2009/10/22 - 2009/10/22
780位(同エリア1209件中)
ムッシュさん
福島宿 第三十七宿(日本橋より276.5km)
福島関所があった福島宿は、木曽の政治文化の中心地であった。
「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす木曽福島は谷底の町」と謳われ、今も崖屋造りの家が建ち並ぶ。交通の要所であっただけに、名所旧跡も多い。
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なるほど、ココなんだ!!
【中山道中間の地標識】
”江戸へ六十七里二十八丁(268km)、京へ六十七里二十八丁”
マラソンで言えば折り返し地点。
まだ半分、あと半分も残っているわけだ
「」ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里三十八町(約268Km)に位置しています。
中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ二大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。
木曽路というと深山幽谷の難所と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された慶長六年(1601)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壷道中などの通行に利用されていました。
英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。
また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。(日義村) -
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天神川を天神橋で渡ると左手に嘉永5年(1852年)建立の廿三夜塔や庚申塔が並び、その横には薬師堂があります。
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の高台に【手習天神】が祀られています、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として京都の北野天満宮を勧請したものです。
社殿は江戸末期、上田村の宮大工武居仙衛門の手になるものです、境内のイチイの古木は樹齢千年です。
【手習天神】
このお宮は、古くは山下天神とよび、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。
源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。
境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ、中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参詣したものといわれます。
このお宮の祭りは、毎年八月二十四日、二十五日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行われています。 (木曽福島町) -
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【福島宿入口の大冠木門】
巨大な関所門モニュメントが立ちはだかっています、門には〇に一字の山村氏家紋があしらわれています。 -
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関所橋
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【山村代官下屋敷跡】
福島関所を管理する木曽代官、山村氏の屋敷。
庭園は駒ケ岳を借景とした築山泉水式のみごとなもの
「山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江匡衡一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことにはじまり、木曽氏の重臣として活躍しました。後に、関が原に向かう徳川秀忠の先人を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以後明治二年に至る二百七十四年間木曽谷を支配し関所を守ってきました。
木曽の山林と四大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は強大で、その屋敷は豪壮を極めたものでした。文政十一年の絵図によると福島小学校を含む敷地に庭園が二十あり、そのうち築山泉水の庭が五つ、その一つが現存する下屋敷と庭です。」 (木曽福島町) -
藤村”夜明け前”文学碑。
原稿の拓本です -
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【これは、誰ですか?】
答え:島崎藤村 のブロンズ(石井鶴三 作)
有名な”夜明け前”はこの地で書いたそうです。
木曽郷土館に展示されてる -
【宿本陣跡】
問屋を兼ねた白木屋は、現在役所(木曽福島支所)になり、名残を留めない。
支所前交差点を左に入ると木曽町木曽福島支所前に福島宿本陣跡標石があります。
標石の左面には江戸へ六十里、右面には京へ六十七里と刻まれています。
現在の支所及び支所前広場が本陣敷地でした、代々白木十郎左衛門が勤め、問屋を兼ね、明治三年(1870年)の本陣廃止まで続きました。
皇女和宮は福島宿白木本陣にて昼食を摂りました
「福島宿は木曽谷の中心地として栄え、宿泊客で賑わっておりました。福島宿本陣は、徳川幕府による中山道六十九次の宿駅制度確立とともに整備され、明治三年(1870)の宿駅制度廃止まで続きました。
大名など高貴なお方の宿泊のために設けられた宿を本陣といい、現在の役場及び役場前広場がその敷地で、150坪の大きな旅館でした。敷地の入口に門があり番所もあって警護され、玄関から左奥に四つの部屋がつながってあり、その奥に殿様が泊まる上段の間がありました。上段の間には、専用の広い便所や六畳ほどの御湯殿もありました。中央に勝手と廊下があり両側にそれぞれ二通りの部屋が並んでいる堂々たる旅館でした。
諸大名が泊まるときには、門前に「誰様御本陣」と立札を掲げ、玄関に幕を張りました。また夜になると高張提灯を立てたといいます。
本陣は明治半ばに壊され、明治三十九年に役場庁舎が建てられましたが、昭和二年の福島大火で焼失し、その後現在の庁舎が建てられております。」 -
これより福島関所に入ります。
木曽谷のほぼ中央にあると共に、中山道のほぼ中間点である
江戸防御を第一に考える幕府にとって西国の大名を抑える場所として、重要な関所であった。江戸4大関所の一つとして入り鉄砲と出女を厳しく取り締まった。
なお、4大関所とは東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とここ福島の関所です。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曾街道69次 福島 】
斜め左の上り坂に入ります、ここが福島関所江戸口です。
広重は福島関所の江戸口をリアルに描いています。
右手には木曽川の断崖が迫り、左側には関山の峻嶮でした、これらには柵が巡らされています。
関所東門の前には関所から出てきた者、これから入る旅人の姿が描かれています。
そして関所内の御番所が描かれ、関所役人と土下座をする旅人が確認できます。 -
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木曽福島宿関所跡
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右の坂道をこちらに上がってくると、福島関所です
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東門をくぐると左手に御番所が復元されています。
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【福島関所】
明治2年廃関された。東西の門と番所を再建。
徳川家康は要衝の地である、福島を幕府直轄領とし、関ケ原の合戦に功のあった木曽氏の重臣山村氏を関所番に登用しました。
その後、この地は尾張藩領になりましたが、引き続き山村氏が関所番を世襲しました。
福島関所は 中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居と共に、天下の四大関所の一つでした。 -
【昔の掲示板ですよ】
宿はずれの上の段坂に復元された高札場。
「江戸時代、御条目やお触れは制札として一定の場所に掲げられていました。これが高札で、高札場の事を「御判形(おはんぎょう)」ともいいました。高札場は柵を結って近寄ることが出来ないようにして、中には栗石が敷き詰められていました。
高札場は、宿村間の里程(距離)を測る基準として用いられましたので、容易には移設のできない場所でした。高札の文字の不明になった場合でも勝手に墨入れすることが禁じられ、領主の権限によって行われました。
この高札場は、天保九年(1838)に八枚の札が掲げられている様子を再現したもので、上より「福島より上松への駄賃銭」「親子兄弟人の道」「駄賃荷物の定め」「きりしたん禁制」「徒党強訴の禁止」「毒薬売買にせ金禁止」「火付け盗賊五ヶ条の定め」です。
この高札は、実際の三分の二の大きさに縮小してあります。 木曽福島町 -
この辺りの地名:上ノ段 と言います。
福島宿より一段高い段丘に開けた街道の町なみ。
昭和2年の大火から免れた家並みが残ってる。なまこ壁の土蔵や卯建を上げた町屋など、宿場町の雰囲気が凝縮してる。 -
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高札場の先を左折すると上の段(うえのだん)の町並みになります
上の段は木曽義仲から十九代目の木曽義昌(よしまさ)の居城上之段城があり、その郭内として多くの道筋が通っており、由緒ある小路名や複雑な枡形を残しています。 -
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お、ななナント。珍しい表示を発見!!
写真拡大すると、はっきり読めますよ。
北緯?度?分?秒、東経?度?分?秒と表示されてるでは有りませんか。
こんなの初めて拝見しました。驚いた! -
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