2016/11/24 - 2016/11/25
43位(同エリア199件中)
元カニ族さん
2016年11月24・25日、大学の同期会を浜名湖の「ホテルウエルシーズン浜名湖」で行いました。
浜名湖の北には、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台になる「井伊谷(いいのや)」があり、井伊家の菩提寺「龍潭寺」があります。その先の「奥山」には、井伊家と縁のある「方広寺」があります。同期会の観光組は、これらの寺を訪れました。
また龍潭寺と方広寺の中間にある竜ケ岩洞(りゅうがしどう)も訪れました。
下写真はまず訪れた「龍潭寺」の山門です。
この寺と、うり二つの「龍潭寺」が、滋賀県彦根市にもあります。
それは、井伊家中興の祖と言われる「井伊直政」(ドラマでは虎松)が関ヶ原の功績で、家康から石田三成の近江佐和山18万石を拝領し、佐和山城に移りました。しかし戦で受けた銃創から敗血症を併発し床にふせるようになり、死期を悟った直政は、郷里である井伊谷に帰れないことを悔やみ、彦根にも井伊谷と同じ龍潭寺を建立することを遺言とした、といわれています。
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
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浜名湖畔と、井伊谷、竜ケ岩洞、奥山方広寺の地図です。
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ここで井伊家と領民を守った女城主「井伊直虎」について説明します。
「井伊直虎」は井伊谷城主である「22代直盛」の一人娘として誕生しました。直盛には男児がなかったので、従兄弟の「亀之丞(23代直親)」を娘婿として家督を継がせる予定でした。ところが、直親の父親が今川義元に殺され、直親も命を狙われ信州に身を隠しました。幼き直虎は、直親が死んだと思い、出家して「次郎法師」と名乗り、生涯未婚を通すことにしました。
その後信州に逃れていた「直親」は、成人し井伊谷に戻ってきました。しかし直虎の父「直盛」が桶狭間で戦死し、直親も今川氏真に殺害され、井伊家は存続の危機に直面しました。ここで龍潭寺の南渓和尚の計らいで、次郎法師が、許嫁だった「直親」と奥山印旛守朝利の女との間に生まれていた5歳の虎松(24代直政)の後見人となって井伊家を支えました。15歳に成長した直政は、浜松城の徳川家康に仕え、後に初代彦根藩主となり井伊家の再興を果たしました。 -
私たちは、龍潭寺の山門をくぐって、下写真の庫裏に向かいました。
龍潭寺 寺・神社・教会
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庫裏の入り口です。
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庫裏に続く「本堂」です。
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本堂から見た山門です。
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本堂の庭は、小堀遠州が造った見事な池泉式庭園です。
龍潭寺庭園 寺・神社・教会
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本堂の庭です。
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本堂の庭です。
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写真は本堂にある「丈六に大仏」です。
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NHK大河ドラマの舞台となるだけに、早くも多くの観光客が押し寄せていました。
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本堂に続いて「井伊家霊殿」がありました。
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井伊家の家系図も架けてありました。
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扉は閉まっていましたが、ガラス越しにのぞくと、正面に元祖共保、22代直盛、24代直政の木像が安置されていました。
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両側には、歴代の当主の位牌が並んでいました。
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本堂にある左甚五郎作の「龍の彫物」です
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開山堂にある「黙宗瑞淵禅師」の像です。龍潭寺の歴史は古く、奈良時代に行基菩薩が開創したと伝えられていますが、室町時代20代井伊直平が彼に帰依して新に龍潭寺を開いたとされています。
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竜ケ岩洞(りゅうがしどう)は、龍潭寺と方広寺の丁度中間にあります。東海地方最大規模の鍾乳洞ですが、ほとんど知られていません。というのもこの洞窟が発見されたのはごく最近で、一般に公開されたのは1983年10月です。
当初、ここには小さな洞穴があり、その奥まったところに幅50cm高さ10cmの小さな窓があって、そこから風が吹き出していました。地主の戸田貞雄さんが1981年6月から、一輪車で粘土を運び出し整備を進めていると、2人の愛好家が協力を申し出て、3人で手掘りで拡張作業を進めました。そしてこの小さな窓を通り抜けて、その奥の黄金の鍾乳洞を発見し、さらに掘り進んでいきました。2年半の歳月をかけて整備し、1983年10月全洞一般公開となりました。その後の調査で総延長は約1,000mあることがわかりましたが、一般公開は400mです。
竜ヶ岩洞 自然・景勝地
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洞窟に入る前の記念撮影です。
竜ヶ岩洞 自然・景勝地
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洞内に入っていきました。通路はよく整備されていました
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「仁王門」です。「頭上注意」と大きく書かれていました。
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照明に照らされた岩肌を見ながら進んでいきました。
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「大広間」に到着しました。
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さらに進むと、岩の間に「マリア観音」が見えました。
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「慈母観音」が岩の上に見えました。
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通路の脇に「天恵の泉」が流れ落ちていました。
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岩の間に「長寿の泉」が湧き出ていました。
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最大の見もの!道内の大空間にしぶきをあげて落ちる「黄金の大滝」です。階段を下りながら見ることが出来ますが、近くて写真がうまく取れません。
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澄み切った水が湧き出る「水神様」
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「鳳凰の間」の黄金の壁と天井です。
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「シャンデリアの間」です。シャンデリアのような鍾乳石が垂れ下がっています。
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岩の上に「黄金の富士」が、見えました。
私は、1998年に家族と浜名湖を訪れた時、龍潭寺を観光し、この「竜ケ岩洞」も訪れました。浜松在住の知人に教えてもらって「竜ケ岩洞」を訪れたのでしたが、当時はまだ開発されたばかりで、通路は今ほど整備されていませんでした。あれから18年!すっかり整備されていました。2017年はNHK大河ドラマで、多くの人が押し寄せることと思います。 -
「竜ケ岩洞」の観光を終えて、奥山の「方広寺」に向かいました。バスが駐車所に着き、降りると綺麗な三重の塔があり、ここで記念撮影です。
方広寺(奥山半僧坊) 寺・神社・教会
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駐車場から方広寺の寺全体を見下ろすことが出来ました。この寺は1371年、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開創されたものです。
方広寺(奥山半僧坊) 寺・神社・教会
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坂を下っていくと、大きな「本堂」がありました。
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本堂です。
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本堂の前に「鐘楼」がありました。
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本堂の横の拝観入口から本堂に入っていきました。
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本堂の裏に「羅漢の庭」があり、信者の奉納した羅漢が並んでいました。
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向拝に工匠岩五郎作の一木彫の登り龍下り龍がありました。
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本堂で住職の説明を聞きました。最初の系図の通り、井伊直政の生母はここ奥山の人です。NHK大河ドラマの撮影がここ方広寺でも行われ、住職の子息も出演したと、うれしそうに話していました。
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龍潭寺、竜ケ岩洞、方広寺を観光し、浜松駅にて解散した後、私は友人と「浜松城」に向かいました。
浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城で、徳川家康は元亀元年(1570年)に岡崎城を嫡男・信康に譲り、武田信玄の侵攻に備えるため三河国岡崎から遠江国曳馬(後に引間に改名)へ移りました。その後、城を拡張・改修し天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に移りました。家康は浜松城に、29歳から45歳までの17年いたことになります。家康が天下を統一し駿府に移った後、浜松城は家康ゆかりの譜代大名が城主になりました。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれました。
下写真は、浜松城の入り口「天守門」です。浜松城 名所・史跡
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「天守門」に、ここから入りました。
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「天守閣」です。1958年(昭和33年)鉄筋コンクリート造で復元されました。3重4階で、内部は博物館になっていました
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石垣は、自然石を上下に組み合わせた「野面(のづら)積み」です。
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天守閣の最上階から見下ろした「天守門」です。
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天守閣から見渡した浜松の市街です。
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帰りは、裏側におりました。
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下りたところです。
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NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」にあやかって、浜松市は「井伊直虎 井の国」、「徳川家康 出世の街」をセットにしてPRに努めています。下図は浜松名産のうなぎを背負った「出世法師 直虎ちゃん」と、楽器の街ピアノを袴にした「出世大名 家康くん」です。
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