2009/04/25 - 2009/04/25
213位(同エリア257件中)
ひま人さん
今回は、「平安」の昔、西行法師が京都から歩いた道筋の風景を想像しながら、高野山が目の前に迫る「紀見峠」で最終回とした。高野街道はルートにより、下高野街道、中高野街道、西高野街道と東高野街道とあり、近鉄電車、南海電車の「河内長野」駅前に、<中・西・東高野街道がここに合流する>という石碑が建てられている。ここから「高野街道」となり、紀見峠を越え和歌山県橋本市へ、そして九度山を経て高野山へと向かいます。
本日は生憎、雨の中の街道歩きとなったが、最初に富田橋寺内町(とんだばやしじないちょう)へ、ここは中世から続く町割りを残す歴史的な古民家が見れる。そして日本三不動尊の一つ、瀧谷不動尊、西行法師終焉地の弘川寺、河内長野に入り、高野街道の合流点と町並みを散策し、川合寺へ。三日市町駅付近の町並み散策と天の川沿いの旧街道を散策し、最後に紀見峠を散策し帰路に着いた。何と言ってもこのコースでは、高野山を開いた空海と西行法師の物語が欠かせないでしょう。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス
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旧杉山家住宅(重要文化財)、富田林市寺内町(じないちょう)。杉山家は寺内町創立以来の旧家で、江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町の経営に携わってきた。
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富田林寺内町の旧家の虫籠窓(むしこまど)。虫籠窓は逗子2階(屋根裏部屋)の明かりとりと、風通しのために設けられたもの。江戸時代は木瓜型、幕瓜型、幕末は扁平型、明治以降は長方形になった。
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興正寺本堂、富田林寺内町は永禄初年(1558〜1561年)に京都興正寺の証秀上人が訪れ、「荒芝地」を銭百貫文で購入、近隣4ヶ村から八人の有力者を集め興正寺別院を建立し、八人衆の合議制のもとに御坊を中心とした町造り行われた。
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瀧谷不動尊本堂、正式には瀧谷山明王寺といい、真言宗智山派。弘仁12年(821年)に弘法大師が龍泉寺で国家安泰、万民化益を祈願するために参篭し、一刀三礼して不動明王他二体を彫り、その三体を祀るために造営したのが始まりとあります。
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弘川寺本堂、真言宗醍醐派準別格本山。西行法師終焉の寺として知られる。665年役行者の開基で、その自作といわれる薬師如来像を本尊とする。その後荒廃していたのを空海が中興し、後鳥羽上皇の病気平癒を祈願して治癒せしめた空寂上人が当寺の住持となった。西行はこの空寂上人の法徳を篤く慕っており、晩年、当寺の裏山に庵を設け入寂した。
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弘川寺西行堂、歌聖西行法師は晩年の文治5年、当寺の座主空寂上人の法徳を慕って来られ、ここに住み
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と読み、願いどおり文治6年2月16日、73歳で当寺で入寂されました。
又、昭和61年には、西行法師の八百年遠忌を記念して「西行記念館」が建てられました。 -
河内長野駅前に設置されている高野街道の説明石柱。右から東高野街道、中高野街道、西高野街道がこの地で合流し高野街道となる説明が記されている。
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右側の東高野街道と左側の西高野街道が、ここで合流する地点。中高野街道は左側の西高野街道の手前の地点で合流している。
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長野神社本殿(室町時代創建、重要文化財)
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天の川沿いの高野街道を歩く。
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紀見峠標識、紀見峠は葛城山系の峠で、河内国と紀伊国の境にあり、高野街道の中継地でした。紀州橋本側に宿駅が設けられ、近世に和歌山藩が設置した番所跡の石碑が往時を物語ります。明治には約70軒の民家があったが、鉄道の開通や国道の紀見トンネルの開通で、旧街道の往来が無きに等しい状態になった。それだけに道筋や家並みの風趣が残されている。
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