2016/10/29 - 2016/10/29
94位(同エリア217件中)
osdさん
古文書「駅路鞭影記」(水戸藩士が正徳五年(1715)に筆録した水戸街道道中記)に不思議な記述があった。
竜ケ崎・若柴宿の次、遠山新田の項に「此所五・六丁も過 右に筑波山見ゆる 下りの節は筑波 左の方に望見ゆるども此所にては 右に見ゆる也…」
この一行から、筑波山が右手に見える「まぼろしの水戸街道」発見の旅を始めた。
※表紙は、「まぼろしの水戸街道」の概略図。若柴宿から牛久宿の間、従来
の水戸街道は赤線、幻の水戸街道は青線で表示した。(昭文社・茨城県道
路地図を利用)
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- その他
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「成井一里塚」
平成28年6月12日。天気の良い日曜日であった。まず現地調査と思いドライブに出た。10時過ぎ、牛久市城中町成井地区の成井一里塚を確認。
成井一里塚は成井十字路の先、成井地区入口の道路脇にあった。盛土は崩れ、低く変形していて塚とは見えない。市指定史跡 「成井一里塚」と刻碑があったが、看板を読まないと全く一里塚とはわからない。成井集落の中には稲荷社あった筈…車を止め歩きだす。 -
「成井の稲荷社」
石の鳥居が建っている。奥に稲荷神社があった。鳥居の柱にも台座にもどこにも刻字がない。鳥居をくぐって20~30m行くと、また小ぶりの石鳥居があり、その奥に真っ赤に塗られた簡素な祠があった。 -
間口3尺×6尺、高さ1間位の小さな祠で<成井とも稲荷とも>何の名号、書付もない。欄間に狐1匹の絵だけが稲荷社とわかる位でした。簡素にして、小ぶりながらそれなりに風格がある真っ赤な社殿でした。
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祠の裏に廻ってみたが、文字らしきものはない。下を見ると置いてある古材の陰に黒い丸銭のようなものが見える。四角い穴があり、泥を拭ってみると写真のような寛永通宝であった。少し薄ぺっらい鉄銭でした。お稲荷さんのお祭りに子供たちが遊びに使った玩具の銭かお供えに使用した祭礼銭の類であろうが、100年、200年前の鐚銭かもしれない。突然 思いが江戸時代にタイムスリップする。成井の村祭りのお囃子・太鼓が聞こえてくるようだ。祠の表に廻って、寛永通宝の御利益の代わりに100円玉を賽銭する。あらためて稲荷社に拝礼、二拍一礼。
道路出たところで、年配のご婦人と出会った。農作業の後かプラスチックのカラ箱を台車に載せて「何かで御用ですか」と声をかけてきた。見知らぬ人や用のない人間がくるような集落ではない。「いや!古文書の勉強している者ですが、いま成井一里塚を見て、ついでに稲荷神社を見せて貰っていたのです。」
ニコニコした明るい婦人で声も大きい。「〇〇と言いますが、うちのオトーサンも市史のお手伝いなんかをしていましたよ。」(牛久市史近世・成井新田の史料に〇〇家文書あり)
「遠山の原新田から成井を迂回して女化(おなばけ)街道に出る道はありますか。」と聞くと「竜ケ崎・若柴から、遠山の入口の切通しの坂を上がって、老人ホーム「ひかり」の先を右に行く細い道があります。途中迄小さな車は入れますがその先は車止めがあり入れません、歩いて行けば女化街道・牛久市南中学校からの若柴街道に出ます。竜ケ崎市・長山団地の所ですよ。」
思わずヤッター!と思った。地元のご婦人に感謝し、あとは実見するのみ…。 -
「幻の水戸街道入口、畑の中の道」
老人ホーム先右の分かり難い横小路を小型車ではいって突きあたり、車はここまでの感じ。道は左にあるが、どう見ても水戸街道の雰囲気はない。少々気落ち!。引き返し若柴街道に廻り込み、竜ケ崎市・長山団地7丁目辺の出口も確認。歩けば行けそうな道であった。歩行確認は後日として、本日のドライブ終了、旅は始まったばかり。 -
「駅路鞭影記」ー遠山新田 (原書)
<以下解読文>
此所を行過に左に若柴の大沼見ゆる
遠山新田 人家有
此所五,六丁も過右に筑波山見ゆる
下りの節ハ筑波左の方にばかり
見ゆれとも此所ニてハ右に見ゆる
牛久ヘ入前左の方に宇志久の大
沼有 此傍に宇志久の陣屋有
一 宇志久 荒川え二里
小石川より牛久迄道法十四里三十四丁
本荷八拾文
軽尻五十二文
あぶ付六拾弐文
<註>
・本馬(本荷) 一駄40貫までの荷をつけた馬
・軽尻(からじり) 荷なし、あるいは空尻とも書いた。荷を付けない馬をいう
が、5貫目までの荷をつけることが認められている。
・あぶ付 鐙附(あぶづけ)・鐙(あぶみ)のように馬の両脇に付ける意から、
乗掛馬の両脇に小荷物をつけることをいう
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「右手…筑波山」を検索していたら、「水戸土浦道中絵図」がありました。
絵図の中で 波山は右手に描かれていました。
「水戸土浦道中絵図」ー若柴宿から遠山原新田
この道中絵図は、奥書によると、宝暦8年(1758)9月、当時の土浦藩主土屋篤直が参勤交代の帰国の際に、自ら描いたものとされています。 原本は、江戸・千住大橋付近に始まり、土浦領の北限・中貫の宿はずれで終わります。
※250年以上前に、土浦の殿さまが描いた絵図です。現代の目線で見ると方向感覚
が変だったりしますが、意外に細部に正確な描写、方向位置であったり、史料的
に貴重なものです。 -
「水戸土浦道中絵図」ー遠山村原新田
・筑波山が道の右手に描かれています。
絵図面の右の遠山村原新田の集落から、道なりに左(西に)歩くように見えますが、実際は遠山新田の集落を右折し縦(北に向かって)歩く感じです。絵図中央、道が湾曲している部分は、現在の牛久市六軒団地通り、かっての巡見道に当たると考えています。そのまま左に行って数条のスジの入っているところは牛久文化こども園手前の谷地の部分です。この辺で筑波山が道の右手に見える筈ですが、住宅開発が進み、見える場所は多くありません。殿さまは地図の道の右手にきちん筑波山を描いています。実歩、実写したのだと思います。 -
「水戸土浦道中絵図」ー 牛久・向台から久貝坂
絵図の右端、左上に現在、牛久市向台小学校があります。その下に垂れ下がりの道が現在の水戸街道になるでしょう。絵図では、垂れ下がりの先は左右に分かれています。この地点は谷地の最低地で標高5~6m、小学校は24~25m。高低差の激しい悪水たまりで、近年まで胸までつかる深田だったようです。水はけの悪い湿泥地を避けて山裾を左右に廻り込んでいるのを、殿さまは正確に絵図に描き込んでいるようです。
向台小、校庭の角を過ぎて、20~30m下ると、若柴方向にヘアピンカーブする急坂(旧道)があります。久貝坂と言われています。元治元年(1864)3月水戸藩士諸生派・久貝悦之進が暗殺された街道(字・天神坂の下ー波山記事巻二第13)です。「武田耕雲斎詳傳(上)・大内地山著」にも、暗殺は「牛久の間道」と記述されている。いずれにしても、殿さまの大名行列が通れるような道ではなかったのだろうと考えています。 -
「水戸土浦道中絵図」ー牛久宿
今の感覚では縦見に絵図を見たい所です。絵図中の牛久の文字の左に、斜めの四角に北・南、西・東と殿さまは描き込んでいます。絵図中央、垂れ下がった道先に「山口修理亮殿在所陣屋入口」(牛久藩陣屋)との記入あり、その先に牛久沼の岸辺の様子も描かれています。筑波山は道の左側に直っています。けっこう几帳面な殿さまのようです。 -
「向台小学校から急坂を下った最低地の湿田」
今は、揚水ポンプのおかげで良田に改良された。
たんぼは標高5~6m。牛久沼も同水準です。
吐水掘は牛久沼への一ケ所だけ、この写真の奥、狭い山間にあります。
水はけが悪く、超湿地、深田になるわけです。 -
「牛久市南部土地改良区揚水ポンプ場」
揚水ポンプ場が完成したのは昭和49年3月でした。「この地区はまわりを丘陵に囲繞された根水の湧出する超湿田・谷津田であった…」とあるように昭和40年代になっても湿地・深田に悩まされていた状況があったようです。江戸時代、大雨、長雨の時ここを通行できたのであろうか。大変疑問に思える。しかし、天竜川のような川留めの古記録は見当たらない。やはり「駅路鞭影記」のように右手に筑波山が見える水戸街道・本道があったのであろう。 -
揚水ポンプ場(顕彰碑、うしろの小屋)前から左、向台小学校方向の急坂を望む。
改装された新道、昔の面影はありません。 -
揚水ポンプ場前から右、成井一里塚方向の急坂。
少し前までは昼なお暗い切通しの、小型車1台やっと通れる細い道でした。
「痴漢に注意!」の看板がありました。 -
揚水ポンプ場前の展開、女化け街道方向を望む。突き当たりの山は標高28~30m位あります。
※このあと、晩秋10月29日、いよいよ「幻の水戸街道」の実地探訪の旅に出ま
した。 -
10月29日(日)晴
いよいよ、幻の水戸街道・散策の旅 出発です。
わが古文書解読会から参加9名です。
朝10時、集合。記念写真を撮って出発。写真は少々ボケをかけました。
六軒団地通り(巡見道)桜塚の信号を牛久市向台小学校方向に向かう。向台小
信号を左折、急坂を下り揚水ポンプ場を過ぎて成井一里塚に向かう。 -
先ず、成井一里塚。
草ボウボウ、刻碑は野草に半分埋まっています。
まだ夏の面影が残っています。
狭い道で、車に注意です。 -
「遠山原新田」
入口はせまかったが、中に入ると広い田舎みちであった。
メンバーはそれぞれ散策。 -
先日、偵察で来た時はここまで。この先は…?
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畑の中の道を100m位歩いたが、普通の野中の道であった。
先になにか森の入口のような景色が見えた。 -
車止めがありました。ここまでは普通の山道でした。
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突然、森の道が広がりました。道幅も4~5mはありそうです。
自然風致地区、そんな感じです。 -
ここら辺で驚かされました。これは単なる山道ではありません。江戸時代の五街道規模の街道です。途中であった地元の人は、むかしは荷車も走っていたと言っていました。なんの為に主要街道から外れたこんな山の中に、昔から五街道規模の街道があったのでしょうか。土浦の殿さまの御駕籠行列も堂々と行進できます。水戸家の大名行列も通った事でしょう。時には竜ケ崎に飛地を持った仙台の伊達公も通ったかもしれません。
私はこれこそ本来の水戸街道だと確信しました。明治になって参勤交代・大名行列はなくなりましたが、この道は人力車の金持ちや大事な品物、商品のために、明治大正から戦前の昭和の最近まで有効活用されていたと思われます。しかし、ほとんどの庶民は、直近の湿地・谷津田の間道を泥まみれになりながらも通行していったのでしょう。有用性が格式を消していった例だと思います。大名・貴人・大身武士たち通行の公式水戸街道は廃れ消えていったのです。
小型車が2台、楽にすれ違いできます。デコボコもなく、たいへん歩き易い道路=街道です。きれいに整備されて、人の手が入っています。市の管理地区のようでもあります -
参加会員も楽しそう・・・。
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落葉がきれいに踏みしめられ、美しい森の街道です。1㎞くらい歩きましたか、そろそろ出口が見えてきました。
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竜ケ崎市・長山団地7丁目の所の出口です。車止めもあり、これでは知っている人しか、この道を利用しないでしょう。森の中にこんな街道規模の道があるとは、全く知られていないようです。街道歩きのブログのUPにも、お目にかかったことはありません。
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若柴街道です。向こうに見えるのは長山団地。若柴街道を左に土浦の殿さまと同じ道を歩きます。
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若柴街道を北上、牛久・南中学校の手前、民家の脇を左折して入って行く。
南中のグランド側、金網に沿った古道を歩く。道は竹やぶ・野草に占領されつつある状況。
これも土地の古老が「昔は荷車も、自動車も走っていたんだ。本来この道が水戸街道だったんだ」と言っていました。 -
牛久市・六軒団地の南端を歩く。かっての水戸街道を彷彿されるものは何もない。
江戸時代は住宅団地もない、人跡未踏の広大な原野「女化け原」の端っこのやぶ林
の道だったのでしょう。 -
小ぶりな円墳がいくつかある櫻塚古墳(車の左先)の脇を通って六軒団地を抜け、手前道路(六軒通り・巡見道)に出る。
朝の出発点に戻った。
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「右手に見えた筑波山」
新築住宅がどんどん増え、かっての巡見道のどこからでも見えたはずの筑波山が殆ど見えなくなった。桜塚信号から向台小方向200m位の地点で、右手の建築現場の向こうに筑波山をようやく発見しました。
これで、遠山原新田から向台小学校まで、成井新田ー超湿田・谷津地を迂回できました。迂回路は低地に降りることは一度もありませんでした。どんな大雨、長雨にも支障がないと思われます。大名の公式街道には十分です。格式高い大名行列、殿さまを泥まみれにさせない街道、本来の水戸街道をこの迂回路に比定する所以です。「まぼろしの水戸街道」は人知れず、森の中に顕在していたのでした。
「右手に見える筑波山」もしっかり確認できました。「駅路鞭影記」の作者も土浦の殿さまも、昔の人は しっかりものを見聞し、正確に記録していたのです。
※これにて、今回の「まぼろしの水戸街道」の旅は終了いたします。
あくまで趣味の歴史旅、一私見の探究です。万事ご容赦、お楽しみいただければ
幸いです。
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この旅行記へのコメント (3)
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- ゆみナーラさん 2017/09/10 00:59:16
- 取り急ぎ御礼です
- osdさん、こんばんは! 今短い旅行ですが香港に来ておりまして、昨日母から届いたと報告を受けました!
メールで御礼と思いますがモバイルからだとメールが送れないようなので、失礼ながら取り急ぎこちらより御礼申し上げます、帰ったら拝読するのが楽しみです(^_^) 有難うございます!
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- ゆみナーラさん 2017/08/30 16:34:40
- 楽しいです!!!
- osd様
古文書の解析は難しそうですが、周囲の景観が全く変わった今でも未だ残っている、深い湿地帯の多い土地にそれを避けるようにうまく造られた街道や、当時何の資料もなかった時代に、実際に歩いて良く周りを見て、これだけの地図を作成した先人にはアッパレです。
続きのシリーズもお待ちしています^^
- osdさん からの返信 2017/08/31 09:54:47
- 老骨に鞭打って
- > ゆみなーら様
>
> おたより有難うございます。
今回の「幻の水戸街道」は古文書解読勉強から生まれたもので、古文書のフイルドワークとして楽しい時間でした。新しい発見にはワクワクします。
※H25年秋、「嘉永二年 牛久藩領 巡回日誌」という本を牛久市教育委員会と古文書の会とで共同出版しました。そのあと、その解説本「趣味の古文書・永二年 牛久藩領 巡回日誌」を私家本を発行しました。1冊贈呈したいのですが・・・。
※現在、「筑波颪」というー筑波山に挙兵し敦賀で300人以上打ち首になった、水戸天狗党哀史たるべき古文書の解読、解読文のpc入力、脚注解説に毎日4〜5時間没頭しています。前作も完成するのに2年強かかりました。今回は前作の三倍の分量があります。完読するにはあと最低2年、脚註整理に2年位かかるでしょう。残された時間もそう多くありませんが、あと5年、老骨に鞭打って頑張るつもりです。
もっと若い時に勉強を始められたらと最近つくづくと考えますが、物事はできるときがくるまで出来ないものです。それが若いときか、老境なってかは定めでしょう。江戸末期の伊能忠敬が測量の勉強をはじめたのは50歳過ぎてからです。
ゆみなーらさんも、明るく前向きに頑張ってください。
H29.8.29 がんばる後期高齢者 osd
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