1979/03/16 - 1980/03/16
10位(同エリア26件中)
ヒマジンさん
(For visitors who do not understand Japanese, please click the indication below "つづきを読む”and look at presented pictures.) 1979年3月16日~1980年3月16日まで、学校を休学して海外旅行に行きました。成田空港が開港した翌年、
多くの日本人が海外旅行に行く頃でした。表紙の写真は当時、
入部していた大学のESSクラブのメンバー達と両親です。
京都駅まで見送りに来てもらいました。
当初の目的地は、 アメリカ合衆国でした。ロサンゼルス、
サンフランシスコ、シアトルと現地の人々の家に泊めて
もらい旅行しました(写真-①)。英会話を学ぶために、
大学の語学教室に通いました。現地の人に紹介文を
書いてもらい、無料で授業を受けました(写-②③)。
20日位、自転車で35マイル(56km)の通学距離でした。
ある日、車とぶつかり、自転車が壊れてしまいました。
ぶつけた自動車の人と一緒に、泊めてもらってた家に帰ると、家族の人が、「ノリオ、身体は大丈夫か」と最初に私の体の事を心配してくれました。貸してもらってた自転車の事より、自分の事を最初に気にかけてくれました。とてもうれしかったです。ここで、多くの国の人々と知り合いになりました。3ヶ月のビザが切れ、カナダのバンクーバーに行きました。ここでは、
ビクトリア島(写-④)の美しさと、10時になっても明るく、
子供たちがサッカーをして遊んでた風景を思い出します。
1ヶ月後、バンフ・ジャスパー(写-⑤)を通過し、
ユタ州のソルトレイクシティに行きました。ソルトレイクでは、イエローストーン国立公園で初めてウォータースキー(写-⑥)
をした事、誕生日に友達にケーキを作ってもらった事(写-⑦)、初めての乗馬(写-⑧)、そして多くの友達が出来ました
(写-⑨⑩)。ソルトレイクを出発し、オマハ、シカゴ
そして、メイン州に10日程、滞在しました。
メイン州の図書館で日本文学の棚の所にいた女性と
知り合いました。旦那さんが精神科の医者で、世界を診療し
ながら旅行しているとの事でした(写-⑪)。一緒に旦那さん
が勤めている精神病院(写-⑫)に行き、そこで2日程、
泊まり、いろんな患者さんといろんな面白い話をしました。
キリスト、ヒットラーと話した事を覚えています。
再度ビザが切れたので、カナダのノバスコシアという、
東の端の半島に行きました。非常に景色の綺麗な所でした。
ここでは、陶芸家のアメリカ人としっかり者の日本人女性と
子供2人の家に泊めてもらいました。一人の子供の名前は
「海」君でした(写-⑬)。ここでの想い出は、夜中、
非常にお腹がすき、家の人に黙って、冷蔵庫の、
ベーコンを食べ、お腹が痛くなり、一晩中一人で
トイレで苦しんでました。翌日、わかったのですが、
前日の夕方、近所のパーティがあり、そこで出た、きのこが悪く、何人か食あたりになったようです。ノバスコシアを出発し、
ボストンに行きました。ボストンでいつもの様に、
女性に泊めてもらう為に声をかけました。すると、
すぐに快諾してもらいました。彼女と一緒について行くと
教会に連れていかれました。3日間、教義を聞き、
少ない食事だっと事もあり、頭がボーッとしていました。
係りの人に、何回か「日本語の分かる人から教義を受けますか?」と聞かれましたが、教義に興味がなかったので
断りました。4日目に、皆で町に出て仲間を増やしに行くと
言われました。最初に3日間だけ泊めてもらう約束だっので、
「私は出て行きます」と言いました。すると係りの人が、
「ただで、泊めて貰って、食事したのだから、
仲間を集めるか、再度、教義を聞くか」と詰問調で
言ってきました。最初に会った女性(リンダ・写-⑭))を
呼んでもらい、「最初の約束の話をしました」しばらく話をし、結局、1週間、皿洗いをする事で合意しました。
さらに1週間、寝床と食事を得ることができました。
帰国後、その教会は統一教会といって、あまり良い団体
ではないと聞きました。しかし、皿洗いをしながら、
彼等達と話をして、ほとんどの人は、真剣に教義を勉強し、
一人でも多くの人に、仲間になってもらう為に、
一生懸命な若者だと感じました。マインドコントロールかも
しれませんが?。ボストンの次に、ニュージャージーで
ドイツ系の家族の家に泊まらせてもらいました(写-⑮)。
日本を出て9ケ月程過ぎ、日本食が食べたくなり、
家族の人にカレーライスを、ご馳走しますと食材のお金をもらい、オリエンタルショップで買い物をしました。
初めてカレーを作りました(写-⑯)。カレーパウダーを
いくら入れても、日本で食べたようにトロリとならず、
試食すると非常に辛くなってました。肉を4kgとか、
いろんな食材を、お金を出してもらって作ったので、
家族の人には、「これが日本のカレーだと」食べてもらい
ました。皆、美味しいけれど、口に合わないと、
少ししか食べませんでした。私はかなり無理をして、
1皿だけ食べました。翌日、近くの大学の英語教室に行き、
日本から海外出張で旦那さんに付いて来ている奥さん達に
作り方を聞きました(写-⑰)。カレーのルーを
使わなければいけない事を教わりました。
ニュージャージーからニューヨークまでは、
車で1時間程なので、家族の娘さんと一緒に、
自由の女神の島等に行きました(写-⑱)。
ニューヨークでも1週間程、泊めてもらいました。
マンハッタンのワールドトレードセンター(写-⑲)、
ハーレム、夜の街等、いろんな面白いものを見、
体験しました。次に、ワシントンD.C.に行き、
役所に勤めている人の家に泊めてもらいました。
ワシントンD.C.は、町並みが綺麗で、ほとんどの
公共建物が無料で入館できました。ワシントンメモリアル、
ホワイトハウス、スミソニアン、アーリントン墓地、
FBI,そしてロッキーバルボアと同じように階段を
駆け上がり、手を掲げ、リンカーン像に挨拶しました(写-20,21)。そして、そろそろ3ケ月のビザの有効期限が切れるので、
メキシコに行こうと考えました。しかし、当時、
アメリカ南部は、ヒッチハイカーに厳しく、
刑務所に入れられた旅行者がいると聞きました。
メキシコに行くには、南部を通らなければならず
悩んでいる時に、ニューヨークからロンドンまで、
キャンセル待ちで片道3万円で行ける飛行会社があると聞き、
ヨーロッパに行く事にしました。ロンドンに行く前に、
冬のヨーロッパに行くので、野宿もつらいだろうと思い、
電車の中で寝れると思い、鉄道のユーレル・ユーロパス
(2ケ月)を買いました。ロンドンに着いて、
一番驚いたのは、人口の半分がインド人だった事です。
1週間程滞在し、ドーバー海峡を渡りパリに行きました。
パリの想い出は、シャンゼリデ通りで、
トイレに行きたくなり、公衆便所に入ろうとした時に、
カウンターの後ろにおばさんが座っていて、
カウンターに1フラン紙幣が、何枚か置いてありました。
仕方なく1フランを払いました。用を済ませて出てくる
ときにカウンターの中をのぞくと、小銭が沢山ありました。
納得がいかなかったけれど、仕方ないと思い歩いていると、カップラーメンの「どん兵衛」が600円(何フランか忘れました)
で売っていました(写-22)。ヨーロッパでは夜、
電車の中で一泊し、着いた街で昼間に散策し、又、夜、
電車の中で一泊しました。電車でスペインのマドリッドに
行き、さらにポルトガルのリスボンまで行きました(写-23)。
リスボンの港で、醤油を付けた焼き魚が、
すごく良い匂いがしたのを憶えています。ポルトガルの
南部の町で電車を降りてしばらく歩くと海岸にでました。
冬の寒いヨーロッパ旅行の途中で、明るい海岸と、
広大な大西洋に感激しました(写-24)。しかし、
いくら南下しても寒く、もっと暖かい所に行こうと、
アフリカ大陸に行くことにしました。ジブラルタル海峡を
渡り(写-25)、テュアナという街(写-26)に着くと、
沢山の子供たちが、私の持っている物と、子供たちの
持っている物と交換しようと集まって来ました。
私の穴の開いた、ジーパンでも良いとの話でした。
そこに、バイクに乗ったおじさんが来て、
「家に泊めてやるから、乗れ」と誘ってくれました。
アフリカの家は、どんな家なのか知りたいのと、
空腹だったので、「メルシー」とだけ言い、
バイクに乗せてもらいました。彼の家は、土で造った家で、
8人位で住んでいました。パンのような物を食べさせてもらい
寝ました。翌日、家の子供たちが来て、私の持ち物と交換
してくれとやってきました。フランス語はほとんど分らないので、身振りで「皆で散歩に行こう」と誘い、家の周りの
丘を遊びながら過ごしました。その家を出発する時に、
おじさんに、ボールペンとメモ用紙をあげました。おじさんは、すごく喜んでくれました。モロッコでは紙は、貴重品でした。
国によって紙の質・量が変わっていました。
旅行中に日本から履いてきた靴の底が破れ、
パンフレットなどを口底に敷き歩いていました。
アメリカでは、パンフレット等の厚紙が簡単に手に入り、
底に敷いて1週間位、取り替えなくても大丈夫でした。スペイン・イタリア・ポルトガルでは薄い、ちらし等しか、もらえず、
1日~2日位で取り替えてました。モロッコでは、
紙そのものが入手しづらく、あってもすぐにぼろぼろになり、
2~3時間歩くと取り替える必要がありました。
マラケシュでは、ヨーロッパとは、まったく異なる町並み
、モスク(イスラムの教会・写-27)
、人々と出会いました。しかし、昼間は暖かくても夜は
すごく寒くなり、野宿よりもヨーロッパに戻り、
電車の中で寝たほうが良いと思い北上しました。
途中、カサブランカでは、高い建物が多い事に驚き、
知り合った人のマンションの部屋(20階位)から見た、
大西洋は雄大でした。スペインに戻り、グラナダに1週間程、
滞在しました。おばあさんと孫が住んでいる、
コテージ風の所に泊めてもらいました(写-28)。
アルハンブラ宮殿はとても美しかったです。
グラナダを出発する日に、同じ泊り客だった男性から
バルセロナに住んでいる友人を紹介してもらいました。
そして今回、このブログを書く動機となったバルセロナに
向かいました。途中の電車のなかで、チリから来た、
2人の女性と知り合いになりました。バルセロナに着くと、
まず、紹介してもらった人のところに行き、グラナダで
書いてもらった紹介文を渡しました。
彼女(エルミニア)は、私の宿泊を即座に
快諾してくれました。エルミニアの彼(マニュエル)が、
オーストリアから遊びに来ていて、
「バルセロナの町を案内するから、一緒に行こう」と
言ってくれました。でも、その日の夕方、電車の中で
知り合ったチリの女性と会う約束をしていて、
「日本人の友人と市内観光するから今日は行けない」と
マニュエルに嘘をつき、チリ人との集合場所に行きました。
チリの女性達と街中を歩いていると、
男性2人が話しかけてきました。彼らとチリ女性の一人が、
スペイン語で親しそうに話をし、皆で一緒に行動しようと
言い出しました。私は、彼らの容姿とスペイン語力に
嫉妬を感じ、「3人だけで遊びに行こう」と反対
したのですが、一人の彼女が「じゃ、ノリオ1人で
遊びに行ったら」と言いました。
私が好意を持っていた女性(パトレシア)は、
反対したのですが、もう一人の女性が、彼らとさっさと
歩き出しました(写-29)。結局、私1人が取り残されました。
その夜、失恋(私が勝手に恋をしたと思っていただけです)の
痛手で、落ち込んだ状態で、エルミニアの部屋に戻りました。
エルミニア達は、私を歓待する為に料理を作り待っていて
くれました。私が昼間と比べ、元気がないので、
具合が悪いのか心配してくれました。
私は嘘をついた事と失恋した事を話しました。すると、マニュエルが、私の昼間の彼らに対する態度、言葉がだめである事、
女性の口説き方を一生懸命に教えてくれました。
スペイン語がほとんど理解できませんでしたが、
自分が嘘を言って、マニュエルの誘いを断ったことを、
怒られると思っていたのに、私を慰めてくれた事に、
非常に感激しながら聞いていました。夕食後、彼らが、
私の為に女の子を誘って遊びに行こうと言ってくれました
(写-30)。一緒にディスコに行った女の子の中に、
14歳のアンナという女性がいました。もっと長い間、
滞在したかったのですが、バルセロナを出発しました。
そして、イタリアに行きました。シチリア等は景色も綺麗で、人々が親しみやすく、親切でした。後で、
マフィアの里であると聞き驚きました。ナポリでは、
泊めてもらっていた女性に、旅行中、良く使った言葉、
「私は、空手を習っていて、黒帯のタイトルを持っている」
と話しました(写-31)。実際は、高校の体育の授業で、
柔道の授業があったくらいです。この話を聞いて、
彼女が「私の彼も空手を習っているので、
日本人の空手家と会うと喜ぶわ」と、私が、反対するのに、
彼を家に呼びました。彼の身長は2m近くあったと思います。
体格も丈夫そうな中南米系の男性でした。彼が試合を
したいと言い出しました。試合をすると、
空手を知らない事がすぐばれるか、怪我、最悪は殺される
と思いました。とっさに、「道場、以外で試合をすると、
黒帯を取り上げられる」と以前、聞いた話を、
イタリア語で話しました。その時は、イタリア語が自然と
口から出てきました。その話を聞いて、彼がすごく
感心してくれました。その夜の夕食は豪華でした。
いつもなら、泊めてもらった最初の夜は、空手、歌舞伎の話をし、明日も泊めてくれたらカレーを作ってあげると、
1週間位泊めてもらうのですが、さすがに、その夜は、
早く朝になり出て行くことばかり考えていました。
鉄道パスの期限も切れるので、フランス、ドーバーを渡り、
イギリスのヒースロー空港でキャンセル待ちをし、
ニューヨークに行きました。ニューヨークから、
ヒッチハイクでロサンゼルスまで行く予定でしたが、
疲れもあり、グレイハンド・バスで旅する事にしました。
途中、ユタ州のソルトレイクシティに寄り、
前回の滞在中に友達になった、女子高生の家に2週間程、
泊めてもらいました。高校生達と、釣り、ハイキング、
そして、初めての射撃を体験しました(写-32)。
そしてロスからハワイに行き、日本を出発して丁度、
1年になる日まで滞在しました。ハワイでは
モーターボートでカジキ釣りに連れて行って
もらいましたが、残念ながら何も釣れませんでした。
約2週間滞在し、黒く焼けて(写-32)
成田にランディングしました。当時は、無事に着陸すると、
自然と拍手が起こりました。この旅で、800枚の写真を撮り、
毎日、日記を書き、2週間に1度は両親に手紙を送りました。
旅行費用は、成田⇔ロスの往復航空券18万円を日本で支払い、
旅行中、持ち歩いた、トラベラーチェック90万円が、帰国後、
換金すると70万円残っていました。たまたま、
出発時は1ドル150円だったのが、1ドル200円になり
ラッキーでした。約38万円で、かけがえのない体験、
多くの友人、そして自分自身の成長と自信をつける事が
出来ました。もちろん、私を泊めてくれた人々、
食べ物をくれた人々、ヒッチハイクさせてくれた人々、
話をした全ての人々の親切とパワーをもらった事で、
成し遂げられた旅でした。
*次号の20年後の再会も、是非一読下さい。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 自転車 ヒッチハイク
- 航空会社
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(写真-①)ロサンゼルスで泊めてもらった家。オレンジカウンティという地区にあり、プールもありました。I stop a college one year for my travel.First place I stay,it has swimming pool in the house in orange county LA. in 1979.
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(写-②)rvine大学の教室で、左から先生、フランス人、日本人。Adult school where we can learn English free.I went to school by bicycle for 35 miles one way from the house.I could learn in English.
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(写-③)英語教室の仲間達です。イラン人が多く、皆、金持ちでした。1セントはお金ではないと捨ててました。English class in San Francisco.There are Iranian, They are very rich.They throw away penny in the fountain. But I didn't pick up the money. I had a pride of hitchhiker.
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(写-④)ビクトリア島です。ロンドンと同じ二階建てバスも走ってました。I stay San Francisco, Tacoma, Seatle, & Vancouver.Picuture is Bictoria island near Vancuver.
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(写-⑤)ジャスパーの山並みです。大橋巨泉の店がバンフにあり、繁盛してました。Roky mountains.
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(写-⑥)泊めてもらってた家族が、夏季休暇でイエローストーン国立公園に行ったので、一緒に連れて行ってもらいました。First experience for water ski in Yellow Stone.Scenery is so beautiful. Nature is Great!!!
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(写-⑦案)21歳の誕生日に、ケーキを作ってくれました。20年後に再会できるとは思いもしなかったです。My host famiry made a cake for my Birthday.We didn't know we will meet again after 20years.
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(写-⑧)友達の馬に乗せてもらったのですが、急に、走り出し、線路を飛び越えてかなり走りました。「手綱を右に引け」と友達が叫び、その通りにすると右側の土手を上がり、止まりました。First riding horse,Suddenly running >>>>>But I still alive becouse I write this Home Pase.
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(写-⑨)ソルトレイクの高校生達です。皆、自分の意思をはっきり示し、しっかり者でした。
*居候生活で、気を付けるのが、食べ物が欲しい時は、遠慮せずに「はい、食べたいです」とはっきり言いましょう! 一度「いいえ、結構です」と言ったらその日の、ご飯は抜きです。これがなかなか難しかったです。特に京都育ちの私は「いいえ、結構です」と自然に口が答えてしまってました。Friends of Salt Lake City Utah.They are high school students. -
エビィの娘のシャーラが、高校の卒業式にくれた、招待状です。毎日、私の健康を祈ってくれてるそうです。Evie's daughter Miss Shaleah.This is graduation party's card at 2005.We contact by e-mail now.
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(写-⑩)泊めてもらってた家の女子校生です。彼女が使っていたウオーターベットを見、寝て、すごく感激しました。少し、船酔い気味になりますが・・・She is a high school student at 1979.Named Evie .Now She has 5 children.
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(写-⑪)この夫婦は、6ヶ月程、働いてお金を為、次の町へ働きに行く生活をしていました。メイン州の次は、ケニヤに行くとのことでした。He is mental Docter. They live many coutry,next palce is keniya Afrika.
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(写-⑫)綺麗な景色の中にある病院でした。患者さんも自由に行動し、会話してました。Mental hospital in Main State.I stay here. There are Jesus Christ,Hitler(president of Germany at World War Ⅱ) & so on.
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(写-⑬)主人が陶芸家なので、良い場所があれば、引越しする生活をしていました。海君は、日本語を話します。Nova scosia in Canada.So So So beautifule place.
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(写-⑭)リンダと教会の前で写しました。別れる時に、又、何処かで必ず会おうと約束しました。Front of Unifinication church in Cicago.I wash a dish insteed of sleepig place.
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(写-⑮)この写真に写ってる他に、ドイツからニュージャージーに引っ越してきた、おばあちゃんと犬が一匹いました。おばあちゃんのドイツ語なまりの英語が、解らなかったですが、とても陽気なおばあちゃんでした。They are so nice family in New jajy(N.Y.C)
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(写-⑯)カレーライス作りに失敗し、何日か後に、すき焼き風鍋を作りました。今度は、まあまあの出来でした。I cooked SUKIYAKI.
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(写-⑰)ニュージャージーの大学内にある、英語学校の学生達です。日本人の奥さんから、カレーの作り方や、お菓子をもらいました。Wife of Japanese bisinessman at adult school.They teach me how to cook curry rice.
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(写-⑱)自由の女神よりも、可愛い女性でした。She is prety than statue of liberty.
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(写-⑲)今は無き、ワールドトレードセンターです。That was World trade center,I love peace.
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(写-20)ワシントンメモリアルです。天気も良く、美しかっです。Washington Memoryal.Washinton DC is nice city espcialy for me. Ther are many free place musiam and so on.
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(写-21)リンカーンメモリアル。ロッキーのロケが、あって、あまり日が経ってない頃だと思います。Rinkarn memorial.I running stairs like Roky Balmoa.
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(写-22)パリの凱旋門。物価が高いのと、英語で話してくれないので、苦労しました。フランス人は母国の文化と言語に非常に誇りを持っています。私の、大学での第二外国語はフランス語でした・・・Triumphal srch in Paris.at that time cap nudlle was 600yen(6$) fo one.
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(写-23)リスボンの町並み。丘の上の公園で、モルモン教の宣教師と現地の若者と、6人程で、人生観について、熱く語らいました。内容は覚えていませんが、皆、それぞれに、意見を持っていて、それぞれに納得して、お互いに理解しあえました。City of Lisbon
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(写-24)ポルトガルの海岸。夜汽車で、暗いうちに街について、海岸に向けて歩いていくと、すごく明るい、景色に出会いました。お父さんと散歩に来ていた、子供が兜蟹(かぶとがに)を触ろうとしたので、「ワァッ!!」と声を出し、脅かすとすごくびっくりして泣き出しました。兜蟹は死んでいて、動かなかったので、「脅かしてごめん、死んでいるから大丈夫」とあやまりました。Atlantic Ocean from Lisbon.
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(写-25)ジブラルタル海峡をフェリーで渡るときに、カナダ人と一緒になりました。Ship to Afrika.
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(写-26)アフリカ大陸のスペイン領、テュアナの市場。Territory of Spain in Afrika
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(写-27)カサブランカのモスク(教会)Church of Casablanka in Moroco.
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(写-28)グラナダのアルハンブラ宮殿の坂ノ下にあった、コテージを経営していたおばあさんと、孫のモニカ。同じ泊り客だった男性にバルセロナの友人の住所を、教えてもらいに彼の部屋にノックもせずに入りました。彼は、彼女とベットの中にいました。彼がシーツの中から、手だけを出して、住所の書いた紙を渡してくれました。お互い、顔を見ずに、「幸運を、又、何処かで会おう」と言い分かれました。Monika is so prety in Granada
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(写-29)電車の中で知り合った、2人のチリ人女性。3人共、気が合い、バルセロナで、彼女たちのホテルの部屋に泊まるようにすすめられました。紹介された人が、泊めてくれなければ、泊めてもらう事にしました。パトレシアは、純情でやさしく、可愛い女の子でした。もう1人のシルビアは、しっかり者で、社交的でした。Patorecia is cute in Barcelona.
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(写-30)バルセロナの陽気な仲間です。特に、オーストリア人のマニュエルは、顔、スタイルが良く、気の良い男でした。コンタクトレンズを道に落とし、何人かの人達が、そこを通ったので、もう何処かに飛んで行ったか、壊れたとあきらめた時に、マニュエルが何を落としたか聞いてきました。当時は、コンタクトレンズは販売されて間もなく、スペインでは販売されてなかったかもしれません。彼は、通行人を止めてくれ、見たこともないレンズを探してくれました。30分後、彼が見つけてくれました。分かれる時に、彼と、「永遠の友達でいよう」と約束しました。One of my best friends in Barcerona.We cold mee again after 20 years.
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(写-31)左端の彼女の彼と、空手の試合をするところでした。ボルビア人だったと思います。良く、とっさに言い訳が出来たと我ながら感心します。
*言葉についてですが、ヨーロッパ旅行中は、何かを話すときは、まず、英語で考え、スペイン語・イタリア語等に、頭で訳して話してました。帰国後、サラリーマン生活では、英語を話す機会がなく、あまり理解できなくなっていました。最近、スペインに行き、スペイン語を、苦心しながら話すと、当時のように英語で考えて話しているようで、英語が無理なく理解でき、話せるようになりました。Friends of Boribia in Itary.I felt 2 times very scarerd experiense in my travel. one of it in here. -
(写-32)ソルトレイクシティで泊めてもらっていた家の息子と射撃をしました。ライフルを撃つと肩に衝撃がきました。その息子(ジョン)は当時13歳の悪ガキで、私と8歳違うのですが、完全に同レベルの友達扱いでした。その悪ガキの彼は、現在、社会福祉施設で一生懸命に働いています。It was so shok when I shot a rifle in Salt Lake City.Johe(junior high school student) is brather of my friend,he was bud boy,Now he works at social weafer'institution.
-
(写-33)ハワイのワイキキビーチで、いつもの様に、女性の背中に手を廻し、写真を撮りました。もちろん、今は、家内や娘すら、この様に写してはくれません。My last place Hawaii.I back to Japan. Thank you very much for all of my friends. Good Luck !!!
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