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名古屋市熱田区白鳥にある日蓮宗のお寺、妙光山・本遠寺(ほんのんじ)の紹介です。昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で、旧国宝の楼門を含む伽藍を焼失しました。本堂が再建されたのは昭和55年(1980年)です。

2015秋、本遠寺と西福寺(12/19):妙光山・本遠寺:境内入口の門柱、十七重石塔、法華堂

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2015/09/26 - 2015/10/09

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旅人のくまさん

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名古屋市熱田区白鳥にある日蓮宗のお寺、妙光山・本遠寺(ほんのんじ)の紹介です。昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で、旧国宝の楼門を含む伽藍を焼失しました。本堂が再建されたのは昭和55年(1980年)です。

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 妙光山・本遠寺(ほんのんじ)の出入口光景です。戦災で焼失した建物に、旧国宝の楼門と本堂がありましが、楼門は、この付近に立っていたような雰囲気でした。今は、左右に門柱が建つだけです。

    イチオシ

    妙光山・本遠寺(ほんのんじ)の出入口光景です。戦災で焼失した建物に、旧国宝の楼門と本堂がありましが、楼門は、この付近に立っていたような雰囲気でした。今は、左右に門柱が建つだけです。

  • 入口門の石柱のズームアップ光景です。左側の門柱には『本遠寺』の文字がありました。その横に『本遠寺(ほんのんじ)』と題された説明看板がありましたから、その概略を紹介しておきます。正安(1299~1302年)の頃、日蓮の孫弟子にあたる日澄が熱田神宮内にあった法華堂をこの地に移したのが始まりと紹介されていました。創建年については異説もあるようです。

    入口門の石柱のズームアップ光景です。左側の門柱には『本遠寺』の文字がありました。その横に『本遠寺(ほんのんじ)』と題された説明看板がありましたから、その概略を紹介しておきます。正安(1299~1302年)の頃、日蓮の孫弟子にあたる日澄が熱田神宮内にあった法華堂をこの地に移したのが始まりと紹介されていました。創建年については異説もあるようです。

  • 『本遠寺』の石標のズームアップ光景です。熱田神宮内にあった法華堂は、日蓮との関係もあります。1253年(建長5年)、是生房蓮長(後の日蓮)は比叡山遊学の帰り、伊勢神宮で立教改宗を祈願したのち熱田神宮に参拝し、境内の法華堂で法華経を読誦したと伝わります。

    『本遠寺』の石標のズームアップ光景です。熱田神宮内にあった法華堂は、日蓮との関係もあります。1253年(建長5年)、是生房蓮長(後の日蓮)は比叡山遊学の帰り、伊勢神宮で立教改宗を祈願したのち熱田神宮に参拝し、境内の法華堂で法華経を読誦したと伝わります。

  • 山号ではなく、『日蓮宗』の文字が記された入口右側の門柱のズームアップ光景です。日蓮宗のお寺では、山号の代わりに日蓮宗の表記をよく見掛けます。

    山号ではなく、『日蓮宗』の文字が記された入口右側の門柱のズームアップ光景です。日蓮宗のお寺では、山号の代わりに日蓮宗の表記をよく見掛けます。

  • 右手前が『法華堂』、左奥が『本遠寺・本堂』の建物光景です。この後、それぞれにもう少し詳しく説明します。

    イチオシ

    右手前が『法華堂』、左奥が『本遠寺・本堂』の建物光景です。この後、それぞれにもう少し詳しく説明します。

  • 『校歌』で始まる文字が刻まれた石塔の光景です。中央上部に記されているのは、桜の花の校章のようでした。校歌は、『恵み熱田の森かげに育つ若木の梅桜』で始まっていました。変体仮名交じりの校歌の紹介でした。

    『校歌』で始まる文字が刻まれた石塔の光景です。中央上部に記されているのは、桜の花の校章のようでした。校歌は、『恵み熱田の森かげに育つ若木の梅桜』で始まっていました。変体仮名交じりの校歌の紹介でした。

  • 『校歌』の石碑の基礎部分に掲示してあった説明プレートです。『名古屋市立第二高等女学校発祥の地』の文字が記されていました。名古屋市立第二高等女学校は、名古屋市昭和区広池町にある名古屋市立向陽高等学校に引継がれたようです。

    『校歌』の石碑の基礎部分に掲示してあった説明プレートです。『名古屋市立第二高等女学校発祥の地』の文字が記されていました。名古屋市立第二高等女学校は、名古屋市昭和区広池町にある名古屋市立向陽高等学校に引継がれたようです。

  • 『高村藤平之碑』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。白鳥付近の歴史を調べたネット情報に、『明治11年、高村藤平が代表となり、乗合馬車(定員6人)が経営され、神宮西門(当時は鎮皇門)から本町通りを大須まで運行された。』との記述がありましたが、ここに記され実業家高村藤平さんかも知れません。石碑が立てられているようで、『この馬車は、今の熊沢医院の前あたりから(現在写真のような石碑あり)大須観音へ向かっていた。』とも紹介されていました。

    『高村藤平之碑』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。白鳥付近の歴史を調べたネット情報に、『明治11年、高村藤平が代表となり、乗合馬車(定員6人)が経営され、神宮西門(当時は鎮皇門)から本町通りを大須まで運行された。』との記述がありましたが、ここに記され実業家高村藤平さんかも知れません。石碑が立てられているようで、『この馬車は、今の熊沢医院の前あたりから(現在写真のような石碑あり)大須観音へ向かっていた。』とも紹介されていました。

  • 多重石塔の光景です。何度か数えてみましたが、十六重でした。通常は奇数の糖に造られますので、十七重石塔当たりだったようです。ネット情報では、境内には室町時代の関等が残っているようですが、どの石塔かは、確認できませんでした。この石塔は、室町時代にしては新し過ぎます。

    多重石塔の光景です。何度か数えてみましたが、十六重でした。通常は奇数の糖に造られますので、十七重石塔当たりだったようです。ネット情報では、境内には室町時代の関等が残っているようですが、どの石塔かは、確認できませんでした。この石塔は、室町時代にしては新し過ぎます。

  • 振り返って眺めた正面入口方面の光景です。本堂や法華堂は再建されましたが、楼門は再建されることがなかったようです。春には、ソメイヨシノの見所になりそうな境内でした。

    振り返って眺めた正面入口方面の光景です。本堂や法華堂は再建されましたが、楼門は再建されることがなかったようです。春には、ソメイヨシノの見所になりそうな境内でした。

  • 震災後、境内に再建された建物の一つ、『法華堂』です。現在の法華堂は、本堂の再建に先立ち、昭和39年(1964年)に再建されました。流造りの向拝を持った造りでした。

    震災後、境内に再建された建物の一つ、『法華堂』です。現在の法華堂は、本堂の再建に先立ち、昭和39年(1964年)に再建されました。流造りの向拝を持った造りでした。

  • 流造りの屋根を支える柱に表示された文字の紹介です。『日蓮聖人御参籠之霊跡』の文字がありました。この法華堂が熱田神宮内にあった時の参籠を記したもののようでした。正面に向かって右側の向拝の柱です。

    流造りの屋根を支える柱に表示された文字の紹介です。『日蓮聖人御参籠之霊跡』の文字がありました。この法華堂が熱田神宮内にあった時の参籠を記したもののようでした。正面に向かって右側の向拝の柱です。

  • 左側の向拝の柱に記された文字の紹介です。『当国法華弘通根本霊場』の文字がありました。日蓮宗の大切な建物の事績を引継いでいるようでした。

    左側の向拝の柱に記された文字の紹介です。『当国法華弘通根本霊場』の文字がありました。日蓮宗の大切な建物の事績を引継いでいるようでした。

  • 蓮座の上に置かれた、丸みを帯びた縦長の石碑の光景です。『南無妙法蓮華経・日蓮』らしい文字がありました。『日蓮』の文字に花押風の重ね書きがありましたが、それは読み取れませんでした。

    蓮座の上に置かれた、丸みを帯びた縦長の石碑の光景です。『南無妙法蓮華経・日蓮』らしい文字がありました。『日蓮』の文字に花押風の重ね書きがありましたが、それは読み取れませんでした。

  • 金文字で記された、『法華堂』の扁額の光景です。妙光山・本遠寺(ほんのんじ)は、『熱田法華堂』の別名を持ちます。『法華経(ほけきょう、ほっけきょう)』は、初期大乗仏教経典の一つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』のサンスクリット語の漢訳とされます。その意味は、『正しい教えである白い蓮の花の経典』とされ、その名に因むお堂です。

    金文字で記された、『法華堂』の扁額の光景です。妙光山・本遠寺(ほんのんじ)は、『熱田法華堂』の別名を持ちます。『法華経(ほけきょう、ほっけきょう)』は、初期大乗仏教経典の一つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』のサンスクリット語の漢訳とされます。その意味は、『正しい教えである白い蓮の花の経典』とされ、その名に因むお堂です。

  • 『日蓮宗・日行寺』の表札が懸かっていた建物の光景です。塔頭(たっちゅう)の『玄収山・日行寺』のようです。末寺はこのお寺を含め、日光山最経寺(瑞穂区)、法龍山大乗寺(豊山町)、具徳山妙蔵寺(小牧市)など、旧末寺として10カ寺近くがあるようです。

    『日蓮宗・日行寺』の表札が懸かっていた建物の光景です。塔頭(たっちゅう)の『玄収山・日行寺』のようです。末寺はこのお寺を含め、日光山最経寺(瑞穂区)、法龍山大乗寺(豊山町)、具徳山妙蔵寺(小牧市)など、旧末寺として10カ寺近くがあるようです。

  • 緩やかな幅広い石段の先にあった本堂の光景です。石段には、途中に踊り場が1カ所設けられていました。左から枝垂れた樹木は、桜のようでした。

    緩やかな幅広い石段の先にあった本堂の光景です。石段には、途中に踊り場が1カ所設けられていました。左から枝垂れた樹木は、桜のようでした。

  • 石段を登った正面にあった、『本遠寺』の文字が記された扁額の光景です。戦災を受けたこの本堂が再建されたのは、昭和55年(1980年)とされます。鉄筋コンクリート造りの建物のようでした。

    石段を登った正面にあった、『本遠寺』の文字が記された扁額の光景です。戦災を受けたこの本堂が再建されたのは、昭和55年(1980年)とされます。鉄筋コンクリート造りの建物のようでした。

  • 境内の片隅にあった石標と、蓋が被せられた石造りの四角な井戸跡の光景です。石標には、150円を寄付された人の名前が記されていました。仮に大正時代の寄進の石標と仮定しますと、現在の価値では75万円ほどになりそうです。明治前期の1円は現在の2万円、明治後期で1万円、大正時代で5千円などの試算があるようです。

    境内の片隅にあった石標と、蓋が被せられた石造りの四角な井戸跡の光景です。石標には、150円を寄付された人の名前が記されていました。仮に大正時代の寄進の石標と仮定しますと、現在の価値では75万円ほどになりそうです。明治前期の1円は現在の2万円、明治後期で1万円、大正時代で5千円などの試算があるようです。

  • 戦災で焼失した、かつての堂宇で使われていた瓦屋鬼瓦の展示のようです。大小の鬼瓦や軒丸瓦、平瓦などが展示してありました。

    戦災で焼失した、かつての堂宇で使われていた瓦屋鬼瓦の展示のようです。大小の鬼瓦や軒丸瓦、平瓦などが展示してありました。

  • 『妙光山・本遠寺』の本堂の石段の下から眺めた、『法華堂』の側面光景です。『法華堂』は、日蓮宗を象徴する堂宇のようです。

    『妙光山・本遠寺』の本堂の石段の下から眺めた、『法華堂』の側面光景です。『法華堂』は、日蓮宗を象徴する堂宇のようです。

  • 先に紹介した井戸跡とは別の井戸跡のようでした。こちらにも、危険防止のために竹製の覆いが被せてありました。

    先に紹介した井戸跡とは別の井戸跡のようでした。こちらにも、危険防止のために竹製の覆いが被せてありました。

  • 振り返って眺めた境内光景です。右手前が『法華堂』、左奥が『本遠寺・本堂』の建物光景です。清州城から移築した書院も、この境内にあったようです。平成8年(1996年)に再建されたとの情報もありましたが、度の建物かは確認できませんでした。

    イチオシ

    振り返って眺めた境内光景です。右手前が『法華堂』、左奥が『本遠寺・本堂』の建物光景です。清州城から移築した書院も、この境内にあったようです。平成8年(1996年)に再建されたとの情報もありましたが、度の建物かは確認できませんでした。

  • 『日朝堂・日行寺』の表示があった掲示板の紹介です。『自覚」のタイトルでの教訓が手書きで記されていました。その内容は、『人はまず 生まれてきただけで 喜びを創出している芸術家である』でした。PL教団の『人生は芸術である』に似ているようでした。芸術家の岡本太郎さんは、『芸術は、人生は、爆発だ!』と喝破しました。

    『日朝堂・日行寺』の表示があった掲示板の紹介です。『自覚」のタイトルでの教訓が手書きで記されていました。その内容は、『人はまず 生まれてきただけで 喜びを創出している芸術家である』でした。PL教団の『人生は芸術である』に似ているようでした。芸術家の岡本太郎さんは、『芸術は、人生は、爆発だ!』と喝破しました。

  • 『玄収山』の金文字が記された扁額の光景です。『玄収山・日行寺』の扁額のようでした。妙光山本遠寺第15世の玄収院日行上人が、名古屋城に登城のための通い所として、昔の東区桜町3丁目に『玄収庵』を開設したことに始まるようです。先程の話題の続きです。芸術家の岡本太郎さんは、『芸術はきれいであってはならない、うまくあってはならない、心地良くあってはならない。しかし、美しくなければならない』とも述べています。(今日の芸術)

    『玄収山』の金文字が記された扁額の光景です。『玄収山・日行寺』の扁額のようでした。妙光山本遠寺第15世の玄収院日行上人が、名古屋城に登城のための通い所として、昔の東区桜町3丁目に『玄収庵』を開設したことに始まるようです。先程の話題の続きです。芸術家の岡本太郎さんは、『芸術はきれいであってはならない、うまくあってはならない、心地良くあってはならない。しかし、美しくなければならない』とも述べています。(今日の芸術)

  • 『玄収山・日行寺』の略縁起が記された石碑の光景です。『当寺ハ、元熱田本遠寺受持チノ大黒堂ナリ』と紹介されていました。昭和10年(1935年)、第37代常川日鼎上人が、隠棲した寺であることも紹介されていました。

    『玄収山・日行寺』の略縁起が記された石碑の光景です。『当寺ハ、元熱田本遠寺受持チノ大黒堂ナリ』と紹介されていました。昭和10年(1935年)、第37代常川日鼎上人が、隠棲した寺であることも紹介されていました。

  • 『日朝大上人』が祀られた小さなお堂の光景です。合唱をする姿にお座像でした。日朝上人は、行学院と号した身延山久遠寺の11世貰首です。応永29年(1422)伊豆の宇佐見に生まれた人です。

    『日朝大上人』が祀られた小さなお堂の光景です。合唱をする姿にお座像でした。日朝上人は、行学院と号した身延山久遠寺の11世貰首です。応永29年(1422)伊豆の宇佐見に生まれた人です。

  • 『尾張名所図会・法華堂・本遠寺』と題された新しい説明パネルの光景です。『かつて、本遠寺から南西を見渡せば熱田潟の海原が手に取るように見えた』と紹介されていました。『尾張名所図会』は、国会図書館などのデータベースで閲覧することができます。

    『尾張名所図会・法華堂・本遠寺』と題された新しい説明パネルの光景です。『かつて、本遠寺から南西を見渡せば熱田潟の海原が手に取るように見えた』と紹介されていました。『尾張名所図会』は、国会図書館などのデータベースで閲覧することができます。

  • 日蓮宗名古屋青年会が寄進した看板と記されていました。紹介されていたのは、他書きの『土の中 誰もを見ることができない そこから生命が生まれている』の一文でした。 

    日蓮宗名古屋青年会が寄進した看板と記されていました。紹介されていたのは、他書きの『土の中 誰もを見ることができない そこから生命が生まれている』の一文でした。 

  • 最後にもう一度、正面出入口の石標の光景です。参道の粗油面に法華堂、その左後ろに本堂が見えていました。

    最後にもう一度、正面出入口の石標の光景です。参道の粗油面に法華堂、その左後ろに本堂が見えていました。

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