2017/06/01 - 2017/06/03
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montsaintmichelさん
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兼六園は、水戸 偕楽園や岡山 後楽園と並ぶ日本3名園の一つに数えられ、江戸時代を代表する大名庭園として歴代加賀藩主により、それぞれの時代背景や藩主の嗜好を反映して熟成されてきました。しかしそこには一貫した作庭思想があり、それが神仙思想です。日本庭園の主な作庭思想には「浄土思想」と「神仙思想」があります。前者は極楽浄土を表現し、その代表例が宇治平等院鳳凰堂庭園や平泉毛越寺庭園などです。後者は中国伝来とされ、海の彼方に3つの神山があり、そこに神仙人が住み、不老不死の霊薬があり、その薬を飲めば未来永劫の繁栄が約束されるとされます。歴代加賀藩主は、長寿と永劫の繁栄をこの庭園に投影したのです。
しかし兼六園を訪れたものの、さてどこにポイントを絞って見ればよいのか困惑されるのではないでしょうか?築山・林泉・廻遊式庭園とも称されるため、池や築山、御亭、茶屋の風情を個人の感性で愛でるのもいいのですが、庭園は工芸品と同様に理解し難い一面があり、ましてや兼六園は歴史も深く様々な歴史が絡み合って複雑になっています。ですから兼六園の歴史を知ることが、心に響く情景を見つける近道かもしれません。
前編は、途中で見学した「成巽閣」を含めてレポいたします。
兼六園のHPです。
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/
兼六園 園内マップです。
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point.html
成巽閣のHPです。
http://www.seisonkaku.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急
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金沢21世紀美術館
今回は時間の都合で見送った「金沢21世紀美術館」です。
2004年のオープン以来、世界中の現代美術ファンや観光客を魅了してやまない、巨大なコイン状の直径113mの円形をした美術館です。地元では丸い形の美術館から愛称「まるびぃ」と親しまれ、年間200万人が訪れる金沢屈指の観光スポットです。
「まちに開かれた公園のような美術館」をコンセプトに、気軽に立ち寄れる様に市の中心部に立地しています。その名に恥じない21世紀の美術品や芸術作品をインスタレーション展示する刺激的な空間である一方、美術館というよりも開放的な公園と言った表現がしっくりくる癒しの場でもあります。
現代アートの表現手法のひとつがインスタレーションです。70年代以降に発達した手法で、空間に制作者の意図の下に絵画やオブジェを展示し、更には映像や音響効果を相乗させることでその空間全体をアート作品化する試みです。
固くなった頭を柔らかくほぐしてくれ、感性にスパイスを与えてくれる刺激の場所ですので、現実から半歩外れ、現代アートを鑑賞する時間を作られてみてはいかがでしょうか? -
金沢21世紀美術館 カラー・アクティビティ・ハウス
オラファー・エリアソン氏が21世紀美術館の開館5周年記念事業の一環として制作したものです。
色の三原色のシアン、マゼンダ、イエローの曲面ガラスの壁が1点を中心に渦巻き状にパビリオンを形成しています。直径10m、高さ3mある作品です。渦巻きの内側からは、立つ位置や日光の強弱で光の領域が混じり合い、異なる色彩に彩られた人や風景を見ることができます。中央では白色灯が点灯し、日没から夜明けまでは色の付いた灯台のように柔らかく光る幻想的な作品に変身します。 -
兼六園 徽軫燈籠(ことじとうろう)
兼六園を紹介するガイドブックには必ず見られる、兼六園のシンボルとも言える燈籠とその借景となる清閑な風景です。眼前には霞ヶ池が広がり、対岸には内橋亭が佇みます。傍らの楓の古木と曲水に架かる虹橋(琴橋)が一体となった景色は、一幅の絵画を見ているようです。鴨まで仲間入りしてくれています。
燈籠の脚が2股になっており、その形が琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることから、この名があります。水面を照らす役目の「雪見燈籠」の変形とされますが「菱形」や「濡鷺形」の変形とする考え方もあるそうです。総高2.67mあり、一脚は水中にあって高さ1.9m、陸にあるもう一方は0.8mとされ、この脚の長さの黄金比率の非対称性が「破格の美」を体現していると評されます。しかし、元々は同じ長さであったものが、明治時代に何らかの理由で片脚が折れ、修復した際に長さを違えたものとされています。
手前に架かる虹橋は、長さ5m、幅1.1m、厚さ30cmの一枚石の石橋です。赤戸室石製の反橋で、琴の胴の形を彷彿とさせる緩やかな円弧を描く姿から「琴橋」とも呼ばれます。 -
兼六園 徽軫燈籠
何故脚の長さが異なるのか調べてみると、当時、県は財政難で壊れた燈籠を直すことができず、やむを得ず片脚を石の上に置いたそうです。ところがそれが奏功し、珍しい燈籠だというので全国的に有名になったそうです。
余談ですが、この燈籠は昭和時代に入ってからも倒されています。当時、無料開放で深夜も通り抜けができたのが原因とされ、昭和54年までに計6回も倒されています。金沢では直す職人が見つからず、昭和44年に京都の日本伝統工芸士認定 西村金造氏によって直され、現在ある2代目も昭和53年に同じく西村氏によって造られました。使われた石材は、初代と同様に香川の庵治石、岡山の北木御影石、大阪の御影石です。
折れた脚の一部が傍らに置かれ、苔生しています。 -
兼六園 瀬落とし
虹橋のすぐ上流には小さな堰があり、瀬落としが軽快な瀬音を奏で、小さな布滝は琴の糸を彷彿とさせます。
この周辺は琴をモチーフに形造られたと考えられ、徽軫燈籠は「琴柱」、虹橋は「琴の胴」、瀬落としは「琴の糸」を表現しています。せせらぎの音に雅楽の妙を味わい、水の流れを琴の糸に見立て、瀬音で琴を奏でる音色を表現するとは、なんとも雅な世界です。瀬落としが奏でる音色にも傾聴していただければと思います。 -
兼六園
初めて限定公開された時の名称は「与楽園」でしたが、僅か2週間で「兼六園」に改名されました。往時の改名権限は15代藩主 前田慶寧と隠居中の斉泰にしかなく、馴染みの薄い「与楽園」の改名に斉泰が関与したというのが定説です。
「兼六園」の名称は、前田斉広が松平定信に揮毫を依頼し、定信が命名したとするのが定説でした。しかし近年大発見があり、この説は否定されました。定信自筆の日記『花月日記』には、兼六園の揮毫を依頼された経緯が書かれています。「加賀の太守より額字をこふ。兼六園とて、たて三尺ニ 横九尺也。兎裘の額にはいとけやけし、兼六とはいかがと、とひにやりぬ」。つまり、定信は兼六園という言葉を知らなかったと吐露していたのです。
元々「兼六園」の名は、北宗の詩人 李格非が19の庭園を解説した『洛陽名園記』に記されたものです。六勝の要素を備えるのが「湖園」であり、湖園である兼六園は素晴らしいというのが名の由来です。「優れた庭園にするために兼ねられないものが6つある。広々(宏大)とした様子を表現しようとすると、静かで奥深い風情(幽邃)が少なくなってしまう。人工的なもの(人力)が勝っていれば、古びた趣き(蒼古)が少なくなる。水の流れ(水泉)を多くすると遠くを眺めること(眺望)ができない。これを兼ね備えているのは湖園だけである」と解されます。
ですから「兼六園」の真の命名者は『洛陽名園記』を読んだ人物と言えます。消去法になりますが、斉泰は12歳であり、庭園に思い入れがあったとしても命名はあり得ません。次に斉広ですが、『政隣記』には「蓮池にも足を運ぶことが少なく…」と記されており、理想を持って命名できたとは思えません。
一説には、『越登賀三州志』を編纂し、漢文などに精通した富田景周(とだ かげちか=痴龍扇(ちりゅういん))の名も挙げられていますが、諸説あり真偽は不明です。現在も命名者の特定には至っていませんが、「兼六園」という名が走馬灯のように斉泰の脳裏に焼き付き、その理想を追求しながら造園を進めて行ったことは確かなようです。 -
兼六園 眺望台
六勝の一つ「眺望」を愉しむのに最適な場所です。
目の前に卯辰山、右手奥には白山山系の戸室山や医王山などが連なります。左手に金沢市街地、その先には加賀平野が広がり、さらに河北潟や内灘砂丘、日本海、能登半島なども眺められる、雄大なパノラマ風景が圧巻の眺望台です。
また、眺望台から振り返えれば、たゆたう曲水の流れに満々と水を湛える霞ヶ池が見え、兼六園が「水泉」と「眺望」を兼備していることを実感できます。 -
兼六園 月見燈籠
曲水が霞ヶ池に流れ落ち所に架かる月見橋の袂に建てられた、園内唯一の月見燈籠です。
高さ2.1mあり、石材は御影石製です。満月をイメージしたデザインなのか、笠や中台、火口、竿は円形としています。笠は直径1.9m程あり、火袋には四方に丸い火照口を持たせています。全体的に丸みを帯び、やわらかな印象を与える燈籠です。 -
兼六園 雁行橋
七福神山から少し下流の曲水に架かる11枚の赤戸室石を繋げた切石橋で、夕空に雁が列をなして飛んでいるのを彷彿とさせる姿からこの名があります。また、石の形が亀の甲羅の形をしていることから「亀甲橋」とも呼ばれ、万年を生きる亀に因んでこの橋を渡れば長生きができると伝えられていました。しかし現在は、石橋の摩滅が激しいことから通行止めとなっています。「かりがねばし」とも呼ばれています。 -
兼六園 雁行橋
この橋を渡ると長生きするというのは、隠居した12代藩主 斉広が城から駕籠で竹澤御殿に渡る際、雁行橋の西側にある駕籠石で草履を履いて雁行橋を渡る折、長寿を願いながら渡ったためと伝えられています。
また、兼六園の六勝の一つ「水泉」の美に貢献しているのが全長574mもある曲水の流れです。辰巳用水から引き込んだ水流が山崎山の山麓の岩間から出て、緩やかに千歳台を流れ、虹橋の下流で霞ヶ池に注ぎます。
最初に曲水が整備されたのは竹澤御殿造営の時で、まず山崎山の麓から七福神山周辺の流れが造られました。千歳台を大きく湾曲する流れは、竹澤御殿を解体して霞ヶ池を掘り広げた13代藩主 斉泰が造営しています。 -
兼六園 唐崎松
月見橋の傍らにあり、霞ヶ池に面して立っています。兼六園の松木は約560本ありますが、ほとんどが黒松と赤松です。13代藩主 斉泰が、近江八景の一つで松の名勝地の琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて育てた黒松です。地面を這うように霞ヶ池の水面に広がる枝振りは、兼六園の中でも群を抜きます。特に雪の重みによる枝折れを防ぐため冬場に施される円錐形の雪吊りは、兼六園の冬の風物詩でもあり、他の庭園では見られないノスタルジックな風情を紡ぎだします。
また、5人の庭師が8月の暑い1ヶ月間をかけて行う剪定作業も恒例行事です。ハサミをほとんど使わず、昔ながらの手で古葉を1本1本抜く「古葉むしり(透かし剪定)」と呼ばれる手法で行われています。そうした手入れの賜物としてこの姿があるのです。庭師に感謝です!! -
兼六園 霞ヶ池と蓬莱島
兼六園の中心部に広がる、園内最大の池です。面積は約5800平方m、最深1.5mあります。曲水は虹橋下流で霞ヶ池に注ぎ込み、内橋亭付近の流出口から翠滝になって瓢池へ落ちます。栄螺山や内橋亭、徽軫燈籠、虹橋、唐崎松、蓬莱島などの名勝が池の周辺に点々と配され、廻遊しながら四季折々の庭景を愛でられます。
霞ヶ池に浮かぶこの島は、蓬莱島です。別名「亀甲島」と言います。池のほぼ中央に浮び、池を海に見立てて神仙島になぞらえた島です。これは中国の古い神仙思想を表現したもので、海の彼方には蓬莱、方丈、瀛州という3つの島があり、そこは神仙人が住む理想郷だという伝説が拠り所になっています。3つの島は不老不死や繁栄をもたらすものの象徴であり、かつて多くの大名庭園に取り入れられた作庭思想です。
また、島は亀の形をしており、島の右端にある黒い大きな立岩を亀の頭、対極の石塔を亀の尾に見立てています。こうしたことが、亀甲島と呼ばれる由来です。 -
兼六園 内橋亭
霞ヶ池に浮ぶ茶屋で、夕顔亭、時雨亭、舟之御亭と並ぶ蓮池庭4亭の一つです。5代藩主 綱紀が造った蓮池庭には石川門前から蓮池門にかけて調教用の馬場があり、その中ほどに建てられた馬見所が内橋亭です。2つの部屋が木橋で繋がっていたことから、この名があります。また、藩政期、鯰の手水鉢があったことから、「鯰の亭」と言われたとも伝えられています。
宝暦の大火で焼失し、11代藩主 治脩が再建しています。その後、現在の位置に移され、栄螺山の鬱蒼とした樹々を借景に、石脚で支えられたこの亭はまるで水面に浮かぶ御殿のような幻想的な雰囲気を醸しています。
水際に8畳の間があり、板縁を通って反橋を渡ると6畳の水亭に至り、水亭は3方向が窓となっています。場所は移されていますが、基本構造は治脩の造ったものと同じであり、往時を偲ぶ貴重な遺構です。普段、本席は非公開ですが、毎年5月7日の開園記念日の茶会で公開されています。 -
兼六園 地蔵堂
園のほぼ中央、霞ヶ池前の樹木の陰に佇みます。13代藩主 斉泰が建立し、父 斉広への孝養を尽くしたものとされています。越前石製、間口0.7m、奥行0.6m、高さ2m程の祠です。手前に石造の花立が据えられ、観音開きの石の扉の先には地蔵尊が2体安置されています。1体は江戸の本郷に加賀藩の屋敷を建てた際に出土したものです。もう1体は斉広の母 貞淋院が祀っていた地蔵尊とされ、元は江戸の刑場「骨原」にあったものだそうです。安産・出世・眼病治癒にご利益があるそうです。
因みに地蔵堂が建っている場所はかつて竹澤御殿で暮らした斉広の枕元とされ、枕元跡を踏まないようにとの配慮からこの場所に建立されています。2体の地蔵尊が安置されているのは、はじめは2棟建てられていたものが後世に1つになったためと推測されています。 -
兼六園 七福神山
曲水に架かる雪見橋を渡った先にある築山です。12代藩主 斉広が造営した竹澤御殿に附帯していた庭園の一部です。七福神に見立てた7つの自然石が配されていることから、この名があります。一説には、竹林の七賢人(稽康、阮籍、山涛、向秀、劉伶、阮咸、王戎)をなぞらえたとも言われています。
また、別名「福寿山」とも呼ばれ、曲水や築山、護岸の石組み、雪見燈籠.雪見橋や雁行橋など、往時の風情をそのままに伝えています。かつては卯辰山を借景にしていたものと思われますが、現在は樹木が生い茂りその面影は偲べません。
七福神信仰は全国的に盛んですが、加賀藩主は築山に七福神を配することでいつでも御殿から眺められるようにしてしまったのです。
雪見橋の下流、曲水の中に佇み、清楚な雰囲気を湛えた雪見燈籠は、見事なアクセントになっています。冬には笠に雪が降り積もり、より一層風流に映ることでしょう。
御影石製で、脚は3本、笠は6角形で大きなものを載せています。火袋も高さ43cm、間口20cmある大型のものです。 -
兼六園 七福神山 毘沙門塔
七福神山のほぼ中央に建てられています。藩政時代からのものではなく、1874(明治7)年に兼六園が一般開放された際、茶店連が寄贈したものです。
石材は赤戸室石製で、火袋や火口が付けられ、燈籠の趣に造られた石塔です。後世のものですが、築山のよい添景になっています。
七福神山の中央に立つ赤松は、築山の主木です。鶴が巣を作って籠もったと言うことから、「巣ごもりの松」の名を持ちます。巣ごもりの松は、築山当初からここに植えられていたものと考えられ、庭園の変遷を知る生き証人のような存在です。
七福神山の正面の曲水に架かる石造りの反橋が雪見橋です。巨大な青戸室石を2つ重ね合わせています。長さ4.8m、幅2.3m、厚さ30cmあります。白い御影石の橋台石と青い青戸室石のコントラストが印象的です。現在は通行できませんが、橋の上から霞ヶ池方面を見た時、雪見燈籠や雁行橋、唐崎松などが連なって美しく見えるのではないかと思います。雪見橋と言うほどですから、雪景色は格別かもしれません。 -
兼六園 明治紀念之標
中央に日本武尊像、その左に石川県戦士尽忠碑を据える明治紀念之標があり、西南の役で戦死した郷土軍人400名の霊を慰めています。高さ1m程の石垣を築き、その上に石柵を巡らして大小の石碑14基が並んでいます。日本武尊像は、1880(明治13)年に建てられた日本初の屋外に設置された人物銅像です。銅器で知られる高岡で鋳造され、作者は名工 金森藤兵衛です。西南戦争における九州討伐のシンボルとして日本武尊を銅像のモデルにし、西南戦争のような国民同士が争う悲惨な戦争を2度と起こさないという平和のシンボルです。皇室所縁のためか、全国の金物が強制供出された太平洋戦争時でも供出を免れ、以後も兼六園に不釣合いとの酷評に耐え抜き、今も健在な像です。
両脇に植えられた赤松は「手向松(たむけまつ)」と呼ばれ、京都の東西両本願寺の門跡から移植されたものです。「お花松」とも呼ばれ、右側がお東、左側がお西からやってきた松です。
特に左の松は右よりも幹周りが太く、枝張りも広く、実に美しい姿形です。 -
兼六園 明治紀念之標
日本武尊は、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治した時に尻尾から出てきた草薙の剣(天叢雲剣)の持ち主とされ、死んで白鷺になって飛んで行ったとの伝説があります。像の着物が左前になっているのは、古代の女性の服装を表し、九州の豪族 熊襲を征伐した際に日本武尊が女装して酒を注ぎ、敵の寝込みを襲って討ち取ったという伝説に因みます。ビール腹(?)は、妊娠中のようにも見えてしまいます。身長は5.5m、重量は5.5トンあります。
1988(昭和63)年に全面改修が行なわれた際、銅像に鳥のフンが全く付いていなかったことから、金沢大学 広瀬教授が銅像の成分を分析し、鳥除けの合金(ヒ素や鉛を含有)を開発したとの逸話があります。因みに広瀬教授は、2003年にユーモアと独自性のある研究に贈られるイグ・ノーベル賞を受賞されています。
紀念之標の前には、1880(明治13)年に建てられた石橋が架けられています。赤戸室石の反り石を13枚揃えて架けた重厚な橋で、石野伊左衛門が造り、欄干(越前笏谷石)に施されたナンダバツナンダ龍の透彫りは、神社の狛犬製作で知られる明治時代の名工 福島伊之助作と伝わっています。 -
兼六園 明治紀念之標
この日本武尊像には数々の俗信があり、70~80歳代の方が懐かしむのが、「鼻の穴から覗いて空が見えると試験に合格する」と言うものと、「息を止めて3周すると願いが叶う」というおまじないです。
鼻の穴を覗くおまじないは、元々像の後頭部に小さな穴が開けられており、鼻の穴から後頭部の穴を覗くと空が見えるのを旧制四高の学生が発見し、成績向上のゲン担ぎとして広まったそうです。しかし、1990年に倒壊防止の台座改修に伴い、像の穴も塞がれたため、残念ながら今では空は見えないそうです。
後者は、以前は日本武尊像の周囲を廻れたのだと思います。今これをすれば、確実に窒息死します。
何故このような場違いの像や碑が兼六園にあるのかと訝る方もおられると思います。日本武尊像や碑は兼六園の本来の姿ではないため、移設が望ましいという意見も多かったようですが、現在は景観の一つとしてすっかり馴染んでしまっているようです。ですから、この像や碑は、由来を考えずに景観のひとつとして愛でられることをお勧めします。 -
兼六園 明治紀念之標 台石
台石は、金沢城の庭師 太田小兵衛が石積みした、高さ6.5mもある巨大なものです。明治紀念之標と書かれた巨石を中心に、大蛇・ナメクジ・ガマの形をした3つの自然石が配されています。
「明」という字の右上には「大蛇」、左上の欠けた石は「ナメクジ」、そしてその下方左に大きな「ガマ(横から見た形)」を配置しています。蛇は蛙を食べ、蛙はナメクジを食べ、ナメクジは蛇を粘液で溶かすという「三すくみ」を構成した石積みだから、崩れることがないと言われています。台石の外側に積み上げられた景石は金沢城玉泉院丸庭園にあった庭石で、能登福浦の海岸から採取されたものだそうです。 -
兼六園 根上松(ねあがりまつ)
千歳台にある明治紀念之標に対峙して立つ巨松です。13代藩主 斉泰が若松を手植えした黒松と伝わります。あまりに大きいためグロテスクな感じさえしますが、ジブリのアニメに登場するような神秘的な姿をしています。
この辺りは、「千歳台」と呼ばれ、その名は曲水に架かる千歳橋に因みます。
初代藩主 利家の金沢城入城以来、この土地は寺院建立、家臣の屋敷地、藩校創設、竹澤御殿造営と歴代藩主の思惑によって様々に遷り変わり、現在の姿に作庭したのは13代藩主 斉泰です。
枝ぶりが見事な名木が点在し、豊かな水量を湛える霞ヶ池や巨大な明治紀念之標がある広々とした明るい千歳台は、兼六園のメインステージとも言え、六勝の「宏大」を体感させる場所です。 -
兼六園 根上松
名の由来は、大小40数本もの根が地上2mまでせり上がる奇観に因みます。こうした根になったのは、土を高く盛り上げて若松を植え、成長に伴って土を取り除き、今の形に意図的につくり上げたからです。
推定樹齢200年、高さ15m以上ある堂々たる姿は、唐崎の松と共に兼六園を代表する名松です。根が露出していても枯死せず、逞しく成長したこの松の生命力、生気にはただならぬものが感じられます。また、根上りは「値上り」に通じて縁起が良く、商売繁盛を願ってその根に触れる人が多かったそうですが、根の付近が踏み固められて悪影響を与えるため、現在は立ち入れず、遠巻きに見るだけです。 -
兼六園 小糸桜
兼六園は、石川県から唯一選ばれた「日本さくら名所百選」です。「兼六園菊桜」のような、1つの花に300枚を越える花弁を付けて菊の花のように咲く珍しい桜もあります。
その中で一際異彩を放つのが、根上松の左側にある「小糸桜」です。北國新聞社編『金沢めぐりとっておき話のネタ帖』によると、この桜の根元にあるのは井桁であり、深い井戸の底に根を張ったソメイヨシノだそうです。井戸から這い出すような異様な姿から、この桜には怪談話が付きまといます。
藩政期、小糸という美しい御殿女中がいた。ある日、小糸に主人から寵愛の声がかかる。しかしそれに従わなかったために手討ちにされ、この井戸に投げ込まれた。井戸から伸びる桜の姿は、恨みを込めて井戸から這い上がろうとしている小糸の化身だという。
この伝説を知ってこの桜を見ると、今にも井戸から「貞子」が這い上がってくるような気配を感じます。恐ろしくて、とても井戸の中を覗く気にはなれません。 -
兼六園 花見橋
小立野口から真っ直ぐ入ってきた所にあり、曲水に架けられた擬宝珠を被せた欄干が特徴の木製反橋です。別名「勅使橋」や「観花橋」とも呼ばれ、月見橋や雪見橋と合わせて3橋と言います。
4月は桜花、5~6月は曲水のカキツバタやツツジの眺めが素晴らしいところから、この名があります。特に花見橋下流に群生する1万株4万本のカキツバタが咲き乱れる姿は圧巻です。因みに現在の橋は、1989年に架け替えられたものです。 -
兼六園 辰巳用水
花見橋から見るカキツバタの群生です。今年は開花が少し遅いようです。
兼六園は不思議なことに海抜53mの高台にありながら、曲水にも池にも水が満々と湛えられています。これは370年以上も前に造られた辰巳用水の恩恵です。2年ほど前にNHK『ブラタモリ』で詳しく解説されていました。
寛永の大火によって金沢城を含め城下を焼失しました。3代藩主 利常は、城のための防火用水をその翌年に造らせました。それが辰巳用水であり、後に兼六園の曲水として用いられるようになりました。
特徴は、城から11km離れた犀川の上流にある上辰巳町から取水し、その行程の1/3がトンネルであること、流れの平均勾配が4/1000と極めて緩やかなこと、兼六園から城への揚水は逆サイフォンの原理を使っていることが挙げられます。
今も昔も変わらず園内に水を運んで渓流や滝、池泉など美しい庭景を保つ原動力になっています。 -
兼六園 龍石(りゅうせき)
石川県立伝統産業工芸館の兼六園側入口の向かいにある小さな築山に安置されています。滝坂石の自然石で、龍が口を開けている姿に見えることから、この名があります。この角度から見るのが最も龍に見える位置なのですが、龍石と知らずに見れば、丸っこいので口を開けたカピバラや鯨を思い浮かべるかもしれません。これも感性の悪戯でしょうか?
こうした石は、基本的にロールシャッハ・テストに近い類のものです。発想には自由度があっていいと思います。 -
兼六園 龍石
少し引いて撮影すると、石が円形に並べられています。龍の頭部を起点にぐるりと並んだ石は、とぐろを巻いた龍を彷彿とさせないこともありません。
龍石の背後には名花「龍石の椿」があります。「龍石の椿」は単なる呼び名ではなく、品種名です。6枚の薄紅の花弁に大小の白い斑が混じるのが特徴で、気品のある優雅な花を咲かせます。開花は年末~春先まで愉しめるそうです。 -
兼六園 五葉松
龍石の先、曲水の際に鶺鴒島に対峙して生えています。兼六園の松木はほとんどが黒松と赤松ですが、これは数少派の五葉松です。短枝に束生する葉が5本というのが名の由来です。
枝や幹が激しくねじれているのが特徴とされ、その訳は「鶺鴒島に立つ仲睦まじい雄松と雌松の「相生の松」を妬んだから」とか、「仲睦まじい夫婦がお参りしている姿を長年見せつけられ、よじれてこうなった」など諸説が伝えられています。可愛そうに、姿形から「ひねくれの松」とも呼ばれています。高さ12m、幹回りは3.3m、枝張り9m程あり、この種では県内最大級です。 -
兼六園 鶺鴒島(せきれいじま)
花見橋から上流にある曲水の中にある、15坪程の浮き島です。イザナミノミコトとイザナギノミコトが男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事に因んだ島名で、「夫婦島」とも呼ばれます。
曲水を境に此岸と彼岸に見立て、高さ3mの明神鳥居を結界に、奥を聖界、手前を俗界と区分けしています。
神が降臨する憑代となる神聖化された神の島として造形され、子孫繁栄の願いが込められています。島の中央には、女性を表す陰石と男性のシンボルを象った陽石の一対の陰陽石(誕生)、石の後方には右に雌松、左に雄松の相生の松(結婚)、島の右端には墓を象徴する五重の石塔(死)を配し、人生の3大儀式を表現しています。 -
兼六園 鶺鴒島
鶺鴒島を花見橋から眺めた様子です。
島の周囲を曲水が流れ、橋も架けられていないため渡ることはできませんが、そのことが一層この島を神秘的に魅せているように思います。 -
兼六園 鶺鴒島 鳥居
鳥居には「三社」と書かれた石額が掲げられているそうですが、今は風化して判読できません。かつては社殿があったのかもしれません。
「三社」の神号は、伊勢、八幡、春日または加茂のいわゆる三社を指すとも、あるいは白山の御前峯、大汝峯、別山の神仏に当たるとも言われていますが、現在のところ謎のようです。 -
兼六園 鶺鴒島 陰陽石
陰陽石とは、女性を表す陰石と男性のシンボルを象った陽石の一対を指し、夫婦や男女の仲睦まじさを表して子孫繁栄を祈念するものです。日本庭園、特に大名庭園には不可欠の縁起ものの定番です。
兼六園では鶺鴒島に置かれ、石碑を挟んで右に中央部が縦に凹んだ高さ70cm程の陰石、左に高さ35cm程の陽石が安置されています。
石碑には、「君徳を表す枝に千代こめて、契る連理や相生の松」、「陰陽の神のちかいや世世迄も姿を変えずたてるこの石」という和合長寿を表した歌が刻まれているそうです。 -
兼六園 蓮華寺型燈籠
鶺鴒島の上流、曲水の畔に建てられた、高さ1.9mの園内唯一の蓮華寺型燈籠です。笠の背が高いのが蓮華寺型のユニークなところであり、「からかさ小僧」を彷彿とさせます。
段状の屋根は瓦葺きに似せ、定紋が彫られています。笠を御影石、火袋を越前石、中台を青戸室石とそれぞれ違えています。笠裏には「たるき」を象った建築手法となっており、蕨手に当たる部分の先端に6個、中台の各面には3個ずつ定紋模様があるなど、技巧を凝らした燈籠です。この蓮華寺形燈籠は、茶人たちに好まれたと言います。
本歌は加賀藩家老今枝家所縁の京都の蓮華寺にあります。 -
兼六園 おばけ燈籠
蓮華寺型燈籠の更に先、山崎山と鶺鴒島の中間の位置に佇み、正式には寄石燈籠と言います。
宝珠がなく、富士山形の笠の裏には梅鉢型の彫刻が施されているそうです。火袋は背の高い赤戸室石で造られた不規則な八面をしており、火口は三方に長方形のもの一つと円形のものが2つあります。中台は坪野石を八角形に整形し、脚は自然石のために中心が少しずれていますが低いのでさほどアンバランスを感じさせません。 -
兼六園 おばけ燈籠
この寄石燈籠の由来はよく判っていないそうですが、笠の裏には前田家の梅鉢風の窪みがあり何やら謎めいています。
何時、誰が言い出したのか不明ですが、傷跡がある富士型の笠は見張りの武士が敵と間違えて斬り付けたキズだとも言われています。また、昭和10年頃までこの辺り一面がススキの野原であったため、この燈籠に火が点るとススキの穂が夜風に揺れ、その不気味さから「おばけ燈籠」と呼ばれたとの伝承があります。 -
兼六園 山崎山
小立野入口を入ると右手に巨大な欅が林立する高さ9m、周囲160m程の築山があります。かつてこの地を山崎の庄と呼んでいたことから、この名があります。楓、トチノキなど広葉樹が多く植えられ、秋には赤や黄に美しく色付くため「紅葉山」とも呼ばれています。また、山頂には茅葺の御亭が建てられ、山腹には白川御影石で造られた御室の塔や芭蕉の句碑、雪見燈籠があり、深山幽谷の雰囲気を湛えています。
築山が築かれたのは1599(慶長4)年に加賀藩存亡の危機に瀕した時とされ、金沢城の周りに惣構堀を急遽造って防衛力を強めた経緯があり、その遺構の一部と考えられています。 -
成巽閣 (せいそんかく)
明治時代の庭園史家 小沢圭次郎は『明治庭園記』に、偕楽園、兼六園、後楽園を日本の3公園と称することに疑問を投げかけています。しかし兼六園については「固より論無し」と述べ、他は栗林公園には及ばないというようなことを記しています。つまり、兼六園だけは別格と言う訳です。 -
成巽閣 赤門
兼六園からの通用口として使われていた、前田家の家紋「剣梅鉢紋」が入った唐門です。
本来は花橘の紋だったそうですが、菅原道真の末裔を名乗ったため、道真所縁の梅に因んで梅鉢の紋に改めたというのが通説です。ただし、前田家がこの剣梅鉢紋を使用し始めたのは、3代目藩主 利常の時代からのようです。それまでは、梅鉢を丸だけにした丸が6つの六曜紋でした。 -
成巽閣 赤門
本物の赤門があるのは東京大学の正門です。実は東大の敷地は加賀藩屋敷跡にあり、赤門は13代藩主 斉泰の正室として徳川家斉の娘 溶姫の輿入れの際に造られたものです。江戸時代中期以降、将軍家の姫を嫁にもらう際には、御守殿を建て、御守殿門を置くのが慣わしで、御守殿門は朱色に塗り、黒い金具を使う決まりだったそうです。
成巽閣の赤門は、本家のミニチュア版(本家の赤門とは佇まいが異なります)として、赤門と呼んで親しまれたそうです。 -
成巽閣
加賀100万石 前田家を代表する建造物であり、江戸時代の大名屋敷として現存する唯一の遺構です。13代藩主 前田斉泰が、母 真龍院(隆子)のために1863(文久3)年に造営した隠居所です。
「ワビ・サビ」で有名な桂離宮に対し、「キレイ・サビ(派手でにぎにぎしく、時には目が覚めるような華美な空間)」の代表作として西本願寺飛雲閣と共に知られています。桂離宮は17世紀初頭~中頃に八条宮初代 智仁親王と2代 智忠親王によって造営されましたが、そのスポンサーは智忠親王の義父に当たる前田家3代 利常であり、創建年代は違っていてもその美意識の片鱗が引き継がれていたことが窺えます。
初めは「巽新殿」と呼ばれましたが、兼六園が一般開放された際に「成巽閣」に改名しています。金沢城から見て巽の方角(東南)にあるため、真龍院の実家の京都 鷹司家が辰巳殿と呼んだことに因む名です。敷地は2000坪あり、現在の本棟建坪は350坪ですが、創建時は1500坪もの御殿だったそうです。竹澤御殿の善美な「謁見の間」・「鮎の廊下」を移築し、西洋からの素材も融合した色彩豊かな佇まいで、真龍院は晩年をここで暮らしました。
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成巽閣 清香軒(せいこうけん)
赤門を入った左手には、通常は未公開の茶室「清香軒(せいこうけん)」の外壁が見えます。
清香書院からは、黙した庭園を鑑賞することができます。 -
成巽閣 飛鶴庭(ひかくてい)
この先は、清香軒の前に拡がる飛鶴庭(ひかくてい)、さらに煎茶の茶室として全国的にも珍しい三華亭(さんかてい)など、魅力ある空間を備えています。 -
成巽閣
1階の建材には紅い弁柄漆を塗り、壁は土の代わりに紙貼りとしてその上に金や雲母を用いて雲や有職の文様を施こしています。更に、障子の腰板には多様なほのぼのとした絵(蕨(わらび)・土筆(つくし)・蒲公英(たんぽぽ)・水仙・万年青(おもと)・菫(すみれ)・蝶・亀など)が描かれ、御殿を春色に彩っています。小鳥の絵が描かれたオランダ渡りのギヤマン、「謁見の間」の極彩色の欄間や「群青の間」を代表とする階上の鮮やかな色壁など、彩色が潤沢なのが特徴です。 -
成巽閣 謁見の間
室内は撮影禁止ですので、購入した絵葉書やシェアできそうな金沢観光企画のHPから画像を選りすぐって解説していきます。
メインとなる部屋です。前田家を象徴するこの間は、御対面所として使用されました。花鳥の欄間を境に上段、下段18畳からなり、格式ある格天井、折上格天井が用いられています。上段は、左から書院、床、違い棚があり、床に敷かれた絨毯(絵葉書にはありません)は350年前に北インドで作らせた特注品で家紋が入れられています。絨毯の上には火鉢が置かれ、その火鉢は猫足だったり、蝶が描いてあったりするユニークなものです。
建材には弁柄漆、壁は金砂子の貼壁、障子の腰板には花鳥の絵が描かれるという華麗で瀟洒な造りが特徴です。残された希少な大名の書院建築の中にあり、さらに比類ない奥方御殿と言えます。
真龍院が亡くなったのは1870(明治3)年、「人生50年」の時代とはいえ、こんな御殿で暮らしたのが僅か8年間だったのは無常過ぎます。しかし実はこの方、生まれは1787(天明7)年ですから、享年83歳です。往時としては驚異的な長寿ですから、豪邸のご利益だっかのかも…。
この写真は、絵葉書からスキャンしたものです。 -
成巽閣 謁見の間 欄間
欄間は、5色の岩絵具で彩られた目に鮮やかな彫刻です。檜の一枚板から彫りだされ、梅の古木や椿に極楽鳥をあしらっており、前田家御細工所の名工 武田友月の作品と伝えられています。反対側からも綺麗に見えるよう透かし彫り技法が駆使され、往時の職人の技術の高さが窺える作品です。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 謁見の間 欄間
これらの伝統木工技術は、今日の越中富山「井波の欄間」に受け継がれています。
畳の上に正座して昔の人の目線で周囲を巡らせてみると趣が違ってきます。優美な成巽閣にあって、この謁見の間は、武家らしい豪壮な雰囲気が漂う空間であり、現に上段に向かって右側は襖に引き手のない武者隠しになっています。
ですから、この部屋の上段に坐るのは、奥方よりも御当主の方が似つかわしいように思われます。
この写真は、絵葉書からスキャンしたものです。 -
成巽閣 蝶の間
障子の腰板に蝶の絵が描かれているこの部屋は、居間として使用されました。書院と違棚に地袋と小襖を多用した実用的な意匠となっています。
腰板に描かれた蝶の数は障子毎に全て異なります。これは数を変えることによって障子の順序を示しているからです。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 松の間
障子の腰板には松が描かれ、「松の間」と呼ばれる御休息の間です。比較的小振りの間ですが、優美さが際立っています。天井や障子の意匠は斬新で、竹を用いた障子の桟や障子の腰板に嵌め込まれたオランダ渡りのギヤマン(ガラス)には小鳥や植物の絵が焼き付けられています。庭に飛来する小鳥たちと共に、奥方を癒したものと窺えます。
因みにギヤマンは、オランダからの輸入品で150年以上前のものですが、外からの光を受けて綺麗に発色しています。このギヤマンは、障子を開けずとも外の雪景色が愛でられたことで珍重されたようです。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 蒲公英(タンポポ)の間
楚々としたタンポポの絵が印象的です。
しかし路傍に咲くタンポポも多く、生命力の高い植物でもあります。ですから、これも長寿を祈念して描かれた絵かもしれません。
因みにタンポポの花言葉は、「真心の愛」「愛の信託」「神のお告げ」「思わせぶり」「別離」です。占いに関係がある言葉が多いのは、昔、タンポポを占いに使っていた時期があり、神がタンポポを通じて占いの結果を告げていたため、「愛の信託」などお告げに関わる花言葉が生まれたそうです。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 亀の間
寝室であった「亀の間」は「万年青の縁庭園」に面し、そこには樹木で表現された大亀が置かれ、リラクゼーション効果を狙って心安らぐ水音と共に奥方の眠りを守っています。
亀の絵が障子の腰板にあることが、名の由来です。
この写真は、絵葉書からスキャンしたものです。 -
成巽閣 万年青(おもと)の縁庭園
第13代藩主 斉泰が、母親が安眠できることを願って造った庭園です。
室内側の障子の腰板に万年青の絵が描かれていることから、この縁側を「万年青の縁」と呼び、その前に広がる庭を「万年青の縁庭園」と言います。万年青は古典園芸などに使われる植物で、江戸時代の大名家でよく栽培されていたそうです。庭園には五葉松、キャラボクなどの古木が配され、流れる鑓水は谷川のように深く水音を立て、深山幽谷を表しています。手前の苔部分と奥の部分とを分割するように流れ、常に水音が聞こえるように下流には落差が設けられています。寝室の亀の間にこの水音が心地よく届くように工夫され、母への心配りに溢れています。こうした耳に涼しい仕掛けは、夏場に訪れれば気持ちがいいのでは…。
手入れの行き届いた日本庭園に共通するのが、苔の美しさです。因みに2016年に、この庭も国の名勝に追加指定されています。 -
成巽閣 万年青の縁庭園
庭園に植えられている3本のキャラボクは大きな守り亀を象徴したもので、寝室である亀の間と「亀」繋がりになっています。また、母への長寿を願う意味も込められています。 -
成巽閣 つくしの縁庭園
庭園と縁側、めくるめく明と暗の対比の妙が何とも言えない空間です。
このような風景は古都でしか見られないものと勝手に思い込んでいましたが、金沢にもその風情がありました。
回遊式庭園の兼六園とは一味違う鑑賞式庭園は、景観が軒先によってトリミングされ、一幅の絵画の中のにいるような気分になります。
縁側には鴬張りの工法が施され、歩くと小鳥が囀るような音が聞こえます。また、庭園を流れる鑓水は水音を消し、小鳥の囀りや虫の音が届くように工夫されています。隣にある万年青の庭園がせせらぎの音をたてているのとは対照的な空間になっています。 -
成巽閣 つくしの縁
開放的な縁側は20mにも及ぶ縁になっていますが、柱を1本も使わないという特殊な造りになっており、腰を下ろすと時間を忘れてしまいそうです。
つくしの絵が障子の腰板に描かれているためこう呼ばれています。部屋の中から庭を見た時のハッとするような想像を超えた開放感は、柱を1本も使わない仕掛けの賜物と言えます。
実は軒先には「桔木(はねぎ)」と呼ばれる40mm角、長さ10mの松材が2m間隔に組み入れられ、桁を支点にしてテコの原理で軒を支えています。 これによって柱に遮られることなく、開放感溢れる庭園の眺めを実現しています。 -
成巽閣 群青の間
格式のある階下の書院に対し、階上は意匠を凝らした数奇屋風書院の造りです。
北陸新幹線E7、通称「かがやき」のグリーン車の色彩のモチーフになった部屋であり、直木賞作家 恩田陸著『ユージニア』 にも登場する江戸時代のものとは思えないほどモダンかつハイカラな部屋です。
金沢市内には「群青の間」と称する部屋が数多あるのですが、ラピスラズリ(青金石)を用いた藩政時代の群青色が見られるのはここだけだそうです。壁は弁柄漆の艶かしい朱壁です。床の間や違い棚などを設え、それらが緩いカーブを描く姿が数寄っぽさを助長しています。
群青色を用いたのは、おもてなしの気持ちを素直に表現する手段だったそうです。元々青は武士が好む色であり、特に群青は入手し難いことから権力を象徴する色でした。ですから上層階級の人たちには群青色が高級かつ高貴な色であることは常識であり、大名家の別邸として相応しい色彩だったのです。
使われた群青色は、最も美しいとされる天然鉱石「ラピスラズリ」を再現したもので、日本では「瑠璃色」と呼ばれていました。しかし元祖の欧州でも限られた画家しか使えず、往時の日本に渡ることはありませんでした。かねてより欧州文化に傾倒していた前田家は、1828年にフランスの化学者ギメが天然ラピスラズリの色を再現した人工顔料を発明したのを契機に、金の値段よりも高かった顔料を買い付け、大胆にもこの顔料を数寄屋風の書院造りに取り入れたのです。
斉泰は、大切な客だけをこの部屋に招きました。財力と美意識を兼ね備えた前田家にしかできない、最高のもてなしだったと言えます。
冬の金沢は雪に閉ざされて屋内で過ごすことが多い中、群青色の部屋が雪国の暮らしを華やかに彩ってきました。金沢の本質を味わうには、白と青のコントラストが愛でられる厳冬がベストシーズンかもしれません。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 群青書見の間
群青の間の左隣りにある3~4畳程の小間です。火灯窓型の障子や特徴的な鮮やかな群青色の天井、紫の壁が個々の存在を誇示し、小さな空間を斬新な意匠が縦横に飛び交っています。
壁の紫色は、X線分析によりウルトラマリンブルーに日本古来の朱色「硫化水銀」が混ぜられていることが判ったそうです。
この写真は、絵葉書からスキャンしました。 -
成巽閣 越中の間
越中立山の杉板が天井に使われていることが名の由来です。
棹縁天井にして杉板を貼り、その棹縁の棹が床の間の方を向いているため「床刺し」を防ぐために、床の間の側の天井の隅だけを三角形に区分けし、吉祥を守るために床の間側の三角形の差床天井だけを棹縁天井ではなく網代天井にしたという、幾何学仕様の数奇心に富んだアート感覚の間です。
インパクトのある「群青の間」の存在で霞んでしまっていますが、加賀100万石が育んだ洗練された技術が随所に用いられた見逃せない間です。
この写真は、以下のサイトから借用させていただきました。
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成巽閣 飛鶴庭
2階から見下ろした飛鶴庭です。
飛鶴庭は、成巽閣の清香軒・清香書院に面している平造りの庭園であり、国の名勝に指定されています。写真右手の方で「つくしの縁庭園」と繋がっています。 -
成巽閣
寄棟造、柿葺の屋根が印象的です。
2011年に屋根の葺き替え工事を終え、約150年前の造営時の風格が再現されています。
成巽閣の屋根は創建当時から柿葺であり、木目の通った耐水性のあるサワラという木を薄い割板にし、少しずつ重ねて竹釘で打ち付けて仕上げています。明治時代には桟瓦や銅板に葺き替えられたこともあったそうですが、前回の葺き替えの1984(昭和59)年から再び柿葺に戻されています。 -
成巽閣 全景
邸宅前にある「前庭」を含めた全景です。
「前庭」は、池に見立てた苔が見事です。
この写真は、絵葉書をスキャンしたものです。 -
成巽閣 正門
成巽閣の入口は2か所ありますが、こちらが正門です。
風格のある塀重門とし、両袖に海鼠塀が続いています。正門前の一帯は、美術館や博物館が立ち並ぶ緑豊かな文化ゾーンになっています。
この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑦金沢 兼六園(後編)でお届けいたします。
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