2012/01/04 - 2012/01/08
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tomozow40さん
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1988年、初めて中国を訪れ、鄭州の街でさまざまな経験をした時、「またいつかこの街を訪れることができたらいいなぁ」と思った。
期せずして、2012年にこのチャンスが訪れた。
ANAのマイルが貯まり、これを利用してどこかに行こうと思ったのだ。初めは寒い季節の骨休めに、温かい台湾に行きたいと思ったのだが、航空券に空きがなく、寒い時期にさらに寒い北京行きぐらいしか予約が取れなかった。それもそのはず、出発希望日は年明けの1/4だったのだから。
正直、北京に触手は動かなかったが、もう一度鄭州には行ってみたかった。そして24年前に果たせなかった洛陽へ−−。
こうして北京、鄭州、そして北京という4泊5日の旅が実現した。
画像は龍門石窟を背に、夫と娘。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- JAL 中国東方航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
24年振りに鄭州に第一歩を標したとき、「この街は変わった」と思った。
当時、旅人でごった返し、袋小路と言われた鄭州駅は、近代的でシステマチックな利用しやすい駅と変貌を遂げていた。電車出発の10分前ギリギリに駅に着いても、電光掲示板の標識通りに歩けば、たやすく目的の電車に乗ることができる。当たり前と思われるかもしれないが、こんな当たり前のことさえ、当時の鄭州ではかなわなかった。
道路のすべては舗装され、クルマが行き交う。というか、クルマが多すぎて慢性的な渋滞に陥っているのが今の鄭州の実情だ。立体交差点も作られ、そこも常に渋滞。だから鄭州でタクシーを拾うのは至難の業。この町では、時間には余裕を持って行動しないと結構痛い目に遭うので気をつけたい。
昔々鄭州の街では、駅から少し離れると道路をのんびりと歩む牛車を見かけることがあった。あの牧歌的な風景は、今でも瞳に焼き付いている。
もちろん今ではそんな風景を見かけることはできない。砂埃を巻き上げながらめまぐるしいほどの自動車が街中を満たしているのみだ。今や、鄭州は名実ともに江南省の省都で、それに相応しくまさに大都会なのであった。 -
これが現在の河南中州快捷仮日酒店。昔々私たちが宿泊した国際飯店は、私の記憶が正しければこの場所にあったハズなのだ(地図で何度も確認してみた)。建物そのものを建て替えたのかもしれないが、当時、国際飯店も同じような感じで建っていた。
国際飯店は、鄭州では数少ない外国人御用達のホテルであった。駅前に集まる便利な旅舎に、外国人が泊ることは難しかった時代である。
私は24年前、国際飯店に1週間ほど逗留し、インフルエンザにかかり高熱にうなされた(笑)。日本人に対してストレートな差別、嫌がらせ、あるいは一流ホテルでは慇懃無礼な態度が横行していた中国にあって、取り立てて愛想がよいわけではないけれど、いじわるも無礼な態度もなく、普通に対応してくれる数少ないホテルだったのだ。私の下手クソな英語も、眉ひとつ顰めることもなく淡々と聞き取ってくれたホテルマンには、感謝している。
どうしてもその国際飯店にもう一度泊りたくて、不便とは分かっていたけれど、同じ場所に建っているというだけで、この河南中州快捷仮日酒店を予約した。決して宿泊費は安くなかったし、トリプルと指定して予約したにもかかわらず、3台目のペットが用意されていなかったりと、多少問題はあった(笑)。しかし文句を言われても眉をひそめることもなく、淡々と3台目のエキストラベッドを用意してくれたあたりはさすがである。
マニュアル通りの応対には慇懃に応える中国人だが、一度予定調和を崩すと、突然本音炸裂…ということが多い。しかし、この国際飯店は今も昔も変わらず、本質的な「おもてなしの心」を理解しているように思う。異国で困っている人に対して、スタッフひとりひとりができる限りの手を差し伸べてくれる、そんな精神が引き継がれているようにだ。バスタブがなくても、エキストラベッドが用意されておらず、その後急きょセッティングしたペットがその場でいきなり大破したとしても(笑)、駅から離れていたとしても河南中州快捷仮日酒店は良いホテルである。 -
黙々とエキストラベッドをセッティングするルームスタッフのおばさん。
実はこの前段階で、ノースモーキングルームからスモーキングルームへのチェンジも行ってもらっていた(笑) モンスターゲストと化した我々に対しても、眉ひとつ動かさずいそいそと仕事に勤しむ中国人らしからぬ(?)そのサービス精神には驚かされた。中国も確実に変化しているのだ。
余談だが、このオレンジのユニフォームは、フロントからレストラン、ルームスタッフすべてが着用していて、結構好印象であった。 -
24年前の旅行でぜひ行きたかった古都・洛陽。結局行きつくことができなかった街。あれほど遠いと思った場所なのに、今では鄭州から新幹線で1時間弱もあれば、洛陽観光の目玉・龍門石窟のすぐ近くに新しく作られた新幹線の洛陽竜門駅に行くことかできる。
洛陽竜門駅までの新幹線の切符は、日本で大枚をはたいて予約済みであった。
ところが、朝になると夫がなかなか起きない。引きずるようにして身支度をさせてホテルを出たのは、新幹線出発の1時間前だった。さらに、朝の渋滞でタクシーはおろかホテル前に駅に向かうバスもこない有様。せっかくの新幹線チケットが無駄になるのか…と絶望しかけたとき、運がいいことに目の前でタクシーから客が降りた! そのタクシーに乗り込んで、一路鄭州駅へ。
昔々、鄭州駅で目的の列車を探せなかったという痛い思い出があったので、一人タクシーの中で悶々としていた私だったが、ほどなく駅に到着して駅構内に駆け込んでみると、目の前には大きな通路がひとつあり、その左右に乗車する鉄道の待合室が控えるという非常にシステマチックな造りになっていた。廊下にはそれぞれの列車の表示もある。新幹線は新しく作られた路線なので、その待合室はたぶんいちばんはじにあるに違いないとあたりをつけて、長い長い廊下を走りぬけると、果たしてそのいちばん先に新幹線乗り場はあった。読みがあたったのだ。迷うことなく、待合室を抜けてホームに降りた。やはり乗車すべき新幹線がホームに待っていた。
昔々、乗車8時間前でも乗れなかった列車に、わずか10分で乗り込むことができた。開放政策万歳、民主化万歳。
こうして、私は24年越しの悲願となった洛陽に向け、出発を果たしたのだった。 -
洛陽に向かう新幹線の中から撮影した一枚。
私にとっては、いかにも中国といった感じの写真だ。
街の中心地から離れると、今も昔も同じような風景が広がっているようだ。 -
中国三大石窟のひとつ龍門石窟が、洛陽にある。実は6年前に龍門石窟より大規模な敦煌莫高窟に行っていたので、そういう意味での目新しさはなかったが、ここ龍門は敦煌のものより野趣あふれた感じで、個人的には気に入った。川を挟んだ両岸の岩肌に、アリの巣のように無数の穴が開いていて、そこにたくさんの石像が刻まれている、その様は圧巻だ。保存状態のかなり悪い小さな仏様などもまた趣がある。中国4000年の歴史の中で、この石窟に仏を刻み続けた有名無名の芸術家たち。その情熱と、気の遠くなるような時の流れを感じると、なんとも不思議な気持ちになる。
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こんな愛くるしい仏様もいる。
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石窟中央部にある「奉先寺廬舎那仏」。
龍門石窟でいちぱんの見どころというだけはある。一度は実物を見ておきたい。 -
こんな感じで観光客が記念撮影をしている。
1月の洛陽は寒いので、ダウンジャケットは必須。 -
龍門石窟は伊河の両岸につくられた石窟寺院なのだ。
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対岸からの景色。風景としてはココからがいちばん見ごたえがあるかもしれない。
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龍門石窟を観光後、その近くのレストランで遅い昼食をとってからタクシーで関林堂に向かった。しかし関林堂はあまり見どころがなかったので(笑)、早々に引き上げ、今度はバスで白馬寺へ。乗ったのはいわゆる普通の路線バスで、白馬寺まで1時間強かかった。この状況に夫はお冠であったが、私と娘はこのパスが結構なお気に入りで(笑)、この旅行の中でもこのプチバス旅行が特に楽しい思い出として残っている。
洛陽龍門駅付近から洛陽中心地を横断して、郊外の白馬寺まで。都会的だった街並みがどんどんさびれて、数十年前の中国の街並みのようになっていく。それにつれて、最初は混んでいた車内から乗客が少なくなって、最後は私たちだけとなった。
洛陽の一般市民の方々が、乗っては降りて行く。その様子を見ているだけで、とても楽しかった。 -
バスの座席はこんな感じ。1時間乗車しても運賃は100円以内とバカ安い。
バスは庶民の味方だ。 -
で、これが白馬寺である。白馬寺に着いたのは、夕方の16時くらいなので、さすがに観光客がほとんどいない。しかもこの日の洛陽は、とにかく寒かった。
ちなみに白馬寺とは、後漢の明帝の時代、インドから摂摩騰、竺法蘭という二人の高僧が白馬に経典と仏画を乗せて洛陽に入り朝廷に迎えられ、朝廷が彼らのために寺院を建てて住まわせたのが始まりだとのこと。時はAD68年。つまりここは中国における仏教伝来の地なのである。
人影のない夕暮れの寒い寒い白馬寺は、そんな物語がなんとも似かわしいさびれた寂しい場所であった。この寂れ感がなんとも言えない魅力のひとつだ。
この後、予定通りまた新幹線に乗って鄭州に戻った。鄭州の駅近くにあるレストランに入り、夕食を頂いた。そこで、夫婦喧嘩勃発!私はレストランでシクシク泣き出して、その勢いでビールを山ほど飲んでやった(笑)
24年前も友人と大喧嘩したのは、やはり鄭州だった。
鄭州と私、あんまり相性が良くないのかも? -
その翌日、鄭州から北京に戻る日。実は、寝台列車で北京入りしようという魂胆で、またまた大枚をはたいてチケットを予約していた。列車の出発時間は夜の19時くらいだったので、チェックアウトの時、ホテルに荷物を預け、この日は黄河観光に向かった。実は24年前に友人と黄河を見て、えらく感動した私。夫と娘にもあの感動を分けてあけだいと思って、再び鄭州の黄河を訪れることにしたのだ。その当時は、普通にタクシーで河に行き、適当に黄河を見て帰ってきたのだが、今ではここも観光スポットとして整備され、なんと入場券まで取るという変わりよう。恐るべし、中国人の商魂(笑)
ところが、この整備された「鄭州黄河風景名勝区」は、見どころのないつまらないスポットとなってしまった。普通に川岸で黄河を見せてくれるだけで十分なのに、やたら山を下っては降りてを繰り返したり、小さな湖を見せられたり。しかも昔のように黄河の傍まで近寄れないのである。夫と娘いわく、「寒いだけでつまらない」。
どうもすいませんでした。
17時半くらいに鄭州駅に到着する感じで路線バスに乗り込んだ。この路線バスも洛陽と同じく、一般庶民の方々が利用している普通のバスだったので、さまざまな人がバスに乗っては降りていく。中には、なぜか鶏を持ち込む人までいた。車内で「コケコッコー」と鳴く鶏。みなさん、運転手と顔馴染みらしく、気軽に雑談をしているのだ。海外に行ったら、タクシーより路線バスに乗るのがいい。
日本から遠く離れたこの地でも、当たり前のように普通の人たちが普通に生活を営んでいる。そんな当たり前のことが実感できるから。そして世界中の国々で、私と同じように平凡な人たちの平凡な日常が繰り広げられている。私はその事実がとても大切に感じられるのだ。 -
さて、渋滞を抜けてバスはやっと鄭州駅に到着した。そこからタクシーでホテルに戻り、荷物を引き取ってまた駅に舞い戻ってくるという算段だったのだが、タクシー乗り場は待ち人で長蛇の列。唖然としていた私に、ある中国人が話しかけてきた。どうやら、「俺の自家用車で目的地まで送ってやろう。100元でどうだ?」と言っているらしい。駅からホテルまで20元で着く距離である。ぼるにもほどがあると思った私は相手にしなかったのだが、頼みにしていた路線バス乗り場に行ったら、これまたバスも渋滞にひっかかって、なかなか前に進むことができない模様。その時、私の脳裏に、24年前鄭州から一歩も出られなくなったあの時の悪夢がよみがえってきた。「またか、この街は私にとって鬼門? 一度入り込んだら出られない無限ループ?」なんて益体もないことをグルグル考えていたら、夫が、「ここでバスを待っていても乗れないんじゃない?」と一言。その言葉で呪縛から解き放たれ(笑)、私は先ほどの中国人のところに一目散に向かっていた。焦っていたので途中穴に足を取られ、コケたりもしたが。
そして、その男性見つけ、「往復で100元にして」と筆談で交渉してみたのだが、なぜかなかなか理解してくれない。そうこうしているうちに、私たちは人々に囲まれ、時の人となっていた。実は同じような経験を私はかつてこの地でしたことがあった。今から24年前、当時中国の貨幣は人民元と外国人元に分かれていた。外国人元でしか買えない店などがあったので、当時の中国人は、たとえば100元の外国人元を110元の人民元と交換なんてことをしていたのである。私は鄭州で初めて、この外国人元と人民元の交換を持ちかけられ、面白かったので交換したことがある。その時、道端で交渉したのだが、やはり物見高い鄭州の人たちに囲まれて、注目の的となった。
一度足を踏み入れたら出られないところ。人々がむき出しの本音で生きているところ。一方で、困った人を見つけたら率先して手助けをしてくれる人々が住んでいるところ。それが中国の中原地帯だ。もっとも中国人らしい中国人たちが住むところ。時代は移り、街の景観は変わったが、そこに住む人たちの心は変わってない。
街から出られない恐怖を感じながらも、私はそのことを実感した。
その中国人のおかげで、私たちは無事予約した寝台車に乗ることができた。
別れ際、100元ではなく150元にしてというその中国人の言い値を私は快く支払った。それだけ危機的状況だったし、彼がいなければ私たちは目的に列車に乗ることができなったのは明白だったからだ。最後に、「謝々、再会」と言って別れた。
鄭州でまたひとつ、良い思い出ができた。
鄭州は、確かに私にとって鬼門とも言うべき街である。しかし、忘れ難い思い出を残してくれるところでもある。
画像は鄭州駅の待合室。昔の混乱はなく、今は皆さん、静かに列車到着を待っている。 -
無事に乗車予定の列車の待合室にたどりつくことができた。
ここまで来ればもう安心である(笑) 気持ちに余裕ができたので、その待合室で列車を待つ間に、夫と娘をパチリ。
それでも心配性な夫は、「なんでこの列、なかなか動かないの?」と不安そう。私は列の前の方で待っている男性に自分のチケットを見せ、ここで合っている?と、身振り手振りで尋ねててみると、その方、「自分も同じ列車に乗るから、ついておいで」というようなことを言ってくれているようだったので、その方の後をしっかりついて行った。大変親切な方で、「あなたたちの車両はココ、私はあっちだから」と教えてくれて、名刺を夫に渡しそこでお別れした。新聞社の記者だということ。本当にありがたいことである。 -
列車に乗り込んだ後、さっそく自分たちの部屋に行ってみると、思いのほか狭い4人部屋に一同唖然(笑)。
私の記憶では、中国の寝台車はもっと広いようなイメージがあったんだけど、いや、こんなものだったのかもしれない。なんせ24年も前のことなんで(笑)
ところで私たちは3人家族なので、必然的にそこに1人、他人が紛れ込むこととなった。というか、その方もかなり居心地が悪かったと思う。家族3人の中に1人、しかも日本人が同室なんだから。でもその人は大変親切な人で、荷物置き場が上段ベッドの横にあったのだが、私たちの重いスーツケースを引き上げるのを手伝ってくれたり、食堂車があるから夕食がまだなら食べに行ったら? と教えてくれたり。
鄭州では本当に良い人たちとの出会いがあった。
画像は、中国の寝台車に乗って唖然呆然としている我が夫(笑)
きれい好きで神経質な夫にとって、中国の寝台車なんて言語道断、想像を絶する世界なのであった。
「なんでこんなプランにしたんだよ?」
アンタ、それは後の祭りである(笑) -
で、食堂車に移ってきた。
「狭い、汚い、あり得ない」と夫と娘は不満爆発。実は寝台車に乗ることはずっと私だけのシークレット事項だったのだ(笑)。だって言ったら大反対に遭うことは想定内だったからね〜。ブーブー文句を言う2人を前に、この時ばかりは言い返さず私は聞こえないふりを決め込んだ(笑)
ところで、最近国内の航空事情が良くなった上に鉄道も新幹線まで登場した中国では、寝台車を利用する人はかなり少なくなったという。確かにかなり時間がかかるし特に快適でもないので(笑)、それは当然だろう。だから思ったのだ。中国で寝台車に乗るのは、これが最後だろうな、と。夫と娘が嫌がるのはわかっていたが、私は最後に一度、どうしても寝台車に乗ってみたかったのよ。
ついでに、列車の食堂車を利用する人はほとんどいないとのこと。これは本当で、私たちが食堂車に行ったら、そこで食事をしているのは鉄道の乗務員だけであった(笑) 乗客は席にはいたものの、持ち込んだ飲み物や果物を食べているのみ。そんな中で、従業員と一緒に私たちは食事を頼んだ。素朴なメニューだったけれど、私たち家族の舌には結構なじんで、「おいしいねー」と3人で食事を楽しんだ。
ノロノロと進む列車の食堂車で、夫とビールを楽しんだ。ほかにやることもないので、家族で談笑。「このほかにやることがない時間」を共に過ごすというのが、実は大切なのだ。日本ではそんなことありえないから。
画像は、なかなか機嫌が直らない夫(笑)
でもビールをしこたま飲ませたら、すぐに陽気になった。単純な人なので助かる。 -
昔々、中国の列車の軟臥(一等寝台車)を利用できる人は特権階級に限られていた。だから食堂車は軟臥客専用で、そこには真っ白いテープるクロスが輝き、当時の中国ではなかなかお目にかかれないようなご馳走を頂くことができた。
現在では、従業員と一緒に定食もどきを頂く感じである。24年もたつと隔世の感がある。
朝、朝食を食べない夫を1人残し、娘と食堂車に移動。 -
朝食もやはり従業員と同じ素朴なメニュー(笑)
中国の家庭料理的な感じで、結構私は気に入った。
左側のお椀に入ったピンクの液体は、たぶんスープ。重湯のような感じでかなり薄味で、ほんのり甘い。間違っても、「美味しい」とは言えないけれど、不味くもない(笑) -
その後、無事に北京に到着し、予約していた北京新僑諾富特飯店へタクシーで向かった。
北京では、夫が上海に単身赴任していた時に大変お世話になった中国人の梨さんと爽々さんのお二人に案内して頂くことになっていた。ということで、ここからの旅行は中国人が全て面倒を見てくれる大名旅行となり、報告すべきオモシロ情報はほとんどない(笑)
そういえば、北京に到着した日の昼食は、北京のピザーラだったかドミノピザだったか、とにかくチェーンピザ店で食事をした。申し訳ないことに、梨さんがご馳走してくれた。その後、故宮博物館に梨さんの案内で向かう。入場料まで支払ってくれた親切な梨さんだった。
故宮博物館と言えば、24年前に中国に行った時、閉館後で入れなかったという苦い思い出があった。この後悔も今回の旅行で払拭することができた。
感想は…正直よくわからなかった(笑)
画像は天安門広場前にて。北京はとにかく寒かった。 -
故宮博物館から一枚。夕方とは言え、恐ろしく弱い太陽の光。
真冬の北京は、寒いのが苦手な人は行くべきではないかもしれない。 -
故宮博物館観光後、梨さんの案内で行ったレストラン。
私が今まで食べた北京ダック店の中で、いちばん美味しかった。
自分で調べて行ったレストランではないので、店名を忘れてしまった(笑)
美味しいレストランは現地の人に聞け、である。
ただし、恐ろしく高級そうでもあった。
この日の夕食も梨さんがご馳走してくれた。太っ腹な上に良い人である。 -
これは何かと言うと、車体に『ワンピース』のイラストがプリンティングされた自家用車である。宿泊ホテルの裏通り前に停めてあったのを娘が目ざとく見つけて、大感激していた。
なんでも中国の新聞で『ワンピース』が連載されているらしく、ものすごい人気だとか。
昔むかし、首都の北京にさえ数えるほどしかレストランがなく、当然のことながらコンビニなどはなく、外国人が宿泊できるホテルも数えるほどだった中国。22歳の誕生日をこの北京で迎えた私を、旅行に一緒に行った友人がケーキとワインで祝ってくれた。当時、中国で売られていたケーキは、バタークリームの恐ろしく甘ったるいもので、ワインは砂糖漬けブドウ酒という代物であった。それが今では、『ワンピース』のイラストを自分のクルマにプリンティングするほど、自由で豊かになったのである!娘も感動していたが、私も猛烈に感動していた(笑) -
で、これがホテルに併設されているケーキ店(パン屋?)のショーケース。パンが普通に美味しい!
中国は変わった。 -
翌日は定番の万里の長城へ、梨さんの自家用車で向かう。
中国人の自家用車で、夫の友人の中国人に案内をしてもらって、人生二度目の万里の長城である。24年前の私に教えてあげたい(笑) -
しかし今回の訪問は、初回ほどの感動がなかった(笑)
2度目だからかと思ったが、初回のはずの夫と娘もさほど感動はないらしい。
感受性の問題か、単に寒すぎるからなのか。
ただ、梨さんと爽々さんが同行しているお陰で、夫の我儘が影を潜めたのは助かった(笑)。外面だけはいいヤツなので。 -
万里の長城は、人生で一度ぐらいは本物を見ておいた方がいいものの一つだと思う。
この翌日、私たちは帰国の途に就いた。
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