2017/07/05 - 2017/07/05
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morino296さん
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県立大磯城山(じょうやま)公園は旧三井別邸地区と旧吉田茂邸地区の2つからなる9.9haにおよぶ広大な公園です。
旧吉田茂邸を見学した後、旧三井別邸地区を散策し、歴史に触れることが出来ました。
明治31年に、この地に三井財閥の当主が別荘を構え、全国の有名な古寺社の古材を用いて建てられた「城山荘」を始めとして、庭園の整備が進められましたが、時の流れとともに大部分の施設が他にわたり、その後、荒廃した時期もありましたが、昭和62年に県立の公園として開園しました。
さらに、平成25年に宰相吉田茂が住まいとしていた庭園が拡大整備され、
そして、今年平成29年4月1日から、焼失した旧吉田茂邸が再建され一般公開が始まりました。
コメントは、パンフレットや現地にある解説などを参考にしています。
- 旅行の満足度
- 3.5
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JR東海道線 大磯駅
明治期から別荘地・保養地として、首都圏で活躍する政財界人や文化人が滞在、交流する地域として発達してきました大磯には、旧吉田邸をはじめ、大規模でかつ著名人が構えた住宅・庭園が連なっています。大磯駅 駅
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大磯駅前のバス停
大磯駅から大磯城山公園(旧吉田茂邸)までは約2Km。
歩けないことはない距離ですが、蒸し暑いのでバスに乗ることにしました。
バスは10分間隔くらいであるようです。
城山公園前バス停までは、5停留所、7分程度で行けます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 正門 12:30頃到着
城山公園前バス停で下車、少し歩るくと左手に正門があります。
旧吉田茂邸は、明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年までを過ごしました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 正門を入った所に咲く紫陽花
吉田茂の没後、旧吉田茂邸は西武鉄道へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていました。
平成16年頃より地元を中心に旧吉田茂邸の保存の機運が高まり、県や大磯町により歴史文化遺産として保全・活用が検討され、隣接する「県立大磯城山公園の拡大区域」として、県が整備する方向性が定められましたが、平成21年3月、本邸が火災で焼失してしまいました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 正門を入った所の紫陽花
その後、消失を免れた日本庭園や歴史的資源(兜門・七賢堂など)、大磯丘陵に連なる貴重な緑地を保存活用するため、大磯城山公園の拡大区域とすることが再確認され、平成21年7月に都市計画の位置付けがなされました。
県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建することとなりました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 休憩所前に立つ吉田茂
吉田茂(明治11年~昭和42年)は、高知県出身の自由民権運動家である竹内綱の五男として生まれ、竹内の親友であり実業家である吉田健三の養子となりました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 内門(兜門)
焼失を免れた貴重な建造物である内門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたもので、昭和29年完成。
別名「講和条約門」とも、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれます。
京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、屋根は「檜皮葺き」という伝統的技法が用いられています。焼失を免れた貴重な建築物です。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 内門の正面にある大きなカナリーヤシ
吉田茂がよく散歩をしていたといわれる庭は、心字池や築山のある日本庭園、松林、バラ園、サンルームがあり、日本庭園にはあまり用いられないカナリーヤシが植えられるなど、海外赴任生活の長かった吉田茂の嗜好の多様性、様式にとらわれない人間性が色濃く反映された庭園となっています。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 日本庭園
昭和36年頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園です。庭園設計者である中島健は、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好をふまえ、さまざまな草花やツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りをおこなったと考えられます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸
吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したものです。
昭和22年頃建てられた応接間棟、および昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 玄関
吉田五十八の設計は、アール・デコの要素を取り入れた直線的な建物の外観や、モルタル塗り廻しの大壁といった近代的な素材を利用した和風建築で、内部も空間を広く見せるために部屋の柱をなるべく見せない造りとなっているなど、近代数寄屋建築と呼ばれる手法が随所に見られます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 玄関ホールと中庭
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旧吉田茂邸 館内案内図
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大磯城山公園 旧吉田茂邸 楓の間
昭和22年(1942)頃、内閣総理大臣であった吉田茂が執務室として建てた棟の1Fの部屋で、ソファーセットが置かれており応接間も兼ねていました。
昭和54年(1979)には、大平首相とカーター大統領がこの部屋で日米首脳会談が行われました。
照明器具なども焼失前と同じように復元されているそうです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 楓の間
飾り棚には、ジョン・ダレス元米国務長官やアデナウアー元西独首相などの写真が飾られていました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 楓の間に飾られている衝立
吉田茂と岳父牧野伸顕宛の書簡を表装した衝立(複製)。
西園寺公望、山本権兵衛、原敬、鈴木貫太郎、若槻礼次郎、池田成彬、間蓑伸顕、竹内綱、犬飼毅の書簡が並んでいます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 楓の間 棚に飾られた吉田茂ゆかりの品
吉田茂愛用の杖(複製)、虎の置物(焼失前の吉田邸に置かれていたもの)、置時計(吉田家にあったと考えられる置時計、麻生太郎副総理からの寄贈)。
吉田邸が焼失したためゆかりの品が少なくなっているようです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 楓の間から2Fへの階段
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大磯城山公園 旧吉田茂邸 2F 書斎と南縁
この2Fの部屋には限られた身内以外は許可なく入れない吉田の私的な部屋でした。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 2F書斎
掘り炬燵のある4畳半の部屋は書斎として使われていて、ガラス棚の下の地袋には首相官邸と直結のダイヤルのない黒電話が置かれていたそうです。
(写真では、下段の右隅に黒電話が写っています。) -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 2F書斎の隣の浴室
舟形の浴槽、作成には大磯の船大工が関わったそうです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 庭の藤の木
この藤の木は火災でも残ったものだそうです。
(藤棚は新しくなっています。) -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 1F廊下に置かれているオブジェ
(右)白足袋のオブジェ、(左)葉巻のベンチ
第2次世界大戦で何もかも失った日本の政治・経済を復興させった立役者のひとり吉田茂。
GHQのマッカーサー元帥からの要求を聞きながら、日本の意志を貫くという、アメリカの支配を受けながらも、日本の復興への道標を作り上げた総理大臣吉田茂の「威厳のシンボル」が「葉巻と白足袋」です。
マッカーサー元帥からすすめられた葉巻を「ハバナ産(キューバ)しか吸いません」と他国産であった葉巻を断ったとの逸話があるそうです。
また、常に「白足袋」で正装し「威厳や風格」を保ち、吉田茂はマッカーサー元帥に対して決して卑屈にならず、占領下にあっても人間として対等・矜持を失いませんでした。
「戦争で敗れて外交で勝つ」と豪語していた吉田茂の思いが「葉巻と白足袋」に込められています。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 1F廊下に置かれている言葉のオブジェ「バカヤロー」
昭和28年2月の衆議院予算委員会で議員の質問に「バカヤロー」と言ったことがきっかけとなり衆議院が解散した「バカヤロー解散」。
大きな声で怒鳴ったわけではなく、答弁席から戻る途中、小声でささやいたものが、マイクに拾われてしまったそうです。
「バカヤロー」は吉田茂の豪傑な性格がゆえに、マイナスイメージで語られることが多いですが、日本の平和のために「軸のぶれない」姿勢で臨んだ吉田茂の思いが表れている言葉といわれます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 礎石広場
焼失した吉田茂邸には、今回再建した棟のほかに、大正14年(1925)に建てられた旧館棟や昭和10年に増築されたベランダ東がありましたが、これらの建物は復元されておらず、家屋の土台部分にあった礎石が並んでいます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 1Fの展示・休憩室に飾られた絵
安田靫彦 作 「冨士秋霽(しゅうせい)」(複製)
安田も大磯に住み、吉田邸を時折訪れていた。
吉田は、安田に五賢堂(七賢堂)を入れた富士山の絵を描いて欲しいと頼んでいたそうです。
安田が大磯ロングビーチで写生をし、翌日吉田邸を訪れるも面会が叶わず、帰宅後訃報を知り驚愕したそうです。
それから5年、富士山と左下に七賢堂を描いた作品が完成。
(本作はメナード美術館所蔵品の複製) -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 1Fの展示・休憩室に飾られた勲章
(上)大勲位菊花大綬章
(下左)レジオン・ドヌール勲章 大十字章(フランス政府)
(下右)ドイツ連邦共和国功労勲章 大十字章 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 1Fの展示・休憩室に飾られた書籍など
(上)志賀直哉の直筆サイン本
(下左)銀製シガーケース(北白川宮家から下賜された品)
(下右)銀製灰皿(天皇家から下賜された品) -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 食堂(ローズルーム)
しばしば欧米旅行に出掛けた吉田茂は、訪問先の私邸に宿泊する機会があり、先方の歓待に感激し、吉田自身も、自宅に外国貴賓を招待できるよう、迎賓館を新築することを思い立ち、建築家の吉田五十八に設計を依頼し、京都の宮大工を呼んで築いた総檜造りの数寄屋風和風建築は「吉田御殿」と呼ばれ、国内外の多くの要人が訪れました。
特に、吉田が政界を引退後、政財界の要人たちが訪れることを「吉田詣」と呼びました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 食堂のガラス棚
吉田茂は、実父・竹内綱ゆかりの地である高知の地酒「司牡丹」を愛飲したそうです。
写真には、吉田茂と司牡丹酒造の会長・竹内源十郎が写っています。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 食堂(ローズルーム)からの眺め
玄関前に広がる日本庭園を望むことが出来ます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 食堂(ローズルーム)
アール・デコ調の室内が特徴。
吉田茂は、毎年、外務省に新しく赴任した外交官補たちを大磯の家に招待し、食堂でもてなしていたそうです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 玄関ホールの中庭の横の階段
こちらから新館2Fに上がります。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 新館2F 金の間
賓客を迎える応接間として利用されていた部屋。
装飾に金を使っていたことから「金の間」と呼ばれます。
この部屋からは、箱根山や富士山などの山々と太平洋を一望することが出来ます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 金の間からの眺め
この日は雲が多く見えませんでしたが、晴れた日には富士山を望むことが出来ます。(下の写真参照)
金の間からの眺めは、近景として日本庭園があり、中景として松林、遠景として箱根連山とその向こうに富士山を同時に楽しむことができたため、吉田茂はこの景色を最も愛していたそうです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 金の間から眺める大磯の海
大磯の開かれた海、明るさ、暖かさは、戦後日本の舵取りという大きな使命を担った吉田茂をいやしたそうですが、この景色を見れば納得できますね。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 金の間 床の間に掛けられた伊藤博文の書(複製)
日露戦争時、満州軍総司令官であった大山巌に激励のために送った自作の漢詩。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 銀の間
吉田茂が寝室として使っていた部屋。
装飾品が銀製品であることから付けられた名前。
書斎としても使われており、ガラス棚には蔵書が並び、ベッド横の窓際には執務用の机も置かれていました。、 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 銀の間
昭和42年(1967)10月20日、吉田茂は89歳の生涯を大磯の自宅で閉じました。
亡くなる直前には、寝室として使用していたこの銀の間から、「きれいだね、冨士は」と呟き、しばらく飽きることなく富士山を眺めていたそうです。
10月23日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で内葬が行われ、遺骨となった吉田茂は大磯の自宅に戻りました。
10月31日、遺骨は大磯との永遠の別れ告げ東京に向かう東海道沿道には1万5千人もの町民が列をなして見送ったそうです。
同日、日本武道館で戦後初の国葬が行われ、現在、青山墓地に眠っています。、 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 銀の間に隣接する浴室
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大磯と吉田茂(大磯町教育委員会の解説シート)
葉巻が好きだった吉田茂、風呂に入る時も葉巻を咥えていたのでしょうか?
生前、町民とのつながりが深かった吉田茂は、今でも大磯の人たちに愛されているそうです。
吉田茂が好きだった大磯の名物は、井上蒲鉾店のはんぺん、真壁豆腐店の豆腐、新杵の饅頭、鰻屋國よしの特選うな重定食など、それぞれの店に吉田茂に関するエピソードが残されているそうです。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 玄関前の庭
邸内の観覧を終えて庭に出てきました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 焼失を名脱がれた七賢堂
明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたもので、伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となりました。
昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となりました。
扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相の書いたもの。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 吉田茂銅像
昭和58年に「吉田茂、澤田美喜両先生顕彰建立委員会」によって建立されたもの。
日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれます。
銅像付近からは眺望が良く、富士山、伊豆半島、相模湾、房総半島などが一望できます。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸
戦前に外務官僚として諸外国での領事、書記官、大使などを歴任し、戦後は通算5期(6年2ヶ月)にわたって内閣総理大臣を務めた戦後の代表的な政治家。
この間、昭和26年には、サンフランシスコ講和条約の締結を実現し、日本の国際社会への復帰を果たすなど、戦後復興を成し遂げ、社会の在り方を方向付ける役割を担ったと言われています。
また、吉田茂は、池田勇人や佐藤栄作など、多くの後進を育てたことも知られ、彼ら「吉田門下生」がよく訪れていた場所でもあります。
孫にあたる麻生副総理の顔は、やはり吉田茂に似ている気もしますね。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 吉田茂銅像の前から望む海
現在は、海岸との間を西湘バイパスが走っていますが、吉田茂が住んでいた頃は海岸線まで庭が続き、プライベートビーチとなっていたことでしょうね。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 日本庭園 心の字池から眺める旧吉田茂邸
右側が金の間、左側が銀の間になります。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 日本庭園に咲く花
ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)でしょうか。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 日本庭園に咲く紫陽花
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大磯城山公園 旧吉田茂邸 13:50頃
団体さんが何組も到着されました。
大磯町のHPを調べてみると、午前11時頃と午後2時頃が一番混むので、開館早々か午後3時以降が狙い目とのこと。
一足お先に失礼させてもらいました。 -
大磯城山公園 旧吉田茂邸 駐車場の横にあるバラ園
吉田茂は、バラを愛し、日本ばら会の会長を引き受けていたこともあったそうです。
昭和36年頃、現在の駐車場の敷地にバラ園がつくられ、多くのバラが咲きほこり、吉田茂は朝夕日課のように、この名園を散歩していたといわれています。
吉田茂の国葬の際、納骨台まわりには白バラが飾られ、その中にはこのバラ園で摘まれたバラも含まれていたそうです。
昭和54年のカーター大統領・大平首相の日米会談で旧吉田茂邸が利用された際、当時のバラ園は駐車場に転用されたため、バラ園は現在の面積に縮小されました。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区の入り口にある石碑
大磯城山公園は、旧三井別邸地区(7ha、約21千坪)と旧吉田茂邸地区(2.9ha、8.7千坪)を整備した神奈川県立都市公園です。
旧三井別邸地区は、豊かな自然の中に茶室や郷土資料館などが点在し、展望台からは遠く相模湾から伊豆半島、箱根連山から富士山などが一望のもとに眺めることが出来ます。県立大磯城山公園 公園・植物園
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大磯城山公園の案内図
旧三井別邸地区(図の上側)と旧吉田茂邸地区(図の下側)の間を国道1号線が走ります。県立大磯城山公園 公園・植物園
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 南門
公園の南側、正面入口に位置する木造の門。県立大磯城山公園 公園・植物園
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大磯城山公園 旧三井別邸地区
南門を潜ると、静かな園内路が木立に包まれるように続きます。県立大磯城山公園 公園・植物園
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 展望台
展望台へは後程。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 展望台の左横にある亀蔵門
こちらの園内路を進んでみます。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 園内路脇の紫陽花
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 園内路脇の紫陽花
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 国府橋(こうのはし)
この橋は、静かな緑に囲まれた園路散策でのビューポイントになっていて、
こゆるぎの滝を見下ろすことができます。
小淘綾ノ滝(こゆるぎのたき)はもみじの広場、不動池へと流れてゆきます。
下の写真は三井別邸時代にあった「通雲橋」。
橋脚には、京都・東福寺の通雲橋の橋脚の古材が使われていたそうです。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区
アガパンサスが咲いていました。
ヤマユリが見られるのではと期待していましたが、まだ蕾でした。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 北蔵ギャラリー
昭和16年頃に建てられたという蔵。当時がしのばれる数少ない建物です。東蔵も同時代に建てられました。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 城山荘本館の解説
展望台のあたりにあった城山荘本館は、建築家久米権五郎設計の木造建造物で、昭和9年暮れに完成。
本館中央には「養老閣」と呼ばれる四層の塔屋があり、屋上は展望室となり、屋根には鶴の飾りが取り付けてありました。
全国の寺社の古材を使い建築され、歴史的にも価値の高い建物でしたが、昭和45年、現在は解体され京都に保存されているそうです。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 展望台
城山荘本館の屋根とと同じ鶴の飾りがあります。
城山荘は、明治31年、三井総領家第10代当主三井八郎右衛門高棟(たかみね)が設けたもの。
三井家の家訓を制定し同族をまとめ、事業を改善し、安定した事業基盤を築くなど三井財閥の繁栄を担った高棟は、夏の休暇や療養でここを頻繁に利用したそうです。
高棟は昭和8年に家督を高公に譲り、ここ城山荘を終の棲み家と決め、別館の建設に取り掛かったそうです。
全国の古寺社で不要となった古材を集めて再利用して建てた建物と自然豊かな庭園は、三井家の家風であった質素倹約を体現したもの。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 展望台からの眺望
中世の城跡でもあるだけに、眺めのよさが自慢です。
眼下の相模湾を前景に富士山から伊豆半島にかけての山並みを一望することができます。
関東の富士見百景のひとつですが、残念ながら、ご覧のように厚い雲がかかり山並みは見えませんでした。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 ひかりの広場の横にあるお堂の跡
三井別邸時代には、ここに法雲堂があったそうです。
お堂は、奈良・薬師寺の古材を用いて建てられていたそうです。
台座の部分は、当時のまま残されており、東屋が設置されています。
江の島や三浦半島を眺望する初日の出スポットとして親しまれているそうです。 -
大磯城山公園 旧三井別邸地区 大磯町郷土資料館
大磯周辺地域の歴史、風土、民俗を紹介しています。
赤いポストは1号丸型ポストで昭和25年から60年まで大磯町内で使われていたもの。大磯町郷土資料館 美術館・博物館
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 大磯町郷土資料館 玄関ロビーに飾られた彫刻
城山荘本館の広間吹抜上部に使われていた彫刻です。
城山荘は、別名を古材館と呼ばれ、全国各地の寺社から寄贈された古材を活用して造られました。
城山荘本館は、名古屋鉄道の所有になった後、昭和45年に解体。
京都の安井杢工務店より保管されていた古材の寄贈を受けて、欠損部材を復元し展示が実現したものだそうです。
(館内の写真撮影は玄関ホールのみ可能です。)大磯町郷土資料館 美術館・博物館
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 大磯町郷土資料館
玄関ロビーにある城山荘の解説。大磯町郷土資料館 美術館・博物館
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大磯城山公園 旧三井別邸地区 国宝茶室「如庵」跡
郷土資料館の前の広場に「如庵」があったそうです。
「如庵」は織田有楽斉の創案により、元和4年(1618)に京都・建仁寺塔頭正伝院に建造され、明治42年、東京の三井邸内に移され、昭和11年国宝指定を受け、戦火を逃れるため昭和13年にここ三井別邸城山荘に移築された。
昭和45年、犬山市有楽苑に移築され、現在に至ります。
(犬山市に移築されたのは、当時、名古屋鉄道が所有していたためでしょうね。)
大磯城山公園を散策、いろいろな解説を読み勉強をさせていただきました。
帰りは、ちょっと寄り道をしてみます。大磯町郷土資料館 美術館・博物館
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平塚 銀座通り
城山公園前から平塚駅行きのバスに乗って平塚まで移動しました。
この時期、平塚といえば「七夕祭り」。
きっと、七夕飾りが見られるだろうと期待していたのですが・・・。
ご覧のように、飾りつけのための竹竿は準備が済んでいましたが、飾りつけはまだでした。
この風景を見られるのも限られた日だけですよね。 -
平塚 銀座通りの七夕飾り用の竹竿
平塚では、竹竿を立てるための仕掛けが隠されています。 -
平塚 紅谷町まちかど広場
この広場には、既に七夕の飾りつけがされていました。
七夕祭り、果たして、お天気はどうでしょうか。
星空も見えるといいですね。
(おしまい)
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この旅行記へのコメント (6)
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- senseさん 2017/07/18 08:38:43
- はじめまして、senseです
- いいね、ありがとうございます、早速伺いましたら、あまりに美しく映像を見せていただき、感激し、こうしてお話ししています、
カメラが好きな方だからでしょうか、花が美しく、、私は、お花が大好きなので、これからも伺います、フォローさせていただきますねー、
お寺さんの映像も、暑い夏、爽やかな景色、緑に。涼やかな風が吹いてきました、ありがとうございました(^ ^)
- senseさん からの返信 2017/07/18 08:40:41
- Re: はじめまして、senseです
- 追、大磯、先日行ってきましたが、吉田邸は、行けなかったので、拝見でき嬉しいです
- morino296さん からの返信 2017/07/18 20:36:07
- RE: はじめまして、senseです
- senseさん
こんばんは。
いいね&書き込みいただき有難うございます。
また、フォローもしていただき有難うございます。
このところの暑さで、外出するのも億劫になっていますが、
鎌倉へ夏の花を求めて出掛けました。
鎌倉にある花の寺は、一年を通して楽しめるので嬉しいです。
また、花の写真もUPしてまいりますので、宜しければご覧ください。
morino296(森のフクロウ)
- morino296さん からの返信 2017/07/18 20:45:36
- RE: Re: はじめまして、senseです
- senseさん
続けて書き込みいただき有難うございます。
一時休業前の大磯プリンスホテルへ行かれたのですね。
旧吉田茂邸はすぐ隣ですね。
旧吉田茂邸も一時期、プリンスホテルが管理していたそうですが。
今年の4月1日に一般公開が始まり、
そろそろ落ち着いた頃ではないかと出掛けましたが、
団体客も多くて混んでいました。
まだ、出来立てのホヤホヤでとても綺麗ですが、
焼失前の建物も見てみたかったです。
morino296
-
- エトランゼさん 2017/07/08 22:11:31
- 吉田茂邸
- morino296さん、こんばんは。
毎日暑いですね。
吉田茂邸が復元されたというので3月に行ったのですが、まだ公開前で内部を見ることができませんでした。
296さんのこの旅行記でしっかり見せていただきました。
やはり一国を代表する人物の邸宅ですから細部にわたりこだわった造りですね。
まだ木の香も新しいのでしょうね。
平塚にも寄られたのですね。
今年の七夕祭りは雨もなくさぞかし賑わっていることでしょう。
エトランゼ
- morino296さん からの返信 2017/07/08 22:35:59
- RE: 吉田茂邸
- エトランゼさん
こんばんは。
暑中お見舞い申し上げます。
暑さで、出掛けるのが億劫になりますね。
旧吉田茂邸が焼失した時は驚きました。
その後、どうなっていたのか知りませんでしたが、
多くの皆さんの寄附で復元されて良かったですね。
エトランゼさんの旅行記も拝見していましたので、
機会があれば行ってみたいと思っていました。
一般公開直後は混み合うでしょうが、
3ヶ月経てばそれ程でもないだろうと思って行ってみましたが、
団体さんも来ていてビックリしました。
ボランティアガイドさんも大忙しのようでした。
平塚の七夕祭りは、ちょっと暑すぎたかもしれませんが、
雨は降らずにすんで良かったですね。
七夕の飾りつけは、結構、直前にやるのですね。
明日は、江の島でお祭りがありますよ。
morino296
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