2017/06/23 - 2017/06/24
84位(同エリア660件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
≪2017.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その弐之四~四日日:沖縄島南部を巡る一日編~
一年間の沈黙の期間を経て実現した今回の来沖。エアーチケットとレンタカー・常宿の手配は1月の半ばには済ませています。しかしその後『資格試験』や『合格祈願』、そして『お礼参り』に加えて『戦争を辿る旅』にかまけていた結果、6月初旬まで計画を見直すことすら出来ませんでした。結果いつもながらではありますが『Special No Planの旅』で出かけることにならざるを得ませんでした。そんな旅もはや4日目、今回の旅のメインイベントである『戦後72年目の慰霊の日』。沖縄県全土に於いて先の大戦で亡くなられた方々の慰霊の式典が行われる日になります。事前に慰霊祭が行われる『予定』を知ることが出来ればある程度行き先を決めて回ることができますが、多くの慰霊碑を管理する団体が、会員の高齢化を理由に慰霊祭の施工を取り止めている昨今、慰霊祭について事前に情報を得られなくなっている現実があります。沖縄県や各市町村は勿論その情報すら把握していないため、現地での情報収集が唯一の手段となっており、決して効率も良くありません。そのような背景もあり、口伝て情報で回るのであれば以前に訪れた実績によるしか方法はありません。
今年の6月23日に訪れた追悼式典や慰霊祭に関しては、速報という形で既に記述しました。そのためここでは『沖縄のいちばん長い日』の過ごし方について改めて思い返して書いています。あくまで『日記』としての内容ゆえ写真をただ載せているだけに過ぎませんので、あまり深い意味はありませんのでご了承下さい。
それでは今年の6月23日はどうなったのでしょうか・・・。当日の朝を迎えます。
平成29(2017)年6月23金曜日
みん宿ヤポネシア 09:30 《0.0km・0.0km・236.7km・0.0km/h》
ファミリーマート 09:33 《1.3km・1.3km・238.0km・26.0km/h》1.3
糸 満 米 須 店 09:52
三和郵便局 09:55 《1.7km・3.0km・239.7km・34.0km/h》3.0
10:00
高嶺郵便局 10:06 《3.7km・6.7km・246.4km・37.0km/h》6.7
10:12
兼城郵便局 10:31 《2.5km・9.2km・248.9km・7.9km/h》9.2
10:37
潮平郵便局 10:42 《2.9km・12.1km・251.8km・34.8km/h》 12.1
10:48
ファミリーマート11:05 《5.0km・17.1km・256.8km・17.6km/h》17.1
糸満西崎三丁目店11:16
沖縄銀行 11:19 《0.8km・17.9km・257.6km・16.0km/h》 17.9
西崎支店 11:32
農業試験センター 11:45 《6.3km・24.2km・263.9km・29.1km/h》 24.2
11:50
平和祈念公園 12:10
13:49
農業試験センター 14:10
14:19
白梅の塔 14:25 《2.2km・26.4km・266.1km・22.0km/h》 26.4
15:19
糸満郵便局 15:25 《2.5km・28.9km・268.6km・25.0km/h》28.9
15:32
糸満新里郵便局 15:36 《1.2km・30.1km・269.8km・18.0km/h》 30.1
15:48
糸満西崎郵便局 15:55 《1.8km・31.9km・271.6km・15.4m/h》31.メーター9
16:01
ローソン沖縄 16:14 《3.5km・35.4km・275.1km・16.2km/h》 35.4
水産高校前店 16:24
糸洲の壕 16:29 《2.0km・37.4km・277.1km・24.0km/h》37.4
16:34
第一外科壕跡 16:42 《3.6km・41.0km・280.7km・27.0km/h》41.0
16:50
ひめゆりの塔 16:52 《0.6km・41.6km・281.3km・18.0km/h》41.6
17:15
魂魄之塔 17:18 《1.4km・43.0km・282.7km・28.0km/h》43.0
17:33
ずゐせんの塔 17:36 《1.1km・44.1km・283.8km・22.0m/h》 44.1
17:41
ファミリーマート 17:44 《0.6km・44.7km・284.4km・12.0km/h》1747
糸 満 米 須 店 17:58
平和祈念公園 18:08 《2.4km・47.1km・286.8km・14.4km/h》 47.1-3.6
20:17
ファミリーマート 20:24 《3.6km・50.7km・290.4km・30.9km/h》 50.7
糸 満 米 須 店 20:35
みん宿ヤポネシア 20:38 《1.5km・52.2km・291.9km・30.0km/h》? 52.2
22:10
具志頭郵便局 22:18 《5.9km・58.1km・297.8km・44.3km/h》58.1
22:20
ローソン八重 22:22 《0.7km・58.8km・298.5km・21.0km/h》 58.8
瀬 玻名城 店 22:39
みん宿ヤポネシア 22:48 《5.7km・64.5km・304.2km・38.0km/h》 64.5
【宿泊】
みん宿ヤポネシア
《1泊2食付き禁煙ルーム 6,000円:直手配》
〒901-0334 沖縄県糸満市大度309-42
http://www.yaponesia.com/
TEL:098-997-2136
今年もこの日がやって来ました、6月23日。沖縄慰霊の日、以前沖縄の大学生にこの日の由来を尋ねた某新聞社の記事にあった『知らない』意見が過半数に上るとか…。沖縄の大学にどれだけの沖縄出身者がいるのかは知りませんが、この記事を書いた『記者』も事実を知らない情けないことが露見していました。昭和20(1945)年6月23日黎明の刻、現摩文仁の丘の頂上から少し下った場所で、沖縄守備陸軍第32軍司令部の牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、沖縄戦に於ける日本軍の組織的な抵抗が終了した日とされています。しかしこの説には別解釈があり『6月22日』だったという意見もありました。その証拠に沖縄がまだアメリカの戦時統治下だった1961年に当時の琉球政府が『慰霊の日』を制定した際には『6月22日』をしています。その後1965年に『6月23日』に改められ、昭和49(1974)年に『沖縄県慰霊の日を定める条例』が定められ、沖縄県の条例下で『慰霊の日=6月23日』となって現在に至っています。
ただ現実に軍司令部の崩壊を信じずにそのまま『ゲリラ戦』を続けた部隊や兵士も数多く存在した『史実』もあり、昭和20(1945)年8月15日正午の『玉音放送』すら信じられていなかったこともあります。大隊レベルで陸軍第24師団第32連隊第1大隊(伊東孝一大隊長)は8月29日、同連隊第2大隊(志村常雄大隊長)は9月4日にそれぞれ武装解除しています。そして昭和20(1945)年9月2日には東京湾に於いて戦艦ミズーリ上で敗戦国全権として重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に署名これによって中央では大日本帝国の無条件降伏という結果で終了するも、昭和20(1945)年9月7日には嘉手納基地(旧越来村森根)に於いて、納見敏郎第28師団長、高田利貞独立混成第64旅団長、加藤唯男沖縄根拠地隊参謀長がJosepf Warren Stilwell米第10軍司令官との間で『南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏』が調印され、ここで初めて『南西諸島』に於ける戦闘の終結と解されるものも少なくありません。事実降伏文章への調印がなされた沖縄市では、平成5(1993)年に市町村で初めて条例により『沖縄市民平和の日』を制定しています。
アメリカ施政権下の琉球政府によって『住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)』に基づいて定められた『公休日』に端を発したものの、昭和47(1972)5月15日の沖縄の本土復帰に伴い日本の法律適用下で法的根拠はなくなりました。しかし昭和49(1974)年には沖縄県が条例により6月23日を慰霊の日として定め、その後平成2(1991)年に沖縄県及び沖縄県内の市町村が地方自治法に基づき各休日条例により慰霊の日をそれぞれの機関の休日と定めたことによって再び正式な休日となりました。そのためこれらの地方公共団体の役所やその設置する学校等は休日となっていることが現在に於ける『慰霊の日』の解釈となっているのですが、制定に纏わる適用される法律背景によっても即決できないものであることは理解できますが、これらのことを踏まえても『沖縄戦も於ける慰霊の日』の制定に関しては様々な解釈があり、決して『ひとつの事柄』によって決められるものではないということがわかります。
理由はなにもひとつにすることはないのではないかと思います。昭和49(1974)年の条例制定には『我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)』とされており、この『願い』のもと行われているもの…と解釈するのが一番しっくりくるのではないか…そう思います。この条例制定に携わった沖縄本土返還時に『天皇陛下万歳三唱』をした初代沖縄県知事屋良朝苗氏にどのような想いがあったことまでは知りませんが…。
前置きが長くなりましたが『今日イチニチ』を始めることにします。おひとり宿替えがあり、代わりに泊まられる方も来られるということで今日も満員御礼。ほぼ固定のメンバーゆえ『この日』の過ごし方も大筋では一緒です。その中でも一番遅くに出発する私ですが、今年はお昼の『追悼式』以外はノープランです。食事を済ませて出発します。大度交差点を左折し、ファミリーマート糸満米須店へと向かうのは定番のコース。コーヒーとドリンクを仕入れて一服します。次いで少し歩いたところにある『米須簡易郵便局』に立ち寄って旅行貯金をして出発します。ここから走る『沖縄県道7号線』は、今なお主要道として君臨しているものではあれど、沖縄戦末期には敗走を続ける日本軍兵士や軍と行動を共にした民間人が南下するのに使った道であり、多くの慰霊碑が建立されている場所でもあります。そのことから慰霊碑が建立されている場所付近に車や人だかりがあれば『なにかをやっている』と読んで走って行きます。しかし三和・高嶺・兼城と熾烈な戦闘が行われたエリアにある郵便局を回りながら出会うことはありませんでした。そして糸満市街へと向かい潮平の郵便局への途中も残念ながらなかったようです。市街地ではそんな場当たり的には見つからないので、今日の『もうひとつ』の目的のため街中を走ることにします。それは『お年玉用2,000円札』の収集。知らない方もおられるかも知れませんが、平成12(2000)年に行われた『沖縄サミット』を祈念して作られた2,000円札。これを『お年玉』として10年程配っているのですが、さすがに地元ではもう手に入りません。電話をかけて電車や車で走って集めていたころもありましたが…既に『流通していない』とのこと。その後沖縄に入り浸るようになってからは、秋以降に行った際に必ず仕入れていたのですが…昨年は6月が最後となり、まさかその後行かないとは考えていなかったこともあり、まさかの状態になってしましました。それから1年が経ち運悪く6月23日は金曜日。ということは明日は金融機関は休み(泣)、ということもあり『ゆうちょ銀行』以外の銀行へと向かいます。しか~し時は流れるもの…『新札の2,000円札』のリクエストに『もうありません』と冷たいお返事。場所は糸満の金融エリア西崎地区でもそんなつれない返事が…。ただたまたま『沖縄銀行』で新札はないけれど、キレイなやつを探してみますね♪って言ってくれました(嬉)。観光客の我がままを聞いてくれた受付のお姉さんに感謝です!!ありがとう!
しばらくの待ち時間になにげなくテレビを見ていたところ、沖縄以外では大ニュースになったことが放映されていました。麻央ちゃん逝去…。乳癌で闘病中っていっても…とは思っていたもののあまりにも早いその死に…なんとも言えなくなってしまいました…。戦没者慰霊のために訪れている沖縄でいうことではないのかも知れませんが、あのニュースは翌日の全国紙一面を塗り替えてしまうほど反響があったと思います。34歳って…若過ぎますよね…。でもその年齢まで生きられなかった多くの前途ある若者が70余年前に親兄弟、そして妻子を守るべくこの地沖縄で斃れた『史実』がより『鮮明』に思えたことだったのかも知れません。ご冥福を祈ります…。
手前味噌的に言われたのか『ほぼ新札の2,000円札』を手に入れ、時間を見るとちょっとオーバー気味。慌ててゆっくりシャトルバス乗り場である『沖縄県立農業試験センター』へと向かいます。ちょうど到着した時に入ってきたバスに乗ろうと駐車場を走ります。11:50の出発は平和祈念公園で追悼式が始まる時間。と言っても仕方がないのでエアコンの効いたバスの中で汗が引くのを待ち、12:00ちょうどには車内で黙とうを捧げ12:10に無事平和祈念公園に到着しました。ちなみに私は追悼式の『会場テント』の中には入りません。あくまでイチ観光客として『外野』での式典を取り巻く環境を観察しています。戦後70年には会場周辺に於いて来場者に向けての『デモ活動』が取りだたされ、沖縄で追悼式典とは『なにをするところなのか?』と大バッシングを受けたことがありました。そのこともあってか71年は大人しかったようですが今年は…となると必ずいます…。安倍さんが平和宣言を読み上げている最中に、子供達が集団で会場テント方向へと歩み寄り、その大もとに一人のおじぃがおりました。持論の反戦論を言うのはともかく、あんた今注目を引くのに『子供を使ったよね~?』。おじぃの子供の頃ってなんでもかんでも子供を『ヤリ玉』にしていたのと違いますか?年齢幾許もない子供達が戦争に駆り出され、結果志半ばにして斃れていった…。あなた方の言う反戦論って『自分が生き抜くもの』のことを言っていいるんですかね~。そんな反戦論を未だに『素晴らしいこと』だなんて言っているから、ことあるごとに『有事対応』に奔走している今のご時世になっているんじゃないのかな?
文句を言うのは誰でもできる。しかしいま必要なのは有事を『起こさない』ようにするのが一番なんじゃないかな…そう思うけど。あんたも戦争には駆り出されないし、私も従軍することは先ずない。でも今動いた子供達にはその可能性があるんだよ。そんなこと位わかれよ~ボケ!!(以上私の本音でした…。)
そうして追悼式は10分延長で終了し、次の目的地へと移動するためシャトルバス乗り場へとやって来ます。このシャトルバスは同じルートを往復しているようで、来るときは続けてくるようなのですが、来ない時は来ないような気がします。だいたい30分程は待ちようやく順番が来たようなのですが、ここに来て『お見合い状態』が発覚します。先に乗車できた者が奥から詰めて行けば定員乗車ができて効率良く出発できるものを、数人単位で座ってしまって奥が空いている状態。待つことは仕方がないのですが、やはり年寄りや子供もいるため、炎天下で闇雲に待ち時間を作ることは避けなければ…と思うのは私だけでしょうか?なんかバスに乗り込んでから奥に進まない人の行列に対しぷち~んときた瞬間、『空き席がなくなったら奥から補助席倒して下さい~(怒)!』と一言。ハイキング的に思って来ている人はぽか~んとしながら若僧の『ヒトコト』に従っていきます。補助席の倒し方を知らないおじぃおばぁには席を倒して、5分位立って行くよ~とほざいたおじぃには『観光バスは立ち席が認められません!』とヒトコト。さすがになにも言わなかった『運転士』も『玄人擬き』の乗客がいることに気付き、アナウンスで同じことを言っていました…。添乗員か私は…(汗)。
そんなこんなで無事出発し、もう少しで農業試験センターに到着するところで今度はバスがお見合いしてしまいました。レンタカーVS路線バスでも『よくこんな道通るな…』と思っていたところでまさかのシャトルバスの離合。も~下りて行って誘導しようかとも思いましたがそこまで出しゃばるのも…って思っていたらスイッチターンを決めこむ様子。さすがプロ♪と思っていたのは私だけのようで、のんきな乗客は『道間違えたんと違う…』なんて言ってました。
そして農業試験センターに到着し、ドライバーさんにお礼を言った後一服だけして次の目的地を目指します。なぜ農業試験センター車を停めるか…という理由でもあるのですが、ここが一番白梅の塔に近いからです。車に乗り込みまた急いだ安全運転で走り、白梅の塔に到着します。ただこの界隈には駐車車両が多々あり、上り車両優先優先の原則から白梅の塔に『向かう車両』が優先になっています。しかし相手はレンタカー、我先にと下りてきます。そうなると『悪魔の私』が本領発揮します。いわゆる『幅寄せ』です。一台止まればしめたもの、そのまま走って山形の塔を越えたあたりに車を停めて走って行きます。
71回目の白梅同窓会主催の慰霊祭、大きく変わるものではありませんが今年同窓会長の中山きくさんから重大な発表がありました。白梅同窓会主催の慰霊祭は今年で最後にするとのこと。来年からはサポートメンバー主体となって老若男女国籍問わず色々な考えを持つメンバーによって『討論』も含めた『開かれたもの』にして行きたいということでした。御年88歳の中山きくさん、白梅学徒隊の数少ない生き残りとして志半ばで斃れた同級生の分まで長生きして欲しいと思います。できれば私もサポートメンバーに入りたいとも思うのですが…。
最後に昨年同様校歌で締め、口パクで参加した後車に戻ろうとしたときにひとつ思い出したことがあって受付に戻ります。『鎮魂(ぬちしずめ)』という題の白梅学徒隊の足跡を辿り、昨年の慰霊祭で締めてあるDVDが発行されました。これは是非とも手に入れないとと思っていたのですが行程に押され忘れていました。ここで気付いたのもなんかの縁、無事入手することができました。ただ後から新聞等で紹介されているものでは同窓会の意向としては『一般発売はされない』ということが書かれていました。平和学習の資料として使われたいとのことですが、その貴重な一枚を私も何かに役立てたいと思います。
15:00を過ぎたので『慰霊祭後』に慰霊碑を訪れることに目的を変更し、16:00までは郵便局巡りをすることにします。糸満・糸満新里・糸満西崎の三局でタイムアウト。そして331号線を南下します。途中学徒慰霊碑のひとつである『翔洋碑』のことを思い出し、碑のある沖縄水産高校に立ち寄ります。しか~し今日6月23日は『お休み』であることをすっかり忘れており、あえなく締め出しとなってしまいました。後で調べると昨年は6月24日に行われているとのことでした…。それでは来年かな。
この辺りになるとナビを使うよりも記憶で走った方が確実なのでそうします。糸洲の壕、通称ウッガーガマ沖縄戦末期に陸軍第24師団第二野戦病院として使われた自然壕で『ふじ学徒隊(積徳学徒看護隊)』が勤務していたところでもあります。昨年訪れた時には壕の中にも普通に入れましたが、今年になって立ち入りが禁止され、壕入口に建立されていた『慰霊碑』が再建中だということを知りました。それを確認するために訪れたこともあるのですが…確かに噂は本当でした。壕入口には扉が作られ、立ち入り禁止と書かれています。そして慰霊碑はというと…形状は前のものに似せているもののその新しさはなにか浮いた感を覚えるものでした。付近の農地が整地されていることからなにかの開発が始まるのかも知れませんが、これも時代の流れなのかも知れません…。鎮魂之碑と鎮魂の碑、前者が第二野戦病院関係のもので後者は壕にいた民間人のご遺族が建立されたものだそうです。たまたま私が訪れていた際に、親族の方がお参りに来られました。挨拶は交わしたものの興味本位でお話を聞くのも悪いかと思いそのまま立ち去りましたが…。
そして再び国道331号線を南下して行きます。ひめゆりの塔手前で右折し、サトウキビ畑の中を走ること数秒で一本の慰霊碑に辿り着きます。『第一外科壕跡』の碑、ひめゆり学徒が南風原の陸軍病院を追われて南下し、伊原や糸洲の壕に分散して入った場所のひとつになります。どこの壕に入るかは『じゃんけん』で決めたとされる逸話が残っていますが、一番人気だった現ひめゆりの塔の場所にある『伊原第三外科壕』に入った学徒は、もっとも激しい攻撃を受け、多くの犠牲者を出したことは『ひめゆり平和祈念資料館』の展示にも書かれています。そんな結末が待っているとは思ってもいなかった学徒達のことを思うとやるせない気持ちになります。しかし第三外科壕を運良く逃げ出せた者が立ち寄ったこの第一外科壕も落ち着ける場所では既になく、米軍の執拗な攻撃の下で壕を出て、南への逃避行を続けなければならず、その道中に於いても多くの犠牲者を出しています。
ただこの第一外科壕にも『学徒隊』がいたことは『史実』に違いありません。第三外科壕に比べると数は少ないものの犠牲者は出ています。しかし伊原第三外科壕は観光客を含め平和学習でも利用されている上に慰霊祭も行われていますが、同時期に学徒がいた『伊原第一外科壕』や『糸洲第二外科壕』には訪れる方もほとんどおらず、荒れるがままになっています。三回目の再訪となった『伊原第一外科壕』ではありますが、一年間のブランクで土砂の流入が進んでいるように思えます。雨風に晒されて色あせてしまった『千羽鶴』が余計に哀愁を誘います。糸洲の第二外科壕跡のように時がの流れに埋もれていくのか…とも思います。個人のレベルではどうしようもないことなので、手を合わせて次の目的地へと向かいます。
車を走らせること数分、いつも車を停める『でいご』の駐車場にやってきました。そして向かった先は『ひめゆりの塔』。イレギュラーな時間での訪問が多い中、今日も17:00前の到着です。ひめゆり記念平和祈念資料館が閉まっているのはわかっていますが、それより慰霊碑の参拝が目的です。沖縄陸軍病院第三外科職員之碑・医療人之碑には多くの千羽鶴や花が手向けられていました。このふたつの慰霊碑に関しては、ひめゆりの塔敷地内ということもあり、少なくともどちらかが備えられていることは、慰霊碑によっては訪れる人もないことを危惧しているイチ観光客には安堵感を与えられる瞬間でもあるのですが、しかし今回に限っては何か違和感がありました。このエリアの中核となる『ひめゆりの塔』に献花がひとつもありません。このことは昨年も取り上げたことなのですが、ひめゆり平和祈念資料館の閉館後に軽トラで花束を回収している姿…。元々この花束は入口で参拝者が『お金』を支払って購入し献花をしているものです。勿論『生花』なのでリユースすることに異論はないものの、少なくとも『人がいないところ』で行うべきだと思います。目の前で撤収作業を見た挙句、翌年には何もない『献花台』の姿を見たときには…。この時の『無常感』はわかってもらえると思います。人目を憚らず与えられた仕事を決められた時間に行うという『事なかれ主義』的な沖縄の仕事の仕方は到底私は受け入れることはできません。考え方によっては一部で言われている『ひめゆりの塔』を『商売道具』としているという考えもこのあたりからでてきているように思ったりもします。手を合わせるものの邪念がどうしても残ってしまうので、その場を後にすることにします。
一旦車方向へと戻った後、車を通り過ぎて駐車場奥の慰霊碑へと向かいます。梯梧之塔、沖縄昭和高等女学校学徒の慰霊碑になります。ひめゆりの塔からわずかしか離れていないものの訪れる人は少なく、2ヶ月おきに来沖していた時には、しおれた献花や雨に打たれた千羽鶴を見ながらため息をついた記憶が残っています。しかし今日だけは違います。午後から慰霊祭があり、会場は片付けられるもののお供え物はそのままになっています。その献花の中に二人のお名前を発見しました。『八巻さん』と『長田さん』、昭和高女の設立者である『八巻太一校長』と沖縄野戦病院の見習士官であった『長田紀春元軍医』のご親戚だと思われます。今年がたまたまではなく例年もあったのかも知れませんが、その関係者による献花の存在に、人の繋がりの暖かさを感じました。
最後に花々に囲まれた梯梧之塔と写真を撮り、車を走らせた先は『魂魄之塔』。戦後沖縄県民が集められてできた『真和志村』。その村長は金城和信先生でした。金城氏ご夫妻の愛娘はひめゆり学徒隊員として従軍し戦死されています。その悲しみを背負って真和志村村長となり焼け野原になった沖縄の地を米軍の命令によって開墾し、農地化するべく村民を率いて荒れた土地を耕します。現米須霊域と呼ばれているこの場所は、沖縄戦末期に敗走を続ける日本軍兵士や住人が海から陸からの攻撃を受けて斃れたまま放置された場所でした。土地を耕すにあたり、付近一帯に散らばる遺骨の数々を集めて慰霊碑を作りたいと金城村長は米軍に申し出ますが、その慰霊碑が『反米感情の拠りどころ』となることを恐れた米分司令部はそれを許可しませんでした。しかし土地を掘り返す度に遺骨が出てくる状況下では開墾作業は進まず、結局許可せざるを得なくなりました。戦後統治下の沖縄でろくな資材もない状況下で、米軍払い下げのセメントなど僅かな物資を利用し、昭和21(1945)年2月27日にこの魂魄之塔が完成します。同時期に建立された『健児之塔』や『ひめゆり之塔』先駆けて作られたまさしく『沖縄の塔』と言っても過言ではありません。その後昭和54(1979)年2月に摩文仁の丘に『国立沖縄戦没者墓苑』が完成したときに、多くの遺骨は移されましたが、貧困にあえいでいるさなか住人の手によって国籍軍民問わず集められた遺骨を納めるべく建立された『魂魄之塔』は、今なお沖縄県民をはじめ沖縄で戦死された兵士の遺族の『心の拠り所』としてその存在感を放っているように思えます。慰霊の日当日に訪れたのは初めてですが、17:00過ぎという時間にも関わらず数多い参拝客がおられるのを見て改めてそう思いました。献花・千羽鶴・酒・飲み物・食べ物などが塔を取り囲むように隙間なく並べられていることからもその思いは募ります。
そして魂魄之塔斜め向かいの『沖縄菩提樹苑』、年に一回慰霊の日にのみ解放されるこの場所は、ブッダが悟りを開いたとされる『聖なる菩提樹』の分け木が植えられています。インドから2300年もの間持ち出された記録がないものですが、沖縄戦没者慰霊の意図を解したインドの高僧らの働き掛けもあり3本の分け木が平成17(2005)年に沖縄へとやって来ました。その後ブッダ涅槃の地クシナガラに於いて生誕に纏わる『無憂樹』と涅槃に纏わる『沙羅双樹』を取得し、更に平成19(2007)年5月には海洋博記念公園管理財団から別に無憂樹の分け木の寄贈を受けています。沙羅双樹は本土の露地栽培では育たないとされていたこともあり、ある程度成長してから植樹されました。現在ではハウスとなっている沖縄菩提樹苑ですが、以前は天井部が解放されていました。しかし沖縄特有の天候や、海に近いために受ける『塩害』、そして『カミキリムシの巣』が樹木内に作られたことにより気が弱ってしまったことなどを踏まえて今の形式になったようです。慰霊の日の当日に訪れることは一年来の願いでした。本来ならばその『聖なる菩提樹』自体に手を合わせることは間違っているのですが、つい流れで手を合わせてしまった自分には、そのありがたみを肌で感じたような気がしてなりませんでした。
車へと戻って今来た道を戻ります。そして米須(西)交差点手前で車を停めます。ずゐせん之塔、やはり沖縄戦に学徒看護隊要員として従軍された沖縄県立首里高等女学校の戦没者を祀った慰霊碑です。やはりこちらもひめゆり之塔からさほど離れていないにも関わらず梯梧之塔同様通常の日には訪れる方も少ない場所のひとつです。しかし慰霊の日の今日は多くの献花と千羽鶴が手向けられていることを確認することができます。私自身ちっぽけな人間なので、一人ではどうこうすることもできませんが、他力的に訪れる方が『絶対にいる』日であれば、その光景に安堵してしまいます。昨年同様今年もそうでした。慰霊に訪れた多くの人々の気持ちが天国におられる志半ばで斃れたすべての学徒の皆様に届いていることを信じ、私も手を合わせます。
この場所は路駐しかできないため、長居をすることができません。なので手を合わせるとすぐに出発します。行きに立ち寄ったファミリーマート糸満米須店に立ち寄ったあとそのまま平和祈念公園に向かいます。18:00では少し早いのですが、いくつかの『光』をテーマとしたイベントが行われるためそれを旅の締め括りにしようとやって来ました。ただ明るいうちはどうしようもないので、個人的に所縁の場所を回ります。祖父の名が刻まれた『平和の礎』、『栃木之塔』そして『沖縄戦没者墓苑』。栃木の塔にはそれ程のお供え物はありませんでしたが、礎と墓苑には多くの供物が手向けられていました。私自身一年ぶりに訪れたこともあり偉そうに言うことはできませんが、やはり訪れる人の多さがわかるものが確認できると安堵する気持ちは確かにありました。栃木の塔の石段を上り下りし、摩文仁の丘の坂道をてくてく歩き、息切れするかしないかのレベルで辿り着いている自分に気付き、禁煙とウォーキングをしないと…と改めて感じた私でした。
そして19:30を過ぎた頃に平和祈念公園へと戻り『光の祭典』を見学します。『命どぅ宝』の碑の向かいに今年3月に『全学徒隊の碑』が建立されました。それが初めての慰霊の日を迎えるということが話題となっているようで、なにかにつけてメディアが撮影をしています。各学徒隊の知名度の差や、戦没者遺族・同窓生の高齢化によって学徒隊の慰霊祭を執り行うことが困難になってきた昨今、戦禍に斃れた学徒隊やそれを構成していた少年少女のことを風化させないとの思いから、沖縄県に関係者からの働きかけがありそれが実を結んだ結果です。ただ依頼者と建立者の間には『意識的な隔たり』があり、全学徒隊の慰霊碑という意味合いを持っていたと書かれていましたが、沖縄県曰く『モニュメント』としての位置付けで建立し、特段慰霊祭を行うものではなしとの見解を示しています。この『碑』の存在によって『学徒はひとつではなかった』という『史実』を訪れるものすべてが理解するならばそれはそれで良いようにも思えますが、実際そこまでの結果を残せるのかは正直疑問も残ります。多くの願いがあった『全学徒隊の碑』ゆえそれに対しいちゃもんをつけることはしませんが、その目的を恒久に伝える『役目』を果たして貰いたいと願うのみでした。
後夜祭に於ける光の祭典は、『平和の光の柱』・『灯篭流し』『ペットボトルキャンドル点灯』の3つになります。平和の礎手前の池で行われる『灯籠流し流し』は、沖縄県では珍しいものでもあります。灯籠に願い事を書いて池へと流す一連の作業、そして池にぷかぷかと浮かぶ灯籠ひとつひとつに平和への願いが込められています。そして平和の礎の平和の広場では、『平和の火』を取り囲むように5本の『平和の光の柱』が摩文仁上空を照らしています。日本・アメリカ・イギリス・朝鮮半島・台湾の5ヶ国5地域の戦没者を表した神秘的な光の柱というのが主催の沖縄県平和祈念財団の発表です。ただなにも考えずに見るのであればいいのですが、余計なことを考えてしまうとなんでもが良いように思えなくなってきます。今年は雲があったため下から見てもすぐにわかる状態になっていましたが、例年だと夜空に向かって光の柱がただ伸びているとしか見えないことが多いです。そういったこともあり今年はラッキーかも…と考えていると意外な反論にであいました。戦時中に船舶に乗り組んでいた『元兵士』の方々は、この景色を見て戦時中を思い出さないかというものです。沖縄県に於いては『軍に纏わる資料館』がないため、直接その話題に触れることもないのですが、本土ではそのことを裏付ける資料が展示されています。70余年前船舶に於ける夜戦は『探照灯』を用いた戦いが主流でした。その明るく大きくの探照灯を髣髴させるものであって、ご自分が体験された『海での夜戦』と被るものがあるのではないかという考えでした。確かに『見た目』はそうなのかも知れません。しかし『大もと』が違うのではないでしょうか。戦時中に使われたものは『タングステン光』つまり暖色系の色をしていたものになりますが、この『平和の光の柱』に使われているのは『白色光』です。光の色が違うと受ける印象も大きく異なるため、それは言いがかりに近いように思えます。勿論当事者からそのような申し出が出るのであればともかく、付け焼刃の知識でそのように解釈してしまうのは、『無知』を曝け出しているのに過ぎないのではないでしょうか。あくまでこの『平和の光の柱』は沖縄戦で戦没した所縁の国々の兵士・軍属・民間人の慰霊の意味を込めてと謳っている以上、余計な口出しをする必要がないと私は思いました。
慰霊の日の後夜祭も見学をすることができました。通路に並ぶ『ペットボトルキャンドル』は、毎年意図的なものを含めて倒してしまい、火が消えているものが多く見受けられるものの、その対処はされずに次の年にまた同じように行われています。ただ『光』に拘る『慰霊の日後夜祭』の意図には、戦時中に飛び交う砲弾を避け、敵兵に見つからないようにするため真っ暗な壕の中に潜んでいた多くの人々の御霊を慰霊していることは容易にわかることなので、現実の運営に関してはともかく意図として私は受け止めているのが本音です。それも20:00を過ぎると西に位置する沖縄も夜の帳に覆われます。年々滞在時間が短くなってきているこの沖縄県営平和祈念公園ではあるものの、今年も前夜祭込みで回ることができました。
そして車へと戻って走り出し、いつものファミリーマート糸満米須店で飲み物購入と一服し、宿泊先へと戻ります。20:38という時間は本日の宿泊者の最後ではありましたがいつものことです。食事を済ませ明日はもう帰るしかない今日、荷物を纏めているうちに今日一日分の撮影したフィルムを送付していなかったことに気付きます。みん宿ヤポネシア近くのポストは小さいこともあり、A4サイズの封筒ならば折り曲げなければいけないかもという危惧もあり、ちょっと車を走らせて昨晩同様隣町の具志頭郵便局のポストへと向かいます。南風原郵便局の集配の方が早いのは早いのでそちらを選択していますが、さすがに旅四日目体力も限界に近付いていることも感じており、宿へと戻ったらシャワーを浴びるとすぐベットに入ります。色々な思い出や明日どこへ行こうか…等の思いは走馬灯のように出てくるのですがもうそれを考える余裕もありません。気がついたらやはり寝ていました。そんな感じで四日目の夜は更けて行き、いよいよ淡海之国へと帰る日を迎えます…。zzz
《次編へ続く》
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター
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朝食を頂いて・・・。
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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出発するとします♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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《70712》米須簡易(こめすかんい)郵便局【ATMなし・平日窓口のみ】
〒901-0335 沖縄県糸満市米須211
TEL:098-997-4980 -
《70011》三和(みわ)郵便局【ATM土曜日稼働店】
〒901-0336 沖縄県糸満市真壁4-1
TEL:098-997-2017三和郵便局 名所・史跡
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《70060》高嶺(たかみね)郵便局【ATM土曜日稼働店】
〒901-0325 沖縄県糸満市大里247
TEL:098-994-3449高嶺郵便局 名所・史跡
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《70007》兼城(かねぐすく)郵便局【ATM土曜日稼働店】
〒901-0313 沖縄県糸満市賀数224
TEL:098-994-6208 -
《70161》潮平(しおひら)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】
〒901-0302 沖縄県糸満市潮平771-2
TEL:098-995-1330 -
バスに向かって一目散~!マッテ~!!
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シャトルバスで20分掛かりました。そのため正午の黙祷は車内で行いました…。
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戦後72年沖縄戦全戦没者追悼式、式典会場のテント。
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戦後72年沖縄戦全戦没者追悼式、式典会場のテントと祭壇。
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沖縄県立宮古高校3年の上原 愛音(ねね)さんによる〝″誓い~私達のおばぁに寄せて〟がの朗読が始まりました。
https://www.youtube.com/watch?v=ygVgvCfCQoo -
毎年意味不明な翁長知事の平和宣言…。
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そして安倍総理大臣の平和宣言の最中に事件が起こりました。
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沖縄県警公安部の視線の先には…。
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とにかく声だけ大きなおじぃがひとり…。
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調子に乗って語っていますが、あなた『子供達』を使って注意を惹きましたね…。正論を言っている自信があるんであれば、そんな作為的なやり方をしなくても注意は惹けるはずです。ニュースや新聞でいとも偶発的に書かれていましたが、やらせの極致であることは、すぐ近くで見ていたものとして恥ずかしい限りです…。
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終演はやはり10分オーバーの12:59でした。
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さっさと帰る安倍首相。
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追悼式が終わると一般でもお焼香があげられます。来賓入口も解放されますのでそこでスタンバイします。
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上原さんがインタビューを受けています。自分の意見を自分の表現で語れる大人になって欲しいと思います。
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それではお焼香の列に並びます。
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半分くらいまで来たようです。
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もうすぐですね。
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それではお焼香をさせて頂きます。
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改めて沖縄戦全戦没者の御霊に哀悼の意を表します。
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当日平和祈念公園で配られていた『琉球新報』の号外。専用の車両があって正午の黙祷時の写真が既に掲載されています。
沖縄全戦没者追悼式 祭り・イベント
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裏面の写真は魂魄之塔と平和祈念行進のものが掲載されています。
沖縄全戦没者追悼式 祭り・イベント
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お焼香をした後、急いで農業研究センターへと戻ります。
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お焼香をした後、急いで農業研究センターへと戻りますが…結構『待ち』がいるようです。
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大声を上げるのが嫌いな人ですが、年配の方も多くいらっしゃるので一人でも多く一台のバスに乗って貰いたいのに奥から詰めようとしないことに結構イラっとし、思わず『奥の空いている座席が埋まったら補助席を倒して行って下さい!』っと言ってしまいました。おまけに数分のことだから『立っている』とかいうおじぃもいて、『観光バスは定員制なので必ず座って下さい』とも…。添乗員か?
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今年はバスの配車と道路渋滞があり、昨年より時間が掛かって農業試験センターに戻って来ました。
なので一服だけをすると即座に出発です。 -
向かった先は『白梅之塔』です。
白梅の塔 名所・史跡
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第71回白梅之塔慰霊祭、式典リーフレット【表面】。
白梅の塔 名所・史跡
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第71回白梅之塔慰霊祭、式典リーフレット【裏面】。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅同窓会より感謝状の贈呈。
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慰霊の歌が歌われています。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅同窓会会長の中山きくさん(手前)、副会長武村豊さん(奥)。
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豊さんが移動されます。
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祭壇には多くの『献花』が手向けられています。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅同窓会長中山きくさんの挨拶。
白梅の塔 名所・史跡
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今年を以って白梅同窓会主催の慰霊祭を終わらせることが宣言されました。来年からはサポートメンバー主催による『新しい形の慰霊祭』とし、年齢性別国など分け隔てなく参加できる『解放されたもの』で行っていくと語っておられました。昭和3(1928)年11月10日沖縄県佐敷村(現:南城市)生まれの御年88歳。白梅同窓会長として、語り部としてのご活躍大変お疲れさまでした。若くして斃れた同級生の分も長生きして頂きたいと願います。
白梅の塔 名所・史跡
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多くの千羽鶴も納められていました。
白梅の塔 名所・史跡
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慰霊祭出席の沖縄尚学高校の皆さん。沖縄尚学高校では白梅学徒の足跡保存活動に参加されておられます。
白梅の塔 名所・史跡
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慰霊祭が終わり、その直後の白梅の塔を撮って出発します。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅学徒看護隊自決之壕の碑。
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白梅之塔上の壕の碑。
白梅之塔上の壕碑 名所・史跡
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白梅之塔上の壕、倉庫や休憩所として利用されていましたが…。
白梅之塔上の壕碑 名所・史跡
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ここにも着弾した記録が残っています…。
白梅之塔上の壕碑 名所・史跡
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《70008》糸満(いとまん)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】
〒901-0399 沖縄県糸満市真栄里2016
TEL:098-992-2379 -
《70096》糸満新島(いとまんにいじま)郵便局【ATM土曜日稼働店】
〒901-0361 沖縄県糸満市糸満1366
TEL:098-994-5806 -
《70126》糸満西崎(いとまんにしざき)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】
〒901-0305 沖縄県糸満市西崎6-5-1
TEL:098-994-6561 -
新しく建立された『鎮魂之碑』。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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同じく新しく建立された『鎮魂の碑』。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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糸洲の壕は立ち入り禁止となっていました…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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新しくなった慰霊碑。そして『鎮魂の碑』には親類縁者の方が来られていました。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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伊原第一外科壕跡にやって来ました。
伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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ロープが渡されている階段を降りて行きますが…。
伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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去年と比較しても…。
伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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土砂の流入が増えているように思います…。
伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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多くの犠牲者を出した第三外科壕と比較すると話題に上らないのかも知れない…。
伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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ひめゆり平和祈念館は既に閉館しています…。
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いわまくらの碑
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献花まで撤去されたひめゆりの塔。
ひめゆりの塔 名所・史跡
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ひめゆりの塔 with たかティムさん。
伊原第三外科壕跡 名所・史跡
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そして初代ひめゆりの塔。
ひめゆりの塔 名所・史跡
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陸軍病院第三外科職員之碑。
陸軍病院第3外科職員之碑 名所・史跡
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沖縄県殉職医療人之碑。職業柄非戦闘地区に行くこともできたそうですが、沖縄に残って亡くなった医療従事者を顕彰しています。
沖縄県殉職医療人之碑 名所・史跡
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梯梧之塔へとやって来ました。
梯梧之塔 名所・史跡
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多くの千羽鶴と…。
梯梧之塔 名所・史跡
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多くの花が手向けられていました。その中に『八巻さん』と『長田さん』という名前を見つけました。梯梧学徒隊を構成した積徳高等女学校の創設者『八巻太一校長』と沖縄陸軍病院第三外科の軍医見習士官であった『長田紀春氏』のご遺族に違いありません。
梯梧之塔 名所・史跡
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最後に一枚、梯梧之塔withたかティムさん。
梯梧之塔 名所・史跡
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沖縄菩提樹苑へとやって来ました。今日は一年で唯一の開館日です!
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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ブッダ所縁の聖なる菩提樹。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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ブッダ所縁の聖なる菩提樹。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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聖なる菩提樹がなぜインド国内に初めて贈られたのか、その経緯が書かれています。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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聖なる菩提樹がなぜインド国内に初めて贈られたのか、その経緯が各国語で書かれています。
沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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平成21(2009)年11月4日にはダライラマ14世も訪れており、植樹をされています。
ちなみに菩提樹苑は完成時から今の建物だと思っていたところ、以前は屋根がなくふきっ曝しだったそうです。沖縄菩提樹苑 名所・史跡
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魂魄之塔へとやって来ました。ここは…。
魂魄之塔 名所・史跡
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真和志村村長であった金城和信氏の呼び掛けに応じた村民の手によって…。
魂魄之塔 名所・史跡
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昭和21(1946)年4月に建立された沖縄戦に於ける国籍等問わない戦死者を祀る最初の慰霊塔でした…。
魂魄之塔 名所・史跡
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金城先生自身、愛娘2人を学徒看護隊要員として駆り出され失っておられます…。
魂魄之塔 名所・史跡
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沖縄戦の中でも激戦地帯のひとつであった現米須霊域のエリアには戦禍に斃れた遺体や遺骨が散乱していました…。
魂魄之塔 名所・史跡
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モノのない時期に米軍の払い下げ資材を使って建立された魂魄之塔ですが、当初米軍は慰霊塔建立の許可を出しませんでした…。
魂魄之塔 名所・史跡
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なぜならば魂魄之塔の存在が『反米意識』の『拠りどころ』となることを恐れていたからです…。
魂魄之塔 名所・史跡
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しかし現実論として戦火によって一面焼け野原になった沖縄の地に於いて農業をするために土地を耕すと必ず多くの遺骨が出土してしまうため作業の妨げになってしまい先に進まなかったことが理由です…。
魂魄之塔 名所・史跡
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都道府県別慰霊碑のように立派なものではありませんが今日の日に多くの方々が訪れている事実は『沖縄の塔』、そして『すべての戦没者慰霊塔』と認識されているところもあるように思います。
魂魄之塔 名所・史跡
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千羽鶴で作られた〝祈平和〟の文字。
魂魄之塔 名所・史跡
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最後に魂魄之塔 with たかティムさん。
魂魄之塔 名所・史跡
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ずゐせん之塔へとやって来ました。
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逆光で撮影するのが難しいのですが…。
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多くの人が訪れた痕跡に安堵するたかティムでした。
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今年の3月14日に除幕されたこの〝全学徒隊の碑〟に話題が集中しています。全学徒隊の碑は、沖縄戦で動員されて犠牲になった全21校の学校名や学徒隊としての通称、そして当時の所在地図が刻まれています。碑は高さ約2m幅約3.4mで『平和の礎』に向かう橋の手前に建立されました。
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【碑文】
戦前、沖縄には21の師範学校・中等学校がありました。沖縄戦では、これらすべての生徒たちが戦場に動員されました。
男子生徒は主に14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、群の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。
女子学徒は主に15歳から19歳で、陸軍病院や野戦病院などで負傷兵の看護活動にあたりました。激しい戦火の中、多くの生徒が犠牲になりました。このことを広く伝え世界の、恒久平和を願い、ここに全学徒の碑を建立します。
2017年3月 沖縄県
学校名(学徒隊の通称)
沖縄師範学校男子部(師範鉄血勤皇隊)/沖縄県立第一中学校(一中鉄血勤皇隊・一中通信隊)/沖縄県立第二中学校(二中鉄血勤皇隊・二中通信隊)/沖縄県立第三中学校(三中鉄血勤皇隊・三中通信隊)/沖縄県立農林学校(農林鉄血勤皇隊)/沖縄県立水産学校(水産鉄血勤皇隊・水産通信隊)/沖縄県立工業学校(工業鉄血勤皇隊・工業通信隊)/那覇市立商工学校(商工鉄血勤皇隊・商工通信隊)/開南中学校(開南鉄血勤皇隊・開南通信隊)/沖縄県立宮古中学校(宮古中鉄血勤皇隊)/沖縄県立八重山中学校(八重山中鉄血勤皇隊)/沖縄県立八重山農学校(八重農鉄血勤皇隊・八重農女子学徒隊)/沖縄師範学校女子部(ひめゆり学徒隊)/沖縄県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊)/沖縄県立第二高等女学校(白梅学徒隊)/沖縄県立第三高等女学校(なごらん学徒隊)/沖縄県立首里高等女学校(瑞泉学徒隊)/沖縄県立積徳高等女学校(積徳学徒隊)/昭和高等女学校(梯梧学徒隊)/沖縄県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊)/沖縄県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊) -
沖縄戦で動員されて犠牲になった全21校の学校名と当時の所在地図が刻まれています。
沖縄県ではこの『全学徒隊の碑』は〝慰霊碑〟ではなく〝モニュメント的存在〟として碑に於ける慰霊祭は考えていないと述べています。しかし個々の学徒隊慰霊碑に於ける慰霊祭がなぜ行われなくなってきているのかという〝理由〟を踏まえると、行政によって代行するものひとつの〝手段〟だと思うのは私だけでしょうか? -
平和の礎でおじぃの名前を探します。
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平和の灯へとやって来ました。
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夕暮れ時には散歩がてらに訪れる子供達もたくさんいます。
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平和の礎の碑にも多くの花束が手向けられていました。
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じいちゃん、今年も来たよ…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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こちらには花はないのですね…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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後夜祭の準備が始まりましたが…。
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明るいとイメージが湧きませんね…。
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島守之塔に参って…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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じいちゃんの眠る栃木の塔にも参って…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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摩文仁の坂を上って国立沖縄戦没者墓苑へとやって来ました。
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去年施設整備が終わってキレイになりました。
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じいちゃん遅くなってごめんね…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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祭壇に参るおじぃの邪魔をしないようにしばし待ちます。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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花や供物が絶えることはありませんが、この日はすごい数が供えられています。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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じいちゃんまた来るね…。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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沖縄戦没者墓苑改築の碑。
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暗くなっても『全学徒隊の碑』TV用のスポットライトがあたっています。
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ようやく『ペットの蝋燭』が存在感を出し始めます。
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池には願いを込めた『灯篭流し』が行われています。
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灯篭流しと親子連れ。
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通路に置かれている『ペットキャンドル』を辿って行くと…。
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平和の灯へと繋がります…。
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燃え盛る平和の灯火。
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平和の灯の周りから空へとレーザービームが照射されています。
これを『探照灯』の灯火に見立てると戦時中に船に乗っていた方々は、そのイメージを思い出すのでは…という批判的な意見もあるようです。しかしそれは『経験者』からそのようなご意見が出た時に考えるべきであって、戦争を知らないものが自分の考えでいうことではないと思います。 -
今年も来られたことに感謝し、来年の再訪を願って最後のたかティムワンショットです!
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まもなく沖縄の一番長い日は終わろうとしています…。
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今晩は3人の一人旅(前日と同じ)+台湾からのカップル1組です。
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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今晩の夕食♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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明日は土曜日なので『旅行貯金』の窓口行きはありません。3日間で23局回りました♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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お疲れモードのたかティムさん。
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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