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西塔は第2世天台座主 寂光大師 円澄(えんちょう)が切り開いたエリアで、その本堂に当たるのが山内最古の建造物とされる釈迦堂(転法輪堂)です。<br />西塔は、最澄の時代には相輪トウ(木偏に棠)が建立されたに過ぎませんが、その後、円澄・延秀・恵亮らの尽力により東塔と比肩されるほどに開かれました。更に、東谷・南谷・北谷・南尾谷・北尾谷の五谷や黒谷別所など、中心部分である惣塔分以外にも拡張されました。また、松尾坂・黒谷道・八町坂・修禅峰道・大宮渓道・水井横高尾根道など、京都・坂本・横川との連絡道も整備されていきました。<br />東塔からは直線距離で北へ1km程の所にあり、美しい杉木立と静寂な空気に包まれ、天台建築様式の代表とされる荘厳な釈迦堂をはじめ、苔や樹木の緑色と丹色のコントラストが美しい「弁慶のにない堂」 と呼ばれる常行堂、法華堂などがメインスポットです。また、一般向けの研修道場「居士林」も併設されており、修行体験をすることもできます。<br />比叡山延暦寺のHPです。<br />http://www.hieizan.or.jp/<br />比叡山マップです。<br />http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

九夏三伏 比叡山彷徨⑤延暦寺 西塔エリア(前編)

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2017/07/28 - 2017/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

西塔は第2世天台座主 寂光大師 円澄(えんちょう)が切り開いたエリアで、その本堂に当たるのが山内最古の建造物とされる釈迦堂(転法輪堂)です。
西塔は、最澄の時代には相輪トウ(木偏に棠)が建立されたに過ぎませんが、その後、円澄・延秀・恵亮らの尽力により東塔と比肩されるほどに開かれました。更に、東谷・南谷・北谷・南尾谷・北尾谷の五谷や黒谷別所など、中心部分である惣塔分以外にも拡張されました。また、松尾坂・黒谷道・八町坂・修禅峰道・大宮渓道・水井横高尾根道など、京都・坂本・横川との連絡道も整備されていきました。
東塔からは直線距離で北へ1km程の所にあり、美しい杉木立と静寂な空気に包まれ、天台建築様式の代表とされる荘厳な釈迦堂をはじめ、苔や樹木の緑色と丹色のコントラストが美しい「弁慶のにない堂」 と呼ばれる常行堂、法華堂などがメインスポットです。また、一般向けの研修道場「居士林」も併設されており、修行体験をすることもできます。
比叡山延暦寺のHPです。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 西塔エリアのマップです。<br />「旅行の概要」にある、マップと併用していただけると便利と思います。<br />現在地は、左下にある浄土院から上方に駒を進め、椿堂の手前の分岐点にいます。<br />椿堂を参拝するなら右側の細い下り坂を進みます。左の太い道を進めば、西塔の巡拝受付にでます。

    西塔エリアのマップです。
    「旅行の概要」にある、マップと併用していただけると便利と思います。
    現在地は、左下にある浄土院から上方に駒を進め、椿堂の手前の分岐点にいます。
    椿堂を参拝するなら右側の細い下り坂を進みます。左の太い道を進めば、西塔の巡拝受付にでます。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂<br />路傍の草が生い茂って道幅が半分ほどに減らされ上、大きな石がゴロゴロしている足場の悪い小径を下って行きます。案外、この道を利用して訪れる方は少ないのかもしれません。正面に見えるのが「椿堂」、左手には鐘楼があります。<br />宝形造、銅板葺、正面に向拝を構えています。

    比叡山 西塔エリア 椿堂
    路傍の草が生い茂って道幅が半分ほどに減らされ上、大きな石がゴロゴロしている足場の悪い小径を下って行きます。案外、この道を利用して訪れる方は少ないのかもしれません。正面に見えるのが「椿堂」、左手には鐘楼があります。
    宝形造、銅板葺、正面に向拝を構えています。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂 <br />西塔南谷に位置する堂宇です。比叡山内では珍しい、聖徳太子由来の堂宇です。<br />中世の説話によると、聖徳太子の建立とされ、堂宇に祀られた銀四臂の如意輪観音像は六角堂の金六臂の如意輪観音や石山寺の白檀二臂の如意輪観音と共に聖徳太子所縁の三尊とされ、いずれも三寸程の大きさと伝えられています。<br />現在、本尊には千手観世菩薩を祀り、四種三昧のひとつ、常坐三昧を実施する堂宇になっています。<br />堂宇の左手前には、太子の故事に因む大きな椿の木があります。<br />因みに、最澄と聖徳太子には深い結びつきがあります。8世紀後半以降の太子伝では、太子は南岳慧思の生まれ変わり(慧思後身説)として綴られています。慧思とは、最澄の中国 天台山での師 智ぎの大師に当たります。この説の流布は、日本に仏教を広めようとした鑑真の策略だったとも言われています。それ故、「最澄が聖徳太子の生まれ変わり」とも拡大解釈され、天台宗は聖徳太子信仰によっても支持されたのです。そのDNAを継いだのが親鸞と言うわけです。

    比叡山 西塔エリア 椿堂 
    西塔南谷に位置する堂宇です。比叡山内では珍しい、聖徳太子由来の堂宇です。
    中世の説話によると、聖徳太子の建立とされ、堂宇に祀られた銀四臂の如意輪観音像は六角堂の金六臂の如意輪観音や石山寺の白檀二臂の如意輪観音と共に聖徳太子所縁の三尊とされ、いずれも三寸程の大きさと伝えられています。
    現在、本尊には千手観世菩薩を祀り、四種三昧のひとつ、常坐三昧を実施する堂宇になっています。
    堂宇の左手前には、太子の故事に因む大きな椿の木があります。
    因みに、最澄と聖徳太子には深い結びつきがあります。8世紀後半以降の太子伝では、太子は南岳慧思の生まれ変わり(慧思後身説)として綴られています。慧思とは、最澄の中国 天台山での師 智ぎの大師に当たります。この説の流布は、日本に仏教を広めようとした鑑真の策略だったとも言われています。それ故、「最澄が聖徳太子の生まれ変わり」とも拡大解釈され、天台宗は聖徳太子信仰によっても支持されたのです。そのDNAを継いだのが親鸞と言うわけです。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂<br />かつては「安養堂」と呼ばれた堂宇ですが、「椿堂」と改名しています。その由来は、聖徳太子が比叡山に登られた際、使われた椿の杖をこの地に刺していかれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁からです。 <br />また、近世の説話によると、上述の説話を踏襲してはいるものの、太子が奈良の都から祥瑞を見て、その光を追ってこの地に辿り着いたとしています。また、如意輪観音像と千手観音像を造ってお堂の中に納めたとしています。<br />しかし平安時代まで溯る太子伝などには、太子が比叡山に登ったという故事は見当たりません。伝説を超えるものではありませんが、古い形の如意輪観音像がここに安置されていた、あるいは像容不明の半跏像は如意輪観音像に比定されることが多かったことから、そうした古像を安置していたことを伝える説話と言えます。

    比叡山 西塔エリア 椿堂
    かつては「安養堂」と呼ばれた堂宇ですが、「椿堂」と改名しています。その由来は、聖徳太子が比叡山に登られた際、使われた椿の杖をこの地に刺していかれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁からです。
    また、近世の説話によると、上述の説話を踏襲してはいるものの、太子が奈良の都から祥瑞を見て、その光を追ってこの地に辿り着いたとしています。また、如意輪観音像と千手観音像を造ってお堂の中に納めたとしています。
    しかし平安時代まで溯る太子伝などには、太子が比叡山に登ったという故事は見当たりません。伝説を超えるものではありませんが、古い形の如意輪観音像がここに安置されていた、あるいは像容不明の半跏像は如意輪観音像に比定されることが多かったことから、そうした古像を安置していたことを伝える説話と言えます。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂<br />素朴ながら、蟇股にも「椿」をあしらっています。下に貼られているお札は、節分会のもののようです。<br /><br />硲慈弘著『伝説の比叡山』はもう少し詳しく説明しています。<br />聖徳太子がある日、ふと丑寅に当たる山の端に光る宝塔を認めたため、険しい坂道をものともせず比叡山に登った。谷間の雪を踏み分け、太子はここぞと思う霊地を卜(ぼく)して小堂を建て、守り本尊の如意輪観音を安置した。太子は杖としていた椿の枝をそこに突き刺して、山と共に幾千年の末まで栄えんことを祈念した。やがて根を下ろした椿の枝は大木に育ったという。

    比叡山 西塔エリア 椿堂
    素朴ながら、蟇股にも「椿」をあしらっています。下に貼られているお札は、節分会のもののようです。

    硲慈弘著『伝説の比叡山』はもう少し詳しく説明しています。
    聖徳太子がある日、ふと丑寅に当たる山の端に光る宝塔を認めたため、険しい坂道をものともせず比叡山に登った。谷間の雪を踏み分け、太子はここぞと思う霊地を卜(ぼく)して小堂を建て、守り本尊の如意輪観音を安置した。太子は杖としていた椿の枝をそこに突き刺して、山と共に幾千年の末まで栄えんことを祈念した。やがて根を下ろした椿の枝は大木に育ったという。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂<br />雲形をあしらった素朴な手狭(たばさみ)です。

    比叡山 西塔エリア 椿堂
    雲形をあしらった素朴な手狭(たばさみ)です。

  • 比叡山 西塔エリア 椿堂<br />建立年代は不明ですが、承澄が1275(建治元)年に編纂した図像集『阿娑縛抄』に西塔の一堂として描かれており、少なくとも鎌倉時代には存在していたと考えられています。信長の焼討ちで焼失後、天正年間(1573~96年)に同じ場所に再興され、その後老朽化したため1704(元禄17)年に再建されたものが現在のものです。<br /><br />椿堂の左奥から西塔巡拝受付の先にある参道に合流できます。しかしこの石段は急ですので、下りにはあまりお勧めしません。<br />起点となる分岐を見落としてしまった場合は、この石段を下りれば参拝することができます。巡回受付からは、眼下に椿堂の屋根が見られます。

    比叡山 西塔エリア 椿堂
    建立年代は不明ですが、承澄が1275(建治元)年に編纂した図像集『阿娑縛抄』に西塔の一堂として描かれており、少なくとも鎌倉時代には存在していたと考えられています。信長の焼討ちで焼失後、天正年間(1573~96年)に同じ場所に再興され、その後老朽化したため1704(元禄17)年に再建されたものが現在のものです。

    椿堂の左奥から西塔巡拝受付の先にある参道に合流できます。しかしこの石段は急ですので、下りにはあまりお勧めしません。
    起点となる分岐を見落としてしまった場合は、この石段を下りれば参拝することができます。巡回受付からは、眼下に椿堂の屋根が見られます。

  • 比叡山 西塔エリア<br />椿堂の裏手を抜けた後、西塔巡回受付まで少し戻り、東塔でいただいた通行手形を示してその先にある見所に向かいます。<br />このT字路となる辻が、参道と西塔駐車場(バス停)からの道が合流する位置になります。

    比叡山 西塔エリア
    椿堂の裏手を抜けた後、西塔巡回受付まで少し戻り、東塔でいただいた通行手形を示してその先にある見所に向かいます。
    このT字路となる辻が、参道と西塔駐車場(バス停)からの道が合流する位置になります。

  • 比叡山 西塔エリア 五重照隅塔<br />参道脇に建てられています。<br />「個々人が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」という願いが込められた塔です。塔の名称にある「照隅」は、最澄著『山家学生式』に記された「一隅を照す」という語句が由来です。<br />

    比叡山 西塔エリア 五重照隅塔
    参道脇に建てられています。
    「個々人が思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」という願いが込められた塔です。塔の名称にある「照隅」は、最澄著『山家学生式』に記された「一隅を照す」という語句が由来です。

  • 比叡山 西塔エリア 草野天平の詩碑 「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」<br />この詩碑は1986年に草野天平の妻 梅乃によって建立されました。<br />「一つの傷も胸の騒ぎもなく 真に為しをうして終った 独り凝って動かず 晴れ渡る安宅の空に 知らず知らず涙が滲じむ 沁み徹る人生の味 成就の味」とあります。<br /> <br />草野天平(1910~52年)<br /> 東京市小石川区林町(現文京区)に生まれ、兄は詩人の心平です。30歳から詩作を始め、1942年の妻ユキの死後、故郷福島に帰り、詩作に専念しました。1947年、詩集 『ひとつの道』 を出版。1950年に比叡山の飯室谷にある松禅院に入居を許され、その地で詩作に専念しました。また、同年に鈴木梅乃と再婚。その2年後に詩業半ばにして肺結核で生涯を終えました。享年42歳。松禅院にほど近い、琵琶湖が見える西教寺に眠っています。<br />「覚え書」(遺稿)には 、「私の詩は人間の根本の微小な物質で、幸福といふひとかけらであります」と認められています。偏ることなく、ただ真っ直ぐ立つ正しい芸術を目指した、ストイックで求道的な詩人と言えます。<br />天平の没後、梅乃は天平作品の顕彰を続け、1958年に刊行した『定本 草野天平詩集』が第2回高村光太郎賞を受賞しています。2006年、梅乃は半世紀に及ぶ天平の顕彰活動と共に85年の生涯を終え、天平に寄り添うように西教寺で眠っています。一方、前妻ユキが何処に眠っているのが気になるところです。ワイドショーの見過ぎでしょうか?

    比叡山 西塔エリア 草野天平の詩碑 「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」
    この詩碑は1986年に草野天平の妻 梅乃によって建立されました。
    「一つの傷も胸の騒ぎもなく 真に為しをうして終った 独り凝って動かず 晴れ渡る安宅の空に 知らず知らず涙が滲じむ 沁み徹る人生の味 成就の味」とあります。
     
    草野天平(1910~52年)
    東京市小石川区林町(現文京区)に生まれ、兄は詩人の心平です。30歳から詩作を始め、1942年の妻ユキの死後、故郷福島に帰り、詩作に専念しました。1947年、詩集 『ひとつの道』 を出版。1950年に比叡山の飯室谷にある松禅院に入居を許され、その地で詩作に専念しました。また、同年に鈴木梅乃と再婚。その2年後に詩業半ばにして肺結核で生涯を終えました。享年42歳。松禅院にほど近い、琵琶湖が見える西教寺に眠っています。
    「覚え書」(遺稿)には 、「私の詩は人間の根本の微小な物質で、幸福といふひとかけらであります」と認められています。偏ることなく、ただ真っ直ぐ立つ正しい芸術を目指した、ストイックで求道的な詩人と言えます。
    天平の没後、梅乃は天平作品の顕彰を続け、1958年に刊行した『定本 草野天平詩集』が第2回高村光太郎賞を受賞しています。2006年、梅乃は半世紀に及ぶ天平の顕彰活動と共に85年の生涯を終え、天平に寄り添うように西教寺で眠っています。一方、前妻ユキが何処に眠っているのが気になるところです。ワイドショーの見過ぎでしょうか?

  • 比叡山 西塔エリア 箕淵弁財天社(みのふちべんざいてんしゃ)<br />西塔巡拝受付のすぐ左隣にあります。<br />東塔の無動寺弁財天、横川の箸塚弁財天と共に比叡山三弁財天の一つに数えられています。<br />

    比叡山 西塔エリア 箕淵弁財天社(みのふちべんざいてんしゃ)
    西塔巡拝受付のすぐ左隣にあります。
    東塔の無動寺弁財天、横川の箸塚弁財天と共に比叡山三弁財天の一つに数えられています。

  • 比叡山 西塔エリア 親鸞聖人ご修行の地<br />聖光院跡に隣接する広場には「親鸞聖人御修行の地」なる石碑が立っています。<br />親鸞は、この地にあった聖光院で念仏三昧の行を行ったと伝えられています。<br />

    比叡山 西塔エリア 親鸞聖人ご修行の地
    聖光院跡に隣接する広場には「親鸞聖人御修行の地」なる石碑が立っています。
    親鸞は、この地にあった聖光院で念仏三昧の行を行ったと伝えられています。

  • 比叡山 西塔エリア 親鸞聖人ご修行の地<br />現在は聖光院を偲ぶよすがもありませんが、親鸞は9歳の頃に夜襲によって父親が目の前で惨殺されたことで出家し、その後20年間に亘って聖光院に住して修行を積みました。<br />門徒衆にとってはこうした何の変哲もない空地でさえ聖地とされ、崇められています。

    比叡山 西塔エリア 親鸞聖人ご修行の地
    現在は聖光院を偲ぶよすがもありませんが、親鸞は9歳の頃に夜襲によって父親が目の前で惨殺されたことで出家し、その後20年間に亘って聖光院に住して修行を積みました。
    門徒衆にとってはこうした何の変哲もない空地でさえ聖地とされ、崇められています。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />常行堂手前の苔生した斜面にも「親鸞聖人 旧跡」の石碑が立っています。<br />森林浴のマイナスイオン効果なのか、時代を経ても往時と何ら変わることのない深山のひんやりした空気に触れると、霊験あらたかなものを感じます。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    常行堂手前の苔生した斜面にも「親鸞聖人 旧跡」の石碑が立っています。
    森林浴のマイナスイオン効果なのか、時代を経ても往時と何ら変わることのない深山のひんやりした空気に触れると、霊験あらたかなものを感じます。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />苔の緑色と堂宇の丹色のコントラストが山寺の情緒を魅せます。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    苔の緑色と堂宇の丹色のコントラストが山寺の情緒を魅せます。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />連理した杉の根元には、楚々とした野仏が2体祀られています。<br />「夫婦杉」にあやかった「夫婦仏」でしょうか?

    比叡山 西塔エリア にない堂
    連理した杉の根元には、楚々とした野仏が2体祀られています。
    「夫婦杉」にあやかった「夫婦仏」でしょうか?

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />地形のアンジュレーションや木漏れ日が造りだす陰影が、苔をアート作品に仕上げます。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    地形のアンジュレーションや木漏れ日が造りだす陰影が、苔をアート作品に仕上げます。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />スポットライトを浴びて…。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    スポットライトを浴びて…。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 <br />同じ形式をした堂宇が廊下によって繋げられています。向かって右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が四種三昧のうち常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂です。両堂を結ぶ回廊が、桁行4間、梁間1間の唐破風造の渡り廊下です。<br />これらを合わせて通称「にない堂」と呼んでいます。「にない」とは漢字にすれば「担い」と書き、力持ちの武蔵坊弁慶が渡り廊下を天秤棒のようにして2つの堂宇を担いだという突拍子もない伝説に因んで名付けられています。<br />因みに、2堂の間が山城国と近江国の国境になるそうです。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    同じ形式をした堂宇が廊下によって繋げられています。向かって右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂、左が四種三昧のうち常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂です。両堂を結ぶ回廊が、桁行4間、梁間1間の唐破風造の渡り廊下です。
    これらを合わせて通称「にない堂」と呼んでいます。「にない」とは漢字にすれば「担い」と書き、力持ちの武蔵坊弁慶が渡り廊下を天秤棒のようにして2つの堂宇を担いだという突拍子もない伝説に因んで名付けられています。
    因みに、2堂の間が山城国と近江国の国境になるそうです。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂<br />『新拾遺和歌集』に撰ばれた心海上人は、この「にない堂」で修行する僧たちへ期待を込めて詠んでいます。<br />「本覚の山のたかねの鐘のおとに 長き眠りをおどろかすかな」。<br />歌意は以下のようになります。「天台の教えで最も大切なのは、修行する前にすでに人間は仏性を備えていることを自覚して仏道を歩むことだ。そんな立派なみ仏の教えを説く比叡山ゆえ、常行堂の鐘の音によって、多くの人々が長い眠りから目覚めたように、天台の教えを学び、明るい人生を送ることができるだろう」。

    比叡山 西塔エリア にない堂
    『新拾遺和歌集』に撰ばれた心海上人は、この「にない堂」で修行する僧たちへ期待を込めて詠んでいます。
    「本覚の山のたかねの鐘のおとに 長き眠りをおどろかすかな」。
    歌意は以下のようになります。「天台の教えで最も大切なのは、修行する前にすでに人間は仏性を備えていることを自覚して仏道を歩むことだ。そんな立派なみ仏の教えを説く比叡山ゆえ、常行堂の鐘の音によって、多くの人々が長い眠りから目覚めたように、天台の教えを学び、明るい人生を送ることができるだろう」。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂(重文)<br />825(天長2)年に円澄と延秀が建立しましたが、その後幾度かの焼失を経て、安土桃山時代の1595(文禄4)年に現在の建物が再建されました。当初は普賢菩薩像を安置し、最澄筆の法華経が納められていました。これは座主 喜慶が村上天皇より賜ったものとされ、伝えによると仁寿殿にて村上天皇の病気の際に孔雀経法を行なった賞として授かったものであり、経典は銀の箱に納められたそうです。<br />桁行5間、梁間5間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に1間の向拝を構えています。 外観は蔀戸と板唐戸を用いた和様建築です。内部は、柱が立てられる所にはすべからく柱を立てるという珍しい形態をしています。<br />1955(昭和30)年に常行堂と共に重文に指定されています。

    比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂(重文)
    825(天長2)年に円澄と延秀が建立しましたが、その後幾度かの焼失を経て、安土桃山時代の1595(文禄4)年に現在の建物が再建されました。当初は普賢菩薩像を安置し、最澄筆の法華経が納められていました。これは座主 喜慶が村上天皇より賜ったものとされ、伝えによると仁寿殿にて村上天皇の病気の際に孔雀経法を行なった賞として授かったものであり、経典は銀の箱に納められたそうです。
    桁行5間、梁間5間、一重、宝形造、栩葺の建物で、正面に1間の向拝を構えています。 外観は蔀戸と板唐戸を用いた和様建築です。内部は、柱が立てられる所にはすべからく柱を立てるという珍しい形態をしています。
    1955(昭和30)年に常行堂と共に重文に指定されています。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂<br />普賢菩薩を本尊とし、四種三昧の一つ、半行半坐三昧を実施するための堂宇として建立されました。四種三昧とは、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指し、うち半行半坐三昧とは行(あゆ)むのと坐するのを併用する修行法です。<br />因みに『源氏物語』(第4帖 夕顔)では、夕顔の49日の法要を行った場所とされています。惟光の兄の法師が高名な僧だったことから、人目を忍んでひっそりとではあったものの、簡略化せずに立派な法要を行っています。 <br />その場面には、「阿弥陀仏に譲りきこゆるよし」「このほどまでは漂ふなるを、いずれの道に定まりて赴くらん」とあります。噛み砕くと、「来世は阿弥陀如来にまかせよう」「死後は中陰といって、暫く彷徨っているが、49日には来世が決定するという。どの道へ行くのであろうか?」となります。これらは天台浄土教を基本とした死後の世界観、阿弥陀信仰が背景にあるとされています。ですから、法華堂を厳選したのです。

    比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂
    普賢菩薩を本尊とし、四種三昧の一つ、半行半坐三昧を実施するための堂宇として建立されました。四種三昧とは、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指し、うち半行半坐三昧とは行(あゆ)むのと坐するのを併用する修行法です。
    因みに『源氏物語』(第4帖 夕顔)では、夕顔の49日の法要を行った場所とされています。惟光の兄の法師が高名な僧だったことから、人目を忍んでひっそりとではあったものの、簡略化せずに立派な法要を行っています。
    その場面には、「阿弥陀仏に譲りきこゆるよし」「このほどまでは漂ふなるを、いずれの道に定まりて赴くらん」とあります。噛み砕くと、「来世は阿弥陀如来にまかせよう」「死後は中陰といって、暫く彷徨っているが、49日には来世が決定するという。どの道へ行くのであろうか?」となります。これらは天台浄土教を基本とした死後の世界観、阿弥陀信仰が背景にあるとされています。ですから、法華堂を厳選したのです。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂<br />蟇股は、「もみじ」です。「もみじ狩り」の最中にこれを見つけたらテンションが上がること間違いなし。<br /><br />「比叡山七不思議」には記されていないのですが、七不思議として語り継がれているのが「一文字狸」です。通常、7つ以上あるのが、七不思議とされますから…。<br />にない堂の修行僧が、素直になれない性格を直すため、たぬきの彫刻をはじめました。ある夜、真っ白な眉毛を一文字にひいた大狸が現れ、「自分のためでなく、仏に仕える身として仏道修行のために千体を彫る願をたてるなら、助けてやろう」と告げました。それを聞いて心得違いに気づいた僧は、それから千日回峰行を始め、一日の行が終わる度に一体を彫り、7年目の満願の時、千体もの狸の彫り物ができあがったという。

    比叡山 西塔エリア にない堂 法華堂
    蟇股は、「もみじ」です。「もみじ狩り」の最中にこれを見つけたらテンションが上がること間違いなし。

    「比叡山七不思議」には記されていないのですが、七不思議として語り継がれているのが「一文字狸」です。通常、7つ以上あるのが、七不思議とされますから…。
    にない堂の修行僧が、素直になれない性格を直すため、たぬきの彫刻をはじめました。ある夜、真っ白な眉毛を一文字にひいた大狸が現れ、「自分のためでなく、仏に仕える身として仏道修行のために千体を彫る願をたてるなら、助けてやろう」と告げました。それを聞いて心得違いに気づいた僧は、それから千日回峰行を始め、一日の行が終わる度に一体を彫り、7年目の満願の時、千体もの狸の彫り物ができあがったという。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂(重文)<br />建物の構造は法華堂と同じ形式です。 <br />阿弥陀如来を本尊とし、90日間「南無阿弥陀仏」と唱えながら阿弥陀仏の周りを歩き続ける「常行三昧」の修行道場です。これは、天台宗の行動力と実践力を表現する修行のひとつとされます。

    比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂(重文)
    建物の構造は法華堂と同じ形式です。
    阿弥陀如来を本尊とし、90日間「南無阿弥陀仏」と唱えながら阿弥陀仏の周りを歩き続ける「常行三昧」の修行道場です。これは、天台宗の行動力と実践力を表現する修行のひとつとされます。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂<br />近年では、にない堂で座禅体験が行われているようです。比叡山では、座ることを坐禅止観と言い、大切な修行のひとつとしています。<br />

    比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂
    近年では、にない堂で座禅体験が行われているようです。比叡山では、座ることを坐禅止観と言い、大切な修行のひとつとしています。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂<br />蟇股は、「瑞雲に載せられた宝珠」でしょうか?

    比叡山 西塔エリア にない堂 常行堂
    蟇股は、「瑞雲に載せられた宝珠」でしょうか?

  • 比叡山 西塔エリア にない堂  渡廊(重文)<br />4間の渡り廊下は、中ほどの唐破風造の2間が一段高くなっています。この床下を通り抜けて石段を下りれば、西塔の本堂に当たる釈迦堂の正面に至ります。つまり、この渡廊は、釈迦堂の正門としての役割も担っています。<br />一段上がった所の床下が参道になり、これを馬道(めどう)と言います。

    比叡山 西塔エリア にない堂 渡廊(重文)
    4間の渡り廊下は、中ほどの唐破風造の2間が一段高くなっています。この床下を通り抜けて石段を下りれば、西塔の本堂に当たる釈迦堂の正面に至ります。つまり、この渡廊は、釈迦堂の正門としての役割も担っています。
    一段上がった所の床下が参道になり、これを馬道(めどう)と言います。

  • 比叡山 西塔エリア 釈迦堂 参道<br />油断をしていたら、渡廊の先にはまた急勾配の石段があります。<br />この釈迦堂も窪地に建てられています。<br />

    比叡山 西塔エリア 釈迦堂 参道
    油断をしていたら、渡廊の先にはまた急勾配の石段があります。
    この釈迦堂も窪地に建てられています。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂  渡廊<br />石段の途中から振り返ると、樹木の緑色とにない堂の丹色のコントラストが見事に調和しており、一幅の絵画を見るようです。

    比叡山 西塔エリア にない堂 渡廊
    石段の途中から振り返ると、樹木の緑色とにない堂の丹色のコントラストが見事に調和しており、一幅の絵画を見るようです。

  • 比叡山 西塔エリア にない堂  渡廊<br />美しい姿をした渡廊ですが、美しいものの宿命か、哀しい歴史を背負っています。<br />『吾妻鏡』によると、元久2年(1205年)10月2日子刻、法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂・四王院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼に帰し、延命院もまた焼失したとあります。この放火は堂衆の所行と疑われています。<br />東塔エリアの大講堂も寺院関係者による放火が焼失の原因でしたが、ここも放火で焼けた歴史があったようです。

    比叡山 西塔エリア にない堂 渡廊
    美しい姿をした渡廊ですが、美しいものの宿命か、哀しい歴史を背負っています。
    『吾妻鏡』によると、元久2年(1205年)10月2日子刻、法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂・四王院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼に帰し、延命院もまた焼失したとあります。この放火は堂衆の所行と疑われています。
    東塔エリアの大講堂も寺院関係者による放火が焼失の原因でしたが、ここも放火で焼けた歴史があったようです。

  • 比叡山 西塔エリア 西塔政所<br />釈迦堂への石段の途中、左右に平坦地があります。参道の右側(東側)には「西塔政所」と「延暦寺学問所 上観道場」の表札が左右に掛けられた門代わりの柱が立ち、その奧に建物が見えます。現在は、西塔の管理事務所と修行道場を兼ねており、立入はできません。<br />サンガラトナ・法天 マナケというインド僧をご存知でしょうか?<br />この西塔政所は、彼が日々修行を積んでいた場所です。また、学生時代はここから坂本にある学校まで通ったそうです。<br />彼は、仏教徒の家に生まれ、延暦寺の公式留学生として1971年に9歳で単身来日し、地元の小学校や比叡山中学・高校に通い、堀沢祖門を師匠に修業、百日回峰行も成就しています。<br />1985年に帰国し、その2年後にナグプールに禅定林を開き、仏教再生活動を続けられています。また、1995年から孤児院パンニャ・メッタ子供の家を運営されています。

    比叡山 西塔エリア 西塔政所
    釈迦堂への石段の途中、左右に平坦地があります。参道の右側(東側)には「西塔政所」と「延暦寺学問所 上観道場」の表札が左右に掛けられた門代わりの柱が立ち、その奧に建物が見えます。現在は、西塔の管理事務所と修行道場を兼ねており、立入はできません。
    サンガラトナ・法天 マナケというインド僧をご存知でしょうか?
    この西塔政所は、彼が日々修行を積んでいた場所です。また、学生時代はここから坂本にある学校まで通ったそうです。
    彼は、仏教徒の家に生まれ、延暦寺の公式留学生として1971年に9歳で単身来日し、地元の小学校や比叡山中学・高校に通い、堀沢祖門を師匠に修業、百日回峰行も成就しています。
    1985年に帰国し、その2年後にナグプールに禅定林を開き、仏教再生活動を続けられています。また、1995年から孤児院パンニャ・メッタ子供の家を運営されています。

  • 比叡山 西塔エリア 恵亮堂<br />西塔政所に対峙して建つのが恵亮堂です。 <br />江戸時代に建立された堂宇で、本尊に天台宗 大楽大師 恵亮(800~859年)を祀るのが名の由来です。<br />恵亮は、慈覚大師 円仁から灌頂を受けた高僧であり、延暦寺では最澄、円澄、円仁に続く第4世代の僧であり、延暦寺中興の祖です。恵亮は、往時最も修力霊験に優れた僧だったとされ、京都の妙法院を創建して延暦寺西塔の興隆に尽力しました。

    比叡山 西塔エリア 恵亮堂
    西塔政所に対峙して建つのが恵亮堂です。 
    江戸時代に建立された堂宇で、本尊に天台宗 大楽大師 恵亮(800~859年)を祀るのが名の由来です。
    恵亮は、慈覚大師 円仁から灌頂を受けた高僧であり、延暦寺では最澄、円澄、円仁に続く第4世代の僧であり、延暦寺中興の祖です。恵亮は、往時最も修力霊験に優れた僧だったとされ、京都の妙法院を創建して延暦寺西塔の興隆に尽力しました。

  • 比叡山 西塔エリア 恵亮堂 円戒国師寿塔 <br />境内の左脇には寿塔と石仏が並んでいます。<br />寿塔とは、生前にあらかじめ造っておく墓所です。この塔は、円戒国師・慈摂大師 真盛上人(1443~95年)が建立したものです。上人は、西塔南上坊で20年間修学しましたが、10年間にも及ぶ応仁・文明の大乱で起きた世の惨状を見るに忍びず、意を決して社会浄化に身を挺するために3千宗徒との交わりを絶ち、黒谷青龍寺へ隠棲しました。<br />その直前に建てられた塔であり、上人の「決死の覚悟の表明」と言われています。黒谷青龍寺に移り、『往生要集』により称名念仏を唱え、天台宗真盛派の開祖になりました。因みに黒谷青龍寺は、比西塔地区の黒谷にあり、古くから隠遁者の住居となっていました。また、この寺は浄土宗の祖 法然が若い頃に修行した場所とされています。<br />元々の上人自身が建立した寿塔は元亀の兵災で破壊されましたが、現在の寿塔は1839(天保10)年に知恩院 二品尊超親王、西教寺27世真尚上人ら8人が施主となって建立したものです。

    比叡山 西塔エリア 恵亮堂 円戒国師寿塔 
    境内の左脇には寿塔と石仏が並んでいます。
    寿塔とは、生前にあらかじめ造っておく墓所です。この塔は、円戒国師・慈摂大師 真盛上人(1443~95年)が建立したものです。上人は、西塔南上坊で20年間修学しましたが、10年間にも及ぶ応仁・文明の大乱で起きた世の惨状を見るに忍びず、意を決して社会浄化に身を挺するために3千宗徒との交わりを絶ち、黒谷青龍寺へ隠棲しました。
    その直前に建てられた塔であり、上人の「決死の覚悟の表明」と言われています。黒谷青龍寺に移り、『往生要集』により称名念仏を唱え、天台宗真盛派の開祖になりました。因みに黒谷青龍寺は、比西塔地区の黒谷にあり、古くから隠遁者の住居となっていました。また、この寺は浄土宗の祖 法然が若い頃に修行した場所とされています。
    元々の上人自身が建立した寿塔は元亀の兵災で破壊されましたが、現在の寿塔は1839(天保10)年に知恩院 二品尊超親王、西教寺27世真尚上人ら8人が施主となって建立したものです。

  • 比叡山 西塔エリア 恵亮堂 中西悟堂の歌碑<br />右側には、日本野鳥の会の創設者 中西悟堂の歌碑があります。悟堂は、天台宗学林を卒業した後、野鳥研究に転じたという異色の研究者です。金沢生まれの悟堂は、16歳で得度して比叡山で修業をしましたが、やがて野鳥・自然保護運動に力を注ぐようになりました。我々が使う「野鳥」や「探鳥」の言葉は、悟堂の造語だそうです。<br />歌碑には「樹之雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす」と刻まれ、生命あるものに対する悟堂の温かさが詠まれています。因みに比叡山の北部は禁猟地とされ、野鳥の貴重な繁殖地になっています。

    比叡山 西塔エリア 恵亮堂 中西悟堂の歌碑
    右側には、日本野鳥の会の創設者 中西悟堂の歌碑があります。悟堂は、天台宗学林を卒業した後、野鳥研究に転じたという異色の研究者です。金沢生まれの悟堂は、16歳で得度して比叡山で修業をしましたが、やがて野鳥・自然保護運動に力を注ぐようになりました。我々が使う「野鳥」や「探鳥」の言葉は、悟堂の造語だそうです。
    歌碑には「樹之雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす」と刻まれ、生命あるものに対する悟堂の温かさが詠まれています。因みに比叡山の北部は禁猟地とされ、野鳥の貴重な繁殖地になっています。

  • 比叡山 西塔エリア 恵亮堂<br />恵亮は、信濃国出身の平安時代前期の僧です。文徳天皇の皇子 惟喬(これたか)と惟仁(これひと)(後の清和天皇)両親王が皇太子の位を争った時、惟仁親王のために祈願しました。恵亮は、嘉祥年間(848~50年)に宝幢院を建立して千手観音像を安置し、その仏前で清和天皇の即位を祈願しました。<br />その後、恵亮は洛東に自ら建てた妙法院で示寂しています。<br />因みに恵亮は、加持祈祷では絶大な力を持った僧だったそうです。独鈷杵で自らの頭を砕き、脳味噌を取り出して乳と混ぜ、それを護摩と一緒に焚き込むという荒行<br />を駆使したとされています。

    比叡山 西塔エリア 恵亮堂
    恵亮は、信濃国出身の平安時代前期の僧です。文徳天皇の皇子 惟喬(これたか)と惟仁(これひと)(後の清和天皇)両親王が皇太子の位を争った時、惟仁親王のために祈願しました。恵亮は、嘉祥年間(848~50年)に宝幢院を建立して千手観音像を安置し、その仏前で清和天皇の即位を祈願しました。
    その後、恵亮は洛東に自ら建てた妙法院で示寂しています。
    因みに恵亮は、加持祈祷では絶大な力を持った僧だったそうです。独鈷杵で自らの頭を砕き、脳味噌を取り出して乳と混ぜ、それを護摩と一緒に焚き込むという荒行
    を駆使したとされています。

  • 比叡山 西塔エリア 恵亮堂<br />蟇股は、「牛」です。これも珍しいものです。<br /><br />滋賀県内に所在する梵鐘で国宝指定されているのは、延暦寺西塔にあった宝幢院の鐘(佐川美術館所蔵)だけです。紀年銘のある梵鐘の中では6番目に古く、内側にある銘文は、「比睿山延暦寺西寳 幢院鳴鐘天安二年八月九日至心鋳甄」と左文字(逆文字)で刻まれています。左文字になった理由は、鋳型に正字で陰刻した初歩的ミスとも、梵鐘を外側から拝した時、正しく透かし読めるようにしたとも言われています。「至心鋳甄」を「心眼で鐘を見る」と解釈すれば、後者と考えるのが自然と思われます。<br />この簡潔な文章は名だたる人物の手によるものとされ、宝幢院が嘉祥年間に創建されたのを鑑みれば、梵鐘鋳造の発願者は創建に関った初代院主 恵亮およびその取り巻きと考えられます。

    比叡山 西塔エリア 恵亮堂
    蟇股は、「牛」です。これも珍しいものです。

    滋賀県内に所在する梵鐘で国宝指定されているのは、延暦寺西塔にあった宝幢院の鐘(佐川美術館所蔵)だけです。紀年銘のある梵鐘の中では6番目に古く、内側にある銘文は、「比睿山延暦寺西寳 幢院鳴鐘天安二年八月九日至心鋳甄」と左文字(逆文字)で刻まれています。左文字になった理由は、鋳型に正字で陰刻した初歩的ミスとも、梵鐘を外側から拝した時、正しく透かし読めるようにしたとも言われています。「至心鋳甄」を「心眼で鐘を見る」と解釈すれば、後者と考えるのが自然と思われます。
    この簡潔な文章は名だたる人物の手によるものとされ、宝幢院が嘉祥年間に創建されたのを鑑みれば、梵鐘鋳造の発願者は創建に関った初代院主 恵亮およびその取り巻きと考えられます。

  • 比叡山 西塔エリア 釈迦堂(転法輪堂)<br />西塔エリアの本堂に当たるのが、この転法輪堂です。一般的には、本尊に釈迦如来を祀ることから「釈迦堂」の名で知られています。西塔院の供養を836(承和3)年に円澄が檀主となって実施した際は、呪願を空海が、導師を護命が務めるなど、錚々たるメンバーで供養されています。<br />現在の釈迦堂は、桁行7間、梁間7間、一重、入母屋造、形銅板葺の建物で、信長の焼討ち後、1595(文禄4)年に豊臣秀吉の命により、1347(貞和3)年頃に建てられた園城寺(三井寺)弥勒堂(金堂)をこの地に移築した仏閣で、延暦寺に現存する建築物の中で最古のものです。秀吉は信長の命で比叡山焼討ちに加担しており、罪滅ぼしの気持ちがあったのかも知れません。<br />外陣の床張りは、天台建築様式の特色とされ、また内陣は一段低い土間となり、正面の柱間が全て戸口になってるのも珍しい形式です。 <br />側面は手前より2間が戸口、他は連子窓が板壁になり、縁も正面と側面の一部に付けられているだけです。<br />1900(明治33)年に重文に指定され、1959(昭和34)年の解体修理により、全体的に柔和な美しい姿に復元されています。

    比叡山 西塔エリア 釈迦堂(転法輪堂)
    西塔エリアの本堂に当たるのが、この転法輪堂です。一般的には、本尊に釈迦如来を祀ることから「釈迦堂」の名で知られています。西塔院の供養を836(承和3)年に円澄が檀主となって実施した際は、呪願を空海が、導師を護命が務めるなど、錚々たるメンバーで供養されています。
    現在の釈迦堂は、桁行7間、梁間7間、一重、入母屋造、形銅板葺の建物で、信長の焼討ち後、1595(文禄4)年に豊臣秀吉の命により、1347(貞和3)年頃に建てられた園城寺(三井寺)弥勒堂(金堂)をこの地に移築した仏閣で、延暦寺に現存する建築物の中で最古のものです。秀吉は信長の命で比叡山焼討ちに加担しており、罪滅ぼしの気持ちがあったのかも知れません。
    外陣の床張りは、天台建築様式の特色とされ、また内陣は一段低い土間となり、正面の柱間が全て戸口になってるのも珍しい形式です。
    側面は手前より2間が戸口、他は連子窓が板壁になり、縁も正面と側面の一部に付けられているだけです。
    1900(明治33)年に重文に指定され、1959(昭和34)年の解体修理により、全体的に柔和な美しい姿に復元されています。

  • 比叡山 西塔エリア 釈迦堂(転法輪堂)<br />釈迦堂の左奥にある山道から、相輪トウや弥勒石仏方面へ行くことができます。<br /><br />西塔院の中心伽藍だった釈迦堂の創建については、詳しいことは判っていないそうです。その理由は、10世紀頃に円澄系と延秀系の間で確執があり、双方が各々の祖たる円澄と延秀に釈迦堂の創建を帰したからです。共に最澄の弟子でしたが、最澄在世中から水面下で弟子達の間で対立があり、それが彼らの門弟の時代に顕在化したのです。<br />こうした派閥争いを招いた種が、最澄が開眼した「大乗戒」にあるとも言われています。勿論、日本仏教界の発展の礎にもなった記念すべきものですが、「両刃の剣」あるいは「獅子身中の虫」といったところでしょうか?<br />因みに叡勝・光仁・経豊などが第1世代の最澄の弟子であり、彼らに代わって台頭したのが義真・円澄・泰範・仁忠といった第2世代の弟子達でした。世代交代の難しさは、信仰の場にも共通する課題のようです。<br />最近のイノベーションとされるスマホが「善にも悪(盗撮など)にも使える」のと同じことです。使い手にも倫理観が求められます。勿論、製造物責任(PL)法の観点では、設計者の倫理観が最も重要なのですが…。それを怠った事例が、「ポケモンGo」です。リスクの棚卸しを行なうことなく、目先のお金儲けに走った結果、世界中で沢山の尊い命が失われました。「ポケモンGo」の開発者が悪びれることもなく、TVで次のバージョンアップを語る姿に、唖然とさせられました。ディレクターやTV局も同じ穴のむじなですが…。リスクを棚卸し、磐石な対策を採り、それでも発生した結果に責任を負うのがあるべき姿です。自動車の自動運転は、それ以上のリスクヘッジが求められます。

    比叡山 西塔エリア 釈迦堂(転法輪堂)
    釈迦堂の左奥にある山道から、相輪トウや弥勒石仏方面へ行くことができます。

    西塔院の中心伽藍だった釈迦堂の創建については、詳しいことは判っていないそうです。その理由は、10世紀頃に円澄系と延秀系の間で確執があり、双方が各々の祖たる円澄と延秀に釈迦堂の創建を帰したからです。共に最澄の弟子でしたが、最澄在世中から水面下で弟子達の間で対立があり、それが彼らの門弟の時代に顕在化したのです。
    こうした派閥争いを招いた種が、最澄が開眼した「大乗戒」にあるとも言われています。勿論、日本仏教界の発展の礎にもなった記念すべきものですが、「両刃の剣」あるいは「獅子身中の虫」といったところでしょうか?
    因みに叡勝・光仁・経豊などが第1世代の最澄の弟子であり、彼らに代わって台頭したのが義真・円澄・泰範・仁忠といった第2世代の弟子達でした。世代交代の難しさは、信仰の場にも共通する課題のようです。
    最近のイノベーションとされるスマホが「善にも悪(盗撮など)にも使える」のと同じことです。使い手にも倫理観が求められます。勿論、製造物責任(PL)法の観点では、設計者の倫理観が最も重要なのですが…。それを怠った事例が、「ポケモンGo」です。リスクの棚卸しを行なうことなく、目先のお金儲けに走った結果、世界中で沢山の尊い命が失われました。「ポケモンGo」の開発者が悪びれることもなく、TVで次のバージョンアップを語る姿に、唖然とさせられました。ディレクターやTV局も同じ穴のむじなですが…。リスクを棚卸し、磐石な対策を採り、それでも発生した結果に責任を負うのがあるべき姿です。自動車の自動運転は、それ以上のリスクヘッジが求められます。

  • 比叡山 西塔エリア オオセンチコガネ(大雪隠黄金)<br />コウチュウ目コガネムシ上科センチコガネ科に分類される甲虫です。動物の糞を食べる仲間で、近年は野生の鹿などの生息地拡大に伴って分布域を広げているそうです。<br /><br />派閥の確執が顕著になったのは、各師主の処遇も一因です。最澄示寂後、義真が座主に就きましたが、最澄は生前に後継者を2度定めていました。まず、後継者として泰範を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名しました。しかしその10年後、天台の法並びに院内の惣事を義真に、更に仁忠に院内の事を付属しています。後継者を見直したのは、泰範が最澄から訣別して空海の弟子になったのも一因ですが、最澄に随行して天台山で仏教を学んだ義真の後継は半ば必然でした。<br />外された円澄は黙っておらず、大乗戒壇設立に奔走し、後に別当大師と尊称された盟友 光定に泣き付きました。光定は円澄を次席の寺主にするよう迫るも、仁忠は拒否しました。光定は、義真が最澄の生粋の弟子でないことから、仁忠がよそ者扱いすると考え、感情のしこりに付け入り、「義真・仁忠」路線を「義真・円澄」路線へと刷新しようとしたのです。しかし仁忠の示寂後、義真が天台宗と延暦寺双方を管領する「天台座主」に就任しました。<br />晴れて天台座主となった義真でしたが、天台宗の教勢を伸ばすことには失敗しています。それは淳和天皇が勅命した天長勅撰六本宗書を見ても明白です。さて義真の後継者争いですが、義真は院内の雑務を弟子 円修に授けており、義真示寂後、円修は座主を私号しました。円澄と光定は示寂に立ち会っておらず、円修が座主となることに異議を唱えました。その結果、勅使が比叡山に登り、円修の座主職を停止させて大和国室生寺に追放し、円澄が第2世天台座主となった経緯があります。<br /><br />西塔エリアは比較的こじんまりとまとまっており、拝観にさほど時間を要しません。ここからは、シャトルバスに乗って横川エリアへ向かうのですが、バスの発車時刻まで寄り道することにします。釈迦堂の左脇の奥にある山道から、相輪トウや弥勒石仏方面へ向かいます。<br />後編は、比叡山では珍しい鎌倉時代初期の弥勒石仏や「比叡山4魔所」に数えられる「狩籠(かりごめ)の丘」、少し離れた所にある「瑠璃堂」も加えてレポいたします。<br />この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑥延暦寺 西塔エリア(後編)でお届けいたします。

    比叡山 西塔エリア オオセンチコガネ(大雪隠黄金)
    コウチュウ目コガネムシ上科センチコガネ科に分類される甲虫です。動物の糞を食べる仲間で、近年は野生の鹿などの生息地拡大に伴って分布域を広げているそうです。

    派閥の確執が顕著になったのは、各師主の処遇も一因です。最澄示寂後、義真が座主に就きましたが、最澄は生前に後継者を2度定めていました。まず、後継者として泰範を山寺惣別当に、伝法座主を円澄に指名しました。しかしその10年後、天台の法並びに院内の惣事を義真に、更に仁忠に院内の事を付属しています。後継者を見直したのは、泰範が最澄から訣別して空海の弟子になったのも一因ですが、最澄に随行して天台山で仏教を学んだ義真の後継は半ば必然でした。
    外された円澄は黙っておらず、大乗戒壇設立に奔走し、後に別当大師と尊称された盟友 光定に泣き付きました。光定は円澄を次席の寺主にするよう迫るも、仁忠は拒否しました。光定は、義真が最澄の生粋の弟子でないことから、仁忠がよそ者扱いすると考え、感情のしこりに付け入り、「義真・仁忠」路線を「義真・円澄」路線へと刷新しようとしたのです。しかし仁忠の示寂後、義真が天台宗と延暦寺双方を管領する「天台座主」に就任しました。
    晴れて天台座主となった義真でしたが、天台宗の教勢を伸ばすことには失敗しています。それは淳和天皇が勅命した天長勅撰六本宗書を見ても明白です。さて義真の後継者争いですが、義真は院内の雑務を弟子 円修に授けており、義真示寂後、円修は座主を私号しました。円澄と光定は示寂に立ち会っておらず、円修が座主となることに異議を唱えました。その結果、勅使が比叡山に登り、円修の座主職を停止させて大和国室生寺に追放し、円澄が第2世天台座主となった経緯があります。

    西塔エリアは比較的こじんまりとまとまっており、拝観にさほど時間を要しません。ここからは、シャトルバスに乗って横川エリアへ向かうのですが、バスの発車時刻まで寄り道することにします。釈迦堂の左脇の奥にある山道から、相輪トウや弥勒石仏方面へ向かいます。
    後編は、比叡山では珍しい鎌倉時代初期の弥勒石仏や「比叡山4魔所」に数えられる「狩籠(かりごめ)の丘」、少し離れた所にある「瑠璃堂」も加えてレポいたします。
    この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑥延暦寺 西塔エリア(後編)でお届けいたします。

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