2017/06/17 - 2017/06/17
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旅人のくまさんさん
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続日本百名城の吉田城の紹介です。永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主の牧野古白が、今川氏親の命により築城したと伝わります。大永2年(1522年)、今橋城は吉田城に改称されました。
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日本百名城の長篠城の次に訪れた吉田城の紹介です。吉田城は、2017年4月に続日本百名城の151番に選ばれました。愛知県で選ばれた3箇所の内の1箇所です。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。豊橋駅から市電に乗って最寄り駅の豊橋公園前で降り、北方向に歩いて吉田城を目指しました。
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市電を降り、吉田城の近くまで歩いてやって来ました。左側のステンレスの案内標識には、『豊橋市美術博物館』の文字がありました。右の看板が、公園駐車場と市役所地下駐車場の案内でした。この付近も、名護屋城よりも広いとされる、かつての縄張り内です。
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前方に見えてきたのは、豊橋市美術博物館です。クラシックな西洋建築の建物でした。昭和54年(1979年)6月、市制70周年を記念して、吉田城址にある豊橋公園の一角に開館した美術博物館です。
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『三の丸跡』のエリアから眺めた、西方向の光景です。正面のビルは、豊橋市役所です。かつては、『本丸』を取り囲んで『二の丸』があり、更にそれを取り囲んで『三の丸』がありました。右手に見える豊橋市美術博物館の位置は、『二の丸跡』に接した『三の丸跡』になります。
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鬱蒼とした吉田城址の木立の光景です。この辺りは『三の丸』か、『二の丸』か、微妙な位置でした。吉田城の歴史は、永正2年(1505年)、牧野古白により『今橋城』が築かれたことに始まります。 戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、呼び名も『吉田城』と改められました。どちらの名前も、地名に基づくものです。
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大きな根が露わになった古木の光景です。その右横に石標がありました。『評定櫓跡』の標識でした。その背後にも、露わになった大きな根が這いまわっていました。吉田から豊橋への改名に伴い、現在は『豊橋城』とも呼ばれるようです。
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二の丸エリアにあったとされる、『評定櫓』の標識です。先程の標識とは別の標識です。『評定櫓』は、かつての縄張り図には、二の丸の中央南部の膨らんだ場所の東側に記されていました。『評定櫓』は三層建てで、『二の丸御殿』に最も近く、形式上藩政を評議する場所として用いられたようです。
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桶狭間の戦い(1560年)の後、岡崎城に戻ることが出来た松平(徳川)家康は、今川家と離れて信長と同盟を結び、永禄7年(1564年)には吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590年)、家康の関東移封により池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いました。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の戦功で姫路に所替えになり、吉田城の城造りは完成しませんでした。
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イチオシ
落葉が積もった林の中にあった、『二の丸御殿跡』の石標の光景です。かつての縄張り図には、本丸より南部の二の丸の東端付近に記してありました。
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敷地のあちらこちらに散らばっていた、かつての吉田城址に縁がありそうな石材の光景です。この石材も、コンクリート片ではないようでした。細かくは観察していませんが、折れた石柱のイメージでした。
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同じく、『二の丸跡』の光景です。池田輝政公が、在城10年で播州姫路に所替えとなった後、松平、水野、小笠原、久世、牧野などの、9家22代の譜代大名が城主となりました。池田輝政によって大拡張された城地ですが、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため未完成のまま明治に至りました。幕閣に登用される前の出世コースだったようです。
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吉田藩士だった富田良穂(1848~1921年)の歌碑です。刻まれている和歌は、『三河なる二葉の松の生立てる 今はときはの色にいづらむ』です。新潟県の弥彦神社の神官や、愛知県会議員を務めた方です。右上のプレートに和歌、左下のプレートに略歴が記されていました。
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木々の後ろに見えていた土塁らしい光景です。測定したわけではありませんが、高さは2メートルを超えているようでした。
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同じく、木々の後ろに見えていた土塁らしい光景です。縄張り図を参照しますと、『二の丸御殿』の東側の土塁土塁かもしれません。土塁は堀と一体となって、その内側に設けられていました。
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空堀を横断した倒木の光景です。小枝は取り払われていましたが、幹と大きな枝は、なぜかそのままでした。この堀も、かつては『本丸』を取り巻いた四重の堀の一つであり、水が湛えられていたようです。『二の丸』と『三の丸』の間の堀になるようです。あるいは、『本丸』を取り囲む堀の一部だったかもしれません。
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鬱蒼と木々が生い茂る吉田城址の光景です。現在の吉田城址は、豊橋公園の中に含まれますので、この辺りは公園と咲いて整備された区域になるかも知れません。『二の丸』から『三の丸』にかけての区域です。
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同じく、豊橋公園の一部として整備されたように見える、『二の丸』から『三の丸』にかけての光景です。通路部分と樹木が生い茂る花壇部分とがエリア分けされていました。
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中央付近の大樹の近くに、『緑の都市賞受賞・記念樹』らしい文字が刻まれた石標が見えました。石標の側面には、『クスノキ』の文字がありました。昭和57年(1982年)、第二回での『公共部門』での受賞の豊橋市のことでした。受賞テーマは、『緑のまち豊橋 ~焼け跡から37年、自然との調和を求めて~』でした。
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前方に見えてきたのは、『本丸』への入口の一つ、『南御多門』のようです。縄張り図を参照しますと、本丸への出入口は、川に面した北側、東側と、この南側の3箇所がありました。西側には出入口は記されていませんでした。
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ブロンズの肖像が嵌め込まれた石碑の光景です。『中村道太碑』のタイトルがありました。『中村道太(みちた:1836~1921年)』氏は、元は三河・吉田藩士で、明治・大正期の実業家、教育者です。
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題字が読み取れませんでしたが、最初の行に『天保7年生まれの吉田藩士』の文字が読み取れましたから、こちらも『中村道太碑』のようです。末尾の方の86歳で亡くなったことも読み取れました。慶応2年(1866年)、福沢諭吉(1835~1901年)と師弟関係を結んだとされます。諭吉は、明治六大教育家の内の一人です。
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『冠木門跡』の文字が刻まれた、まだ新しい石標の光景です。『南御多門』とも呼ばれていたようです。枡形構造になっていますので、一の門が『冠木門』、本丸側の二の門が『南御多門』のようです。
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イチオシ
枡形構造になっていますから、一の門が『冠木門』、本丸側の二の門が『南御多門』と呼ばれていたとするネット情報もありました。その枡形付近の光景です。
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イチオシ
本丸への出入口になる、『南御多門』付近の石垣の光景です。打込み接ぎのような部分も見えますが、全体としては野面積に近い積み方のようです。その石垣を調査中の人の姿がありました。
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空堀のズームアップ光景です。かつては水が満たされていたようです。本丸の回りを始め、二の丸、三の丸と武家屋敷を含め、四重の堀で護られていた吉田城です。
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『吉田城』のタイトルがあった説明看板です。『吉田城略史』と『石垣と刻印』について説明されていました。中央の図は、吉田城の本丸と二の丸の略絵図です。石垣の刻印は、現在までに50種類ほどが確認されたようです。
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説明看板にも記されていた吉田城の石垣の紹介です。吉田城最古の石垣は、池田輝政が築いたとされ、現存しています。この石垣は二段に積まれた、打込み接ぎ風の石垣です。所々に野面積風の部分も見えました。この石垣は、本丸の隅櫓の一つ、南西部の『千貫櫓』になるようです。
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比較的近年に補修がされた石垣のようですが、大きなずれや膨らみがありました。吉田城が被害を受けた江戸時代の大きな地震には、宝永4年(1707年)の宝永地震と嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られています。
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石垣の光景が続きます。池田輝政公の時代に、大規模に拡張された城域ですが、石垣が使われたのは『本丸』だけで、その他は数カ所だけだったようです。本丸以外は、土塁と堀で護られた城です。
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本丸エリアを守る石垣の光景です。右手に見える石段は、『本丸』の内側から石垣に向かって上るためのようでした。下の方は、松の根に占領されていました。本丸南西部の『千貫櫓』辺りになるようです。
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2017年初夏、続日本百名城の吉田城
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