2017/07/23 - 2017/07/23
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名古屋のmisakoさん
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毎年恒例の短大友人4人で日帰り旅行に出かけて来ました
今年は暑い京都の川床料理、鷹ヶ峰しょうざんリゾートの溪涼床ランチとパワスポ詣でと錦市場です
曇りがちの天気で、比較的涼しく旅行出来ました
名古屋駅8:20-新名神―市比賣神社20分-鷹ヶ峰しょうざんリゾート溪涼床ランチ90分-晴明神社25分-西陣織会館着物ショー見学10分-京菓匠・鶴屋吉信―錦市場60分―新名神―名古屋駅18:50
市比賣神社 P無し 京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入ル
参拝・受付時間受付終了:9:00~16:30
しょうざんリゾート京都 P無料250台 京都市北区衣笠鏡石町47
庭園 入園料一般500円(お食事割引300円)開園時間9-17時
晴明神社 P隣のコインパーキングが便利 京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル)
参拝時間 9:00~18:00(無休)
西陣織会館 P有料 京都市上京区堀川通今出川南入西側
3Fきものショー10分間 10:30 11:30 13:00 14:00 15:00 16:00
京菓匠鶴屋吉信 本店 Pあり 京都市上京区今出川通堀川西入る
錦市場 P有料
公認イートインスペース錦上ル
京都市中京区麩屋町通錦小路上ル梅屋町480
電話番号:075-257-7666
公式サイト:http://nishikiagaru.jp/
イートイン営業時間:11:00-16:30 (LO 16:00)
錦味見処ダイニング営業時間:18:00-22:00 (LO 21:30)
- 旅行の満足度
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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市比賣神社
御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、女性全ての願い事にご利益があります。特に「女人厄除け」の神として厄除け女性の参拝者が全国から絶えません。
平安時代より市場の守り神である市比賣社は、多くの人々で賑わっていました。昭和2年日本で初めて「中央卸売市場」が京都に開設された折、分社として「市姫神社」が祀られています。「五十日百日之祝」(いかももかのいわい)は生後五十日目か百日目に当社より「五十顆之餅」を授かり健やかな成長を祈り子供の口に含ませる現在のお食べ初めの発祥として知られています。源氏物語など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残しています。
(市比賣神社HPより) -
市比賣神社とは
ご由緒
古事記「天の眞名井宇気比の段」御祭神出生の霊明なる誓約の件により、女人守護、市場の交易、商売繁昌を神勅とし、平安時代から皇室、公家万民の崇敬篤く、御神徳を奉賽したことは史記に多々散見する。
当社のご創建は、桓武天皇の御代延暦十四年(七九五年)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣藤原冬嗣公が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わる。天正十九年(一五九一年)豊臣秀吉の時代、現在の地に移転鎮座されました。
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)
多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)
神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)
下光比賣命(したてるひめのみこと)
御神像二体(花山天皇ご勅作と伝わる)
狛犬一体(桃山時代等身大の寄り木造)
御神鏡一面(建長二年、後深草天皇ご寄附)
天目枕(勅名「天之八塩」)
劔鉾一基(天保二年、菊龍鉾)
(市比賣神社HPより) -
御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、良縁・子授け・安産等にご利益があると信仰されています。特に「女人厄除け」の神社として有名です。歴代皇后の御崇敬が篤く、現在も「皇后陛下勅願所」であります。女人厄除けの神様をお祀りしているは、全国でも大変珍しい。
平安時代、当社境内は平安京唯一の官営市場であり、全国から産物が集められ貴族から庶民にいたるまで多くの人々で賑わっていました。平安京の官営左右両市の守護社として創建され、現在でも京都中央市場の守り神として市場市有地のほぼ中央に位置する場所にご分社が祀られています。元は堀川の七条にありましたが、豊臣秀吉の時代に現在の地に移されました。
以来、商いの祖神とされ、現在も分社として「市比賣社・市姫社」が全国に祀られています。昭和二年、日本で初めての公設市場として中央卸市場が開設された折、構内に御分社「市姫神社」が創建されました。当社は総本宮として現在でも多くの人々の信仰を集めています。
本殿は神社建築としては大変珍しく、北向きに建てられています。これは当社が皇室守護の神社であることから、北面し建てられていると伝えられます。
(市比賣神社HPより) -
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落陽の七名水の一つに数えられ、当社神宝天目椀「天之八塩(あめのやしお)」で汲み出された「若水(わかみず)」を、歴代天皇の産湯に用いられたという伝承が残る。現在も名水として茶会、花展・書展等に用いられる。また、絵馬を掛け、「天之真名井」のご神水を飲んで手を合わせると、心よりの願い事が一つだけ叶うと伝えられる。
(市比賣神社HPより) -
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金閣寺の近くに送り火の左大文字の山、大北山があります
京都五山送り火は8/16水曜日
大文字 東山如意ヶ嶽点火20:00
護摩木受付銀閣寺門前8/15 12-19時 8/16 6-14時
良く見える所 賀茂川(鴨川)堤防
妙法 松ヶ崎西山・東山 点火20:05 護摩木受付無し
良く見える所 妙:北山通(ノートルダム女学院周辺) 法:高野橋北
船形 西賀茂船山 点火20:10
護摩木受付西方寺門前8/3-15 8-16時(除外日あり) 8/16 8-10時
よく見える所 北山大橋北西
左大文字 大北山 点火20:15
護摩木受付金閣寺門前8/15 9-15時 8/16 7-14時
よく見える所 西大路通
鳥居形 嵯峨鳥居本曼陀羅山 点火20:20
護摩木受付化野念仏寺駐車場8/13-15 10-16時 8/16 9-15時
よく見える所 松尾橋 広沢池
(京都いいとこマップ7・8月号より) -
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鷹ヶ峰しょうざんリゾート(東急)
大文字山の麓、金閣寺に隣接する景勝の地。前方には鷹ケ峯、広大な敷地の中央には、その昔タスキ掛けの職人が紙を漉いたという「紙屋川」の渓流。この洛北に日本の「庭園美」そして「建築美」を集めた「しょうざん」の建設は、昭和26年にさかのぼる。 ここは、西陣に生まれ、戦後いちはやくウールお召しを開発して世に広めた創設者、故・松山政雄が思い描いた「花と緑の観光工場」。 京の山々を借景に、さらに手をほどこした三万五千坪の庭園。またそこに、戦後消失の運命にあった美しい日本の建造物を移築し、広く万人におとずれてもらい公開を始めたのが「しょうざん」の始まり。 広く着物への理解を深めようと進めた「花と緑の観光工場」建設の源となっているのは、「長い歴史と伝統を誇る西陣の織物は美の極地だが、そのような美しい着尺の色や柄は、美しい環境から生まれる」という、創設者の人間哲学。 四季折々に表情を変える庭園に、点在する日本の粋を集めた茶屋や屋敷。京ならではの「美食」の愉しみから、京の伝統に触れる染色体験、水のせせらぎに憩う溪涼床、どうかごゆるりと、京都ならではの風雅をお楽しみください。
京都に生まれ、特に書の世界では「寛永の三筆」のひとりとして、光悦流の祖となった本阿弥光悦。書家のみならず、その卓越した才能は工芸家、画家、作庭師、能面打ちと、様々な分野で開花し、その活動が日本文化に与えた影響は計り知れないと言われる。 その光悦が、徳川家康から与えられたのが、ここ京都の洛北・鷹ケ峯の九万坪の土地。光悦は俗世や権力から離れ、以後に二十年あまりこの地で創作三昧の日々を過ごす。 光悦の呼びかけに応じて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋が集まり住んだといわれる「光悦村」。また風流をたしなむ豪商も住み、村には多くの家屋敷があったとされる。「しょうざん」に隣接する「光悦寺」は、芸術村にあった光悦の屋敷跡。 江戸時代より、芸術家や風流人が集うこの地の空気は、「着物」という日本文化を発端に築き上げられた庭園とそこに点在する数々の施設の趣と融合し、訪れる人を奥行きのある美しさで包み込む。広大な庭園を流れる風のそよぎは、いにしえより続く日本の文化の香りを運んでくる。 -
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紙屋川
鷹ケ峯、鷲ヶ峰、天ケ峰、京都らしい姿をした三山の麓。
王朝の昔、天皇の綸旨に用いる紙を漉いたと言われる紙屋川の清流を取り込み、三万五千坪をひろびろと占める豊かな自然。
この恵まれた自然美の中にとけ込むように、美しい佇まいを見せるふたつの庭。北山台杉と紀州石とを贅沢に使って、楓と梅林を巧みに配した北庭。
紙屋川の西岸の斜面から続く遊歩道に沿って始まる南庭。
(鷹ヶ峰しょうざんリゾートHPより) -
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胡麻プリン
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四季それぞれの自然の景観にとけ込むように、広大な庭園に点在する屋敷や茶室。日本の粋や贅をこらした現在では貴重な建造物を移築、再生した八つの館は、京料理を楽しむ料亭や京町屋のお食事処として、また迎賓館、茶室として、多くの方の「京の別邸」として、今ここに。
(千寿閣・松峰邸・峰玉亭・湧泉閣・玉庵・聴松庵・酒樽茶室)
(鷹ヶ峰しょうざんリゾートHPより) -
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晴明神社一の鳥居
額に掲げられた金色に輝く社紋「晴明桔梗」が特徴的です。鳥居の額には、通常、神社名やお祀りしている神様の名前を掲げることが多いのですが、この鳥居には社紋が掲げられており、全国的にも珍しいものといわれます。「晴明桔梗」は、「五芒星」とも呼ばれ、晴明公が創られた陰陽道に用いられる祈祷呪符のひとつです。
晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公をお祀りした神社です。
創建は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。
古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮少。古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。
近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。平成15(2003)年には、御鎮座壱千年祭が斎行されました。
(晴明神社HPより) -
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晴明公が念力により湧出させた井戸が、この晴明井です。病気平癒のご利益があるとされ、湧き出す水は現在でも飲んでいただけます。水の湧き出るところは、その歳の恵方を向いており、吉祥の水が得られます。恵方は毎年変わりますので、立春の日にその向きを変えます。
(晴明神社HPより) -
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北斗七星の敷石
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安倍晴明公(920-1005)は、孝元帝(こうげんてい)の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で、幼い頃から非常に多くの道に秀でておられました。特に、天文暦学の道を深く極められ、神道を思いのままに操る霊術をも身に付けられておりました。
成人されてからは、天文陰陽博士としてご活躍。天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てられ、朝廷を始め多くの人々の信望を寄せられたと伝えられています。
晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条の6代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。村上帝に仕えておられた際には、唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれ、帰国後、これを元に日本独特の陰陽道を確立されました。今日、私たちの日常生活の基準となる年中行事や暦術、占法は皆、この時に創られたものです。
そして、一条帝に仕えておられた寛弘2(1005)年9月 26日、85歳でお亡くなりになりますが、晴明御霊神として祀られた後も、我が国の陰陽道の祖として広く世の中の尊敬を集めます。「晴明公にお祈りすれば、不思議な霊の利益を受けることができ、さまざまな災いから身を守り、病気や怪我が治る……」。そうした評判が、今も多くの人々に語り継がれています。
(晴明神社HPより) -
樹齢300年の楠
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本殿北側には、お稲荷さま他2柱の神様が祀られるお社、齋稲荷社があります。齋(いつき)という言葉は、このお稲荷さまが、齋院(さいいん/鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所)にあったことに由来します。晴明公は、お稲荷さまの生まれ変わりとする説があり、各地で稲荷信仰と習合されます。
(晴明神社HPより) -
桃は魔除けなのですね
古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれます。『古事記』や『日本書紀』などでも魔物を追い払う様が描かれています。昔話、「桃太郎」もこれに由来するものだと思われます。誰にでも、自身の厄や、まがまがしいものがあります。それをこの桃に撫で付ければ、清々しい気持ちになることができます。
(晴明神社HPより) -
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社紋「晴明桔梗」のモチーフでもある桔梗。当神社の境内には、その桔梗が咲く桔梗苑があります。境内には、桔梗苑も含めて約2000株の桔梗が植えられており、毎年6月中旬から初秋にかけて、コバルトブルーと白の可憐な花が咲き誇ります。桔梗の開花している期間限定で「桔梗守」を授与しています。
(晴明神社HPより) -
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数多くある晴明公の伝説の中から、代表的な10の逸話を紹介しています。
(晴明神社HPより) -
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晴明神社の少し北には西陣織会館があり、徒歩で数分です
西陣織とは、多品種少量生産が特徴の、京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物の総称です。昭和51年2月26日付で国の伝統工芸品に指定されました。
西陣の織屋は平安朝以降連綿と続いてきた技術とともに、優れたデザインのため創造力や表現力への努力を重ねています。
「西陣」とは、西陣織工業組合の登録商標で、その生産地域は広いが境界は定かではありません。
西陣という行政区域は特別にはありませんが、西陣織にたずさわる業者がいる地域は、京都市街の北西部に位置し、上京区、北区を中心に、おおよそ南は丸太町通、北は上賀茂、東は烏丸通、西は西大路通に囲まれたあたりを指します。
西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。
飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。
平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。
室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。
応仁の乱の西軍本陣が名の由来
ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。しかし、戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。
紋織技術で日本の代表的織物に
また、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になったのもこの頃です。こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されたのです。
西陣織とその産地・西陣は朝廷からも認められ、豊臣秀吉などによる保護を受ける一方、その後も自ら中国・明の技術を取り入れるなどしてすぐれた織物を生み出し、いっそう発展を続けました。そしてわが国の絹織物業の代表的存在であると同時に、京都を代表する産業ともなったのです。
江戸時代になり、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄。大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していました。
苦境を乗り越え近代化にも成功
しかし、江戸時代も半ばを過ぎると西陣にも苦境が訪れます。度重なる飢饉で世の中が不安定となり、幕府による奢侈(しゃし)禁止令もあって需要が減少。また、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことも痛手となりました。
明治になって首都が東京に移されたことも、京都の街全体の勢いを失わせました。
しかし、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応。人材をフランスなどに 派遣し、ジャカード織物などの技 術を取り入れて、近代化に成功したのです。
西陣近代化への期待を担ってフランスへ留学した吉田忠七・井上伊兵衛・佐倉常七(左から)(帰国直前リヨンにて撮す)
技術進化と意匠の洗練、幅広い用途開発も
大正や昭和にいたって、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、わが国の高級織物業の代名詞としての地位を確かなものとしたのです。
現在では、西陣織製品の用途の拡大にも取り組み、伝統的な帯地やきものに限らず、ネクタイやショール、和装小物などの材料用としても格調高いすぐれた製品を生産。壁掛けなどいわゆるインテリア用途の製品が、帯地に次ぐ生産額を占めるほどになっているほか、斬新な感覚の洋風着物などの普及にも取り組んでいます。
(西陣織会館HPより) -
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きものショー
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錦市場
伊藤若冲の生家跡が入口にあり、青物問屋であった若冲の描いた野菜涅槃図を見たいと思いました
ニワトリや象、牛の絵もユニークでしたので~ -
伊藤若冲が京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られている。若冲が描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜という巻物には、野菜だけではなく柘榴や蜜柑、桃といった果物までが描かれている。
極め付けは、野菜涅槃図で、釈迦の入滅の様子を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物たちが描かれている。
このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれる。若冲は、次弟に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた。
しかし、近年、あらたな史料が発見されたことにより、錦市場における若冲のイメージが一変した。その史料とは、「京都錦小路青物市場記録」というもので、明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。これによると、若冲は、錦市場の営業認可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動をおこなっている。その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場に生きていたのである。
(錦市場HPより) -
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鱧串170円、美味しくいただきました
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京都菓匠鶴屋吉信本店は、西陣織会館から徒歩数分です
こんちきちん5個入り -
京菓匠鶴屋吉信本店で買ったこんちきちん5個入り864円
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京菓匠鶴屋吉信本店で買った柚餅540円
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