ミラノ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />1か月の旅もあっという間にミラノ3日間を残すだけとなりました。思えば、昨年の旅とは異なり、今回は教会ばかり見て歩いたような気がします。私ってこんなに教会好きだったっけ? 教会そのものより、そこに凝縮されたイタリア文化に惹かれるんだろうな。教会ではイタリア人が持って生まれた天性のセンスが全部つぎ込まれたように思えます。そこには憎しみなどは全くなく、彼らの美意識、愛情、痛み、恐れ、崇敬の念などが豊かに表現されていて、とても居心地が良いのです。<br /><br /><br />さて、ミラノではどんな教会が待ち受けているんでしょう。

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その92 ミラノ1 スフォルツァ城

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2015/06/05 - 2015/06/06

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junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

1か月の旅もあっという間にミラノ3日間を残すだけとなりました。思えば、昨年の旅とは異なり、今回は教会ばかり見て歩いたような気がします。私ってこんなに教会好きだったっけ? 教会そのものより、そこに凝縮されたイタリア文化に惹かれるんだろうな。教会ではイタリア人が持って生まれた天性のセンスが全部つぎ込まれたように思えます。そこには憎しみなどは全くなく、彼らの美意識、愛情、痛み、恐れ、崇敬の念などが豊かに表現されていて、とても居心地が良いのです。


さて、ミラノではどんな教会が待ち受けているんでしょう。

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • ヴァレンティーナに駅まで送ってもらったおかげで、駅でコーヒータイムが持てました。

    ヴァレンティーナに駅まで送ってもらったおかげで、駅でコーヒータイムが持てました。

  • 12時5分発のフレッチャビアンカに乗り込みます。ミラノ到着は13時55分。1時間50分の列車の旅です。<br /><br />どうしてこんな時間にしたかというと、話は長くなります。ミラノではご存知のように2015年EXPOが開催されていて、ホテル代がべらぼうに高い! 予約時には、通常1万円くらいで泊まれるホテルが3万円位に値上がりしていたのです。そのため、貧乏な私が選んだホテルは郊外の、ミラノ市内から近郊線で20分ほど行った町にありました。今日は町に出ずにゆっくり過ごすために、すぐにチェックインできる時刻を選んだというわけです。

    12時5分発のフレッチャビアンカに乗り込みます。ミラノ到着は13時55分。1時間50分の列車の旅です。

    どうしてこんな時間にしたかというと、話は長くなります。ミラノではご存知のように2015年EXPOが開催されていて、ホテル代がべらぼうに高い! 予約時には、通常1万円くらいで泊まれるホテルが3万円位に値上がりしていたのです。そのため、貧乏な私が選んだホテルは郊外の、ミラノ市内から近郊線で20分ほど行った町にありました。今日は町に出ずにゆっくり過ごすために、すぐにチェックインできる時刻を選んだというわけです。

  • でも、殆ど初めての町で、近郊線に乗り換えるまでは結構ハードでした。ミラノ・チェントラーレに到着してから駅員に尋ねたものの、誰も私が降りる駅パラッツォロ・ミラネーゼを知らないんだよなあ。JRの東京駅の駅員に私鉄の田舎の駅を尋ねたような感覚だったのかしら?<br /><br />すったもんだした挙句、ようやくカドルナまで行って乗り換えればよいことが分かりました。切符を買うのに一苦労!

    でも、殆ど初めての町で、近郊線に乗り換えるまでは結構ハードでした。ミラノ・チェントラーレに到着してから駅員に尋ねたものの、誰も私が降りる駅パラッツォロ・ミラネーゼを知らないんだよなあ。JRの東京駅の駅員に私鉄の田舎の駅を尋ねたような感覚だったのかしら?

    すったもんだした挙句、ようやくカドルナまで行って乗り換えればよいことが分かりました。切符を買うのに一苦労!

  • これは、後日撮った写真です。パラツォロ・ミラネーゼはミラノの北14km行ったところにあるパデルノ・ドゥニャーノという町にあり、ミラノの中心にあるカドルナ駅から列車で20分ほどの距離です。終点カドルナからは空港までレオナルド・エキスプレスで直行することが出来ます。帰りのことも一応考えて予約しました。

    これは、後日撮った写真です。パラツォロ・ミラネーゼはミラノの北14km行ったところにあるパデルノ・ドゥニャーノという町にあり、ミラノの中心にあるカドルナ駅から列車で20分ほどの距離です。終点カドルナからは空港までレオナルド・エキスプレスで直行することが出来ます。帰りのことも一応考えて予約しました。

  • 駅からゆっくり歩いて8分で、ようやくホテルに到着。ホテル・レジデンス・オーロラです。

    駅からゆっくり歩いて8分で、ようやくホテルに到着。ホテル・レジデンス・オーロラです。

  • 門からは長いアプローチが伸びていて、私が泊まるアパートは、今見えているホテルの建物の裏手にありました。

    門からは長いアプローチが伸びていて、私が泊まるアパートは、今見えているホテルの建物の裏手にありました。

  • こちらが玄関兼入り口。カード式のオートロックです。二重扉で防犯システムが完備されていました。

    こちらが玄関兼入り口。カード式のオートロックです。二重扉で防犯システムが完備されていました。

  • 中はとても広くてびっくり! 豪華ではありませんが、冷蔵庫、電子レンジ、食洗器、電気コンロ、食器付きの台所にダイニングスペース。

    中はとても広くてびっくり! 豪華ではありませんが、冷蔵庫、電子レンジ、食洗器、電気コンロ、食器付きの台所にダイニングスペース。

  • こんなの撮ってもしようがない?

    こんなの撮ってもしようがない?

  • 冷蔵庫はコンパクト。

    冷蔵庫はコンパクト。

  • カラトリーに

    カラトリーに

  • 鍋、ザル、まな板など。食器も一通り揃っていました。

    鍋、ザル、まな板など。食器も一通り揃っていました。

  • そしてテレビを見るためにソファ・コーナー。

    そしてテレビを見るためにソファ・コーナー。

  • 寝室は別室で十分なスペースがあります。

    寝室は別室で十分なスペースがあります。

  • PCコーナーや洋服ダンスも勿論完備です。

    PCコーナーや洋服ダンスも勿論完備です。

  • こちらはバスルーム。

    こちらはバスルーム。

  • バスタオル、フェースタオルにハンドタオルが2枚ずつ。完璧!

    バスタオル、フェースタオルにハンドタオルが2枚ずつ。完璧!

  • でもこんなに広くても、浴槽はありませんでした。まっ いいか!<br /><br />そのほかに大きな収納庫までありました。これで一泊8000円! 1か月くらいここで暮らすのも悪くないかもしれません。ミラノ市内から思い切って離れて大正解でした。

    でもこんなに広くても、浴槽はありませんでした。まっ いいか!

    そのほかに大きな収納庫までありました。これで一泊8000円! 1か月くらいここで暮らすのも悪くないかもしれません。ミラノ市内から思い切って離れて大正解でした。

  • 久しぶりに台所が当たったので、近所のスーパーに3日分の買い出しに行く途中、また教会を見つけて嵌ってしまいました。

    久しぶりに台所が当たったので、近所のスーパーに3日分の買い出しに行く途中、また教会を見つけて嵌ってしまいました。

  • ホテル・レジデンス・オーロラの前の道の名前にもなっているサン・マルティーノ教会。聖マルティーノと聖アンブローズに捧げられています。1735年-41年の創建。後期バロック様式のファサードはいかにもイタリアらしい雰囲気。<br /><br />左右の壁の額縁には、乞食にマントを半分割いて与える聖マルティーノ(トゥールのマルティヌス)と聖アンブローズのレリーフが見えました。聖マルティーノは4世紀の人で、殉教せずに聖人になった初めての方だそうですよ。聖アンブローズも4世紀に生きたミラノの有名な司教ですね。

    ホテル・レジデンス・オーロラの前の道の名前にもなっているサン・マルティーノ教会。聖マルティーノと聖アンブローズに捧げられています。1735年-41年の創建。後期バロック様式のファサードはいかにもイタリアらしい雰囲気。

    左右の壁の額縁には、乞食にマントを半分割いて与える聖マルティーノ(トゥールのマルティヌス)と聖アンブローズのレリーフが見えました。聖マルティーノは4世紀の人で、殉教せずに聖人になった初めての方だそうですよ。聖アンブローズも4世紀に生きたミラノの有名な司教ですね。

  • 中央扉上の半分のバラ窓には、MとAの頭文字が見えました。扉が開いていたので、誘われるようにして中へ。

    中央扉上の半分のバラ窓には、MとAの頭文字が見えました。扉が開いていたので、誘われるようにして中へ。

  • 内部はエンタシスのある白い列柱が支える丸いクーポラがいくつも続いていて、エレガントで厳かな雰囲気でした。フレスコは画家アルトゥーロ・ガッリが1943年から47年にかけて描いたもの。観光客の来ない、町の人々のための教会としてはとても豪華なインテリアでした。

    イチオシ

    内部はエンタシスのある白い列柱が支える丸いクーポラがいくつも続いていて、エレガントで厳かな雰囲気でした。フレスコは画家アルトゥーロ・ガッリが1943年から47年にかけて描いたもの。観光客の来ない、町の人々のための教会としてはとても豪華なインテリアでした。

  • 洗礼堂です。「キリストの洗礼」の絵の下には聖獣鹿が湧水の水を飲む姿が。大変美しい・・・

    洗礼堂です。「キリストの洗礼」の絵の下には聖獣鹿が湧水の水を飲む姿が。大変美しい・・・

  • アルトゥーロ・ガッリ(1895年-1963年)の絵が気にいったので、フレスコを順番に見ていくことにしました。例によって例のごとく、ボケた写真が多かったのが残念です(泣)。解説が一切なかったので、私が分かる絵だけにしましょうね。<br /><br />こちらは御馴染の「受胎告知」。興味深いのは、マリアの夫大工のヨーセフが手前で大工仕事をしながら居眠りをしている姿。彼の足元には鉋屑が沢山落ちていますよ! 新鮮な驚きを覚えました。

    イチオシ

    アルトゥーロ・ガッリ(1895年-1963年)の絵が気にいったので、フレスコを順番に見ていくことにしました。例によって例のごとく、ボケた写真が多かったのが残念です(泣)。解説が一切なかったので、私が分かる絵だけにしましょうね。

    こちらは御馴染の「受胎告知」。興味深いのは、マリアの夫大工のヨーセフが手前で大工仕事をしながら居眠りをしている姿。彼の足元には鉋屑が沢山落ちていますよ! 新鮮な驚きを覚えました。

  • 「キリストの神殿へのお披露目」。男の子が生まれると割礼をした後神殿に赴き、白い山鳩の番を持って奉献する場面ですね。シメオンがキリストを抱き、聖母の後ろでヨーセフが供え物の山鳩をかかえています。<br /><br />シメオンはこの時、キリストの将来を予言したんでしたね。

    「キリストの神殿へのお披露目」。男の子が生まれると割礼をした後神殿に赴き、白い山鳩の番を持って奉献する場面ですね。シメオンがキリストを抱き、聖母の後ろでヨーセフが供え物の山鳩をかかえています。

    シメオンはこの時、キリストの将来を予言したんでしたね。

  • 「エジプトへの逃避」。エジプトへは親子3人だけかと思っていましたが、天使の護衛が付いたんだ!?<br />

    「エジプトへの逃避」。エジプトへは親子3人だけかと思っていましたが、天使の護衛が付いたんだ!?

  • 「博士たちと議論するキリスト」。新約聖書ルカによる福音書に記載があります。少年キリストの後ろにいるのは、いなくなったわが子を心配してようやく探し当てた聖母とヨーセフ。

    「博士たちと議論するキリスト」。新約聖書ルカによる福音書に記載があります。少年キリストの後ろにいるのは、いなくなったわが子を心配してようやく探し当てた聖母とヨーセフ。

  • 「キリストのエルサレム入城」。キリストはエルサレムに入城するにあたり、ロバを調達しました。武力の象徴としての馬ではなく、荷物を運搬するために使われるロバに乗って、平和をもたらす王として町に入ったのです。エルサレムの人々が喜び、彼のために敷物やマントを道に敷いて、歓迎している場面です。

    「キリストのエルサレム入城」。キリストはエルサレムに入城するにあたり、ロバを調達しました。武力の象徴としての馬ではなく、荷物を運搬するために使われるロバに乗って、平和をもたらす王として町に入ったのです。エルサレムの人々が喜び、彼のために敷物やマントを道に敷いて、歓迎している場面です。

  • キリストが弟子の足を洗う場面だと思います。最後の晩餐の時、キリストは弟子全員の足を洗って、こう話したと言われています。<br /><br />主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。<br /><br />ちなみにユダの足も洗ったと言われています。意味深長。<br /><br />

    キリストが弟子の足を洗う場面だと思います。最後の晩餐の時、キリストは弟子全員の足を洗って、こう話したと言われています。

    主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

    ちなみにユダの足も洗ったと言われています。意味深長。

  • 続いてクーポラのフレスコです。<br /><br />これは十字架を背負って、自らの処刑場に向かう途中で、聖母と遭遇した場面ですね。福音書には、キリストが聖母と会ったという話は載っていないので、これは後年作られたお話なのかもしれません。

    続いてクーポラのフレスコです。

    これは十字架を背負って、自らの処刑場に向かう途中で、聖母と遭遇した場面ですね。福音書には、キリストが聖母と会ったという話は載っていないので、これは後年作られたお話なのかもしれません。

  • ゴルゴダの丘の場面です。十字架の背景には何種類もの緑色を使い分けて独特な色合いの虹が作られています。色遣いが大変綺麗ですね。<br /><br />ウィキペディアによると、ゴルゴダの丘は日本ではカルワリオと呼ぶことがあるそう。そして英語ではカルヴァリー。どれも髑髏という意味だそうですよ。

    ゴルゴダの丘の場面です。十字架の背景には何種類もの緑色を使い分けて独特な色合いの虹が作られています。色遣いが大変綺麗ですね。

    ウィキペディアによると、ゴルゴダの丘は日本ではカルワリオと呼ぶことがあるそう。そして英語ではカルヴァリー。どれも髑髏という意味だそうですよ。

  • 主祭壇手前のクーポラです。天上の世界が描かれています。羽の生えた天使の集団の奥に、十字架を抱えた神の子羊の姿が見えました。おお。全てのフレスコがアルトゥーロ・ガッリの作品なのかしら? なかなか見ごたえがありました。

    主祭壇手前のクーポラです。天上の世界が描かれています。羽の生えた天使の集団の奥に、十字架を抱えた神の子羊の姿が見えました。おお。全てのフレスコがアルトゥーロ・ガッリの作品なのかしら? なかなか見ごたえがありました。

  • そのほかに目についたのはこちら。<br />これは、どなたかがヴィジョンを受けた場面でしょうか。聖痕を受けているので、聖フランチェスコかなと思うのですが、確証はありません。

    そのほかに目についたのはこちら。
    これは、どなたかがヴィジョンを受けた場面でしょうか。聖痕を受けているので、聖フランチェスコかなと思うのですが、確証はありません。

  • 両乳房を切られ、後に獄中にて殉教した聖アガタ。シチリアの聖人です。

    両乳房を切られ、後に獄中にて殉教した聖アガタ。シチリアの聖人です。

  • ガラス付きのケースの中に大切に保管されていた17世紀の木像「悲しみの聖母」。

    ガラス付きのケースの中に大切に保管されていた17世紀の木像「悲しみの聖母」。

  • 最後に主祭壇を紹介しますね。少々変わった形の祠のある祭壇飾りは大変立派でした。これもバロックの香りがします。

    最後に主祭壇を紹介しますね。少々変わった形の祠のある祭壇飾りは大変立派でした。これもバロックの香りがします。

  • 祭壇には、聖母と12人の使徒の姿のレリーフがありました。両脇の司教達の名前は???

    祭壇には、聖母と12人の使徒の姿のレリーフがありました。両脇の司教達の名前は???

  • 祠のてっぺんに置かれたキリストの復活像。これを見て、ローマのサンタ・マリア・ミネルヴァにあった、ミケランジェロの「贖いの主イエス・キリスト像」を思い出してしまいました。後からわざとらしくつけられた腰布。この像の腰布も心なしかとってつけたように思われました。

    祠のてっぺんに置かれたキリストの復活像。これを見て、ローマのサンタ・マリア・ミネルヴァにあった、ミケランジェロの「贖いの主イエス・キリスト像」を思い出してしまいました。後からわざとらしくつけられた腰布。この像の腰布も心なしかとってつけたように思われました。

  • 折角なので、サンタ・マリア・ミネルヴァにあるミケランジェロに再登場してもらいました。うーん、いつ見ても良いものは良いですねえ。惚れ惚れ・・・

    折角なので、サンタ・マリア・ミネルヴァにあるミケランジェロに再登場してもらいました。うーん、いつ見ても良いものは良いですねえ。惚れ惚れ・・・

  • 最後は後陣のフレスコです。力強く十字架を掲げるキリストの背後には、4人の福音記者達のシンボル 牛、天使、鷲、ライオンが浮かんでいました。<br /><br />ちょっと寄っただけにしては熱を入れて見学してしまいました。買い物のエコバッグもって、気軽に入れる教会でしたが、個人的には評価高いです。

    最後は後陣のフレスコです。力強く十字架を掲げるキリストの背後には、4人の福音記者達のシンボル 牛、天使、鷲、ライオンが浮かんでいました。

    ちょっと寄っただけにしては熱を入れて見学してしまいました。買い物のエコバッグもって、気軽に入れる教会でしたが、個人的には評価高いです。

  • さ、買い物行こうっと。<br /><br />とここまでが6月5日。次からは翌日6日となります。

    さ、買い物行こうっと。

    とここまでが6月5日。次からは翌日6日となります。

  • 翌朝も綺麗に晴れ上がったミラノです。S4という近郊線で到着したのはミラノにいくつかある主要駅の一つカドルナ。駅は、ご覧のような緑の建物に赤い柱が目立つ近代的な建物です。<br /><br />この駅から主要な観光スポットの内のサンタ・マリア・デッレ・グラツィェ教会やスフォルツァ城までは徒歩で行くことが出来ます。

    翌朝も綺麗に晴れ上がったミラノです。S4という近郊線で到着したのはミラノにいくつかある主要駅の一つカドルナ。駅は、ご覧のような緑の建物に赤い柱が目立つ近代的な建物です。

    この駅から主要な観光スポットの内のサンタ・マリア・デッレ・グラツィェ教会やスフォルツァ城までは徒歩で行くことが出来ます。

  • トラムもやってきましたよ。リタリア・ケ・ラヴォーラ「働くイタリア」ですって。ミラノのことかしら?

    トラムもやってきましたよ。リタリア・ケ・ラヴォーラ「働くイタリア」ですって。ミラノのことかしら?

  • 町にはEXPOのために作られた? モニュメントが目立ちます。私は人混みと行列(ピザ屋では行列したくせに!)が苦手で、はなからEXPOに行くつもりはなかったのですが、流石にファッションとデザインの国。奇抜な色を使っていますが、不思議と町並みに溶け込んでいます。

    町にはEXPOのために作られた? モニュメントが目立ちます。私は人混みと行列(ピザ屋では行列したくせに!)が苦手で、はなからEXPOに行くつもりはなかったのですが、流石にファッションとデザインの国。奇抜な色を使っていますが、不思議と町並みに溶け込んでいます。

  • 10代の頃に、ほんの数時間過ごしたミラノにはあまり良い思い出がありませんでした。サンタ・マリア・デッレ・グラツィェの「最後の晩餐」は簡単に見ることが出来ましたが、わずか数千円の両替(勿論リラの時代)に1時間並んだこと、どこに行ってもカフェがなく、Barしか見つけられなかったこと(Barがカフェを兼ねているとは知らず、酒場だと思い込んでいました)、やたらと若い男性に言い寄られたこと(今考えると夢のような話!?)、お腹がすいて買ったサンドイッチがめちゃまずかったこと等々。最後の晩餐の後、スフォルツァ城を眺めて、随分と穴が沢山開いている変な城だなあと思ったのを覚えています。<br /><br />その時以来のスフォルツァ城が見えてきました。

    10代の頃に、ほんの数時間過ごしたミラノにはあまり良い思い出がありませんでした。サンタ・マリア・デッレ・グラツィェの「最後の晩餐」は簡単に見ることが出来ましたが、わずか数千円の両替(勿論リラの時代)に1時間並んだこと、どこに行ってもカフェがなく、Barしか見つけられなかったこと(Barがカフェを兼ねているとは知らず、酒場だと思い込んでいました)、やたらと若い男性に言い寄られたこと(今考えると夢のような話!?)、お腹がすいて買ったサンドイッチがめちゃまずかったこと等々。最後の晩餐の後、スフォルツァ城を眺めて、随分と穴が沢山開いている変な城だなあと思ったのを覚えています。

    その時以来のスフォルツァ城が見えてきました。

  • 沢山の穴は健在でした。<br /><br />スフォルツァ城(スフォルツェスコ城)は、1450年にミラノの侯爵だったフランチェスコ・スフォルツァが、14世紀に建てられた、200m四方の城壁に4つの塔が聳え、壁の厚さがなんと7mもあるという頑強なヴィスコンティ家の要塞を改装したものです。城は16世紀、17世紀にも改修、増強工事が行われた結果、ヨーロッパでも最大の要塞の一つとなりました。現在は元々の面積から見ると、1/4以下になっているそうです。

    沢山の穴は健在でした。

    スフォルツァ城(スフォルツェスコ城)は、1450年にミラノの侯爵だったフランチェスコ・スフォルツァが、14世紀に建てられた、200m四方の城壁に4つの塔が聳え、壁の厚さがなんと7mもあるという頑強なヴィスコンティ家の要塞を改装したものです。城は16世紀、17世紀にも改修、増強工事が行われた結果、ヨーロッパでも最大の要塞の一つとなりました。現在は元々の面積から見ると、1/4以下になっているそうです。

  • フランチェスコ・スフォルツァは貴族の出身ではなく、勇敢な傭兵隊長(コンドッティエーレ)だった人物ですが、ヴィスコンティ家最後の血統ビアンカ・マリア・ヴィスコンティと結婚したことにより、ミラノ初代公爵となり、その後ミラノはスフォルツァ家による支配が暫く続くことになります。<br /><br />フランチェスコは、ルネサンス期の芸術に造詣が深く、芸術家たちのパトロンとしても名を馳せています。

    フランチェスコ・スフォルツァは貴族の出身ではなく、勇敢な傭兵隊長(コンドッティエーレ)だった人物ですが、ヴィスコンティ家最後の血統ビアンカ・マリア・ヴィスコンティと結婚したことにより、ミラノ初代公爵となり、その後ミラノはスフォルツァ家による支配が暫く続くことになります。

    フランチェスコは、ルネサンス期の芸術に造詣が深く、芸術家たちのパトロンとしても名を馳せています。

  • 最上階の前につきだした部分は、おそらく後年の増強工事で追加された部分でしょう。<br /><br />上の写真でわかる通り、城は広大な濠で囲まれていました。

    最上階の前につきだした部分は、おそらく後年の増強工事で追加された部分でしょう。

    上の写真でわかる通り、城は広大な濠で囲まれていました。

  • 入城する前に、外側をぐるっと歩いて一周しようかと試みましたが・・・

    入城する前に、外側をぐるっと歩いて一周しようかと試みましたが・・・

  • 予想以上に大きい! 一つの角を曲がるだけでも一苦労。左側にはセンピオーネ公園が広がっています。進行方向に入口が見えるので、あそこまで行ってみましょう。

    予想以上に大きい! 一つの角を曲がるだけでも一苦労。左側にはセンピオーネ公園が広がっています。進行方向に入口が見えるので、あそこまで行ってみましょう。

  • 城の北側にあったアーチ。廃墟と化していますが、昔は城の建物の一部として使われていたのかしら?

    城の北側にあったアーチ。廃墟と化していますが、昔は城の建物の一部として使われていたのかしら?

  • 一周するのは早々に諦めて、北側の門から入城します。ゲートのアーチの上にはヴィスコンティ家とミラノの紋章が掲げられていました。

    一周するのは早々に諦めて、北側の門から入城します。ゲートのアーチの上にはヴィスコンティ家とミラノの紋章が掲げられていました。

  • 空色の蛇が子供を飲み込んでいる紋章は、1395年からヴィスコンティ家が使用しています。ここにある蛇には金色のトサカと王冠が両方ついていました。<br /><br />白地に赤十字はミラノの紋章。赤十字と蛇が両方ついた紋章もミラノのシンボルになっています。貴族出身ではないため、紋章を持っていなかったスフォルツァ家はヴィスコンティ家の「蛇」を喜んで自家の紋章にしたようです。

    空色の蛇が子供を飲み込んでいる紋章は、1395年からヴィスコンティ家が使用しています。ここにある蛇には金色のトサカと王冠が両方ついていました。

    白地に赤十字はミラノの紋章。赤十字と蛇が両方ついた紋章もミラノのシンボルになっています。貴族出身ではないため、紋章を持っていなかったスフォルツァ家はヴィスコンティ家の「蛇」を喜んで自家の紋章にしたようです。

  • 入ってきた門のあたりから北東の角を見上げた1枚。威圧的な高さの壁ですね。見えている塔は「ボナ・ディ・サヴォイア」の塔です。<br /><br />1476年、フランチェスコの息子ガレアッツォ・スフォルツァは陰謀に巻き込まれ殺されてしまいます。彼の妻サヴォイア家のボナは、塔の手前にある城の中で最も安全なエリア(ロッケッタという)に更に高い塔を建てさせ、全ての建物の監視がここで出来るようにしました。<br /><br />ボナ・ディサヴォイア塔はナポレオン軍の駐留の際に損傷しましたが、1893年ルカ・ベルトラーミによって修復。この時塔に胸壁が付けられたそうです。

    入ってきた門のあたりから北東の角を見上げた1枚。威圧的な高さの壁ですね。見えている塔は「ボナ・ディ・サヴォイア」の塔です。

    1476年、フランチェスコの息子ガレアッツォ・スフォルツァは陰謀に巻き込まれ殺されてしまいます。彼の妻サヴォイア家のボナは、塔の手前にある城の中で最も安全なエリア(ロッケッタという)に更に高い塔を建てさせ、全ての建物の監視がここで出来るようにしました。

    ボナ・ディサヴォイア塔はナポレオン軍の駐留の際に損傷しましたが、1893年ルカ・ベルトラーミによって修復。この時塔に胸壁が付けられたそうです。

  • 続いてやってきたのは、公爵の中庭という意味のラ・コルテ・ドゥカーレ。かつての公爵のアパートがあったところで、ルネサンス期の侯爵の生活の中心地でした。中庭はスフォルツァ城の北側に位置していて、U字型をしています。建てられたのは15世紀後半、ガレアッツォの時代です。<br /><br />続く4世紀の間は、兵舎として使用された他は荒廃するがままにされたようですが、19世紀に元のルネサンス風装飾で再建されています。

    続いてやってきたのは、公爵の中庭という意味のラ・コルテ・ドゥカーレ。かつての公爵のアパートがあったところで、ルネサンス期の侯爵の生活の中心地でした。中庭はスフォルツァ城の北側に位置していて、U字型をしています。建てられたのは15世紀後半、ガレアッツォの時代です。

    続く4世紀の間は、兵舎として使用された他は荒廃するがままにされたようですが、19世紀に元のルネサンス風装飾で再建されています。

  • 公爵の中庭の一番奥には、こちらの15世紀に描かれた象のフレスコがありました。このフレスコから、奥のポルティコは「象のポルティコ」と呼ばれていました。1913年から14年にかけて何層もの漆喰の中から発見されたのだそうですよ。

    公爵の中庭の一番奥には、こちらの15世紀に描かれた象のフレスコがありました。このフレスコから、奥のポルティコは「象のポルティコ」と呼ばれていました。1913年から14年にかけて何層もの漆喰の中から発見されたのだそうですよ。

  • 象のフレスコの前にあった石碑は、1630年にペストを伝染させたというとんでもない罪をなすりつけられ、拷問によって殺されたミラノの市民ジャン・ジャコモ・モーラについて書かれていました。<br /><br />ミラノではペストの感染を防ぐとされていた、厚生委員会の許可を得た軟膏が出回っていましたが、モーラは感染を広める軟膏を製造したという罪で逮捕され、ひどい拷問を受けた末、体中の骨を折られて喉を切られて殺されました。その後彼は焼かれ、遺灰をばらまかれ、住んでいた家を壊されました。その跡地には「悪名高い感染を広めた男の家」という石碑のついた柱まで建てられたのです。<br /><br />中世のペストの流行時には魔女狩りが行われましたが、17世紀になってもそれに近いことが行われていたんですね。<br /><br />悪名高い柱は1778年に取り壊され、ここに運ばれて来ました。でもなぜここなんでしょう?

    象のフレスコの前にあった石碑は、1630年にペストを伝染させたというとんでもない罪をなすりつけられ、拷問によって殺されたミラノの市民ジャン・ジャコモ・モーラについて書かれていました。

    ミラノではペストの感染を防ぐとされていた、厚生委員会の許可を得た軟膏が出回っていましたが、モーラは感染を広める軟膏を製造したという罪で逮捕され、ひどい拷問を受けた末、体中の骨を折られて喉を切られて殺されました。その後彼は焼かれ、遺灰をばらまかれ、住んでいた家を壊されました。その跡地には「悪名高い感染を広めた男の家」という石碑のついた柱まで建てられたのです。

    中世のペストの流行時には魔女狩りが行われましたが、17世紀になってもそれに近いことが行われていたんですね。

    悪名高い柱は1778年に取り壊され、ここに運ばれて来ました。でもなぜここなんでしょう?

  • 象のポルティコから見たスフォルツァ城。左手奥にボナ・ディ・サヴォイア塔が見えています。

    象のポルティコから見たスフォルツァ城。左手奥にボナ・ディ・サヴォイア塔が見えています。

  • 公爵の中庭にあったルネサンス期の噴水です。一番下にやはり、子供を飲み込む蛇がいましたよ。

    公爵の中庭にあったルネサンス期の噴水です。一番下にやはり、子供を飲み込む蛇がいましたよ。

  • スフォルツァ城の目玉、ミケランジェロの未完の大作「ロンダニーニのピエタ」を写した看板が目につきましたが、どうにも気が進みません。スフォルツァ城にある市立博物館は、混雑していたということもあるけれど、なぜかこの時は、写真だけでもう十分という気分になっていたのでパス。

    スフォルツァ城の目玉、ミケランジェロの未完の大作「ロンダニーニのピエタ」を写した看板が目につきましたが、どうにも気が進みません。スフォルツァ城にある市立博物館は、混雑していたということもあるけれど、なぜかこの時は、写真だけでもう十分という気分になっていたのでパス。

  • 続いてやってきたのは、ボナ・ディ・サヴォイア塔を囲むロッケッタと呼ばれる部分の中庭です。前述したとおり、ロッケッタはスフォルツァ城の中でも難攻不落と言われている場所で、中庭は四方を5階建ての建物で囲まれていました。<br /><br />濠を渡る跳ね橋を渡った後に入れるゲートは、元々はたった一か所のみで、侯爵の中庭に行き来できる通路は後世に造られたそうです。

    続いてやってきたのは、ボナ・ディ・サヴォイア塔を囲むロッケッタと呼ばれる部分の中庭です。前述したとおり、ロッケッタはスフォルツァ城の中でも難攻不落と言われている場所で、中庭は四方を5階建ての建物で囲まれていました。

    濠を渡る跳ね橋を渡った後に入れるゲートは、元々はたった一か所のみで、侯爵の中庭に行き来できる通路は後世に造られたそうです。

  • 四方の建物の装飾と回廊の柱は均一ではなく、建てられた年代により、様式が異なっていました。

    四方の建物の装飾と回廊の柱は均一ではなく、建てられた年代により、様式が異なっていました。

  • ヴォールトには、多足動物の足みたいで少々気持ち悪い? 太陽が輝いていました。

    ヴォールトには、多足動物の足みたいで少々気持ち悪い? 太陽が輝いていました。

  • 壁に唯一残っていたフレスコです。

    壁に唯一残っていたフレスコです。

  • ロッケッタについての説明書きがありましたよ。<br /><br />フランチェスコ・スフォルツァの治世 1450年から1466年<br />左入口のポルティコ アント・アヴェルリーノ作<br />ガレアッツォ・スフォルツァの治世 1466年から1476年<br />アクセスの前のポルティコ ベネデット・フェッリーニ作<br />ロドヴィコ・イル・モーロの治世 1480年から1499年<br />右入口のポルティコ ブラマンテ作<br /><br />おおー ブラマンテの作ですって! ドナト・ブラマンテ。イタリアルネサンス期の建築家で、アンドレア・パッラーディオが称賛した建築家でもあります。<br /><br />スフォルツァ家はフランスの侵攻によって1499年にミラノを追われますが、その時ブラマンテもミラノを離れ、その後ローマに移り住んでいます。<br /><br />

    ロッケッタについての説明書きがありましたよ。

    フランチェスコ・スフォルツァの治世 1450年から1466年
    左入口のポルティコ アント・アヴェルリーノ作
    ガレアッツォ・スフォルツァの治世 1466年から1476年
    アクセスの前のポルティコ ベネデット・フェッリーニ作
    ロドヴィコ・イル・モーロの治世 1480年から1499年
    右入口のポルティコ ブラマンテ作

    おおー ブラマンテの作ですって! ドナト・ブラマンテ。イタリアルネサンス期の建築家で、アンドレア・パッラーディオが称賛した建築家でもあります。

    スフォルツァ家はフランスの侵攻によって1499年にミラノを追われますが、その時ブラマンテもミラノを離れ、その後ローマに移り住んでいます。

  • 難攻不落のロッケッタを出て、今は普通の橋で濠を渡ると、広大な「軍隊の中庭」に出ましたよ。入ってきた北門とは反対側の南門の上には、勇壮なフィラレーテ塔が聳えていました。この城でメインの最も高い塔です。<br /><br />フランチェスコ・スフォルツァの時代の1452年に造られ、設計した建築家フィラレーテの名前が付けられています。当初の設計では優雅な大理石製でしたが、実際の塔はレンガ造りのごっつい感じのする仕上がりになっています。ミラノのシンボル的な存在の塔ですね。<br /><br />16世紀に爆発事故で半壊。現在の塔は20世紀初め頃にルカ・ベルトラーミにより再建されたものです。

    難攻不落のロッケッタを出て、今は普通の橋で濠を渡ると、広大な「軍隊の中庭」に出ましたよ。入ってきた北門とは反対側の南門の上には、勇壮なフィラレーテ塔が聳えていました。この城でメインの最も高い塔です。

    フランチェスコ・スフォルツァの時代の1452年に造られ、設計した建築家フィラレーテの名前が付けられています。当初の設計では優雅な大理石製でしたが、実際の塔はレンガ造りのごっつい感じのする仕上がりになっています。ミラノのシンボル的な存在の塔ですね。

    16世紀に爆発事故で半壊。現在の塔は20世紀初め頃にルカ・ベルトラーミにより再建されたものです。

  • フィラレーテの塔の両側の角にある塔は円筒形をしていて、向かって左側がカルミネの塔、写真では写っていませんが、反対側の塔は聖霊の塔と呼ばれています。市内に向いた側の両脇を固める二つの塔は、上記のフィラレーテの塔同様、1452年に建築家バルトロメオ・ガーディオによって造られました。当時ミラノを訪れた外国の大使などには「高貴だ」と大変評判が良かったそうです。<br /><br />内部はヴォールト天井で覆われた6室から成り、後年は刑務所として使用されきました。現在は図書館になっています。

    フィラレーテの塔の両側の角にある塔は円筒形をしていて、向かって左側がカルミネの塔、写真では写っていませんが、反対側の塔は聖霊の塔と呼ばれています。市内に向いた側の両脇を固める二つの塔は、上記のフィラレーテの塔同様、1452年に建築家バルトロメオ・ガーディオによって造られました。当時ミラノを訪れた外国の大使などには「高貴だ」と大変評判が良かったそうです。

    内部はヴォールト天井で覆われた6室から成り、後年は刑務所として使用されきました。現在は図書館になっています。

  • こちらが、聖霊の塔とそれに続く要塞部分です。下に見える建物が、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」のある市立博物館です。<br /><br />壁と軒下の装飾がとても美しい建物でした。

    こちらが、聖霊の塔とそれに続く要塞部分です。下に見える建物が、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」のある市立博物館です。

    壁と軒下の装飾がとても美しい建物でした。

  • アップするとこんな感じです。

    アップするとこんな感じです。

  • フィラレーテの塔の両側には、写真で見るミラノのアーカイヴ、アキーレ・ベルトレッリの印刷物博物館などが並んでいました。<br /><br />ここから見た方が、フィラレーテの塔の構造が良く分かりますね。頑丈なレンガの四角体の上に胸壁が突き出ていて、その上の層にはベルトラーミが設置した時計が見えました。時計台の上の二層には鐘が収納されていて、最上層は八角形の躯体に丸屋根が乗っかっています。上に行くにしたがって女性的になっていくような気がします。

    フィラレーテの塔の両側には、写真で見るミラノのアーカイヴ、アキーレ・ベルトレッリの印刷物博物館などが並んでいました。

    ここから見た方が、フィラレーテの塔の構造が良く分かりますね。頑丈なレンガの四角体の上に胸壁が突き出ていて、その上の層にはベルトラーミが設置した時計が見えました。時計台の上の二層には鐘が収納されていて、最上層は八角形の躯体に丸屋根が乗っかっています。上に行くにしたがって女性的になっていくような気がします。

  • アキーレ・ベルトレッリ(1863年-1938年)が生涯をかけて集めた古い印刷物のコレクションの数は100万枚以上と言われています。ベルトレッリは1925年に自分のコレクションをミラノ市に寄贈しました。地図、設計書、町の風景(特にミラノ)はがき、ゲーム等々世界でも珍しいお宝を集めた博物館。時間が許せば入りたかった・・・

    アキーレ・ベルトレッリ(1863年-1938年)が生涯をかけて集めた古い印刷物のコレクションの数は100万枚以上と言われています。ベルトレッリは1925年に自分のコレクションをミラノ市に寄贈しました。地図、設計書、町の風景(特にミラノ)はがき、ゲーム等々世界でも珍しいお宝を集めた博物館。時間が許せば入りたかった・・・

  • 内部にあった古い印刷機。ヴェローナから印刷技術に急に興味を持ったみたい・・・

    内部にあった古い印刷機。ヴェローナから印刷技術に急に興味を持ったみたい・・・

  • 「軍隊の中庭」を挟んで、ボナ・ディ・サヴォイアの塔、高い壁に囲まれたロッケッタが見えています。私は左側の口から出てきましたが、ボナ・ディ・サヴォイア塔の右側に、入場した北門からまっすぐに続くジョヴィア門も見えます。

    「軍隊の中庭」を挟んで、ボナ・ディ・サヴォイアの塔、高い壁に囲まれたロッケッタが見えています。私は左側の口から出てきましたが、ボナ・ディ・サヴォイア塔の右側に、入場した北門からまっすぐに続くジョヴィア門も見えます。

  • 公爵、そしてのちの治世者達は、通常は向かって右側にある「公爵の中庭」のある建物で暮らし、城に万が一の闖入者があると、左側のロッケッタに避難したのですね。

    公爵、そしてのちの治世者達は、通常は向かって右側にある「公爵の中庭」のある建物で暮らし、城に万が一の闖入者があると、左側のロッケッタに避難したのですね。

  • 聖霊の塔と市立博物館のある西側を遠景で。

    聖霊の塔と市立博物館のある西側を遠景で。

  • フィラレーテの門に隣接する壁の装飾です。ここもベルトラーミの再建部分かしら? 今までに見たことのない、S字型の模様が随所に取り入れられていました。

    フィラレーテの門に隣接する壁の装飾です。ここもベルトラーミの再建部分かしら? 今までに見たことのない、S字型の模様が随所に取り入れられていました。

  • ここで最後。フィラレーテの門から外に出ましょう。もう一度見上げます。近くで見ると大変重々しい雰囲気。所々に使われている灰色の石が良いアクセントになっていますね。

    ここで最後。フィラレーテの門から外に出ましょう。もう一度見上げます。近くで見ると大変重々しい雰囲気。所々に使われている灰色の石が良いアクセントになっていますね。

  • フィラレーテの門から見た聖霊の塔です。黒い、表面がピラミッド型の切り石積み(アシュラー積み)のように見えますね。風格あります。<br /><br />濠は今では埋められて浅く感じるけれど、当初はかなりの深さがあったのでしょうね。

    フィラレーテの門から見た聖霊の塔です。黒い、表面がピラミッド型の切り石積み(アシュラー積み)のように見えますね。風格あります。

    濠は今では埋められて浅く感じるけれど、当初はかなりの深さがあったのでしょうね。

  • フィラレーテの門の前には、大きな噴水のあるカステッロ広場になっていました。

    フィラレーテの門の前には、大きな噴水のあるカステッロ広場になっていました。

  • そして道1本挟んだ奥には、2棟のピラミッド型の白い建物が建っていました。2015EXPO GATEです。エキスポ開催中は、ここがメインのインフォメーション、切符売り場になっていました。エキスポ後は2016年に行われたイヴェント21回トリエンナーレの案内所兼切符売り場になったはずですが、今はどうなっているのでしょう?

    そして道1本挟んだ奥には、2棟のピラミッド型の白い建物が建っていました。2015EXPO GATEです。エキスポ開催中は、ここがメインのインフォメーション、切符売り場になっていました。エキスポ後は2016年に行われたイヴェント21回トリエンナーレの案内所兼切符売り場になったはずですが、今はどうなっているのでしょう?

  • 外側からのフィラレーテの門は、木々に隠れて、上手く撮れませんでした。時計の文字盤にもあの、少々気味の悪い太陽の装飾がありましたよ。

    外側からのフィラレーテの門は、木々に隠れて、上手く撮れませんでした。時計の文字盤にもあの、少々気味の悪い太陽の装飾がありましたよ。

  • カステッロ広場前の建物は、緩いカーヴを描いていました。

    カステッロ広場前の建物は、緩いカーヴを描いていました。

  • 通り沿いの建物にはご覧の独特な形状の柱を使ったものが多く見られました。こういう形のものは初めてです。

    通り沿いの建物にはご覧の独特な形状の柱を使ったものが多く見られました。こういう形のものは初めてです。

  • 一旦カドルナの駅前近くのラルゴ・カイローリまで戻ると、イタリアの町ならどこでもある騎馬像が出迎えてくれました。<br /><br />調べてみたら、やはりお馴染みのジュゼッペ・ガリバルディ氏でした。エットーレ・ヒメネス作。騎馬像は初めてかも。ガリバルディ・コレクションがまた一つ増えました。<br /><br />手前にあるライオンにまたがった勇ましい兵士は「革命」をイメージしています。

    一旦カドルナの駅前近くのラルゴ・カイローリまで戻ると、イタリアの町ならどこでもある騎馬像が出迎えてくれました。

    調べてみたら、やはりお馴染みのジュゼッペ・ガリバルディ氏でした。エットーレ・ヒメネス作。騎馬像は初めてかも。ガリバルディ・コレクションがまた一つ増えました。

    手前にあるライオンにまたがった勇ましい兵士は「革命」をイメージしています。

  • これまたお馴染みのマグネット・コレクション。スフォルツァ城もありますが、圧倒的多数を占めているのはやはりドゥオモ。呼ばれているので、そろそろドゥオモを見に行きますか・・・

    これまたお馴染みのマグネット・コレクション。スフォルツァ城もありますが、圧倒的多数を占めているのはやはりドゥオモ。呼ばれているので、そろそろドゥオモを見に行きますか・・・

  • ガリバルディとフィラレーテの塔、そして2015EXPO GATEが並びました。

    ガリバルディとフィラレーテの塔、そして2015EXPO GATEが並びました。

  • ラルゴ・カイローリからは、ドゥオモ参道とも言えるダンテ通りを行きます。この通りは歩行者専用で歩きやすかったです。

    ラルゴ・カイローリからは、ドゥオモ参道とも言えるダンテ通りを行きます。この通りは歩行者専用で歩きやすかったです。

  • ダンテ通りで最初に見つけたのは、ピッコロ・テアトロ。1947年にオープンしたイタリアで最初の常設劇場だそうです。収容人数500名の名に違わない小さな劇場ですが、マルコ・ツァヌーゾデザインのZ字型をした椅子が人気を博しています。

    ダンテ通りで最初に見つけたのは、ピッコロ・テアトロ。1947年にオープンしたイタリアで最初の常設劇場だそうです。収容人数500名の名に違わない小さな劇場ですが、マルコ・ツァヌーゾデザインのZ字型をした椅子が人気を博しています。

  • 次に出会ったこの目立つ建物はカーザ・ブロッジ。19世紀末に建築家ルイジ・ブロッジがジュゼッペ・ソマルーガと取り壊された教会跡に建てたビルです。<br /><br />1階から4階部分は地味目ですが、右端のテラモンが支えるバルコニーが素敵! 5階部分にはモザイクが描かれた壁と付け柱があって、急に派手になります。最上階の2つの屋根裏フロアはまるでパリの町みたいな雰囲気ですね。お洒落~!!

    次に出会ったこの目立つ建物はカーザ・ブロッジ。19世紀末に建築家ルイジ・ブロッジがジュゼッペ・ソマルーガと取り壊された教会跡に建てたビルです。

    1階から4階部分は地味目ですが、右端のテラモンが支えるバルコニーが素敵! 5階部分にはモザイクが描かれた壁と付け柱があって、急に派手になります。最上階の2つの屋根裏フロアはまるでパリの町みたいな雰囲気ですね。お洒落~!!

  • モザイクのあるフロアを中心にズームしてみました。

    モザイクのあるフロアを中心にズームしてみました。

  • カーザ・ブロッジから目と鼻の先の丸いコルドゥシオ広場にも、ブロッジの作品ありました。手前のウニ・クレジットのビル、奥の郵便局(パラッツォ・ブロッジ)ともに彼の作品。郵便局は1932年までミラノ証券取引所として使用されていたそうです。20世紀初頭の建造。

    カーザ・ブロッジから目と鼻の先の丸いコルドゥシオ広場にも、ブロッジの作品ありました。手前のウニ・クレジットのビル、奥の郵便局(パラッツォ・ブロッジ)ともに彼の作品。郵便局は1932年までミラノ証券取引所として使用されていたそうです。20世紀初頭の建造。

  • 上の写真手前のビルのファサードです。ウニクレジットと書かれていますね。最近中国系企業に売却されたという話なので、次に見る時には漢字の看板に変わっているかもしれませんね。<br /><br /><br />ファサードには3つの扉があって、4本のイオニア式列柱が豪華なバルコニーを支えていました。

    上の写真手前のビルのファサードです。ウニクレジットと書かれていますね。最近中国系企業に売却されたという話なので、次に見る時には漢字の看板に変わっているかもしれませんね。


    ファサードには3つの扉があって、4本のイオニア式列柱が豪華なバルコニーを支えていました。

  • 広場には他にも印象的な建物がカーヴを描いて並んでいましたよ。こちらは、イタリア最大の保険会社ジェネラーリのビル。モザイクのある半円形のエゼドラと丸屋根を持つ背の高いクーポラが特徴的。スフォルツァ城の再建を行ったルカ・ベルトラーミとルイジ・テネンティの設計で1897年から99年の建造です。

    広場には他にも印象的な建物がカーヴを描いて並んでいましたよ。こちらは、イタリア最大の保険会社ジェネラーリのビル。モザイクのある半円形のエゼドラと丸屋根を持つ背の高いクーポラが特徴的。スフォルツァ城の再建を行ったルカ・ベルトラーミとルイジ・テネンティの設計で1897年から99年の建造です。

  • コルドゥシオ広場からまっすぐに通りを行けば、もう白く輝くドゥオモが姿を見せ始めています。左側の道を進めばヴィットリオ・エマニュエーレ2世アーケードの中へ。贅沢な選択を迫られます。

    コルドゥシオ広場からまっすぐに通りを行けば、もう白く輝くドゥオモが姿を見せ始めています。左側の道を進めばヴィットリオ・エマニュエーレ2世アーケードの中へ。贅沢な選択を迫られます。

  • 私は迷わずにダンテ通りから名前の変わったメルカンティ通りを進みます。

    私は迷わずにダンテ通りから名前の変わったメルカンティ通りを進みます。

  • そしてまたまた気になるものを見つけましたよ!

    そしてまたまた気になるものを見つけましたよ!

  • ドゥオモのすぐ手前にあったこちらの建物は、パラッツォ・ジュウレコンスルティ。ミラノの貴族だったジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(後の教皇ピウス4世)が出費して建てた、メルカンティ広場の経済・社会活動の中心となっていた建物で、1562年の建造。ヴィンチェンツォ・セレーニの設計です。<br /><br />ルネサンス期には、建物は評議員、裁判官、司法官などの上級教育機関がここを使用していました。ジュウレコンスルティとは、法律に長けたものという意味だそうです。19世紀になると証券取引所、電報局、銀行などになりましたが、1911年にミラノ商工会議所がここを購入し、現在も所有しています。<br /><br />第二次大戦では爆撃の被害に会いましたが、1980年代にジャンニ・メッツァノッテにより修復されています。<br /><br />

    ドゥオモのすぐ手前にあったこちらの建物は、パラッツォ・ジュウレコンスルティ。ミラノの貴族だったジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(後の教皇ピウス4世)が出費して建てた、メルカンティ広場の経済・社会活動の中心となっていた建物で、1562年の建造。ヴィンチェンツォ・セレーニの設計です。

    ルネサンス期には、建物は評議員、裁判官、司法官などの上級教育機関がここを使用していました。ジュウレコンスルティとは、法律に長けたものという意味だそうです。19世紀になると証券取引所、電報局、銀行などになりましたが、1911年にミラノ商工会議所がここを購入し、現在も所有しています。

    第二次大戦では爆撃の被害に会いましたが、1980年代にジャンニ・メッツァノッテにより修復されています。

  • 中央に立つ時計塔は市の塔として、現在の時計に置き換えられるまでは鐘の音で市民に火事や夜間外出禁止令、有罪判決などを知らせていました。

    中央に立つ時計塔は市の塔として、現在の時計に置き換えられるまでは鐘の音で市民に火事や夜間外出禁止令、有罪判決などを知らせていました。

  • 現在はデザイン、アート、ファッション、イヴェント会場として使用されています。他にもカタルーニャ州バルセロナの観光案内が開催されていましたよ。

    現在はデザイン、アート、ファッション、イヴェント会場として使用されています。他にもカタルーニャ州バルセロナの観光案内が開催されていましたよ。

  • ドゥオモの目と鼻の先に、こんな建物があったとは全く知りませんでした。地下には展示会場、2階には国際級のハイテク設備を備えた会議室から小会議室があり、最上階にはドゥオモや王宮を眺められるテラスがあるそうです。この外観からは想像しにくいですね。

    ドゥオモの目と鼻の先に、こんな建物があったとは全く知りませんでした。地下には展示会場、2階には国際級のハイテク設備を備えた会議室から小会議室があり、最上階にはドゥオモや王宮を眺められるテラスがあるそうです。この外観からは想像しにくいですね。

  • パラッツォ・ジュウレコンスルティの対面には、これまた気になる建物がありました。ラジョーネ館パラッツォ・デッラ・ラッジョーネ(またの名はブロレット・ヌオヴォ)です。<br /><br />ミラノを含むロンバルディ地方には11世紀頃から人々が集まって政治的な行事や集会、裁判が行われた場所がありました。中世の言葉でそれをブロレットと呼んでいますが、ここはミラノに3つあったブロレットの1つです。建物は1228年、時のミラノの執政官アリプランド・ファバの意思により、集会に適したシンプルなポルティコだけの建物として工事を開始しました。しかし、工事半ばの1233年、執政官オルドラード・ダ・トレッセーノが、2階部分に重要な事項を話し合う大きな集会場を作るよう要請しています。<br /><br />建物は1238年に完成。18世紀に入るまでそのまま使われていましたが、1773年、時のオーストリア女王マリア・テレジアが建築家フランチェスコ・クローチェに命じて全面改装させました。クローチェはミラノのドゥオモにある一番高い尖塔を設計したことで知られています。

    パラッツォ・ジュウレコンスルティの対面には、これまた気になる建物がありました。ラジョーネ館パラッツォ・デッラ・ラッジョーネ(またの名はブロレット・ヌオヴォ)です。

    ミラノを含むロンバルディ地方には11世紀頃から人々が集まって政治的な行事や集会、裁判が行われた場所がありました。中世の言葉でそれをブロレットと呼んでいますが、ここはミラノに3つあったブロレットの1つです。建物は1228年、時のミラノの執政官アリプランド・ファバの意思により、集会に適したシンプルなポルティコだけの建物として工事を開始しました。しかし、工事半ばの1233年、執政官オルドラード・ダ・トレッセーノが、2階部分に重要な事項を話し合う大きな集会場を作るよう要請しています。

    建物は1238年に完成。18世紀に入るまでそのまま使われていましたが、1773年、時のオーストリア女王マリア・テレジアが建築家フランチェスコ・クローチェに命じて全面改装させました。クローチェはミラノのドゥオモにある一番高い尖塔を設計したことで知られています。

  • 1階部分。中は本当にシンプルなアーチの空間が広がっています。

    1階部分。中は本当にシンプルなアーチの空間が広がっています。

  • 1箇所だけレジスタンス活動に倒れた人々への慰霊の花輪がアーティスティックに置かれていました。でもこれだけ・・・

    1箇所だけレジスタンス活動に倒れた人々への慰霊の花輪がアーティスティックに置かれていました。でもこれだけ・・・

  • こちらは、メルカンティ通りとは反対側のメルカンティ広場に面した建物の外観です。フランチェスコ・クローチェは、2階部分に方立のある三連窓を設置。建物自体の高さを上げて、3階部分には楕円形の窓を並べました。そして全体をネオ・クラシカル様式で統一、公証人役場として使用を開始しました。<br /><br />その後19世紀半ばにも改装されて、一時期銀行のオフィスとして使用されていましたが、1907年に元の広いポルティコ形式に戻されました。

    こちらは、メルカンティ通りとは反対側のメルカンティ広場に面した建物の外観です。フランチェスコ・クローチェは、2階部分に方立のある三連窓を設置。建物自体の高さを上げて、3階部分には楕円形の窓を並べました。そして全体をネオ・クラシカル様式で統一、公証人役場として使用を開始しました。

    その後19世紀半ばにも改装されて、一時期銀行のオフィスとして使用されていましたが、1907年に元の広いポルティコ形式に戻されました。

  • ミラノはもはやイタリアではないと思い込んでいた私は口をあんぐり。こんな古い建物も残っているのね! 凄ーい!<br /><br />

    ミラノはもはやイタリアではないと思い込んでいた私は口をあんぐり。こんな古い建物も残っているのね! 凄ーい!

  • 中二階のニッチェにあった騎馬像は、1233年当時のミラノの執政官オルドラード・ダ・トレッセーノのレリーフでした。<br /><br />1970年代、オリジナルのラッジョーネ宮に戻そうという動きがあり、建築家マルコ・デッツィ・バルデスキが復元作業を行いました。その際、クローチェによって加えられた3階部分の撤去も検討されたのですが、バルデスキの反対により実施に至らなかったというエピソードが残されています。

    中二階のニッチェにあった騎馬像は、1233年当時のミラノの執政官オルドラード・ダ・トレッセーノのレリーフでした。

    1970年代、オリジナルのラッジョーネ宮に戻そうという動きがあり、建築家マルコ・デッツィ・バルデスキが復元作業を行いました。その際、クローチェによって加えられた3階部分の撤去も検討されたのですが、バルデスキの反対により実施に至らなかったというエピソードが残されています。

  • こちらは、静かなメルカンティ広場です。中央には風情ある古井戸。そして正面にあるある建物はロッジア・デッリ・オシイ。ミラノの領主マッテオ・1世ヴィスコンティの命によ1321年に建てられたもので、司法官や公証人らの事務所を収容する目的でした。建築以前にここにオシイ家の宮殿があったことから名前が付けられています。<br /><br />

    こちらは、静かなメルカンティ広場です。中央には風情ある古井戸。そして正面にあるある建物はロッジア・デッリ・オシイ。ミラノの領主マッテオ・1世ヴィスコンティの命によ1321年に建てられたもので、司法官や公証人らの事務所を収容する目的でした。建築以前にここにオシイ家の宮殿があったことから名前が付けられています。

  • 建物は1904年にオリジナルの外観に復元されています。<br /><br />井戸の陰になっていて見にくいのですが、中央のバルコニーには、正義の象徴「鷲」のレリーフがあります。<br /><br />

    建物は1904年にオリジナルの外観に復元されています。

    井戸の陰になっていて見にくいのですが、中央のバルコニーには、正義の象徴「鷲」のレリーフがあります。

  • ロッジア・デッリ・オシイの右隣りにあったのはバロック様式のパラティーネ学校。中世ミラノが誇った名門教育機関です。沢山の著名な学者たちがここで教鞭をとりました。こちらにも立派なロッジアがありますね。<br /><br />最初の建物は1644年に火災で焼失。現在の建物はカルロ・ブッツィによって建てられたもの。アーチの間にはローマ帝国時代と思しき胸像のレリーフが並び、2階中央のニッチェには聖アウグスティヌスの彫像が立っていました。右端にいるのは、古代ローマの詩人アウソニオ(アウソニウス)だそうです。共にジョヴァン・ピエトロ・ラザーニャの17世紀の作です。<br />

    ロッジア・デッリ・オシイの右隣りにあったのはバロック様式のパラティーネ学校。中世ミラノが誇った名門教育機関です。沢山の著名な学者たちがここで教鞭をとりました。こちらにも立派なロッジアがありますね。

    最初の建物は1644年に火災で焼失。現在の建物はカルロ・ブッツィによって建てられたもの。アーチの間にはローマ帝国時代と思しき胸像のレリーフが並び、2階中央のニッチェには聖アウグスティヌスの彫像が立っていました。右端にいるのは、古代ローマの詩人アウソニオ(アウソニウス)だそうです。共にジョヴァン・ピエトロ・ラザーニャの17世紀の作です。

  • 16世紀に造られた井戸越しの写真ですが、広場の西側にあるカラフルな建物はカーザ・パニガローラ。18世紀半ばまで建物を所有していた公証人の名前から付けられたそうです。建物は中世の時代まで遡りますが、15世紀にゴシック様式で再建されています。<br /><br />所々剥げていますが、アーチと1階と2階を区切るテラコッタの装飾が面白い! 柱の陰になっている2階の一番左側の窓枠装飾も美しいです。

    16世紀に造られた井戸越しの写真ですが、広場の西側にあるカラフルな建物はカーザ・パニガローラ。18世紀半ばまで建物を所有していた公証人の名前から付けられたそうです。建物は中世の時代まで遡りますが、15世紀にゴシック様式で再建されています。

    所々剥げていますが、アーチと1階と2階を区切るテラコッタの装飾が面白い! 柱の陰になっている2階の一番左側の窓枠装飾も美しいです。

  • 南西及び西側の建物については、コメントするような材料はなさそうですが、どの建物も静かに自己主張していて、それでいて、難なくこの広場に溶け込んでいるように思いました。<br /><br />メルカンティ通りの雑踏から逃れるには絶好の隠れ場。ラッジョーネ宮の階段に腰を下ろして、暫しぼんやりと景色を眺めていました。

    南西及び西側の建物については、コメントするような材料はなさそうですが、どの建物も静かに自己主張していて、それでいて、難なくこの広場に溶け込んでいるように思いました。

    メルカンティ通りの雑踏から逃れるには絶好の隠れ場。ラッジョーネ宮の階段に腰を下ろして、暫しぼんやりと景色を眺めていました。

  • 再び、ラッジョーネ宮の1階部分です。奥に見える透明樹脂を用いた階段が、いかにもイタリアらしい素敵なデザインだったことに気が付きました。2階にも行けたんだぁと思いましたが、どうやら途中から立ち入り禁止になっているようでした。<br /><br />中世の時代にここで開かれた集会を思い浮かべながら、ラッジョーネ宮を後にします。

    再び、ラッジョーネ宮の1階部分です。奥に見える透明樹脂を用いた階段が、いかにもイタリアらしい素敵なデザインだったことに気が付きました。2階にも行けたんだぁと思いましたが、どうやら途中から立ち入り禁止になっているようでした。

    中世の時代にここで開かれた集会を思い浮かべながら、ラッジョーネ宮を後にします。

  • 再びパラッツォ・ジュウレコンスルティです。そうそう、書き忘れていました。時計台の下、中央のニッチェにいらっしゃる方は、ミラノの守護聖人聖アンブローズ。4世紀のミラノの司教だった方です。今までもイタリア各地で聖アンブローズの姿を見て来ましたが、やはり本場で見るのは一味違います。

    再びパラッツォ・ジュウレコンスルティです。そうそう、書き忘れていました。時計台の下、中央のニッチェにいらっしゃる方は、ミラノの守護聖人聖アンブローズ。4世紀のミラノの司教だった方です。今までもイタリア各地で聖アンブローズの姿を見て来ましたが、やはり本場で見るのは一味違います。

  • なんとまあ、車止めまでお洒落なミラノでした。もうここはドゥオモ広場。数十年ぶりにドゥオモに会えます。振り向けばそこに・・・<br /><br />この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その93 ミラノ2で!<br /><br />

    なんとまあ、車止めまでお洒落なミラノでした。もうここはドゥオモ広場。数十年ぶりにドゥオモに会えます。振り向けばそこに・・・

    この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その93 ミラノ2で!

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