2017/05/01 - 2017/05/01
31位(同エリア385件中)
2013tomoさん
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写真は当時380Vの高圧電流が通っていた鉄条網。
人間が触れると即死したという。
5月1日祝日
駅の東隣のMDAバスターミナル、
駅の東側バスターミナル20日前予約可
www.moj-bus.pl/MDA発OSWIENCIM(アウシュビッツ)行き8:40発、
帰り16:10発はドライバーから買う(HPで表示有)。
行きはMDAのチケット売り場で前日にクレジットで買った。
バス 2人分で820円 1時間位乗車。
アウシュビッツ12:30英語ツアーEチケット発券済み一人45
二人で2、588円
クレジットカード
日本語ツアーは満員で予約できず。
持ち込みは30×20のバッグのみだが
預ける場所は左側の小屋にあった。
セキュリティーチェックがあり
バッグを開けさせられた。
(夫の言葉)
○アウシュビッツ強制収容所を訪ねて
今回の旅の私の主要テーマは
ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を
訪問することでした。
悲惨な歴史が現存する場所を訪問することに対し
心理的な抵抗感やためらいがあったのですが
私の人生最終ステップへのイニシエーション(通過儀礼)
と考えて実行いたしました。
予想した通り悲惨な出来事の記録に強烈な印象を
受けてしまいました。
特に無慈悲に殺害された人達が履いていた無数の靴が
陳列されているところで
子ども達の小さな靴(3~4歳用か)が無造作に
陳列されているのを見た時
膝下の力が抜けて座り込みそうになりました。
またガス室へ送り込まれる前に刈り取られた
女性たちの髪の束がうず高く積み上げられているのも
見ました。
女性たちの無念さが変色した髪の山から立ち上っている
ようでした。
説明では毒ガスを作る成分として利用されたそうです。
人間は冷静なままでこんなにも冷酷で無情で残酷に
なれるのでしょうか。
その後もただただ悲惨な写真や陳列物の前で合掌し
こころの中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と
唱えながら歩くことしかできませんでした。
その時の心情を私の拙い言葉ではとても表現することは
できません。
アウシュビッツ強制収容所を訪問する前に
ヴィクトール・E・フランクルの
「夜と霧(ドイツ強制収容所の体験記録)」
< 霜山 徳爾氏訳みすず書房>を再読いたしました。
アウシュビッツ強制収容所訪問のために心の準備をするためです。
悲惨な環境下で約3年余りを生きぬいたフランクル精神科医の
深い体験に心が打たれました。
本の中に書かれていた中で私が感動した部分を
一つ紹介いたします。
「やがて一つのヴァイオリンが、あまり弾かれない、
限りなく悲しいタンゴを弾き始めた。
―ヴァイオリンは泣いていた。
そして私の中でも何かが涙を流した。
なぜならば丁度この日、ある人間は二四歳の誕生日を
迎えたからである。
この人間はアウシュヴィッツ収容所のどこかのバラックに
横たわっている筈であった。
従って私と数百メートルあるいは数千メートル離れている
だけだった。
―この人間とは私の妻であった。
フランクルがアウシュビッツに送られることを知って比較的
安全な収容所を離れて彼と同行することを決意した愛妻ティリー
のことを書いた部分です。
フランクルの愛妻ティリーはその後ドイツのベルゲン=ベルゼンで
英軍による解放直後に亡くなりました(フランクルの回想録より)。
今までに他のブログでも書かせて頂きましたが
私が好きなヴィクトール・E・フランクルの言葉を
ここでもう一度紹介いたします。
「どんな時も、人生には、意味がある。
なすべきこと、満たすべき意味が与えられている。
この人生のどこかに、あなたを必要とする”何か”があり、
あなたを必要とする”誰か”がいる。
そしてその”何か”や”誰か”は、
あなたに発見されるのを”待って”いる。」
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
クラクフの駅の隣のショッピンセンターを入ると
駅に行ける。
何か所かある入る場所を間違えるとまごつくので
駅に到着した後、
どこを通ってホテルに着いたか記憶しておいた方が良い。クラクフ本駅 (クラクフ中央駅) 駅
-
一階の茶色い色のチケット売り場。
クレジットも使える。MDA バスターミナル (クラクフ) バス系
-
バスが2階の乗り場の時はこの階段を登って行った。
アウシュビッツに行くときも
チェコに行くバスに乗るときも登って行った。
エレベーターもあるかもしれない。MDA バスターミナル (クラクフ) バス系
-
アウシュビッツ行き
ドライバーに直接料金を支払っている人もいた。
行きも満員近かった。
前から3人目に並んでいて乗ると前列は空いていた。
しかし荷物が置いてあったので座れず2番目に座った。
満員に近くなると
ドライバーの荷物だったのでどかしてもらって
座っていた。
1時間位で終点のアウシュビッツに着いた。MDA バスターミナル (クラクフ) バス系
-
クラクフまでの帰りのバスでのこと。
(夫の報告)
私たちがアウシュビッツ強制収容所の見学ツアーを終えて
帰りのバスに乗るときのこと。
14:25のバスに5分程遅れて着いたため乗り遅れてしまった。
私たちの前に二人の若い女性が待っていた。
話している言葉から判断してアメリカ人らしい。
電柱の上のカラスから肩から下げていたバックに
白いフンをかけられてキャッキャと叫んでいた。
15:30の次のバス出発の時間が
近づいてくると長い行列ができていた。
なんとなく行列の順番が乱れてきて雰囲気が怪しくなっている。
私たちは行列の先頭部分なのですっかり安心していた。
バスが前方から近づいてきた。
ふと気づくと私たちの斜め前方に
太めの中年のおばさんが何気なく立っている。
さっき煙草を吸っていた人かもしれない。
バスが到着した。
するとそのおばさんは開いたドアの前にその太い体を
まったく気配を感じさせずにすべり込ませてきた。
ロシア風の横入りの達人だ。
これはベルリンから
サンクトぺテルブルグ行きの空港でも経験した。
(夫から昔は大阪でも同じような事があったようだと聞いている。
今はみんなきちんと並んでいるようだ。妻の言葉)
気づくと横入りで順番を取り平然としている。
油断も隙もない「ロシアンスライド」だ!
二人のアメリカ人女性たちは
「ルールを守れ!」とか「ズルするな!」と叫んでいる。
しかし太めのおばさんは
言葉が分からないのか馬耳東風のふりをして
幅広の体でドア全体をブロックしバスの中に入ってしまった。
私も3番目という立場上「ルールは守れよ!Keep your rule!」
と大きな声で叫ぶとアメリカ人の女性は
「お前、良く言った!」
という顔で目で頷いてくれた。
もう一人の女性は手の中指を立てて「F○k you!」のポーズを
おばさんの肉厚で広い背中に向けていた。
家内は映画では見たが本当にやるのだと驚いていた。
後ろの若い女性が行列の間隔を詰めて
家内の肩を抱くようにして行列を小さく凝縮させ
一本の串団子の状態でバスに乗り込んだ。
私たちががバスの中に入ると
そのおばさんはバスの一番前の眺めの良い座席に
涼しい(図々しい)顔をして座っていた。
私は心の中で「いつか天罰が下るぞ!」と叫んでいた。
でも表面上はいつもの穏やかおじいさん顔をしていた。
出発地で10人くらいが立っていた。
妻の報告
途中5分くらい乗ってから列車の駅前でも
3人ほど乗ってきた。
乗り降りがあったが
最終的に10人程度の人が1時間ほどクラカウまで
立ったままだった。
ドライバーに乗るときにキャッシュで支払う。
ドライバーは満員になりそうだと判断すると
後部に行って座席に空きがないのを確認して
お客さんに
もう座席がないと知らせている。
後20分したら次のバスが来ると言っている。
次は40分後の筈だが
増発したのかな?
祝日だし座席指定料を取ったら良いのにと思う。
印象に残るバス行列の攻防であった。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所)へ行くバス停
上の写真のクラクフなどに行くバス停と共用している。
同じ会社のクラクフ以外に行くバスもあった。
10分おきくらいに無料でビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所)へ
5分くらいで行ける。
乗客が一緒に並ぶので言葉も分からないし、まごついた。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
春のビルケナウ収容所は広々として明るく「清潔」
であった。
鉄条網は見学の人々に何を語りかけているのか。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
囚人たちをのせた列車はこの収容所のなかに引き入れられた、
そして人々はガスかまどに向かったのだ。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
夫の報告
この鉄条網を見て「夜と霧」の著者であるフランクルの言葉が
私の胸に浮かんできた。
「私はアウシュビッツの最初の夜の就寝前に、
いわば我と我が身に『鉄条網に向かって走る』ことを
決してしない約束をさせた。
これは収容所で慣用の表現であって、収容所で良く用いられる
自殺の方法が特色づけられているのである。
すなわち高圧の電気の通っている鉄条網に触れることである。」
V.E.フランクル「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)
霜山 徳爾氏訳 みすず書房
今はこの鉄条網たちは春の柔らかな雲の下で静かに林立している
だけである。
しかし、当時は彼等自身が強暴な殺人の欲望に青白い牙を光らせ
囚人の心を日夜苛んでいたことを思うと一瞬だが首筋に冷たい戦慄
を感じた。
(すべての鉄条網には高圧電流380Vが通じている)
この収容所は決して観光で来る場所ではないことを認識した。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
写真撮影をする見学者たち。
笑い声や大きな声で話す人は
いなかった。
まるで罪びとのように声をひそめて
話をさせる何かがこの場所にはある
ようだ。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
絶対的な歴史の前では声も出ない。
ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
バスで大勢の見学者が来ているはずなのに
静寂の道が長く続いている。
ここは日夜、囚人たちが行進させられた道だ。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
囚人たちがヨーロッパの各地から運ばれてきた
貨車が線路の上に残されている。
多くの囚人がこの収容所の「死の門」をくぐる前に
長時間の移動の中で飢え、寒さ、疲れの為既に死亡して
いたと聞いた。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
囚人用のバラックの多くは既に朽ち果てていた。
暖房用のレンガ造りのストーブが骸骨の一部の
ように立ち並んでいる。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
入場した茶色い建物「死の門」へ向かって 行く。
(アウシュヴィッツ第1強制収容所)に向かう。
出てすぐ右側の駐車場の方にバス停がある。
バスを降りた所と同じだが見学してたら
忘れてしまわないよう覚えておこう。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
夫の報告
強制収容所のバラックのトイレである。
「夜と霧」で著者フランクルは「便所」について
次のように解説している。
「また新入りの囚人程、よく便所の掃除や汲取りを
する労働中隊に配属された。
でこぼこな原を越えて便所の汲取りに行く時よくある
ことだが、糞尿が顔にはねかかったりした時、顔を
しかめたりあるいはふきとろうと試みたりすると、
それは確実にその労働者の「お上品振り」に腹を立てる
囚人である監督者のカポーの
棒の一撃で報いられるのであった。
通常の感情の昂奮を殺すことが、
かくして次第に進むので
あった。」
V.E.フランクル「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)
霜山 徳爾氏訳 みすず書房
こうして毎日の生理行為自体が
囚人たちの精神の緩慢な死を
推し進めるシステムに組み入れられて行った
のである。
そしてその後には肉体の絶対的な死をもたらす消滅装置が
待ち構えている。
バラックに差し込む陽の光も
何故か監視塔から囚人を照らし出す
サーチライトのように見えてくる。
何とも暗くて重いものが心の底に溜まってくるようだ。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
「うしろすがたのしぐれてゆくか」(山頭火)
春晴れの良いお天気なのに
私の心の中では黒い雨のようなものが
降り続いている。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
「死の門」を望む。
囚人たちが二度と帰ってこれなかった門だ。
しかし私たちはもう一度生きて帰ってこれる。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
-
向かって左側にある小屋。
荷物のマークがありここで
サイズの20×30以外のバッグは預けられるようだ。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
昼ごろ見たら真ん中の白いインフォメーションセンターに
ずらっと見学者が列をつくっていた。
私たちは日本でネットで予約してクレジットで支払ってきていた。
印刷したものを持っていて入場するときに
かざして入れる。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
左側が入場する場所。
ピッと入場券をかざす。
すぐセキュリティーチェックがあり
私はバッグの中を開けた。
右側がトイレと食品もあるお店があった。
入ってすぐ右側に本なども売っていて
日本語のパンフレットも売っていた。
ツアー仲間の英語を話す若い女性に
日本人と言うと 「クール」 と言われてしまった。
U.S.からきたと言っていた。
グレイトアメリカからね。とか言えばよかった。
何か言えば良かったのに言えなかった。
そちらもクールと言えば良かったのかなあ?オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
台湾からポーランド(ワルシャワ)へ留学している21歳の女子大生と一緒に
アウシュビッツ強制収容所をツアー見学した
夫からの報告
12:30前になるとアウシュビッツ強制収容所センター前に英語ツアーの参加者が集合してきた。
胸に「英語ツアー参加」というワッペンシールを貼っている人が多い。
どこでもらったのだろう。
参加者は白人系の人が多いが中に
アジア人系の子供連れの家族やメガネをかけた若い女性がいた。
若い女性は他の参加者と英語でおしゃべりしているようなので
英国か米国からの観光客と思っていた。
私たちもスタッフの人からワッペンを貰って
センターのエントランスから内部に入った。
エントランスの横を見ると案内書の窓口に
大勢の見学者が列を作っている。
これから見学ツアーに登録する人たちだろう。
見学センター内部を通り過ぎ
実際にアウシュビッツ強制収容所内部に入る前に
大きな広場があった。
ここで英語ツアー参加者にファミリー単位でくっついてと言われた。
多すぎたのか二つのグループに分けられた。
我々は体格が良い中年(熟年?)女性案内者のグループとなる。
アジア系の若い女性や家族連れも私たちと同じグループとなる。
若い女性がなんとなくひとりきりで
寂しそうに立っていたので声をかけた。
「私たちは日本から来たのだけどあなたはどこから来たの?」
「台湾から来ました。」と少し恥ずかしそうに答える。
「日本は良い(クールという言葉を使ったように記憶している)
国ですね。」と言ってくれたので
私たちも「観光で台湾へ行きましたけど美しい国ですね。
そして何より美味しいお料理がたくさんありました。」と答えた。
続けて「学生さんですか?」と聞くと
「いまワルシャワの大学で勉強しています。
○○学部が専攻ですが授業は英語で行われています。」ということだ。
顔をよく見るとまだ若そうなので失礼な質問と思ったが
「まだお若そうだけど何歳なの」?と聞くと、
「21歳です。」と言う。若いはずだ。
「この英語ツアーには一人で参加しているの?」と聞くと
「そうです。」というので
「それではこのアウシュビッツ強制収容所では
私たちがあなたのお父さんとお母さんになるので一緒に見学しませんか?」
と提案した。
本当は彼女にとって我々は
おじいちゃんとおばあちゃんと感じていたかもしれない。
(私はこの年齢認識格差を「年齢のドップラー効果」と呼んでいる)
彼女は少し照れながら「えぇ。」と答えてくれた。
それ以降は3人連れで強制所内を一緒に歩いた。
悲惨な写真や陳列物の前ではお互いに言葉もなく
目と目で悲しい感情を分かち合った。
戦争の極限の悲惨さの前では国籍も年齢も男女も関係はないし
言葉も必要ではない。
ただただ悲しいだけだ。
3時間近い見学は最後に
ガス室で殺害された死体の焼却所前で終了した。
昼下がりの明るい光の中で彼女はやや放心状態の様である。
家内が彼女に日本から持参してきた美しい
紅葉の絵が描かれているお煎餅をプレゼントした。
彼女の顔に急に明るさが戻り感謝の言葉を頂いた。
わたしは「しっかり勉強してね(Study hard!)」と
いう声掛けをして別れた。
家内から「余計なことをまた言って!」と
注意を受けてしまった。
何気ない出逢いであったが
彼女と一緒にアウシュビッツ強制収容所を歩けてなんだか
私たちの娘と歩いているような気持がして
良い体験ができたと思う。
台湾からのお嬢さん、再見サイチェン!オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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いよいよ「労働は自由への道」と書いてある
場所をくぐって英語ツアーが始まった。
途中で姿が見えなくなった太ったお年寄りも居たみたい。
途中で階段の所に座り込んでいるのを夫が見たと言う。
最後にいなかったので
疲れて帰ってしまったのかもしれない。
でも普通の体力があれば大丈夫です。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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写真では音楽隊が演奏していて
楽しそうにカモフラージュしていたらしい。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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最初にツアーガイドさんから説明があった。
ロシア人兵士の捕虜約1万人がアウシュビッツに
連れてこられたが数週間後には9000人が飢えと寒さと
疲労の為死んだそうである。
ここは巨大な精密で残酷な殺人工場であったのだ。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ナチスドイツの占領下のヨーロッパ中から連れてこられていた。
囚人、(政治的囚人も含めて)ロマ、ジプシー、
精神病者、障害者、同性愛者、ユダヤ人
ロシア人、など。
イギリスは占領されていなかったので
大丈夫みたいだ。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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多くの写真が陳列されている。
これらはナチスドイツが記録として
撮影されたものだという。
彼らの心も既に病んでんでいたのか?
または緩慢に死んで行ったのか?オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ドイツ人の個性である生真面目さで多くの記録が
整理され残されている。
「強さ」は時として悪魔の力で「暴虐さ」に
変化する。
フランクルは次のように言っている。
「われわれはこの地上には二つの人間の種類だけが存在する
のを学ぶのである。
すなわち品位ある善意の人間とそうではない人間との「種族」である。」
V.E.フランクル「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)
霜山 徳爾氏訳 みすず書房オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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列車から降ろされる囚人たち。
彼らは理想の国(大抵はカナダへ)に移住される
と騙され多くの手荷物を持っていた。
しかし、ここですべてが奪われ、ついには命まで
奪われることになった。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
英語ガイドがビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所)を
指し示している。
真ん中下がアウシュビッツ。
(アウシュヴィッツ第一強制収容所)の英語ツアーが
終わると
どこからバスに乗るか説明している。
行ける人だけ行くみたいだ。
私たちは早く帰りたいのでツアーの前に行ってしまった。
遅くなるほどバスが混雑するのではないかと思う。
英語ツアーは午前は満員で仕方なく
12:30を予約したのだ。
早めなら日本語ツアーも空いていたかもしれない。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
囚人たちが強制収容所に移された後に残された
食器類の山々々。
この食器を使って飲食をするご主人はここにはもう
誰もいない。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
殺された囚人たちの残された靴の山。
私はこの中に小さな子供たちの靴が無造作に
陳列されているのを見て膝の力が抜けて
ひざまつきそうになった。
もう「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と
こころの中で唱えながら手を合わせるしか他に
方法がない。
アウシュビッツ訪問後の約一か月後にあるサークルで
この時の印象を英語でスピーチした原稿をのせます。
この時の「想い」は今後も私の心の中で成長して行く
と思います。
2017年6月3日(土)夜 Message in Auschwitz
(There is a meaning in life)
I visited Auschwitz in Poland on 1st of May .
At first,I did not want to go there .
Because I know I have to see one of the most miserable
and cruel historical facts in Auschwitz.
I was scared to see those monuments.
But two books which I had read in my young days made me remind
I should go there and see what was happened in Auschwitz.
Those books are,
one is 「夜と霧」(Experiences in a Concentration Camp)
by Viktor E. Frankl
and other is
「死ぬ瞬間の子供たち」(Living with Death and Dying)
by Elisabeth K?・bler-Ross.
In the first book, it said that what helped Dr.Frankl to survive
in the cruel situations under the concentration camp was his strong
hope to see his wife again 、
In his book ,there is beautiful mental conversation between he and
a image of his wife.
Even though he knew that was a daydream in a cold winter morning,
it was so vivid that he was able to make a strong hope
in his inner mind. where nobody can touch.
He understood “Love is as strong as death”.
In the second book ,it explained a incident for Dr. K?・bler-Ross
to let her begin her study for the topic of Living with Death and Dying
was in visiting to one of notorious concentration camps in Poland
on summer in 1945,just after world war Ⅱ,
when she was 19 years old,just after the end of world war Ⅱ
The name of that concentration camp is “Majdanek”
There, it is said that more than 500,000 women and small children
were murdered in the gas chamber mercilessly and brutally.
When young Dr. K?・bler-Ross visited “Maidanek” she found countless
small pictures of butterflies drawn by small children on the wall
of” waiting room” to the gas chamber.
At first, she was not able to understand what is the meaning of
these butterflies.
But later, she was able to understand the meaning of
these illustration on the wall.
Those are symbolic message from children in gas chamber.
That is・・・,
Our body(that is cocoon)will be destroyed soon,
but from the destroyed body ,our spirit (that is butterfly)will
open out and it can fly freely and joyfully in another world’s
flower garden...
On 1st of May ,I visited Auschwitz with courage which these books
gave me.
But ,of course, the historical facts in Auschwitz was more miserable
and brutal than I imagined, it was beyond my perception.
Especially, when I saw a huge mountain of shoes of peoples who were
murdered just after arrived at Auschwitz,
and in them I found small tiny sized shoes of little children ,
and those are exhibited in the window just as they are only as objects
in Auschwitz’s history,
I got a strong shock of agony and sadness in front of them.
I was almost knelt down with losing power in my knees.
I lost my voice, I could not help just chanting in my mind
「南無阿弥陀仏、・・・」in front of them
More than 6 million people, young, old, men and women including
small children,
they were murdered in these concentration camps.
After coming out from the buildings of Auschwitz.,
My mind was exhausted completely and I did not want to talk anything.
What is the meaning of life under these tragic of history,
I questioned in my mind
Then, a puff of wind was blown on me.
I felt someone or something had whispered on my ears
in the gentle spring wind in Auschwitz.
It said, “You have responsibility to be happy for us.”
“By being happy for us, all of the people in this world can be happy .”
Yes, I replied, I have a responsibility to be happy for you.
This is the message in Auschwitz.
This is the meaning of life to visit to Auschwitz for me・・・・.
日本語の要約も掲載いたします。
「私がアウシュビッツで聞いたメッセージ」(人生には意味がある)
①今回の旅行でポーランドのアウシュビッツは行きたくありませんでした。
②しかし、私の読んできた本たちが行くべきだと気づかせてくれたのです。
それはフランクルの「夜と霧」とキュブラーロスの「子供たちの死の瞬間」です。
③「夜と霧」では強制収容所の悲惨な環境下でフランクルに生き残る希望を与えた のは愛する妻への「会いたい」という強い希望でした。
彼は冬の早朝の過酷な行進の中に白昼夢として妻とあたかも現実のように会話し
お互いの深い愛情を感じ彼の内なる心に生き残る希望を見つけることができたのです。
「子供たちの死の瞬間」ではキュブラーロス博士が「死の瞬間」を研究するきっかけとなったメーダック強制収容所の壁に書き残された子供たちの無数の蝶の絵の意味でした。
それは間もなくガス室で殺される子供たちが象徴的な言語で死後の世界を理解していることを示していました。
つまり繭(肉体)は破壊されるかもしれないが、繭が壊れた後には中から自由な蝶(魂)が解き放たれるということを言葉ではなく無意識からのメッセージとして理解し、蝶の絵を収容所の壁に書き残したものでありました。
④私はこの歴史的事実を見過ごすことはできないという決意で、勇気をもってアウシュビッツを訪問しました。
強制収容所に残された歴史的事実は私の想像をはるかに超える悲惨な記録でした。
特にアウシュビッツに到着して間もなくガス室で殺された囚人たちの履いていた靴が山のように積み上げられている所に来たとき、そしてその中に2~3歳の子供用の靴が無造作に陳列されているのを見た時、私はショックと悲しさで膝の力が抜けて座り込みそうになってしまいました。
ただ、ただ「南無阿弥陀仏・・・。」と口の中で唱えるしかできませんでした。
⑤アウシュビッツの見学が終わり収容所の外に出てきた我々は精神的に疲れ果て口数も少なくなっていました。ここでの体験の意味は何だろう?
人生で起きることには必ず意味があると聞いたことが有りますが、
強制収容所で600万人の老若男女が無慈悲に殺されたのです。
そしてその代わりとして春の暖かい日差しの中で私たちは生きている。
「君たちは僕たちの代りに幸せになる責任がある!」
「私たちの代りに君たち一人一人が幸せになることで世界の人たちも幸せになることができると思うよ。」
そのようなメッセージをアウシュビッツの春のそよ風の中に彼等の「ささやき」として聞いたような気がしました。
そう。私たちには「幸せになる責任」があるのです。
「幸せになる責任」、これが私のアウシュビッツで聞いたメッセージです。
以上です。
春の風/沓(くつ)卒塔婆に/掌(て)を合わす(tomo作)
2022年10月8日早朝1:00に夢の中で微睡みながらこの一句
が頭の中に浮かんできました。
今後、ブログを読み返しながら俳句を作ることも面白いかも
しれません。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
ダスティンホフマン主演の
「マラソンマン」を見たが
腕に囚人番号を刺青(烙印?)
されている元囚人たちが描か
れていた。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
実際の囚人服も展示されていたが
汗、下呂、糞尿まみれだったと言っていた。
これは辛うじて生き残った子供たちの写真。
しかしガイドさんの説明では既に精神的に大きな
障害を受けており、日常生活に戻れる子供は少なかった
とのことだ。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
糞尿で汚れたわらが敷いてあるのが
せいぜいだった。
何人も同じベッドで寝ていたとのこと。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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この建物の前で首をつって何人もの囚人が
自殺していたらしい。
「自殺の試みがなされた場合、その当人を救おうとする
ことは収容所では厳禁されていた。
たとえば首を吊っている所を発見された仲間の「紐を切る」
ことは収容所の規則で禁ぜられていたのである。」
V.E.フランクル「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)
霜山 徳爾氏訳 みすず書房オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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死体の焼却場。
残った灰は肥料にしていた。
最後は処理が間にあわなくて
灰は近くの川に流していたらしい。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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最後、中央の緑の屋根の所にイヤホーンなどを
返却して手前の入口の方にでてくる。
生きてこの世に生還したような気持がする。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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展示板の向こうは入口。
見学後は私の体が一回り小さくなった
ような気持がした。
覚悟はしていたが強烈なショックを
受けている。
夫はポーランドのアウシュビッツ強制収容所を
訪問することはここでユダヤ人が300万人(総計600万人)
も殺されている悲惨なところなので行きたくないと言って
いた。
それは私も了解して本当は行かないはずであった。
でもある本をもう一度読んで行く気になったみたい。
高校生の時に読んで印象に残った本らしい。
本の名前は「夜と霧」。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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5カ国の旅で寒くて唯一ダウンジャケットを着た。
ツアーに小さな子供まで連れてくる家族があり
情操教育上良くないのではと心配になった。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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○イタリア人夫婦との束の間の出逢いに心が救われた
(夫からの報告)
前日(4月30日)にOswiencim(アウシュビッツの正式名)行き
のバスチケットをクラクフ駅の横にあるMDAバスターミナルの
チケット売り場で購入した。
5月1日は8:40に出発のバスだったので10時前にアウシュビッツに
到着した。
アウシュビッツ強制収容所内の見学ツアー(英語)は12:30からスタート
であったので時間を有効活用して
アウシュビッツ第2収容所(ベルケナウ収容所)
を訪問することにしていた。
バス停に到着し乗客が降車すると周りに
待機していたタクシーのドライバーが勧誘してきた。
ベルケナウ収容所までは無料のバスが
15分間隔でやってくるのでよほど急いでいるか、
バスが満員にならない限りタクシーを利用することはない。
私がタクシーのドライバーに断ろうとすると
隣にいた初老のご夫婦のご主人が何か
声をかけてドライバーを断ってくれた。
そして我々の方に向いて
「無料のバスが来るのでそれに乗ったらいいよ。」と
言ってくれた。
英語になまりがあったので
「私たちは日本から来ました。」と伝えると
「私たちはイタリアからです。
私たちの街には日本の学生さんたちがたくさんいますよ。
学校で音楽の勉強をしています。」と
ニッコリと笑顔を見せて答えてくれた。
親日派のイタリア人の様だ。
フランスとの国境近くにある町から来たとのことである。
奥様も少し英語が話せたので
あいさつ程度の話をしてその場は分かれた。
私はイタリア語は「ボンジョールノ(おはよう)」、
「グラッツェ(ありがとう)」、
「プレーゴ(どういたしまして)」程度しか話せない。
イタリア語ももう少し勉強しておけばと思った。
(しかしスペイン語で話すとイタリア人は半分は理解して
くれるようだ)
その後、アウシュビッツ強制収容所の見学ツアーが
終わって帰りのバスに乗ろうと思って
バス停まで来ると、
なんとあのイタリア人ご夫婦がベンチに座って
我々の方に向かって手を振っているではないか。
ご縁のある方には何度も会うものだと思い
二組の夫婦は同じベンチに座って旅の話や情報交換を行った。
しばらくするとご主人が
「記念に私たちの写真を撮っても良いか。」と
いうので喜んでと答えた。
次は我々の番でお二人の写真を撮らせてもらうことになった。
カメラ目で見ても感じの良いさわやかなご夫婦だ。
突然、私の頭に「ジュリエットからの手紙」の映画で見たシーンと
その時使われたイタリア語が蘇ってきた。
長い年月を経て再会した昔の恋人たちどうしの会話。
今は年老いた昔の恋人が、
これも今は初老になって彼の前で不安な様子の彼女に向かって
「ベラ、ラガッサ(Bella ragazza“美しい娘だね”)」と言いながら
頬をなでるという素敵な場面が浮かんできたのだ。
私が写真を撮りながら奥様に向かって「ベラ、ラガッサ!(別嬪さんだね!)」
と声をかけるとご主人から「You are so kind!(やさしいね!).
Your wife is also beautiful(君の奥さんも別嬪さんだよ)」
というエールが帰ってきた。
スペイン語で「ピロポ」といって街の通りで
素敵な女性に出逢うと軽く「ほめ言葉」の声をかける習慣
があるが私は正直な気持ちでこの言葉を奥さまに使った。
何気ない言葉のやり取りであったがそれまで
アウシュビッツ強制収容所で受けた
辛く悲しい雰囲気が消えてゆくような気持がした。
イタリア人と日本人の初老のカップルどうしが
時間と空間を超えてお互いに仲良く旅をすること
ができる幸せを確認できたことは貴重な思いでとなった。
別れの時には彼等とは頬に軽くキスをするイタリア式
あいさつで別れた。
私はこのイタリア人式あいさつは緊張するのか不得意だ。
特に相手が女性だと
体が硬くなって更にぎこちなくなる。
その時も奥様の頬へのキッスがぎこちなくなり
もう少しで奥様の唇に直接キスを
しそうになってあわててしまった。
奥様の薔薇の唇に接吻してしまうところだった。
これからは時間があるときに
家内と練習してもう少しスマートに行えるよう
練習してみたい。
でも家内から必要性が低いのであなたとは練習しない
と言われそうだ。
「チャオ(Ciao)!」
「さようなら、アッリヴェデルチ(Arrivederci)!」
イタリア人夫婦はさわやかな風を残して去って行った。
さようなら、アウシュビッツ。
追伸
今年の1月にポルトガルのポルトを訪問した時に
イタリア人の夫婦がホテルまでの
道順がわからなくて困っていたので教えて差し上げた。
(なんで同じ外国人の私たちが道を教えてあげられたのか不思議だ?)
この時、彼らはイタリア語しかできなかったので苦労してしまった。
イタリア人にはご縁があるのかもしれない。
次回の旅までにもう少しイタリア語を勉強しておこう。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ご主人からエールの交換で
別嬪さんだねと言われたが見せられる顔では
ないので隠させて頂いた。
ご主人から頬にキスをされたがリードが
上手なので私は大丈夫だった。
ところでご主人はキャノン製の良いカメラを
持っている。
(日本製のカメラが好きだと言っていた)
水中でも使えるそうで今でもご夫婦で地中海の
海中ダイビングで撮影を楽しんでいるとのことで
ある。
人生の楽しみ方を知っている達人夫婦だと思う。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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