2009/11/28 - 2009/11/28
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akkiy363672さん
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津市美杉町は、津市街地から久居・白山町を経由して車で1時間、奈良県と境を接する山間の地にあります。
平成18年の大合併までは、一志郡美杉村として、村名の通りの美材を産出し、また古くは京都・大坂から奥津経由で最終的に伊勢神宮にいたる伊勢本街道が通過していた地で、歴史的事跡も多い土地です。
もちろん、山あいの風光明媚な地域も多く、特に秋は山々の紅葉が美しい景観を織りなします。
友人たちと、美杉の秋を訪ねました。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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津を10時30分に出発。美杉町に入ったのは、11時30分を少し回った頃でした。
美杉町に入ってすぐ、県道15号を竹原で29号に乗り換えると、前方に君が野ダムの堰堤が見えます。道の駅 美杉 道の駅
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ダム湖周辺の木々も、美しく紅葉しています。
ちょうど管理事務所のおじさんがいて、先日の台風で山から流れ出た流木によってダムの水門が傷み、現在修理中と説明してくれました。
そのため、ダムの水を抜いているとのことです。
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堰堤の向こうに、津市の施設である「レークサイド君が野」が見えています。
今日のお昼は、ここでとる予定です。 -
ダム堤の下流です。
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君ヶ野ダムは、大雨の時に大量の水をダムに蓄えて洪水調節を行ったり、水資源の有効利用のために一定の水を蓄えるなどの役割を持っています。
管理人のおじさん、「100年に1回の大雨をも想定して設計されている」と説明してくれました。 -
「レークサイド君が野」の駐車場の回りにも、キレイな紅葉が見られました。
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お昼には、「君が野定食」を食べました。
レストランからは、ダムとダム湖が一望できます。 -
レストラン前の大きな紅葉の木も、見事に色づいていました。
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ゆっくりと食事を取り、ダムについての話を聞いたりして、午後2時、ダム湖サイドの道(県道29号)を上流へのぼり、「君が野公園」へと向いました。
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この公園はダムの完成とともに整地されたものですが、その後も、地元の人たちが桜やモミジの木を植えるなどして整備してきたところです。
苗木は、植樹した小学生の名前を添えて育てられているとのことですが、多くを野生の鹿に食べられてしまって、大きくなるのはそのうちのわずかだと聞きました。
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燃えるようなドウダンつつじの向こうには、梅林が見えます。
来春には、桜に先駆けて、白い梅の花が見られますね。 -
湖畔へ降りてみました。
湖の向こうの山々は、赤目一志峡県立自然公園の山並みです。 -
ダム堤の方向です。
ダムの水門が壊れたのは、先日の大雨で山の間伐材が大量に流れ出て、水門を傷めたのです。
昔は、山の間伐をしたときは大きな木を傾斜に対して縦に置いてきたそうです。
ところが、法律が改定されて、間伐材は細かく裁断して山に置かねばならないと定められたそうです。そのほうが早く腐食して槌に変えると考えたのでしょうが、雨が降ると流れ出してしまうようになったそうです。
まさに、現場を知らないものたちが頭の中で考えたこと…、机上の空論と言わねばなりませんね。 -
ドウダンツツジの赤色が見事です。
人の背丈よりも、はるかに大きい木なのですよ。 -
このモミジ葉の赤色も鮮やかです。
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逆光に、奥一志の山々のシルエットが浮かびます。
この秋の台風で、何箇所かで崩落が起きた「JR名松線」は、復旧工事の目途が立たず、家城−奥津間の廃線が決まったそうです。
「4000万円の利益を上げるのに、8億円もの経費がかかるのだから仕方ないかなぁ」と、地元の人もあきらめ顔でした。 -
午後3時になろうかという時刻…、「君が野ダム公園」をあとにしました。
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八手俣川に沿ってさかのぼり、北畠神社を目指します。
この山の奥に、津市の塵芥処理場が建設されます。 -
北畠神社に着きました。
北畠神社は、美杉町上多気(かみたげ)に鎮座する、旧別格官幣社です。
北畠顕能を主神に,親房,顕家を祀っています。顕家,顕能は親房の子で,父とともに吉野朝廷に尽くしました。
神社境内は多気城(顕能の築城)を本城とした伊勢国司北畠氏歴代の居館跡といわれています。 -
← 神社横の参道です。
北畠家は村上源氏の流れを汲む名門で、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから北畠氏を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えたといいます。
鎌倉時代末期に北畠親房が出て、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記しました。
親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦いました。
親房の三男北畠顕能が伊勢国司となったことが、伊勢の北畠氏の起源と言われています。
室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ち、その支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきようなものであったと言われています。
戦国時代に入ると北畠晴具が現われて勢力を拡大し、戦国大名化して最盛期を迎えましたが、晴具の子の北畠具教のときに織田信長の侵攻を受け、1569年(永禄12年)に信長の次男の織田信雄を養子に迎えるという降伏に近い形で屈服することとなりました。これにより、北畠氏は実質的に織田信長によって乗っ取られます。
1576年(天正4年)、信長によって具教が殺され、具教の子の北畠具房も幽閉され、北畠氏は滅亡します。ただ、北畠氏の庶流は信長の家臣となって生き永らえました。 -
この案内板にもあるとおり、現存する南北朝時代の代表的な庭園で、野性的な趣きは当時の地方豪族の美的感覚を表わしていて、歴史的また学術的にも高い評価を得ています。
昭和11年9月に国の「名勝及び史跡」に指定されました。内外から庭園研究家が訪れることも多いとのことです。 -
宮崎宮司が自ら案内に立っていただき、この庭園や御所跡の由来を説明していただきました。
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米の字池とその向こうの築山です。
北畠氏は名家の誉れ高く、とくに親房が後醍醐天皇に仕えて以来、南朝の重鎮となりました。
長子顕家(あきいえ、1318〜1338)や三男顕能(あきよし、?〜1383?)も足利幕府を相手に奮戦し、後代には幕府と和解して伊勢国領主となりました。
守護大名の歴史も細川家を凌ぎ、細川元首相が「いつかお参りしたい」と言ったとか。 -
庭園の南東部の置き石です。
説法をするお釈迦さまとそれを囲む弟子たちを表しています。 -
庭園の南東角から、中央部を望んだところです。
園内の大イチョウはすっかり葉を落とし、モミジの木々もすでに色褪せて、この庭の紅葉にはちょっと遅かったようです。 -
石組みの荒々しさも、武家好みといった趣きでしょうか。
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北畠氏は興国3(1342)年、この館の後ろに聳える霧山に城を築きました。この御所から、15分ほど登ったところです。
城下町を広げ、室町時代にこの里は3千の戸数、一万の人口を擁して、その壮大さは「多気御所」と称えられました。 -
ここ多気は、津市内よりも5℃ほど気温が低いといいます。
寒い季節を迎えて、池の鯉たちも一箇所に集まってじっとしています。 -
この庭園の総面積は約850坪で庭のジャンルとしては武家書院庭園という種類です。
池泉観賞様式であるため中央部には池があり、古くから「米字池」と呼ばれ汀線が複雑に屈曲し、護岸の石にも工夫された配列がほどこされています。この石が約500年の風雨から池を守護しているのです。
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北畠の栄華と盛衰を秘めて、今年も庭園の秋は終わりました。
多気の里では、今も発掘調査が進められています。この神社の土の下には多気御所の威光が埋まっていますし、周りの田畑を掘っても、いたるところからさまざまな遺構・遺品が出土するそうです。
宮崎宮司さんにお礼を言って、「郷土資料館」へと向いました。 -
「郷土資料館」は、午後4時まで。すでに閉館していたのですが、無理を言って開けてもらいました。
← 多気御所の模型です。
左端に、庭園が見られます。 -
絢爛豪華な御所だったのですね。
米字池といわれる、複雑な池の形も、この模型でよく解ります。 -
午後4時45分、「美杉道の駅」を訪ねました。
この前を通る国道368号は、仁柿峠を越えて松阪市へと下り、その向こうは伊勢神宮に至る、「伊勢本街道」であった道です。
山あいの地は夕暮れが早く、「草もち」「栗おこわ」などを買って帰途についたころには、美杉の里は静かな夜を迎えていました。
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