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玄武洞の次に向かったのは、昭和34年(1959年)に竣工した山陰本線の余部駅(あまるべえき)です。1930年(昭和5年)に開業した姫新線の駅は、余部駅(よべえき)と呼ばれています。(ウィキペディア・その他)

2017夏、兵庫と島根の名所(5/15):7月23日(5):余部駅(1):空の駅・余部駅、橋脚

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2017/07/23 - 2017/07/24

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旅行記グループ 2017夏、山陰の名所巡り

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旅人のくまさん

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玄武洞の次に向かったのは、昭和34年(1959年)に竣工した山陰本線の余部駅(あまるべえき)です。1930年(昭和5年)に開業した姫新線の駅は、余部駅(よべえき)と呼ばれています。(ウィキペディア・その他)

交通手段
観光バス

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  • 兵庫県の美方郡香美町香住区余部字ナワテにある、JR西日本の山陰本線の駅、余部(あまるべえき)に到着しました。正式な漢字表記は、『餘部駅』ですが、マスコミなどで使用される『余部駅』の表記とします。JR西日本の山陰本線鎧駅~余部駅間にある橋梁は、『余部橋梁(あまるべきょうりょう)』と呼ばれています。(同上)

    兵庫県の美方郡香美町香住区余部字ナワテにある、JR西日本の山陰本線の駅、余部(あまるべえき)に到着しました。正式な漢字表記は、『餘部駅』ですが、マスコミなどで使用される『余部駅』の表記とします。JR西日本の山陰本線鎧駅~余部駅間にある橋梁は、『余部橋梁(あまるべきょうりょう)』と呼ばれています。(同上)

  • 左側の赤い鉄骨が旧線の橋脚、右側のコンクリートが現在の新線の橋脚です。旧橋梁は1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了しました。旧橋梁は鋼製トレッスル橋、現在の橋梁はエクストラドーズドPC橋です。2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に新橋の供用が始まりました。(同上)

    左側の赤い鉄骨が旧線の橋脚、右側のコンクリートが現在の新線の橋脚です。旧橋梁は1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了しました。旧橋梁は鋼製トレッスル橋、現在の橋梁はエクストラドーズドPC橋です。2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に新橋の供用が始まりました。(同上)

  • 『1969-3(昭和44年3月)』の表示があった、コンクリート製の基礎部分のズームアップ光景です。1960年代に、老朽化の進む橋梁は現在線で補強改良する案とルート変更案が比較検討され、1965年(昭和40年)11月に、補強することでさらに30年以上の使用に耐えるとの結論が出され、補強改良案が採用されました。その時の補強工事の基礎部分かも知れません。(同上)

    『1969-3(昭和44年3月)』の表示があった、コンクリート製の基礎部分のズームアップ光景です。1960年代に、老朽化の進む橋梁は現在線で補強改良する案とルート変更案が比較検討され、1965年(昭和40年)11月に、補強することでさらに30年以上の使用に耐えるとの結論が出され、補強改良案が採用されました。その時の補強工事の基礎部分かも知れません。(同上)

  • 左側のコンクリート製橋脚が現在の新線の橋脚、右側の赤い鉄骨が、旧線の橋脚の基礎部分です。餘部駅側から3本の橋脚は、展望施設として残されましたが、そのほかの橋脚は、基礎部分だけが残されるか、基礎を含めた橋脚すべてが撤去されました。旧橋脚は全部で11本でした。(同上)

    イチオシ

    左側のコンクリート製橋脚が現在の新線の橋脚、右側の赤い鉄骨が、旧線の橋脚の基礎部分です。餘部駅側から3本の橋脚は、展望施設として残されましたが、そのほかの橋脚は、基礎部分だけが残されるか、基礎を含めた橋脚すべてが撤去されました。旧橋脚は全部で11本でした。(同上)

  • 『餘部駅・空の駅』として整備された、鉄橋下の公園部分です。まだ整備が続いているようでした。壁に記された文字は、『余部クリスタルタワー』です。観光施設としての展望台、『空の駅』に建設中のエレベーターの愛称です。(同上)

    『餘部駅・空の駅』として整備された、鉄橋下の公園部分です。まだ整備が続いているようでした。壁に記された文字は、『余部クリスタルタワー』です。観光施設としての展望台、『空の駅』に建設中のエレベーターの愛称です。(同上)

  • 余部駅は撮影場所の背後、新橋の伸びた先は、東方面になる鎧駅・香住(かすみ)駅方面になります。山陰本線の中でも難工事だったとされる橋梁部分です。旧架橋工事中には転落事故で2名が亡くなり、他に83名の負傷者が出たとされます。(同上)

    余部駅は撮影場所の背後、新橋の伸びた先は、東方面になる鎧駅・香住(かすみ)駅方面になります。山陰本線の中でも難工事だったとされる橋梁部分です。旧架橋工事中には転落事故で2名が亡くなり、他に83名の負傷者が出たとされます。(同上)

  • 『空の駅』に登る途中、道の脇にあった説明パネルと石標の光景です。『余部駅の開設』のタイトルがあったパネルには、余部橋梁完成後、47年経過した昭和34年(1959年)に完成した余部駅に関する解説でした。石標には、当時の阪本県知事による『開設記念』の文字が揮毫されています。(同上)

    『空の駅』に登る途中、道の脇にあった説明パネルと石標の光景です。『余部駅の開設』のタイトルがあったパネルには、余部橋梁完成後、47年経過した昭和34年(1959年)に完成した余部駅に関する解説でした。石標には、当時の阪本県知事による『開設記念』の文字が揮毫されています。(同上)

  • 『空の駅』への登り坂の途中から眺めた、旧鉄橋と新コンクリート橋の光景です。旧橋梁は、『鋼製トレッスル橋』と呼ばれる様式で、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する橋梁とされます。多数の橋脚を必要としますので、河川や海上に建設するのには不向きですが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むとされます。(同上)

    『空の駅』への登り坂の途中から眺めた、旧鉄橋と新コンクリート橋の光景です。旧橋梁は、『鋼製トレッスル橋』と呼ばれる様式で、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する橋梁とされます。多数の橋脚を必要としますので、河川や海上に建設するのには不向きですが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むとされます。(同上)

  • 振り返って眺めた、赤い旧橋梁と、新しいコンクリート橋の光景です。橋脚の断面積から言えば、コンクリート橋のほうが地上の占有スペースは少なくて済みそうです。ノスタルジックな赤い橋脚から、スマートなコンクリート製への変更は、強風対策などの技術的な比較検討のうえでの結論だったようです。(同上)

    振り返って眺めた、赤い旧橋梁と、新しいコンクリート橋の光景です。橋脚の断面積から言えば、コンクリート橋のほうが地上の占有スペースは少なくて済みそうです。ノスタルジックな赤い橋脚から、スマートなコンクリート製への変更は、強風対策などの技術的な比較検討のうえでの結論だったようです。(同上)

  • 餘部鉄橋が位置する場所は三方を山に囲まれ、一方は海岸から近いという厳しい地形になります。冬季は季節風や吹雪が吹き付ける環境であるため、完成3年後には早くも塗装作業が必要となり、5年後からは腐食した部品の交換が始められたとされます。(同上)

    餘部鉄橋が位置する場所は三方を山に囲まれ、一方は海岸から近いという厳しい地形になります。冬季は季節風や吹雪が吹き付ける環境であるため、完成3年後には早くも塗装作業が必要となり、5年後からは腐食した部品の交換が始められたとされます。(同上)

  • 『空の駅』に向かう途中の日本海側の光景が続きます。入江は、『余部湾』と呼ばれているようですが、確実な記述は見当たりませんでした。1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅り浜坂駅へ回送中の8両編成の客車列車が、日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、余部橋梁中央部付近から転落する大事故が起きました。(同上)

    『空の駅』に向かう途中の日本海側の光景が続きます。入江は、『余部湾』と呼ばれているようですが、確実な記述は見当たりませんでした。1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅り浜坂駅へ回送中の8両編成の客車列車が、日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、余部橋梁中央部付近から転落する大事故が起きました。(同上)

  • 左右に矢印が分かれた道案内です。右が『余部駅・空の駅』まで130メートルの標識、左の矢印が、『余部橋梁の撮影スポット』まで120メートルの案内です。右に向かいました。(同上)

    左右に矢印が分かれた道案内です。右が『余部駅・空の駅』まで130メートルの標識、左の矢印が、『余部橋梁の撮影スポット』まで120メートルの案内です。右に向かいました。(同上)

  • 次の案内看板にはタイトルがありませんでしたが、『余部駅・空の駅』の背後から眺めた鳥瞰図です。その鳥瞰図に、地元の宿屋やレストランが赤印で紹介されていました。右手に、先程の『余部橋梁の撮影スポット』が記されていました。この地図には、『余部湾』の表記はなく、『余部東港』と『余部西港』の表記がありました。(同上)

    次の案内看板にはタイトルがありませんでしたが、『余部駅・空の駅』の背後から眺めた鳥瞰図です。その鳥瞰図に、地元の宿屋やレストランが赤印で紹介されていました。右手に、先程の『余部橋梁の撮影スポット』が記されていました。この地図には、『余部湾』の表記はなく、『余部東港』と『余部西港』の表記がありました。(同上)

  • 二つの登山道が合流する、三叉路部分にやって来ました。左の道を登れば『空の駅』方面、右側の道は、別の場所からの登り道でした。登り道には、余部駅への赤い矢印表示がありました。(同上)

    二つの登山道が合流する、三叉路部分にやって来ました。左の道を登れば『空の駅』方面、右側の道は、別の場所からの登り道でした。登り道には、余部駅への赤い矢印表示がありました。(同上)

  • 余部(あまるべ)駅に到着しました。海抜は40メートルほどになるようです。旧線の線路の脇にあった、『余部鉄橋・空の駅』の金文字が刻まれた石標です。石材に表面加工したうえで、金文字が記してありました。(同上)

    イチオシ

    余部(あまるべ)駅に到着しました。海抜は40メートルほどになるようです。旧線の線路の脇にあった、『余部鉄橋・空の駅』の金文字が刻まれた石標です。石材に表面加工したうえで、金文字が記してありました。(同上)

  • 旧線にはレールが敷かれたままで、枕木も残されていました。『空の駅』の展望施設部までは、旧線の上を歩くアプローチ道路が60メートルあります。(同上)

    旧線にはレールが敷かれたままで、枕木も残されていました。『空の駅』の展望施設部までは、旧線の上を歩くアプローチ道路が60メートルあります。(同上)

  • 『空の駅』から眺めた、『余部湾』方面の光景です。平成29年3月4日改正されたJR西日本のダイヤでは、香住~餘部間の列本数は、上りの城崎方面、下りの鳥取方面とも1~2時間に1本の割合でした。(同上)

    『空の駅』から眺めた、『余部湾』方面の光景です。平成29年3月4日改正されたJR西日本のダイヤでは、香住~餘部間の列本数は、上りの城崎方面、下りの鳥取方面とも1~2時間に1本の割合でした。(同上)

  • 扉が閉まっていましたが、この扉の先が余部駅側の3橋脚3スパンの展望施設部です。旧施設の『余部鉄橋』は、平成26年度土木学会選奨土木遺産に認定されました。旧余部橋梁が完成したのは、100年以上前になる1912年(明治45年)1月のことでした。(同上)

    扉が閉まっていましたが、この扉の先が余部駅側の3橋脚3スパンの展望施設部です。旧施設の『余部鉄橋』は、平成26年度土木学会選奨土木遺産に認定されました。旧余部橋梁が完成したのは、100年以上前になる1912年(明治45年)1月のことでした。(同上)

  • 『空の駅』から眺めた、『余部湾』に伸びた岬の光景です。海岸線は岩肌ですが、そのぎりぎりまで緑に覆われていました。山陰海岸国立公園に含まれる海岸線のようです。(同上)

    『空の駅』から眺めた、『余部湾』に伸びた岬の光景です。海岸線は岩肌ですが、そのぎりぎりまで緑に覆われていました。山陰海岸国立公園に含まれる海岸線のようです。(同上)

  • 『空の駅』から眺めた、『余部湾』のズームアップ光景です。右手に見えているのが、先に紹介した説明看板のイラストに記された『余部東港』のようです。(同上)

    イチオシ

    『空の駅』から眺めた、『余部湾』のズームアップ光景です。右手に見えているのが、先に紹介した説明看板のイラストに記された『余部東港』のようです。(同上)

  • 余部橋梁ライブカメラへのアクセスについて説明した立看板です。QRコードを読み取ると香美町HPが検索でき、ライブカメラを見ることができます。香美町のライブカメラは5箇所あり、その2番目が余部鉄橋でした。また、香美町のHPから、過去の余部鉄橋の動画を見ることもできます。(同上)

    余部橋梁ライブカメラへのアクセスについて説明した立看板です。QRコードを読み取ると香美町HPが検索でき、ライブカメラを見ることができます。香美町のライブカメラは5箇所あり、その2番目が余部鉄橋でした。また、香美町のHPから、過去の余部鉄橋の動画を見ることもできます。(同上)

  • 現在使用されている新線路の光景です。右端の方に、餘部駅のプラットホームが見えています。新線路を造ったためでしょうか、真新しい擁壁がありました。(同上)

    現在使用されている新線路の光景です。右端の方に、餘部駅のプラットホームが見えています。新線路を造ったためでしょうか、真新しい擁壁がありました。(同上)

  • 余部駅の新しいプラットホームの上から眺めた日本海方面の光景です。『余部湾』と呼んでいたのは、ネット情報を参照したためですが、正式な呼び名は、『香住(かすみ)海岸』の一部になるのかも知れません。(同上)

    余部駅の新しいプラットホームの上から眺めた日本海方面の光景です。『余部湾』と呼んでいたのは、ネット情報を参照したためですが、正式な呼び名は、『香住(かすみ)海岸』の一部になるのかも知れません。(同上)

  • 現在使用されている余部駅のホーム設置されていた駅名表示です。旧字体の『餘部』の文字が記されていました。上り方面の次が『鎧(よろい)駅』、下り方面の次が『久谷(くたに)駅』です。(同上)

    現在使用されている余部駅のホーム設置されていた駅名表示です。旧字体の『餘部』の文字が記されていました。上り方面の次が『鎧(よろい)駅』、下り方面の次が『久谷(くたに)駅』です。(同上)

  • 余部駅の新しいプラットホームの上から眺めた下り方面の光景です。次の駅の『久谷(くたに)』も余部駅と同じように、豊岡駅管理の無人駅です。(同上)

    余部駅の新しいプラットホームの上から眺めた下り方面の光景です。次の駅の『久谷(くたに)』も余部駅と同じように、豊岡駅管理の無人駅です。(同上)

  • 既に紹介しましたが、ズームアップで再度紹介する『余部鉄橋・空の駅』の金文字が刻まれた石標の光景です。『空の駅』の見学を終えて、山を下ることにしました。(同上)

    既に紹介しましたが、ズームアップで再度紹介する『余部鉄橋・空の駅』の金文字が刻まれた石標の光景です。『空の駅』の見学を終えて、山を下ることにしました。(同上)

  • 木々の間から眺めた、余部集落と日本海方面の光景です。余部橋梁が完成してから1950年代までは、余部集落住民が山陰線を利用するためには、列車の合間を縫って徒歩で余部橋梁を渡り、トンネルを潜って隣の鎧駅まで行く必要がありました。このため、地元住民の要望が強く反映された余部駅の開業でした。(同上)

    木々の間から眺めた、余部集落と日本海方面の光景です。余部橋梁が完成してから1950年代までは、余部集落住民が山陰線を利用するためには、列車の合間を縫って徒歩で余部橋梁を渡り、トンネルを潜って隣の鎧駅まで行く必要がありました。このため、地元住民の要望が強く反映された余部駅の開業でした。(同上)

  • 登りと違って、下りの道は楽でした。山側には土留めの擁壁が、谷側にはしっかりとした柵が設けられた道でした。『余部駅』が出来たことにより整備された道のようでした。(同上)

    登りと違って、下りの道は楽でした。山側には土留めの擁壁が、谷側にはしっかりとした柵が設けられた道でした。『余部駅』が出来たことにより整備された道のようでした。(同上)

  • 次第に大きく見えてきた、余部の集落光景です。古くは余戸(あまるべ/あまりべ)と記され、令(りょう)制下の村落制度の名に由来するようです。(同上)

    次第に大きく見えてきた、余部の集落光景です。古くは余戸(あまるべ/あまりべ)と記され、令(りょう)制下の村落制度の名に由来するようです。(同上)

  • 同じ場所からズームアップした、余部の集落と『余部湾』の光景です。現在は、山陰海岸国立公園内にある、美方(みかた)郡香美(かみ)町の漁業を主とする集落です。(同上)

    同じ場所からズームアップした、余部の集落と『余部湾』の光景です。現在は、山陰海岸国立公園内にある、美方(みかた)郡香美(かみ)町の漁業を主とする集落です。(同上)

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2017夏、山陰の名所巡り

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