2005/09/09 - 2005/09/09
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こまちゃんさん
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常書鴻の勤めた初代敦煌文物研究院跡を見学してきました。
一緒に来た維吾爾人の姉妹も出てきます。
朝の出発から、帰ってきた敦煌市内の様子まで長々と綴ります。
お暇なら寄ってって下さい。
(暇じゃないからサヨナラって言わないで〜)
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朝11時。
出発前に車のチャーター。
知人が忙しいと言う事で、その人の友人を紹介して貰った。
すると、敦煌では超珍しい緑色のサンタナ。
しかも綺麗に磨かれていますね。
「流しなんかも、他の連中みたいにせこせこしないよ。殆どクチコミで予約を貰うからね」
人柄にも余裕が感じられました。 -
道中、空を眺めると雲が多い天気。
でも、悪天候ではありません。
朝という事もあって、まだ雲が切れていないようです。
敦煌の朝は11時頃まで凄く涼しく清々しいので、日本の7時みたいに感じます。 -
莫高窟が見えてきました。
北面の最先端です。
「老裴」と言う人が働いていた小屋が見えています。
(写真左端) -
この橋を渡り、楼門をくぐって入り口へ向かいます。
-
「石室寶藏」と書かれた楼門。
これは昔からの建造物です。
年に数回化粧直しされます。 -
莫高窟入り口正面玄関の楼門裏側。
同じ文字が書かれています。(^^ -
そこから中を眺めると、窟の上、砂漠の所に野鳩が2羽。
片方をアップで。
(もう片方は枝に隠れています。)
さて今日はまず、この間莫高窟を見そびれてしまった維吾爾人の姉妹を、莫高窟見学へ送り出し、我々は柵外から今日の莫高窟の様子を眺めてから、自分たちの目的、常書鴻に関する歴史資料があると言う「旧敦煌研究院跡」へ向かいます。
では、先に莫高窟の様子を少し見てみましょう。 -
そこから見える428窟。
2階部分になります。
現在(2005年9月)、床面の改装中で拝観出来ません。 -
その左横の427窟。
門扉の上に硝子張りがありますが、そこから天井画が見えています。 -
同じくその左(南)側の景色。
427窟の上にある表壁の壁画が綺麗に見えていますね。
一部剥がれ落ちているので残念ですが、表なのでどうしようもないようです。 -
欄干越しの風景しか撮れないのが辛いですね。。。
今日は老人を敬う活動「夕陽紅」の日。
色んな都市から、沢山の夕陽紅軍団が来ていました。
では、我々の莫高窟はこの辺で切り上げて、9層楼の向かいにある研究院跡へ向かいます。 -
常書鴻の足跡が、ここで色々判る。
敦煌研究院旧館、初代敦煌文物博物館跡の玄関です。
場所は、9層楼前の広場を更に南(9層楼に向かって左)に入ってすぐ向かい側の寺院のような建物です。 -
常書鴻の辧公室。
その写字台(事務机)。
ここに座って仕事をしていたんですね。 -
その向かい側に置かれている、常書鴻の油絵。
雪山登山風景が好きな彼。
日本に寄贈した壁画も、よく似た内容です。 -
莫高窟の保護作業資料室。
歴代の保存作業の経緯が資料化されています。
昔の写真も沢山あり、途中で台湾に脱出した画家張大千などと撮した写真もあります。 -
張大千展室。
画家、張大千の部屋だった所。 -
張大千が、自分の部屋の壁に落書きした竹の墨絵。
大部分が消えていましたが、下の方には墨のまま、上の方は済み部分がはげ落ちて白くなっていました。 -
院内。
手前の大きな樹木は梨の木です。 -
生活の全てが自給自足。
自前で穀物も精製していました。 -
莫高窟の壁画に用いられる自然顔料。
180種類有ります。 -
その顔料をアップしてみました。
-
ここは、世界から寄せられた寄付の寄贈者を紹介する資料室。
左側に見えている人物は、日本著名画家平山郁夫。
彼は、1969年に2億円寄付している。個人では最高額。
現在価値だとかなりの額ですね・・・
日本政府は莫高窟に、初期の大規模保護援助で、柵や門などの建設に1950〜60年代に4億円投資している。
日本人は割引拝観にしても良いくらいだ。 -
同じくその資料室風景。
-
常書鴻の油絵展示室。
フランスで鍛えた画法が冴える。
フランス生活後、戦乱の中国に帰国した彼、その頃の心の乱れを表すような作品が沢山あった。
怒り、嘆き、哀しみを、口に出せない時代背景で、彼は絵にして描いていた。
タイトルは、聞こえが言いものばかりだけど、見れば戦乱と国政歪みの世界に身を浸してしまった自分を見つめながら、莫高窟保護に身を投げた自分を後悔しない為の礎にしているようにも感じた。 -
奥にある常書鴻記念室。
入り口の入り組みに体を隠して撮影。
爺ぃがポーズを取るので、ばれないうちに!!
幸い明るかったので、セルフタイマーは不要だった。
室内写真は手持ちで撮影なので、全てセルフターマー使用。 -
今日の9層楼。
莫高窟の拝観は、最低でも2時間懸かります。
資料館は、烏魯木齊から来た維吾爾人姉妹を待っている間に1時間半懸けて見て居ましたが、まだ時間がありました。
なので、こうした「無人風景」も撮れちゃいます。 -
その位置から振り返って広場を撮影。
石碑は日本著名画家平山郁夫が2億円寄付した事を記念して立てられたもの。
両サイドに2個有る。 -
姉妹が戻ってきましたので、9層楼の左脇で記念撮影。
出る前に中での撮影をしておかないと、一度出ると入れて貰えない。 -
帰り道。
この橋の向こうには陳列中心があるので、寄ってみる事に。 -
橋のたもと、陳列中心へ向かう方向から見える「旧標識」。
1996年に来た時には、この石標識がメインになっていたもの。 -
陳列中心へ向かう途中。
脇にある花壇には、コスモスが咲き乱れていた。
今年の天候は異常続き。
今日も39℃の高温日だが、やはり季節は秋なんだ・・・と感じる瞬間。 -
そこから振り返ると、莫高窟の全貌が見えてくる。
陳列中心へ向かう道は、少し高くなっている。
実は、以前はここに常書鴻の墓が置かれていた。
今は奥の砂漠へ移動している。
お墓参りはこちらで紹介しています。
http://4travel.jp/traveler/chinaart/album/10032201/ -
陳列中心への裏口のスロープ。
裏口になるこちらからも入れます。
ここから入ると2階になります。 -
入ってすぐの所に、チベット仏教展示会が。
-
陳列中心正面玄関から出てきました。
前にある駐車場に、緑色のサンタナが見えていました。
この車は見つけやすくて良かったです。 -
緑のサンタナで帰宅する我々。
得意の「箱乗り撮影」で、莫高窟を出てまもなくの道路を撮影。 -
振り返ると祁連山の山並み。
頂上に見えているとんがった建物は寺院です。
まだ莫高窟が無かった頃、この寺院の住職で由緒ある和尚さんが、今の莫高窟の位置に輝く一筋の光を見付けた。
その光を発見した和尚さんは、その地に降りてきてみると、そこは何と潤いのある土地だった。
砂漠の際に、この様な土地がある事など考えも付かない事だった。
この輝きを聖霊の導きと感じ取った和尚さんは、佛に感謝し、この地で佛を敬う事にして仏像をあしらい、大壁画群を築くことを決意した。
それが後世に渡って掘り続けられたが、晋代を最後に途切れて仕舞い、暫くは砂中に埋もれて仕舞う事になったのだ。 -
腹が減ったので腹ごしらえ。
この伊香苑餐庁は、面の美味しい穴場。
(勝手に穴場と思っているけど、現地の人は皆知っているのでした。(^^;ゞ)
砂鍋中心のお店でもある。
(砂鍋:小さな土鍋で仕上げた料理。色んな材料のものがある) -
店の中で出会った人たち。
我々の他に2組いた。
正確には「2人」(一人ずつの客)
そのウチの回民のお爺さん。
回民はイスラム教なので、清真料理しか食べない。 -
こちらはクマのような地元のおじさん。
爺ぃが「水滸伝のキャストにこういう人が使えるな」と言っていた。
確かにその食べ方も超豪快そのもの。
何と、手が見えないじゃないか! -
こちらは・・・・・
夜市に現れる熊猫、地元の怪しい絵描き。
。(*o☆)\バキッ!
爺ぃと熊おじさんが漢族、お爺さんは回族、烏魯木齊姉妹が維族、そしてこまは日本人。
この瞬間に4民族共存。。。
それがどうした?? -
姉妹を見送りに長途汽車站(長距離バス停)へ。
ここは敦煌市内の南手にあるバスターミナルです。 -
そこから見た町の風景。
至る所に飛天の図柄、図案。
敦煌は、飛天の故郷でもあるそうです。 -
バスターミナルの向かいにある「廣源大酒店」。
昨年利用したホテルです。
シングル200元ちょいで結構綺麗なホテルで、星無しですが3星級です。
出来て2年目の若いホテル。
玄関にある白い獅子が目印。
ホテル前に車も停められます。 -
桃売りおばちゃん。
敦煌では、三輪車リヤカーでの果物売りも多いです。
ちなみに、この三輪車は300元です。
誰も聞いてないって? -
中国名物「放学(下校)風景」。
写真は小学校です。
何処でもこうして親が迎えに来る。
日本みたいな集団下校はないみたい。
今の日本から考えれば、この方が子供が安全なのかも。
中国ではそう言う目的でやっている訳ではないけど。 -
このために会社を途中で抜けて来られます。
そう言う文化が浸透しないと、実現出来ない習慣ですね。 -
今日は晴れていましたが、やはり朝からの雲の多い感じはそのままでした。
写真は中央ロータリーでは飛天(反弾琵琶)の像。 -
そのロータリーから見た沙州市場のある方向。
5時一寸過ぎなので、もうすぐ下班(退社)ラッシュ。 -
暮れ始めた日差しを受けて輝く飛天商場。
初めは百貨店ビルと思ったけど、雑貨店や専門店が雑居するビルだった。。。
でも、それがホントの「百貨」店ですよね。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 花やんさん 2005/09/15 21:30:09
- 常書鴻先生の家族のその後について。
- 常書鴻先生と息子さんは不幸な人生で終わられたと聞いていますが、何かニユースをお聞きしましたのでしょうか?
- こまちゃんさん からの返信 2005/09/16 01:41:47
- RE: 常書鴻先生の家族のその後について。
- 花やんさん、書き込み有り難う御座います。
常書鴻さんの一生で、一番の苦痛は文革時代です。ご臨終近くの生涯は、お孫さんに見恵まれ、日本との交流も順調、世界が莫高窟を見つめてくれている中、特にその様な事は無いはずです。
ちなみに、1994年6月ご逝去。
息子さんも特にこれと言って聞いていませんし、次男の常嘉煌さんに関しては、21世紀の莫高窟製作と銘打って、新莫高窟の製作に、日夜勤しんで居られます。
ご長女の常沙娜さんは、唯一表の大舞台で活躍されている方で、中央工芸美術学院院長をされています。温厚で大らかな優しい女性です。
奥さんの李承仙さんは、最近の2003年8月、79歳でお亡くなりになりました。フランス帰りの常書鴻さんは、決意した莫高窟での偉業を成し遂げるべく敦煌に来ましたが、時代背景と今程有名ではなかった莫高窟自体、生活環境すら思わしくない条件下、奥さんは彼の元を去りました。
それでも一人、意志を全うすべく頑張っている常書鴻さんと、同じく莫高窟の保護に生涯を傾けて居た李承仙さんを再婚、その後の生活は彼女有っての賜だったようです。戦争が終結し、時代が彼らを報いました。世界各国が莫高窟を注目し、その保護に一躍援助、やがて1987年12月には世界遺産にも認定され、その保護は世界規模に・・・
苦しい文革での母国からの仕打ちに耐え続け、守り通した莫高窟が、今も世界から愛されて居るのは、彼らが居たからこそなんです。
こちらは、お二人の関係を記した頁の一例です→ http://www.nitchu-yuko.net/zoumimibun111.htm
もしご興味が有られましたら、彼の自伝が翻訳されて出ていますので、是非ご覧下さい。こまは、「九十春秋」と言う、中文版の彼の自伝で涙しました・・・。(;_;
日本人の翻訳になるので、中国の根底的な苦労描写が不完全かも知れません。中国人の文革による蔑まされ方は、日本人には理解しきれない異常さがありますから。
(日本語版の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31538057)
長々と申し訳ありませんでした。
彼の事は一言では語れないものですので、ご了解願います。
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