2017/06/17 - 2017/06/17
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旅人のくまさんさん
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続日本百名城の吉田城の紹介です。永正2年(1505年)に築かれた時は、今川勢の城として松平勢の東三河進出に備える役割もあり、やがて三河支配権をほぼ確立させ、家康も今川勢の人質となった時代もありました。
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本丸エリアの北西端方向の光景です。こんもりとした木々の奥に、石垣の上に建つ建物の一部が見えてきました。1954年(昭和29年)に模擬再建された『鉄櫓(くろがねやぐら)』です。この後は、『再建鉄櫓』と呼ぶことにします。
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イチオシ
『鉄櫓(くろがねやぐら)跡』に建てられた模擬天守代わりの復興櫓の光景です。先程、この後は『再建鉄櫓』と呼ぶことにした隅櫓です。現在、内部は展示室として使われています。
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更に近寄って眺めた、現在の吉田城のシンボルの建物となっている『再建鉄櫓』の光景です。三層の建物です。江戸時代の絵図にも、三層櫓の『鉄櫓』が残されていたようです。
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イチオシ
『鉄櫓(くろがねやぐら)跡』の石標の光景です。江戸時代の縄張り図には、本丸エリアの四方の土塁の場所に櫓が記されていました。天守は無く、隅櫓の一つである『鉄櫓』が天守の代わりをしていたようです。
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近寄って見上げた、『再建鉄櫓』の東南角の光景です。この建物は、戦後の鉄筋ココンクリート造りのようですが、江戸時代の天守では、外壁は防火の観点から土壁であり、柱まで土壁で覆い隠すほど分厚い大壁造(おおかべづくり)でした。土壁の仕上げの処理には大別して2種類あり、漆喰を塗って白く化粧した『塗籠(ぬりごめ)』と、下塗の上に黒塗りの板を張った『下見板張(したみいたばり)です。『再建鉄櫓』では、土台の石垣に近い部分には下見板張、その上部や軒下には、塗籠が使われていました。
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漆喰の白い仕上げで有名なのが、『白鷺城』の呼び名で有名な姫路城です。下見板張の仕上げでも有名なお城は数多くあります。『烏城』の別名を持つ松本城、『金烏城』の岡山城などです。かつての信長の安土城や秀吉の大阪城では、黒漆が使われました。下見板張の方が、一般的には安価に思えますが、豪華な造りになっているケースもあります。姫路城も、最近化粧直しがされたように、漆喰も定期的なメンテナンスが不可欠です。
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『吉田城鉄櫓』の表札が懸かった正面出入口の光景です。現在時刻は15時15分頃ですが、『本日終了』の表示がありました。入館は無料ですが、水曜~日曜の10:00~15:00の開館とされます。
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『再建鉄櫓』の土台の石垣のズームアップ光景です。池田輝政時代を彷彿させるような野面積になっていました。算木積とは少しイメージが異なりますが、角の石には、特に大型の石が使われていました。経年変化が見られませんから、再建された石垣かも知れません。
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『武具所跡』の石標があった見晴台の光景です。鉄櫓と北御多門の間にあった建物です。前方に見えるのは、吉田城の北側の守りを担った一級河川の豊川です。豊川の河川延長は77キロ、流域面積は724平方キロとされます。最終は豊橋市で三河湾に注ぎます。
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東南方面から見上げた、『再建鉄櫓』の上層建物光景です。天守閣がなかったとされる江戸時代に天守の役割を担ったとされますから、それに相応しい三層の建物だったのかも知れません。
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豊川に面した、『再建鉄櫓』の北面の光景です。石垣から張り出した部分は、『石落し』の構造のようです。
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『再建鉄櫓』の北東方面の光景です。『石落し』があったのは、攻められる恐れが高い北面だけで、東面には設けられていませんでした。
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イチオシ
『武具所跡』から眺めた北側方面の光景です。吉田城は、豊川と朝倉川の合流地点に立地しています。北側から流れ込み、大きく西(左)に曲がったのが豊川、東側から合流した小さな川が朝倉川です。この写真では、朝倉川は見えていません。朝倉川は、愛知県豊橋市多米町の静岡県との県境付近に源を発し、西に流れる豊川水系の1級河川です。
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北側から流れ込み、大きく西に曲がった豊川のズームアップ光景です。豊川の源流は、愛知県北設楽郡設楽町にある標高1152メートルの段戸山です。南に向かって愛知県東部の山間部を流れ、長篠城址付近で宇連川を合わせ豊橋平野に流れます。
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朝倉川と合流し、西に向かって流れる豊川の光景です。古くは飽海川(あくみがわ)、吉田川(よしだがわ)、豊川(とよがわ、とよかわ)と呼ばれていました。現在、河川名は新河川法により、濁った読み方の『豊川(とよがわ)』とされています。
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『本丸』北端の『再建鉄櫓』の下の通路光景です。時間の都合で、下までは向かわずに、上から眺めた光景になりました。左手に見える『再建鉄櫓』の石垣は、池田輝政公時代のものであることが確認されています。
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河川を背後にした縄張りの欠点は、背水の陣を強いられた時、渡河され、背後から本丸を直接攻撃される可能性があることです。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っています。『鉄櫓』の真下付近には、『川手櫓』が設けられていました。
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河川を背後にした縄張りを持つ吉田城址の紹介が続きます。江戸時代の縄張り図には、『川手櫓』よりも豊川寄りの石垣が記されていました。この通路の豊川寄りに築かれた石垣のようでした。
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吉田城址の北側の虎口の光景です。『川手櫓跡』を撮影できませんでしたが、これで、吉田城の豊川寄りの防御の紹介はおしまいです。ネット写真では、『川手櫓跡』の石垣はそのまま残され、建物跡には柵が設けてありました。また、対岸からの写真も、『川手櫓跡』の石垣がよく見えていました。
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もう一度、別の角度からの撮影で紹介する『再建鉄櫓』の光景です。破風や軒下などは、すべて漆喰で塗り固めたように見えました。『鉄櫓』の真下付近にあった『川手櫓』も、明治初年に吉田藩の家老だった深井清華が撮影した写真では、三層櫓の姿でした。
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東側から眺めた、『再建鉄櫓』の光景です。1954年(昭和29年)に模擬再建されたにしては、随分と綺麗な石垣と、櫓の建物光景でした。既に60年以上が経っています。
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本丸内の植木の光景です。地震か台風の影響を受けた松の木でしょうか、横向きに伸び、添え木がされていました。本丸御殿は、深溝(ふこうず)松平家時代(1621~1632年)に造られたとされますが、宝永の大地震(1707年)で倒壊してしまったようです。
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虎口の構造のように見えた、本丸の周りの石垣光景です。『本丸北御多門』当たりになるのようです。左側の通路には進みませんでした。
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松の古木と、その背後の石垣の光景です。かつての本丸は、今は広場となっている、石垣で囲われ、四方を隅櫓で護られた中にあったようです。四方の櫓は、再建された北西隅の『鉄櫓』を始め、北東隅の『入道櫓』、南東隅の『辰巳櫓』と南西隅の『千貫櫓』です。『辰巳櫓』だけが方角で呼ばれていたようです。
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本丸の周りの石垣光景が続きます。石垣の上に向かって、内側から築かれた石段光景です。隅櫓跡かもしれません。本丸南東の『辰巳櫓』へ上がるための石段当たりでしょうか、あるいは、本丸東北の『入道櫓』方面かも知れません。
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本丸の周りの石垣のコーナー部分の光景です。写真を撮り損ないましたが、本丸の東部エリアには、『本丸井戸跡』の標識もあるようです。
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左端が積み直された石垣、その右背後が、地震被害を受けたようにも見える、半ば崩れたような石垣の光景です。
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この辺りの石垣は、土塁の片面を固めたものにも見えます。地震被害を受けたように見えますが、積み直しはされずにそのままになってしまったようです。
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松の大木の間から眺めた、吉田城址の『再建鉄櫓』の光景です。天守閣の風格を漂わせる三層の堂々とした建物です。
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もう一度背後を振り返って眺めた、吉田城の『再建鉄櫓』の光景です。かつては本丸があった広場は、松の大木が主役になっていました。
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