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東田子の浦駅から吉原宿を経て、富士川を越えて蒲原宿へ。<br /><br />編集中

東海道53次、No13 東田子の浦駅から吉原宿を経て、富士川を越えて蒲原宿へ

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2016/11/17 - 2016/11/17

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ムッシュ

ムッシュさん

東田子の浦駅から吉原宿を経て、富士川を越えて蒲原宿へ。

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  • 【立圓寺(りゅうえんじ)】富士市西柏原新田72<br />日蓮宗の寺院。東海道宿場の原宿と吉原宿の中間にあり、富士山の眺望が楽しめる眺めの良い立地。境内には尾張藩の典医・柴田景浩がこの地から望む富士山の美しさに感銘を受け建立した「望嶽碑」がある。<br />1979年に台風により柏原海岸に打ち上げられたゲラテック号の遭難者の慰霊碑もある

    【立圓寺(りゅうえんじ)】富士市西柏原新田72
    日蓮宗の寺院。東海道宿場の原宿と吉原宿の中間にあり、富士山の眺望が楽しめる眺めの良い立地。境内には尾張藩の典医・柴田景浩がこの地から望む富士山の美しさに感銘を受け建立した「望嶽碑」がある。
    1979年に台風により柏原海岸に打ち上げられたゲラテック号の遭難者の慰霊碑もある

  • 【立圓寺(りゅうえんじ)本堂】<br /> 万治3年(1660)に京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創された。明治初期および昭和7年(1932)11月14日 大火で類焼し、堂宇、古文書など焼失した。日審は「法を演ること 一万余座、席上の法譚又一万余座、曼荼羅を書すること十万余幅、受法の者九万余人」『草山集』といわれるように全国布教遊化のとき、麗峰富士の眺望が東海道でもっとも素晴らし いといわれる当地(境内現存の望嶽の碑)に一宇を建立した。<br />宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉安した。また身延山大本堂の仮本尊であった大曼荼羅(身延88世竹下日康法主筆)を遷座するなど寺観を一新した。

    【立圓寺(りゅうえんじ)本堂】
    万治3年(1660)に京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創された。明治初期および昭和7年(1932)11月14日 大火で類焼し、堂宇、古文書など焼失した。日審は「法を演ること 一万余座、席上の法譚又一万余座、曼荼羅を書すること十万余幅、受法の者九万余人」『草山集』といわれるように全国布教遊化のとき、麗峰富士の眺望が東海道でもっとも素晴らし いといわれる当地(境内現存の望嶽の碑)に一宇を建立した。
    宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉安した。また身延山大本堂の仮本尊であった大曼荼羅(身延88世竹下日康法主筆)を遷座するなど寺観を一新した。

  • 1979年に台風により柏原海岸に打ち上げられたゲラテック号の遭難者の慰霊碑もある<br />【ゲラティック号遭難誌】<br />  清水港より救援米を運ぶ途中昭和五十四年(1979)十月十九日台風20号に遭遇し強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられ救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防波堤の中間の陸地に打ち上げられ新聞テレビのマスコミにも登場し日曜、祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと東京・愛知・山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月間を要して解体処理されここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。<br />屯数6320t。 全長155m。 高さ巾各20m。 錨の重量4t。

    1979年に台風により柏原海岸に打ち上げられたゲラテック号の遭難者の慰霊碑もある
    【ゲラティック号遭難誌】
      清水港より救援米を運ぶ途中昭和五十四年(1979)十月十九日台風20号に遭遇し強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられ救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防波堤の中間の陸地に打ち上げられ新聞テレビのマスコミにも登場し日曜、祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと東京・愛知・山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月間を要して解体処理されここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。
    屯数6320t。 全長155m。 高さ巾各20m。 錨の重量4t。

  • 【ゲラティック号遭難誌】 <br />清水港より救援米を運ぶ途中、昭和五十四年(1979年)十月十九日、台風二十号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に打ちあげられ、救助を求める二人の遵い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防波堤の中間の陸地に打ちあげられ、新聞、テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、五万人の人出を数え、売店十数軒出店するなど、近郊は勿論のこと、東京、愛知、山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。(碑文)

    【ゲラティック号遭難誌】 
    清水港より救援米を運ぶ途中、昭和五十四年(1979年)十月十九日、台風二十号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に打ちあげられ、救助を求める二人の遵い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防波堤の中間の陸地に打ちあげられ、新聞、テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、五万人の人出を数え、売店十数軒出店するなど、近郊は勿論のこと、東京、愛知、山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。(碑文)

  • 【望岳碑】<br />医学のみならず墨竹画にも優れた柴田景浩が、石碑を作り、死後ここに戻ってこられるよう自分の髪を切って、ここに埋めた。<br /><br />「文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを称賛している」<br /><br />【望嶽碑之銘】 <br />予の性、山を愛し、又、山を画くを喜ぶ。山は富士より奇なるはなし。富士の勝、此の間に望むに如(し)くはなし。予は未だ富士を見ず。画によりて之を想う。既に見る。見るによりて之を画く。凡、江戸に祇役(しえき)して、ここを経る數(しばしば)なり。毎(つね)に輿(こし)を停めてたたずみ望む。爽然自失、低回して日陰に移る。去る能はず。就(たと)いここに終らんと欲すれど、勢を得るべからず。個人は云わず。誰ぞ後に来る者の為に、当(まさ)に、此の心を與(あた)えんと期す。乃ち頭毛を翦(き)りて此の地にうずめ、志を表す。百歳の後の遊魂をして、よる所有らしめんと欲す。予の姓は柴田、名は景浩、字は子博、龍渓と称す。尾張の侍医なり。文化戌辰五月 景浩自誌<br /><br />「「私は生まれつき山が大好きで、また山を絵に描くことが好きである。山といえば富士よりすぐれた山はなく、富士の眺めといえばここから望むのが一番である。<br />私は、富士を見る 前から絵を見て想像をめぐらしていたが、富士を見てからは<br />自分の見たままを絵に描いた。 参勤交代のために何度もここを通ったが、輿が休憩するたびに佇んでは富士を望み、ぼん やりと我を失って行きつ戻りつし、時間が来ても出発できなかった。<br />願わくはおまえ(富 士)のふもとで死にたいと思うが、なかなか思うに任せない。昔の人も言ったではないか、 「誰か将来ここを訪れる人があったなら、きっとこの心境を理解してくれるに違いない」 (中唐の詩人・柳宋元〔773-819〕の「南礀中に題す」末尾の詩句)と。<br />そこで、髪の毛を 切ってこの地に埋めることで気持ちをここに表わし、百年後の私の魂のためにも戻ってく るべき場所をつくっておきたいと考えたのである。<br />私の姓名は柴田景浩、あざなは子博と いい、龍溪と称する。尾張藩の侍医である。」<br />

    【望岳碑】
    医学のみならず墨竹画にも優れた柴田景浩が、石碑を作り、死後ここに戻ってこられるよう自分の髪を切って、ここに埋めた。

    「文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを称賛している」

    【望嶽碑之銘】 
    予の性、山を愛し、又、山を画くを喜ぶ。山は富士より奇なるはなし。富士の勝、此の間に望むに如(し)くはなし。予は未だ富士を見ず。画によりて之を想う。既に見る。見るによりて之を画く。凡、江戸に祇役(しえき)して、ここを経る數(しばしば)なり。毎(つね)に輿(こし)を停めてたたずみ望む。爽然自失、低回して日陰に移る。去る能はず。就(たと)いここに終らんと欲すれど、勢を得るべからず。個人は云わず。誰ぞ後に来る者の為に、当(まさ)に、此の心を與(あた)えんと期す。乃ち頭毛を翦(き)りて此の地にうずめ、志を表す。百歳の後の遊魂をして、よる所有らしめんと欲す。予の姓は柴田、名は景浩、字は子博、龍渓と称す。尾張の侍医なり。文化戌辰五月 景浩自誌

    「「私は生まれつき山が大好きで、また山を絵に描くことが好きである。山といえば富士よりすぐれた山はなく、富士の眺めといえばここから望むのが一番である。
    私は、富士を見る 前から絵を見て想像をめぐらしていたが、富士を見てからは
    自分の見たままを絵に描いた。 参勤交代のために何度もここを通ったが、輿が休憩するたびに佇んでは富士を望み、ぼん やりと我を失って行きつ戻りつし、時間が来ても出発できなかった。
    願わくはおまえ(富 士)のふもとで死にたいと思うが、なかなか思うに任せない。昔の人も言ったではないか、 「誰か将来ここを訪れる人があったなら、きっとこの心境を理解してくれるに違いない」 (中唐の詩人・柳宋元〔773-819〕の「南礀中に題す」末尾の詩句)と。
    そこで、髪の毛を 切ってこの地に埋めることで気持ちをここに表わし、百年後の私の魂のためにも戻ってく るべき場所をつくっておきたいと考えたのである。
    私の姓名は柴田景浩、あざなは子博と いい、龍溪と称する。尾張藩の侍医である。」

  • 日蓮上人像

    日蓮上人像

  • 『間宿 柏原・本陣跡』<br />「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという<br />(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。<br />「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされていると。

    『間宿 柏原・本陣跡』
    「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという
    (十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。
    「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされていると。

  • 『本殿(毘沙門堂)』とその右横にあるのは客殿。<br />インド風(?)の建物・練成道場も隣接。開創は寛永4年(1627)の日蓮宗のお寺。延宝8年(1680)の台風の高潮で宿場とともに流されたが、元禄10年(1697)この地に再建された。家康側室・お玉の方(水戸藩祖頼房の母)や紀州藩祖の頼宜も信仰したという。江戸時代中期から始まったと<br />される旧暦正月7~9日に行われる毘沙門天大祭の「だるま市」は、高崎、深大寺とともに<br />日本三大だるま市として知られる。

    『本殿(毘沙門堂)』とその右横にあるのは客殿。
    インド風(?)の建物・練成道場も隣接。開創は寛永4年(1627)の日蓮宗のお寺。延宝8年(1680)の台風の高潮で宿場とともに流されたが、元禄10年(1697)この地に再建された。家康側室・お玉の方(水戸藩祖頼房の母)や紀州藩祖の頼宜も信仰したという。江戸時代中期から始まったと
    される旧暦正月7~9日に行われる毘沙門天大祭の「だるま市」は、高崎、深大寺とともに
    日本三大だるま市として知られる。

  • 【毘沙門天妙法寺】<br />香久山 妙法寺(こうきゅうざん みょうほうじ)<br />聖徳太子作と伝わる毘沙門天像が安置される妙法寺。ラマ教系寺院です。<br /><br />【聖徳太子の御作、開運の守護神像】<br /> 今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜0mから富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりです。<br /> 三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。<br /> 主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で 実に珍しい様式です。<br /> 普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち我々人間の上に毘沙門天王が立って常に 護ってくださるという開運の「守護神像」であります。<br /><br />東海道筋の日蓮宗寺院。俗に「毘沙門さん」。正しくは妙法寺といい、「毘沙門さん」は本来、鎮守堂を指すが、みな寺ごと「毘沙門さん」と呼ぶ。旧暦正月7~9日の大祭は「3大だるま市」のひとつとして知られ、露店と参詣者でごった返す境内は、押すな押すなの人の波。

    【毘沙門天妙法寺】
    香久山 妙法寺(こうきゅうざん みょうほうじ)
    聖徳太子作と伝わる毘沙門天像が安置される妙法寺。ラマ教系寺院です。

    【聖徳太子の御作、開運の守護神像】
     今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜0mから富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりです。
     三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。
     主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で 実に珍しい様式です。
     普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち我々人間の上に毘沙門天王が立って常に 護ってくださるという開運の「守護神像」であります。

    東海道筋の日蓮宗寺院。俗に「毘沙門さん」。正しくは妙法寺といい、「毘沙門さん」は本来、鎮守堂を指すが、みな寺ごと「毘沙門さん」と呼ぶ。旧暦正月7~9日の大祭は「3大だるま市」のひとつとして知られ、露店と参詣者でごった返す境内は、押すな押すなの人の波。

  • 【毘沙門天妙法寺】<br />群馬の高崎や東京の深大寺と並ぶ、日本三大だるま市で知られる妙法寺。<br />毎年旧暦1月7~9日に行われる毘沙門天大祭にはダルマ市で50万の人出と言われる。<br />この地区製紙業が盛んで、その過程で出る紙の端切れを利用してだるまを作っていた。<br /><br />「今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜0メートルから富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりです。<br /> 三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。<br /> 主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で 実に珍しい様式です。<br /> 普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち我々人間の上に毘沙門天王が立って常に 護ってくださるという開運の「守護神像」であります。」(寺hpより)<br /><br />徳川家、諸大名が庇護<br />寺伝によれば江戸期、お万の方や紀州徳川頼宣が深く信仰したことから、徳川家の庇護を受けた。<br /><br />元禄年間(1688~1704)、江戸城本丸から将軍の武運長久を祈念して御前立毘沙門天像が奉納され、正徳2年(1712)には7代将軍家継の病平癒祈願のため、堀山城守、早川佐渡守、本間豊前守らが御奉書を下附。また、参勤交代で街道を通った諸大名の庇護を受け、寺勢はおおいに隆盛したという。

    【毘沙門天妙法寺】
    群馬の高崎や東京の深大寺と並ぶ、日本三大だるま市で知られる妙法寺。
    毎年旧暦1月7~9日に行われる毘沙門天大祭にはダルマ市で50万の人出と言われる。
    この地区製紙業が盛んで、その過程で出る紙の端切れを利用してだるまを作っていた。

    「今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜0メートルから富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりです。
     三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、又これを受けて徳川頼宣公 (徳川家康側室お万様の御長子即ち徳川御三家紀州公)が長く駐留されたこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。
     主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で 実に珍しい様式です。
     普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち我々人間の上に毘沙門天王が立って常に 護ってくださるという開運の「守護神像」であります。」(寺hpより)

    徳川家、諸大名が庇護
    寺伝によれば江戸期、お万の方や紀州徳川頼宣が深く信仰したことから、徳川家の庇護を受けた。

    元禄年間(1688~1704)、江戸城本丸から将軍の武運長久を祈念して御前立毘沙門天像が奉納され、正徳2年(1712)には7代将軍家継の病平癒祈願のため、堀山城守、早川佐渡守、本間豊前守らが御奉書を下附。また、参勤交代で街道を通った諸大名の庇護を受け、寺勢はおおいに隆盛したという。

  • 【龍神香炉堂】<br />龍は願望のメッセンジャー。願いをのせた香炉の煙は龍となり願いを届けます<br /><br />

    【龍神香炉堂】
    龍は願望のメッセンジャー。願いをのせた香炉の煙は龍となり願いを届けます

  • 【龍神香炉堂】<br />龍は願望のメッセンジャー。願いをのせた香炉の煙は龍となり願いを届けます

    【龍神香炉堂】
    龍は願望のメッセンジャー。願いをのせた香炉の煙は龍となり願いを届けます

  • 街道遠くに富士山が見えます。

    街道遠くに富士山が見えます。

  • 遠くに富士山

    遠くに富士山

  • 本日のランチ場所。

    本日のランチ場所。

  • 日本橋から35番目。本市場の一里塚。<br />間の宿本市場は富士登山の旅人で賑わった。

    日本橋から35番目。本市場の一里塚。
    間の宿本市場は富士登山の旅人で賑わった。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五十三次 名勝 吉原 左富士  広重画】<br />東海道を東から西へ行く時、富士山はいつも右手に美しい姿を見せますが、ここだけは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。<br />浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。<br />今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る1本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。(富士市教育委員会)<br /><br />『名勝 左富士<br />右方に見える黒い山は愛广山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。」<br />

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五十三次 名勝 吉原 左富士  広重画】
    東海道を東から西へ行く時、富士山はいつも右手に美しい姿を見せますが、ここだけは松並木の間から左手に見えることから “左富士” と呼ばれて、街道の名勝となりました。
    浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。
    今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る1本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。(富士市教育委員会)

    『名勝 左富士
    右方に見える黒い山は愛广山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。」

  • 【平家越えの碑】<br />源平合戦、富士川の戦が、この近くで行われた。<br /> 治承4年(1180)10月20日、源頼朝は軍勢を率いて平惟盛を総大将とする平家軍と富士川を挟んで対陣しました。その夜半、甲斐源氏の武田信義の軍が密かに平家軍の背後へまわって、夜襲をかけようとしたその時、あたりに眠る幾万かの水鳥が、不意に羽音をたてて飛び立ちました。これを敵襲と誤った平家軍は陣を乱して西に敗走し、合戦は一線にも及ばず源氏軍の大勝利に終わりました。市内にはこの「平家越」をはじめ「呼子坂」「和田川」など、富士川の戦いにゆかりの深い地名や名前が残っています。この記念碑は史跡を永く後世に語り伝えるため、大正13年、今泉村青年団によって建立されたものです。(富士市教育委員会)<br /><br />「平家越<br />治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。<br />その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。<br />その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西に逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、『平家越』と呼ばれています。対岸は平家軍」絵の右上角には「駿州富治川ニ於源氏勢揃ス水鳥数多立チ平軍羽音ニ驚ク」とある。

    【平家越えの碑】
    源平合戦、富士川の戦が、この近くで行われた。
     治承4年(1180)10月20日、源頼朝は軍勢を率いて平惟盛を総大将とする平家軍と富士川を挟んで対陣しました。その夜半、甲斐源氏の武田信義の軍が密かに平家軍の背後へまわって、夜襲をかけようとしたその時、あたりに眠る幾万かの水鳥が、不意に羽音をたてて飛び立ちました。これを敵襲と誤った平家軍は陣を乱して西に敗走し、合戦は一線にも及ばず源氏軍の大勝利に終わりました。市内にはこの「平家越」をはじめ「呼子坂」「和田川」など、富士川の戦いにゆかりの深い地名や名前が残っています。この記念碑は史跡を永く後世に語り伝えるため、大正13年、今泉村青年団によって建立されたものです。(富士市教育委員会)

    「平家越
    治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。
    その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。
    その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西に逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、『平家越』と呼ばれています。対岸は平家軍」絵の右上角には「駿州富治川ニ於源氏勢揃ス水鳥数多立チ平軍羽音ニ驚ク」とある。

  • 【雁堤(かりがねつつみ)】<br />富士川は氾濫を繰り返し周辺被害が甚大だった。代官の古郡氏は山梨県の信玄堤などを視察し、親子三代で50年をかけて全長2・7kmの堤を築堤。雁が連なって飛ぶ形に似ていることから、その名がついた。<br /><br />現在日本三大急流の1つに数えられる富士川は古くから氾濫を繰り返しており、その氾濫により富士川東岸(現在の富士市域)に形成された富士川氾濫原は人の居住もままならない地域であった。そのため江戸時代に治水事業を行うようになり、それを駿河国富士郡の古郡家が担った(戦国時代に甲斐国から移住したともいう[。<br /><br />  古郡家はこれを親子三代(重高・重政・重年)で行い、その発端である重高は元和7年(1621年)に一番出しと二番出し(突堤)を築いた。次代の重政は新田開発事業を行うなどしたが、これら治水事業の後も富士川東岸は氾濫を続けていた。そのため重政の次代である重年はこれを盤石とするために寛文7年(1667年)に駿河国富士郡岩本村・篭下村(現在の富士市松岡)にかけて雁堤の築堤に着手し、延宝2年(1674年)に完成させた。7年の歳月をかけた大規模な事業であった。<br />  この事業により富士川東岸は安定を得た一方、流路が変わったことで代わりに富士川西岸に洪水が発生することとなり、また被害も広範囲に拡大するようになってしまった。つまり加島の地は雁堤により守られたが、逆にこれまで被害の無かった岩淵や中之郷・蒲原の地は洪水の被害が発生するようになったのである。これら被害は正保年間から増加するようになったとされる[10]。特に宝永元年(1704年)の洪水は甚大な被害を蒙り、76石分の土地が流失したという。<br /><br />雁堤は大きく屈曲した箇所があり、その様が群れをなして飛ぶ雁の姿に似ている事からこのように呼ばれるようになったという。現在富士市指定史跡となっている。

    【雁堤(かりがねつつみ)】
    富士川は氾濫を繰り返し周辺被害が甚大だった。代官の古郡氏は山梨県の信玄堤などを視察し、親子三代で50年をかけて全長2・7kmの堤を築堤。雁が連なって飛ぶ形に似ていることから、その名がついた。

    現在日本三大急流の1つに数えられる富士川は古くから氾濫を繰り返しており、その氾濫により富士川東岸(現在の富士市域)に形成された富士川氾濫原は人の居住もままならない地域であった。そのため江戸時代に治水事業を行うようになり、それを駿河国富士郡の古郡家が担った(戦国時代に甲斐国から移住したともいう[。

      古郡家はこれを親子三代(重高・重政・重年)で行い、その発端である重高は元和7年(1621年)に一番出しと二番出し(突堤)を築いた。次代の重政は新田開発事業を行うなどしたが、これら治水事業の後も富士川東岸は氾濫を続けていた。そのため重政の次代である重年はこれを盤石とするために寛文7年(1667年)に駿河国富士郡岩本村・篭下村(現在の富士市松岡)にかけて雁堤の築堤に着手し、延宝2年(1674年)に完成させた。7年の歳月をかけた大規模な事業であった。
      この事業により富士川東岸は安定を得た一方、流路が変わったことで代わりに富士川西岸に洪水が発生することとなり、また被害も広範囲に拡大するようになってしまった。つまり加島の地は雁堤により守られたが、逆にこれまで被害の無かった岩淵や中之郷・蒲原の地は洪水の被害が発生するようになったのである。これら被害は正保年間から増加するようになったとされる[10]。特に宝永元年(1704年)の洪水は甚大な被害を蒙り、76石分の土地が流失したという。

    雁堤は大きく屈曲した箇所があり、その様が群れをなして飛ぶ雁の姿に似ている事からこのように呼ばれるようになったという。現在富士市指定史跡となっている。

  • 【水神社】<br />指定村社水神社。正保三年(1646年)創建。堤防工事の完成を願って富士川の西岸、岩淵村に水神の社殿を建立。大洪水により川の流れが変わり、現在は富士川の東岸へ。水神の森に川の流れや堤防など、富士川を守る水神として祀られている。

    【水神社】
    指定村社水神社。正保三年(1646年)創建。堤防工事の完成を願って富士川の西岸、岩淵村に水神の社殿を建立。大洪水により川の流れが変わり、現在は富士川の東岸へ。水神の森に川の流れや堤防など、富士川を守る水神として祀られている。

  • 【東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場】<br /> 江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いこと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせて渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村の間で行われました。<br />  東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居(かみふない)、中船居、下船居の三箇所あり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船(じょうどせん)、高瀬舟、助役舟があり通常の定渡船は人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。<br />  渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。<br />  水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。<br />                昭和六十年一月十日 富士市教育委員会

    【東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場】
     江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いこと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせて渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村の間で行われました。
      東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居(かみふない)、中船居、下船居の三箇所あり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船(じょうどせん)、高瀬舟、助役舟があり通常の定渡船は人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
      渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
      水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
                    昭和六十年一月十日 富士市教育委員会

  • 水神社

    水神社

  • 【富士川渡船場跡碑】<br />「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度<br />が定められまもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しました<br />またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した<br />船場詰所が存在したといわれる<br /> これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つ<br />としてこの碑を建立する」<br />平成十三年(二〇〇一)九月 岩松地区まちづくり推進会議

    【富士川渡船場跡碑】
    「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度
    が定められまもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しました
    またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した
    船場詰所が存在したといわれる
     これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つ
    としてこの碑を建立する」
    平成十三年(二〇〇一)九月 岩松地区まちづくり推進会議

  • 富士川渡船場跡碑<br />【富士川渡船場跡碑と宝暦8年(1758)の富士山道道標】<br />江戸時代まで富士川に橋を架けることは許されず、渡船による往来のみであった。<br />徳川家康の遺言との説もあるようだが、橋を架けても川の流れが速く、維持するのが困難だったのであろう。富士川に橋が架けられたのは明治に入ってからの事と。<br />石碑の横側には<br />「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められまもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しました<br />またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した船場詰所が存在したといわれる。これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つ<br />としてこの碑を建立する。」

    富士川渡船場跡碑
    【富士川渡船場跡碑と宝暦8年(1758)の富士山道道標】
    江戸時代まで富士川に橋を架けることは許されず、渡船による往来のみであった。
    徳川家康の遺言との説もあるようだが、橋を架けても川の流れが速く、維持するのが困難だったのであろう。富士川に橋が架けられたのは明治に入ってからの事と。
    石碑の横側には
    「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められまもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しました
    またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した船場詰所が存在したといわれる。これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つ
    としてこの碑を建立する。」

  • 当時、水流が多かった富士川は、かつて渡船が利用され、富士川橋のたもとは渡船場だった。

    当時、水流が多かった富士川は、かつて渡船が利用され、富士川橋のたもとは渡船場だった。

  • 【角倉了以翁の紀功碑】<br />京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵(1571~1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(71km)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。<br />町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に現在地に再移転したものです。<br /><br />渡船「上り場」常夜燈<br />慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。<br />東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道にでました。「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。」

    【角倉了以翁の紀功碑】
    京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵(1571~1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(71km)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
    町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に現在地に再移転したものです。

    渡船「上り場」常夜燈
    慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。
    東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道にでました。「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。」

  • 現在の富士川鉄橋

    現在の富士川鉄橋

  • 【小休本陣 常盤家住宅】<br />この常盤家は、女優「常盤貴子」さんの実父のご実家です。<br /><br />文人で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ=太田蜀山人)は、岩淵を訪れた際、「岩淵の庄屋常盤弥兵衛といふ者は、もとよりしれるものなり。庭に多きなる蘇鉄あり。立ち寄りて見給ひてよといふにまかせて立ち寄る。」という紀行文を残しています。<br /><br />東海道蒲原宿と吉原宿の間に流れる富士川は東海道の難所であった静岡の三大河川の一つ。その渡し場から程近くに存在したのが岩淵宿で、江戸ではなく北へ向かう「身延道」と交差する場所でもあり、現在の東海道から少し高台へ登った場所に旧東海道が残っています。<br /><br />この「小休本陣」を運営していた常盤家は富士川の渡船役も務めていた旧家で、大名など目上の人が過ごしたの「上段の間」などが残ります。<br />庭園はこじんまりとした池泉鑑賞式庭園の遺構が残っているのと、庭園にあるイヌマキは当時からあったものとして富士市指定天然記念物となっています。<br />旧東海道に沿ったこの周辺には他にも寺社仏閣や一里塚が。

    【小休本陣 常盤家住宅】
    この常盤家は、女優「常盤貴子」さんの実父のご実家です。

    文人で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ=太田蜀山人)は、岩淵を訪れた際、「岩淵の庄屋常盤弥兵衛といふ者は、もとよりしれるものなり。庭に多きなる蘇鉄あり。立ち寄りて見給ひてよといふにまかせて立ち寄る。」という紀行文を残しています。

    東海道蒲原宿と吉原宿の間に流れる富士川は東海道の難所であった静岡の三大河川の一つ。その渡し場から程近くに存在したのが岩淵宿で、江戸ではなく北へ向かう「身延道」と交差する場所でもあり、現在の東海道から少し高台へ登った場所に旧東海道が残っています。

    この「小休本陣」を運営していた常盤家は富士川の渡船役も務めていた旧家で、大名など目上の人が過ごしたの「上段の間」などが残ります。
    庭園はこじんまりとした池泉鑑賞式庭園の遺構が残っているのと、庭園にあるイヌマキは当時からあったものとして富士市指定天然記念物となっています。
    旧東海道に沿ったこの周辺には他にも寺社仏閣や一里塚が。

  • 常盤邸正面玄関

    常盤邸正面玄関

  • 玄関を入ると奥まで通り土間が続き、さらに正面の庇(ひさし)部分も前土間になっています。部屋数も多く、部屋境は障子や襖(ふすま)で間仕切られた開放的な空間です。奥の座敷「上段の間」は、最も格式の高い部屋で、大名などの賓客(ひんきゃく)のみが休憩することができました。通り土間の奥には台所があります。<br /><br />

    玄関を入ると奥まで通り土間が続き、さらに正面の庇(ひさし)部分も前土間になっています。部屋数も多く、部屋境は障子や襖(ふすま)で間仕切られた開放的な空間です。奥の座敷「上段の間」は、最も格式の高い部屋で、大名などの賓客(ひんきゃく)のみが休憩することができました。通り土間の奥には台所があります。

  • 「六間取り型」の名主の屋敷には、格式の高い「薬医門」が備わり、大名などの賓客が座った「上段の間」などが残されています。<br /><br />岩淵宿は富士川の渡し、富士川舟運と身延山久遠寺への身延街道の要衝で、蒲原宿と吉原宿の間の宿として賑わったのです。

    「六間取り型」の名主の屋敷には、格式の高い「薬医門」が備わり、大名などの賓客が座った「上段の間」などが残されています。

    岩淵宿は富士川の渡し、富士川舟運と身延山久遠寺への身延街道の要衝で、蒲原宿と吉原宿の間の宿として賑わったのです。

  • 庭に面した奥の座敷が【上段の間】です。<br />「上段」という名称の通り、この一室のみ床の高さが約9㎝高く造られ、大名などの賓客の座所となった部屋です。正面に床の間を構え、床脇には違い棚と天袋を備えた格式高い部屋です。

    庭に面した奥の座敷が【上段の間】です。
    「上段」という名称の通り、この一室のみ床の高さが約9㎝高く造られ、大名などの賓客の座所となった部屋です。正面に床の間を構え、床脇には違い棚と天袋を備えた格式高い部屋です。

  • 岩淵の一里塚。街道の両側に残る榎は江戸時代から。<br />【史跡 岩渕の一里塚】<br />  江戸時代に築造された東海道の里塚である。<br /> 慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。<br /> この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。<br /> この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。<br /> また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。

    岩淵の一里塚。街道の両側に残る榎は江戸時代から。
    【史跡 岩渕の一里塚】
      江戸時代に築造された東海道の里塚である。
     慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
     この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。
     この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
     また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。

  • 【岩淵一里塚】<br />江戸時代に築造された東海道の里塚である。<br /> 慶長九年(1604)二月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約九m)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。<br />  この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる<br />  この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいた。<br />また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四十二年枯死してしまった。そこで、昭和四十五年三月、二代目を植えたものである。<br />              昭和六十一年十二月五日 富士川町教育委員会

    【岩淵一里塚】
    江戸時代に築造された東海道の里塚である。
     慶長九年(1604)二月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約九m)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
      この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる
      この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいた。
    また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四十二年枯死してしまった。そこで、昭和四十五年三月、二代目を植えたものである。
                  昭和六十一年十二月五日 富士川町教育委員会

  • 野田山実相寺寺標<br />石碑には『野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師』と刻まれている。

    野田山実相寺寺標
    石碑には『野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師』と刻まれている。

  • 蒲原宿に向かって歩いています。前方はJR東海道線のガードです。

    蒲原宿に向かって歩いています。前方はJR東海道線のガードです。

  • 秋葉山常夜灯

    秋葉山常夜灯

  • 【蒲原一里塚跡】 <br /> 蒲原の町に入ったらすぐあります。建物が凹んだ所に小さな赤い鳥居と祠があり、手前に一里塚の石碑が建っていました。<br />【東海道一里塚跡】<br /> 一里塚は慶長九年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、38番目のものです。<br /><br /> 一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。<br /><br />     蒲原町教育委員会

    【蒲原一里塚跡】 
     蒲原の町に入ったらすぐあります。建物が凹んだ所に小さな赤い鳥居と祠があり、手前に一里塚の石碑が建っていました。
    【東海道一里塚跡】
     一里塚は慶長九年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、38番目のものです。

     一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。

         蒲原町教育委員会

  • 諏訪神社『拝殿』

    諏訪神社『拝殿』

  • ??『旧東海道を歩く』ブログ 目次?<br /><br />岩渕の一里塚を後にし、旧東海道(県道188号線)を蒲原に向かって進む。<br /><br /><br /><br />左手には秋葉山と刻まれた石灯籠が。<br /><br /><br /><br />砂利の敷かれた駐車場の隅には小さな石の祠が。<br /><br /><br /><br />富士川郵便局手前の交差点を右折。<br /><br /><br /><br />民家の庭にはミモザの花が満開。<br /><br /><br /><br />ズームで。<br />以前テレビでフランス・ニースの西の海沿いに位置している、モンドリューラナープル?で<br />毎年2月に行われるミモザ祭りを放映していたことを思い出したのであった。<br />  <br /><br /><br />吉原商店街の『南岳堂』は創業江戸時代の嘉永年間、約160年間続く老舗菓子店であると。<br /><br /><br /><br />東名高速道路に向かって延びる旧東海道の左手には『富士川 中之郷』の道標が。<br /><br /><br /><br />『野田山健康緑地公園案内図』<br /><br /><br /><br />東名高速道路下を潜る。<br /><br /><br /><br />東名高速道路を潜ると正面にあった石碑。<br /><br /><br /><br />野田山実相寺寺標<br />石碑には『野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師』と刻まれていた。<br />傍らには、薬師如来と刻まれた石碑も。<br /><br /><br /><br />金鶴神社登り口。<br /><br /><br /><br />『宇多利神社』社標。<br /><br /><br /><br />次に東海道新幹線を潜る。<br /><br /><br /><br />潜るとその先にあった石碑には『飛耀岳聳』と。<br />富士川町長中川国兵の揮毫による碑であるようであった。<br /><br /><br /><br />秋葉山常夜燈がその脇に。<br /><br /><br /><br />『明治天皇御駐輦之跡』。<br />秋葉山常夜燈の先で、街道が緩やかに右にカーブするところに明治天皇御駐輦之跡碑が<br />建っていた。<br />この場所で休憩され富士山を眺めたと。<br /><br /><br /><br />更に住宅街を進む。<br /><br /><br /><br />富士山と前方下には東名高速道路が。<br /><br /><br /><br />富士山をズームで。<br /><br /><br /><br />東名高速道路の跨道橋(こどうきょう)を渡る。<br /><br /><br /><br />受枠にTの字模様のある静岡県清水区の角型消火栓蓋。<br />黄色地に纏2本のデザイン。町章と「消火栓」の文字入り。<br /><br /><br /><br />綺麗な塀の『浄土宗 佛身山 海前院 光蓮寺』を訪ねる。<br /><br /><br /><br />山門。<br /><br /><br /><br />扁額には『 佛身山』と書かれていた。<br /><br /><br /><br />見事な本堂の屋根。<br />「元和6年(1620年)古来戦死の万霊を弔うため建立。<br />地震や津波の災害を免れて旧観を留めていたが、昭和10年国道敷設のため、<br />現新蒲原駅付近より現在地に移転。昭和29年本陣道の南側にあった松風山不動院海前寺<br />(開山霊巌上人)と合併、院号を海前院とする。<br />明和5年(1768年)流行病で多くの幼児が亡くなったため、十世宣誉上人は厄除延命地蔵尊を<br />祀り、十八世天誉上人は夢告を感得して、地蔵堂を建てる。<br />光蓮寺には伝説浄瑠璃姫物語があり浄瑠璃姫を供養するお寺であると。<br />伝説は平安時代末期、三河国(愛知県)で源義経と恋に落ちた姫が、奥州に向かった義経を<br />追う途中、蒲原の地で命を落とすという物語であると。<br /><br /><br /><br />枯山水の境内には様々な花が。<br /><br /><br /><br />そして様々な色のクリスマスローズが咲き誇っていた。<br /><br /><br /><br />ストレリチア(極楽鳥花)の花も。<br /><br /><br /><br />境内に所狭しと。<br /><br /><br /><br />これぞ花の寺。<br />住職の奥様が手入れをされているのであろうか?<br /><br /><br /><br />境内にある浄瑠璃姫の壁画。<br /><br /><br /><br />寺務所であろうか。<br /><br /><br /><br />光蓮寺を後にし進むと『北条新三郎の墓 蒲原宿東木戸』の案内表示が。<br /><br /><br /><br />実は光蓮寺の先でT字路に突当ると旧東海道は右に進むが、左に折れて県道396号線を<br />150mほど進むと左手に源義経硯水碑があったのであったが見落としてしまった。<br />ここの湧き水で蒲原神社へ奉納 する文と浄瑠璃姫に文を書いたといわれるのだと。<br /><br />そして左手に蒲原の一里塚跡があった。<br /><br /><br /><br />一里塚碑の隣にある解説には、<br />「東海道一里塚跡<br /> 一里塚は慶長九年(一六〇四)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、<br />一里(約四km)ごとに築いた塚です。<br />蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。<br /> 一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、<br />旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(一六九九)の<br />大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影は<br />ありません。」<br /><br /><br /><br />一里塚跡の直ぐ先右手に北条新三郎の墓標柱が建っていた。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />北条新三郎の墓入口。<br /><br /><br /><br />しばし階段を登って行くと左手に北条新三郎の碑が。<br />北条新三郎の碑、墓は竹林に囲まれた中にあった。<br /><br /><br /><br />「北條新三郎の碑 <br />永禄十二年(一五六九)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。 <br />城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと<br />伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。<br />碑には「常楽寺殿衝天良月大居士(じょうらくじでんしょうてんりょうげつだいこじ)」の<br />戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、<br />「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、<br />この近くに常楽寺があったことが推察されます。」<br /><br /><br /><br />北条新三郎の墓(右)と墓標柱(左)。<br />「常楽寺殿衝天良月大居士」と刻まれていた。<br /><br /><br /><br />次に諏訪神社を訪ねた。<br />鳥居の先に急な石段が続いていた。<br /><br /><br /><br />『諏訪神社由緒』<br />保元年間(1156-1159年)の創建の由緒ある神社。<br /><br /><br /><br />御神木のシイの木。<br /><br /><br /><br />諏訪神社『拝殿』。<br /><br /><br /><br />『地蔵菩薩』。<br /><br />して『蒲原宿東木戸跡』。<br />ここから蒲原宿へ入ります。<br />文政13年(1831)の常夜燈。

    ??『旧東海道を歩く』ブログ 目次?

    岩渕の一里塚を後にし、旧東海道(県道188号線)を蒲原に向かって進む。



    左手には秋葉山と刻まれた石灯籠が。



    砂利の敷かれた駐車場の隅には小さな石の祠が。



    富士川郵便局手前の交差点を右折。



    民家の庭にはミモザの花が満開。



    ズームで。
    以前テレビでフランス・ニースの西の海沿いに位置している、モンドリューラナープル?で
    毎年2月に行われるミモザ祭りを放映していたことを思い出したのであった。
      


    吉原商店街の『南岳堂』は創業江戸時代の嘉永年間、約160年間続く老舗菓子店であると。



    東名高速道路に向かって延びる旧東海道の左手には『富士川 中之郷』の道標が。



    『野田山健康緑地公園案内図』



    東名高速道路下を潜る。



    東名高速道路を潜ると正面にあった石碑。



    野田山実相寺寺標
    石碑には『野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師』と刻まれていた。
    傍らには、薬師如来と刻まれた石碑も。



    金鶴神社登り口。



    『宇多利神社』社標。



    次に東海道新幹線を潜る。



    潜るとその先にあった石碑には『飛耀岳聳』と。
    富士川町長中川国兵の揮毫による碑であるようであった。



    秋葉山常夜燈がその脇に。



    『明治天皇御駐輦之跡』。
    秋葉山常夜燈の先で、街道が緩やかに右にカーブするところに明治天皇御駐輦之跡碑が
    建っていた。
    この場所で休憩され富士山を眺めたと。



    更に住宅街を進む。



    富士山と前方下には東名高速道路が。



    富士山をズームで。



    東名高速道路の跨道橋(こどうきょう)を渡る。



    受枠にTの字模様のある静岡県清水区の角型消火栓蓋。
    黄色地に纏2本のデザイン。町章と「消火栓」の文字入り。



    綺麗な塀の『浄土宗 佛身山 海前院 光蓮寺』を訪ねる。



    山門。



    扁額には『 佛身山』と書かれていた。



    見事な本堂の屋根。
    「元和6年(1620年)古来戦死の万霊を弔うため建立。
    地震や津波の災害を免れて旧観を留めていたが、昭和10年国道敷設のため、
    現新蒲原駅付近より現在地に移転。昭和29年本陣道の南側にあった松風山不動院海前寺
    (開山霊巌上人)と合併、院号を海前院とする。
    明和5年(1768年)流行病で多くの幼児が亡くなったため、十世宣誉上人は厄除延命地蔵尊を
    祀り、十八世天誉上人は夢告を感得して、地蔵堂を建てる。
    光蓮寺には伝説浄瑠璃姫物語があり浄瑠璃姫を供養するお寺であると。
    伝説は平安時代末期、三河国(愛知県)で源義経と恋に落ちた姫が、奥州に向かった義経を
    追う途中、蒲原の地で命を落とすという物語であると。



    枯山水の境内には様々な花が。



    そして様々な色のクリスマスローズが咲き誇っていた。



    ストレリチア(極楽鳥花)の花も。



    境内に所狭しと。



    これぞ花の寺。
    住職の奥様が手入れをされているのであろうか?



    境内にある浄瑠璃姫の壁画。



    寺務所であろうか。



    光蓮寺を後にし進むと『北条新三郎の墓 蒲原宿東木戸』の案内表示が。



    実は光蓮寺の先でT字路に突当ると旧東海道は右に進むが、左に折れて県道396号線を
    150mほど進むと左手に源義経硯水碑があったのであったが見落としてしまった。
    ここの湧き水で蒲原神社へ奉納 する文と浄瑠璃姫に文を書いたといわれるのだと。

    そして左手に蒲原の一里塚跡があった。



    一里塚碑の隣にある解説には、
    「東海道一里塚跡
     一里塚は慶長九年(一六〇四)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、
    一里(約四km)ごとに築いた塚です。
    蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
    一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、
    旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(一六九九)の
    大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影は
    ありません。」



    一里塚跡の直ぐ先右手に北条新三郎の墓標柱が建っていた。







    北条新三郎の墓入口。



    しばし階段を登って行くと左手に北条新三郎の碑が。
    北条新三郎の碑、墓は竹林に囲まれた中にあった。



    「北條新三郎の碑
    永禄十二年(一五六九)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。
    城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと
    伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。
    碑には「常楽寺殿衝天良月大居士(じょうらくじでんしょうてんりょうげつだいこじ)」の
    戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、
    「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、
    この近くに常楽寺があったことが推察されます。」



    北条新三郎の墓(右)と墓標柱(左)。
    「常楽寺殿衝天良月大居士」と刻まれていた。



    次に諏訪神社を訪ねた。
    鳥居の先に急な石段が続いていた。



    『諏訪神社由緒』
    保元年間(1156-1159年)の創建の由緒ある神社。



    御神木のシイの木。



    諏訪神社『拝殿』。



    『地蔵菩薩』。

    して『蒲原宿東木戸跡』。
    ここから蒲原宿へ入ります。
    文政13年(1831)の常夜燈。

  • 【東木戸】宿場の入口<br />「東木戸・常夜燈<br /> 江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。<br />蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と<br />呼んでいました。<br />なお木戸と木戸との間のことを「木戸内(きどうち)」といいます。<br />東木戸は、わずかではありますが桝型(ますがた)になっています。 <br />また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜灯とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。<br />東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を<br />照らしていました。文政十三年(一八三一)ものと考えられています。 」

    【東木戸】宿場の入口
    「東木戸・常夜燈
     江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。
    蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と
    呼んでいました。
    なお木戸と木戸との間のことを「木戸内(きどうち)」といいます。
    東木戸は、わずかではありますが桝型(ますがた)になっています。
    また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜灯とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。
    東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を
    照らしていました。文政十三年(一八三一)ものと考えられています。 」

  • 日軽金の水力発電施設<br />諏訪橋で送水管を跨いだのであった。<br />日本軽金属(株)蒲原製造所には富士川水系に水力発電所が6カ所あるのだ。そのうちのJR東海新蒲原駅近くの富士川第2発電所の導水管がこれ。<br />山梨県富沢にある日軽富士川第1発電所の放流水が流れて来るようです。<br />昭和18年(1943年)運用開始 71年前から発電していると。取水は第一発電所放流水放流は駿河湾へ。

    日軽金の水力発電施設
    諏訪橋で送水管を跨いだのであった。
    日本軽金属(株)蒲原製造所には富士川水系に水力発電所が6カ所あるのだ。そのうちのJR東海新蒲原駅近くの富士川第2発電所の導水管がこれ。
    山梨県富沢にある日軽富士川第1発電所の放流水が流れて来るようです。
    昭和18年(1943年)運用開始 71年前から発電していると。取水は第一発電所放流水放流は駿河湾へ。

  • 【なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)】 <br />当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。<br />  「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請といわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。<br />  なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。<br />                             蒲原町教育委員会<br /><br />吉田屋<br />「当家は、昭和まで続いた「果堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。<br />玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中にはいると柱がなく広々した「床の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん城の階段があって、二階に通じています。」

    【なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)】 
    当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。
      「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請といわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。
      なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。
                                 蒲原町教育委員会

    吉田屋
    「当家は、昭和まで続いた「果堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。
    玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中にはいると柱がなく広々した「床の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん城の階段があって、二階に通じています。」

  • 【蒲原宿の本陣跡】<br />本陣は、 大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。<br />  本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀をゆるされていました。<br />                           蒲原町教育委員会<br /><br /> 蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡 家)の2家でつとめてい ましたが、宝暦年間(1751~1763)に東本陣の多芸家が絶え、以来幕末まで平岡家が本陣をつとめ ました。平岡家は明治11年に京都に移転しました。<br /><br />  現在の西本陣の建物は大正時代のものですが、邸内には今も、大名の駕籠を置いたといわれる「御駕籠石」が残っています。 「蒲原宿」案内図より<br /><br />「本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。<br />原則として門、玄関、上段の間(ま)がある点が一般の旅籠と異なりました。<br />ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣(たきほんじん))もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされていました。 」

    【蒲原宿の本陣跡】
    本陣は、 大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かつてはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。
      本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀をゆるされていました。
                               蒲原町教育委員会

     蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは、東本陣(多芸家)と西本陣(平岡 家)の2家でつとめてい ましたが、宝暦年間(1751~1763)に東本陣の多芸家が絶え、以来幕末まで平岡家が本陣をつとめ ました。平岡家は明治11年に京都に移転しました。

      現在の西本陣の建物は大正時代のものですが、邸内には今も、大名の駕籠を置いたといわれる「御駕籠石」が残っています。 「蒲原宿」案内図より

    「本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。
    原則として門、玄関、上段の間(ま)がある点が一般の旅籠と異なりました。
    ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣(たきほんじん))もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされていました。 」

  • 【「蒲原夜之雪」記念碑】

    【「蒲原夜之雪」記念碑】

  •  「蒲原夜之雪」 の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(1832)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。<br />  昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。             蒲原町教育委員会<br /><br />広重の「蒲原夜之雪」<br />「歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて、<br />「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、<br />初めて東海道五十三次 の旅を体験した。<br />実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。<br />「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬(ごりょうば)二頭を献上する<br />年中行事の一つであった。 <br />その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に制作したものが保永堂版<br />「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は、「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物(やくもの)”と称され、中でも最高傑作といわれている。 <br />錦絵に使用する越前奉書紙の地色を巧みに生かした夜之雪、二人の駕籠屋(かごや)と一人の按摩(あんま)を配した里の情景など、抒情(じょじょう)豊かに構成された名作との評価が高い。 」

     「蒲原夜之雪」 の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(1832)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。
      昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。             蒲原町教育委員会

    広重の「蒲原夜之雪」
    「歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて、
    「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、
    初めて東海道五十三次 の旅を体験した。
    実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。
    「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬(ごりょうば)二頭を献上する
    年中行事の一つであった。
    その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に制作したものが保永堂版
    「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は、「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物(やくもの)”と称され、中でも最高傑作といわれている。
    錦絵に使用する越前奉書紙の地色を巧みに生かした夜之雪、二人の駕籠屋(かごや)と一人の按摩(あんま)を配した里の情景など、抒情(じょじょう)豊かに構成された名作との評価が高い。 」

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五十三次 蒲原 雪の絵 広重画】16 <br />歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて「八朔御馬献上」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次の旅を体験した。実際に旅をしたのは、天保3年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬二頭を献上する年中行事の一つであった。<br /><br /> その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に製作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに“役物”と称され、中でも最高傑作といわれている。<br />  錦絵に使用する越前奉書紙の特色を巧みに生かした夜の雪、二人の駕籠屋と一人の按摩を記した里の情景など、情緒豊かに構成された名作との評価が高い。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五十三次 蒲原 雪の絵 広重画】16 
    歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて「八朔御馬献上」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次の旅を体験した。実際に旅をしたのは、天保3年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬二頭を献上する年中行事の一つであった。

     その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に製作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに“役物”と称され、中でも最高傑作といわれている。
      錦絵に使用する越前奉書紙の特色を巧みに生かした夜の雪、二人の駕籠屋と一人の按摩を記した里の情景など、情緒豊かに構成された名作との評価が高い。

  • 【「蒲原夜之雪」記念碑】  <br />川を渡ってすぐ、左へ入る小道にある板塀に囲まれた小公園で、大きな石碑(記念碑)と、上記【蒲原宿】で載せた広重の浮世絵のプレートがありました。<br /><br /> 

    【「蒲原夜之雪」記念碑】  
    川を渡ってすぐ、左へ入る小道にある板塀に囲まれた小公園で、大きな石碑(記念碑)と、上記【蒲原宿】で載せた広重の浮世絵のプレートがありました。

     

  • 【旅籠屋「和泉屋」(鈴木家)】<br />当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。天保年間(1830~1844)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れ ました。<br />  今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影をみることができます。<br /><br /> 弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六 .一」とあり、現在は鈴木家四.一間、お休み処ニ間の二軒に仕切られています。<br /><br />     蒲原町教育委員会  

    【旅籠屋「和泉屋」(鈴木家)】
    当家は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。天保年間(1830~1844)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れ ました。
      今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影をみることができます。

     弘化二年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数六 .一」とあり、現在は鈴木家四.一間、お休み処ニ間の二軒に仕切られています。

         蒲原町教育委員会  

  • 【手作りガラスと総欅の家(磯部家)】 <br />明治四十二年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。(案内版)

    【手作りガラスと総欅の家(磯部家)】 
    明治四十二年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。日本における板ガラスの生産開始が明治四十年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。(案内版)

  • 【大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」】<br />旧五十嵐歯科医院は、当町にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。(案内版)

    【大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」】
    旧五十嵐歯科医院は、当町にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。(案内版)

  • 【蔀戸(しとみど)のある家「志田家住宅主屋」】 国登録有形文化財   <br />旧五十嵐歯科の斜め向かいにあります。<br />志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。<br />  安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型で す。<br />  蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せ ます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。<br />平成13年9月14日に国登録有形文化財に登録されました。<br />                           蒲原町教育委員会 

    【蔀戸(しとみど)のある家「志田家住宅主屋」】 国登録有形文化財   
    旧五十嵐歯科の斜め向かいにあります。
    志田家は「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。
      安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型で す。
      蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せ ます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。
    平成13年9月14日に国登録有形文化財に登録されました。
                               蒲原町教育委員会 

  • 【美しい格子戸の家「増田家」】 <br />格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細かい角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土の合わせた工夫がなされてい ます。<br />  かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。 <br />                         蒲原町教育委員会

    【美しい格子戸の家「増田家」】 
    格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細かい角木を縦横に間をすかして組み、窓または出入り口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、一面に板を張るものなど、気候風土の合わせた工夫がなされてい ます。
      かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。 
                             蒲原町教育委員会

  • 【西木戸・茄子屋の辻】<br />蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。<br />もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動し ました。<br />  この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こ りました。<br />  承応二年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒し ました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。<br /><br />     蒲原町教育委員会 

    【西木戸・茄子屋の辻】
    蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。
    もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動し ました。
      この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘が起こ りました。
      承応二年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒し ました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。

         蒲原町教育委員会 

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