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新年恒例となった○○会の七福神めぐり・・・今年は14名の仲間と共に、「新宿山ノ手七福神めぐり」で新宿と神楽坂の7つの寺社を回りました。<br />新宿山之手七福神は、昭和初期に有志により創設された7つの寺社(5寺・2社)で、約2時間で参拝出来る七福神です。<br />何しろ高齢者(?)のグループなので、出来るだけ楽なコースを考え、新宿御苑前の太宗寺からスタートし、法善寺 ⇒ 厳嶋神社 ⇒ 永福寺 ⇒ 稲荷鬼王神社 と回った後は、都営地下鉄・大江戸線の「東新宿」から「牛込柳町」まで電車に乗り、経王寺 ⇒ 善国寺 と回ってフィニッシュ。<br />2時間あまり歩いた後は、神楽坂で昼食兼新年会・・・新春の七福神めぐりで、今年も良い年になるかも。<br />写真は、新宿御苑の近くにある太宗寺の不動堂。

新春・新宿山ノ手七福神めぐり

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2017/01/06 - 2017/01/06

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ペコちゃん

ペコちゃんさん

新年恒例となった○○会の七福神めぐり・・・今年は14名の仲間と共に、「新宿山ノ手七福神めぐり」で新宿と神楽坂の7つの寺社を回りました。
新宿山之手七福神は、昭和初期に有志により創設された7つの寺社(5寺・2社)で、約2時間で参拝出来る七福神です。
何しろ高齢者(?)のグループなので、出来るだけ楽なコースを考え、新宿御苑前の太宗寺からスタートし、法善寺 ⇒ 厳嶋神社 ⇒ 永福寺 ⇒ 稲荷鬼王神社 と回った後は、都営地下鉄・大江戸線の「東新宿」から「牛込柳町」まで電車に乗り、経王寺 ⇒ 善国寺 と回ってフィニッシュ。
2時間あまり歩いた後は、神楽坂で昼食兼新年会・・・新春の七福神めぐりで、今年も良い年になるかも。
写真は、新宿御苑の近くにある太宗寺の不動堂。

旅行の満足度
5.0
同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩

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  • 今日は好天なので、西武新宿駅から新宿御苑まで歩いて、太宗寺に向かいます。<br />新宿二丁目辺りからよく見える、エンパイアステートのようなビルは、NTTドコモ代々木ビル(通称、ドコモタワー)・・・2000年に竣工した高さ240mのこのビルは、東京で4番目に高いビルです。

    今日は好天なので、西武新宿駅から新宿御苑まで歩いて、太宗寺に向かいます。
    新宿二丁目辺りからよく見える、エンパイアステートのようなビルは、NTTドコモ代々木ビル(通称、ドコモタワー)・・・2000年に竣工した高さ240mのこのビルは、東京で4番目に高いビルです。

  • ライトアップも美しく、新宿駅南口の方から見ると、直径約15mの大時計が時を告げてくれます。<br />シチズン製の大時計は、時針・分針ともに約1トンもあるというから驚きです。

    ライトアップも美しく、新宿駅南口の方から見ると、直径約15mの大時計が時を告げてくれます。
    シチズン製の大時計は、時針・分針ともに約1トンもあるというから驚きです。

  • 七福神めぐりの最初は、布袋様を祀っている「太宗寺(たいそうじ)」・・・新宿御苑の近くにある浄土宗のお寺です。<br />1596年頃に僧・太宗が開いた草庵・太宗庵が前身で、1629年に安房国勝山藩主・内藤正勝の葬儀を行ったことで内藤氏との縁が深まり、1668年に正勝の長男・重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されました。<br />1691年に内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されますが、太宗寺はその後も高遠藩・内藤氏の菩提寺として発展します。<br />「内藤新宿」とは江戸時代の宿場で、日本橋から甲州街道への最初の宿場として開設当初は賑わっていたのですが、利用客の減少などにより、開設後わずか20年にして1718年に宿場は廃止となります。

    七福神めぐりの最初は、布袋様を祀っている「太宗寺(たいそうじ)」・・・新宿御苑の近くにある浄土宗のお寺です。
    1596年頃に僧・太宗が開いた草庵・太宗庵が前身で、1629年に安房国勝山藩主・内藤正勝の葬儀を行ったことで内藤氏との縁が深まり、1668年に正勝の長男・重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されました。
    1691年に内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されますが、太宗寺はその後も高遠藩・内藤氏の菩提寺として発展します。
    「内藤新宿」とは江戸時代の宿場で、日本橋から甲州街道への最初の宿場として開設当初は賑わっていたのですが、利用客の減少などにより、開設後わずか20年にして1718年に宿場は廃止となります。

  • 境内に入った所に鎮座する「銅造地蔵菩薩坐像」・・・これは、江戸時代の前期に、江戸の出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつで、銅像の高は267cm。<br />1712年に江戸六地蔵の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正儀。

    境内に入った所に鎮座する「銅造地蔵菩薩坐像」・・・これは、江戸時代の前期に、江戸の出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつで、銅像の高は267cm。
    1712年に江戸六地蔵の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正儀。

  • 閻魔像が祀られている「閻魔堂」。

    閻魔像が祀られている「閻魔堂」。

  • 太宗寺は昭和20年の東京大空襲で被災したため、現本堂は昭和37年に鉄筋コンクリート造で再建されました。<br />上空から見ると、ラッパ型のシェルを組み合わせたようなモダンなデザインの屋根になっています。

    太宗寺は昭和20年の東京大空襲で被災したため、現本堂は昭和37年に鉄筋コンクリート造で再建されました。
    上空から見ると、ラッパ型のシェルを組み合わせたようなモダンなデザインの屋根になっています。

  • 閻魔堂の向かいにある「不動堂」。

    閻魔堂の向かいにある「不動堂」。

  • 不動堂は手前に布袋尊像、その奥には、江戸時代に作られた三日月不動像が安置されています(額の上に銀製の三日月を持つことから三日月不動と呼ばれる不動明王)。

    不動堂は手前に布袋尊像、その奥には、江戸時代に作られた三日月不動像が安置されています(額の上に銀製の三日月を持つことから三日月不動と呼ばれる不動明王)。

  • 布袋尊は、中国の禅僧がモデル。

    布袋尊は、中国の禅僧がモデル。

  • 太宗寺を後にして、靖国通りを渡って2番目の「法善寺」に向かいます。

    太宗寺を後にして、靖国通りを渡って2番目の「法善寺」に向かいます。

  • ところが、道順が分かりにくい・・・この「西向天神社」を通っていくことにしました。

    ところが、道順が分かりにくい・・・この「西向天神社」を通っていくことにしました。

  • 西向天神社は1228年に明恵上人(1173~1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。<br />天正年間(1570年代)に兵火で全焼した後、再興され、寛永年間(1630年代)に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗(抹茶を入れる器)を下賜されたことから棗(ナツメ)の天神ともいわれます。

    西向天神社は1228年に明恵上人(1173~1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。
    天正年間(1570年代)に兵火で全焼した後、再興され、寛永年間(1630年代)に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗(抹茶を入れる器)を下賜されたことから棗(ナツメ)の天神ともいわれます。

  • 西向天神社の境内には、紅梅・白梅がもう咲いています。

    西向天神社の境内には、紅梅・白梅がもう咲いています。

  • 境内に七福神の案内図がありました・・・これで法善寺に行けます。

    境内に七福神の案内図がありました・・・これで法善寺に行けます。

  • 寿老人の「法善寺」は、日蓮宗の寺院。

    寿老人の「法善寺」は、日蓮宗の寺院。

  • 法善寺は、貞享年間(1684~1688)に建立されました。<br />当時、江戸府内に日蓮宗のお寺を新しく建てるのは容易ではなく、大森の廃寺を復興移転することとして、法善寺が建てられたそうです。

    法善寺は、貞享年間(1684~1688)に建立されました。
    当時、江戸府内に日蓮宗のお寺を新しく建てるのは容易ではなく、大森の廃寺を復興移転することとして、法善寺が建てられたそうです。

  • 本堂横の建物に、寿老人が祀られています。

    本堂横の建物に、寿老人が祀られています。

  • 法善寺から3番目の厳島神社に向かう途中、空を見ると、珍しい形をした雲が見えました。

    法善寺から3番目の厳島神社に向かう途中、空を見ると、珍しい形をした雲が見えました。

  • この雲は肋骨に似ていることから肋骨雲・・・あばら雲、羽根雲とも言うそうです・・・こんな雲を見るのは、初めて!

    この雲は肋骨に似ていることから肋骨雲・・・あばら雲、羽根雲とも言うそうです・・・こんな雲を見るのは、初めて!

  • 弁財天を祀っている「厳嶋神社」・・・この神社は1086年に鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営して戦勝祈願し、奥州平定を成し遂げた帰りに、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳嶋神社を勧請したと伝えられています。

    弁財天を祀っている「厳嶋神社」・・・この神社は1086年に鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営して戦勝祈願し、奥州平定を成し遂げた帰りに、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳嶋神社を勧請したと伝えられています。

  • 参道は南北に通り抜けでき、また義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けた由来から、「抜弁天」として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。

    参道は南北に通り抜けでき、また義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けた由来から、「抜弁天」として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。

  • 神社にある七福神めぐりの案内板を見ると、職安通りと余丁町通りの交差するY字路の分岐点にあり、両方の通りから参拝出来るようになっています。

    神社にある七福神めぐりの案内板を見ると、職安通りと余丁町通りの交差するY字路の分岐点にあり、両方の通りから参拝出来るようになっています。

  • こちらが職安通り側の鳥居・・・まさに、抜弁天です。<br />狭い境内は、我々と同じような大勢の高齢者グループで大混雑。

    こちらが職安通り側の鳥居・・・まさに、抜弁天です。
    狭い境内は、我々と同じような大勢の高齢者グループで大混雑。

  • 社殿の前には、奉納されたお酒やお供物が並んでいて、多くの人から信仰されていることが分かります。

    社殿の前には、奉納されたお酒やお供物が並んでいて、多くの人から信仰されていることが分かります。

  • 4番目は福禄寿の「永福寺」・・・厳島神社から職安通りを渡ってすぐの所にある「久左衛門坂」を少し登るとあります。<br />この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになりました。

    4番目は福禄寿の「永福寺」・・・厳島神社から職安通りを渡ってすぐの所にある「久左衛門坂」を少し登るとあります。
    この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになりました。

  • 曹洞宗寺院の永福寺は、1648年の創建。

    曹洞宗寺院の永福寺は、1648年の創建。

  • 本堂には、山号の「大久保山」の扁額が掛けられています。

    本堂には、山号の「大久保山」の扁額が掛けられています。

  • 本堂の左側には、1756年建立の大日如来坐像と1853年に造立された地蔵菩薩の半跏趺坐像。

    本堂の左側には、1756年建立の大日如来坐像と1853年に造立された地蔵菩薩の半跏趺坐像。

  • ここも、お詣りするのに行列です。

    ここも、お詣りするのに行列です。

  • 5番目は、区役所通りに面した恵比寿神の「稲荷鬼王神社」・・・大久保村(現在の新宿区大久保辺り)の氏神として1653年に創建された稲荷神と、熊野(和歌山県)から勧請された鬼王権現を合祀して、1831年に稲荷鬼王神社となりました。<br />熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社ですが、鬼を祭神としているわけではありません。

    5番目は、区役所通りに面した恵比寿神の「稲荷鬼王神社」・・・大久保村(現在の新宿区大久保辺り)の氏神として1653年に創建された稲荷神と、熊野(和歌山県)から勧請された鬼王権現を合祀して、1831年に稲荷鬼王神社となりました。
    熊野の鬼王権現は現存していないため、「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社ですが、鬼を祭神としているわけではありません。

  • 鳥居の横には、安山岩で出来た1mほどの高さの水鉢があり、うずくまった鬼の頭上に水鉢を載せた珍しい様式となっています。<br />この水鉢は、文政年間(1818~1829)に制作され、旗本の屋敷にありましたが、毎夜水浴をする音が聞こえるため、家宝の名刀・鬼切丸で切りつけたところ、家人に病災が頻発するようになりました。<br />恐れをなした旗本は1833年に、水鉢を鬼切丸と共に当社に寄進したそうです。

    鳥居の横には、安山岩で出来た1mほどの高さの水鉢があり、うずくまった鬼の頭上に水鉢を載せた珍しい様式となっています。
    この水鉢は、文政年間(1818~1829)に制作され、旗本の屋敷にありましたが、毎夜水浴をする音が聞こえるため、家宝の名刀・鬼切丸で切りつけたところ、家人に病災が頻発するようになりました。
    恐れをなした旗本は1833年に、水鉢を鬼切丸と共に当社に寄進したそうです。

  • 特徴的な形の狛犬。

    特徴的な形の狛犬。

  • 参道を進むと、左側に恵比寿神社と書かれた鳥居が・・・こちらに恵比寿神が祀られています。

    参道を進むと、左側に恵比寿神社と書かれた鳥居が・・・こちらに恵比寿神が祀られています。

  • これは、平成16年に作られた、恵比寿神社の水琴窟。<br />手水鉢の水を柄杓ですくい、飛び石に水をかけて竹筒に耳を当てると、何とも風雅な音色が聞こえます。

    これは、平成16年に作られた、恵比寿神社の水琴窟。
    手水鉢の水を柄杓ですくい、飛び石に水をかけて竹筒に耳を当てると、何とも風雅な音色が聞こえます。

  • 稲荷鬼王神社の拝殿。

    稲荷鬼王神社の拝殿。

  • 神社の奥に「富士塚」があります。<br />空襲の関係で縮小したため、参道を挟んで左に4合目まであり、右側(この写真)が5合目から10合目。

    神社の奥に「富士塚」があります。
    空襲の関係で縮小したため、参道を挟んで左に4合目まであり、右側(この写真)が5合目から10合目。

  • 稲荷鬼王神社を参拝した後は、都営大江戸線で「東新宿」駅から2駅先の「牛込柳町」駅へ。<br />大久保通りに面した駅のすぐそばに、6番目の経王寺があります。

    稲荷鬼王神社を参拝した後は、都営大江戸線で「東新宿」駅から2駅先の「牛込柳町」駅へ。
    大久保通りに面した駅のすぐそばに、6番目の経王寺があります。

  • 大黒天の「経王寺(きょうおうじ)」は日蓮宗で、1598年に尊重院日静上人によって開創されました。

    大黒天の「経王寺(きょうおうじ)」は日蓮宗で、1598年に尊重院日静上人によって開創されました。

  • 本堂。

    本堂。

  • 内陣には、日蓮大聖人の御尊像が祀られています。

    内陣には、日蓮大聖人の御尊像が祀られています。

  • 「大黒天堂」でお参り・・・奥に大黒天像が鎮座しています。

    「大黒天堂」でお参り・・・奥に大黒天像が鎮座しています。

  • 大黒天像は日法上人の作で、1598年に甲斐国・身延山より移されたと伝えられています。<br />高さ12cmの木彫立像で、大黒頭巾・大袋・小槌というおなじみの恰好でありながら表情は硬く、普通の大黒様のイメージとは違った感じ。<br />室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから、「火伏せ大黒」として崇敬されています。

    大黒天像は日法上人の作で、1598年に甲斐国・身延山より移されたと伝えられています。
    高さ12cmの木彫立像で、大黒頭巾・大袋・小槌というおなじみの恰好でありながら表情は硬く、普通の大黒様のイメージとは違った感じ。
    室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから、「火伏せ大黒」として崇敬されています。

  • 境内に置かれた大黒様は、いつもの柔和なお顔。

    境内に置かれた大黒様は、いつもの柔和なお顔。

  • 大久保通りを東に進み、神楽坂上の交差点を右折すると・・・

    大久保通りを東に進み、神楽坂上の交差点を右折すると・・・

  • 飯田橋駅まで続く神楽坂通り。<br />神楽坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説あり、はっきりしていません。

    飯田橋駅まで続く神楽坂通り。
    神楽坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説あり、はっきりしていません。

  • 神楽坂は、東京・新宿区ですが、路地や横丁もあり猫も多く、大都会・新宿の雰囲気とはやや趣が違います。<br />また、現役の花街でもあり、色々な雰囲気が混合された不思議で素敵な界隈です。

    神楽坂は、東京・新宿区ですが、路地や横丁もあり猫も多く、大都会・新宿の雰囲気とはやや趣が違います。
    また、現役の花街でもあり、色々な雰囲気が混合された不思議で素敵な界隈です。

  • 7番目は、神楽坂通りに面した「善国寺」・・・法善寺・経王寺と同じく日蓮宗のお寺で、毘沙門天を祀っています。<br /><br />

    7番目は、神楽坂通りに面した「善国寺」・・・法善寺・経王寺と同じく日蓮宗のお寺で、毘沙門天を祀っています。

  • 善国寺の開基は徳川家康、開山は日惺上人(池上本門寺・十二代の貫首)と伝わっています。<br />右の門柱には「神楽坂」の文字。

    善国寺の開基は徳川家康、開山は日惺上人(池上本門寺・十二代の貫首)と伝わっています。
    右の門柱には「神楽坂」の文字。

  • 左の門柱には「毘沙門天」の文字。<br />安土桃山時代の1595年、馬喰町に創建されましたが、たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年には現在地へ移転しました。<br />昭和20年の東京大空襲で焼失した後、昭和26年に毘沙門堂を再建し、昭和46年に現在の本堂・毘沙門堂が完成しました。

    左の門柱には「毘沙門天」の文字。
    安土桃山時代の1595年、馬喰町に創建されましたが、たびたび火災に見舞われ、麹町を経て1793年には現在地へ移転しました。
    昭和20年の東京大空襲で焼失した後、昭和26年に毘沙門堂を再建し、昭和46年に現在の本堂・毘沙門堂が完成しました。

  • 本堂の前では、狛犬ならぬ狛虎(石虎)が睨みをきかせています。

    本堂の前では、狛犬ならぬ狛虎(石虎)が睨みをきかせています。

  • 石虎は、嘉永元年(1848)に奉納されました。<br />安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82cm、吽形(左)は85cmで、台石・基礎部も含めた総高は2mを超えます。<br />台石正面には浮彫があり、虎の姿が動的に表現されています。

    石虎は、嘉永元年(1848)に奉納されました。
    安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82cm、吽形(左)は85cmで、台石・基礎部も含めた総高は2mを超えます。
    台石正面には浮彫があり、虎の姿が動的に表現されています。

  • 東京大空襲を耐え抜いた石虎は、都内でも珍しく、貴重な文化財と言えます。

    東京大空襲を耐え抜いた石虎は、都内でも珍しく、貴重な文化財と言えます。

  • 木造の毘沙門天像は、像高30cmで、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に立っています。<br />室町時代の造立と推定され、「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰を集めました。

    木造の毘沙門天像は、像高30cmで、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に立っています。
    室町時代の造立と推定され、「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰を集めました。

  • 10時半からゆっくり歩いて2時間半の七福神めぐり・・・今年も良いスタートが切れました。

    10時半からゆっくり歩いて2時間半の七福神めぐり・・・今年も良いスタートが切れました。

  • 善国寺からすぐの「花かぐら」に昼食を予約しておいたので、これから新年会。

    善国寺からすぐの「花かぐら」に昼食を予約しておいたので、これから新年会。

  • 店に入ると、今年の干支の酉のステンドグラスが迎えてくれます。

    店に入ると、今年の干支の酉のステンドグラスが迎えてくれます。

  • この店は、夜は何度も来たことがありますが、昼は初めて。<br />花かぐら弁当(1950円)・・・いろいろ入って美味しそうです。

    この店は、夜は何度も来たことがありますが、昼は初めて。
    花かぐら弁当(1950円)・・・いろいろ入って美味しそうです。

  • 今年1年も、この良き仲間と楽しく過ごしたいものです。

    今年1年も、この良き仲間と楽しく過ごしたいものです。

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