えさせて欲しい」と、曖昧な返事をしている。<br />   日本軍のその後の圧力から逃れるように、この年の11月26日深夜、このワグナー通りの家を出て、フランス租界の波止場から、香港に脱出している。<br />   杜月笙の夫人は、第三夫人までは蘇州人であり、第四夫人姚玉蘭は北京人であった。第四夫人を娶ろうとした時には、第二、第三夫人がともに反対したが、第二夫人陳幗英は、その後、密かに第四夫人を娶ることに賛成した。そして、杜月笙が、第四夫人の姚玉蘭と当時辣斐坊(現在の復興中路)の貸家で結婚したのを知った第三夫人孫佩豪は、二人の子供を連れ、アメリカに行ってしまい、解放後になって上海に戻ってきた。<br />  1937年に、香港へ脱出した時は、当時最愛の第四夫人が、子供たちと租界地に残っていたので、八方手を尽くし、香港に呼び寄せている。<br /><br />   次の日、僕はホテルから歩いて、嘗てのワグナー通り、後の【寧海西路】182号にあった杜月笙の家を探しに出かけた。【ダスカ】(大世界)がある【延安路】と【西蔵南路】の交差点から西方の、延安高速道路と金陵中路に挟まれた一帯は、最近公園に順次に整備されており、大きな樹木に囲まれ、都心の緑陰となっている。一番手前の公園には【音楽庁】があり、その前を通り、延安高速道路に沿って更に西に向い、【普安路】を渡った先は、新しく整備された【延中広場公園】になっていた。僕は、この辺りから地図と、実際の道路の配置を突き合わせながら、現在位置を確認し、さらに公園内を西に向かって歩いていると、公園南側に沿って通っている【金陵中路】とTの字で交差する【嵩山路】の看板を見つけた。公園内のその付近には、大きな池があり、古い地図と突き合わせると、どうやらその池の辺りに、旧杜月笙の家があったのではと、僕は推測しながら、周辺の写真を撮った。<br /><br />             しばらくは 卒塔婆小町の 擬宝珠かな<br /><br />   実は今回の旅で、今も【笙館】と呼ばれている杜月笙が住んでいた建物があることを聞き着つけていた。そこで僕は、この後、その【笙館】を探しながら歩くことにした。【嵩山路】を南に向かい、【淮海中路】を横断して、更に南に向かうと、【新天地】に出てきた。【新天地】が整備されて間もない頃、この地に来たことを思い出しながら、この街をゆっくりと横切り、今度は西に向かって歩いて行った。南北高速道路が走る【重慶南路】を渡ると、【復興公園】の前に出てきた。【復興路】を更に西に向い、【思南路】との交差を、南に曲がると直ぐに【周公館】があった。【思南路】は、高級幹部の宿舎があるのだろうか、静かな落ち着きのある高級住宅街であり、歩いていると、新しい感覚のレストランや、斬新な雰囲気の店舗などを見つける事が出来、異邦人の旅人には些か入りにくい雰囲気ではあるが、とても興味の湧く街でもある。その先の【建国路】を西に曲がり、更に【瑞金二路】を北に上がって行く。そして最初のTの字の交差点を、西に入れば、出版関係の事務所などが並ぶ【紹興路】となる。そこをしばらく歩いて行くと、左手先のビルに、【笙館】と書いた小さな袖看板を見つけた。そのビルのレトロ調の楼門の上には、【老洋房】の文字が大きく書かれ、その下には【花園飯店】と小さく書かれていた。なんと【老洋房】の前には、孫文の革命のパトロンであった梅屋庄吉の銅像が、最近建てられた【紹興公園】があるではないか。<br />  【老洋房花園レストラン】は、嘗ては杜月笙の第四夫人姚玉蘭の屋敷であった。石灰(イシバイ)色の石で組み立てられた楼門をくぐり、その先左手にある、石で組み、積み上げられた塀に沿って中に入っていった。その石積みの塀の上からは人工の滝が流れ,その塀の下に造られた水槽には、紅く、まぶしく輝く金魚が、群れて泳ぎ廻っている。庭園には、真っ白な花が庭園灯に絡むように咲いており、このような庭木や、設備の配置やその飾り付けが、むしろこじんまりと纏まった邸宅の雰囲気を見せている。<br />  レストラン内部に入ると、ゆったりとした佇まいであり、長い大きな窓には、白いカーテンが床まで下がっており、それを白い柱に巻き付かせたりして、極めて重厚で古典的な雰囲気を漂わせている。部屋の内部には、ペチカがあり、レコードプレヤーなども置かれ、一目見れば、まさに嘗ての良き時代の上海の風格そのものである。この店では、ペチカの傍らの席が最も人気があるようだが、そこは三方が壁に囲まれており、まるで独立した小さな世界となっているからのようだ。<br />   この店の料理は濃厚な油に、生醤油を巧みに使う上海伝統の本場の味の料理である。もっとも得意なものは、魚の燻製料理と、極上の牛肉料理である。客が声を掛けると、この店の給仕達は、キビキビとした態度で、言葉使いも丁寧でハキハキと応対し、まさに何かを期待させる雰囲気でもある。ここは嘗ては杜月笙の公館であり、彼が最も愛した第四夫人の邸宅であった日々を改めて想像しながら、僕は食事を楽しんでいた。<br /><br />   僕はその日、いつも上海に着くと、都心まで乗る地下鉄2号線で、浦東国際空港駅の4つ手前の駅である【川沙】駅で下りた。上海の都心から3,40分のところではあるが、駅前は随分と泥臭い雰囲気である。客待ちのタクシー運転手の中から、地元に最も精通する人を探すため、真昼の品定めをしていたのだが、向うから声を掛けてきた中年の素朴な雰囲気の運転手の車を選ぶことにした。地元生まれの地元育ちという運転手は自信満々、僕もこれで今日の目的は達成かと、安堵したのだが。<br />   まずは、生まれ故郷の【川沙庁高橋南杜家宅】(現在の上海市浦東新区高橋鎮)に向かってもらう。雑然と建ち並ぶ街並みから、次第に集落っぽい雰囲気の町へと入っていく。運転手は迷うことなく、集落内の小奇麗な建物の前に止まる。そこには【川沙新鎮 高橋村民委員会】と書いてある。だが門は閉まっていた。運転手は近所の家に当たってくれて、老人がいるという家に向かった。古い家の薄暗い中で、老婆が一人座っていたが、話がうまく通じない。そこに息子だという男が戻って来たので、改めて聞くと、どうやらここは隣町のようであった。道順をしっかりと聞いた運転手は、今来た道を戻ってるようにも思えたが、今や彼に任せるより仕方なしと、開き直おりの気分であった。今度は水路が走る細い道を抜けると、その先もやはり狭い道ではあるが、両側に並木のある農道となり、集落に入っていった。どうやら杜月笙が5歳で両親と死に別れ、13歳で十六舗の果物屋に奉公に出るまで住んでいた、母方の祖母の家があった高橋村のようである。地方から都会へ出稼ぎに来ている人たちが多く住みついてるようで、都会化の波に無秩序に襲われ、農村としては荒廃しつつある集落である。その状況を写真に撮った。しかし、これ以上は期待出来ないと思い、次に【杜家祠堂】に向かうことにした。     <br />   杜月笙と言えば、その絶頂期の1931年に行われた【杜家祠堂】の落成式を忘れることは出来ないであろう。生まれ故郷の上海の浦東の高橋鎮の河畔に小さな祠を探し、先祖代々の祠堂だということにして、千坪ほどの敷地に前殿、中殿、奥殿の三つからなる家廟を建立した。その年の6月10日、盛大な開堂式が行われた。参列者は1万人を上回り、式典は三日三晩に渡って行われたと言う。<br />   中国のインターネットで【杜家祠堂】を探していたら、写真入りの【杜家祠堂】を見つけたが、軍の関係施設の中にあり、一般の人は見ることは出来ないと書いてあった。同時に、その位置を大雑把に載せた地図も見つけ、コピーしておいた。運転手はこの地図を見て、今度は方向を変えるや、やがて高速道路を北上したかと思うと、間もなく高速から下り、更に北西に向かった。<br />  【外高橋保税区】内に入るも、いまだ目的地が定まらず、タクシー会社の無線局に、【富特中路】を聞きながら、同じ道を行ったり来たりしたのだ。やっとのことで、【富特中路】の道路標識を見つけ、その方向に走り出した。僕は半ば諦めながら、何気なく外を眺めていたら、右手に、豪華な廟のような建物を見つけた。インターネットで見た写真と、良く似た風景のようにも思えたので、直ぐに車をそちらに向けてもらい、下りて確認した。建物の正面に、【○徳会所】(○は偏は言、旁は昌)と言う扁額が掛かっていた。結果は、予想通り、【杜家祠堂】を見つけることは出来なかった。【富特中路】沿いに立ち、工場などの立ち並ぶ風景を写真に収め、ここで【杜家祠堂】探しを断念した。<br /><br />  <br />   実は、杜月笙には、もう一人夫人(第五夫人)がいた。1945年、日本軍が敗戦により引き上げてから、杜月笙は再び上海に戻り、実力者として再び活動を始めている。1947年、杜月笙の還暦パーテイが盛大に上海で行われた。その時、彼の発案で、難民救済のため、京劇の名優梅蘭芳主演のチャリテイ公演が【中国大戯院】で行われた。10余年以上も上海の舞台を踏むことのなかった、京劇の女優として有名であった孟小冬の出演が、やはり大きな話題となった。孟小冬は、杜月笙の第四夫人姚玉蘭が、京劇女優時代の師匠格であったことから、京劇ファンの杜月笙が、孟小冬の出演のために、第四夫人姚玉蘭に、手紙を書かせ、北京から呼び寄せたとのことである。<br />  その後、共産党軍に攻められ、上海が陥落寸前の、香港への脱出には、杜月笙は、第四夫人と、孟小冬を連れて、上海から逃れている。そして、孟小冬は、香港で杜月笙と結婚しているが、最後まで杜月笙を見ていたのが、第五夫人となった孟小冬であったようだ。<br /><br />  翌日は、表向きは慈善事業の会社であるが、裏では上海での阿片の流通を握っていたと言われていた黄金栄、杜月笙、張嘯林の三人が実質経営をしていた、【三〇公司】があった、嘗ての【共同租界】と【仏租界】の境界付近の仏租界側を東西に走る【寧海東路】付近を、歩きながら、写真を撮り、お昼近くに【豫園】に向かった。長い間改装工事をしていた【上海老飯店】で昼食を食べながら、この旅の面白さを一人反芻していた。(完)<br /><br /><br />* Coodinator:  H.Gu                             <br /><br />                                   <br />            <br />                <br /><br /><br /><br /><br />

【上海市】 * 上海のドン・杜月笙の日々を 旅する

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2012/08/17 - 2012/08/20

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                   儘の皮 老いらくの恋 旅晩夏



       7月の終わり頃、蘇州の知人から、カナダに留学中の娘さんが、バイオ分野の研究で博士号を取得したとのメールをもらった。本人が帰国したら一族で盛大にお祝いはされるのであろうが、気の早い僕は、小学校低学年から知っている娘さんのことでもあるので、それを肴にと考え、とりあえず皆さんと前祝と暑気払いをいたしましょうという誘いのメールを出しておいた。その上で、前から関心のあった「杜月笙の、上海での日々を辿る旅」を、同時に辿る準備を始めていた。
       そして、盆明けのある日の朝、日本を発ち、上海から、バスで蘇州に向かい、平江路近くの常宿には、午後2時過ぎに到着した。「黄氏令嬢、博士号取得前祝」と「暑気払い」を兼ねたその日の夕食会は、【李公堤】にある【蘇州郎庭別苑】で開かれた。肝心の本人がいない前祝ではあるが、10人ほどの身近な親族が集まり、賑やかに本人との思い出に話が弾んだ。僕もこの娘さんが大学生時代に住んでいた、成都の女子寮を訪ねた時のことを話しながら、あの子も、いよいよ博士かと、次第に酔い痴れていった。
       翌朝、高速鉄道で上海に戻ったが、この日は朝からとても暑い日であり、お昼ごろには40度近くまで気温が上がっていた。結局、夕方までは、そのままホテルで寛ぐことにした。

    【杜月笙】は,1888年8月21日,陰暦の7月14日盂蘭盆で、中元節の名月の日に、江蘇省川沙庁高橋南杜家宅(現在の上海市浦東新区高橋鎮付近)で、生まれたので、【月生】と名付けられ、後に【月笙】と改名した。 杜月笙は、1920年代から40年ごろまで、上海の裏社会である青幇の実力者となり、表の社会では、上海の経済・政界まで影響を持つ男であった。国民党の蒋介石との関係は微妙ではあるが、最後まで、それなりの関係が続いていたようだ。
      杜月笙が青幇に入ったのは、【黄公館】と呼ばれていた同孚理に在った当時の実力者黄金栄の家を訪れた時である。当時黄金栄は、フランス租界地警察の刑事部長であったので、彼の夫人の桂生が、実質的な闇のボスであった。杜月笙はこの夫人に気に入られ、この社会での出世街道を登り詰めていくのである。桂生夫人の遠縁にあたる沈月英との結婚も、すべて夫人の肝煎りであり、結婚後も黄公館に住むことになった。
       絶頂期には、杜月笙は上海に二つの公館を持っていた。一つは,【東湖路】(当時は【杜美路】)にあった家であり、もう一つは、【寧海西路】(当時「ワグナー通り」)にあった家である。

      夕方になり、僕は散歩がてら、まずは、徐匯区の【東湖路】と【新楽路】が交差する辺りにある嘗ての【杜月笙】の家であった【東湖賓館】に向かうことにした。
      この場所には、1921年に,ユダヤ人の貿易商が、フランス人の建築家に依頼して建てたのが最初で、現在では全部で6棟の洋館が残っている。その内の1号楼は、杜月笙ら3人が実質支配していた慈善事業と阿片の流通を握っていた【三〇公司】の社長であった配下の金廷〇が、航空彩票(宝くじ)の儲けから30余万ドルかけて建造し、それを杜月笙に献上したものであると言われている。
      杜月笙は、建物内部の構想を自ら提案している。建物は、東西でシンメトリーとなっており、東と西の両端は出窓のように、前に突き出た設計である。一階の客間は、テーブルを50卓並べることができる大宴会場であり、通常は客用として利用する。一階の東端には、居住用の部屋を造り、西端を、大食堂とする。二階は、第二夫人の居住区、三階中央部は、第一夫人の居住区で、西端の洋間は、第三夫人の、そして東端の洋間を、第四夫人の、各居住区とする。新しい公館の主楼は、装飾を雅な色調で統一し、家具類はすべて仏蘭西製家具で整え、食堂、客室、宴会場は、古典的な雅やかさを基調としている。また、外観のデザインは、中国の南方の裁判所風でもあり、いわゆる1925年様式のアールデコ調の特徴も見られる。
       実は、この家に引越しようとした時に、8・13事変(1937年8月13日,いわゆる第二次上海事変)が勃発したので、杜月笙の一家は、ここには、結局住むことはできなかった。後に、この建物を40万ドル(60万ドル程度との説もある)で、アメリカの新聞社に売却し、香港での晩年の生活費に当てていたようである。その後、このビルは、アメリカ領事館として利用されていたこともあるようだ。
      
       プラタナスの大木の並木道が続く、【東湖路】と【新楽路】には、既に夕方の慌しい雰囲気が漂っていた。嘗ては落ち着いた街並みの住宅地を形成していたのであろうが、今は、ホテルの敷地内から一歩外に出ると、車の流れも渋滞し、クラクションの音も騒がしい通りは、夕方の買い物客や通勤帰りの人々で溢れ、生活の匂いが強い、賑やかな街である。通りには鉄板焼屋や、寿司屋、バーなどの店も並んでおり、夜の準備の真最中であった。古い建物が多いが、その古い建物も、増築や、時には極めて奇妙は継ぎ足しの結果、異様な建物となり、雑居ビルとしての混在利用も進み、雑然とした些か騒々しいダウンタウンへと変貌しているようだ。

       
       もう一つの杜月笙の公館は、嘗てのワグナー通りにあった。この家は、親分の【黄金栄】が、自身の女性問題の絡みから、ある軍閥に誘拐され、それを助け出した杜月笙に、無償で譲ったと言われている。
       東隣には、仲間の【張嘯林】の家があり、表通りからは、二つの家は連棟式の石庫門の家となっていた。奥行きの深い敷地には、二棟の建物が建っており、前の建物は、二階建ての石庫門住宅であり、その二階には、第一夫人沈月英が、杜月笙もわが子のように可愛がった養子の林宝と住んでいた。背後の建物は、洋館であり、一階に事務所、客間、大食堂があり、二階には、第二夫人陳幗英、三階には第三夫人孫佩豪が住んでいた。
      その後、杜月笙が、名士への仲間入りとなるに連れ、人の出入りが激しくなり、その家を大規模に改造している。玄関の両わきには、「友天下士、読古人書」(天下の士を友とし、古人の書を読む)と一対の聯を掛け、読書人の心がけを目標としていたようである。前の石庫門住宅は、一階をぶち抜き、広いホールとし、一般の客間兼用とした。背後の洋館の一階西側の部屋は、前に秘書室を配し、その奥は骨董品で飾つけた客間とし、東側の部屋は、特別な客の接待を兼ねた密談のための部屋に改装している。
       この家の前には、いつも武装警官が5,6人が警備しており、平日には500人の食客が食事をするという噂もあったようだ。
       そこに、ある日、清朝の皇族で、日本人川島浪速の養子となった男装の麗人、川島芳子が訪ねている。この時彼女は恐らく、背後の洋館の東側の部屋に通されたに違いない。彼女が杜月笙に会いに来たのは、彼が支配している職業テロ団の便衣隊が、当時、日本人狩りをしていたが、それに対抗して日本軍が便衣隊狩りをし、無辜の中国人までも殺戮していた。それを止めさせようとしての来訪であった。翌日からの虹口での便衣隊の日本人狩りは影をひそめたそうだ。こうした陳情への対応は、表稼業では勿論であるが、裏稼業でも大きな仕事であったのであろう。
       1937年8月13日(第二次上海事変勃発)、日本海軍陸戦隊は上海に上陸し、市街戦となり、間もなく国民党軍は逃走し、上海は日本軍に占拠された。杜月笙は、蒋介石の指示により、レジスタンス活動のための「蘇浙皖行動委員会」を設立したが、蒋介石軍はあっけなく上海を放棄した。上海は陥落し、租界地は陸の孤島となった。その頃、この家に、満州事変の首謀者であった土肥原少将等が訪れ、杜月笙に日華協力の意向を打診している。当然に,彼らも、背後の洋館の東側の部屋、特別な客の接待兼密談用の部屋に通されたのであろう。その時、杜月笙は「何分重大なことなので考えさせて欲しい」と、曖昧な返事をしている。
       日本軍のその後の圧力から逃れるように、この年の11月26日深夜、このワグナー通りの家を出て、フランス租界の波止場から、香港に脱出している。
       杜月笙の夫人は、第三夫人までは蘇州人であり、第四夫人姚玉蘭は北京人であった。第四夫人を娶ろうとした時には、第二、第三夫人がともに反対したが、第二夫人陳幗英は、その後、密かに第四夫人を娶ることに賛成した。そして、杜月笙が、第四夫人の姚玉蘭と当時辣斐坊(現在の復興中路)の貸家で結婚したのを知った第三夫人孫佩豪は、二人の子供を連れ、アメリカに行ってしまい、解放後になって上海に戻ってきた。
      1937年に、香港へ脱出した時は、当時最愛の第四夫人が、子供たちと租界地に残っていたので、八方手を尽くし、香港に呼び寄せている。

       次の日、僕はホテルから歩いて、嘗てのワグナー通り、後の【寧海西路】182号にあった杜月笙の家を探しに出かけた。【ダスカ】(大世界)がある【延安路】と【西蔵南路】の交差点から西方の、延安高速道路と金陵中路に挟まれた一帯は、最近公園に順次に整備されており、大きな樹木に囲まれ、都心の緑陰となっている。一番手前の公園には【音楽庁】があり、その前を通り、延安高速道路に沿って更に西に向い、【普安路】を渡った先は、新しく整備された【延中広場公園】になっていた。僕は、この辺りから地図と、実際の道路の配置を突き合わせながら、現在位置を確認し、さらに公園内を西に向かって歩いていると、公園南側に沿って通っている【金陵中路】とTの字で交差する【嵩山路】の看板を見つけた。公園内のその付近には、大きな池があり、古い地図と突き合わせると、どうやらその池の辺りに、旧杜月笙の家があったのではと、僕は推測しながら、周辺の写真を撮った。

                 しばらくは 卒塔婆小町の 擬宝珠かな

       実は今回の旅で、今も【笙館】と呼ばれている杜月笙が住んでいた建物があることを聞き着つけていた。そこで僕は、この後、その【笙館】を探しながら歩くことにした。【嵩山路】を南に向かい、【淮海中路】を横断して、更に南に向かうと、【新天地】に出てきた。【新天地】が整備されて間もない頃、この地に来たことを思い出しながら、この街をゆっくりと横切り、今度は西に向かって歩いて行った。南北高速道路が走る【重慶南路】を渡ると、【復興公園】の前に出てきた。【復興路】を更に西に向い、【思南路】との交差を、南に曲がると直ぐに【周公館】があった。【思南路】は、高級幹部の宿舎があるのだろうか、静かな落ち着きのある高級住宅街であり、歩いていると、新しい感覚のレストランや、斬新な雰囲気の店舗などを見つける事が出来、異邦人の旅人には些か入りにくい雰囲気ではあるが、とても興味の湧く街でもある。その先の【建国路】を西に曲がり、更に【瑞金二路】を北に上がって行く。そして最初のTの字の交差点を、西に入れば、出版関係の事務所などが並ぶ【紹興路】となる。そこをしばらく歩いて行くと、左手先のビルに、【笙館】と書いた小さな袖看板を見つけた。そのビルのレトロ調の楼門の上には、【老洋房】の文字が大きく書かれ、その下には【花園飯店】と小さく書かれていた。なんと【老洋房】の前には、孫文の革命のパトロンであった梅屋庄吉の銅像が、最近建てられた【紹興公園】があるではないか。
      【老洋房花園レストラン】は、嘗ては杜月笙の第四夫人姚玉蘭の屋敷であった。石灰(イシバイ)色の石で組み立てられた楼門をくぐり、その先左手にある、石で組み、積み上げられた塀に沿って中に入っていった。その石積みの塀の上からは人工の滝が流れ,その塀の下に造られた水槽には、紅く、まぶしく輝く金魚が、群れて泳ぎ廻っている。庭園には、真っ白な花が庭園灯に絡むように咲いており、このような庭木や、設備の配置やその飾り付けが、むしろこじんまりと纏まった邸宅の雰囲気を見せている。
      レストラン内部に入ると、ゆったりとした佇まいであり、長い大きな窓には、白いカーテンが床まで下がっており、それを白い柱に巻き付かせたりして、極めて重厚で古典的な雰囲気を漂わせている。部屋の内部には、ペチカがあり、レコードプレヤーなども置かれ、一目見れば、まさに嘗ての良き時代の上海の風格そのものである。この店では、ペチカの傍らの席が最も人気があるようだが、そこは三方が壁に囲まれており、まるで独立した小さな世界となっているからのようだ。
       この店の料理は濃厚な油に、生醤油を巧みに使う上海伝統の本場の味の料理である。もっとも得意なものは、魚の燻製料理と、極上の牛肉料理である。客が声を掛けると、この店の給仕達は、キビキビとした態度で、言葉使いも丁寧でハキハキと応対し、まさに何かを期待させる雰囲気でもある。ここは嘗ては杜月笙の公館であり、彼が最も愛した第四夫人の邸宅であった日々を改めて想像しながら、僕は食事を楽しんでいた。

       僕はその日、いつも上海に着くと、都心まで乗る地下鉄2号線で、浦東国際空港駅の4つ手前の駅である【川沙】駅で下りた。上海の都心から3,40分のところではあるが、駅前は随分と泥臭い雰囲気である。客待ちのタクシー運転手の中から、地元に最も精通する人を探すため、真昼の品定めをしていたのだが、向うから声を掛けてきた中年の素朴な雰囲気の運転手の車を選ぶことにした。地元生まれの地元育ちという運転手は自信満々、僕もこれで今日の目的は達成かと、安堵したのだが。
       まずは、生まれ故郷の【川沙庁高橋南杜家宅】(現在の上海市浦東新区高橋鎮)に向かってもらう。雑然と建ち並ぶ街並みから、次第に集落っぽい雰囲気の町へと入っていく。運転手は迷うことなく、集落内の小奇麗な建物の前に止まる。そこには【川沙新鎮 高橋村民委員会】と書いてある。だが門は閉まっていた。運転手は近所の家に当たってくれて、老人がいるという家に向かった。古い家の薄暗い中で、老婆が一人座っていたが、話がうまく通じない。そこに息子だという男が戻って来たので、改めて聞くと、どうやらここは隣町のようであった。道順をしっかりと聞いた運転手は、今来た道を戻ってるようにも思えたが、今や彼に任せるより仕方なしと、開き直おりの気分であった。今度は水路が走る細い道を抜けると、その先もやはり狭い道ではあるが、両側に並木のある農道となり、集落に入っていった。どうやら杜月笙が5歳で両親と死に別れ、13歳で十六舗の果物屋に奉公に出るまで住んでいた、母方の祖母の家があった高橋村のようである。地方から都会へ出稼ぎに来ている人たちが多く住みついてるようで、都会化の波に無秩序に襲われ、農村としては荒廃しつつある集落である。その状況を写真に撮った。しかし、これ以上は期待出来ないと思い、次に【杜家祠堂】に向かうことにした。     
       杜月笙と言えば、その絶頂期の1931年に行われた【杜家祠堂】の落成式を忘れることは出来ないであろう。生まれ故郷の上海の浦東の高橋鎮の河畔に小さな祠を探し、先祖代々の祠堂だということにして、千坪ほどの敷地に前殿、中殿、奥殿の三つからなる家廟を建立した。その年の6月10日、盛大な開堂式が行われた。参列者は1万人を上回り、式典は三日三晩に渡って行われたと言う。
       中国のインターネットで【杜家祠堂】を探していたら、写真入りの【杜家祠堂】を見つけたが、軍の関係施設の中にあり、一般の人は見ることは出来ないと書いてあった。同時に、その位置を大雑把に載せた地図も見つけ、コピーしておいた。運転手はこの地図を見て、今度は方向を変えるや、やがて高速道路を北上したかと思うと、間もなく高速から下り、更に北西に向かった。
      【外高橋保税区】内に入るも、いまだ目的地が定まらず、タクシー会社の無線局に、【富特中路】を聞きながら、同じ道を行ったり来たりしたのだ。やっとのことで、【富特中路】の道路標識を見つけ、その方向に走り出した。僕は半ば諦めながら、何気なく外を眺めていたら、右手に、豪華な廟のような建物を見つけた。インターネットで見た写真と、良く似た風景のようにも思えたので、直ぐに車をそちらに向けてもらい、下りて確認した。建物の正面に、【○徳会所】(○は偏は言、旁は昌)と言う扁額が掛かっていた。結果は、予想通り、【杜家祠堂】を見つけることは出来なかった。【富特中路】沿いに立ち、工場などの立ち並ぶ風景を写真に収め、ここで【杜家祠堂】探しを断念した。

      
       実は、杜月笙には、もう一人夫人(第五夫人)がいた。1945年、日本軍が敗戦により引き上げてから、杜月笙は再び上海に戻り、実力者として再び活動を始めている。1947年、杜月笙の還暦パーテイが盛大に上海で行われた。その時、彼の発案で、難民救済のため、京劇の名優梅蘭芳主演のチャリテイ公演が【中国大戯院】で行われた。10余年以上も上海の舞台を踏むことのなかった、京劇の女優として有名であった孟小冬の出演が、やはり大きな話題となった。孟小冬は、杜月笙の第四夫人姚玉蘭が、京劇女優時代の師匠格であったことから、京劇ファンの杜月笙が、孟小冬の出演のために、第四夫人姚玉蘭に、手紙を書かせ、北京から呼び寄せたとのことである。
      その後、共産党軍に攻められ、上海が陥落寸前の、香港への脱出には、杜月笙は、第四夫人と、孟小冬を連れて、上海から逃れている。そして、孟小冬は、香港で杜月笙と結婚しているが、最後まで杜月笙を見ていたのが、第五夫人となった孟小冬であったようだ。

      翌日は、表向きは慈善事業の会社であるが、裏では上海での阿片の流通を握っていたと言われていた黄金栄、杜月笙、張嘯林の三人が実質経営をしていた、【三〇公司】があった、嘗ての【共同租界】と【仏租界】の境界付近の仏租界側を東西に走る【寧海東路】付近を、歩きながら、写真を撮り、お昼近くに【豫園】に向かった。長い間改装工事をしていた【上海老飯店】で昼食を食べながら、この旅の面白さを一人反芻していた。(完)


    * Coodinator: H.Gu


                
                    




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