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福岡をはじめ、長崎、熊本と佐賀の九州西北部四県のお城巡りです。日本百名城の6か城のほか、雲仙温泉の宿にも泊まりました。亡くなった父からは、平戸藩や玄界灘の話を、母や祖母からは旧隈本城や城村城の話を聞いて育ちました。

2017春、九州西北の名城(2/35):3月29日(2):福岡城(2/6):天守台、埋門、二の丸

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2017/03/29 - 2017/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

福岡をはじめ、長崎、熊本と佐賀の九州西北部四県のお城巡りです。日本百名城の6か城のほか、雲仙温泉の宿にも泊まりました。亡くなった父からは、平戸藩や玄界灘の話を、母や祖母からは旧隈本城や城村城の話を聞いて育ちました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 中央、やや右寄りに見られる石垣の間の狭い通路は、『埋門(うづみもん)』です。通常は、土塁で築かれることが多い門のようです。修復された跡が見てとれる石垣でした。観光用の登り口が右手にありました。(ウィキペディア)<br />

    中央、やや右寄りに見られる石垣の間の狭い通路は、『埋門(うづみもん)』です。通常は、土塁で築かれることが多い門のようです。修復された跡が見てとれる石垣でした。観光用の登り口が右手にありました。(ウィキペディア)

  • 天守台跡の石垣か、その周りの櫓が置かれていた石垣の光景です。福岡城の天守閣を巡っては、その存在を巡って、今もホットな議論が続いているようです。後ほどその論争の概要を紹介します。(同上)

    イチオシ

    天守台跡の石垣か、その周りの櫓が置かれていた石垣の光景です。福岡城の天守閣を巡っては、その存在を巡って、今もホットな議論が続いているようです。後ほどその論争の概要を紹介します。(同上)

  • 福岡城址の本丸跡から眺めた、城址と博多市街の眺望です。1600年の関ヶ原の戦いの後、黒田孝高(官兵衛、如水)の息子の黒田長政が、筑前国50万余石(後に52万余石)を徳川氏から与えられますと、既に隠居していた如水も、長政とともに筑前(福岡)に移りました。(同上)

    福岡城址の本丸跡から眺めた、城址と博多市街の眺望です。1600年の関ヶ原の戦いの後、黒田孝高(官兵衛、如水)の息子の黒田長政が、筑前国50万余石(後に52万余石)を徳川氏から与えられますと、既に隠居していた如水も、長政とともに筑前(福岡)に移りました。(同上)

  • 黒田城址の本丸跡からの眺めが続きます。築城の名手といわれた如水は、福岡城の築城にも関わり、この黒田親子によって、城下町『福岡』と、古くからの商人の町『博多』という、現在の福岡市に通じる双子の街が始まりました。眼下の城内には、建物の姿こそないものの、かつての福岡城址を偲ばせる石垣が、保存状態が良い状態で残されていました。(同上)

    黒田城址の本丸跡からの眺めが続きます。築城の名手といわれた如水は、福岡城の築城にも関わり、この黒田親子によって、城下町『福岡』と、古くからの商人の町『博多』という、現在の福岡市に通じる双子の街が始まりました。眼下の城内には、建物の姿こそないものの、かつての福岡城址を偲ばせる石垣が、保存状態が良い状態で残されていました。(同上)

  • 前方に見えるのが天守台跡の石垣です。直前に見える金属手摺りの部分が、見学用に架けられた、埋門の上の通路用の橋です。かつての建物は存在しませんが、その威容を偲ばせるのに十分な、天守台の石垣光景です。(同上)

    前方に見えるのが天守台跡の石垣です。直前に見える金属手摺りの部分が、見学用に架けられた、埋門の上の通路用の橋です。かつての建物は存在しませんが、その威容を偲ばせるのに十分な、天守台の石垣光景です。(同上)

  • 『大天守台跡』の石標の横に置かれていた、イベント用らしい丸い竹籠の光景です。その周りに見える飛び石の様な平らな敷石は、天守台の礎石とも言われているようです。全部で42個あります。この後は、左手に見える階段を上って、石垣の上からの眺めです。(同上)

    イチオシ

    『大天守台跡』の石標の横に置かれていた、イベント用らしい丸い竹籠の光景です。その周りに見える飛び石の様な平らな敷石は、天守台の礎石とも言われているようです。全部で42個あります。この後は、左手に見える階段を上って、石垣の上からの眺めです。(同上)

  • 天守台の石垣の上からの眺めです。福岡城址と、その先に見える博多市街の光景です。博多市街と呼ぶか、福岡市街と呼ぶか迷うところですが、博多市街の呼び名を使うことにします。(同上)

    天守台の石垣の上からの眺めです。福岡城址と、その先に見える博多市街の光景です。博多市街と呼ぶか、福岡市街と呼ぶか迷うところですが、博多市街の呼び名を使うことにします。(同上)

  • 天守台の石垣の上からの眺めが続きます。今でも遠くが見渡せますが、高層ビルがなかった時代には、本当に見晴らしがよかったものと推察されます。福岡の名前は、関ヶ原の戦い以降の黒田家に因みますが、博多の呼び名は、『続日本記(759年)』の中に、『博多大津』という記述があるようです。(同上)

    天守台の石垣の上からの眺めが続きます。今でも遠くが見渡せますが、高層ビルがなかった時代には、本当に見晴らしがよかったものと推察されます。福岡の名前は、関ヶ原の戦い以降の黒田家に因みますが、博多の呼び名は、『続日本記(759年)』の中に、『博多大津』という記述があるようです。(同上)

  • 先ほど紹介した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書です。百済王国の血を引く、菅野真道らが延暦16年(797年)に完成しました。舎人親王らの撰で、奈良時代の養老4年(720年)に完成した『日本書紀(にほんしょき)』に続く六国史の第二にあたります。『六国史(りっこくし)』は、古代日本の律令国家が編纂した六つの一連の正史です。(同上)

    先ほど紹介した『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書です。百済王国の血を引く、菅野真道らが延暦16年(797年)に完成しました。舎人親王らの撰で、奈良時代の養老4年(720年)に完成した『日本書紀(にほんしょき)』に続く六国史の第二にあたります。『六国史(りっこくし)』は、古代日本の律令国家が編纂した六つの一連の正史です。(同上)

  • 天守台跡の石垣の上から見下ろした、眼下の城址光景です。花見用の大きなブルーシートが張られ、既にその道具類も並べられていました。残念なのは、桜の開花がまだなことでした。(同上)

    天守台跡の石垣の上から見下ろした、眼下の城址光景です。花見用の大きなブルーシートが張られ、既にその道具類も並べられていました。残念なのは、桜の開花がまだなことでした。(同上)

  • 『福岡城物語・福岡城天守台跡』のタイトルの説明パネルの光景です。通説とされてきた『福岡城には天守閣がなかった』とする根拠は、『正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかった』、とするものです。(同上)

    『福岡城物語・福岡城天守台跡』のタイトルの説明パネルの光景です。通説とされてきた『福岡城には天守閣がなかった』とする根拠は、『正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかった』、とするものです。(同上)

  • 『天守があった可能性』が示されている根拠は、近年になって、当時、豊前国小倉藩主であった細川忠興公が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙の存在です。この手紙には、『黒田長政が幕府に配慮し、天守を取り壊すと語った』、と天守の存在を窺わせる記述があるようです。(同上)

    『天守があった可能性』が示されている根拠は、近年になって、当時、豊前国小倉藩主であった細川忠興公が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙の存在です。この手紙には、『黒田長政が幕府に配慮し、天守を取り壊すと語った』、と天守の存在を窺わせる記述があるようです。(同上)

  • 黒田長政公が、天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されていた時期に当たります。天守を解体し、築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も出ているようです。徳川家による大阪城の再建は、元和5年(1619年)に大坂が幕府直轄領となり、翌6年(1620年)2代将軍の徳川秀忠により始まりました。(同上)

    黒田長政公が、天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されていた時期に当たります。天守を解体し、築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も出ているようです。徳川家による大阪城の再建は、元和5年(1619年)に大坂が幕府直轄領となり、翌6年(1620年)2代将軍の徳川秀忠により始まりました。(同上)

  • 大阪城は、3期に渡る工事を経て、3代将軍の家光の時に完成しました。大天守台跡には、東西6列、南北9列の礎石列があり、42個の礎石が残されています。天守閣があったことの傍証になりそうですが、天守閣以外の別の建物の礎石との異論もあるようです。天守閣が存在したと仮定しますと、天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推測されます。(同上)

    大阪城は、3期に渡る工事を経て、3代将軍の家光の時に完成しました。大天守台跡には、東西6列、南北9列の礎石列があり、42個の礎石が残されています。天守閣があったことの傍証になりそうですが、天守閣以外の別の建物の礎石との異論もあるようです。天守閣が存在したと仮定しますと、天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推測されます。(同上)

  • 『福岡城に天守閣はなかった』とする説は、細川忠興公の手紙が見付かった後には、『福岡城には大天守台に乗るはずだった五層規模の天守は建てられなかった。しかし初期には中天守が、後期には天守櫓曲輪が天守の機能をはたした。中天守台は当初は本丸南曲輪への入口門と、それにつながる櫓・塀を建てる予定だった』、と主張します。(同上)

    『福岡城に天守閣はなかった』とする説は、細川忠興公の手紙が見付かった後には、『福岡城には大天守台に乗るはずだった五層規模の天守は建てられなかった。しかし初期には中天守が、後期には天守櫓曲輪が天守の機能をはたした。中天守台は当初は本丸南曲輪への入口門と、それにつながる櫓・塀を建てる予定だった』、と主張します。(同上)

  • 『福岡城に天守閣はなかった』とする説では、さらに『設計変更によって、外観三層、実質二層の中天守が建った。堅牢な建物となり、天守の機能を担うことができた』、と改めて従来説を補強していました。天守台から眺めた、1993年に開場したヤフオクドームの遠望です。ヤフーが命名権を取得し、2013年に『福岡 ヤフオク!ドーム』通称『ヤフオクドーム』としました。(同上)

    『福岡城に天守閣はなかった』とする説では、さらに『設計変更によって、外観三層、実質二層の中天守が建った。堅牢な建物となり、天守の機能を担うことができた』、と改めて従来説を補強していました。天守台から眺めた、1993年に開場したヤフオクドームの遠望です。ヤフーが命名権を取得し、2013年に『福岡 ヤフオク!ドーム』通称『ヤフオクドーム』としました。(同上)

  • ところで、通説とされる『福岡城に天守閣はなかった』とする説と、『福岡城には、かつて天守閣があったものの、取り壊された』とする説とは、決め手となる物証がないため、なかなか決着がつかない論争にも思えます。写真は、天守台に登る前にも紹介した『埋門(うずみもん)』の光景です。現在は、この石垣の上に、観光用の通路の橋が架けられていました。(同上)

    ところで、通説とされる『福岡城に天守閣はなかった』とする説と、『福岡城には、かつて天守閣があったものの、取り壊された』とする説とは、決め手となる物証がないため、なかなか決着がつかない論争にも思えます。写真は、天守台に登る前にも紹介した『埋門(うずみもん)』の光景です。現在は、この石垣の上に、観光用の通路の橋が架けられていました。(同上)

  • 『埋門(うずみもん)』を通り抜けた、左手方面の石垣光景です。築城当時ですと考えられないことですが、石垣の脇の杉か桧の様な樹が、石垣よりも高い大木に育っていました。(同上)<br /><br />

    『埋門(うずみもん)』を通り抜けた、左手方面の石垣光景です。築城当時ですと考えられないことですが、石垣の脇の杉か桧の様な樹が、石垣よりも高い大木に育っていました。(同上)

  • 野面積と打ち込み接ぎの中間にも見える石垣のズームアップ光景です。大きな石の間に小さな石がたくさん詰め込まれ、大きな石は比較的表面が平らになっていました。どちらかといえば、打ち込み接ぎの石垣のようです。(同上)

    野面積と打ち込み接ぎの中間にも見える石垣のズームアップ光景です。大きな石の間に小さな石がたくさん詰め込まれ、大きな石は比較的表面が平らになっていました。どちらかといえば、打ち込み接ぎの石垣のようです。(同上)

  • 暫くは、福岡城の見所の一つ、石垣光景が続きます。福岡城は、幅50メートルを超える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などが囲まれ、中枢部は総石垣造りの城でした。黒田官兵衛は築城の名手でしたから、中津城や福岡城のほか、大坂城、讃岐高松城、名護屋城、広島城などの縄張りなどにも助言を与えたとされます。(同上)

    暫くは、福岡城の見所の一つ、石垣光景が続きます。福岡城は、幅50メートルを超える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などが囲まれ、中枢部は総石垣造りの城でした。黒田官兵衛は築城の名手でしたから、中津城や福岡城のほか、大坂城、讃岐高松城、名護屋城、広島城などの縄張りなどにも助言を与えたとされます。(同上)

  • この辺りの石垣は、野面積のイメージが強いようです。『野面積(のづらづみ)』は、自然石を加工せずにそのまま積み上げる方法です。敵に登られやすい欠点がありましたが、排水性に優れており頑丈な石積法です。(同上)

    この辺りの石垣は、野面積のイメージが強いようです。『野面積(のづらづみ)』は、自然石を加工せずにそのまま積み上げる方法です。敵に登られやすい欠点がありましたが、排水性に優れており頑丈な石積法です。(同上)

  • 加工された表面が揃えられ、『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』のイメージが強い部分が見られる石垣の光景です。関ヶ原の戦い以後、この手法が盛んに用いられました。野面積みより高く、急な勾配が可能になります。(同上)

    加工された表面が揃えられ、『打込み接ぎ(うちこみはぎ)』のイメージが強い部分が見られる石垣の光景です。関ヶ原の戦い以後、この手法が盛んに用いられました。野面積みより高く、急な勾配が可能になります。(同上)

  • 両側から迫った高石垣と、その間を通る石畳の通路の光景です。途中で、補修がされたのかも知れませんが、上々の保存状態の石垣と石畳でした。加藤清正公が、福岡城を堅城と評価したのは、このような造りにもあったかも知れません。(同上)

    両側から迫った高石垣と、その間を通る石畳の通路の光景です。途中で、補修がされたのかも知れませんが、上々の保存状態の石垣と石畳でした。加藤清正公が、福岡城を堅城と評価したのは、このような造りにもあったかも知れません。(同上)

  • 右側は、石垣のコーナー部分のズームアップ光景です。加工された立派な石が使われた算木積でした。『算木積(さんぎづみ)』は、外観による石積の分類の一つで、慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、多くの城郭の石垣に見られるようになりました。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増しています。(同上)

    右側は、石垣のコーナー部分のズームアップ光景です。加工された立派な石が使われた算木積でした。『算木積(さんぎづみ)』は、外観による石積の分類の一つで、慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、多くの城郭の石垣に見られるようになりました。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増しています。(同上)

  • 先程から見学しているのは、本丸を取り囲む、二の丸エリアのようでした。その開けた場所の光景です。福岡城址の石垣の総延長は、3キロを超え、高さが10メートルを超えるところもあります。石材は、主に花崗岩とされます。(同上)

    先程から見学しているのは、本丸を取り囲む、二の丸エリアのようでした。その開けた場所の光景です。福岡城址の石垣の総延長は、3キロを超え、高さが10メートルを超えるところもあります。石材は、主に花崗岩とされます。(同上)

  • 福岡城址の二の丸と、その周りの石垣光景です。城の縄張りに特に心血が注がれた、梯郭式平山城で、本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配されています。47の櫓が配置され、縄張りの範囲は8万坪ある、九州一の巨城でした。(同上)

    福岡城址の二の丸と、その周りの石垣光景です。城の縄張りに特に心血が注がれた、梯郭式平山城で、本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配されています。47の櫓が配置され、縄張りの範囲は8万坪ある、九州一の巨城でした。(同上)

  • 『福岡城物語・二の丸』のタイトルがあった説明パネルの光景です。このパネルが建った現在地は二の丸の西側に当たり、裏御門から本丸か、南下して多門櫓に向かう分岐点と説明されていました。桜の花にまつわるエピソードも紹介されていました。(同上)

    『福岡城物語・二の丸』のタイトルがあった説明パネルの光景です。このパネルが建った現在地は二の丸の西側に当たり、裏御門から本丸か、南下して多門櫓に向かう分岐点と説明されていました。桜の花にまつわるエピソードも紹介されていました。(同上)

  • 一分咲ほどの桜の枝先のズームアップ光景です。染井吉野ではなく、八重紅枝垂れか、一重の紅枝垂れ桜の花のようでした。(同上)

    イチオシ

    一分咲ほどの桜の枝先のズームアップ光景です。染井吉野ではなく、八重紅枝垂れか、一重の紅枝垂れ桜の花のようでした。(同上)

  • 2014年(平成26年)にNHK大河ドラマで放映された、『軍師官兵衛』の宣伝を兼ねた案内看板の光景です。官兵衛は、播磨姫路城主・黒田氏の嫡男で、豊臣政権においては豊前国中津を治めた大名です。軍師としても名を残しました。(同上)

    2014年(平成26年)にNHK大河ドラマで放映された、『軍師官兵衛』の宣伝を兼ねた案内看板の光景です。官兵衛は、播磨姫路城主・黒田氏の嫡男で、豊臣政権においては豊前国中津を治めた大名です。軍師としても名を残しました。(同上)

  • 小さな小屋の近くに建てられていた宣伝看板の光景です。有料で観覧できる、多門櫓のライトアップの案内が記されていました。(同上)

    小さな小屋の近くに建てられていた宣伝看板の光景です。有料で観覧できる、多門櫓のライトアップの案内が記されていました。(同上)

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