糸満・ひめゆり旅行記(ブログ) 一覧に戻る
≪2017.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その弐之四~四日日:沖縄島南部を巡る一日編~<br /><br />一年間の沈黙の期間を経て実現した今回の来沖。エアーチケットとレンタカー・常宿の手配は1月の半ばには済ませています。しかしその後『資格試験』や『合格祈願』、そして『お礼参り』に加えて『戦争を辿る旅』にかまけていた結果、6月初旬まで計画を見直すことすら出来ませんでした。結果いつもながらではありますが『Special No Planの旅』で出かけることにならざるを得ませんでした。そんな旅もはや4日目、今回の旅のメインイベントである『戦後72年目の慰霊の日』。沖縄県全土に於いて先の大戦で亡くなられた方々の慰霊の式典が行われる日になります。事前に慰霊祭が行われる『予定』を知ることが出来ればある程度行き先を決めて回ることができますが、多くの慰霊碑を管理する団体が、会員の高齢化を理由に慰霊祭の施工を取り止めている昨今、慰霊祭について事前に情報を得られなくなっている現実があります。沖縄県や各市町村は勿論その情報すら把握していないため、現地での情報収集が唯一の手段となっており、決して効率も良くありません。そのような背景もあり、口伝て情報で回るのであれば以前に訪れた実績によるしか方法はありません。<br /><br />今年の6月23日に訪れた追悼式典や慰霊祭に関しては、速報という形で既に記述しました。そのためここでは『沖縄のいちばん長い日』の過ごし方について改めて思い返して書いています。あくまで『日記』としての内容ゆえ写真をただ載せているだけに過ぎませんので、あまり深い意味はありませんのでご了承下さい。<br /><br />それでは今年の6月23日はどうなったのでしょうか・・・。当日の朝を迎えます。<br /><br /><br />平成29(2017)年6月23金曜日<br />みん宿ヤポネシア 09:30 《0.0km・0.0km・236.7km・0.0km/h》<br />ファミリーマート 09:33 《1.3km・1.3km・238.0km・26.0km/h》1.3<br />糸 満 米 須 店   09:52<br />三和郵便局 09:55  《1.7km・3.0km・239.7km・34.0km/h》3.0<br />10:00<br />高嶺郵便局 10:06 《3.7km・6.7km・246.4km・37.0km/h》6.7<br />10:12<br />兼城郵便局 10:31  《2.5km・9.2km・248.9km・7.9km/h》9.2<br />10:37<br />潮平郵便局 10:42 《2.9km・12.1km・251.8km・34.8km/h》 12.1<br />10:48<br />ファミリーマート11:05  《5.0km・17.1km・256.8km・17.6km/h》17.1<br />糸満西崎三丁目店11:16<br />沖縄銀行 11:19 《0.8km・17.9km・257.6km・16.0km/h》 17.9<br />西崎支店 11:32<br />農業試験センター 11:45 《6.3km・24.2km・263.9km・29.1km/h》 24.2<br />11:50<br />平和祈念公園 12:10<br />13:49<br />農業試験センター 14:10<br />14:19<br />白梅の塔 14:25 《2.2km・26.4km・266.1km・22.0km/h》 26.4<br />15:19<br />糸満郵便局 15:25  《2.5km・28.9km・268.6km・25.0km/h》28.9<br />15:32<br />糸満新里郵便局 15:36 《1.2km・30.1km・269.8km・18.0km/h》 30.1<br />15:48<br />糸満西崎郵便局 15:55  《1.8km・31.9km・271.6km・15.4m/h》31.メーター9<br />16:01<br />ローソン沖縄 16:14 《3.5km・35.4km・275.1km・16.2km/h》 35.4<br />水産高校前店 16:24<br />糸洲の壕 16:29  《2.0km・37.4km・277.1km・24.0km/h》37.4<br />16:34<br />第一外科壕跡 16:42  《3.6km・41.0km・280.7km・27.0km/h》41.0<br />16:50<br />ひめゆりの塔 16:52  《0.6km・41.6km・281.3km・18.0km/h》41.6<br />17:15<br />魂魄之塔 17:18  《1.4km・43.0km・282.7km・28.0km/h》43.0<br />17:33<br />ずゐせんの塔 17:36 《1.1km・44.1km・283.8km・22.0m/h》 44.1<br />17:41<br />ファミリーマート 17:44  《0.6km・44.7km・284.4km・12.0km/h》1747<br />糸 満 米 須 店   17:58<br />平和祈念公園 18:08 《2.4km・47.1km・286.8km・14.4km/h》 47.1-3.6<br />20:17<br />ファミリーマート 20:24 《3.6km・50.7km・290.4km・30.9km/h》 50.7<br />糸 満 米 須 店  20:35<br />みん宿ヤポネシア 20:38 《1.5km・52.2km・291.9km・30.0km/h》? 52.2<br />22:10<br />具志頭郵便局 22:18  《5.9km・58.1km・297.8km・44.3km/h》58.1<br />22:20<br />ローソン八重 22:22 《0.7km・58.8km・298.5km・21.0km/h》 58.8<br />瀬 玻名城 店 22:39<br />みん宿ヤポネシア 22:48 《5.7km・64.5km・304.2km・38.0km/h》 64.5<br /><br />【宿泊】<br />みん宿ヤポネシア<br />《1泊2食付き禁煙ルーム 6,000円:直手配》<br />〒901-0334 沖縄県糸満市大度309-42<br />http://www.yaponesia.com/<br />TEL:098-997-2136<br /><br />今年もこの日がやって来ました、6月23日。沖縄慰霊の日、以前沖縄の大学生にこの日の由来を尋ねた某新聞社の記事にあった『知らない』意見が過半数に上るとか…。沖縄の大学にどれだけの沖縄出身者がいるのかは知りませんが、この記事を書いた『記者』も事実を知らない情けないことが露見していました。昭和20(1945)年6月23日黎明の刻、現摩文仁の丘の頂上から少し下った場所で、沖縄守備陸軍第32軍司令部の牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、沖縄戦に於ける日本軍の組織的な抵抗が終了した日とされています。しかしこの説には別解釈があり『6月22日』だったという意見もありました。その証拠に沖縄がまだアメリカの戦時統治下だった1961年に当時の琉球政府が『慰霊の日』を制定した際には『6月22日』をしています。その後1965年に『6月23日』に改められ、昭和49(1974)年に『沖縄県慰霊の日を定める条例』が定められ、沖縄県の条例下で『慰霊の日=6月23日』となって現在に至っています。<br /><br />ただ現実に軍司令部の崩壊を信じずにそのまま『ゲリラ戦』を続けた部隊や兵士も数多く存在した『史実』もあり、昭和20(1945)年8月15日正午の『玉音放送』すら信じられていなかったこともあります。大隊レベルで陸軍第24師団第32連隊第1大隊(伊東孝一大隊長)は8月29日、同連隊第2大隊(志村常雄大隊長)は9月4日にそれぞれ武装解除しています。そして昭和20(1945)年9月2日には東京湾に於いて戦艦ミズーリ上で敗戦国全権として重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に署名これによって中央では大日本帝国の無条件降伏という結果で終了するも、昭和20(1945)年9月7日には嘉手納基地(旧越来村森根)に於いて、納見敏郎第28師団長、高田利貞独立混成第64旅団長、加藤唯男沖縄根拠地隊参謀長がJosepf Warren Stilwell米第10軍司令官との間で『南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏』が調印され、ここで初めて『南西諸島』に於ける戦闘の終結と解されるものも少なくありません。事実降伏文章への調印がなされた沖縄市では、平成5(1993)年に市町村で初めて条例により『沖縄市民平和の日』を制定しています。<br /><br />アメリカ施政権下の琉球政府によって『住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)』に基づいて定められた『公休日』に端を発したものの、昭和47(1972)5月15日の沖縄の本土復帰に伴い日本の法律適用下で法的根拠はなくなりました。しかし昭和49(1974)年には沖縄県が条例により6月23日を慰霊の日として定め、その後平成2(1991)年に沖縄県及び沖縄県内の市町村が地方自治法に基づき各休日条例により慰霊の日をそれぞれの機関の休日と定めたことによって再び正式な休日となりました。そのためこれらの地方公共団体の役所やその設置する学校等は休日となっていることが現在に於ける『慰霊の日』の解釈となっているのですが、制定に纏わる適用される法律背景によっても即決できないものであることは理解できますが、これらのことを踏まえても『沖縄戦も於ける慰霊の日』の制定に関しては様々な解釈があり、決して『ひとつの事柄』によって決められるものではないということがわかります。<br /><br />理由はなにもひとつにすることはないのではないかと思います。昭和49(1974)年の条例制定には『我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)』とされており、この『願い』のもと行われているもの…と解釈するのが一番しっくりくるのではないか…そう思います。この条例制定に携わった沖縄本土返還時に『天皇陛下万歳三唱』をした初代沖縄県知事屋良朝苗氏にどのような想いがあったことまでは知りませんが…。<br /><br />前置きが長くなりましたが『今日イチニチ』を始めることにします。おひとり宿替えがあり、代わりに泊まられる方も来られるということで今日も満員御礼。ほぼ固定のメンバーゆえ『この日』の過ごし方も大筋では一緒です。その中でも一番遅くに出発する私ですが、今年はお昼の『追悼式』以外はノープランです。食事を済ませて出発します。大度交差点を左折し、ファミリーマート糸満米須店へと向かうのは定番のコース。コーヒーとドリンクを仕入れて一服します。次いで少し歩いたところにある『米須簡易郵便局』に立ち寄って旅行貯金をして出発します。ここから走る『沖縄県道7号線』は、今なお主要道として君臨しているものではあれど、沖縄戦末期には敗走を続ける日本軍兵士や軍と行動を共にした民間人が南下するのに使った道であり、多くの慰霊碑が建立されている場所でもあります。そのことから慰霊碑が建立されている場所付近に車や人だかりがあれば『なにかをやっている』と読んで走って行きます。しかし三和・高嶺・兼城と熾烈な戦闘が行われたエリアにある郵便局を回りながら出会うことはありませんでした。そして糸満市街へと向かい潮平の郵便局への途中も残念ながらなかったようです。市街地ではそんな場当たり的には見つからないので、今日の『もうひとつ』の目的のため街中を走ることにします。それは『お年玉用2,000円札』の収集。知らない方もおられるかも知れませんが、平成12(2000)年に行われた『沖縄サミット』を祈念して作られた2,000円札。これを『お年玉』として10年程配っているのですが、さすがに地元ではもう手に入りません。電話をかけて電車や車で走って集めていたころもありましたが…既に『流通していない』とのこと。その後沖縄に入り浸るようになってからは、秋以降に行った際に必ず仕入れていたのですが…昨年は6月が最後となり、まさかその後行かないとは考えていなかったこともあり、まさかの状態になってしましました。それから1年が経ち運悪く6月23日は金曜日。ということは明日は金融機関は休み(泣)、ということもあり『ゆうちょ銀行』以外の銀行へと向かいます。しか~し時は流れるもの…『新札の2,000円札』のリクエストに『もうありません』と冷たいお返事。場所は糸満の金融エリア西崎地区でもそんなつれない返事が…。ただたまたま『沖縄銀行』で新札はないけれど、キレイなやつを探してみますね♪って言ってくれました(嬉)。観光客の我がままを聞いてくれた受付のお姉さんに感謝です!!ありがとう!<br /><br />しばらくの待ち時間になにげなくテレビを見ていたところ、沖縄以外では大ニュースになったことが放映されていました。麻央ちゃん逝去…。乳癌で闘病中っていっても…とは思っていたもののあまりにも早いその死に…なんとも言えなくなってしまいました…。戦没者慰霊のために訪れている沖縄でいうことではないのかも知れませんが、あのニュースは翌日の全国紙一面を塗り替えてしまうほど反響があったと思います。34歳って…若過ぎますよね…。でもその年齢まで生きられなかった多くの前途ある若者が70余年前に親兄弟、そして妻子を守るべくこの地沖縄で斃れた『史実』がより『鮮明』に思えたことだったのかも知れません。ご冥福を祈ります…。<br /><br />手前味噌的に言われたのか『ほぼ新札の2,000円札』を手に入れ、時間を見るとちょっとオーバー気味。慌ててゆっくりシャトルバス乗り場である『沖縄県立農業試験センター』へと向かいます。ちょうど到着した時に入ってきたバスに乗ろうと駐車場を走ります。11:50の出発は平和祈念公園で追悼式が始まる時間。と言っても仕方がないのでエアコンの効いたバスの中で汗が引くのを待ち、12:00ちょうどには車内で黙とうを捧げ12:10に無事平和祈念公園に到着しました。ちなみに私は追悼式の『会場テント』の中には入りません。あくまでイチ観光客として『外野』での式典を取り巻く環境を観察しています。戦後70年には会場周辺に於いて来場者に向けての『デモ活動』が取りだたされ、沖縄で追悼式典とは『なにをするところなのか?』と大バッシングを受けたことがありました。そのこともあってか71年は大人しかったようですが今年は…となると必ずいます…。安倍さんが平和宣言を読み上げている最中に、子供達が集団で会場テント方向へと歩み寄り、その大もとに一人のおじぃがおりました。持論の反戦論を言うのはともかく、あんた今注目を引くのに『子供を使ったよね~?』。おじぃの子供の頃ってなんでもかんでも子供を『ヤリ玉』にしていたのと違いますか?年齢幾許もない子供達が戦争に駆り出され、結果志半ばにして斃れていった…。あなた方の言う反戦論って『自分が生き抜くもの』のことを言っていいるんですかね~。そんな反戦論を未だに『素晴らしいこと』だなんて言っているから、ことあるごとに『有事対応』に奔走している今のご時世になっているんじゃないのかな?<br /><br />文句を言うのは誰でもできる。しかしいま必要なのは有事を『起こさない』ようにするのが一番なんじゃないかな…そう思うけど。あんたも戦争には駆り出されないし、私も従軍することは先ずない。でも今動いた子供達にはその可能性があるんだよ。そんなこと位わかれよ~ボケ!!(以上私の本音でした…。)<br /><br />そうして追悼式は10分延長で終了し、次の目的地へと移動するためシャトルバス乗り場へとやって来ます。このシャトルバスは同じルートを往復しているようで、来るときは続けてくるようなのですが、来ない時は来ないような気がします。だいたい30分程は待ちようやく順番が来たようなのですが、ここに来て『お見合い状態』が発覚します。先に乗車できた者が奥から詰めて行けば定員乗車ができて効率良く出発できるものを、数人単位で座ってしまって奥が空いている状態。待つことは仕方がないのですが、やはり年寄りや子供もいるため、炎天下で闇雲に待ち時間を作ることは避けなければ…と思うのは私だけでしょうか?なんかバスに乗り込んでから奥に進まない人の行列に対しぷち~んときた瞬間、『空き席がなくなったら奥から補助席倒して下さい~(怒)!』と一言。ハイキング的に思って来ている人はぽか~んとしながら若僧の『ヒトコト』に従っていきます。補助席の倒し方を知らないおじぃおばぁには席を倒して、5分位立って行くよ~とほざいたおじぃには『観光バスは立ち席が認められません!』とヒトコト。さすがになにも言わなかった『運転士』も『玄人擬き』の乗客がいることに気付き、アナウンスで同じことを言っていました…。添乗員か私は…(汗)。<br /><br />そんなこんなで無事出発し、もう少しで農業試験センターに到着するところで今度はバスがお見合いしてしまいました。レンタカーVS路線バスでも『よくこんな道通るな…』と思っていたところでまさかのシャトルバスの離合。も~下りて行って誘導しようかとも思いましたがそこまで出しゃばるのも…って思っていたらスイッチターンを決めこむ様子。さすがプロ♪と思っていたのは私だけのようで、のんきな乗客は『道間違えたんと違う…』なんて言ってました。<br /><br />そして農業試験センターに到着し、ドライバーさんにお礼を言った後一服だけして次の目的地を目指します。なぜ農業試験センター車を停めるか…という理由でもあるのですが、ここが一番白梅の塔に近いからです。車に乗り込みまた急いだ安全運転で走り、白梅の塔に到着します。ただこの界隈には駐車車両が多々あり、上り車両優先優先の原則から白梅の塔に『向かう車両』が優先になっています。しかし相手はレンタカー、我先にと下りてきます。そうなると『悪魔の私』が本領発揮します。いわゆる『幅寄せ』です。一台止まればしめたもの、そのまま走って山形の塔を越えたあたりに車を停めて走って行きます。<br /><br />71回目の白梅同窓会主催の慰霊祭、大きく変わるものではありませんが今年同窓会長の中山きくさんから重大な発表がありました。白梅同窓会主催の慰霊祭は今年で最後にするとのこと。来年からはサポートメンバー主体となって老若男女国籍問わず色々な考えを持つメンバーによって『討論』も含めた『開かれたもの』にして行きたいということでした。御年88歳の中山きくさん、白梅学徒隊の数少ない生き残りとして志半ばで斃れた同級生の分まで長生きして欲しいと思います。できれば私もサポートメンバーに入りたいとも思うのですが…。<br /><br />最後に昨年同様校歌で締め、口パクで参加した後車に戻ろうとしたときにひとつ思い出したことがあって受付に戻ります。『鎮魂(ぬちしずめ)』という題の白梅学徒隊の足跡を辿り、昨年の慰霊祭で締めてあるDVDが発行されました。これは是非とも手に入れないとと思っていたのですが行程に押され忘れていました。ここで気付いたのもなんかの縁、無事入手することができました。ただ後から新聞等で紹介されているものでは同窓会の意向としては『一般発売はされない』ということが書かれていました。平和学習の資料として使われたいとのことですが、その貴重な一枚を私も何かに役立てたいと思います。<br /><br />15:00を過ぎたので『慰霊祭後』に慰霊碑を訪れることに目的を変更し、16:00までは郵便局巡りをすることにします。糸満・糸満新里・糸満西崎の三局でタイムアウト。そして331号線を南下します。途中学徒慰霊碑のひとつである『翔洋碑』のことを思い出し、碑のある沖縄水産高校に立ち寄ります。しか~し今日6月23日は『お休み』であることをすっかり忘れており、あえなく締め出しとなってしまいました。後で調べると昨年は6月24日に行われているとのことでした…。それでは来年かな。<br /><br />この辺りになるとナビを使うよりも記憶で走った方が確実なのでそうします。糸洲の壕、通称ウッガーガマ沖縄戦末期に陸軍第24師団第二野戦病院として使われた自然壕で『ふじ学徒隊(積徳学徒看護隊)』が勤務していたところでもあります。昨年訪れた時には壕の中にも普通に入れましたが、今年になって立ち入りが禁止され、壕入口に建立されていた『慰霊碑』が再建中だということを知りました。それを確認するために訪れたこともあるのですが…確かに噂は本当でした。壕入口には扉が作られ、立ち入り禁止と書かれています。そして慰霊碑はというと…形状は前のものに似せているもののその新しさはなにか浮いた感を覚えるものでした。付近の農地が整地されていることからなにかの開発が始まるのかも知れませんが、これも時代の流れなのかも知れません…。鎮魂之碑と鎮魂の碑、前者が第二野戦病院関係のもので後者は壕にいた民間人のご遺族が建立されたものだそうです。たまたま私が訪れていた際に、親族の方がお参りに来られました。挨拶は交わしたものの興味本位でお話を聞くのも悪いかと思いそのまま立ち去りましたが…。<br /><br />そして再び国道331号線を南下して行きます。ひめゆりの塔手前で右折し、サトウキビ畑の中を走ること数秒で一本の慰霊碑に辿り着きます。『第一外科壕跡』の碑、ひめゆり学徒が南風原の陸軍病院を追われて南下し、伊原や糸洲の壕に分散して入った場所のひとつになります。どこの壕に入るかは『じゃんけん』で決めたとされる逸話が残っていますが、一番人気だった現ひめゆりの塔の場所にある『伊原第三外科壕』に入った学徒は、もっとも激しい攻撃を受け、多くの犠牲者を出したことは『ひめゆり平和祈念資料館』の展示にも書かれています。そんな結末が待っているとは思ってもいなかった学徒達のことを思うとやるせない気持ちになります。しかし第三外科壕を運良く逃げ出せた者が立ち寄ったこの第一外科壕も落ち着ける場所では既になく、米軍の執拗な攻撃の下で壕を出て、南への逃避行を続けなければならず、その道中に於いても多くの犠牲者を出しています。<br /><br />ただこの第一外科壕にも『学徒隊』がいたことは『史実』に違いありません。第三外科壕に比べると数は少ないものの犠牲者は出ています。しかし伊原第三外科壕は観光客を含め平和学習でも利用されている上に慰霊祭も行われていますが、同時期に学徒がいた『伊原第一外科壕』や『糸洲第二外科壕』には訪れる方もほとんどおらず、荒れるがままになっています。三回目の再訪となった『伊原第一外科壕』ではありますが、一年間のブランクで土砂の流入が進んでいるように思えます。雨風に晒されて色あせてしまった『千羽鶴』が余計に哀愁を誘います。糸洲の第二外科壕跡のように時がの流れに埋もれていくのか…とも思います。個人のレベルではどうしようもないことなので、手を合わせて次の目的地へと向かいます。<br /><br />車を走らせること数分、いつも車を停める『でいご』の駐車場にやってきました。そして向かった先は『ひめゆりの塔』。イレギュラーな時間での訪問が多い中、今日も17:00前の到着です。ひめゆり記念平和祈念資料館が閉まっているのはわかっていますが、それより慰霊碑の参拝が目的です。沖縄陸軍病院第三外科職員之碑・医療人之碑には多くの千羽鶴や花が手向けられていました。このふたつの慰霊碑に関しては、ひめゆりの塔敷地内ということもあり、少なくともどちらかが備えられていることは、慰霊碑によっては訪れる人もないことを危惧しているイチ観光客には安堵感を与えられる瞬間でもあるのですが、しかし今回に限っては何か違和感がありました。このエリアの中核となる『ひめゆりの塔』に献花がひとつもありません。このことは昨年も取り上げたことなのですが、ひめゆり平和祈念資料館の閉館後に軽トラで花束を回収している姿…。元々この花束は入口で参拝者が『お金』を支払って購入し献花をしているものです。勿論『生花』なのでリユースすることに異論はないものの、少なくとも『人がいないところ』で行うべきだと思います。目の前で撤収作業を見た挙句、翌年には何もない『献花台』の姿を見たときには…。この時の『無常感』はわかってもらえると思います。人目を憚らず与えられた仕事を決められた時間に行うという『事なかれ主義』的な沖縄の仕事の仕方は到底私は受け入れることはできません。考え方によっては一部で言われている『ひめゆりの塔』を『商売道具』としているという考えもこのあたりからでてきているように思ったりもします。手を合わせるものの邪念がどうしても残ってしまうので、その場を後にすることにします。<br /><br />一旦車方向へと戻った後、車を通り過ぎて駐車場奥の慰霊碑へと向かいます。梯梧之塔、沖縄昭和高等女学校学徒の慰霊碑になります。ひめゆりの塔からわずかしか離れていないものの訪れる人は少なく、2ヶ月おきに来沖していた時には、しおれた献花や雨に打たれた千羽鶴を見ながらため息をついた記憶が残っています。しかし今日だけは違います。午後から慰霊祭があり、会場は片付けられるもののお供え物はそのままになっています。その献花の中に二人のお名前を発見しました。『八巻さん』と『長田さん』、昭和高女の設立者である『八巻太一校長』と沖縄野戦病院の見習士官であった『長田紀春元軍医』のご親戚だと思われます。今年がたまたまではなく例年もあったのかも知れませんが、その関係者による献花の存在に、人の繋がりの暖かさを感じました。<br /><br />最後に花々に囲まれた梯梧之塔と写真を撮り、車を走らせた先は『魂魄之塔』。戦後沖縄県民が集められてできた『真和志村』。その村長は金城和信先生でした。金城氏ご夫妻の愛娘はひめゆり学徒隊員として従軍し戦死されています。その悲しみを背負って真和志村村長となり焼け野原になった沖縄の地を米軍の命令によって開墾し、農地化するべく村民を率いて荒れた土地を耕します。現米須霊域と呼ばれているこの場所は、沖縄戦末期に敗走を続ける日本軍兵士や住人が海から陸からの攻撃を受けて斃れたまま放置された場所でした。土地を耕すにあたり、付近一帯に散らばる遺骨の数々を集めて慰霊碑を作りたいと金城村長は米軍に申し出ますが、その慰霊碑が『反米感情の拠りどころ』となることを恐れた米分司令部はそれを許可しませんでした。しかし土地を掘り返す度に遺骨が出てくる状況下では開墾作業は進まず、結局許可せざるを得なくなりました。戦後統治下の沖縄でろくな資材もない状況下で、米軍払い下げのセメントなど僅かな物資を利用し、昭和21(1945)年2月27日にこの魂魄之塔が完成します。同時期に建立された『健児之塔』や『ひめゆり之塔』先駆けて作られたまさしく『沖縄の塔』と言っても過言ではありません。その後昭和54(1979)年2月に摩文仁の丘に『国立沖縄戦没者墓苑』が完成したときに、多くの遺骨は移されましたが、貧困にあえいでいるさなか住人の手によって国籍軍民問わず集められた遺骨を納めるべく建立された『魂魄之塔』は、今なお沖縄県民をはじめ沖縄で戦死された兵士の遺族の『心の拠り所』としてその存在感を放っているように思えます。慰霊の日当日に訪れたのは初めてですが、17:00過ぎという時間にも関わらず数多い参拝客がおられるのを見て改めてそう思いました。献花・千羽鶴・酒・飲み物・食べ物などが塔を取り囲むように隙間なく並べられていることからもその思いは募ります。<br /><br />そして魂魄之塔斜め向かいの『沖縄菩提樹苑』、年に一回慰霊の日にのみ解放されるこの場所は、ブッダが悟りを開いたとされる『聖なる菩提樹』の分け木が植えられています。インドから2300年もの間持ち出された記録がないものですが、沖縄戦没者慰霊の意図を解したインドの高僧らの働き掛けもあり3本の分け木が平成17(2005)年に沖縄へとやって来ました。その後ブッダ涅槃の地クシナガラに於いて生誕に纏わる『無憂樹』と涅槃に纏わる『沙羅双樹』を取得し、更に平成19(2007)年5月には海洋博記念公園管理財団から別に無憂樹の分け木の寄贈を受けています。沙羅双樹は本土の露地栽培では育たないとされていたこともあり、ある程度成長してから植樹されました。現在ではハウスとなっている沖縄菩提樹苑ですが、以前は天井部が解放されていました。しかし沖縄特有の天候や、海に近いために受ける『塩害』、そして『カミキリムシの巣』が樹木内に作られたことにより気が弱ってしまったことなどを踏まえて今の形式になったようです。慰霊の日の当日に訪れることは一年来の願いでした。本来ならばその『聖なる菩提樹』自体に手を合わせることは間違っているのですが、つい流れで手を合わせてしまった自分には、そのありがたみを肌で感じたような気がしてなりませんでした。<br /><br />車へと戻って今来た道を戻ります。そして米須(西)交差点手前で車を停めます。ずゐせん之塔、やはり沖縄戦に学徒看護隊要員として従軍された沖縄県立首里高等女学校の戦没者を祀った慰霊碑です。やはりこちらもひめゆり之塔からさほど離れていないにも関わらず梯梧之塔同様通常の日には訪れる方も少ない場所のひとつです。しかし慰霊の日の今日は多くの献花と千羽鶴が手向けられていることを確認することができます。私自身ちっぽけな人間なので、一人ではどうこうすることもできませんが、他力的に訪れる方が『絶対にいる』日であれば、その光景に安堵してしまいます。昨年同様今年もそうでした。慰霊に訪れた多くの人々の気持ちが天国におられる志半ばで斃れたすべての学徒の皆様に届いていることを信じ、私も手を合わせます。<br /><br />この場所は路駐しかできないため、長居をすることができません。なので手を合わせるとすぐに出発します。行きに立ち寄ったファミリーマート糸満米須店に立ち寄ったあとそのまま平和祈念公園に向かいます。18:00では少し早いのですが、いくつかの『光』をテーマとしたイベントが行われるためそれを旅の締め括りにしようとやって来ました。ただ明るいうちはどうしようもないので、個人的に所縁の場所を回ります。祖父の名が刻まれた『平和の礎』、『栃木之塔』そして『沖縄戦没者墓苑』。栃木の塔にはそれ程のお供え物はありませんでしたが、礎と墓苑には多くの供物が手向けられていました。私自身一年ぶりに訪れたこともあり偉そうに言うことはできませんが、やはり訪れる人の多さがわかるものが確認できると安堵する気持ちは確かにありました。栃木の塔の石段を上り下りし、摩文仁の丘の坂道をてくてく歩き、息切れするかしないかのレベルで辿り着いている自分に気付き、禁煙とウォーキングをしないと…と改めて感じた私でした。<br /><br />そして19:30を過ぎた頃に平和祈念公園へと戻り『光の祭典』を見学します。『命どぅ宝』の碑の向かいに今年3月に『全学徒隊の碑』が建立されました。それが初めての慰霊の日を迎えるということが話題となっているようで、なにかにつけてメディアが撮影をしています。各学徒隊の知名度の差や、戦没者遺族・同窓生の高齢化によって学徒隊の慰霊祭を執り行うことが困難になってきた昨今、戦禍に斃れた学徒隊やそれを構成していた少年少女のことを風化させないとの思いから、沖縄県に関係者からの働きかけがありそれが実を結んだ結果です。ただ依頼者と建立者の間には『意識的な隔たり』があり、全学徒隊の慰霊碑という意味合いを持っていたと書かれていましたが、沖縄県曰く『モニュメント』としての位置付けで建立し、特段慰霊祭を行うものではなしとの見解を示しています。この『碑』の存在によって『学徒はひとつではなかった』という『史実』を訪れるものすべてが理解するならばそれはそれで良いようにも思えますが、実際そこまでの結果を残せるのかは正直疑問も残ります。多くの願いがあった『全学徒隊の碑』ゆえそれに対しいちゃもんをつけることはしませんが、その目的を恒久に伝える『役目』を果たして貰いたいと願うのみでした。<br /><br />後夜祭に於ける光の祭典は、『平和の光の柱』・『灯篭流し』『ペットボトルキャンドル点灯』の3つになります。平和の礎手前の池で行われる『灯籠流し流し』は、沖縄県では珍しいものでもあります。灯籠に願い事を書いて池へと流す一連の作業、そして池にぷかぷかと浮かぶ灯籠ひとつひとつに平和への願いが込められています。そして平和の礎の平和の広場では、『平和の火』を取り囲むように5本の『平和の光の柱』が摩文仁上空を照らしています。日本・アメリカ・イギリス・朝鮮半島・台湾の5ヶ国5地域の戦没者を表した神秘的な光の柱というのが主催の沖縄県平和祈念財団の発表です。ただなにも考えずに見るのであればいいのですが、余計なことを考えてしまうとなんでもが良いように思えなくなってきます。今年は雲があったため下から見てもすぐにわかる状態になっていましたが、例年だと夜空に向かって光の柱がただ伸びているとしか見えないことが多いです。そういったこともあり今年はラッキーかも…と考えていると意外な反論にであいました。戦時中に船舶に乗り組んでいた『元兵士』の方々は、この景色を見て戦時中を思い出さないかというものです。沖縄県に於いては『軍に纏わる資料館』がないため、直接その話題に触れることもないのですが、本土ではそのことを裏付ける資料が展示されています。70余年前船舶に於ける夜戦は『探照灯』を用いた戦いが主流でした。その明るく大きくの探照灯を髣髴させるものであって、ご自分が体験された『海での夜戦』と被るものがあるのではないかという考えでした。確かに『見た目』はそうなのかも知れません。しかし『大もと』が違うのではないでしょうか。戦時中に使われたものは『タングステン光』つまり暖色系の色をしていたものになりますが、この『平和の光の柱』に使われているのは『白色光』です。光の色が違うと受ける印象も大きく異なるため、それは言いがかりに近いように思えます。勿論当事者からそのような申し出が出るのであればともかく、付け焼刃の知識でそのように解釈してしまうのは、『無知』を曝け出しているのに過ぎないのではないでしょうか。あくまでこの『平和の光の柱』は沖縄戦で戦没した所縁の国々の兵士・軍属・民間人の慰霊の意味を込めてと謳っている以上、余計な口出しをする必要がないと私は思いました。<br /><br />慰霊の日の後夜祭も見学をすることができました。通路に並ぶ『ペットボトルキャンドル』は、毎年意図的なものを含めて倒してしまい、火が消えているものが多く見受けられるものの、その対処はされずに次の年にまた同じように行われています。ただ『光』に拘る『慰霊の日後夜祭』の意図には、戦時中に飛び交う砲弾を避け、敵兵に見つからないようにするため真っ暗な壕の中に潜んでいた多くの人々の御霊を慰霊していることは容易にわかることなので、現実の運営に関してはともかく意図として私は受け止めているのが本音です。それも20:00を過ぎると西に位置する沖縄も夜の帳に覆われます。年々滞在時間が短くなってきているこの沖縄県営平和祈念公園ではあるものの、今年も前夜祭込みで回ることができました。<br /><br />そして車へと戻って走り出し、いつものファミリーマート糸満米須店で飲み物購入と一服し、宿泊先へと戻ります。20:38という時間は本日の宿泊者の最後ではありましたがいつものことです。食事を済ませ明日はもう帰るしかない今日、荷物を纏めているうちに今日一日分の撮影したフィルムを送付していなかったことに気付きます。みん宿ヤポネシア近くのポストは小さいこともあり、A4サイズの封筒ならば折り曲げなければいけないかもという危惧もあり、ちょっと車を走らせて昨晩同様隣町の具志頭郵便局のポストへと向かいます。南風原郵便局の集配の方が早いのは早いのでそちらを選択していますが、さすがに旅四日目体力も限界に近付いていることも感じており、宿へと戻ったらシャワーを浴びるとすぐベットに入ります。色々な思い出や明日どこへ行こうか…等の思いは走馬灯のように出てくるのですがもうそれを考える余裕もありません。気がついたらやはり寝ていました。そんな感じで四日目の夜は更けて行き、いよいよ淡海之国へと帰る日を迎えます…。zzz<br /><br />  《次編へ続く》

≪2017.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その弐之四~四日日:沖縄島南部を巡る一日編~

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2017/06/23 - 2017/06/24

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

≪2017.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その弐之四~四日日:沖縄島南部を巡る一日編~

一年間の沈黙の期間を経て実現した今回の来沖。エアーチケットとレンタカー・常宿の手配は1月の半ばには済ませています。しかしその後『資格試験』や『合格祈願』、そして『お礼参り』に加えて『戦争を辿る旅』にかまけていた結果、6月初旬まで計画を見直すことすら出来ませんでした。結果いつもながらではありますが『Special No Planの旅』で出かけることにならざるを得ませんでした。そんな旅もはや4日目、今回の旅のメインイベントである『戦後72年目の慰霊の日』。沖縄県全土に於いて先の大戦で亡くなられた方々の慰霊の式典が行われる日になります。事前に慰霊祭が行われる『予定』を知ることが出来ればある程度行き先を決めて回ることができますが、多くの慰霊碑を管理する団体が、会員の高齢化を理由に慰霊祭の施工を取り止めている昨今、慰霊祭について事前に情報を得られなくなっている現実があります。沖縄県や各市町村は勿論その情報すら把握していないため、現地での情報収集が唯一の手段となっており、決して効率も良くありません。そのような背景もあり、口伝て情報で回るのであれば以前に訪れた実績によるしか方法はありません。

今年の6月23日に訪れた追悼式典や慰霊祭に関しては、速報という形で既に記述しました。そのためここでは『沖縄のいちばん長い日』の過ごし方について改めて思い返して書いています。あくまで『日記』としての内容ゆえ写真をただ載せているだけに過ぎませんので、あまり深い意味はありませんのでご了承下さい。

それでは今年の6月23日はどうなったのでしょうか・・・。当日の朝を迎えます。


平成29(2017)年6月23金曜日
みん宿ヤポネシア 09:30 《0.0km・0.0km・236.7km・0.0km/h》
ファミリーマート 09:33 《1.3km・1.3km・238.0km・26.0km/h》1.3
糸 満 米 須 店  09:52
三和郵便局 09:55  《1.7km・3.0km・239.7km・34.0km/h》3.0
10:00
高嶺郵便局 10:06 《3.7km・6.7km・246.4km・37.0km/h》6.7
10:12
兼城郵便局 10:31  《2.5km・9.2km・248.9km・7.9km/h》9.2
10:37
潮平郵便局 10:42 《2.9km・12.1km・251.8km・34.8km/h》 12.1
10:48
ファミリーマート11:05  《5.0km・17.1km・256.8km・17.6km/h》17.1
糸満西崎三丁目店11:16
沖縄銀行 11:19 《0.8km・17.9km・257.6km・16.0km/h》 17.9
西崎支店 11:32
農業試験センター 11:45 《6.3km・24.2km・263.9km・29.1km/h》 24.2
11:50
平和祈念公園 12:10
13:49
農業試験センター 14:10
14:19
白梅の塔 14:25 《2.2km・26.4km・266.1km・22.0km/h》 26.4
15:19
糸満郵便局 15:25  《2.5km・28.9km・268.6km・25.0km/h》28.9
15:32
糸満新里郵便局 15:36 《1.2km・30.1km・269.8km・18.0km/h》 30.1
15:48
糸満西崎郵便局 15:55  《1.8km・31.9km・271.6km・15.4m/h》31.メーター9
16:01
ローソン沖縄 16:14 《3.5km・35.4km・275.1km・16.2km/h》 35.4
水産高校前店 16:24
糸洲の壕 16:29  《2.0km・37.4km・277.1km・24.0km/h》37.4
16:34
第一外科壕跡 16:42  《3.6km・41.0km・280.7km・27.0km/h》41.0
16:50
ひめゆりの塔 16:52  《0.6km・41.6km・281.3km・18.0km/h》41.6
17:15
魂魄之塔 17:18  《1.4km・43.0km・282.7km・28.0km/h》43.0
17:33
ずゐせんの塔 17:36 《1.1km・44.1km・283.8km・22.0m/h》 44.1
17:41
ファミリーマート 17:44  《0.6km・44.7km・284.4km・12.0km/h》1747
糸 満 米 須 店   17:58
平和祈念公園 18:08 《2.4km・47.1km・286.8km・14.4km/h》 47.1-3.6
20:17
ファミリーマート 20:24 《3.6km・50.7km・290.4km・30.9km/h》 50.7
糸 満 米 須 店  20:35
みん宿ヤポネシア 20:38 《1.5km・52.2km・291.9km・30.0km/h》? 52.2
22:10
具志頭郵便局 22:18  《5.9km・58.1km・297.8km・44.3km/h》58.1
22:20
ローソン八重 22:22 《0.7km・58.8km・298.5km・21.0km/h》 58.8
瀬 玻名城 店 22:39
みん宿ヤポネシア 22:48 《5.7km・64.5km・304.2km・38.0km/h》 64.5

【宿泊】
みん宿ヤポネシア
《1泊2食付き禁煙ルーム 6,000円:直手配》
〒901-0334 沖縄県糸満市大度309-42
http://www.yaponesia.com/
TEL:098-997-2136

今年もこの日がやって来ました、6月23日。沖縄慰霊の日、以前沖縄の大学生にこの日の由来を尋ねた某新聞社の記事にあった『知らない』意見が過半数に上るとか…。沖縄の大学にどれだけの沖縄出身者がいるのかは知りませんが、この記事を書いた『記者』も事実を知らない情けないことが露見していました。昭和20(1945)年6月23日黎明の刻、現摩文仁の丘の頂上から少し下った場所で、沖縄守備陸軍第32軍司令部の牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、沖縄戦に於ける日本軍の組織的な抵抗が終了した日とされています。しかしこの説には別解釈があり『6月22日』だったという意見もありました。その証拠に沖縄がまだアメリカの戦時統治下だった1961年に当時の琉球政府が『慰霊の日』を制定した際には『6月22日』をしています。その後1965年に『6月23日』に改められ、昭和49(1974)年に『沖縄県慰霊の日を定める条例』が定められ、沖縄県の条例下で『慰霊の日=6月23日』となって現在に至っています。

ただ現実に軍司令部の崩壊を信じずにそのまま『ゲリラ戦』を続けた部隊や兵士も数多く存在した『史実』もあり、昭和20(1945)年8月15日正午の『玉音放送』すら信じられていなかったこともあります。大隊レベルで陸軍第24師団第32連隊第1大隊(伊東孝一大隊長)は8月29日、同連隊第2大隊(志村常雄大隊長)は9月4日にそれぞれ武装解除しています。そして昭和20(1945)年9月2日には東京湾に於いて戦艦ミズーリ上で敗戦国全権として重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に署名これによって中央では大日本帝国の無条件降伏という結果で終了するも、昭和20(1945)年9月7日には嘉手納基地(旧越来村森根)に於いて、納見敏郎第28師団長、高田利貞独立混成第64旅団長、加藤唯男沖縄根拠地隊参謀長がJosepf Warren Stilwell米第10軍司令官との間で『南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏』が調印され、ここで初めて『南西諸島』に於ける戦闘の終結と解されるものも少なくありません。事実降伏文章への調印がなされた沖縄市では、平成5(1993)年に市町村で初めて条例により『沖縄市民平和の日』を制定しています。

アメリカ施政権下の琉球政府によって『住民の祝祭日に関する立法(1961年立法第85号)』に基づいて定められた『公休日』に端を発したものの、昭和47(1972)5月15日の沖縄の本土復帰に伴い日本の法律適用下で法的根拠はなくなりました。しかし昭和49(1974)年には沖縄県が条例により6月23日を慰霊の日として定め、その後平成2(1991)年に沖縄県及び沖縄県内の市町村が地方自治法に基づき各休日条例により慰霊の日をそれぞれの機関の休日と定めたことによって再び正式な休日となりました。そのためこれらの地方公共団体の役所やその設置する学校等は休日となっていることが現在に於ける『慰霊の日』の解釈となっているのですが、制定に纏わる適用される法律背景によっても即決できないものであることは理解できますが、これらのことを踏まえても『沖縄戦も於ける慰霊の日』の制定に関しては様々な解釈があり、決して『ひとつの事柄』によって決められるものではないということがわかります。

理由はなにもひとつにすることはないのではないかと思います。昭和49(1974)年の条例制定には『我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)』とされており、この『願い』のもと行われているもの…と解釈するのが一番しっくりくるのではないか…そう思います。この条例制定に携わった沖縄本土返還時に『天皇陛下万歳三唱』をした初代沖縄県知事屋良朝苗氏にどのような想いがあったことまでは知りませんが…。

前置きが長くなりましたが『今日イチニチ』を始めることにします。おひとり宿替えがあり、代わりに泊まられる方も来られるということで今日も満員御礼。ほぼ固定のメンバーゆえ『この日』の過ごし方も大筋では一緒です。その中でも一番遅くに出発する私ですが、今年はお昼の『追悼式』以外はノープランです。食事を済ませて出発します。大度交差点を左折し、ファミリーマート糸満米須店へと向かうのは定番のコース。コーヒーとドリンクを仕入れて一服します。次いで少し歩いたところにある『米須簡易郵便局』に立ち寄って旅行貯金をして出発します。ここから走る『沖縄県道7号線』は、今なお主要道として君臨しているものではあれど、沖縄戦末期には敗走を続ける日本軍兵士や軍と行動を共にした民間人が南下するのに使った道であり、多くの慰霊碑が建立されている場所でもあります。そのことから慰霊碑が建立されている場所付近に車や人だかりがあれば『なにかをやっている』と読んで走って行きます。しかし三和・高嶺・兼城と熾烈な戦闘が行われたエリアにある郵便局を回りながら出会うことはありませんでした。そして糸満市街へと向かい潮平の郵便局への途中も残念ながらなかったようです。市街地ではそんな場当たり的には見つからないので、今日の『もうひとつ』の目的のため街中を走ることにします。それは『お年玉用2,000円札』の収集。知らない方もおられるかも知れませんが、平成12(2000)年に行われた『沖縄サミット』を祈念して作られた2,000円札。これを『お年玉』として10年程配っているのですが、さすがに地元ではもう手に入りません。電話をかけて電車や車で走って集めていたころもありましたが…既に『流通していない』とのこと。その後沖縄に入り浸るようになってからは、秋以降に行った際に必ず仕入れていたのですが…昨年は6月が最後となり、まさかその後行かないとは考えていなかったこともあり、まさかの状態になってしましました。それから1年が経ち運悪く6月23日は金曜日。ということは明日は金融機関は休み(泣)、ということもあり『ゆうちょ銀行』以外の銀行へと向かいます。しか~し時は流れるもの…『新札の2,000円札』のリクエストに『もうありません』と冷たいお返事。場所は糸満の金融エリア西崎地区でもそんなつれない返事が…。ただたまたま『沖縄銀行』で新札はないけれど、キレイなやつを探してみますね♪って言ってくれました(嬉)。観光客の我がままを聞いてくれた受付のお姉さんに感謝です!!ありがとう!

しばらくの待ち時間になにげなくテレビを見ていたところ、沖縄以外では大ニュースになったことが放映されていました。麻央ちゃん逝去…。乳癌で闘病中っていっても…とは思っていたもののあまりにも早いその死に…なんとも言えなくなってしまいました…。戦没者慰霊のために訪れている沖縄でいうことではないのかも知れませんが、あのニュースは翌日の全国紙一面を塗り替えてしまうほど反響があったと思います。34歳って…若過ぎますよね…。でもその年齢まで生きられなかった多くの前途ある若者が70余年前に親兄弟、そして妻子を守るべくこの地沖縄で斃れた『史実』がより『鮮明』に思えたことだったのかも知れません。ご冥福を祈ります…。

手前味噌的に言われたのか『ほぼ新札の2,000円札』を手に入れ、時間を見るとちょっとオーバー気味。慌ててゆっくりシャトルバス乗り場である『沖縄県立農業試験センター』へと向かいます。ちょうど到着した時に入ってきたバスに乗ろうと駐車場を走ります。11:50の出発は平和祈念公園で追悼式が始まる時間。と言っても仕方がないのでエアコンの効いたバスの中で汗が引くのを待ち、12:00ちょうどには車内で黙とうを捧げ12:10に無事平和祈念公園に到着しました。ちなみに私は追悼式の『会場テント』の中には入りません。あくまでイチ観光客として『外野』での式典を取り巻く環境を観察しています。戦後70年には会場周辺に於いて来場者に向けての『デモ活動』が取りだたされ、沖縄で追悼式典とは『なにをするところなのか?』と大バッシングを受けたことがありました。そのこともあってか71年は大人しかったようですが今年は…となると必ずいます…。安倍さんが平和宣言を読み上げている最中に、子供達が集団で会場テント方向へと歩み寄り、その大もとに一人のおじぃがおりました。持論の反戦論を言うのはともかく、あんた今注目を引くのに『子供を使ったよね~?』。おじぃの子供の頃ってなんでもかんでも子供を『ヤリ玉』にしていたのと違いますか?年齢幾許もない子供達が戦争に駆り出され、結果志半ばにして斃れていった…。あなた方の言う反戦論って『自分が生き抜くもの』のことを言っていいるんですかね~。そんな反戦論を未だに『素晴らしいこと』だなんて言っているから、ことあるごとに『有事対応』に奔走している今のご時世になっているんじゃないのかな?

文句を言うのは誰でもできる。しかしいま必要なのは有事を『起こさない』ようにするのが一番なんじゃないかな…そう思うけど。あんたも戦争には駆り出されないし、私も従軍することは先ずない。でも今動いた子供達にはその可能性があるんだよ。そんなこと位わかれよ~ボケ!!(以上私の本音でした…。)

そうして追悼式は10分延長で終了し、次の目的地へと移動するためシャトルバス乗り場へとやって来ます。このシャトルバスは同じルートを往復しているようで、来るときは続けてくるようなのですが、来ない時は来ないような気がします。だいたい30分程は待ちようやく順番が来たようなのですが、ここに来て『お見合い状態』が発覚します。先に乗車できた者が奥から詰めて行けば定員乗車ができて効率良く出発できるものを、数人単位で座ってしまって奥が空いている状態。待つことは仕方がないのですが、やはり年寄りや子供もいるため、炎天下で闇雲に待ち時間を作ることは避けなければ…と思うのは私だけでしょうか?なんかバスに乗り込んでから奥に進まない人の行列に対しぷち~んときた瞬間、『空き席がなくなったら奥から補助席倒して下さい~(怒)!』と一言。ハイキング的に思って来ている人はぽか~んとしながら若僧の『ヒトコト』に従っていきます。補助席の倒し方を知らないおじぃおばぁには席を倒して、5分位立って行くよ~とほざいたおじぃには『観光バスは立ち席が認められません!』とヒトコト。さすがになにも言わなかった『運転士』も『玄人擬き』の乗客がいることに気付き、アナウンスで同じことを言っていました…。添乗員か私は…(汗)。

そんなこんなで無事出発し、もう少しで農業試験センターに到着するところで今度はバスがお見合いしてしまいました。レンタカーVS路線バスでも『よくこんな道通るな…』と思っていたところでまさかのシャトルバスの離合。も~下りて行って誘導しようかとも思いましたがそこまで出しゃばるのも…って思っていたらスイッチターンを決めこむ様子。さすがプロ♪と思っていたのは私だけのようで、のんきな乗客は『道間違えたんと違う…』なんて言ってました。

そして農業試験センターに到着し、ドライバーさんにお礼を言った後一服だけして次の目的地を目指します。なぜ農業試験センター車を停めるか…という理由でもあるのですが、ここが一番白梅の塔に近いからです。車に乗り込みまた急いだ安全運転で走り、白梅の塔に到着します。ただこの界隈には駐車車両が多々あり、上り車両優先優先の原則から白梅の塔に『向かう車両』が優先になっています。しかし相手はレンタカー、我先にと下りてきます。そうなると『悪魔の私』が本領発揮します。いわゆる『幅寄せ』です。一台止まればしめたもの、そのまま走って山形の塔を越えたあたりに車を停めて走って行きます。

71回目の白梅同窓会主催の慰霊祭、大きく変わるものではありませんが今年同窓会長の中山きくさんから重大な発表がありました。白梅同窓会主催の慰霊祭は今年で最後にするとのこと。来年からはサポートメンバー主体となって老若男女国籍問わず色々な考えを持つメンバーによって『討論』も含めた『開かれたもの』にして行きたいということでした。御年88歳の中山きくさん、白梅学徒隊の数少ない生き残りとして志半ばで斃れた同級生の分まで長生きして欲しいと思います。できれば私もサポートメンバーに入りたいとも思うのですが…。

最後に昨年同様校歌で締め、口パクで参加した後車に戻ろうとしたときにひとつ思い出したことがあって受付に戻ります。『鎮魂(ぬちしずめ)』という題の白梅学徒隊の足跡を辿り、昨年の慰霊祭で締めてあるDVDが発行されました。これは是非とも手に入れないとと思っていたのですが行程に押され忘れていました。ここで気付いたのもなんかの縁、無事入手することができました。ただ後から新聞等で紹介されているものでは同窓会の意向としては『一般発売はされない』ということが書かれていました。平和学習の資料として使われたいとのことですが、その貴重な一枚を私も何かに役立てたいと思います。

15:00を過ぎたので『慰霊祭後』に慰霊碑を訪れることに目的を変更し、16:00までは郵便局巡りをすることにします。糸満・糸満新里・糸満西崎の三局でタイムアウト。そして331号線を南下します。途中学徒慰霊碑のひとつである『翔洋碑』のことを思い出し、碑のある沖縄水産高校に立ち寄ります。しか~し今日6月23日は『お休み』であることをすっかり忘れており、あえなく締め出しとなってしまいました。後で調べると昨年は6月24日に行われているとのことでした…。それでは来年かな。

この辺りになるとナビを使うよりも記憶で走った方が確実なのでそうします。糸洲の壕、通称ウッガーガマ沖縄戦末期に陸軍第24師団第二野戦病院として使われた自然壕で『ふじ学徒隊(積徳学徒看護隊)』が勤務していたところでもあります。昨年訪れた時には壕の中にも普通に入れましたが、今年になって立ち入りが禁止され、壕入口に建立されていた『慰霊碑』が再建中だということを知りました。それを確認するために訪れたこともあるのですが…確かに噂は本当でした。壕入口には扉が作られ、立ち入り禁止と書かれています。そして慰霊碑はというと…形状は前のものに似せているもののその新しさはなにか浮いた感を覚えるものでした。付近の農地が整地されていることからなにかの開発が始まるのかも知れませんが、これも時代の流れなのかも知れません…。鎮魂之碑と鎮魂の碑、前者が第二野戦病院関係のもので後者は壕にいた民間人のご遺族が建立されたものだそうです。たまたま私が訪れていた際に、親族の方がお参りに来られました。挨拶は交わしたものの興味本位でお話を聞くのも悪いかと思いそのまま立ち去りましたが…。

そして再び国道331号線を南下して行きます。ひめゆりの塔手前で右折し、サトウキビ畑の中を走ること数秒で一本の慰霊碑に辿り着きます。『第一外科壕跡』の碑、ひめゆり学徒が南風原の陸軍病院を追われて南下し、伊原や糸洲の壕に分散して入った場所のひとつになります。どこの壕に入るかは『じゃんけん』で決めたとされる逸話が残っていますが、一番人気だった現ひめゆりの塔の場所にある『伊原第三外科壕』に入った学徒は、もっとも激しい攻撃を受け、多くの犠牲者を出したことは『ひめゆり平和祈念資料館』の展示にも書かれています。そんな結末が待っているとは思ってもいなかった学徒達のことを思うとやるせない気持ちになります。しかし第三外科壕を運良く逃げ出せた者が立ち寄ったこの第一外科壕も落ち着ける場所では既になく、米軍の執拗な攻撃の下で壕を出て、南への逃避行を続けなければならず、その道中に於いても多くの犠牲者を出しています。

ただこの第一外科壕にも『学徒隊』がいたことは『史実』に違いありません。第三外科壕に比べると数は少ないものの犠牲者は出ています。しかし伊原第三外科壕は観光客を含め平和学習でも利用されている上に慰霊祭も行われていますが、同時期に学徒がいた『伊原第一外科壕』や『糸洲第二外科壕』には訪れる方もほとんどおらず、荒れるがままになっています。三回目の再訪となった『伊原第一外科壕』ではありますが、一年間のブランクで土砂の流入が進んでいるように思えます。雨風に晒されて色あせてしまった『千羽鶴』が余計に哀愁を誘います。糸洲の第二外科壕跡のように時がの流れに埋もれていくのか…とも思います。個人のレベルではどうしようもないことなので、手を合わせて次の目的地へと向かいます。

車を走らせること数分、いつも車を停める『でいご』の駐車場にやってきました。そして向かった先は『ひめゆりの塔』。イレギュラーな時間での訪問が多い中、今日も17:00前の到着です。ひめゆり記念平和祈念資料館が閉まっているのはわかっていますが、それより慰霊碑の参拝が目的です。沖縄陸軍病院第三外科職員之碑・医療人之碑には多くの千羽鶴や花が手向けられていました。このふたつの慰霊碑に関しては、ひめゆりの塔敷地内ということもあり、少なくともどちらかが備えられていることは、慰霊碑によっては訪れる人もないことを危惧しているイチ観光客には安堵感を与えられる瞬間でもあるのですが、しかし今回に限っては何か違和感がありました。このエリアの中核となる『ひめゆりの塔』に献花がひとつもありません。このことは昨年も取り上げたことなのですが、ひめゆり平和祈念資料館の閉館後に軽トラで花束を回収している姿…。元々この花束は入口で参拝者が『お金』を支払って購入し献花をしているものです。勿論『生花』なのでリユースすることに異論はないものの、少なくとも『人がいないところ』で行うべきだと思います。目の前で撤収作業を見た挙句、翌年には何もない『献花台』の姿を見たときには…。この時の『無常感』はわかってもらえると思います。人目を憚らず与えられた仕事を決められた時間に行うという『事なかれ主義』的な沖縄の仕事の仕方は到底私は受け入れることはできません。考え方によっては一部で言われている『ひめゆりの塔』を『商売道具』としているという考えもこのあたりからでてきているように思ったりもします。手を合わせるものの邪念がどうしても残ってしまうので、その場を後にすることにします。

一旦車方向へと戻った後、車を通り過ぎて駐車場奥の慰霊碑へと向かいます。梯梧之塔、沖縄昭和高等女学校学徒の慰霊碑になります。ひめゆりの塔からわずかしか離れていないものの訪れる人は少なく、2ヶ月おきに来沖していた時には、しおれた献花や雨に打たれた千羽鶴を見ながらため息をついた記憶が残っています。しかし今日だけは違います。午後から慰霊祭があり、会場は片付けられるもののお供え物はそのままになっています。その献花の中に二人のお名前を発見しました。『八巻さん』と『長田さん』、昭和高女の設立者である『八巻太一校長』と沖縄野戦病院の見習士官であった『長田紀春元軍医』のご親戚だと思われます。今年がたまたまではなく例年もあったのかも知れませんが、その関係者による献花の存在に、人の繋がりの暖かさを感じました。

最後に花々に囲まれた梯梧之塔と写真を撮り、車を走らせた先は『魂魄之塔』。戦後沖縄県民が集められてできた『真和志村』。その村長は金城和信先生でした。金城氏ご夫妻の愛娘はひめゆり学徒隊員として従軍し戦死されています。その悲しみを背負って真和志村村長となり焼け野原になった沖縄の地を米軍の命令によって開墾し、農地化するべく村民を率いて荒れた土地を耕します。現米須霊域と呼ばれているこの場所は、沖縄戦末期に敗走を続ける日本軍兵士や住人が海から陸からの攻撃を受けて斃れたまま放置された場所でした。土地を耕すにあたり、付近一帯に散らばる遺骨の数々を集めて慰霊碑を作りたいと金城村長は米軍に申し出ますが、その慰霊碑が『反米感情の拠りどころ』となることを恐れた米分司令部はそれを許可しませんでした。しかし土地を掘り返す度に遺骨が出てくる状況下では開墾作業は進まず、結局許可せざるを得なくなりました。戦後統治下の沖縄でろくな資材もない状況下で、米軍払い下げのセメントなど僅かな物資を利用し、昭和21(1945)年2月27日にこの魂魄之塔が完成します。同時期に建立された『健児之塔』や『ひめゆり之塔』先駆けて作られたまさしく『沖縄の塔』と言っても過言ではありません。その後昭和54(1979)年2月に摩文仁の丘に『国立沖縄戦没者墓苑』が完成したときに、多くの遺骨は移されましたが、貧困にあえいでいるさなか住人の手によって国籍軍民問わず集められた遺骨を納めるべく建立された『魂魄之塔』は、今なお沖縄県民をはじめ沖縄で戦死された兵士の遺族の『心の拠り所』としてその存在感を放っているように思えます。慰霊の日当日に訪れたのは初めてですが、17:00過ぎという時間にも関わらず数多い参拝客がおられるのを見て改めてそう思いました。献花・千羽鶴・酒・飲み物・食べ物などが塔を取り囲むように隙間なく並べられていることからもその思いは募ります。

そして魂魄之塔斜め向かいの『沖縄菩提樹苑』、年に一回慰霊の日にのみ解放されるこの場所は、ブッダが悟りを開いたとされる『聖なる菩提樹』の分け木が植えられています。インドから2300年もの間持ち出された記録がないものですが、沖縄戦没者慰霊の意図を解したインドの高僧らの働き掛けもあり3本の分け木が平成17(2005)年に沖縄へとやって来ました。その後ブッダ涅槃の地クシナガラに於いて生誕に纏わる『無憂樹』と涅槃に纏わる『沙羅双樹』を取得し、更に平成19(2007)年5月には海洋博記念公園管理財団から別に無憂樹の分け木の寄贈を受けています。沙羅双樹は本土の露地栽培では育たないとされていたこともあり、ある程度成長してから植樹されました。現在ではハウスとなっている沖縄菩提樹苑ですが、以前は天井部が解放されていました。しかし沖縄特有の天候や、海に近いために受ける『塩害』、そして『カミキリムシの巣』が樹木内に作られたことにより気が弱ってしまったことなどを踏まえて今の形式になったようです。慰霊の日の当日に訪れることは一年来の願いでした。本来ならばその『聖なる菩提樹』自体に手を合わせることは間違っているのですが、つい流れで手を合わせてしまった自分には、そのありがたみを肌で感じたような気がしてなりませんでした。

車へと戻って今来た道を戻ります。そして米須(西)交差点手前で車を停めます。ずゐせん之塔、やはり沖縄戦に学徒看護隊要員として従軍された沖縄県立首里高等女学校の戦没者を祀った慰霊碑です。やはりこちらもひめゆり之塔からさほど離れていないにも関わらず梯梧之塔同様通常の日には訪れる方も少ない場所のひとつです。しかし慰霊の日の今日は多くの献花と千羽鶴が手向けられていることを確認することができます。私自身ちっぽけな人間なので、一人ではどうこうすることもできませんが、他力的に訪れる方が『絶対にいる』日であれば、その光景に安堵してしまいます。昨年同様今年もそうでした。慰霊に訪れた多くの人々の気持ちが天国におられる志半ばで斃れたすべての学徒の皆様に届いていることを信じ、私も手を合わせます。

この場所は路駐しかできないため、長居をすることができません。なので手を合わせるとすぐに出発します。行きに立ち寄ったファミリーマート糸満米須店に立ち寄ったあとそのまま平和祈念公園に向かいます。18:00では少し早いのですが、いくつかの『光』をテーマとしたイベントが行われるためそれを旅の締め括りにしようとやって来ました。ただ明るいうちはどうしようもないので、個人的に所縁の場所を回ります。祖父の名が刻まれた『平和の礎』、『栃木之塔』そして『沖縄戦没者墓苑』。栃木の塔にはそれ程のお供え物はありませんでしたが、礎と墓苑には多くの供物が手向けられていました。私自身一年ぶりに訪れたこともあり偉そうに言うことはできませんが、やはり訪れる人の多さがわかるものが確認できると安堵する気持ちは確かにありました。栃木の塔の石段を上り下りし、摩文仁の丘の坂道をてくてく歩き、息切れするかしないかのレベルで辿り着いている自分に気付き、禁煙とウォーキングをしないと…と改めて感じた私でした。

そして19:30を過ぎた頃に平和祈念公園へと戻り『光の祭典』を見学します。『命どぅ宝』の碑の向かいに今年3月に『全学徒隊の碑』が建立されました。それが初めての慰霊の日を迎えるということが話題となっているようで、なにかにつけてメディアが撮影をしています。各学徒隊の知名度の差や、戦没者遺族・同窓生の高齢化によって学徒隊の慰霊祭を執り行うことが困難になってきた昨今、戦禍に斃れた学徒隊やそれを構成していた少年少女のことを風化させないとの思いから、沖縄県に関係者からの働きかけがありそれが実を結んだ結果です。ただ依頼者と建立者の間には『意識的な隔たり』があり、全学徒隊の慰霊碑という意味合いを持っていたと書かれていましたが、沖縄県曰く『モニュメント』としての位置付けで建立し、特段慰霊祭を行うものではなしとの見解を示しています。この『碑』の存在によって『学徒はひとつではなかった』という『史実』を訪れるものすべてが理解するならばそれはそれで良いようにも思えますが、実際そこまでの結果を残せるのかは正直疑問も残ります。多くの願いがあった『全学徒隊の碑』ゆえそれに対しいちゃもんをつけることはしませんが、その目的を恒久に伝える『役目』を果たして貰いたいと願うのみでした。

後夜祭に於ける光の祭典は、『平和の光の柱』・『灯篭流し』『ペットボトルキャンドル点灯』の3つになります。平和の礎手前の池で行われる『灯籠流し流し』は、沖縄県では珍しいものでもあります。灯籠に願い事を書いて池へと流す一連の作業、そして池にぷかぷかと浮かぶ灯籠ひとつひとつに平和への願いが込められています。そして平和の礎の平和の広場では、『平和の火』を取り囲むように5本の『平和の光の柱』が摩文仁上空を照らしています。日本・アメリカ・イギリス・朝鮮半島・台湾の5ヶ国5地域の戦没者を表した神秘的な光の柱というのが主催の沖縄県平和祈念財団の発表です。ただなにも考えずに見るのであればいいのですが、余計なことを考えてしまうとなんでもが良いように思えなくなってきます。今年は雲があったため下から見てもすぐにわかる状態になっていましたが、例年だと夜空に向かって光の柱がただ伸びているとしか見えないことが多いです。そういったこともあり今年はラッキーかも…と考えていると意外な反論にであいました。戦時中に船舶に乗り組んでいた『元兵士』の方々は、この景色を見て戦時中を思い出さないかというものです。沖縄県に於いては『軍に纏わる資料館』がないため、直接その話題に触れることもないのですが、本土ではそのことを裏付ける資料が展示されています。70余年前船舶に於ける夜戦は『探照灯』を用いた戦いが主流でした。その明るく大きくの探照灯を髣髴させるものであって、ご自分が体験された『海での夜戦』と被るものがあるのではないかという考えでした。確かに『見た目』はそうなのかも知れません。しかし『大もと』が違うのではないでしょうか。戦時中に使われたものは『タングステン光』つまり暖色系の色をしていたものになりますが、この『平和の光の柱』に使われているのは『白色光』です。光の色が違うと受ける印象も大きく異なるため、それは言いがかりに近いように思えます。勿論当事者からそのような申し出が出るのであればともかく、付け焼刃の知識でそのように解釈してしまうのは、『無知』を曝け出しているのに過ぎないのではないでしょうか。あくまでこの『平和の光の柱』は沖縄戦で戦没した所縁の国々の兵士・軍属・民間人の慰霊の意味を込めてと謳っている以上、余計な口出しをする必要がないと私は思いました。

慰霊の日の後夜祭も見学をすることができました。通路に並ぶ『ペットボトルキャンドル』は、毎年意図的なものを含めて倒してしまい、火が消えているものが多く見受けられるものの、その対処はされずに次の年にまた同じように行われています。ただ『光』に拘る『慰霊の日後夜祭』の意図には、戦時中に飛び交う砲弾を避け、敵兵に見つからないようにするため真っ暗な壕の中に潜んでいた多くの人々の御霊を慰霊していることは容易にわかることなので、現実の運営に関してはともかく意図として私は受け止めているのが本音です。それも20:00を過ぎると西に位置する沖縄も夜の帳に覆われます。年々滞在時間が短くなってきているこの沖縄県営平和祈念公園ではあるものの、今年も前夜祭込みで回ることができました。

そして車へと戻って走り出し、いつものファミリーマート糸満米須店で飲み物購入と一服し、宿泊先へと戻ります。20:38という時間は本日の宿泊者の最後ではありましたがいつものことです。食事を済ませ明日はもう帰るしかない今日、荷物を纏めているうちに今日一日分の撮影したフィルムを送付していなかったことに気付きます。みん宿ヤポネシア近くのポストは小さいこともあり、A4サイズの封筒ならば折り曲げなければいけないかもという危惧もあり、ちょっと車を走らせて昨晩同様隣町の具志頭郵便局のポストへと向かいます。南風原郵便局の集配の方が早いのは早いのでそちらを選択していますが、さすがに旅四日目体力も限界に近付いていることも感じており、宿へと戻ったらシャワーを浴びるとすぐベットに入ります。色々な思い出や明日どこへ行こうか…等の思いは走馬灯のように出てくるのですがもうそれを考える余裕もありません。気がついたらやはり寝ていました。そんな感じで四日目の夜は更けて行き、いよいよ淡海之国へと帰る日を迎えます…。zzz

  《次編へ続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 ジェットスター

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