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 100名城巡りも、いよいよ終盤には入ってきました。今回は東海地方の5城を駆け足になりましたが、1泊2日で訪ねてきました。1日目は、武田勝頼軍と織田・徳川連合軍の戦いになった長篠城址です。2城目は、山内一豊が改修した掛川城、ここは再建された天守閣が現存しています。静岡市内で宿泊後、ホテルから徒歩10分余の徳川家康が隠居城にした駿府城を訪ねました。そして三島の方へ移動し、北条氏が築城した小田原城の支城に位置づけられる山中城を訪ね、最後の5城目は北城早雲が本拠とした小田原城を訪ねました。ここは復興天守閣が再建されていました。今回の5城で91城となり、後9城で100名城達成となります。<br /> 写真は掛川城天守閣(復元)です。

東海の100名城を訪ねて/長篠城、掛川城、駿府城、山中城、小田原城

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2016/12/10 - 2016/12/11

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ひま人

ひま人さん

 100名城巡りも、いよいよ終盤には入ってきました。今回は東海地方の5城を駆け足になりましたが、1泊2日で訪ねてきました。1日目は、武田勝頼軍と織田・徳川連合軍の戦いになった長篠城址です。2城目は、山内一豊が改修した掛川城、ここは再建された天守閣が現存しています。静岡市内で宿泊後、ホテルから徒歩10分余の徳川家康が隠居城にした駿府城を訪ねました。そして三島の方へ移動し、北条氏が築城した小田原城の支城に位置づけられる山中城を訪ね、最後の5城目は北城早雲が本拠とした小田原城を訪ねました。ここは復興天守閣が再建されていました。今回の5城で91城となり、後9城で100名城達成となります。
 写真は掛川城天守閣(復元)です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.5
グルメ
4.0
ショッピング
3.5
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩

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  •  史蹟 長篠城阯石碑と紅葉が美しい。<br /> 武田信玄の跡を継いだ勝頼は天正3年(1575年)5月、1万5千の軍を率いて長篠城を囲んだ。城主奥平貞昌は500人の城兵と共にこれをよく防ぎ、また、鳥居強右衛門の決死の働きでもちこたえた。織田・徳川連合軍3万8千は設楽原に進撃し、当時最強といわれた武田軍は、織田・徳川連合軍の放つ多くの火縄銃の前に敗れ、名だたる名称勇士を失った。<br /> この戦いによって、武田氏の勢力は大きく衰退し、織田氏の勢力は絶対的なものとなりました。まさに戦国の流れを大きく変える戦いといえる戦いでありました。

     史蹟 長篠城阯石碑と紅葉が美しい。
     武田信玄の跡を継いだ勝頼は天正3年(1575年)5月、1万5千の軍を率いて長篠城を囲んだ。城主奥平貞昌は500人の城兵と共にこれをよく防ぎ、また、鳥居強右衛門の決死の働きでもちこたえた。織田・徳川連合軍3万8千は設楽原に進撃し、当時最強といわれた武田軍は、織田・徳川連合軍の放つ多くの火縄銃の前に敗れ、名だたる名称勇士を失った。
     この戦いによって、武田氏の勢力は大きく衰退し、織田氏の勢力は絶対的なものとなりました。まさに戦国の流れを大きく変える戦いといえる戦いでありました。

  •  本丸跡。

     本丸跡。

  •  川内堀趾。

     川内堀趾。

  •  長篠城趾石碑。

     長篠城趾石碑。

  •  紅葉の土塁。

     紅葉の土塁。

  •  長篠城址史跡保存館。主に長篠合戦の関係資料を展示している。<br /> 

    長篠城址史跡保存館。主に長篠合戦の関係資料を展示している。
     

  •  鳥居強右衛門磔の像。長篠合戦の際、織田・徳川連合軍に援軍を仰ぎに行き長篠城に戻り、城内で援軍が来るからと声を上げるも、武田軍に捕まり磔にされる。

     鳥居強右衛門磔の像。長篠合戦の際、織田・徳川連合軍に援軍を仰ぎに行き長篠城に戻り、城内で援軍が来るからと声を上げるも、武田軍に捕まり磔にされる。

  •  血染めの陣太鼓。長篠城で使った陣太鼓。その時の血で黒く染まっている。

     血染めの陣太鼓。長篠城で使った陣太鼓。その時の血で黒く染まっている。

  •  掛川城天守閣と太鼓櫓。<br /> 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する拠点となりました。<br /> 天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は徳川家康を関東へ遷すと、家康の旧領地に秀吉は配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣を造りました。しかし、安政元年(1854年)の東海大地震により天守閣など大半が損壊しました。<br /> 現在の天守閣は平成6年に木造で再建されたものです。

     掛川城天守閣と太鼓櫓。
     永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する拠点となりました。
     天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は徳川家康を関東へ遷すと、家康の旧領地に秀吉は配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣を造りました。しかし、安政元年(1854年)の東海大地震により天守閣など大半が損壊しました。
     現在の天守閣は平成6年に木造で再建されたものです。

  •  天守閣。木造の再建は掛川城と伊予大洲城の2城だけです。

     天守閣。木造の再建は掛川城と伊予大洲城の2城だけです。

  •  城門。

     城門。

  •  大手門番所。城の正面である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備する役人の詰所です。

     大手門番所。城の正面である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備する役人の詰所です。

  •  二の丸御殿(国重文)。用途に応じ20部屋からなり、藩主の公邸や政務を司る部屋があります。

     二の丸御殿(国重文)。用途に応じ20部屋からなり、藩主の公邸や政務を司る部屋があります。

  •  駿府城巽櫓(たつみやぐら)。二の丸の南東角に設けられた二層三階の隅櫓で、十二支で表した巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。櫓は戦闘時の拠点となり、見張りや、敵への攻撃、武器の保管などの役目を持っていました。

     駿府城巽櫓(たつみやぐら)。二の丸の南東角に設けられた二層三階の隅櫓で、十二支で表した巽(辰巳)の方角に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。櫓は戦闘時の拠点となり、見張りや、敵への攻撃、武器の保管などの役目を持っていました。

  •  外堀。

     外堀。

  •  東御門櫓門(平成8年復元)。

     東御門櫓門(平成8年復元)。

  •  駿府城本丸跡石碑。

     駿府城本丸跡石碑。

  •  本丸御殿跡。駿府城の中でも最も重要な建物です。家康が諸国の大名に会うような公式の場所と、日常の生活をしている場所を併せ持った建物がありました。

     本丸御殿跡。駿府城の中でも最も重要な建物です。家康が諸国の大名に会うような公式の場所と、日常の生活をしている場所を併せ持った建物がありました。

  •  本丸堀。駿府城の三重堀の最も内側の堀です。明治29年に埋められましたが、発掘調査により確認されたものです。

     本丸堀。駿府城の三重堀の最も内側の堀です。明治29年に埋められましたが、発掘調査により確認されたものです。

  •  徳川家康公の像。

     徳川家康公の像。

  •  鯱(シャチ)。二の丸堀から出土した青銅製のシャチです。

     鯱(シャチ)。二の丸堀から出土した青銅製のシャチです。

  •  幼少期、今川家に人質として預けられていた際の竹千代(家康の幼名)の勉強部屋(復元)。

     幼少期、今川家に人質として預けられていた際の竹千代(家康の幼名)の勉強部屋(復元)。

  •  天守台石垣発掘調査現場。天守は火災等により焼失したが再建されずでした。

     天守台石垣発掘調査現場。天守は火災等により焼失したが再建されずでした。

  •  坤櫓(ひつじさるやぐら)。二の丸南西にある隅櫓です(平成26年復元)。

     坤櫓(ひつじさるやぐら)。二の丸南西にある隅櫓です(平成26年復元)。

  •  駿府城から富士山の頂上部分が見えました。

     駿府城から富士山の頂上部分が見えました。

  •  史蹟 山中城阯石碑。

     史蹟 山中城阯石碑。

  •  箱根旧街道石畳。山中城址への入り口付近が箱根旧街道が通っている。

     箱根旧街道石畳。山中城址への入り口付近が箱根旧街道が通っている。

  •  山中城跡(国史跡)空堀。山中城は戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲になった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備える急遽掘や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。しかし、翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城しました。

     山中城跡(国史跡)空堀。山中城は戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲になった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備える急遽掘や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。しかし、翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城しました。

  •  三の丸跡。

     三の丸跡。

  •  西の丸跡。

     西の丸跡。

  •  障子堀。

     障子堀。

  •  岱崎出丸と畝堀(復元)。

     岱崎出丸と畝堀(復元)。

  •  畝堀。

     畝堀。

  •  畝堀。

     畝堀。

  •  畝堀。

     畝堀。

  •  小田原城天守閣(昭和35年復興)。三重四階の天守に附櫓・渡櫓を付している。<br /> 小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北城早雲に始まる小田原北城氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。

     小田原城天守閣(昭和35年復興)。三重四階の天守に附櫓・渡櫓を付している。
     小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北城早雲に始まる小田原北城氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。

  •  馬出門。平成21年復元。馬出口に位置する門で、土塀で周囲を囲む馬出桝形を形成しています。

     馬出門。平成21年復元。馬出口に位置する門で、土塀で周囲を囲む馬出桝形を形成しています。

  •  銅門(あかがねもん)平成9年復元。木造。馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正面にあたります。入母屋造り瓦葺で、土塀で周囲を囲んだ桝形門の構造となっています。大扉は「銅門」の名の由来となった銅版・銅鋲で美しく装飾されています。

     銅門(あかがねもん)平成9年復元。木造。馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正面にあたります。入母屋造り瓦葺で、土塀で周囲を囲んだ桝形門の構造となっています。大扉は「銅門」の名の由来となった銅版・銅鋲で美しく装飾されています。

  •  常盤木門。昭和46年再建。木造。本丸正面にあたり、最も大きく堅牢に造られています。

     常盤木門。昭和46年再建。木造。本丸正面にあたり、最も大きく堅牢に造られています。

  •  本丸跡。

     本丸跡。

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