徳山・周南旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《2017.May》あみんちゅその日に決めた弾丸バス&レンタカーの旅~後編~<br /><br />スマホのアラームで起きました。本当はもうしばらく寝ていたいのですが、夜の長距離移動までして訪れようとした場所を諦めたくはありません。6:30からの朝食をガッツリ頂いた後、荷物を纏めてホテルを後にします。車はホテル駐車場に停めたままにして向かった先は徳山港です。途中にあるセブンイレブンでモーニングコーヒーと一服を済ませて港に到着します。九州国東半島へのフェリーの出発地としても知られていますが、今回利用するのは大津島巡航です。瀬戸内海にぽっかりと浮かぶ小さな島である大津島。滋賀県民が呼ぶならば間違いなく『おおつしま』ですが、どうやら地元では『おうづしま』と呼ばれているようでした。限界集落としても知られているこの大津島ですが、昭和19(1944)年9月1日に悪化の一途を辿る戦局を変えるべく日本海軍が開発した最初の特攻兵器『回天』の基地が置かれました。その記念館と遺構が残る場所を訪れるべく、徳山港からフェリー乗船し旅が始まります。徳山港の出航時刻は7:40、それに合わせて朝起きをするのは結構辛いことでした。かと言って京都発の夜行バスが徳山駅前に到着するのは7:45。若干早着してなんとか間に合うかもという時刻です。しかし広島行きの夜行バスを利用すると広島~徳山間は新幹線の利用となり、結局徳山一泊を入れないとうまく行程が組めません。徳山港の乗船口はすぐにわかるものの、肝心なチケットブースがわかりません。乗組員氏に聞いて急いで馬島までのチケットを購入し、フェリー新大津島に乗り込みます。この時間でのフェリー運航は、大津島の生活に合わせてというより本土都合によりごみ収集車等が島に向かう『意味合い』が強くあり、観光客の目線には立っていません。生活のためのサービスゆえ、それは仕方がないと割り切って潮風に吹かれながら『船旅』を楽しんでいるとそのうちに刈尾へと入港します。そして徳山出航後約40分で終点の馬島港に到着しました。<br /><br />船を下りるとすぐに『回天』所縁のものがいくつも目に入ります。看板や観音像…、70余年前に若き特攻隊員であふれていた島は、訪れる観光客も少ない小さな過疎集落となっており、その数少ない観光客を歓迎するかの如く存在感を呈していました。集落内の道路を歩きながら回天記念館を目指します。その道筋にある周南市立大津島小学校、現在在校生がいないため休校となっている建物は以前回天の組み立て工場跡地だったそうです。その脇の道は『何かの痕跡』を残す人工的な壁がありました。次第に急な坂道になり、この坂の上り下りが訓練だったと書かれている標識が残っています。<br /><br />そして頂上部にあったのが『回天記念館』になります。旧回天搭乗訓練員の宿舎跡に昭和43(1968)年にオープンしたこの回天記念館、入場料300円を払って入館したのは私の他1人だけでした。回天搭乗員の遺書や遺品、そして思い出の品などが収められている記念館の建物外には戦死した搭乗員の名前が書かれている碑が並ぶ通路が記念館入口へと誘います。見学にどれくらいの時間が掛かるかは人によってかなり左右されるとは思いますが、私の場合1時間程で記念館を見学し周辺の遺構を回ることにします。馬島港へと戻る途中から山手に進むと山道となり、暑い位の日差しを受けて歩くとすぐ息が切れてしまいます。こういう時だけ『タバコはやめよう…』と思いますが、休憩しもって歩くこと約30分で鬣山頂上になんとか到着します。<br /><br />頂上に聳える『未来の風』のモニュメント…、これがどういうきっかけで個々に建立されたのかは知りませんが、これを見るためだけにこの山道を歩く人があるとも思えません。なので僅かな滞在の後に右手海側に進むと四角いコンクリート建ての建物がポツンとあるのを確認します。『魚雷見張所』、回天の訓練や付近の海の様子を見るための建物だったそうです。ただ放置されているといった感はどうしても拭えず、残念な落書きも数か所確認できました。残念な気持ちは払拭できませんでしたがそれも現実ゆえカメラに収めて港を目指します。<br /><br />ヘタレに下りはもってこいです♪気持ちまでハイになってきますから(笑)。山を下っているときに馬島港を後にする高速艇『鼓海Ⅱ』の出航が目に入りました。てっきりこの船が徳山からやってきて、大津島のどこかの港まで行って帰ってくるんだろう…なんて呑気に考えていました。なんせケータイも圏外だし情報なんて仕入れられない場所だったので…。そして平地まで下りてきて、右に進めば『回天訓練基地(魚雷発射試験場)』、左に進めば港というところで改めて船の時間を確認してビックリ(@_@。さっき写真に収めた高速艇が徳山港行きであり、それに乗る〝はず〟だったことが判明します。気付いた時間も遅かったのですが、船の時間を一時間間違っていたとは…さすがB型です…。でも落ち込まず時間ができたので発射場へも行ってみます。回天を運んだトンネルには当時を偲ぶ写真の他に、人が通ると説明が流れる仕様になっています。暗闇からの突然の声にビックリしました(笑)。トンネルを抜けたところにいかにも人工的に作られた建物が目に入ります。これが目的の回天訓練基地・魚雷発射試験場跡になりますが、戦時中に使用した痕跡が良く見ると未だ確認できる『傷』となって残っているものもあります。『回天記念館』のHPが新しくなり、今までの『手作り感満載』だったものから新しくなりました。味気はなくなったものの大津島に残る回天をはじめとした『戦跡』についてかなり細かく書かれており、何を根拠にして計算していたのだろうと思える『所要時間計算ツール』も姿を消しました。しかし大津島にいることのできる時間から行くことができる史跡が結構具体的に挙げられています。そんなものを目にしないで行ってしまった大津島でまさかの『乗り遅れ』をきしたおバカ約1名でした。<br /><br />回天訓練基地・魚雷発射試験場跡を後にして馬島港へと戻って来るものの次の船まで1時間あります。ただ5月半ばと言えど結構暑くなってきました。地図を見ながら行けるところを探すものの『歩く』しか手段がない島では、往復1km位が限界でしょう。たまたま待合所にふれあいセンターにて『レンタサイクル』のあることが書かれており、要予約とは書かれているもののそれより『開いているのか』という風に横を通った時に思ったので、電話をしてみるとお留守のような…。結局に的周辺を歩いたりしながら1時間経ってしまい、船室の中で折り返しの電話が入ってきました。がすでに遅し…行きと同じフェリー新大津島の乗客となって折り返し、13:44に徳山港へと戻って来ました。<br /><br />ただ船に乗り遅れたことで2時間徳山に戻るのが遅くなりました。そして今晩帰ることも決まっています。残った時間でどれだけカバーリングできるかはやって見ないとわかりません。という訳で一旦車に戻ってナビを設定し直し、周防大島への道程を選択します。平日の昼間ですが徳山の街は道路が混雑しています。まあそれは仕方がないのでナビの示す道を素直に進み、山陽道徳山東インターから再び高速を利用します。行きと同様下松サービスエリアで一服休憩を入れた後は、私には珍しくノンストップで運転を続け、玖珂インターからはひたすらまっすぐな一般道をひた走り、山陽本線とオーバーパスする形で周防大島町へと入ります。海沿いの喉かな道はドライブにはもってこいの風景ではあるのですが、目的地の閉館時間が気になってそれどころではありません。制限速度以下でちんたら走る『軽トラ』を煽ってはいけないと思いながらもどうしても車間距離を詰めてしまいます。そんなマナーの悪い運転を続けて約2時間、周防大島町『陸奥記念館』へとやって来ました。昭和18(1943)年6月8日記念館の沖4kmの地点で突如謎の爆発を起こして沈没した『戦艦陸奥』所縁の品々を展示するものとして旧東和町が昭和47(1972)年に作った『陸奥記念館』を平成6(1994)年に現在地に移したものだそうです。やっと来られた…という『安堵の想い』と『時間が』…という複雑な気持ちの中で見学してきましたが、まあもう一回は来ないといけないとは思うものの、なんとかミッションクリアはできました。閉館に合わせて出てきた後、付近の慰霊碑や記念物を見学して、本日のラストミッションを終了させます。<br /><br />後は広島へと戻るだけですが途中平野郵便局で旅行貯金をし、1時間程走行して元ドライブインのようなところで一服休憩をします。そのまま2号線を走行し、岩国市街で一旦給油をします。このまま下道だと返車時刻に間に合わないとみえたので県境を超えた広島県の大竹インターより山陽道へと入ります。ただ…ここら辺りが行きに曖昧にしたままだったのが悪かった…。本来なら廿日市インターで降りて一般道を走行するのを勘違いして五日市方面へと走ってしまいました。気がついたのは宮島サービスエリアに着いたとき。逆走もできないので仕方がなしに五日市インターまで走ってから、広島市を縦断するように遠回りをするルートを取って広島駅近くへ…。給油をして無事返車はできたものの予定30分遅れでした…ゴメンネ…。<br /><br />お借りしたマツダのFLAIRはAZ-WAGONの後継機種だと思うのですが、軽自動車のトールワゴンの中では結構走る車になると思います。今回のように高速走行すると車種によっては馬力不足でスピードが出ず、アクセルベタ踏みしても制限スピードが維持できなかったりと、走り続けることが辛いと思うことも多々ありました。ただ今回は思いの外走る車だったので、必要以上にイライラすることもなく走ることができ、393kmの道程を無事完走することができました。ただ営業時間を超過してしまったことで今後貸してもらえないことはあるかも知れませんが(笑)。まあそんな感じで無事今回のアクティビティは終了し、後は帰るだけとなりました。<br /><br />レンタカー営業所前にあるユメマート二葉の里店。いわゆる地元のチェーンスーパーなのですが、手軽に食品が購入できる場所としてなにかと使い勝手のあるお店です。戻りの時間が遅れたため、閉店時間が21:00迄のお店が多い広島駅界隈では、お弁当を購入して食べるのには便利です。今回はその目的で利用しました。ただ残念なことにお土産の品揃えはあまりなく、広島と言えば『もみじ饅頭』しか知らないうちの店舗スタッフへのお土産にするにも『広島出身者』がひとり在籍しているため、なんでもいい訳でもありません。そんな現実的な理由もあり、今回の旅は?扱いで出ている理由を託けて『お土産なし』を決め込みます(汗)。勿論何も買わないで店をうろつく程肝っ玉は太くはないので、普段なら悩むことなく買ってしまう『飲み物』を選んで購入し、頃合いを見計らって出発します。<br /><br />広島という街はどうも私にとっては『異郷』とイメージが凄くある場所です。今回で4回目となりますが、1・2回目は車と飛行機で出発しているため、街を歩いた訳ではありません。そして3回目となる前回は、バス停である広島駅南口がわからず路頭に迷いかけました。4回目となった今回は初めて『新幹線口』というのが『北口』であることを知りました。でも大きな駅にある『南北自由通路』が駅構内ではなく、地下道であることは歩きながら知ったことのひとつです。現在駅構内の工事が終わると地上で行き来できるようになるようですが、それはそれでまたわかり辛くなるのでは…なんて思ったりもします。とにかく『新幹線口』から地下へと潜り『南口』へと出ればあとは知った道なので、広島駅南口バス停にほぼ予定通り15分前に到着します。<br /><br />今回帰りの足に選んだのは前回利用した『JAMJAMLINER』です。全体的な評価も高いとは言えず、前回の利用でも『なんでかな~』という印象を持ったバスではあるのですが、とにかく値段は安いのは確かです。広島~大阪間の3列シートが4,000円という破格に加えて、クーポンやポイントを使えば3,200円程度になります。まあドライバーさんによるものが大きく左右する元ツアーバスなので、今回はそのようなことがないように願って乗車します。<br /><br />夜行バスのドライバーさんにしては珍しく女性でした。夜行バスの運行にはあまり就かれないとは聞いていたものの、この運転士不足の時代に男も女もないのかも知れません。預ける荷物もなく座席を確認して乗車します。1D席、運転席すぐ後ろの最前列です。今回は行きが1Aで帰りが1Dと最前列尽くめです。安いこともあるのか結な乗客数があるようです。この後東福山で乗車の取扱いをすることも考えればほぼ満席のように思います。ただツアーバスの良いところは有無を言わさず定刻には出発すること。路線バスは空きさえあればお金を払って乗ることができることもあり、また寸前に予約変更をした記録がすぐに反映しないこともあり、確認するのに少々時間が掛かったりすることもあります。という訳で今回もバスの乗客となり、後は大阪を経由して自宅に帰るだけとなりました。JAMJAMLINER JX522便は22:16に広島駅南口バス停を静かに出発し、東へと走って行きました。<br /><br />実は乗ってしばらくして前回とは違うことに気付きます。東福山に到着するのは0:00前となることもあり、広島駅を出発するとすぐに全体照明が落とされました。なのでうとうとすることもできたのですが、今回はフルライティングのまま走るようです。乗客数が多いことも影響しているのかも知れませんが、車内トイレもついていないこの車両で、動く必要もないように思えます。若しくはドライバー氏の判断によるものなのか…とも思うものの結局一乗客がどうこうできることではないため、東福山迄の1時間40分を煌々と車内照明が点いたままの状態で過ごしました。そして23:55に出発し、すぐに消灯するも15分程で最初の休憩地である篠崎パーキングエリアに到着する際には、足元灯が点灯されます。何にもしていないのになぜか目が疲れてしまうような気がしてきてしまい、トイレ&一服を済ませるとさっさとバス車内に戻ってきて寝る準備をし、明日の朝梅田に到着してからに備えることにします。既に日は変わっていますがこれで行動しまくった一日が終わりますzzz。<br /><br />《車中泊》<br /><br />ふと目が覚めました。当然梅田だろうと思いきやまさかの三木サービスエリアでした。実は目が覚めた理由は足元の冷えに気付いたことによるものでした。アイドリングストップの義務付けはわかっているものの、最近のバスはメインエンジンとエアコン用のサブエンジンが分かれておらず、エンジンを切った途端空調まで切れてしまうものもあるとは聞いていましたが、一般の路線バスの話で夜行バスにそのような車両が導入されていることは知りませんでした。結局20分程の滞在時間中にずっと扉が開いている時間吹きっさらしの状況で目が覚めてしまい、下りることもないのに起きていなければならない状況下に置かれてしまいました。扉を閉めてバスは出発するも一旦下がった室温はすぐには戻らず、車内温度を見越して薄着したことを悔やみながらもう一度寝ることにしました。<br /><br />熟睡感は勿論ありませんが車内アナウンスで梅田のモータープールへの到着が告げられます。朝6:00ですが寒くは既にありません。二回乗って満足できないバスには少々料金が安くてももう二度と利用したくはありません。あ~ば~よ~っと思いながら大阪駅を目指しますが、途中で灰皿のあるファミマを発見し一服した後にすき家を発見し朝食と行きます。『納豆浅漬け朝食ご飯大盛』はいつもと変わらぬメニューですが、私にとっては至極のヒトトキです♪<br /><br />お腹もいっぱいになってからもう一服し、大阪駅へとやって来ました。ここまで来るのにいつも時間を要しますが、珍しく今日はタイムロスがありません。大阪駅には6:50に到着し、6:55の快速に乗車します。この時間まだ京都まで快速なので敢えて空いている快速に乗りました。そして京の都を通り過ぎ、南淡海の国へと戻って来ます。7:49田舎駅到着、出勤のために忙しなく歩いている方を尻目に逆方向へと歩いて行きます(笑)。そして7:58の田舎団地行きバスに乗車し15分、ど田舎我が家へと到着します。さあ4時間後には再度出勤するため駅へと向かわなければなりません。船の乗り遅れと帰りのバスという致命的な問題に直面しましたがなんとか帰ってこられました。その気分に浸るまでもなく地獄の5連勤が待っています(汗)。<br /><br /><br />こんな感じで『ヘタレあみんちゅその日に決めた弾丸バス&レンタカーの旅~後編~』は終わります。

《2017.May》ヘタレあみんちゅその日に決めた弾丸バス&レンタカーの旅~後編~

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2017/05/16 - 2017/05/19

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

《2017.May》あみんちゅその日に決めた弾丸バス&レンタカーの旅~後編~

スマホのアラームで起きました。本当はもうしばらく寝ていたいのですが、夜の長距離移動までして訪れようとした場所を諦めたくはありません。6:30からの朝食をガッツリ頂いた後、荷物を纏めてホテルを後にします。車はホテル駐車場に停めたままにして向かった先は徳山港です。途中にあるセブンイレブンでモーニングコーヒーと一服を済ませて港に到着します。九州国東半島へのフェリーの出発地としても知られていますが、今回利用するのは大津島巡航です。瀬戸内海にぽっかりと浮かぶ小さな島である大津島。滋賀県民が呼ぶならば間違いなく『おおつしま』ですが、どうやら地元では『おうづしま』と呼ばれているようでした。限界集落としても知られているこの大津島ですが、昭和19(1944)年9月1日に悪化の一途を辿る戦局を変えるべく日本海軍が開発した最初の特攻兵器『回天』の基地が置かれました。その記念館と遺構が残る場所を訪れるべく、徳山港からフェリー乗船し旅が始まります。徳山港の出航時刻は7:40、それに合わせて朝起きをするのは結構辛いことでした。かと言って京都発の夜行バスが徳山駅前に到着するのは7:45。若干早着してなんとか間に合うかもという時刻です。しかし広島行きの夜行バスを利用すると広島~徳山間は新幹線の利用となり、結局徳山一泊を入れないとうまく行程が組めません。徳山港の乗船口はすぐにわかるものの、肝心なチケットブースがわかりません。乗組員氏に聞いて急いで馬島までのチケットを購入し、フェリー新大津島に乗り込みます。この時間でのフェリー運航は、大津島の生活に合わせてというより本土都合によりごみ収集車等が島に向かう『意味合い』が強くあり、観光客の目線には立っていません。生活のためのサービスゆえ、それは仕方がないと割り切って潮風に吹かれながら『船旅』を楽しんでいるとそのうちに刈尾へと入港します。そして徳山出航後約40分で終点の馬島港に到着しました。

船を下りるとすぐに『回天』所縁のものがいくつも目に入ります。看板や観音像…、70余年前に若き特攻隊員であふれていた島は、訪れる観光客も少ない小さな過疎集落となっており、その数少ない観光客を歓迎するかの如く存在感を呈していました。集落内の道路を歩きながら回天記念館を目指します。その道筋にある周南市立大津島小学校、現在在校生がいないため休校となっている建物は以前回天の組み立て工場跡地だったそうです。その脇の道は『何かの痕跡』を残す人工的な壁がありました。次第に急な坂道になり、この坂の上り下りが訓練だったと書かれている標識が残っています。

そして頂上部にあったのが『回天記念館』になります。旧回天搭乗訓練員の宿舎跡に昭和43(1968)年にオープンしたこの回天記念館、入場料300円を払って入館したのは私の他1人だけでした。回天搭乗員の遺書や遺品、そして思い出の品などが収められている記念館の建物外には戦死した搭乗員の名前が書かれている碑が並ぶ通路が記念館入口へと誘います。見学にどれくらいの時間が掛かるかは人によってかなり左右されるとは思いますが、私の場合1時間程で記念館を見学し周辺の遺構を回ることにします。馬島港へと戻る途中から山手に進むと山道となり、暑い位の日差しを受けて歩くとすぐ息が切れてしまいます。こういう時だけ『タバコはやめよう…』と思いますが、休憩しもって歩くこと約30分で鬣山頂上になんとか到着します。

頂上に聳える『未来の風』のモニュメント…、これがどういうきっかけで個々に建立されたのかは知りませんが、これを見るためだけにこの山道を歩く人があるとも思えません。なので僅かな滞在の後に右手海側に進むと四角いコンクリート建ての建物がポツンとあるのを確認します。『魚雷見張所』、回天の訓練や付近の海の様子を見るための建物だったそうです。ただ放置されているといった感はどうしても拭えず、残念な落書きも数か所確認できました。残念な気持ちは払拭できませんでしたがそれも現実ゆえカメラに収めて港を目指します。

ヘタレに下りはもってこいです♪気持ちまでハイになってきますから(笑)。山を下っているときに馬島港を後にする高速艇『鼓海Ⅱ』の出航が目に入りました。てっきりこの船が徳山からやってきて、大津島のどこかの港まで行って帰ってくるんだろう…なんて呑気に考えていました。なんせケータイも圏外だし情報なんて仕入れられない場所だったので…。そして平地まで下りてきて、右に進めば『回天訓練基地(魚雷発射試験場)』、左に進めば港というところで改めて船の時間を確認してビックリ(@_@。さっき写真に収めた高速艇が徳山港行きであり、それに乗る〝はず〟だったことが判明します。気付いた時間も遅かったのですが、船の時間を一時間間違っていたとは…さすがB型です…。でも落ち込まず時間ができたので発射場へも行ってみます。回天を運んだトンネルには当時を偲ぶ写真の他に、人が通ると説明が流れる仕様になっています。暗闇からの突然の声にビックリしました(笑)。トンネルを抜けたところにいかにも人工的に作られた建物が目に入ります。これが目的の回天訓練基地・魚雷発射試験場跡になりますが、戦時中に使用した痕跡が良く見ると未だ確認できる『傷』となって残っているものもあります。『回天記念館』のHPが新しくなり、今までの『手作り感満載』だったものから新しくなりました。味気はなくなったものの大津島に残る回天をはじめとした『戦跡』についてかなり細かく書かれており、何を根拠にして計算していたのだろうと思える『所要時間計算ツール』も姿を消しました。しかし大津島にいることのできる時間から行くことができる史跡が結構具体的に挙げられています。そんなものを目にしないで行ってしまった大津島でまさかの『乗り遅れ』をきしたおバカ約1名でした。

回天訓練基地・魚雷発射試験場跡を後にして馬島港へと戻って来るものの次の船まで1時間あります。ただ5月半ばと言えど結構暑くなってきました。地図を見ながら行けるところを探すものの『歩く』しか手段がない島では、往復1km位が限界でしょう。たまたま待合所にふれあいセンターにて『レンタサイクル』のあることが書かれており、要予約とは書かれているもののそれより『開いているのか』という風に横を通った時に思ったので、電話をしてみるとお留守のような…。結局に的周辺を歩いたりしながら1時間経ってしまい、船室の中で折り返しの電話が入ってきました。がすでに遅し…行きと同じフェリー新大津島の乗客となって折り返し、13:44に徳山港へと戻って来ました。

ただ船に乗り遅れたことで2時間徳山に戻るのが遅くなりました。そして今晩帰ることも決まっています。残った時間でどれだけカバーリングできるかはやって見ないとわかりません。という訳で一旦車に戻ってナビを設定し直し、周防大島への道程を選択します。平日の昼間ですが徳山の街は道路が混雑しています。まあそれは仕方がないのでナビの示す道を素直に進み、山陽道徳山東インターから再び高速を利用します。行きと同様下松サービスエリアで一服休憩を入れた後は、私には珍しくノンストップで運転を続け、玖珂インターからはひたすらまっすぐな一般道をひた走り、山陽本線とオーバーパスする形で周防大島町へと入ります。海沿いの喉かな道はドライブにはもってこいの風景ではあるのですが、目的地の閉館時間が気になってそれどころではありません。制限速度以下でちんたら走る『軽トラ』を煽ってはいけないと思いながらもどうしても車間距離を詰めてしまいます。そんなマナーの悪い運転を続けて約2時間、周防大島町『陸奥記念館』へとやって来ました。昭和18(1943)年6月8日記念館の沖4kmの地点で突如謎の爆発を起こして沈没した『戦艦陸奥』所縁の品々を展示するものとして旧東和町が昭和47(1972)年に作った『陸奥記念館』を平成6(1994)年に現在地に移したものだそうです。やっと来られた…という『安堵の想い』と『時間が』…という複雑な気持ちの中で見学してきましたが、まあもう一回は来ないといけないとは思うものの、なんとかミッションクリアはできました。閉館に合わせて出てきた後、付近の慰霊碑や記念物を見学して、本日のラストミッションを終了させます。

後は広島へと戻るだけですが途中平野郵便局で旅行貯金をし、1時間程走行して元ドライブインのようなところで一服休憩をします。そのまま2号線を走行し、岩国市街で一旦給油をします。このまま下道だと返車時刻に間に合わないとみえたので県境を超えた広島県の大竹インターより山陽道へと入ります。ただ…ここら辺りが行きに曖昧にしたままだったのが悪かった…。本来なら廿日市インターで降りて一般道を走行するのを勘違いして五日市方面へと走ってしまいました。気がついたのは宮島サービスエリアに着いたとき。逆走もできないので仕方がなしに五日市インターまで走ってから、広島市を縦断するように遠回りをするルートを取って広島駅近くへ…。給油をして無事返車はできたものの予定30分遅れでした…ゴメンネ…。

お借りしたマツダのFLAIRはAZ-WAGONの後継機種だと思うのですが、軽自動車のトールワゴンの中では結構走る車になると思います。今回のように高速走行すると車種によっては馬力不足でスピードが出ず、アクセルベタ踏みしても制限スピードが維持できなかったりと、走り続けることが辛いと思うことも多々ありました。ただ今回は思いの外走る車だったので、必要以上にイライラすることもなく走ることができ、393kmの道程を無事完走することができました。ただ営業時間を超過してしまったことで今後貸してもらえないことはあるかも知れませんが(笑)。まあそんな感じで無事今回のアクティビティは終了し、後は帰るだけとなりました。

レンタカー営業所前にあるユメマート二葉の里店。いわゆる地元のチェーンスーパーなのですが、手軽に食品が購入できる場所としてなにかと使い勝手のあるお店です。戻りの時間が遅れたため、閉店時間が21:00迄のお店が多い広島駅界隈では、お弁当を購入して食べるのには便利です。今回はその目的で利用しました。ただ残念なことにお土産の品揃えはあまりなく、広島と言えば『もみじ饅頭』しか知らないうちの店舗スタッフへのお土産にするにも『広島出身者』がひとり在籍しているため、なんでもいい訳でもありません。そんな現実的な理由もあり、今回の旅は?扱いで出ている理由を託けて『お土産なし』を決め込みます(汗)。勿論何も買わないで店をうろつく程肝っ玉は太くはないので、普段なら悩むことなく買ってしまう『飲み物』を選んで購入し、頃合いを見計らって出発します。

広島という街はどうも私にとっては『異郷』とイメージが凄くある場所です。今回で4回目となりますが、1・2回目は車と飛行機で出発しているため、街を歩いた訳ではありません。そして3回目となる前回は、バス停である広島駅南口がわからず路頭に迷いかけました。4回目となった今回は初めて『新幹線口』というのが『北口』であることを知りました。でも大きな駅にある『南北自由通路』が駅構内ではなく、地下道であることは歩きながら知ったことのひとつです。現在駅構内の工事が終わると地上で行き来できるようになるようですが、それはそれでまたわかり辛くなるのでは…なんて思ったりもします。とにかく『新幹線口』から地下へと潜り『南口』へと出ればあとは知った道なので、広島駅南口バス停にほぼ予定通り15分前に到着します。

今回帰りの足に選んだのは前回利用した『JAMJAMLINER』です。全体的な評価も高いとは言えず、前回の利用でも『なんでかな~』という印象を持ったバスではあるのですが、とにかく値段は安いのは確かです。広島~大阪間の3列シートが4,000円という破格に加えて、クーポンやポイントを使えば3,200円程度になります。まあドライバーさんによるものが大きく左右する元ツアーバスなので、今回はそのようなことがないように願って乗車します。

夜行バスのドライバーさんにしては珍しく女性でした。夜行バスの運行にはあまり就かれないとは聞いていたものの、この運転士不足の時代に男も女もないのかも知れません。預ける荷物もなく座席を確認して乗車します。1D席、運転席すぐ後ろの最前列です。今回は行きが1Aで帰りが1Dと最前列尽くめです。安いこともあるのか結な乗客数があるようです。この後東福山で乗車の取扱いをすることも考えればほぼ満席のように思います。ただツアーバスの良いところは有無を言わさず定刻には出発すること。路線バスは空きさえあればお金を払って乗ることができることもあり、また寸前に予約変更をした記録がすぐに反映しないこともあり、確認するのに少々時間が掛かったりすることもあります。という訳で今回もバスの乗客となり、後は大阪を経由して自宅に帰るだけとなりました。JAMJAMLINER JX522便は22:16に広島駅南口バス停を静かに出発し、東へと走って行きました。

実は乗ってしばらくして前回とは違うことに気付きます。東福山に到着するのは0:00前となることもあり、広島駅を出発するとすぐに全体照明が落とされました。なのでうとうとすることもできたのですが、今回はフルライティングのまま走るようです。乗客数が多いことも影響しているのかも知れませんが、車内トイレもついていないこの車両で、動く必要もないように思えます。若しくはドライバー氏の判断によるものなのか…とも思うものの結局一乗客がどうこうできることではないため、東福山迄の1時間40分を煌々と車内照明が点いたままの状態で過ごしました。そして23:55に出発し、すぐに消灯するも15分程で最初の休憩地である篠崎パーキングエリアに到着する際には、足元灯が点灯されます。何にもしていないのになぜか目が疲れてしまうような気がしてきてしまい、トイレ&一服を済ませるとさっさとバス車内に戻ってきて寝る準備をし、明日の朝梅田に到着してからに備えることにします。既に日は変わっていますがこれで行動しまくった一日が終わりますzzz。

《車中泊》

ふと目が覚めました。当然梅田だろうと思いきやまさかの三木サービスエリアでした。実は目が覚めた理由は足元の冷えに気付いたことによるものでした。アイドリングストップの義務付けはわかっているものの、最近のバスはメインエンジンとエアコン用のサブエンジンが分かれておらず、エンジンを切った途端空調まで切れてしまうものもあるとは聞いていましたが、一般の路線バスの話で夜行バスにそのような車両が導入されていることは知りませんでした。結局20分程の滞在時間中にずっと扉が開いている時間吹きっさらしの状況で目が覚めてしまい、下りることもないのに起きていなければならない状況下に置かれてしまいました。扉を閉めてバスは出発するも一旦下がった室温はすぐには戻らず、車内温度を見越して薄着したことを悔やみながらもう一度寝ることにしました。

熟睡感は勿論ありませんが車内アナウンスで梅田のモータープールへの到着が告げられます。朝6:00ですが寒くは既にありません。二回乗って満足できないバスには少々料金が安くてももう二度と利用したくはありません。あ~ば~よ~っと思いながら大阪駅を目指しますが、途中で灰皿のあるファミマを発見し一服した後にすき家を発見し朝食と行きます。『納豆浅漬け朝食ご飯大盛』はいつもと変わらぬメニューですが、私にとっては至極のヒトトキです♪

お腹もいっぱいになってからもう一服し、大阪駅へとやって来ました。ここまで来るのにいつも時間を要しますが、珍しく今日はタイムロスがありません。大阪駅には6:50に到着し、6:55の快速に乗車します。この時間まだ京都まで快速なので敢えて空いている快速に乗りました。そして京の都を通り過ぎ、南淡海の国へと戻って来ます。7:49田舎駅到着、出勤のために忙しなく歩いている方を尻目に逆方向へと歩いて行きます(笑)。そして7:58の田舎団地行きバスに乗車し15分、ど田舎我が家へと到着します。さあ4時間後には再度出勤するため駅へと向かわなければなりません。船の乗り遅れと帰りのバスという致命的な問題に直面しましたがなんとか帰ってこられました。その気分に浸るまでもなく地獄の5連勤が待っています(汗)。


こんな感じで『ヘタレあみんちゅその日に決めた弾丸バス&レンタカーの旅~後編~』は終わります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 朝食は1階のレストランにて頂きます。

    朝食は1階のレストランにて頂きます。

    東横イン徳山駅新幹線口 宿・ホテル

  • いつもよりもはちょっと少なめかな・・・。でも美味しかった!

    いつもよりもはちょっと少なめかな・・・。でも美味しかった!

    東横イン徳山駅新幹線口 宿・ホテル

  • お世話になりました。

    お世話になりました。

    東横イン徳山駅新幹線口 宿・ホテル

  • 徳山港に移動してフェリー大津島に乗船します。

    徳山港に移動してフェリー大津島に乗船します。

  • 朝一便のフェリーには業務車両が多いようです。

    朝一便のフェリーには業務車両が多いようです。

  • 思いの外空いていた船内。

    思いの外空いていた船内。

  • 馬島港に到着しました。先に車両から下船します。

    馬島港に到着しました。先に車両から下船します。

    馬島港 乗り物

  • 主要場所にはちゃんと表示がされていました。

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  • 馬島港ターミナル。チケットと品物の販売所です。

    馬島港ターミナル。チケットと品物の販売所です。

  • https://youtu.be/UgC3kQQ82bQ

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  • 大津島案内図。

    大津島案内図。

  • やはり特攻の島です。

    やはり特攻の島です。

  • 港付近にある大津島公園の案内図。軽く見てしまったので後から痛い目にあいます・・・。

    港付近にある大津島公園の案内図。軽く見てしまったので後から痛い目にあいます・・・。

  • 回天記念館に至る道中に、回天乗務員が訓練に使った『地獄の階段』があります、

    回天記念館に至る道中に、回天乗務員が訓練に使った『地獄の階段』があります、

  • 現在は入ることはできませんが、ヘタレは入ろうとも思いません。

    現在は入ることはできませんが、ヘタレは入ろうとも思いません。

  • 大津島のルート案内図。

    大津島のルート案内図。

  • ヘタレには回天記念館への道のりも十分堪えます。

    ヘタレには回天記念館への道のりも十分堪えます。

  • 回天記念館の謂れです。

    回天記念館の謂れです。

  • 回天記念館の入口。入口手前に大津島回天碑及び回天記念館沿革が書かれていました。以下に碑文を転記します。<br /><br />大津島回天碑及び回天記念館沿革<br /><br />1 昭和20年11月10日 最初の回天記念碑建立<br />終戦時、当回天基地内務長であった吉田忠太郎氏が奔走し、民家より大型庭石の寄贈を受け、之を礎石とし、地区住民協力の下に現碑の近くへ運び建立した。<br /><br />2 昭和30年11月8日 戦後第1回慰霊祭<br />戦後10年目を迎え元隊員有志が回天碑前に集合したが、碑石は何者かにより破砕埋没され既に無く、残った台石上に供物を捧げ、第1回の慰霊供養を行い、以後毎年行うことを約し実行されている。<br /><br />3 昭和35年11月20日 回天碑再建<br />回天碑の忘失に心を痛めた徳山郷友会会長梅田利一氏他地元有志は協議の上、碑再建を計画。<br />募金(目標300万円)を全国的に行い、回天発案者黒木博司氏の遺書中より回天の文字を選んで黒髪石の碑面に刻し再建した。<br /><br />4 昭和37年7月20日 回天顕彰会発足<br />昭和37年3月東京都に於て関係者会合時、長井満氏の発議により協議決定し、諸準備の後発足した。<br />当初本部 東京都 初代会長 清水光美氏<br /><br />5 昭和43年11月20日 回天記念館完成<br />回天顕彰会発足により烈士の遺品収集と展示維持する記念館の建設を急ぐことになり、前者は既に徳山市毛利勝郎氏が自主的に実施しており、これを支援、後者は小冊子「回天」を作成し、これを趣意書と共に有償頒布し、その益金を充当することで準備を行い、昭和40年10月頒布活動を開始した。<br />しかし、なお建設資金の充当に困難であったため、徳山を本拠とし回天記念館建設賛助会を昭和43年1月設立。<br />渡辺久氏、原田耕作氏等の献身的努力によって全国より浄財1,962万円が寄せられこれを基に記念館は完成した。<br />建設に際しては徳山市・防衛庁・大津島馬島地区民の絶大な理解と協力があり、完成後これらは徳山市に寄贈され、以後徳山市で維持管理されている。<br /><br />6 昭和43年12月1日 大津島社会教育振興会発足<br />徳山市から委託された回天記念館の管理運営組織として発足し、高松工氏を会長に、島のあらゆる団体の代表者で構成され、以来、島を挙げて記念館の善良な維持管理と、島に遺された歴史遺産の保存・継承に努め、もって地域の発展向上に尽力した。<br />平成10年3月31日、記念館の徳山市教育委員会直営化に伴い、その使命を終え、解散した。<br /><br />7 昭和63年11月20日 回天記念館の拡張・改修・整備完成<br />当初の記念館では尚遺品の展示場所が不足しており、且つ永久保存対策、更に烈士銘碑等周辺問題等もあって顕彰会会長兄部勇次氏、副会長吉本信夫氏他理事はこれらの改善のための全国募金を行い、4,733万円の浄財を集め徳山市に寄付。<br />市により設備工事が行われた。<br /><br />8 平成3年11月20日 回天搭載戦没潜水艦乗員顕彰碑完成<br />回天攻撃を実施するため出撃し戦没した潜水艦乗員の慰霊もあわせて実施すべきと千治松彌太郎氏の発議があり、顕彰会会長山本昌巳氏他理事は募金を行い、浄財401万円を得て回天碑左に側碑の形で建碑した。<br /><br />9 平成7年7月 回天(基地)を保存する会結成<br />太平洋戦争終結50年の年に当たり、山口県・徳山市は回天基地跡の整備計画を実施されることとなり、その資金の一部を補うため、内山實氏を代表とする有志十数名は回天(基地)を保存する会を設立し、同年10月より募金活動を開始した。<br />平成10年8月15日までに4,138万円の浄財を広く全国より集め、次の事案を実施した。<br />一、回天発射訓練基地跡の案内設備及び隧道内パネル設置<br />一、回天記念館資料の保存支援(黒木博司氏嘆願血書レプリカ作製等)<br />一、説明内容等の映像化事業<br />尚、この整備事業並びに募金残額は平成10年11月8日、徳山市に寄贈した。<br /><br />10 平成10年11月8日 回天記念館の拡張・改修・整備完成<br />回天(基地)を保存する会による整備事業とあわせ、市は収蔵庫の増築、研修室の整備など大幅な館の拡張・改修を行った。<br />また展示場を全面改修し、展示構成を一新。<br />運営の徳山市教育委員会直営化とあわせ、世界の恒久平和を願う施設として整備した。<br /><br />平成10年11月8日<br />回天顕彰会

    回天記念館の入口。入口手前に大津島回天碑及び回天記念館沿革が書かれていました。以下に碑文を転記します。

    大津島回天碑及び回天記念館沿革

    1 昭和20年11月10日 最初の回天記念碑建立
    終戦時、当回天基地内務長であった吉田忠太郎氏が奔走し、民家より大型庭石の寄贈を受け、之を礎石とし、地区住民協力の下に現碑の近くへ運び建立した。

    2 昭和30年11月8日 戦後第1回慰霊祭
    戦後10年目を迎え元隊員有志が回天碑前に集合したが、碑石は何者かにより破砕埋没され既に無く、残った台石上に供物を捧げ、第1回の慰霊供養を行い、以後毎年行うことを約し実行されている。

    3 昭和35年11月20日 回天碑再建
    回天碑の忘失に心を痛めた徳山郷友会会長梅田利一氏他地元有志は協議の上、碑再建を計画。
    募金(目標300万円)を全国的に行い、回天発案者黒木博司氏の遺書中より回天の文字を選んで黒髪石の碑面に刻し再建した。

    4 昭和37年7月20日 回天顕彰会発足
    昭和37年3月東京都に於て関係者会合時、長井満氏の発議により協議決定し、諸準備の後発足した。
    当初本部 東京都 初代会長 清水光美氏

    5 昭和43年11月20日 回天記念館完成
    回天顕彰会発足により烈士の遺品収集と展示維持する記念館の建設を急ぐことになり、前者は既に徳山市毛利勝郎氏が自主的に実施しており、これを支援、後者は小冊子「回天」を作成し、これを趣意書と共に有償頒布し、その益金を充当することで準備を行い、昭和40年10月頒布活動を開始した。
    しかし、なお建設資金の充当に困難であったため、徳山を本拠とし回天記念館建設賛助会を昭和43年1月設立。
    渡辺久氏、原田耕作氏等の献身的努力によって全国より浄財1,962万円が寄せられこれを基に記念館は完成した。
    建設に際しては徳山市・防衛庁・大津島馬島地区民の絶大な理解と協力があり、完成後これらは徳山市に寄贈され、以後徳山市で維持管理されている。

    6 昭和43年12月1日 大津島社会教育振興会発足
    徳山市から委託された回天記念館の管理運営組織として発足し、高松工氏を会長に、島のあらゆる団体の代表者で構成され、以来、島を挙げて記念館の善良な維持管理と、島に遺された歴史遺産の保存・継承に努め、もって地域の発展向上に尽力した。
    平成10年3月31日、記念館の徳山市教育委員会直営化に伴い、その使命を終え、解散した。

    7 昭和63年11月20日 回天記念館の拡張・改修・整備完成
    当初の記念館では尚遺品の展示場所が不足しており、且つ永久保存対策、更に烈士銘碑等周辺問題等もあって顕彰会会長兄部勇次氏、副会長吉本信夫氏他理事はこれらの改善のための全国募金を行い、4,733万円の浄財を集め徳山市に寄付。
    市により設備工事が行われた。

    8 平成3年11月20日 回天搭載戦没潜水艦乗員顕彰碑完成
    回天攻撃を実施するため出撃し戦没した潜水艦乗員の慰霊もあわせて実施すべきと千治松彌太郎氏の発議があり、顕彰会会長山本昌巳氏他理事は募金を行い、浄財401万円を得て回天碑左に側碑の形で建碑した。

    9 平成7年7月 回天(基地)を保存する会結成
    太平洋戦争終結50年の年に当たり、山口県・徳山市は回天基地跡の整備計画を実施されることとなり、その資金の一部を補うため、内山實氏を代表とする有志十数名は回天(基地)を保存する会を設立し、同年10月より募金活動を開始した。
    平成10年8月15日までに4,138万円の浄財を広く全国より集め、次の事案を実施した。
    一、回天発射訓練基地跡の案内設備及び隧道内パネル設置
    一、回天記念館資料の保存支援(黒木博司氏嘆願血書レプリカ作製等)
    一、説明内容等の映像化事業
    尚、この整備事業並びに募金残額は平成10年11月8日、徳山市に寄贈した。

    10 平成10年11月8日 回天記念館の拡張・改修・整備完成
    回天(基地)を保存する会による整備事業とあわせ、市は収蔵庫の増築、研修室の整備など大幅な館の拡張・改修を行った。
    また展示場を全面改修し、展示構成を一新。
    運営の徳山市教育委員会直営化とあわせ、世界の恒久平和を願う施設として整備した。

    平成10年11月8日
    回天顕彰会

  • 大津島まで乗って来たフェリーが徳山港へと向かっています。

    大津島まで乗って来たフェリーが徳山港へと向かっています。

  • 浮きつ島鼓海を訪ふ/森繁久彌<br /><br />天を回せよ<br />今は嗚呼<br />鼓海の波は静かなり<br />その勲しの<br />あとや 哀し<br />大津島に鎮もれる<br />魂々よ<br />静かに思ふ<br />人生に無駄なものが<br />あらふか<br />眠れ友よ いかにも<br />碧き 海に

    浮きつ島鼓海を訪ふ/森繁久彌

    天を回せよ
    今は嗚呼
    鼓海の波は静かなり
    その勲しの
    あとや 哀し
    大津島に鎮もれる
    魂々よ
    静かに思ふ
    人生に無駄なものが
    あらふか
    眠れ友よ いかにも
    碧き 海に

  • 回天碑。この回天の文字は、訓練中の事故で殉死した黒木博司少佐の遺書から書き起こされたものになります。

    回天碑。この回天の文字は、訓練中の事故で殉死した黒木博司少佐の遺書から書き起こされたものになります。

  • 回天烈士の芳名碑(以下碑文を転記、芳名略)。<br /><br />大東亜戦争年をかさねて苛烈を加え物量漸く乏しきを告げて前途暗澹たりし時愛国の至誠弱冠にして早くも危急を予感し忠孝の純情一身を献じて狂爛を既倒に回さんとし前代未聞の兵器必死必勝の戦法を創案して従容自ら之を操縦遂行せしもの即ち是れ回天の勇士なり。<br /><br />惜しい哉時既におそく戦勢を一転せしむるに至らざりしと雖も事敵の意表に出でて其心膽を寒からしめよく皇国の命脈を危殆の中に護持せしもの其の功偉なりと言ふべし。<br /><br />ここに回天献身の勇士の氏名を録し以って芳を千秋に傳ふ。<br /><br />回天烈士芳名(略)

    回天烈士の芳名碑(以下碑文を転記、芳名略)。

    大東亜戦争年をかさねて苛烈を加え物量漸く乏しきを告げて前途暗澹たりし時愛国の至誠弱冠にして早くも危急を予感し忠孝の純情一身を献じて狂爛を既倒に回さんとし前代未聞の兵器必死必勝の戦法を創案して従容自ら之を操縦遂行せしもの即ち是れ回天の勇士なり。

    惜しい哉時既におそく戦勢を一転せしむるに至らざりしと雖も事敵の意表に出でて其心膽を寒からしめよく皇国の命脈を危殆の中に護持せしもの其の功偉なりと言ふべし。

    ここに回天献身の勇士の氏名を録し以って芳を千秋に傳ふ。

    回天烈士芳名(略)

  • 回天。

    回天。

  • 回天断面略図。

    回天断面略図。

  • 回天。

    回天。

  • 93式酸素魚雷のエンジン。終戦時に海中に投棄されたものが引き揚げられた実物です。

    93式酸素魚雷のエンジン。終戦時に海中に投棄されたものが引き揚げられた実物です。

  • それでは回天記念館に入館します。

    それでは回天記念館に入館します。

    回天記念館 美術館・博物館

  • 旭日旗と回天。

    旭日旗と回天。

    回天記念館 美術館・博物館

  • 黒木博司・仁科関男両少佐の遺言。黒木機関大尉は訓練中の事故で殉死して1階級、仁科中尉は回天による特攻で戦死し2階級特進でそれぞれ最終階級は少佐になっています。

    黒木博司・仁科関男両少佐の遺言。黒木機関大尉は訓練中の事故で殉死して1階級、仁科中尉は回天による特攻で戦死し2階級特進でそれぞれ最終階級は少佐になっています。

    回天記念館 美術館・博物館

  • 回天碑とたかティムさん。

    回天碑とたかティムさん。

  • ただの通路ではありません。両脇には回天で散華した殉死,戦死者の名前と出身地が刻まれたプレートが並べられています。

    ただの通路ではありません。両脇には回天で散華した殉死,戦死者の名前と出身地が刻まれたプレートが並べられています。

  • 展望広場のモニュメント『未来の風』。あんちょこなネーミングですが、大津島の暗い過去を払拭すべく名付けられたのだろうと思うので、それ以上は言いません・・・。

    展望広場のモニュメント『未来の風』。あんちょこなネーミングですが、大津島の暗い過去を払拭すべく名付けられたのだろうと思うので、それ以上は言いません・・・。

  • 展望広場からの眺望、その①。

    展望広場からの眺望、その①。

  • 展望広場からの眺望、その②。

    展望広場からの眺望、その②。

  • 展望広場からの眺望、その③。

    展望広場からの眺望、その③。

  • 展望広場からの眺望、その④。

    展望広場からの眺望、その④。

  • 展望広場から少し下った場所にある魚雷見張所。

    展望広場から少し下った場所にある魚雷見張所。

  • 魚雷見張所跡建物、その①。現在では高台にある廃墟にしか見えません・・・。<br /><br />魚雷見張所跡(以下由緒書より転記)<br />大津島には回天基地が設置される前、すでに九三式魚雷の発射試験を行うための整備工場がありました。<br /><br />この魚雷見張所は、宇部沖に向けて発射される魚雷を観測するために設けられたものです。<br />

    魚雷見張所跡建物、その①。現在では高台にある廃墟にしか見えません・・・。

    魚雷見張所跡(以下由緒書より転記)
    大津島には回天基地が設置される前、すでに九三式魚雷の発射試験を行うための整備工場がありました。

    この魚雷見張所は、宇部沖に向けて発射される魚雷を観測するために設けられたものです。

  • 魚雷見張所跡建物、その②。

    魚雷見張所跡建物、その②。

  • 魚雷見張所跡建物、その③。

    魚雷見張所跡建物、その③。

  • 魚雷見張所跡建物、その④。

    魚雷見張所跡建物、その④。

  • 魚雷見張所跡建物、その⑤。

    魚雷見張所跡建物、その⑤。

  • がらんとした室内からは素晴らしい景色が広がっています。

    がらんとした室内からは素晴らしい景色が広がっています。

  • 魚雷見張所から眺めた海、その①。

    魚雷見張所から眺めた海、その①。

  • 魚雷見張所から眺めた海、その②。

    魚雷見張所から眺めた海、その②。

  • 魚雷見張所から眺めた海、その③。

    魚雷見張所から眺めた海、その③。

  • 再びここまで上ってくる自信がないので、訪れた記録を残しておきます。

    再びここまで上ってくる自信がないので、訪れた記録を残しておきます。

  • 下山途中に見た高速艇はどこかに向かって折り返し、それに乗るとばかり思っていました。しか~し船の時間を勘違いしていたことにすぐに気付きました・・・。まさかの乗り遅れを期したおバカひとり・・・。

    下山途中に見た高速艇はどこかに向かって折り返し、それに乗るとばかり思っていました。しか~し船の時間を勘違いしていたことにすぐに気付きました・・・。まさかの乗り遅れを期したおバカひとり・・・。

  • やっと下山できました。

    やっと下山できました。

  • 時間ができたので、回天訓練基地跡に向かいます。

    時間ができたので、回天訓練基地跡に向かいます。

  • 回天訓練基地跡に向かうトンネルの中の様子。

    回天訓練基地跡に向かうトンネルの中の様子。

  • トンネルの途中には横穴が掘られています。空襲を確認するためだったとされています。

    トンネルの途中には横穴が掘られています。空襲を確認するためだったとされています。

  • このトンネルを回天はトロッコで運ばれました。

    このトンネルを回天はトロッコで運ばれました。

  • トンネルの壁には回天の写真が貼られています。個人的な意見ですが、この展開は凄く見た人間の心を打つように思いました。

    トンネルの壁には回天の写真が貼られています。個人的な意見ですが、この展開は凄く見た人間の心を打つように思いました。

  • 魚雷発射(試験)場跡碑。<br />この地より 海の砦として 若ものは逝く。

    魚雷発射(試験)場跡碑。
    この地より 海の砦として 若ものは逝く。

  • 回天訓練基地跡。

    回天訓練基地跡。

  • 大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡にて、たかティムさん。

    大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡にて、たかティムさん。

  • 回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

    回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

    回天訓練基地跡 名所・史跡

  • 大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡にて、たかティムさん。

    大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡にて、たかティムさん。

    回天訓練基地跡 名所・史跡

  • 回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

    回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

    回天訓練基地跡 名所・史跡

  • そろそろ港に戻ります。

    そろそろ港に戻ります。

  • 大津島公園から見た大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

    大津島公園から見た大津島回天訓練基地(魚雷発射試験場)跡。

  • 船に乗り遅れた結果、行きと同じフェリーで帰ります。

    船に乗り遅れた結果、行きと同じフェリーで帰ります。

    馬島港 乗り物

  • 片道710円也。

    片道710円也。

    馬島港 乗り物

  • 変わり映えはありません・・・。

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    馬島港 乗り物

  • フェリー大津島とたかティムさん♪

    フェリー大津島とたかティムさん♪

    馬島港 乗り物

  • やはり帰りも客室は空いています。

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    回天訓練基地跡 名所・史跡

  • 徳山港の港湾施設が見えてきました。

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  • 徳山の市街が見えてきました。都会に見えて仕方がありません。

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  • やはり下船は車から。

    やはり下船は車から。

  • 徳山港には回天の模型が置いてあります。

    徳山港には回天の模型が置いてあります。

  • 大津島巡航の社屋と回天。<br /><br />回天記念館の入館者数が増えているとホームページには書かれていますが、特攻というものに関心が集まっている割には大したことがないようにも思います。大津島自体限界集落であることを踏まえても、手軽に行けるように働きかければもっと来館者は増えるのではないでしょうか?<br /><br />勿論偏った思想の持ち主が来ることを望む訳ではありません。ただ交通の便の悪さから訪れることが不可能であるといった理由は改善できるのではないかと思います。回天記念館だけが遺構ではありません。島に残る多くの史跡を多くの方々に見てもらい、自分の心で感じて貰いたいという願望は理想論ではないと私は思います。

    大津島巡航の社屋と回天。

    回天記念館の入館者数が増えているとホームページには書かれていますが、特攻というものに関心が集まっている割には大したことがないようにも思います。大津島自体限界集落であることを踏まえても、手軽に行けるように働きかければもっと来館者は増えるのではないでしょうか?

    勿論偏った思想の持ち主が来ることを望む訳ではありません。ただ交通の便の悪さから訪れることが不可能であるといった理由は改善できるのではないかと思います。回天記念館だけが遺構ではありません。島に残る多くの史跡を多くの方々に見てもらい、自分の心で感じて貰いたいという願望は理想論ではないと私は思います。

  • 大津島巡航社屋。のんびり行きたいのですが、2時間予定より遅れているので次の目的地へと急ぎます。

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  • お世話になった東横イン。車は停めたままなので駐車場へと急ぎます。

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    東横イン徳山駅新幹線口 宿・ホテル

  • 徳山の市街が混雑していたため、下松サービスエリアで一息入れます。

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    下松サービスエリア 道の駅

  • 山陽自動車道を玖珂インターチェンジまで走行した後一般道をひた走り、やって来たのは周防大島町の自然休養林陸奥野営場です。

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    陸奥野営場 キャンプ場

  • 別に野営場が目的ではありません。

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    陸奥記念館【陸奥記念公園】 美術館・博物館

    悲劇の戦艦陸奥を語っています。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • この大きな錨・・・。

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  • やって来たのは陸奥記念館です。

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    陸奥記念館【陸奥記念公園】 美術館・博物館

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  • 陸奥記念館案内図。

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    陸奥記念館【陸奥記念公園】 美術館・博物館

    悲劇の戦艦陸奥を語っています。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 戦艦陸奥最期の艦長三好輝彦少将(戦死による特進)。<br /><br />昭和18(1943)年6月8日、柱島泊地に於いて戦艦陸奥が爆発により沈没しました。戦艦扶桑艦長に就任した海兵同期の鶴岡信道大佐のもとを訪ねた後陸奥に帰還し爆発に巻き込まれました。三好艦長を含めほとんどの犠牲者は溺死ではなく爆死であったようです。

    戦艦陸奥最期の艦長三好輝彦少将(戦死による特進)。

    昭和18(1943)年6月8日、柱島泊地に於いて戦艦陸奥が爆発により沈没しました。戦艦扶桑艦長に就任した海兵同期の鶴岡信道大佐のもとを訪ねた後陸奥に帰還し爆発に巻き込まれました。三好艦長を含めほとんどの犠牲者は溺死ではなく爆死であったようです。

    陸奥記念館【陸奥記念公園】 美術館・博物館

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  • 旧陸奥記念館の表札と鬼瓦。

    旧陸奥記念館の表札と鬼瓦。

    陸奥記念館【陸奥記念公園】 美術館・博物館

    悲劇の戦艦陸奥を語っています。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 野営場には海上自衛隊の対潜哨戒飛行艇〝PS-1〟が置かれています。海軍の二式大艇と誤記されているものもありますが、製作は二式大艇を作った川西飛行機(現新明和)に違いはないものの時代が違います。

    野営場には海上自衛隊の対潜哨戒飛行艇〝PS-1〟が置かれています。海軍の二式大艇と誤記されているものもありますが、製作は二式大艇を作った川西飛行機(現新明和)に違いはないものの時代が違います。

    陸奥野営場 キャンプ場

  • 戦艦陸奥について。

    戦艦陸奥について。

    陸奥公園 公園・植物園

    陸奥記念館がある公園です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 陸奥之碑。

    陸奥之碑。

  • 戦艦陸奥の推進機。いわゆるスクリューです。

    戦艦陸奥の推進機。いわゆるスクリューです。

  • 感銘碑。戦艦陸奥の不慮の事故によって轟沈したことが書かれていました。またこの矢印の先4.5kmの場所に陸奥は眠っています。

    感銘碑。戦艦陸奥の不慮の事故によって轟沈したことが書かれていました。またこの矢印の先4.5kmの場所に陸奥は眠っています。

  • 戦艦陸奥の副砲。

    戦艦陸奥の副砲。

  • 若鷲の碑(以下碑文より転記)。<br /><br />予科練とは海軍飛行予科練習生の略称なり。<br /><br />甲飛十一期生は昭和十七年十月一日全国より厳選され旧制中学(一六、七才)より五八五名土浦海軍航空隊に入隊す。<br /><br />昭和十八年六月八日 艦隊艦務実習の為、土浦航空隊より派遣の同期生一同は戦艦陸奥・長門・扶桑に分かれて乗艦、陸奥に乗艦せる同期生一三五名中一二四名が陸奥と運命を共にする。<br /><br />残る同期生一同は予科練卒業後、各戦闘航空隊に配属となり比島・台湾・南洋・沖縄本島・本土防衛の各航空戦、及び神風特別攻撃隊院として航空戦の主力として終戦までに二三七名が戦死することに至って、同期生のほぼ三分の二に当る計三六一名が散華する。<br /><br />昭和五十三年六月八日、生存同期生及び遺族により戦没同期生の鎮魂と恒久平和を祈念し、この緑の地に「若鷲の碑」を建立す。<br /><br />生存者の氏名も碑に刻んで有りますが、いずれ他界したらその魂はこの碑に戦没同期生と共に眠りたいとの念願から同期生全員の氏名を刻んで有ります。

    若鷲の碑(以下碑文より転記)。

    予科練とは海軍飛行予科練習生の略称なり。

    甲飛十一期生は昭和十七年十月一日全国より厳選され旧制中学(一六、七才)より五八五名土浦海軍航空隊に入隊す。

    昭和十八年六月八日 艦隊艦務実習の為、土浦航空隊より派遣の同期生一同は戦艦陸奥・長門・扶桑に分かれて乗艦、陸奥に乗艦せる同期生一三五名中一二四名が陸奥と運命を共にする。

    残る同期生一同は予科練卒業後、各戦闘航空隊に配属となり比島・台湾・南洋・沖縄本島・本土防衛の各航空戦、及び神風特別攻撃隊院として航空戦の主力として終戦までに二三七名が戦死することに至って、同期生のほぼ三分の二に当る計三六一名が散華する。

    昭和五十三年六月八日、生存同期生及び遺族により戦没同期生の鎮魂と恒久平和を祈念し、この緑の地に「若鷲の碑」を建立す。

    生存者の氏名も碑に刻んで有りますが、いずれ他界したらその魂はこの碑に戦没同期生と共に眠りたいとの念願から同期生全員の氏名を刻んで有ります。

  • 第十一期甲種飛行予科練習生戦没者記名板。585名の名前が刻まれているようです。戦艦陸奥の爆沈により124名が、その後終戦までに237名が戦死しており、361名が同期の中で亡くなっています。生き残った者も他界した際に同期戦没者とともに眠りたいという意味合いを込められているそうです。

    第十一期甲種飛行予科練習生戦没者記名板。585名の名前が刻まれているようです。戦艦陸奥の爆沈により124名が、その後終戦までに237名が戦死しており、361名が同期の中で亡くなっています。生き残った者も他界した際に同期戦没者とともに眠りたいという意味合いを込められているそうです。

  • 戦艦陸奥の副砲。

    戦艦陸奥の副砲。

  • 戦艦陸奥艦首(以下碑文より転記)。<br /><br />これは菊のご紋章がさん然と輝いていた、陸奥<br />最先端の部分を高さ2.0m、長さ4.8m、幅5.0mに切断したもので、重さ約16トンあります。<br /><br />昭和47(1972)年2月20日引揚

    戦艦陸奥艦首(以下碑文より転記)。

    これは菊のご紋章がさん然と輝いていた、陸奥
    最先端の部分を高さ2.0m、長さ4.8m、幅5.0mに切断したもので、重さ約16トンあります。

    昭和47(1972)年2月20日引揚

  • 戦艦陸奥、艦首と副砲。

    戦艦陸奥、艦首と副砲。

  • 戦艦陸奥の副砲。

    戦艦陸奥の副砲。

  • 旅行貯金をするために立ち寄りました。<br /><br />平野(ひらの)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】<br />〒742-2599  山口県大島郡周防大島町平野1484-2<br />TEL:0820-78-0073<br />《取扱店番号:550570》

    旅行貯金をするために立ち寄りました。

    平野(ひらの)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】
    〒742-2599 山口県大島郡周防大島町平野1484-2
    TEL:0820-78-0073
    《取扱店番号:550570》

  • 今回アッシーくんとなってくれたMAZDAのフレアくんです♪

    今回アッシーくんとなってくれたMAZDAのフレアくんです♪

  • よく走ってくれました♪

    よく走ってくれました♪

  • お世話になったフレアくんとドライバーのたかティムさん♪

    お世話になったフレアくんとドライバーのたかティムさん♪

  • 道を間違えて返車が30分遅れてしまいました。20:00まで営業のバジェットレンタカーは既に照明は落ちていました。ゴメンネ…。

    道を間違えて返車が30分遅れてしまいました。20:00まで営業のバジェットレンタカーは既に照明は落ちていました。ゴメンネ…。

  • バジェットレンタカー営業所向かいのゆめマートで夕食を調達します。

    バジェットレンタカー営業所向かいのゆめマートで夕食を調達します。

  • 広島駅のカーブ腐女子の群れ。

    広島駅のカーブ腐女子の群れ。

  • この風景が変わることはあるのでしょうか?

    この風景が変わることはあるのでしょうか?

  • カーブ腐女子が増えて来たのでそろそろ退散します。

    カーブ腐女子が増えて来たのでそろそろ退散します。

  • 広島駅南口バス停にやって来ました。

    広島駅南口バス停にやって来ました。

  • 値段に負けて今回もJAMJAMライナーを利用しましたが・・・。

    値段に負けて今回もJAMJAMライナーを利用しましたが・・・。

  • 篠坂パーキングエリアで休憩です。

    篠坂パーキングエリアで休憩です。

    篠坂パーキングエリア 道の駅

  • 無事に着いてくれれば良かったのですが・・・。<br /><br />三木サービスエリアでの休憩時にドアが開けっぴろげでした。アイドリングストップはわかるのですが、どうやらこの車両はエンジンと空調が直結するタイプのようです。山間部でもあり、かなり冷え込む場所であり、入口から風が吹込み寒さで目が覚めてしまいました。これでは翌日に差し支えます。ドライバーに一任されているのであれば、ハズレとしか言えない・・・。安かろう悪かろうの典型的パターンでした。大抵空席がある理由はそんなところでしょう。二度と乗りたくありません。

    無事に着いてくれれば良かったのですが・・・。

    三木サービスエリアでの休憩時にドアが開けっぴろげでした。アイドリングストップはわかるのですが、どうやらこの車両はエンジンと空調が直結するタイプのようです。山間部でもあり、かなり冷え込む場所であり、入口から風が吹込み寒さで目が覚めてしまいました。これでは翌日に差し支えます。ドライバーに一任されているのであれば、ハズレとしか言えない・・・。安かろう悪かろうの典型的パターンでした。大抵空席がある理由はそんなところでしょう。二度と乗りたくありません。

    三木サービスエリア 道の駅

  • ファミリーマートK2梅田茶屋町店に立ち寄り一服します。

    ファミリーマートK2梅田茶屋町店に立ち寄り一服します。

  • すき家茶屋町店で朝食を。

    すき家茶屋町店で朝食を。

  • メニューは納豆浅漬け定食大盛♪

    メニューは納豆浅漬け定食大盛♪

  • 350円也。

    350円也。

  • 大阪から快速に乗って田舎駅まで帰ってきました。

    大阪から快速に乗って田舎駅まで帰ってきました。

    石山駅

  • 8時前の田舎駅。

    8時前の田舎駅。

    石山駅

  • 通学のためにバスに乗車している乗客を尻目に帰宅です(笑)。

    通学のためにバスに乗車している乗客を尻目に帰宅です(笑)。

    石山寺駅

  • ど田舎バス停に到着しました。

    ど田舎バス停に到着しました。

    京阪バス (大津エリア) 乗り物

  • 今回も無事帰宅できました。さぁ4時間後には出勤です(泣)。

    今回も無事帰宅できました。さぁ4時間後には出勤です(泣)。

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