2010/01 - 2010/01
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ドクターキムルさん
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鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html)を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000 Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm)(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・コッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、「関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造2階建搭屋付(一見木造3階建)、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
今回は最後に残っている、JR鎌倉駅から材木座までのコースを巡る。
都合丸4日かかったが、鎌倉の正月気分を少しですが伝えられたのではないでしょうか。
(表紙写真は浜の大鳥居跡)
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「畠山重保邸阯」(鎌倉町青年団、大正11年)(由比ガ浜2-14-5、一の鳥居)。
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一の鳥居。
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一の鳥居。
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石造宝篋印塔と石碑。
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石造宝篋印塔の説明板。
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石造宝篋印塔。
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日本基督教団鎌倉教会会堂。幼稚園もありました。
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日本基督教団鎌倉教会(ハリス記念鎌倉幼稚園)。
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若宮大路の説明板。
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若宮大路。
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若宮大路。
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若宮大路。
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琵琶橋。
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「下馬」(鎌倉町青年団、昭和12年)(由比ガ浜2-1-20、ガソリンスタンド前)。
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教恩寺山門。
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教恩寺本堂。
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教恩寺の猫。
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本覚寺裏の暖炉の煙突がある家。
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明治40年代の石碑。本覚寺境内。
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「五郎入踏正宗碑」(天保7年(1836年))。本覚寺境内。
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人形塚。本覚寺境内。
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「夷堂橋」(鎌倉町青年団、昭和7年)(小町1-12-12、本覚寺) 。
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夷橋。
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「比企能員邸址」(鎌倉町青年団、大正12年)(大町1-13-10、妙本寺山門)。
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妙本寺山門。
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比企谷幼稚園。
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妙本寺二天門。彫刻がとても立派です。祖師堂とともに1830年頃の再建だそうです。
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増長天(ぞうじょうてん)。
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持国天(じこくてん)。
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妙本寺祖師堂。彩色漆塗りではないが、彫刻は立派です。左手前の桜も綺麗ですよ。
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祖師堂右の石は住職に聞くと、「さざれ石ではありません。」とのことでした。
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「万葉集研究遺蹟」(鎌倉町青年団、昭和5年)(大町1-15、妙本寺)。
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妙本寺墓地のお墓。五層天守閣のかたちをしている。
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妙本寺の猫。石碑の手前で日向ぼっこしている。
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ぼたもち寺。
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「南妙法蓮華経」石碑。
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八雲神社鳥居。
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八雲神社本殿。
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八雲神社略記。創建された永保年中とは1081年から1083年までの期間を言う。以降、「祇園天王社」と称したことから、裏山が祇園山となったものと推測される。祇園山ハイキングコースはここ八雲神社が起点なのだ。
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新羅三郎手玉石(八雲神社境内)。
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稲荷社。
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八雲神社の神輿。擬宝珠が載る。
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八雲神社の神輿。蓮(菊?)の花が載る。「鶴岡八幡宮に菊の花が載る神輿があるから、菊の花であるかもしれない。」宮司さんもどちらかとは判断されなかった。
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八雲神社の神輿。鳳凰が載る。
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祇園山安養院。山門4隅には浪の飾り瓦が上がるが、15年前に瓦屋が上げたもので謂れはない。祇園山を名乗るが八雲神社の創建の方が早い。
数年前の5月に、暑かったので近くのコンビニでアイスキャンディを買って食べながら安養院に向かっていたところ、急にアイスキャンディがなくなった。「あれ?」鳶にアイスキャンディを取られた。鳶は安養院本堂の擬宝珠の上に止まり、アイスキャンディを食べている。取られたことよりも、あまりに巧く取っていったことに感心したものだ。コンビニに戻って、またアイスキャンディを買って食べた。勿論、鳶を警戒しながら。鳶に油揚ならぬアイスキャンディのお話でした。 -
八雲神社の神輿。鳳凰が載る。
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別願寺。藤の花が素晴しいそうだが、まだその時期に訪れたことがない。
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足利持氏の供養塔。
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上行寺七福神。
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上行寺山門本堂側の「左甚五郎作の龍」。日蓮宗の本山(霊蹟寺院)妙本寺から貰い受けたものだそうです。
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高井直哉君碑。鎌倉町青年団小町支部。大町安養院墓地前。鎌倉町青年団小町支部長の高井直哉氏が関東大震災で犠牲になったが、その生前を顕彰した碑。
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「佐竹屋敷跡」(鎌倉町青年団、昭和7年)(大町3-6-22、大宝寺)。
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大宝寺境内の石仏。
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赤ちゃんを抱いた観音さま。
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妙法寺本堂。雨の日や雨上がりには公開されない。土日でも7、8人から50人くらいしか訪れないことが多いらしく、鎌倉では唯一、何時いっても落ち着いた雰囲気が味わえます。
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「日蓮上人草庵阯」(鎌倉町青年団、昭和14年)(大町4-4-18、安国論寺)。
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「松葉谷日蓮上人遺蹟」。
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安国論寺本堂。
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安国論寺境内の石仏。
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大仏足跡石。
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「町屋阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(大町2-3-2、いをまち橋横)。
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いをまち橋。
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「日蓮大聖人辻説法之旧地」石碑(本興寺門前)。
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本興寺山門。
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辻薬師堂。
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鉄道轢死之碑(明治42年)(本興寺管理)。踏み切り傍に建つ。
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鎌倉石清水の井。
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元八幡宮鳥居。
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「元八幡」(鎌倉町青年団、昭和3年)(元八幡宮境内)。
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元八幡宮。
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元八幡宮は通称で、由比若宮社が正式名称のようだ。
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逆川橋の道標。
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道標から入ったところが逆川橋。
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道標。
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妙長寺。
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日蓮上人の銅像。
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妙長寺境内に置かれた九輪の伊豆法難記念塔。
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石碑。
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「乱橋」(鎌倉町青年団、昭和4年)(材木座2-8-41)。
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乱橋。
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「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)(材木座5-11-9 近く、海岸橋を渡り九品寺への中間の民家庭)。
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九品寺山門。
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宗祖法然上人讃仰の石碑(九品寺境内)。
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竹の根元の節模様(山門裏)。
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九品寺本堂。関東大震災で庫裏は倒壊したが、本堂は無事だったという。寺の人の話では鎌倉期の創建だという。寺の創建は建武3年(1336年)であるが、本堂は江戸後期か幕末あたりの再建であろう。流れの獅子の木鼻とお堂隅の簡素化された木鼻の組み合わせは案外鎌倉の寺社(江戸期以降の建築物)に多いようだ。
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九品寺境内の石仏。
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小路に入るとお稲荷さんがある。
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「弁谷」(鎌倉町青年団、昭和7年)(材木座6-9-19 近く、雨宮宅前)。
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光明寺裏山。
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光明寺裏山からの眺め。
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良忠上人御廟参道。
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御廟参道のやぐら。
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御廟参道のやぐら。
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良忠上人のお墓。これは特別にでかい。
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大連高等商業学校之碑(光明寺境内)。
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「津田部隊、笹島隊戦没勇士之忠魂碑」(昭和15年)。
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「和賀江嶋」石碑。
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浅瀬に見える石の小山が和賀江嶋。
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和賀江嶋の説明看板。
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六角の井の説明看板。鎌倉市は小坪トンネルの横にも伸びている。海岸線が境界のようで、逗子市小坪の海側にも小道を挟んで鎌倉市材木座6-23の地番があった。
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六角の井の新旧2つの石碑。
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六角の井。
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鎌倉町青年団が大正13年に建てた石碑跡。
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かつては「和賀江嶋」の石碑が望めた。
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