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名古屋東別院てづくり朝市(毎月28日10-14時)、日置神社たちばな大木戸ひなた市(毎月28日10-15時)、西別院Oneコイン朝市(毎月28日9-14時)、門前町クラフト市(毎月28日10-14時)など毎月28日に行われていますが、この日は同朋学園名古屋造形大学50周年記念なごや寺町アートプロジェクト(2017.5/24-28 10-16時)も東別院~西別院一帯で行われていて大変な賑わいでした<br />大須観音では骨董市、赤門通の由来となった大光院も縁日で大須観音界隈も大変な賑わいでした<br />そんな中、13時から中村公園豊国神社参道では、初代中村勘三郎銅像完成お披露目記念のお練りが故十八代目勘三郎さんの長男勘九郎さん、次男七之助さんによって行われてこちらも大変な人出でした<br />銅像写真はまたの機会で・・・<br />6月は名古屋城内で平成中村座公演があります<br />初代中村勘三郎生誕像を中村公園に建立する会HPによりますと、”慶長3年(1598年)生まれ。万治元年(1658年)6月9日没。<br />江戸時代初期の歌舞伎役者、座元。生前は猿若 勘三郎(さるわか かんざぶろう)として知られた。著名な歌舞伎役者の一人として、且つ江戸歌舞伎の開祖である。・・・十一代勘三郎が奉行所に差し出した願書には「私初代勘三郎儀は生国愛智郡中村の産(甲子夜話による)」とある。”<br /><br />清洲越し(きよすごし)<br />慶長15(1610)年の名古屋城築城開始に伴って、慶長17(1612)年頃から当時の尾張地域の中心であった清洲から名古屋へ都市機能の移転が行われました。<br />これによって、「名古屋」という街は誕生しました。<br />「大須」という地名は「大須観音」に由来します。<br />慶長17(1612)年、清洲越しの一環として、岐阜羽島の大須観音が所有していた貴重な書籍を守るため、水害の多い地域であった岐阜羽島から現在地へ移転しました。<br />これにより大須観音界隈は「大須」と呼ばれるようになりました。<br />2012年は「大須」という街が形成されて400年目の節目の年です。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)<br /><br />ドニチエコきっぷ600円<br /><br />やっとかめ文化祭歴史まち歩き<br />10ここから城下町橘<br />8南寺町西の大須<br />(名古屋観光コンベンションビューロー名古屋観光名古屋コンシェルジュHPより)<br /><br /><br />名古屋市中区史跡散策路<br />別院コース地図<br />http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/betsuin_course.PDF<br />別院コース詳細<br />http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/betsuin_text.pdf<br />大須コース地図<br />http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/osu_course.PDF<br />大須コース詳細<br />http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/osu_text.pdf<br /><br /><br />なごや寺町アートプロジェクトスタンプラリー 2017.5.24-28 10-16時<br /><br /><br />真宗大谷派名古屋別院東別院 名古屋市中区橘2-8-55 参拝無料 御朱印なし 毎月28日てづくり朝市 10:00-14:00<br /><br />本願寺名古屋別院西別院 名古屋市中区門前町1-23 参拝無料 御朱印なし 毎月28日Oneコイン朝市 9:00-14:00<br /><br /><br />なごや寺町てづくり縁市 2017年5月28日<br />名古屋市・東別院-西別院一帯<br /> 東別院てづくり朝市 10:00-16:00<br /> 西別院Oneコイン朝市 10:00-16:00<br /> たちばな大木戸ひなた市 10:00-16:00<br /> 門前町クラフト市 10:00-14:00<br /> 名古屋アンティークマーケット 10:00-16:00<br /> なごや寺町アートプロジェクト(名古屋造形大学50周年記念事業)5/24-5/28 10:00-16:00<br /> 第34回わんぱく相撲名古屋大会~市長杯~ 決勝大会(公益社団法人名 古屋青年会議所事業) 10:00-16:00<br /><br />清涼山栄国寺<br />名古屋市中区橘1-21-38  <br />名古屋駅より地下鉄鶴舞線「上前津」駅下車、徒歩約11分 <br />拝観時間:9:00~17:00<br />拝観料:100円<br />切支丹遺跡博物館 <br />開館時間: 9:00 - 17:00<br />休館日: 月曜日<br />料金: 100円(小・中学生は50円)<br /><br />七面山妙善寺 (しちめんさん みょうぜんじ) 参拝無料 御朱印あり<br />名古屋市中区橘1-17-15<br /><br /><br />日置神社 参拝無料 御朱印あり  たちばな大木戸ひなた市(毎月28日10-15時)<br />名古屋市中区橘一丁目3番21号<br /><br /><br />赤門明王殿(アカモンミョウオウデン 毎月28日縁日)<br />興国山 大光院(こうこくさん だいこういん)<br />愛知県名古屋市中区大須二丁目7番25号 参拝無料 御朱印あり<br /><br />大須秋葉殿 (オオスアキバデン 毎月24日縁日)<br />隣松山 陽秀院(りんしょうさん ようしゅういん) <br />名古屋市中区大須二丁目-57 参拝無料 御朱印あり<br /><br />大須観音北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)参拝無料 御朱印多数あり<br />骨董市 毎月18、、28日<br /><br />万松寺:身代わり餅つき接待(毎月28日午後6時より)参拝無料 御朱印多数あり<br /><br />赤門通:毎月28日:赤門28祭り、赤門28寄席(海演隊)<br /><br />名古屋平成中村座 <br />2017年6月1日(木)~26日(月)〈26日間/48回公演〉<br />昼の部:午前11時00分開演/夜の部:午後3時30分開演 <br />会場<br />名古屋城 二之丸広場内 特設劇場(名古屋市中区本丸1-1)<br />(午後4時30分以降は名古屋城東門からの入場のみとなります) <br />

なごや寺町てづくり縁市・中村勘九郎・七之助お練り・大須大光院2017

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2017/05/28 - 2017/05/28

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名古屋のmisako

名古屋のmisakoさん

名古屋東別院てづくり朝市(毎月28日10-14時)、日置神社たちばな大木戸ひなた市(毎月28日10-15時)、西別院Oneコイン朝市(毎月28日9-14時)、門前町クラフト市(毎月28日10-14時)など毎月28日に行われていますが、この日は同朋学園名古屋造形大学50周年記念なごや寺町アートプロジェクト(2017.5/24-28 10-16時)も東別院~西別院一帯で行われていて大変な賑わいでした
大須観音では骨董市、赤門通の由来となった大光院も縁日で大須観音界隈も大変な賑わいでした
そんな中、13時から中村公園豊国神社参道では、初代中村勘三郎銅像完成お披露目記念のお練りが故十八代目勘三郎さんの長男勘九郎さん、次男七之助さんによって行われてこちらも大変な人出でした
銅像写真はまたの機会で・・・
6月は名古屋城内で平成中村座公演があります
初代中村勘三郎生誕像を中村公園に建立する会HPによりますと、”慶長3年(1598年)生まれ。万治元年(1658年)6月9日没。
江戸時代初期の歌舞伎役者、座元。生前は猿若 勘三郎(さるわか かんざぶろう)として知られた。著名な歌舞伎役者の一人として、且つ江戸歌舞伎の開祖である。・・・十一代勘三郎が奉行所に差し出した願書には「私初代勘三郎儀は生国愛智郡中村の産(甲子夜話による)」とある。”

清洲越し(きよすごし)
慶長15(1610)年の名古屋城築城開始に伴って、慶長17(1612)年頃から当時の尾張地域の中心であった清洲から名古屋へ都市機能の移転が行われました。
これによって、「名古屋」という街は誕生しました。
「大須」という地名は「大須観音」に由来します。
慶長17(1612)年、清洲越しの一環として、岐阜羽島の大須観音が所有していた貴重な書籍を守るため、水害の多い地域であった岐阜羽島から現在地へ移転しました。
これにより大須観音界隈は「大須」と呼ばれるようになりました。
2012年は「大須」という街が形成されて400年目の節目の年です。
(なごや大須商店街公式ホームページより)

ドニチエコきっぷ600円

やっとかめ文化祭歴史まち歩き
10ここから城下町橘
8南寺町西の大須
(名古屋観光コンベンションビューロー名古屋観光名古屋コンシェルジュHPより)


名古屋市中区史跡散策路
別院コース地図
http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/betsuin_course.PDF
別院コース詳細
http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/betsuin_text.pdf
大須コース地図
http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/osu_course.PDF
大須コース詳細
http://www.city.nagoya.jp/naka/cmsfiles/contents/0000000/755/osu_text.pdf


なごや寺町アートプロジェクトスタンプラリー 2017.5.24-28 10-16時


真宗大谷派名古屋別院東別院 名古屋市中区橘2-8-55 参拝無料 御朱印なし 毎月28日てづくり朝市 10:00-14:00

本願寺名古屋別院西別院 名古屋市中区門前町1-23 参拝無料 御朱印なし 毎月28日Oneコイン朝市 9:00-14:00


なごや寺町てづくり縁市 2017年5月28日
名古屋市・東別院-西別院一帯
 東別院てづくり朝市 10:00-16:00
 西別院Oneコイン朝市 10:00-16:00
 たちばな大木戸ひなた市 10:00-16:00
 門前町クラフト市 10:00-14:00
 名古屋アンティークマーケット 10:00-16:00
 なごや寺町アートプロジェクト(名古屋造形大学50周年記念事業)5/24-5/28 10:00-16:00
 第34回わんぱく相撲名古屋大会~市長杯~ 決勝大会(公益社団法人名 古屋青年会議所事業) 10:00-16:00

清涼山栄国寺
名古屋市中区橘1-21-38 
名古屋駅より地下鉄鶴舞線「上前津」駅下車、徒歩約11分
拝観時間:9:00~17:00
拝観料:100円
切支丹遺跡博物館 
開館時間: 9:00 - 17:00
休館日: 月曜日
料金: 100円(小・中学生は50円)

七面山妙善寺 (しちめんさん みょうぜんじ) 参拝無料 御朱印あり
名古屋市中区橘1-17-15


日置神社 参拝無料 御朱印あり  たちばな大木戸ひなた市(毎月28日10-15時)
名古屋市中区橘一丁目3番21号


赤門明王殿(アカモンミョウオウデン 毎月28日縁日)
興国山 大光院(こうこくさん だいこういん)
愛知県名古屋市中区大須二丁目7番25号 参拝無料 御朱印あり

大須秋葉殿 (オオスアキバデン 毎月24日縁日)
隣松山 陽秀院(りんしょうさん ようしゅういん)
名古屋市中区大須二丁目-57 参拝無料 御朱印あり

大須観音北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)参拝無料 御朱印多数あり
骨董市 毎月18、、28日

万松寺:身代わり餅つき接待(毎月28日午後6時より)参拝無料 御朱印多数あり

赤門通:毎月28日:赤門28祭り、赤門28寄席(海演隊)

名古屋平成中村座 
2017年6月1日(木)~26日(月)〈26日間/48回公演〉
昼の部:午前11時00分開演/夜の部:午後3時30分開演
会場
名古屋城 二之丸広場内 特設劇場(名古屋市中区本丸1-1)
(午後4時30分以降は名古屋城東門からの入場のみとなります)

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス 徒歩

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  • 名古屋市営地下鉄名城線東別院駅からメ~テレ名古屋テレビ局を通り過ぎて名古屋東別院てづくり朝市会場へ

    名古屋市営地下鉄名城線東別院駅からメ~テレ名古屋テレビ局を通り過ぎて名古屋東別院てづくり朝市会場へ

  • メ~テレのキャラクターウルフィ

    メ~テレのキャラクターウルフィ

  • ロビー開放中

    ロビー開放中

  • 山門は10時には大混雑<br />最初の山門は、宝暦7年1757年に建てられ、その後戦災により焼失。現在の門は昭和43年1968年に建てられた。山門楼上には、釈迦如来像(中央)、弥勒菩薩像(向かって右)、阿難尊者像(同左)が安置されている。(東別院立ち寄りマップより)<br /><br />正式名称を「真宗大谷派名古屋別院」(しんしゅうおおたにはなごやべついん)と言い、尾張地方では古くから親しみをこめて「御坊さん」(ごぼうさん)とよばれてきました。近年では名古屋市営地下鉄の駅名としても使用されている「東別院」のほうが馴染みがあるかもしれませんね。<br />教えは親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)で、京都市にあります「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)(通称、東本願寺)」を本山とする「真宗大谷派」(しんしゅうおおたには)のお寺です。(東別院HPより)

    山門は10時には大混雑
    最初の山門は、宝暦7年1757年に建てられ、その後戦災により焼失。現在の門は昭和43年1968年に建てられた。山門楼上には、釈迦如来像(中央)、弥勒菩薩像(向かって右)、阿難尊者像(同左)が安置されている。(東別院立ち寄りマップより)

    正式名称を「真宗大谷派名古屋別院」(しんしゅうおおたにはなごやべついん)と言い、尾張地方では古くから親しみをこめて「御坊さん」(ごぼうさん)とよばれてきました。近年では名古屋市営地下鉄の駅名としても使用されている「東別院」のほうが馴染みがあるかもしれませんね。
    教えは親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)で、京都市にあります「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)(通称、東本願寺)」を本山とする「真宗大谷派」(しんしゅうおおたには)のお寺です。(東別院HPより)

  • 諸堂は名古屋の宮大工伊藤平佐衛門家の手により元禄15年に完成<br /><br />真宗大谷派名古屋別院(東別院)は、元禄3(1690)年、尾張の地に本願念仏のみ教えを伝える道場として、一如上人(いちにょしょうにん)(東本願寺第16代)によって開かれた真宗大谷派の寺院です。<br />当時の尾張藩主、徳川光友公(とくがわみつとも)より織田信長の父信秀(のぶひで)の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられました。以来、約300年にわたり、名古屋別院は尾張の人々の信仰を仰ぎ、広く「御坊さん」の名で呼び親しまれています。<br />ところが、昭和20(1945)年3月12日の名古屋空襲によって別院はそのほとんどを焼失してしまいました。しかし戦後の混乱も治まった昭和37(1962)年、尾張門徒の総力をあげて現在の本堂を再建し、いまにその姿を伝えています。(東別院HPより)

    諸堂は名古屋の宮大工伊藤平佐衛門家の手により元禄15年に完成

    真宗大谷派名古屋別院(東別院)は、元禄3(1690)年、尾張の地に本願念仏のみ教えを伝える道場として、一如上人(いちにょしょうにん)(東本願寺第16代)によって開かれた真宗大谷派の寺院です。
    当時の尾張藩主、徳川光友公(とくがわみつとも)より織田信長の父信秀(のぶひで)の居城「古渡城」の跡地1万坪の寄進を受けて建てられました。以来、約300年にわたり、名古屋別院は尾張の人々の信仰を仰ぎ、広く「御坊さん」の名で呼び親しまれています。
    ところが、昭和20(1945)年3月12日の名古屋空襲によって別院はそのほとんどを焼失してしまいました。しかし戦後の混乱も治まった昭和37(1962)年、尾張門徒の総力をあげて現在の本堂を再建し、いまにその姿を伝えています。(東別院HPより)

  • 本堂 (ほんどう)<br />元禄3年(1690年)、尾張藩主徳川光友公より、古渡城跡の寄進を受け、元禄15年(1702年)に、この地に名古屋別院が創建されました。その後、二度にわたる再建が行われ、名古屋城天守閣とともに、その偉容を誇っていました。しかし、昭和20年(1945年)3月の名古屋空襲により、灰塵に帰し、現在の本堂は昭和37年(1962年)に再建されたものです。<br />毎日の永代経のほか、各種法要が勤められます。<br />【阿弥陀如来像】<br />鎌倉時代の有名な仏師運慶の長子湛慶(1173-1256)の作と伝えられています<br />仏さまのことを本尊(ほんぞん)と言い、「浄土真宗」すべてのお寺の本尊は「阿弥陀如来」(あみだにょらい)です。その本尊に手を合わせて「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と称えることを称名念仏(しょうみょうねんぶつ)と言います。東別院に参拝される際は、どうぞ本尊「阿弥陀如来」の前に座り手を合わせ、心静かにお念仏を称えてください。<br />(東別院HPより)

    本堂 (ほんどう)
    元禄3年(1690年)、尾張藩主徳川光友公より、古渡城跡の寄進を受け、元禄15年(1702年)に、この地に名古屋別院が創建されました。その後、二度にわたる再建が行われ、名古屋城天守閣とともに、その偉容を誇っていました。しかし、昭和20年(1945年)3月の名古屋空襲により、灰塵に帰し、現在の本堂は昭和37年(1962年)に再建されたものです。
    毎日の永代経のほか、各種法要が勤められます。
    【阿弥陀如来像】
    鎌倉時代の有名な仏師運慶の長子湛慶(1173-1256)の作と伝えられています
    仏さまのことを本尊(ほんぞん)と言い、「浄土真宗」すべてのお寺の本尊は「阿弥陀如来」(あみだにょらい)です。その本尊に手を合わせて「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と称えることを称名念仏(しょうみょうねんぶつ)と言います。東別院に参拝される際は、どうぞ本尊「阿弥陀如来」の前に座り手を合わせ、心静かにお念仏を称えてください。
    (東別院HPより)

  • 東別院てづくり朝市は、真宗大谷派の宗祖“親鸞聖人”のご命日(毎月28日)に境内で開催されます。約150店舗(2013年6月現在)に及ぶ、有機無農薬の野菜、手作りのパンやお菓子、家庭料理、雑貨などの出店があります。10-14時開催<br />(東別院HPより)

    東別院てづくり朝市は、真宗大谷派の宗祖“親鸞聖人”のご命日(毎月28日)に境内で開催されます。約150店舗(2013年6月現在)に及ぶ、有機無農薬の野菜、手作りのパンやお菓子、家庭料理、雑貨などの出店があります。10-14時開催
    (東別院HPより)

  • 古渡城趾 碑 (ふるわたりじょうし ひ)<br />別院の境内地は、織田信長の父信秀の居城であった古渡城の旧跡と伝えられています。信長自身もこの地で元服の式を挙げたと伝えられています。<br />(東別院HPより)

    古渡城趾 碑 (ふるわたりじょうし ひ)
    別院の境内地は、織田信長の父信秀の居城であった古渡城の旧跡と伝えられています。信長自身もこの地で元服の式を挙げたと伝えられています。
    (東別院HPより)

  • 明治天皇行在所旧址 碑 (めいじてんのうあんざいしょきゅうし ひ)<br />明治天皇の行幸が行われた際、別院が行在所として利用されたのを記念して建てられた碑。<br />(東別院HPより)

    明治天皇行在所旧址 碑 (めいじてんのうあんざいしょきゅうし ひ)
    明治天皇の行幸が行われた際、別院が行在所として利用されたのを記念して建てられた碑。
    (東別院HPより)

  • 明治天皇名古屋大本営 碑 (めいじてんのうなごやたいほんえい ひ)<br />1890(明治23)年に陸海軍の大演習を愛知県下で行った際、その大本営を別院に設けた記念碑。【25】の明治天皇行在所旧址碑とともに明治以降の国家体制として強化されていった天皇制に、別院までも追従していった歴史を垣間見ることができます。<br />(東別院HPより)

    明治天皇名古屋大本営 碑 (めいじてんのうなごやたいほんえい ひ)
    1890(明治23)年に陸海軍の大演習を愛知県下で行った際、その大本営を別院に設けた記念碑。【25】の明治天皇行在所旧址碑とともに明治以降の国家体制として強化されていった天皇制に、別院までも追従していった歴史を垣間見ることができます。
    (東別院HPより)

  • 参拝接待所 (さんぱいせったいしょ)<br />お経、法事、永代経、預骨(納骨)などの受付を行っております。<br />本堂や対面所に上がるエレベーターがあり、車イスの貸し出しもあります。お気軽に受付にお申し出ください。本堂へは車イスの方もそのまま入堂できます。<br />(東別院HPより)

    参拝接待所 (さんぱいせったいしょ)
    お経、法事、永代経、預骨(納骨)などの受付を行っております。
    本堂や対面所に上がるエレベーターがあり、車イスの貸し出しもあります。お気軽に受付にお申し出ください。本堂へは車イスの方もそのまま入堂できます。
    (東別院HPより)

  • 「みてござる」碑(「みてござる」ひ)<br />別院報恩講の布教に半世紀間も精勤した豊橋市の宮部円成師の座右の銘であったといわれています。1937(昭和12)年建立。<br />(東別院HPより)

    「みてござる」碑(「みてござる」ひ)
    別院報恩講の布教に半世紀間も精勤した豊橋市の宮部円成師の座右の銘であったといわれています。1937(昭和12)年建立。
    (東別院HPより)

  • 納骨堂 (のうこつどう)<br />ご門徒のお骨が納められています。毎年7月15日には法要が勤められます。<br />(東別院HPより)

    納骨堂 (のうこつどう)
    ご門徒のお骨が納められています。毎年7月15日には法要が勤められます。
    (東別院HPより)

  • 鐘楼 (しょうろう)<br />元禄5年(1692年)鋳造との銘文が刻まれています。総高177.5センチ、口径108.0センチ。名古屋市の指定文化財に指定されています。<br />元日の午前0時から「初鐘」が行われ、毎年多くの人が鐘つきに訪れます。<br />(東別院HPより)<br />梵鐘は、尾張藩鋳物師(いもじ)頭水野太郎左衛門家によって、元禄5年に作られたもので名古屋市の指定文化財(名古屋市教育委員会説明板より)

    鐘楼 (しょうろう)
    元禄5年(1692年)鋳造との銘文が刻まれています。総高177.5センチ、口径108.0センチ。名古屋市の指定文化財に指定されています。
    元日の午前0時から「初鐘」が行われ、毎年多くの人が鐘つきに訪れます。
    (東別院HPより)
    梵鐘は、尾張藩鋳物師(いもじ)頭水野太郎左衛門家によって、元禄5年に作られたもので名古屋市の指定文化財(名古屋市教育委員会説明板より)

  • 崇覚寺<br /><br />宗派:真宗大谷派のお寺です。一般的に「浄土真宗」「お東」「本願寺」等と呼ばれていますが正式には真宗大谷派という親鸞聖人をご開山とする仏教の宗派で本山は京都の東本願寺です。→東本願寺HP <br /><br />名称:正式には長嶋山崇覚寺(ちょうとうざん そうがくじ)といいます。崇覚寺は400年ほど前に現在の三重県桑名市長島町のあたりに建立されたことから長嶋山という山号がついています。崇覚寺という名称の意味は「崇」という漢字は山を仰ぎ見るという形が示す通り高くそびえるもの尊ぶという意味で、「覚」とはお釈迦様のお悟を示す漢字です。すわなちお釈迦様の悟りを崇めるお寺という意味です。 <br />  時あたかも戦国時代、織田信長天下統一の途上、一向一揆の制圧に手を焼いたあげく、浄土真宗の本拠、大阪石山の本願寺(現在の大阪城)攻略を決心しました。しかし本願寺は北陸・尾張・三河・近江の門徒の固い結束をもって頑固に抵抗しました。世に言う石山合戦です。 <br /> 崇覚寺の開基、水谷左衛門大夫可高は紀州雑賀の人であったと伝えられています。また一説には香川丸亀城ゆかりの人であったとも言われています。 <br /> 水谷左衛門大夫可高はこの時、教如上人(後の本願寺代十二世法主)の弟子として安養坊の名で石山合戦に参戦し、4度の出陣の後、討ち死にしたと伝えられております。この安養坊を崇覚寺の開基としております。 <br /> その後、石山本願寺は降伏しますが、信長の後、豊臣秀吉を経て徳川家康の天下と移っていく中、西本願寺は秀吉の、東本願寺は家康のそれぞれ庇護のもと再興され、東西本願寺分立の時代へと移っていきます。そんな激動の時代の中、安養坊の子、右衛門重直も出家し教如上人の弟子となり桑名郡長島の中川村に東本願寺末寺として崇覚寺を開きました。これが崇覚寺の始まりです。 <br />長島から名古屋へ<br /> 江戸時代に入ると、尾張徳川の都市計画により当時、那古野と呼ばれていた名古屋の地が城下町として大々的に開発されることになり、近隣都市からの移住者により殷盛を極めていました。崇覚寺も一族の水谷八郎左衛門が尾張藩家老犬山成瀬家の用人であった関係で、寛永二年(1625年)、長島より現在の西区掘詰町に移転します。西区及び海部郡森川、安松、堀江、豊明山新田の御門徒とは、この当時からの縁故と考えられます。 <br /> その後、崇覚寺四世永伝、五世宗故は名古屋城下への東本願寺名古屋別院を建立すべく、別院建立の中心的役割を担った城下六ヶ寺の寺院として活動し、元禄三年(1690年)ついに尾張藩の許しを得て現在の東別院の礎を築くこととなりました。 <br />正徳三年(1713年)東別院建立に伴い東別院に隣接する現在の場所に寺基を移します。当時の崇覚寺本堂は東別院建立の際の余材で建立されたとも伝えられています。 <br /> そして、その後再び、十世秀曜及び十一世可定の代、崇覚寺本堂の建替えが行われ、慶応2年(1866年)現在の本堂が完成します。 <br /> 現在の本堂は総欅(天井と内陣床は檜)七間四面、同時代(明治28年)に再建した木造建築で世界最大と言われる東本願寺御影堂を手がけた宮大工である伊藤平左衛門の手によるもので、本堂の彫り物も同じく東本願寺御影堂を手がけた名人早瀬長兵衛の手によるものです。壁画の金泥蓮華図は幕末の代表的な仏画師である鬼頭道恭の作です。 <br /> 平成二十一年、本堂瓦の葺き替えを約140年ぶりに行い、それに伴い老朽化した書院等の改築を行いました。 <br />平成27年には国の登録有形文化財となり、経年相当の歪みや痛みはありますが概ね再建当時の面影を保ったまま現在に至っています。<br />(崇覚寺HPより)

    崇覚寺

    宗派:真宗大谷派のお寺です。一般的に「浄土真宗」「お東」「本願寺」等と呼ばれていますが正式には真宗大谷派という親鸞聖人をご開山とする仏教の宗派で本山は京都の東本願寺です。→東本願寺HP

    名称:正式には長嶋山崇覚寺(ちょうとうざん そうがくじ)といいます。崇覚寺は400年ほど前に現在の三重県桑名市長島町のあたりに建立されたことから長嶋山という山号がついています。崇覚寺という名称の意味は「崇」という漢字は山を仰ぎ見るという形が示す通り高くそびえるもの尊ぶという意味で、「覚」とはお釈迦様のお悟を示す漢字です。すわなちお釈迦様の悟りを崇めるお寺という意味です。
      時あたかも戦国時代、織田信長天下統一の途上、一向一揆の制圧に手を焼いたあげく、浄土真宗の本拠、大阪石山の本願寺(現在の大阪城)攻略を決心しました。しかし本願寺は北陸・尾張・三河・近江の門徒の固い結束をもって頑固に抵抗しました。世に言う石山合戦です。
     崇覚寺の開基、水谷左衛門大夫可高は紀州雑賀の人であったと伝えられています。また一説には香川丸亀城ゆかりの人であったとも言われています。
     水谷左衛門大夫可高はこの時、教如上人(後の本願寺代十二世法主)の弟子として安養坊の名で石山合戦に参戦し、4度の出陣の後、討ち死にしたと伝えられております。この安養坊を崇覚寺の開基としております。
     その後、石山本願寺は降伏しますが、信長の後、豊臣秀吉を経て徳川家康の天下と移っていく中、西本願寺は秀吉の、東本願寺は家康のそれぞれ庇護のもと再興され、東西本願寺分立の時代へと移っていきます。そんな激動の時代の中、安養坊の子、右衛門重直も出家し教如上人の弟子となり桑名郡長島の中川村に東本願寺末寺として崇覚寺を開きました。これが崇覚寺の始まりです。
    長島から名古屋へ
     江戸時代に入ると、尾張徳川の都市計画により当時、那古野と呼ばれていた名古屋の地が城下町として大々的に開発されることになり、近隣都市からの移住者により殷盛を極めていました。崇覚寺も一族の水谷八郎左衛門が尾張藩家老犬山成瀬家の用人であった関係で、寛永二年(1625年)、長島より現在の西区掘詰町に移転します。西区及び海部郡森川、安松、堀江、豊明山新田の御門徒とは、この当時からの縁故と考えられます。
     その後、崇覚寺四世永伝、五世宗故は名古屋城下への東本願寺名古屋別院を建立すべく、別院建立の中心的役割を担った城下六ヶ寺の寺院として活動し、元禄三年(1690年)ついに尾張藩の許しを得て現在の東別院の礎を築くこととなりました。
    正徳三年(1713年)東別院建立に伴い東別院に隣接する現在の場所に寺基を移します。当時の崇覚寺本堂は東別院建立の際の余材で建立されたとも伝えられています。
     そして、その後再び、十世秀曜及び十一世可定の代、崇覚寺本堂の建替えが行われ、慶応2年(1866年)現在の本堂が完成します。
     現在の本堂は総欅(天井と内陣床は檜)七間四面、同時代(明治28年)に再建した木造建築で世界最大と言われる東本願寺御影堂を手がけた宮大工である伊藤平左衛門の手によるもので、本堂の彫り物も同じく東本願寺御影堂を手がけた名人早瀬長兵衛の手によるものです。壁画の金泥蓮華図は幕末の代表的な仏画師である鬼頭道恭の作です。
     平成二十一年、本堂瓦の葺き替えを約140年ぶりに行い、それに伴い老朽化した書院等の改築を行いました。
    平成27年には国の登録有形文化財となり、経年相当の歪みや痛みはありますが概ね再建当時の面影を保ったまま現在に至っています。
    (崇覚寺HPより)

  • 本堂

    本堂

  • なごや寺町アートプロジェクトの作品が本堂内あちらこちらに

    なごや寺町アートプロジェクトの作品が本堂内あちらこちらに

  • 青もみじが美しい崇覚寺です

    青もみじが美しい崇覚寺です

  • 崇覚寺本堂 そうがくじほんどう <br />愛知県<br />江戸/1866<br />木造平屋建、瓦葺、建築面積323㎡<br />1棟<br />愛知県名古屋市中区橘二丁目601<br />登録年月日:20151117<br />宗教法人崇覚寺<br />登録有形文化財(建造物)<br /><br />名古屋市街地に境内を構える真宗寺院本堂。標準的な真宗本堂平面で外陣内の柱を省き、比較的規模が大きい。絵様は明瞭かつ伸びやかで、棟梁の八代伊藤平左衛門守富の特徴を示す。架構なども規式に則りながら、小組格天井を全面的に張るなど闊達な造形を見せる。<br />(文化遺産オンラインHPより)

    崇覚寺本堂 そうがくじほんどう
    愛知県
    江戸/1866
    木造平屋建、瓦葺、建築面積323㎡
    1棟
    愛知県名古屋市中区橘二丁目601
    登録年月日:20151117
    宗教法人崇覚寺
    登録有形文化財(建造物)

    名古屋市街地に境内を構える真宗寺院本堂。標準的な真宗本堂平面で外陣内の柱を省き、比較的規模が大きい。絵様は明瞭かつ伸びやかで、棟梁の八代伊藤平左衛門守富の特徴を示す。架構なども規式に則りながら、小組格天井を全面的に張るなど闊達な造形を見せる。
    (文化遺産オンラインHPより)

  • 崇覚寺

    崇覚寺

  • キリシタン処刑地跡・無縁仏埋葬地<br />

    キリシタン処刑地跡・無縁仏埋葬地

  • 尾張藩の初代藩主徳川義直、二代目の徳川光友は、徳川のキリシタン弾圧の時代においても、当初はキリシタンに寛容であったとされている[1]。寛永8年(1631年)より、藩内でキリシタン伝道に携わった者の処刑を始める。寛永21年(1644年)から、正保2年(1645年)にかけて名古屋城中からもキリシタンが捕らえられ処刑された。この地で処刑された彼らキリシタンを弔うため町岡新兵衛は、慶安2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。寛文元年(1661年)春以来数多くのキリシタンが藩内の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(1665年2月3日)千本松原刑場で処刑し、他のキリシタンの助命をはかった。しかし、幕府の命令により、結局捕縛させた二千人余のキリシタン全員を寛文7年(1668年)に、別の地にて処刑することとなった。このとき、尾張のキリシタンは、ほぼ絶滅したとされる[2]。<br />(ウィキペディアより)

    尾張藩の初代藩主徳川義直、二代目の徳川光友は、徳川のキリシタン弾圧の時代においても、当初はキリシタンに寛容であったとされている[1]。寛永8年(1631年)より、藩内でキリシタン伝道に携わった者の処刑を始める。寛永21年(1644年)から、正保2年(1645年)にかけて名古屋城中からもキリシタンが捕らえられ処刑された。この地で処刑された彼らキリシタンを弔うため町岡新兵衛は、慶安2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。寛文元年(1661年)春以来数多くのキリシタンが藩内の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(1665年2月3日)千本松原刑場で処刑し、他のキリシタンの助命をはかった。しかし、幕府の命令により、結局捕縛させた二千人余のキリシタン全員を寛文7年(1668年)に、別の地にて処刑することとなった。このとき、尾張のキリシタンは、ほぼ絶滅したとされる[2]。
    (ウィキペディアより)

  • 愛知県名古屋市中区橘一丁目21番38号<br />位置<br />北緯35度9分13.187秒<br />東経136度54分4.698秒<br />座標: 北緯35度9分13.187秒 東経136度54分4.698秒<br />山号<br />清涼山(せいりょうざん)<br />宗派<br />浄土宗<br />本尊<br />阿弥陀如来<br />創建年<br />寛文4年(1665年)<br />開基<br />西光院第九世任空可信<br />正式名<br />清涼山栄国寺<br />(ウィキペディアより)

    愛知県名古屋市中区橘一丁目21番38号
    位置
    北緯35度9分13.187秒
    東経136度54分4.698秒
    座標: 北緯35度9分13.187秒 東経136度54分4.698秒
    山号
    清涼山(せいりょうざん)
    宗派
    浄土宗
    本尊
    阿弥陀如来
    創建年
    寛文4年(1665年)
    開基
    西光院第九世任空可信
    正式名
    清涼山栄国寺
    (ウィキペディアより)

  • 清涼山栄国寺<br />浄土宗西山派<br />本尊阿弥陀如来坐像は県指定文化財、名古屋三大仏の一つ<br />刺繡涅槃図は市指定文化財<br />切支丹遺跡博物館等がある<br /><br />

    清涼山栄国寺
    浄土宗西山派
    本尊阿弥陀如来坐像は県指定文化財、名古屋三大仏の一つ
    刺繡涅槃図は市指定文化財
    切支丹遺跡博物館等がある

  • 千人塚

    千人塚

  • 寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野に移し、千本松原刑場跡地に、その跡に菩提のため「清涼庵」を開基する。初代の開祖は、西光院第九世任空可信である。本尊の阿弥陀如来像は、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村・薬師寺のから千人塚別名切支丹塚の菩提のため、徳川光友が移させた仏像で、「火伏不思議の弥陀」と称せられ、鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。貞享2年(1685年)、名称が「栄國寺」と改められる。<br />(ウィキペディアより)

    寛文4年(1665年)、徳川光友が、刑場を千本松原から土器野に移し、千本松原刑場跡地に、その跡に菩提のため「清涼庵」を開基する。初代の開祖は、西光院第九世任空可信である。本尊の阿弥陀如来像は、尾張北部の丹羽郡塔ノ地村・薬師寺のから千人塚別名切支丹塚の菩提のため、徳川光友が移させた仏像で、「火伏不思議の弥陀」と称せられ、鎌倉時代の仏工・春日の作と伝えられる。貞享2年(1685年)、名称が「栄國寺」と改められる。
    (ウィキペディアより)

  • 名古屋三大仏は、<br /> 「栄国寺(えいこくじ)」(名古屋市中区橘)の本尊「木造阿弥陀如来坐像」<br /> 「興正寺(こうしょうじ)」(名古屋市昭和区八事本町)大日堂の総本尊「銅製大日如来坐像」(元禄10年・1697)<br /> 「雲心寺(うんしんじ)」(名古屋市熱田区尾頭町)の本尊「木造阿弥陀如来坐像」(文久2年・1862)<br />の3体です。<br /><br />栄国寺は、尾張徳川家の庇護の下、存続し、明治大正昭和と伝統が受け継がれる。太平洋戦争中1945年の名古屋爆撃の際、栄国寺周辺は、焼夷弾の被害がなかったという奇跡が伝えられている。1969年、切支丹遺跡博物館[3]が境内に建てられる。1986年より、カトリック名古屋教区の主催で境内で「名古屋殉教者祭」としてミサが行われている。2010年は、2月6日に行われた。1996年11月23日には、カトリック名古屋教区による顕彰碑が建てられる。(ウィキペディアより)

    名古屋三大仏は、
     「栄国寺(えいこくじ)」(名古屋市中区橘)の本尊「木造阿弥陀如来坐像」
     「興正寺(こうしょうじ)」(名古屋市昭和区八事本町)大日堂の総本尊「銅製大日如来坐像」(元禄10年・1697)
     「雲心寺(うんしんじ)」(名古屋市熱田区尾頭町)の本尊「木造阿弥陀如来坐像」(文久2年・1862)
    の3体です。

    栄国寺は、尾張徳川家の庇護の下、存続し、明治大正昭和と伝統が受け継がれる。太平洋戦争中1945年の名古屋爆撃の際、栄国寺周辺は、焼夷弾の被害がなかったという奇跡が伝えられている。1969年、切支丹遺跡博物館[3]が境内に建てられる。1986年より、カトリック名古屋教区の主催で境内で「名古屋殉教者祭」としてミサが行われている。2010年は、2月6日に行われた。1996年11月23日には、カトリック名古屋教区による顕彰碑が建てられる。(ウィキペディアより)

  • この日は拝観できませんでした<br />切支丹遺跡博物館<br />切支丹遺跡博物館(きりしたんいせきはくぶつかん、英: Japanese Chiristian Museum[5])は、栄国寺の境内にある博物館。1969年4月に開館した[6]。<br />館内には、仏壇屋の佐藤銈一が収集し寄贈したマリア観音や踏絵などの切支丹遺物を中心に切支丹関連史料や南蛮紅毛美術など100点余が展示されている[6][7]。<br />概要[編集]<br />開館時間?: 9:00 - 17:00[8]<br />休館日?: 月曜日[8]<br />料金?: 100円(小・中学生は50円)<br />(ウィキペディアより)

    この日は拝観できませんでした
    切支丹遺跡博物館
    切支丹遺跡博物館(きりしたんいせきはくぶつかん、英: Japanese Chiristian Museum[5])は、栄国寺の境内にある博物館。1969年4月に開館した[6]。
    館内には、仏壇屋の佐藤銈一が収集し寄贈したマリア観音や踏絵などの切支丹遺物を中心に切支丹関連史料や南蛮紅毛美術など100点余が展示されている[6][7]。
    概要[編集]
    開館時間?: 9:00 - 17:00[8]
    休館日?: 月曜日[8]
    料金?: 100円(小・中学生は50円)
    (ウィキペディアより)

  • 美濃佐商店

    美濃佐商店

  • 天満屋はめん処

    天満屋はめん処

  • 東別院東隣には名古屋芝居濫觴跡(なごやしばいらんしょうあと)説明板がありますが以前は北西にあったようです<br />橘町は名古屋の芝居公許地として最も古く、寛文5年(1665)から、春秋二回芝居興行が認められていました。東西の名優が競って来演し、大変栄えたようです。その後中絶と再興を繰り返しますが、明治24年(1891)濃尾地震によって橘座は倒壊し、ついに途絶えてしまいました。現在では、説明看板(写真左側)だけが立っています。<br />(愛知県 防災局 防災危機管理課歴史地震記録に学ぶ防災・減災サイトHPより)

    東別院東隣には名古屋芝居濫觴跡(なごやしばいらんしょうあと)説明板がありますが以前は北西にあったようです
    橘町は名古屋の芝居公許地として最も古く、寛文5年(1665)から、春秋二回芝居興行が認められていました。東西の名優が競って来演し、大変栄えたようです。その後中絶と再興を繰り返しますが、明治24年(1891)濃尾地震によって橘座は倒壊し、ついに途絶えてしまいました。現在では、説明看板(写真左側)だけが立っています。
    (愛知県 防災局 防災危機管理課歴史地震記録に学ぶ防災・減災サイトHPより)

  • 地下鉄東別院駅の北西にある下茶屋公園の北西には橘公園があります

    地下鉄東別院駅の北西にある下茶屋公園の北西には橘公園があります

  • 橘公園公衆便所後ろには名古屋市教育委員会の説明板があります<br /><br />【おためし場腑分けの跡】<br /><br /> この地は旧称新屋敷といい、藩士の新刀試しに供した場所であつた。<br /> 嘉永七年(1854)冬、ここで名古屋最初の人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ六十余名、石黒済庵の執刀により東西の医書を対照して行い、洋書の正確なことを知った。<br /> ちなみに、明和八年(1771)杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってより八十三年後のことである。<br />(名古屋市教育委員会の説明板より)<br />

    橘公園公衆便所後ろには名古屋市教育委員会の説明板があります

    【おためし場腑分けの跡】

     この地は旧称新屋敷といい、藩士の新刀試しに供した場所であつた。
     嘉永七年(1854)冬、ここで名古屋最初の人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は吉雄俊蔵はじめ六十余名、石黒済庵の執刀により東西の医書を対照して行い、洋書の正確なことを知った。
     ちなみに、明和八年(1771)杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってより八十三年後のことである。
    (名古屋市教育委員会の説明板より)

  • 橘公園

    橘公園

  • 大木戸外灯付きが左右にあります

    大木戸外灯付きが左右にあります

  • 名古屋アンティークマーケットで賑わってます

    名古屋アンティークマーケットで賑わってます

  • 外灯付き大木戸

    外灯付き大木戸

  • ごんごんちゃん<br />本願寺名古屋別院のキャラクターで鐘で、背中に撞木を背負っている。<br /><br />本願寺での催しの際に登場。

    ごんごんちゃん
    本願寺名古屋別院のキャラクターで鐘で、背中に撞木を背負っている。

    本願寺での催しの際に登場。

  • 橘町交差点

    橘町交差点

  • 妙善寺

    妙善寺

  • 七面山 妙善寺(しちめんさん みょうぜんじ)<br /> 当山のおこりは延宝八年(1680年)、尾張藩第二代、徳川光友公の腫物平癒のため、尾張茶屋家二代目、茶屋長以が自ら七面女神像を刻し、妙行院日行(情妙寺第三世)がご祈祷を致しました。平癒の後、光友公はこの話を聞いて長以の至誠を感じ、神像を城中に迎え拝しました。長以はこの女神像を賜わり、これを末森山に奉祀しました。<br />その後元禄六年(1693年)に松原の控屋敷を挙げて寺地として七面宮を建立し、末森山から女神像を奉遷したい旨を発願して光友公に願い出たところ、元禄九年(1696年)にお堂は落成して女神像は遷宮されました。 <br />*松原の控屋敷とは、寛文四年(1664年)に光友公が橘町と命名された現在地のことです。<br /> 尾張の国の安全第一を祈祷する一寺となり、愛知郡岩作村(現長久手町)の荒れた千手山妙禅寺をこの地におろし、七面山妙善寺と改名し、京都大本山妙顕寺第十八世中道院日春上人を迎えて開山としました。<br /> 元禄十三年(1700年)九月一日に光友公自筆の「七面宮」の額を賜わりこれを神前に掲げました。以来一万巻の陀羅尼品を修して国の安全を祈祷。旧藩時代から名古屋の名刹でありました。<br /> おしくも昭和二十年三月の空襲で、山門・摩利支天堂を残して、諸堂は悉く焼失。しかし、長以の刻した女神像は無事に、火中からお出しすることが出来ました。<br /> 当山第二十一世、慈法院日啓上人は昭和二十九年に先住職より御神像を受け継ぎ、焼け残った摩利支天堂を旧七面堂の跡に移し、裏側に内陣一棟を増築して現在の七面堂とし、昭和三十六年十一月に大本山妙顕寺貫主、本覚院日眞上人が大導師となって落慶法要が行われ、現在に至ります。<br />(日蓮宗名古屋青年会HPより)

    七面山 妙善寺(しちめんさん みょうぜんじ)
     当山のおこりは延宝八年(1680年)、尾張藩第二代、徳川光友公の腫物平癒のため、尾張茶屋家二代目、茶屋長以が自ら七面女神像を刻し、妙行院日行(情妙寺第三世)がご祈祷を致しました。平癒の後、光友公はこの話を聞いて長以の至誠を感じ、神像を城中に迎え拝しました。長以はこの女神像を賜わり、これを末森山に奉祀しました。
    その後元禄六年(1693年)に松原の控屋敷を挙げて寺地として七面宮を建立し、末森山から女神像を奉遷したい旨を発願して光友公に願い出たところ、元禄九年(1696年)にお堂は落成して女神像は遷宮されました。
    *松原の控屋敷とは、寛文四年(1664年)に光友公が橘町と命名された現在地のことです。
     尾張の国の安全第一を祈祷する一寺となり、愛知郡岩作村(現長久手町)の荒れた千手山妙禅寺をこの地におろし、七面山妙善寺と改名し、京都大本山妙顕寺第十八世中道院日春上人を迎えて開山としました。
     元禄十三年(1700年)九月一日に光友公自筆の「七面宮」の額を賜わりこれを神前に掲げました。以来一万巻の陀羅尼品を修して国の安全を祈祷。旧藩時代から名古屋の名刹でありました。
     おしくも昭和二十年三月の空襲で、山門・摩利支天堂を残して、諸堂は悉く焼失。しかし、長以の刻した女神像は無事に、火中からお出しすることが出来ました。
     当山第二十一世、慈法院日啓上人は昭和二十九年に先住職より御神像を受け継ぎ、焼け残った摩利支天堂を旧七面堂の跡に移し、裏側に内陣一棟を増築して現在の七面堂とし、昭和三十六年十一月に大本山妙顕寺貫主、本覚院日眞上人が大導師となって落慶法要が行われ、現在に至ります。
    (日蓮宗名古屋青年会HPより)

  • 本堂内 徳川光友公自筆の額「七面宮」<br />御朱印あるようですが今回はいただいてません

    本堂内 徳川光友公自筆の額「七面宮」
    御朱印あるようですが今回はいただいてません

  • 仏壇町

    仏壇町

  • 日置神社近くのカフェセレナでは蒔絵体験ができるそうです

    日置神社近くのカフェセレナでは蒔絵体験ができるそうです

  • 日置神社<br />名古屋市中区橘一丁目3番21号<br />御祭神:天太玉命(あめのふとだまのみこと)<br />配祀左:品陀和気命(ほむだわけのみこと)<br />配祀右:天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)<br />社格等:式内社・郷社<br />創建は不詳。延喜式の「尾張国愛智郡日置神社」にあたる。社名は暦を司る日置部に由来する。中世、山城国男山より八幡大神を勧請して合祀(京都東山五条北の若宮八幡宮とも)。明治42年10月、隣接の村社神明社を合併、配祀する。<br />永禄3年5月、織田信長が桶狭間へ出陣の途次に本神社へ祈誓、戦勝後に報賽のため神域に松樹千本を植える(明治29年に最後の1本が枯死)これより千本松日置八幡宮と呼ばれる。<br />明治維新の際、社号を復旧し日置神社とする。明治4年郷社に昇格。同40年12月26日、神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和20年3月、戦災を受ける。同33年社殿復興造営完成。(ウィキペディアより)

    日置神社
    名古屋市中区橘一丁目3番21号
    御祭神:天太玉命(あめのふとだまのみこと)
    配祀左:品陀和気命(ほむだわけのみこと)
    配祀右:天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
    社格等:式内社・郷社
    創建は不詳。延喜式の「尾張国愛智郡日置神社」にあたる。社名は暦を司る日置部に由来する。中世、山城国男山より八幡大神を勧請して合祀(京都東山五条北の若宮八幡宮とも)。明治42年10月、隣接の村社神明社を合併、配祀する。
    永禄3年5月、織田信長が桶狭間へ出陣の途次に本神社へ祈誓、戦勝後に報賽のため神域に松樹千本を植える(明治29年に最後の1本が枯死)これより千本松日置八幡宮と呼ばれる。
    明治維新の際、社号を復旧し日置神社とする。明治4年郷社に昇格。同40年12月26日、神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和20年3月、戦災を受ける。同33年社殿復興造営完成。(ウィキペディアより)

  • 日置神社境内、向かいのどんぐり広場ではひなた市の人でにぎわっていました

    日置神社境内、向かいのどんぐり広場ではひなた市の人でにぎわっていました

  • 力石

    力石

  • 本殿

    本殿

  • 寺院名:高顕寺(こうけんじ)<br />住 所:名古屋市中区橘1-3-23<br />宗 派:曹洞宗<br />山号別名:正法山<br />本 尊:木像聖観世音菩薩坐像<br />創建変遷:元禄六年(1693) <br />他施設:光明山御分身摩利支真天 鎮守堂/摩利支天

    寺院名:高顕寺(こうけんじ)
    住 所:名古屋市中区橘1-3-23
    宗 派:曹洞宗
    山号別名:正法山
    本 尊:木像聖観世音菩薩坐像
    創建変遷:元禄六年(1693)
    他施設:光明山御分身摩利支真天 鎮守堂/摩利支天

  • アート作品多数飾られています

    アート作品多数飾られています

  • 寺院名:全香寺(ぜんこうじ)<br />住 所:名古屋市中区門前町6-27<br />宗 派:曹洞宗<br />山号別名:梅園山<br />本 尊:千手千眼観世音菩薩坐像<br />創建変遷:寛永三年(1626) <br />他施設:毘沙門天像/運慶 秋葉堂/境内<br /> (愛知の寺院巡り<br />愛知県のお寺、寺院を個人的に調べた情報。HPより)

    寺院名:全香寺(ぜんこうじ)
    住 所:名古屋市中区門前町6-27
    宗 派:曹洞宗
    山号別名:梅園山
    本 尊:千手千眼観世音菩薩坐像
    創建変遷:寛永三年(1626)
    他施設:毘沙門天像/運慶 秋葉堂/境内
    (愛知の寺院巡り
    愛知県のお寺、寺院を個人的に調べた情報。HPより)

  • 門前町クラフト市<br />本町通り門前町商店街にあるアーケード下で、毎月28日に開催するクラフト市です。<br />こころ温まるハンドメイドグッズやリユース品を販売します。 <br />(なごや寺町まちづくり協議会HPより)<br />

    門前町クラフト市
    本町通り門前町商店街にあるアーケード下で、毎月28日に開催するクラフト市です。
    こころ温まるハンドメイドグッズやリユース品を販売します。
    (なごや寺町まちづくり協議会HPより)

  • 西別院も賑わっています

    西別院も賑わっています

  • 1817(文化14)年10月5日、名古屋に滞在中の江戸の浮世絵師、葛飾北斎は、当別院境内において、120畳敷の料紙に達磨の大画を描き、多くの人々の注目を集めました。<br /><br />1874(明治7)年に現在の名古屋大学医学部の前身である医学講習場が設置され、<br />医学研究の先駆をなした。<br />(HPより)

    1817(文化14)年10月5日、名古屋に滞在中の江戸の浮世絵師、葛飾北斎は、当別院境内において、120畳敷の料紙に達磨の大画を描き、多くの人々の注目を集めました。

    1874(明治7)年に現在の名古屋大学医学部の前身である医学講習場が設置され、
    医学研究の先駆をなした。
    (HPより)

  • 歴史ある門前町の一角「西別院」の境内で、新鮮な野菜をはじめ、市民参加のイベントや、各地の特産品、工芸品、住民の方が参加するお店や美味しい食べ物まで、ふんわりとホッとするような空間に、様々な品物や人々が、皆様をお出迎えします。<br /> <br />買物にいくだけの場所ではなく、地域の方の様々な交流や新しい出会い、相互扶助やそれぞれの発展なども含め、50年後、100年後もこの場所と空間が、地域内の皆様に何らかのお役に立てるような、そんな場所であることを目指して日々活動しております。<br />?<br />?是非散歩がてら足を運んで頂けると望外の喜びでございます!<br />( 特定非営利活動法人みんなのコンシェルジュHPより)<br />

    歴史ある門前町の一角「西別院」の境内で、新鮮な野菜をはじめ、市民参加のイベントや、各地の特産品、工芸品、住民の方が参加するお店や美味しい食べ物まで、ふんわりとホッとするような空間に、様々な品物や人々が、皆様をお出迎えします。
     
    買物にいくだけの場所ではなく、地域の方の様々な交流や新しい出会い、相互扶助やそれぞれの発展なども含め、50年後、100年後もこの場所と空間が、地域内の皆様に何らかのお役に立てるような、そんな場所であることを目指して日々活動しております。
    ?
    ?是非散歩がてら足を運んで頂けると望外の喜びでございます!
    ( 特定非営利活動法人みんなのコンシェルジュHPより)

  • 本願寺名古屋別院は、室町時代の明応年間(1500年頃)に、本願寺第8代蓮如上人の第13子蓮淳師(1464~1550)が伊勢国桑名郡長島杉江に創立された願証寺をその起源といたします。<br /> 当時、長島は木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)の交わる交通の要所であり、願証寺は伊勢・尾張両国の浄土真宗繁昌の中心でありました。その後、約70年を経て、本願寺第11代顕如上人の時、天正年間の本願寺と織田信長との戦い(石山合戦・1570~1580)の中で、願証寺は織田信長の数度の攻略によって、1574(天正2)年9月、2万人の法難者と共に一時退転の止むなきに至りました。これが世に言う“長島の一向一揆”(1570~1574)であります。<br /> その後、豊臣時代になり、願証寺を尾張国春日井郡清洲に再興、のち桑名願証寺の通所となり、尾張藩主徳川義直の名古屋城築城とともに、清洲より名古屋城下の南寺町(現在の門前町)に移転し、名古屋願証寺となりました。その当時の境内地は9085坪でありました。 <br /> その後、1715(正徳5)年、桑名願証寺が真宗高田派へ転派のため、1718(享保3)年2月、本願寺第14代寂如上人が名古屋願証寺を本山の坊舎とし、名古屋御坊となりました。真宗大谷派教勢の中にあって、尾張藩3代徳川綱誠の側室、梅昌院は本願寺との寺縁深く、名古屋御坊の存立と興隆に大きな庇護となり、1792(寛政4)年に17間四面の本堂を建立するに至りました。<br /> 1876(明治9)年6月、名古屋御坊と称したものを、「本願寺名古屋別院」と改称し、境内建物も逐次整備され、全国有数の別院として発展してきたのであります。<br /> しかし、第2次世界大戦の末期、1945(昭和20)年5月17日、空襲にあい、鐘楼等一部の建物を残して、すべての建物が焼失しましたが別院再建に向けて、名古屋別院ご門徒をはじめ東海教区(愛知・三重両県)の寺院、門信徒の篤い懇念により、1972(昭和47)年4月に現在の印度様式の本堂が立派に建立されました。1986(昭和61)年3月には、西別院文化ホール、幼稚園舎、役宅の複合ビルが完成。<br /> 1992年(平成4)年10月の本堂復興20周年、2002(平成14)年10月の30周年の各法要にあわせ、記念事業として本堂内外の改修工事を施し、エレベーターの設置、外陣をイス席にするなど時代に即応しながら、中京都市圏における、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の正法弘通の中心道場・教化の中心として存在しています。<br />(本願寺名古屋別院HPより)

    本願寺名古屋別院は、室町時代の明応年間(1500年頃)に、本願寺第8代蓮如上人の第13子蓮淳師(1464~1550)が伊勢国桑名郡長島杉江に創立された願証寺をその起源といたします。
     当時、長島は木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)の交わる交通の要所であり、願証寺は伊勢・尾張両国の浄土真宗繁昌の中心でありました。その後、約70年を経て、本願寺第11代顕如上人の時、天正年間の本願寺と織田信長との戦い(石山合戦・1570~1580)の中で、願証寺は織田信長の数度の攻略によって、1574(天正2)年9月、2万人の法難者と共に一時退転の止むなきに至りました。これが世に言う“長島の一向一揆”(1570~1574)であります。
     その後、豊臣時代になり、願証寺を尾張国春日井郡清洲に再興、のち桑名願証寺の通所となり、尾張藩主徳川義直の名古屋城築城とともに、清洲より名古屋城下の南寺町(現在の門前町)に移転し、名古屋願証寺となりました。その当時の境内地は9085坪でありました。
     その後、1715(正徳5)年、桑名願証寺が真宗高田派へ転派のため、1718(享保3)年2月、本願寺第14代寂如上人が名古屋願証寺を本山の坊舎とし、名古屋御坊となりました。真宗大谷派教勢の中にあって、尾張藩3代徳川綱誠の側室、梅昌院は本願寺との寺縁深く、名古屋御坊の存立と興隆に大きな庇護となり、1792(寛政4)年に17間四面の本堂を建立するに至りました。
     1876(明治9)年6月、名古屋御坊と称したものを、「本願寺名古屋別院」と改称し、境内建物も逐次整備され、全国有数の別院として発展してきたのであります。
     しかし、第2次世界大戦の末期、1945(昭和20)年5月17日、空襲にあい、鐘楼等一部の建物を残して、すべての建物が焼失しましたが別院再建に向けて、名古屋別院ご門徒をはじめ東海教区(愛知・三重両県)の寺院、門信徒の篤い懇念により、1972(昭和47)年4月に現在の印度様式の本堂が立派に建立されました。1986(昭和61)年3月には、西別院文化ホール、幼稚園舎、役宅の複合ビルが完成。
     1992年(平成4)年10月の本堂復興20周年、2002(平成14)年10月の30周年の各法要にあわせ、記念事業として本堂内外の改修工事を施し、エレベーターの設置、外陣をイス席にするなど時代に即応しながら、中京都市圏における、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の正法弘通の中心道場・教化の中心として存在しています。
    (本願寺名古屋別院HPより)

  • 本堂

    本堂

  • 鐘楼

    鐘楼

  • 中村公園豊国神社参道

    中村公園豊国神社参道

  • 13時、中村勘九郎さん、七之助さんのお練りは始まってます

    13時、中村勘九郎さん、七之助さんのお練りは始まってます

  • 中村七之助さん

    中村七之助さん

  • 中村勘九郎さん

    中村勘九郎さん

  • 中村七之助さん

    中村七之助さん

  • 中村勘九郎さん

    中村勘九郎さん

  • 中村勘九郎さん、七之助さんに熊手が授与されたようです

    中村勘九郎さん、七之助さんに熊手が授与されたようです

  • 参道の酒場ヒノマルの歌舞伎御膳お茶付き1000円

    参道の酒場ヒノマルの歌舞伎御膳お茶付き1000円

  • 中村公園豊国神社参道に豊臣秀吉の説明書きが出来てました

    中村公園豊国神社参道に豊臣秀吉の説明書きが出来てました

  • 大須演芸場

    大須演芸場

  • 興国山大光院<br /><br />毎月28日縁日<br /><br />文化5年(1808年)には烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立され[4]、腰部の疾病に霊験があるとして女性の参拝が多く[5]、その様子は「尾張名所図会」などにも描かれた。(ウィキペディアより)

    興国山大光院

    毎月28日縁日

    文化5年(1808年)には烏瑟沙摩明王の別殿として明王殿が建立され[4]、腰部の疾病に霊験があるとして女性の参拝が多く[5]、その様子は「尾張名所図会」などにも描かれた。(ウィキペディアより)

  • こちらの線香60円を線香台へ

    こちらの線香60円を線香台へ

  • ろうそく40円をたてます

    ろうそく40円をたてます

  • 赤門 明王殿 (アカモンミョウオウデン 毎月28日縁日)<br />興国山 大光院(こうこくさん だいこういん)<br />慶長八年(1603年)、松平忠吉公(家康公第四子)により清洲に建立。清洲越しの際に大須に移転。   文化五年(1808年)、参詣者の多かったお手洗いの仏様、烏瑟沙摩明王の別殿、明王堂を建立。   映画「のぼうの城」(平成24年11月2日公開)の主人公、成田長親公の菩提寺。              赤門通は、大光院の朱塗りの山門から命名。<br />(なごや大須商店街公式HPより)

    赤門 明王殿 (アカモンミョウオウデン 毎月28日縁日)
    興国山 大光院(こうこくさん だいこういん)
    慶長八年(1603年)、松平忠吉公(家康公第四子)により清洲に建立。清洲越しの際に大須に移転。   文化五年(1808年)、参詣者の多かったお手洗いの仏様、烏瑟沙摩明王の別殿、明王堂を建立。   映画「のぼうの城」(平成24年11月2日公開)の主人公、成田長親公の菩提寺。              赤門通は、大光院の朱塗りの山門から命名。
    (なごや大須商店街公式HPより)

  • 所在地 愛知県名古屋市中区大須二丁目7番25号<br />山号 興國山<br />宗旨 曹洞宗<br />本尊 木像釈迦牟尼仏坐像<br />創建年 慶長8年(1603年)<br />開山 明嶺理察<br />開基 松平忠吉<br />正式名 興國山大光院<br />別称 赤門明王殿・みょうおんさん[1]<br />札所等 名古屋四国5番<br />(ウィキペディアより)

    所在地 愛知県名古屋市中区大須二丁目7番25号
    山号 興國山
    宗旨 曹洞宗
    本尊 木像釈迦牟尼仏坐像
    創建年 慶長8年(1603年)
    開山 明嶺理察
    開基 松平忠吉
    正式名 興國山大光院
    別称 赤門明王殿・みょうおんさん[1]
    札所等 名古屋四国5番
    (ウィキペディアより)

  •  大須秋葉殿 (オオスアキバデン)<br />隣松山 陽秀院(りんしょうさん ようしゅういん) <br />寛永初年から現在地に存在し、天保の頃から民間信仰の対象とされてきた。紙張り地蔵は体の悪いところと同じところに白い紙を水をかけて貼付けるとご利益がある。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    大須秋葉殿 (オオスアキバデン)
    隣松山 陽秀院(りんしょうさん ようしゅういん)
    寛永初年から現在地に存在し、天保の頃から民間信仰の対象とされてきた。紙張り地蔵は体の悪いところと同じところに白い紙を水をかけて貼付けるとご利益がある。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 山門をくぐってすぐ左手に全身に白い紙の張られた紙張地蔵尊が安置されている。お地蔵さんの横にある2枚10円の白い紙を買い、張り付け、柄杓で水を汲んで地蔵尊に掛けるのが地元の習わし。「おからだに紙をはってお願いするとなにごとも、人間の苦しみを、かばって、お聞き下さる地蔵さま」として天保の昔から民間信仰の対象となり毎月28日には多くの参詣人であふれている。別名大須秋葉殿。

    山門をくぐってすぐ左手に全身に白い紙の張られた紙張地蔵尊が安置されている。お地蔵さんの横にある2枚10円の白い紙を買い、張り付け、柄杓で水を汲んで地蔵尊に掛けるのが地元の習わし。「おからだに紙をはってお願いするとなにごとも、人間の苦しみを、かばって、お聞き下さる地蔵さま」として天保の昔から民間信仰の対象となり毎月28日には多くの参詣人であふれている。別名大須秋葉殿。

  • 山門をくぐってすぐ左手に全身に白い紙の張られた紙張地蔵尊が安置されている。お地蔵さんの横にある2枚10円の白い紙を買い、張り付け、柄杓で水を汲んで地蔵尊に掛けるのが地元の習わし。「おからだに紙をはってお願いするとなにごとも、人間の苦しみを、かばって、お聞き下さる地蔵さま」として天保の昔から民間信仰の対象となり毎月28日には多くの参詣人であふれている。別名大須秋葉殿。<br />(iidaOSUホームページより)<br />紙張地蔵尊の縁日は24日

    山門をくぐってすぐ左手に全身に白い紙の張られた紙張地蔵尊が安置されている。お地蔵さんの横にある2枚10円の白い紙を買い、張り付け、柄杓で水を汲んで地蔵尊に掛けるのが地元の習わし。「おからだに紙をはってお願いするとなにごとも、人間の苦しみを、かばって、お聞き下さる地蔵さま」として天保の昔から民間信仰の対象となり毎月28日には多くの参詣人であふれている。別名大須秋葉殿。
    (iidaOSUホームページより)
    紙張地蔵尊の縁日は24日

  • 陽秀院<br />【ブロック】 ブロックA3<br /><br />宗派 曹洞宗<br />本尊 十一面観世音菩薩<br />創建 寛永初年1624年<br />開基 葉室嶺奕大和尚<br />由緒 寛永初年、大光院開山の時に清洲から移築された。地蔵堂には、300年の昔から紙張地蔵と、千射地蔵が祀られている。(戦災で地蔵堂は焼失しているが地蔵尊は難を免れている。)<br /><br /><br />隣松山 陽秀院<br />名古屋市中区大須2-15-7<br />(iidaOSUホームページより)

    陽秀院
    【ブロック】 ブロックA3

    宗派 曹洞宗
    本尊 十一面観世音菩薩
    創建 寛永初年1624年
    開基 葉室嶺奕大和尚
    由緒 寛永初年、大光院開山の時に清洲から移築された。地蔵堂には、300年の昔から紙張地蔵と、千射地蔵が祀られている。(戦災で地蔵堂は焼失しているが地蔵尊は難を免れている。)


    隣松山 陽秀院
    名古屋市中区大須2-15-7
    (iidaOSUホームページより)

  • 納屋橋饅頭万松庵大須本町通り店(本社)

    納屋橋饅頭万松庵大須本町通り店(本社)

  • テレビ愛知

    テレビ愛知

  • 正覚山往生院 阿弥陀寺<br />【ブロック】 ブロックA2 <br />宗派   浄土宗<br />本尊   阿弥陀如来<br />創建   慶長13年<br />開基   心蓮社本誉上人張南角公<br />年中行事 盆施餓鬼会 咄塚追善会(東西咄家出演)<br />(iidaOSUホームページより)<br />清須越しで現在地に移された

    正覚山往生院 阿弥陀寺
    【ブロック】 ブロックA2
    宗派   浄土宗
    本尊   阿弥陀如来
    創建   慶長13年
    開基   心蓮社本誉上人張南角公
    年中行事 盆施餓鬼会 咄塚追善会(東西咄家出演)
    (iidaOSUホームページより)
    清須越しで現在地に移された

  • 咄塚(はなしつか)<br />江戸時代に落語や講談が盛んに行われたことを記念して、昭和43年「咄塚」が建立された<br />(やっとかめ文化祭8南寺町西の大須より)<br /><br />阿弥陀寺(あみだじ)<br />天文年間(1532-1554)創建。<br />浄土宗知恩院の末寺で、清洲越しの際に大須に移転。<br />大須界隈の神社仏閣の境内に出ていたさまざまな興業についての記録、小寺玉晃著『見世物雑志』をもとに、江戸時代に落語や講談が盛んに行われたことを記念して、昭和43年12月、話芸愛好家、名芸互助会、落語協会、日本芸術協会(現・落語芸術協会)、上方落語協会によって、『咄塚』が建立された。<br />毎年12月には名古屋来演物故噺家追悼会、奉納東西落語会が行われている。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    咄塚(はなしつか)
    江戸時代に落語や講談が盛んに行われたことを記念して、昭和43年「咄塚」が建立された
    (やっとかめ文化祭8南寺町西の大須より)

    阿弥陀寺(あみだじ)
    天文年間(1532-1554)創建。
    浄土宗知恩院の末寺で、清洲越しの際に大須に移転。
    大須界隈の神社仏閣の境内に出ていたさまざまな興業についての記録、小寺玉晃著『見世物雑志』をもとに、江戸時代に落語や講談が盛んに行われたことを記念して、昭和43年12月、話芸愛好家、名芸互助会、落語協会、日本芸術協会(現・落語芸術協会)、上方落語協会によって、『咄塚』が建立された。
    毎年12月には名古屋来演物故噺家追悼会、奉納東西落語会が行われている。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 寺院名:阿弥陀寺(あみだじ)<br />住 所:名古屋市中区大須2-5-47<br />宗 派:浄土宗鎮西派<br />山号別名:正覚山<br />本 尊:木像阿弥陀如来坐像<br />他施設:阿彌陀寺 往生院 釈迦堂 十王堂<br /> (愛知の寺院巡り<br />愛知県のお寺、寺院を個人的に調べた情報。HPより)

    寺院名:阿弥陀寺(あみだじ)
    住 所:名古屋市中区大須2-5-47
    宗 派:浄土宗鎮西派
    山号別名:正覚山
    本 尊:木像阿弥陀如来坐像
    他施設:阿彌陀寺 往生院 釈迦堂 十王堂
    (愛知の寺院巡り
    愛知県のお寺、寺院を個人的に調べた情報。HPより)

  • 那古野古墳、大須にはなんと古墳もあったのですね、気づきませんでした<br /><br />那古野山古墳(なごのやまこふん)<br /><br />大須古墳群と呼ばれる古墳群のうちのひとつ。6世紀頃に作られたもので、もともとは前方後円墳でした。 江戸時代に修験道の寺・清寿院(富士山観音寺)の後園が造営され、浪越山と呼ばれました。 <br />清寿院が明治5年に廃寺となったのち、明治12年に愛知県初の公園・浪越公園として市民に開放されました。広く市民に愛されましたが、明治43年に鶴舞公園が開園したことにより廃止になります。 <br />大正3年、名古屋市が那古野山公園として再び公園化。このとき、大幅に縮小され現在の大きさになりました。 <br />1991年、1995年には発掘調査が行われ、これによって出土した遺物は名古屋市博物館に収蔵されています<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    那古野古墳、大須にはなんと古墳もあったのですね、気づきませんでした

    那古野山古墳(なごのやまこふん)

    大須古墳群と呼ばれる古墳群のうちのひとつ。6世紀頃に作られたもので、もともとは前方後円墳でした。 江戸時代に修験道の寺・清寿院(富士山観音寺)の後園が造営され、浪越山と呼ばれました。
    清寿院が明治5年に廃寺となったのち、明治12年に愛知県初の公園・浪越公園として市民に開放されました。広く市民に愛されましたが、明治43年に鶴舞公園が開園したことにより廃止になります。
    大正3年、名古屋市が那古野山公園として再び公園化。このとき、大幅に縮小され現在の大きさになりました。
    1991年、1995年には発掘調査が行われ、これによって出土した遺物は名古屋市博物館に収蔵されています
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 古墳がいくつかあったとは!!<br />日出神社古墳(日出神社)、那古野古墳(那古野山公園)、大須二子山古墳(西本願寺名古屋別院)<br />1500年前、6世紀頃造られた大須古墳群

    古墳がいくつかあったとは!!
    日出神社古墳(日出神社)、那古野古墳(那古野山公園)、大須二子山古墳(西本願寺名古屋別院)
    1500年前、6世紀頃造られた大須古墳群

  • 江戸時代は、この辺りは修験道の清寿院という寺が有ったそうで、明治時代に清寿院がなくなると明治12年1879年には県下初の公園、浪越公園を開園、浪越公園と言われていたのですね・・・、明治末まで名古屋唯一の公園として浪越公園は親しまれていたが明治43年1905年鶴舞公園ができると浪越公園は廃止されてしまい、名古屋市が那古野山古墳を保存するため大正3年1910年那古野山公園を開園し現在まで那古野山古墳は大須を見守っているということのようです<br />名古屋生まれの私も今回初めて知った次第であります

    江戸時代は、この辺りは修験道の清寿院という寺が有ったそうで、明治時代に清寿院がなくなると明治12年1879年には県下初の公園、浪越公園を開園、浪越公園と言われていたのですね・・・、明治末まで名古屋唯一の公園として浪越公園は親しまれていたが明治43年1905年鶴舞公園ができると浪越公園は廃止されてしまい、名古屋市が那古野山古墳を保存するため大正3年1910年那古野山公園を開園し現在まで那古野山古墳は大須を見守っているということのようです
    名古屋生まれの私も今回初めて知った次第であります

  • 那古野山古墳<br />元は前方後円墳で、前方部は取り壊されている。<br />後円墳の上に乗ることが可能です。<br />江戸時代末の元治2年(1865)3月15日も須恵器(足付有蓋短頸壺)が出土しており、近くに在る富士浅間神社に保存されている。<br />1996年の調査で「現在古墳の墳丘と考えられた土の多くは、中世以降の盛土で」、「中世盛土の下、もしくは近くに古墳があることも確実」との報告あり<br />(古墳マップHPより)

    那古野山古墳
    元は前方後円墳で、前方部は取り壊されている。
    後円墳の上に乗ることが可能です。
    江戸時代末の元治2年(1865)3月15日も須恵器(足付有蓋短頸壺)が出土しており、近くに在る富士浅間神社に保存されている。
    1996年の調査で「現在古墳の墳丘と考えられた土の多くは、中世以降の盛土で」、「中世盛土の下、もしくは近くに古墳があることも確実」との報告あり
    (古墳マップHPより)

  • ところでどなたのお墓なんでしょうね那古野山古墳は・・・

    ところでどなたのお墓なんでしょうね那古野山古墳は・・・

  • 富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)<br />明応4(1495)年、後土御門天皇の命により、富士山本宮浅間神社から分霊を勧請し、創建された。<br />現在の社殿は、初代尾張藩主・徳川義直公の内室・高原院によって建てられた。<br />もともとは、尾張三名水として名高い柳下水を有する清寿院の鎮守として建てられたが、明治の廃仏棄却により清寿院は廃寺に。<br />富士浅間神社のみが残っている。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)
    明応4(1495)年、後土御門天皇の命により、富士山本宮浅間神社から分霊を勧請し、創建された。
    現在の社殿は、初代尾張藩主・徳川義直公の内室・高原院によって建てられた。
    もともとは、尾張三名水として名高い柳下水を有する清寿院の鎮守として建てられたが、明治の廃仏棄却により清寿院は廃寺に。
    富士浅間神社のみが残っている。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 柳下水(りゅうかすい)<br />明治の廃仏毀釈により廃寺となった修験道の寺・清寿院(富士山観音寺)の中門前にあった供水として使われていたのが、柳下水です。<br />すぐ近くの富士浅間神社はこの寺の鎮守でしたが、神社だけが残って現在に至っています。<br />将軍家上洛の際には飲用水として用いられたとされている、尾張名古屋三名水のひとつ。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)<br /><br />尾張三名水 尾張名陽図会より<br />蒲焼町の風呂屋の井戸(現在の錦通り伊勢町交差点辺り)、稲置街道(現在は清水交差点(国道41号線)の一筋西の道の道端)に湧いていた亀尾清水<br />(水問題研究所HPより)<br />

    柳下水(りゅうかすい)
    明治の廃仏毀釈により廃寺となった修験道の寺・清寿院(富士山観音寺)の中門前にあった供水として使われていたのが、柳下水です。
    すぐ近くの富士浅間神社はこの寺の鎮守でしたが、神社だけが残って現在に至っています。
    将軍家上洛の際には飲用水として用いられたとされている、尾張名古屋三名水のひとつ。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

    尾張三名水 尾張名陽図会より
    蒲焼町の風呂屋の井戸(現在の錦通り伊勢町交差点辺り)、稲置街道(現在は清水交差点(国道41号線)の一筋西の道の道端)に湧いていた亀尾清水
    (水問題研究所HPより)

  • たんすのばあば<br /><br />体に触ると、一生着るものに困らないと言われています。東仁王門通、チェザリ前で微笑んでいるばあばに触れてみては。<br /><br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    たんすのばあば

    体に触ると、一生着るものに困らないと言われています。東仁王門通、チェザリ前で微笑んでいるばあばに触れてみては。

    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 万松寺(ばんしょうじ)/Banshoji <br />天文9年、織田家の菩提寺として開かれた曹洞宗の寺院。<br />織田信秀が開基、山号は「亀岳林」、ご本尊は十一面観世音菩薩。<br />もともとは信秀の叔父・大雲永瑞和尚を開山として、名古屋城の南側に建てられた。<br />当時は現在の中区錦・丸の内2丁目~3丁目付近の広大な土地を領有していた。<br />名古屋城築城の際、現在の場所へ移転。<br />尾張徳川家朱印寺として人々の信仰も篤いお寺だったが、幕末ごろから徐々に衰退しはじめた。<br />当時の住職・大円覚典和尚は、大正元年、領有する付近の山林の大部分(現在の大須3丁目付近)を開放し、このことにより、万松寺は再びにぎわいを取り戻しはじめる。<br />戦前には、見せ物小屋や菊人形の黄花園(~昭和12年)が多くの人を集めた。<br />昭和20年3月12日、名古屋大空襲によって焼失するが、戦後の復興期に、稲荷殿・不動殿寺を新築。<br />本堂は平成になってから再建された。<br />信長ゆかりの寺で、28日の身代わり不動の縁日には、「身代わり餅」がふるまわれている。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    万松寺(ばんしょうじ)/Banshoji
    天文9年、織田家の菩提寺として開かれた曹洞宗の寺院。
    織田信秀が開基、山号は「亀岳林」、ご本尊は十一面観世音菩薩。
    もともとは信秀の叔父・大雲永瑞和尚を開山として、名古屋城の南側に建てられた。
    当時は現在の中区錦・丸の内2丁目~3丁目付近の広大な土地を領有していた。
    名古屋城築城の際、現在の場所へ移転。
    尾張徳川家朱印寺として人々の信仰も篤いお寺だったが、幕末ごろから徐々に衰退しはじめた。
    当時の住職・大円覚典和尚は、大正元年、領有する付近の山林の大部分(現在の大須3丁目付近)を開放し、このことにより、万松寺は再びにぎわいを取り戻しはじめる。
    戦前には、見せ物小屋や菊人形の黄花園(~昭和12年)が多くの人を集めた。
    昭和20年3月12日、名古屋大空襲によって焼失するが、戦後の復興期に、稲荷殿・不動殿寺を新築。
    本堂は平成になってから再建された。
    信長ゆかりの寺で、28日の身代わり不動の縁日には、「身代わり餅」がふるまわれている。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 山神社 西大須交差点を西へ行き、鶯谷を通って日置山神社へ<br />江戸の昔より境内の木を伐ると祟りがあるといわれ、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」にも、日置村山の神を祀るとあります<br />(やっとかめ文化祭歴史まち歩き8南寺町西大須より)

    山神社 西大須交差点を西へ行き、鶯谷を通って日置山神社へ
    江戸の昔より境内の木を伐ると祟りがあるといわれ、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」にも、日置村山の神を祀るとあります
    (やっとかめ文化祭歴史まち歩き8南寺町西大須より)

  • 名古屋スケートリンク、大須スケートリンク

    名古屋スケートリンク、大須スケートリンク

  • 大須観音<br />華精の梵鐘(女人梵鐘)

    大須観音
    華精の梵鐘(女人梵鐘)

  • 北野神社(きたのじんじゃ)<br />「大須」の地名は大須観音に由来するが、大須観音はもともと北野神社の一部の神宮寺としてあった。<br />1324年に後醍醐天皇の勅命で岐阜県の大須に北野天満宮を建立。<br />清洲越しの際に大須観音とともに現在地に移転した。<br />祭神は菅原道真。<br />梅の神紋があちこちに見られるのは、梅と道真との関係が深いことから。<br />道真は梅を愛したといわれ、「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れぞ」と歌を詠んだところ、京都の梅が大宰府の道真のもとへと飛んでいったという「飛び梅」伝説など、梅にまつわる伝説がある。<br />境内には臥した牛の像があるが、道真が牛を大切にしたことから天満宮の使いとされ、天神信仰のなかで大切にされている。<br />(なごや大須商店街公式ホームページより)

    北野神社(きたのじんじゃ)
    「大須」の地名は大須観音に由来するが、大須観音はもともと北野神社の一部の神宮寺としてあった。
    1324年に後醍醐天皇の勅命で岐阜県の大須に北野天満宮を建立。
    清洲越しの際に大須観音とともに現在地に移転した。
    祭神は菅原道真。
    梅の神紋があちこちに見られるのは、梅と道真との関係が深いことから。
    道真は梅を愛したといわれ、「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れぞ」と歌を詠んだところ、京都の梅が大宰府の道真のもとへと飛んでいったという「飛び梅」伝説など、梅にまつわる伝説がある。
    境内には臥した牛の像があるが、道真が牛を大切にしたことから天満宮の使いとされ、天神信仰のなかで大切にされている。
    (なごや大須商店街公式ホームページより)

  • 日出神社 日出古墳の上にある神社<br />清須越しによって名古屋に移された神社のうち、愛宕社と神明社を明治42年に合祀したもの。本殿は、5世紀頃の前方後円墳(後円部)の上に建てられています。<br />(やっとかめ文化祭歴史まち歩き8南寺町西大須HPより)<br /><br />元は愛宕社と称したが、明治42年1909年日出町に鎮座の神明社(旧称天道宮)、同一境内宗像社白髭社香良須社の合殿の二社を合祀して社名を日出神社と改めた。愛宕社は天道宮と共に清須に鎮座していたが慶長15年1610年名古屋城築城の際、現在地に移された<br />(大須マップ大須のいわれ説明板より)

    イチオシ

    日出神社 日出古墳の上にある神社
    清須越しによって名古屋に移された神社のうち、愛宕社と神明社を明治42年に合祀したもの。本殿は、5世紀頃の前方後円墳(後円部)の上に建てられています。
    (やっとかめ文化祭歴史まち歩き8南寺町西大須HPより)

    元は愛宕社と称したが、明治42年1909年日出町に鎮座の神明社(旧称天道宮)、同一境内宗像社白髭社香良須社の合殿の二社を合祀して社名を日出神社と改めた。愛宕社は天道宮と共に清須に鎮座していたが慶長15年1610年名古屋城築城の際、現在地に移された
    (大須マップ大須のいわれ説明板より)

  • 矢場町バス停前には、小林城跡、清浄寺の矢場地蔵平成のジャンボ延命地蔵尊があります

    矢場町バス停前には、小林城跡、清浄寺の矢場地蔵平成のジャンボ延命地蔵尊があります

  • 尾張六地蔵の一つ矢場地蔵尊は以前参拝したので今回は時間の関係で参拝やめました

    尾張六地蔵の一つ矢場地蔵尊は以前参拝したので今回は時間の関係で参拝やめました

  • やばとん本店

    やばとん本店

  • 東門 高麗門、本瓦葺き、袖塀付<br />市バスで、東別院に戻って、名古屋別院で現存する最古の木造建造物で天保12年1841年「尾張名所図絵」に記載されている東門(東別院立ち寄りマップより)を見学

    東門 高麗門、本瓦葺き、袖塀付
    市バスで、東別院に戻って、名古屋別院で現存する最古の木造建造物で天保12年1841年「尾張名所図絵」に記載されている東門(東別院立ち寄りマップより)を見学

  • 東別院の隣には下茶屋公園があります<br />下茶屋公園(しもちゃやこうえん)<br />別院の新御殿の後庭として江戸時代に作られました。現在は昔の面影を残しながら名古屋市の公園となっています。<br />(東別院HPより)

    東別院の隣には下茶屋公園があります
    下茶屋公園(しもちゃやこうえん)
    別院の新御殿の後庭として江戸時代に作られました。現在は昔の面影を残しながら名古屋市の公園となっています。
    (東別院HPより)

  • 静かな庭園です

    静かな庭園です

  • なごや寺町アートプロジェクトスタンプラリー<br />全12か所を周りました<br />先着200名様景品まだありました<br />オリジナルカップ

    なごや寺町アートプロジェクトスタンプラリー
    全12か所を周りました
    先着200名様景品まだありました
    オリジナルカップ

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