2010/12/09 - 2010/12/09
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kawabekentarouさん
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12月9日
どうも、最近朝が早いけんたろーです。今日もばっちり5時に起き、マニエル・アントニオ自然公園へ向かいます。あと、兄貴的存在の谷さんを見送る為です。谷さんは早朝の便でペルーに飛びます。谷さんとの出会いは本当に素晴らしいもので、本当に可愛がってもらいました。東京で再開することを近い、バス停まで見送りに行きました。旅は出会いもあるけど、別れもあるから寂しい。。。でもそれが繋がりをつくると信じています!!いつもながら荻野さんは優しく、荻野さんが起きるのと同時にコーヒーをいれてくれます。宿は完全に趣味でやっていて、宿泊客を自分の息子たちの様に扱ってくれます。俺も荻野さんの様な人間になりたい。俺のお母さんが本当に情深い人間で、俺も情を持って生きていくように親に教わってきたので、それを大事にしていつか荻野さん見たいになれたらいいな〜♪
国立公園に行くにはコカコーラバスターミナルからバスに乗らなければならない。。早朝だから治安は平気かなと心配してたけど、周辺にはたくさん人がいて警察もいたのでへいきだった。朝ごはんを食べなかったので、ちかくのおしゃれなパン屋さんで、ブランチを買いこんだ。国立公園まではバスで4時間強かかり、コスタリカでもっとも人気のある国立公園である。鳥の鳴き声、木々がざわめいたり、上から木が落ちてきたりしたら上にはナマケモ、サル、イグアナがいたりする、そんな魅力あふれるこうえんである。しかも、ビーチもあるらしい♪ばっちり水着もかったし、準備万端です♪ビーチを巡り歩いている間に木陰のトレイルで昆虫や野鳥、野生動物に出会えるという、なんとも贅沢な楽しみ方をできるのである。バスに乗っている間に大爆睡。。。。起きたら誰もいない。。。皆は公園の前の管理所らへんでおりたっぽい。。。ドライバーに英語で質問しても通じるわけがありません。。。やむやむ降りて、自分で管理所まで向かいました。相変わらず気がぬけてますな〜。向かっている途中に野生のサルにでくわした!!感動なはずが、ビビりなけんたろうさん、向かってこようとするサルに怯み、写真をすかさず撮り、小走りで逃げました笑いや〜、以外に迫力あるんだよ、マジかだと!!ま、言い訳ですな。。。。笑 管理所手前にガイドがいて$20で雇うことができます。俺はビーチでぼ〜としたかったので一人で向かうことにしました。管理所で入園料$10払い、公園に入ったら、ちょうどそこにアメリカ人の老夫婦がいて、仲良くなり、ビーチまで一緒にいきました。俺はトレイル慣れしているから余裕だったのですが、老夫婦には少しきつかったようです。荷物を持ってあげたら、喜んでもらえました。俺も楽しく英会話をしながら一緒にトレイルを楽しむことができたのでハッピーでした♪後で気がついたんだけど、以外に年配の方が多かったです。いいよね、年配になっても夫婦仲良くトレッキングをするなんて♪俺も将来結婚して年老いたら、一緒に軽井沢とかに行ってトレッキングしたいな〜☆その老夫婦とはビーチで別れました。ビーチに着いた瞬間、もの凄くテンションがあがり海に向かってダッシュで走りました。そしてしばらく海を堪能した後、木陰でブランチを食べることにしました☆木陰にいたら、メキシコのおばあちゃんの団体となかよくなりました。またも俺の事を「はぽ」と呼びます。おばあちゃんたち、大胆です。普通に俺の横で裸になり、水着に着替えてます。。。汗。見たくもない垂れたおっぱいや下半身。。。。。若い子たちだったらって心の底からおもいました。。。さすがに腹が減ったのでブランチを食べようとバックパックを開き食べようとしたら、サルがたくさんいました。これはシャッターチャンスだと思い、夢中で写真をとっていたら、いつのまにか他のサルが俺のバックパックをあさり、俺のパンを全て取り出して、木の上に逃げました。。。。。OMG〜!!急いでおったがかなうわけありません。。周りの観光客は大爆笑です!!俺は本気で腹が減っていたので笑えなかったけど、皆が楽しんでくれたからいっか笑 でもその現場を見ていた他の観光客が、お腹が減っている俺にお菓子をくれました♪めっちゃやさしいです!!敵はサルだけではありませんでした。ラグーン(アライグマ)もバックを漁りにきます。。。サルの戦利品を奪い取ろうとするラグーンもいて、サルはすかさず木の上に退避していました。これはバックがやばいと思い、おばあちゃんたちに預け、ビーチにはいったりしました。ビーチにはイグアナもいました。マジかでみると迫力があります。ビーチでは本をよんだりして3時間くらい過ごし、海岸を一周するトレイルに向かいました。熱帯雨林のトレイル贅沢です!!野鳥のさえずりを聞きながら、熱帯植物を見てあるく、最高〜〜!!本当に楽しかったな〜♪帰りのバスの予約の時間よりも3時間も早く戻ったので、バス会社に時間を変えられるか頼んでみたところ、やはり英語が通じません。それを見ていたフランス人夫婦がトランスレイトしてくれて、予定よりは早く帰ることができました。優しい夫婦で、こんど大阪に行くらしい♪しかし俺は大阪の事は全く知識が無いので、横浜の良さをひたすら説明しました笑。俺の仲良いフラン人もそうだけど、スペインに近いから、フランス人はスペイン語もできます。もちろん英語も。陸続きの国ってやっぱりそうなんだね☆サンホセに戻り、今晩の食材を買って荻野さんの住む宿に戻りました。今日のメニューはカルボナーラ、アボガドサラダ、ナポリタンソーセージです。荻野さん、けいくんと三人で食べ、食べた後は荻野さんの雑談で、有意義な時間を過ごしました。今日のトピックはニカラグアのサルディーニスタンや、ニカラグアの現状です。明日はいよいよ首絞め強盗多発地帯のニカラグアのマナグアに行きます。正直ビビってます。。週に何回も旅行者が3〜4人に襲われる事件が起きています。あ〜、俺のオアシス、荻野さん宅を離れなければいけない。。もっと荻野さんから色々とお話を聞きたい。でも進まなきゃ!んじゃ!!
出費 バス多服$15 宿$15 入園料$10 ブランチ$3 衣類$10 その他$5 食材$5
ニカラグアについて
ニカラグアは、中央アメリカ中部に位置するラテンアメリカの共和制国家である。北西にホンジュラス、南にコスタリカと国境を接し、東はカリブ海、南西は太平洋に面している。また、カリブ海にコーン諸島やミスキート諸島を領有している。首都はマナグア。ニカラグアは狭義の中央アメリカで最も面積が広い国である。1936年から1979年まで続いたソモサ一家の独裁政治と、ソモサ独裁に対するニカラグア革命後の内戦のために開発は極めて歪な形でなされ、そのために国民所得や識字率などが中央アメリカでも未だに低い水準にある。
歴史
植民地から独立国へ
大西洋岸に位置するコーン諸島は、元々モスキート海岸の残りと共にニカラグアに割譲されるまでイギリスの保護領だった。19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョ達の間で独立の気運が高まった。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱の中、ナポレオン戦争により1808年からスペイン本国では、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがボルボン朝のフェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させると、それに反発する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日にグアテマラ総督領が独立すると、ニカラグアもスペイン支配から解放された。中央アメリカ諸国は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に併合されるが、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総監領の五州は中央アメリカ連合州として独立し、1824年には中央アメリカ連邦が成立した。エル・サルバドル出身のホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、独立後すぐに政治的混乱を起こした。フランシスコ・モラサンをはじめとする自由主義者のエル・サルバドル派と、 ラファエル・カレーラをはじめとする保守主義者のグアテマラ派の内戦のなかで、モラサン率いる政府軍がグアテマラの戦いで敗れると、1838年に中米連邦は崩壊した。中央アメリカ連邦が崩壊して再独立した後は、他のラテンアメリカ諸国と同じように自由党と保守党の対立が先鋭化した。連邦崩壊後は自由主義派のレオンと保守主義派のグラナダの主導権争いが続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853年にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロが選挙によって大統領に就任すると、混乱はようやく収束したかに見えた。しかし混乱は続き、1854年12月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身の冒険家ウィリアム・ウォーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌1856年6月、自らニカラグア大統領に就任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォーカーは、英語を公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。中央アメリカ諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争が始まった。イギリスやバンダービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦いでウォーカー軍を破り、1857年にウォーカーは打倒された。先の国民戦争でウォーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後しばらく保守党政権が続いた。1893年、自由党のホセ・サントス・セラヤが政権を握り進出を始めたアメリカ合衆国資本の援助を受けて鉄道建設などを実行した。1894年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のミスキート王国を合衆国の支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した国家となった。またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中央アメリカの指導的な国家にするために手を尽くし、エル・サルバドル、ホンジュラスと共に1896年には中央アメリカ大共和国を樹立するが、1898年にはこの国家は崩壊してしまった。セラヤはその後独裁者として長期政権を維持するが1909年、アメリカ政府を激怒させてしまい失脚することになった。
アメリカ合衆国の進出 (1909 - 1933)
セラヤ失脚後は様々な政権が入れ替わり立ち替わりし、ブライアン・チャモロ協定が結ばれるとようやく建国当時からパナマ案と並んでの候補だった、中米地峡運河建設のニカラグア案が正式に放棄されることになった。1927年、自由党のモンカーダらが保守党のディアス政権に対しての戦争を始めた。この戦争はすぐに停戦してしまったが、停戦後再びアメリカ海兵隊が上陸してくると自由党軍のアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だけは停戦に応じず、ニカラグア国民主権防衛軍を率いて選挙監視を行うために駐留していたアメリカ海兵隊(占領軍)を攻撃した(サンディーノ戦争)。サンディーノ戦争はラテンアメリカ諸国の支援を受けての、世界初の近代的なゲリラ戦争となった。アメリカ海兵隊は被害を恐れ、ニカラグア国家警備隊を養成し、海兵隊と共に国家警備隊がサンディーノ軍とジャングルの中でゲリラ戦を行うことになった。しかし、お互い決め手にかけたまま時間だけが経ち、遂に選挙監視の任務が終わったこと、世界恐慌の影響でニカラグアに駐留する費用も惜しくなったことなどを原因に1933年、アメリカ海兵隊が撤退してサンディーノ戦争は終結した。しかし翌1934年、サンディーノはアメリカ合衆国子飼いの国家警備隊長アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺され、1936年にソモサはクーデターを起こして自ら政権についた。こうして以降のニカラグアは1936年から1979年まで43年に及ぶソモサ王朝の支配が続くことになった。
ソモサ王朝 (1936 - 1979)
1937年に大統領に就任したアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)は、傀儡大統領を据えて政治と国家を私物化し、国会警備隊を利用した純然たる力の政治が行われた。第二次世界大戦の間には「敵性国民」であることを理由にドイツ系地主の財産を没収し、私財にするなどの一方で、大戦後には隣国のコスタリカと二度、ホンジュラスと一度紛争を起こすなど、中央アメリカにおけるニカラグアの影響力を拡大することに余念がなかった。タチョが詩人に暗殺されると、長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継者として実権を掌握した。ルイスは自由党(PLN)をコントロールして言論の自由の一部解禁や福祉の拡充を行うなど、形だけでもメキシコの制度的革命党(PRI)のような、PLNによる一党独裁体制の体裁をとっていたが、1963年に病死した。後を継いだタチョの次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)は純然たる力の政治を目指し、国家警備隊による暴力を政権基盤として独裁を行った。1972年にマナグア大地震により、首都マナグアが壊滅すると世界中からニカラグアへの義捐物資が送られたが、タチートはこれを全てソモサ一家とその関連企業の間で着服し、国民の不満は一層高まることになった。
ニカラグア革命とコントラ戦争
1936年から続いていたソモサ家独裁への反対は1972年のマナグア大地震へのソモサ政府の暴力的な対応により拡大を続けていったが、1978年1月に反体制派新聞「ラ・プレンサ」社長のペドロ・ホアキン・チャモロが政府によって暗殺されたことにより、国民の独裁政権への不満は頂点に達した。武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) は中道・左派の幅広い結集を受け、ラテンアメリカ諸国と国際社会を味方につけ、1979年7月19日アナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領は合衆国のマイアミに亡命した(第一次ニカラグア内戦)。こうして43年間におよぶソモサ王朝は終焉し、ニカラグア革命=「歌う革命」が実現した。ニカラグア革命はニカラグア固有の条件を考慮した独自の革命であり、社会正義を実現するために遅れた部分を改革するというところから始まったものであった。このため、当初は非同盟政策、混合経済、複数政党制などの国造りを目標にして、キューバやソ連などの東側諸国から一線を画するつもりでいたが、次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第二次ニカラグア内戦へと繋がっていった。「人権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、「エル・サルバドル死守」を掲げて中央アメリカに介入を始めた。また、 オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。1984年から1985年にかけて、革命政権「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行ったので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミやロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)。1986年6月、国際司法裁判所は、アメリカ合衆国の主張を全面的に退け「機雷封鎖、コントラ支援を含むニカラグアへの攻撃は、国連憲章をふくむ国際法に違反」とする判決を下すが、アメリカはコントラ支援をますますエスカレートさせる。11月、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この時アメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのはオサマ・ビンラディンの兄サレム・ビンラディンであった。
終戦、和平合意、その後のニカラグア
1987年の中米和平合意に沿って、1988年3月、政府と反政府勢力問の暫定停戦合意が成立した。1990年2月、国連による国際監視のもとで大統領選挙を実施した。オルテガをはじめとするサンディニスタ幹部はこの選挙での勝利を予想していたが、サンディニスタは僅差で敗れ、国民野党連合 (UNO) のビオレータ・チャモロ候補が初の女性大統領に選出された。4月にチャモロ政権が発足。6月にはコントラが武装解除・解体完了を宣言する一方、国軍(それまで革命前の反政府武装勢力時代からの名称「サンディニスタ人民軍」を用いていたが、改称した)が8万人から1万5千人に削減され、内戦は実質的に終結した。サンディニスタ内ではクーデターを起こして政権を確保しようとする動きもあったが、オルテガ大統領はこれを制し、無事民主的な政権交代が実施された。その一方でダニエル・オルテガの弟が国軍の最高司令官に就任するなど、サンディニスタと野党のお互いの妥協が認められた形となった。1996年10月20日に、大統領等選挙が行われ、自由同盟(AL、中道右派連合)から元ソモサの部下だったアルノルド・アレマン候補が当選した。1997年1月10日、アレマン新政権が発足する。同時にダニエル・オルテガの養女へのセクハラなど、FSLN幹部の汚職がスキャンダル化し、サンディニスタ革新運動が分裂した。2001年11月4日に行われた総選挙で、エンリケ・ボラーニョス前副大統領が選出、2002年1月10日にボラーニョス政権発足。前アレマン大統領の在任時の汚職疑惑が社会問題化する。2006年11月5日に行われた大統領選挙で、カトリック教会を味方につけ貧困撲滅を訴えた、FSLNのダニエル・オルテガ元大統領が16年ぶりに当選した。2007年1月10日にオルテガは大統領に就任した。
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