2016/11/22 - 2016/12/11
28位(同エリア272件中)
plastic_treesさん
- plastic_treesさんTOP
- 旅行記4冊
- クチコミ4件
- Q&A回答0件
- 18,389アクセス
- フォロワー9人
二十日間のネパール旅行を綴った旅行記です。
ただの日記です。主観的な内容で、実用的ではないことをご了承ください。
誤字脱字にご注意ください 笑。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
Day 1 - 11月22日
アラブの薔薇
私は今、シカゴ発、アブダビ行きのフライトの中。レイオーバーの時間も加えて20時間でカトマンズに到着する予定だ。アメリカをハブとして、ヨーロッパから東へ飛んだことはことはない。このまま東にさらに進んでいくと日本に着くのだな、地球は丸いんだな、とマゼランが500年も前に証明した当たり前のことを納得している。
10月の終わり。会社に3週間の休みを取りたいと申し出た。出発の2週間を切ってトレッキングにサインアップした。富士山に登ったことくらいしかないが、なんとかなるだろう。
千一夜物語風のバックグラウンドミュージックが機内では流れ、気分はすでに砂漠の民。アッラーへのお祈りがあり、メッカの方角を指したコンパスがスクリーンいっぱいに映し出された。
アブダビ空港。シャワー室で足を洗い、身だしなみを整えていたアラブの女性をみかけた。髪を直すのに、覆いをはずし、その髪の美しさに目が釘付けになる。高く丸く結った髪には、3つの大きなバラの髪飾りが刺してある。髪を直し、すばやく黒いベールで頭を覆い、シャワー室から出ていった。あの黒いドレスの下にはいったいどんなドレスが隠されているのだろう。あの髪飾りに似合いそうなのは、ピンクのプラダ、それとも水色のシャネル? -
Day 2 - 11月23日
Feeding my soul
29年前にネパールに来たことがある。カトマンズに一週間だけ滞在した。ポカラにもアンナプルナとマチャプチャレを見にバスでいった。ちょっぴり悪いことをして警察沙汰になり、賄賂を渡し、逃げるように出国した19歳の夏。街はその当時とあまり変わってないような気がする。
チベット人老夫婦が私を見てにこにこしながら話かけてきた。私の顔立ちはチベット人に似ているらしい。チベット語を少し話してみる。「私は日本人」「ラサに行ったことがある」。数十年も前に覚えた単語が少しづつ頭に浮かんでくる。「子供はまだつくらないの?」というフレーズが頭に浮かんできた。一人でクスクス笑った。
まだ学生だったころ、ラサのゲストハウスにボーイフレンドと長期滞在していた。そこの管理人のおじさんが、私たちをからかいながら、挨拶代わりに使ったフレーズだ。そのおじさんは「こんにちわ」と縦にひらがなが大きく編みこまれたセーターを着ていたのをいまだに鮮明に覚えている。外国人が着ている、今流行の変な日本語Tシャツの走りだっのだろうか 笑。
昔の思い出がよみがえり青春時代に戻った気がして胸が高鳴る。 -
Day 3-11月24日
感謝祭
フリーの日、だらだらできる最後の日。トレッキング会社のオーナと会ったり、必要なものをダッフルバックに詰めてもらったり、寝袋を借りにいったりした。ノースフェイスの使用可能温度マイナス20度を借りた。
夕方ダルパール広場のほうへふらふらと歩いてみる。途中でお母さんと6歳くらいの女の子がやっているチャイのスタンドに立ち寄った。少々衛生面で不安だったが、私にはラッパのマークの正露丸という強い見方がいる。知り合いの医者が、お守りとして出してくれた抗生物質で、自分の体内でバイオ戦争を勃発させることもできる。
ダルパール広場では、伝統的な豪華な衣装を身にまとった少女たちが大勢いた。少女のプロスパリティーを祈るお祭りだそうだ。ネパールでは、クマリを先頭に少女が大事にされる。チャイのスタンドでお母さんを手伝っていた女の子は学校に行けているのだろうか。広場の少女達と対照的に映った。
今日24日は、アメリカの祝日。アメリカでは家族や友人と七面鳥を食べたりする。そんなことを気に掛けてくれて、トレッキング会社のオーナーが夕食に誘ってくれた。カトマンズで、ターキーディナーを食べるとは思ってもみなかった。もしかしたら、巨大鳩かも知れないな、と思いながら口に運ぶ七面鳥は、ゴムのように硬かった。
シュラズと、暖かくて甘くてスパイシーなラム酒をいただいて、ほろ酔い気分で迷路のようなタメルの道をあるいてホテルに戻る。珍しく緊張している自分がいた。 -
~トレッキング持ちものあれこれ~
不要だったもの
本:読む暇がありませんでした。おしゃべりしたり、カードゲームをしたり、日記をつけたり、早めに寝てしまったり。長い山の夜を一人でどう過ごそうかと心配でしたが、全くの取り越し苦労でした。
化粧品:途中どうでもよくなりました 笑。テンボジェあたりから、水はないか、凍っていたので、気が向いた時にウエットテッシュで顔を拭くだけになりました。
ウオーキングポール:バランスをとるために使うなら、1本使いでよさそうです。2本だと無駄に体力を消耗してしまいそうでした。
乾電池:ロッジで有料でチャージできました。
レインコート:季節によリます。着るものがなくなった時、レインコートは着心地の悪い寝巻として活躍しました 笑。
重宝したものリスト
粉末ゲーターレード:ご飯が食べれなくなった時、水分とカロリーを水とチョコレートで補給しました。私は環境保護のため、プラスチックの水は買わず、水道水を塩素タブレットで滅菌した水を飲み続けたので、塩素臭さが消えて飲みやすくなりました。
パンティライナー:下着の替えがなくなったときに 笑。
サプリメントとビタミン:山での食事は偏ります。野菜のおかゆを注文したら、青い点と赤い点が浮かぶおかゆが出てきました 笑。
iPod:好きな音楽を聴きながら歩くと元気になります。iPodは軽くて、電池が長持ちします。なくしてしまってもiPhoneほど困らない。
ブラフ:ホコリを吸い込まないように。どこでも買えます。
フェイスマスク:つけて寝ると、防寒と、喉と鼻の乾燥を防げます。
ハンカチ:とりとめなく流れる鼻水を拭くのに。ラブジェではトイペ、一巻500円もします。
ソーラーパネル:3時間で携帯が充電できます。
タイガーバーム:鼻で呼吸ができないときにいいです!でもすごくしみます 笑。
ハンドサニタイザー:上に行くほど、手を洗えないときが多くなります。
ジャーナル:日記をつけます。
チョコレート:カードゲームの勝利者への賞品。これでUNOが命をかけたバトルとなります。
カメラについて
私はカメラ一台、24-70mmと11-20mmレンズの2本、三脚を持っていきました。星を撮るため、三脚は必要でした。ミニ三脚も考えましたが、足場が悪いのとカメラとレンズの重量を考えて、いつも使っている三脚を持っていきました。2.5キロの三脚は、物干し竿にもなりとても重宝しました(と何度も自分に言い聞かせる) 笑。
カメラ、レンズ、三脚は、トレッキングでは「大荷物」になります。女性の場合、それだけで手いっぱいになってしまうかもしれません。
カメラの純正電池はとてもよく持ちます。山で200枚ほど撮りましたが、一本の電池を半分もつかいませんでした(私はフラッシュは使いません)。
カメラの結露については、特別なにもしませんでした。でも夜空を撮って室内にはいると、レンズに霜がおりていることがあったのでカメラ内部でも結露があったのかもしれません。
キャプチャープロ(ピークデザイン)をつけていましたが、24-70mmのレンズでは、重さで下にずり落ちてきます。ミラーレスでは重宝するかもしれません。
いざ登るぞ、というときにはカメラは邪魔になるのでバックパックにしまいました。いざ、登るぞ、というときばかりだったので、カメラはバックパックにしまわれたままでした 笑。 -
Day 4- 11月25日
世界一怖い空港
トレッキング開始の日。アメリカからの時差ぼけで夜中の2時には目がばっちり覚めていた。ガイド兼ポーターは体操選手のように小さくて細かった。背丈は私の肩くらいしかない。25歳のネパール人。ガイド歴5年。英語はそこそこだが、時々何を言ってるのか解からない。気が合わないタイプかも、と一瞬思った。
トリブバン国際空港にはすでに欧米人と、現地ガイドで長蛇の列ができていた。チェックインカウンターで荷物の重量を測るとちょうど30キロ。ガイドが20キロ、私が10キロを担いで山に登ることになる。少し荷物が多かったかな、と思った。
ガイドの個人の荷物はとても少ない。12日のトレッキングに、Tシャツ1枚、薄手のセーター1枚、ベースレイヤー1枚、ダウン1枚。後で気がついたがトレッキング中、同じものをずっと着ていた。
ルクラ行きの飛行は噂に聞いていたので、怖かった。離陸するときにガイドの彼が信じるパワフルゴッドに祈りを捧げていたので、余計に怖くなった。頭の中で、自動車事故と飛行機事故にあう確立を比較して落ち着こうしたが、機体の古さと汚さで確率変数が右往左往する。
着陸準備。まさにランウエイに突入していく感じで、息を呑む。行き止まりが山の壁だ。重量オーバーで、余計な付加がかかり、機体が定位置に止まらない、なんてこともこのゆるい国ではありえそう。
世界で一番恐ろしい、テンジン・ヒラリー空港に約35分にフライトを終えて無事着陸。世界で一番恐ろしい飛行場に着陸してみたいという夢が叶った。
ルクラで軽い朝食をとり、いよいよ出発。 -
ルクラから途中の休憩も含め2時間ほどでPhakdingへ到着。今日はここまで。
昼寝がしたっかたので寝袋にもぐり込むがすごく寒い。寝袋はマイナス20℃対応とあるけど、何をもってマイナス20℃なのか。寝袋の中の温度を基準にしてよ、と寝袋にあたっているうちに寝てしまった。寝袋には罪はない。
後でガイドにいかに寒かったかを伝えたら、目をぐるりと回して馬鹿にされた。こんなところで寒いなんて言ってたら、後が思いやられると思ったに違いない。
私が住んでいるシカゴも寒い。-18℃(ゼロファーレンハイト)以下になる日が、年間20日、0℃になる日が100日もある。家では寒かったらヒーターの温度を調節するとか、外出先だったらスタバに入るとか 笑、寒さをしのぐ方法はいくらでもある。しかし、ここではそれがない。この耐え忍ぶしかない寒さが、自分ではどうにもならないことと伴って、一番辛かったかも。
一日目、無事終了。途中小さな村を通り過ぎるとき、そこで繰り返される人達の生活を目の当たりにして、そこはかもない懐かしさに襲われた。
ルクラ~Phakding -
サスペンションブリッジの技術がもたらされる前には、谷へと続くトレイルを直し直し使っていたそうです。谷のトレイルはよく崩れます。谷の中腹に昔使われていたトレイルの面影を見つけることができます。
-
Day 5 - 11月26日
ここがBEYUL?
うんざりする上り坂を経てナムチェバザールに到着した。途中、テンジン・ヒラリーブリッジを渡る。二基の上下に架けられたサスペンションブリッジは、クライミングパートナーのように見えた。
ナムチェバザール。その響きから勝手に天空のシャングリラを想像していたが、見事に裏切られた。街には、パブも、サロンもフレンチベーカリもある。
高度順応のため二泊する。二日間も何しようか少し戸惑ったが、映画を見に行くことにした。風邪も引きそうだったので、暖かいラム酒を飲んだ。 -
3,400Mで大量のお酒をいただくことは、オススメしません。
-
お部屋には、簡易ベットとお布団がおかれてあるだけ。ここのお布団はふかふかで気持ちよかったです。
-
Day 6 - 11月27日
地震
朝5時30分頃、マグニチュード5.4の地震があった。私はカラスがロッジを襲うヒッチコックの映画のような夢を見ているかと思った。
3階の部屋は、横に大きく揺れ、トタン屋根がバシバシと大きな音を立てた。やばいかな、と一瞬だけど思った。ロッジの宿泊者達が動き出す気配はなく、山の朝の静寂はそのまま保たれている。しかし広場を挟んで列をなし立ち並ぶロッジの窓に、またたく間に明かりがつきだし、外では犬が大騒ぎしているのが遠くのほうから聞こえた。
食堂に向かうと、今朝の静けさとは打って変わり、地震の話でもちきりだった。宿泊者は、突然の大きな揺れで、うろたえていたのかも知れない。ネパール式の石造りの建物で地震にあったら場合どうしたらよいのか聞いておこうと思った。
ナムチェ泊 -
高度順応のため3,880Mまで上がる。
上から眺めるナムチェの街は、山肌にくっついたカラフルな洗濯バサミのように見えた。 -
高山病予防には、Climb High, Sleep Lowを原則として、昼間できる限り高いとこに登り、夜はできる限り低いところで寝るのがよいそうです。
清々しいまっすぐのトレイルの先にエベレストビューホテルがあります。ホテルでは、なんと各部屋に暖房が完備されているそうです(夜の10時から、朝5時までは切られます)。 -
Day 7 - 11月28日
アルピニスト
テンボチェのロッジで、オージーのマットに出会う。彼はたった今、アマダブラムをアルパインスタイルで登頂し、下界に戻ってきたことろだ。3日間で、9時間しか睡眠をとっていない。手の指に凍傷の痕がある。滅多に会える種類の人ではないので、質問攻撃を開始した。その中でも印象に残っているのは、クライミングパートナーについてだった。7000Mでクライミングパートナーに100%自分の命をあずけられるか?といった無粋な質問をしてみた。例えば10Mの高さだったら、100%命を預けられる。それは100Mでも、1000Mでも、7000Mでも変わらないと、彼は答えた(クライングパートナーと、mentoringについては、MERUという映画を参照)。彼女のことも少し話してくれた。結婚したい彼女がいるが、クライミングに命を懸ける彼を、彼女は理解できない。
ビックマウンテンに登り続けるなら、彼女も、奥さんも、子供も、ペットも普通の生活も望んだらいけないんじゃないかな、とちょっぴり意地悪で言ったら、彼は苦笑いしていた。今朝、アマダブラムで若いアルピニストが雪崩に命を失った。彼とはベースキャンプで一緒だったそうだ。
次の朝、テンボジュゴンパの朝の読経を聞きに行った。私はこれからの旅の安全を願ったが、彼は、何を考えてか知らないが、すごい遠くを見ているような目をしていた。
次はK2にサミットするそうだ。
ナムチェ~テンボチェ -
トレッカーズロッジの様子。真ん中のストーブの周りに自然と人が集まります。
乾燥させたヤクの糞をストーブにくべる時、ヤクの糞の粉末がパーッとあたり一面に飛びます。あわてて、鼻や口をふさいだり、食べ物や飲み物を覆います。 -
Day 8 - 11月29日
強固な体
ディンボチェあたりに着くと、強固な体に生んでくれた両親に感謝する気持ちが生まれてくる。しかしディンボチェに着いたいなや、調子が悪くなりそのままベットに倒れこむ。でもそこには、ダウンの枕も、エジプシャンコットンのシーツも、キングサイズのデュべーイもない。
ベニヤ板で囲われたその部屋は、中から鍵がかからなかった。寝袋にくるまって寒さに震えていると、ガイドがいきなり部屋に入ってきた。私は思わず You need to knock the door! と怒鳴ってしまった。
彼に、私の血中酸素濃度を計ってもらう。数値は70。自分で計った心拍数は正常だったが、血中酸素濃度70という数値が良いのか、悪いかも私にはわからない。25歳の不躾な、体操選手のような目の前の男の「異常なし」という言葉を疑う理由は百もあるが、確かめる術はひとつもない。
夜中、心臓がドキドキして目が覚めた。前頭前野の辺りがこれまで経験したことがないほど痛い。体を起こして、呼吸をゆっくりする。ダイナモックスの服用には、賛否両論がある。急性高山病の予防として、症状も出ていないのに飲んでいる登山者もいた。私は、ダイナモックスは飲まず、高山病になったら、とにかく下へ降ろうと決めていた。
テンボチェ~ディンボジェ -
Day 9 - 11月30日
Into Thin Air
1996年、ストームのため、エベレストで一夜にして8人の遭難者が出たのをご存知だろうか。日本人女性も犠牲となった。その記録が、エクスペディションに実際に参加していたアメリカ人のジョン・クラカワーによって出版され、私は彼の著書 Into thin airをヒマラヤに来る前に読んでいた。
宿泊先の Yak Lodgeのオーナー、タシがその1996年のエクスペディションで、マウンテンマッドネスのスコットフィッシャーに雇われていたシェルパだということを知った。アドベンチャーコンサルタンツのロブホールが、妊娠中の奥さんに無線と衛星電話を介して、最後の言葉を交したことなどその時の状況を話してくれる。難波康子さんのことも知っていた。
シェルパならみんな登頂してる、とおどけてみせるが、彼は二度エベレストをサミットしているエリートクライミングガイドだ。しかし彼は1996年の遭難事故以降、エベレストには戻っていない。 -
この日、高度順応のため、裏山に上る。ナマケモノのほうが私より早く進めたかもしれない。かろうじてたどり着いた目標地点4700M。正面切ってのアマダブラムが近かった。
-
Day 10 - 12月1日
ヌプツェを裏庭に持つ集落
エベレストで命を落とした人達の墓場を通過し、ラブジェの集落に到着した。難波康子さんのお墓を探したけど、見つけられなかった。いくら山が好きでも、こんなところに葬られるのは寂しいだろう、と思った。一人一人の名前を確認しながら墓石に触れ、レストインピースと声をかける。
墓場をうろついていると、水仙のような香りがしてきた。テンボチェあたりから、私の鼻は匂いを感じなくなっている。そのいい香りは、墓場を過ぎても私のあとについてきた。
高度は5000Mを超えた。息苦しさは感じないが、毎晩、強烈な頭痛で目が覚める。孫悟空が緊箍児で頭を締め付けられると同様の痛さかな、と想像する。
アイビープロフェインを口に放り込む。水筒の水は凍っているので、つばでごくっと飲み込む。壁にもたれて眠ると、幾分楽なような気がする。
咳が止まらず、夜中隣の部屋の人に申し訳ないなと感じるが、隣の人が夜中嘔吐している様子に目が覚める。皆、それぞれの事情を抱えている。抗生物質をナムチェの二日目から飲み始めたが一向によくならず。細菌性ではないのかと疑う。
ディンボジェ~ラブジェ -
痰をペッと外に吐き出す動作を覚えた。アジア人がするように掃除機のような音を立てて上手にだすには、まだまだ訓練が必要だ。あれは熟練の技だ、と思った。
ガイドは、クンブ咳だといった。ヒマラヤのクンブ地方を通るものは、このひどい咳に悩まされるそうだ。
吐きそうになるほど汚れた公衆トイレで用を足すよりも、外の岩の陰でしてしまった方が気分がいいこともおぼえた。
コンタクトレンズが凍って割れた。歯磨き粉もアルコール入りのウエットティッシュ凍った。今夜からそれらを寝袋につめこんで一緒に寝ることにする。寒いはずだけど、数字で確認できない。トレッカーを憂鬱にさせないためか、食堂のどこにも温度計が見つからない。
朝起きて、その辺にあるものをはおり、夜そのままの格好で寝袋に入る。着替えるのに、一旦裸になることは、冷たい湖に飛び込むと同様の勇気がいる。綺麗な下着も靴下も、もうないので着替える必要もないのだけど。
あと二日でベースキャンプ。南の方で、季節はずれのサイクロンが発生しているという噂を聞いた。ガイドに天候はどうなのかと聞くと、例の彼のパワフルゴッドに祈っておくから大丈夫だと言った。周りのガイドに聞いてみてよ、と少々意地悪な口調で言うと、カトマンズのお兄さんに電話で聞いてみると素直に答えた。
あなたのパワフルゴッドは信じないわけじゃないけど。 -
Day 11 - 12月2日
エベレスト頂上まで6K。
5時半のサンセットを目指して、カラパタールーに向かう。出発まで時間があるので、食堂に行くが、ストーブには火が入っていない。そこにいるトレッカー達はまるで修行僧のように沈黙を守っている。ストーブの火をいれてよ、と言いづらくなる。
ここでは、ヤクの糞は貴重な資源だ。ラブジェからゴラクシェップまでの道のりでみかけたヤクの糞集めをしていた男達は、ロッジの従業員だった。(私の足で)往復4時間かけて、その日の燃料を集める。
ヒマラヤの山々に比べたら、5500Mと言えど、カラパタールはただの丘なのかもしれない。手が届きそうなビックマウンテンが黄金色に染まる。
カラパタール頂上から、エベレスト頂上までは直線距離で6K。Yak Lodgeのタシが教えてくれた。
行きはヨイヨイ帰りは怖い、とはこのことだったのか。あっという間に日が暮れて、ヘッドライトを照らした足元に細心の注意を払いながらゴラクシェップまで下る。
ラブジェ~ゴラクシェップ~カラパタール~ゴラクシェップ -
右から、ヌプツェ、ローツェ、エベレスト、チャンツェ、クンブツェ。
クンブアイスフォールも見えます。 -
プモリ(7161M)の南側にある陵丘がカラパタールです。
チョコレート争奪戦をくりひろげたジャロードをリファレンスポイントに使わせてもらうと 笑、プモリがいかに至近距離にあるかがわかります。 -
Day 12 - 12月3日
レスキュー
ゴラクシェップ。シェルパ語で、デッドクロー(カラスの死骸)という意味だそうだ。私は今、月にいるのかなと錯覚を覚える。
昨夜からものすごい強風が吹いている。朝食堂に向かうと、例のごとくストーブに火が入っていない。腹が立ったが、ロッジの従業員の女の子に火を入れてとナイスにお願いすると、しぶしぶヤクの糞を運んできた。この女の子は笑わない。
すごい風ね、と隣のイギリス人に話しかけた。話を聞くと、昨晩、彼の友人夫妻が、ベースキャンプで、キャンプアウトして一晩過ごしたらしい。昨日は奥さんの50歳の誕生日であった。二人は8時にはゴラクシェップにもどってくる予定が、まだ帰ってこない。強風で足止めを食らっているのか、それともなにかあったのか。
甘いコーヒをすすっていると、シェルパとガイドが何やら大騒ぎしている。言葉が理解できないので聞き流していたが、チャイナだとかジャパンだとかの単語が聞こえる。朝食のあと、暖を取っていると、なにやら慌てた形相でロッジに入ってくる男がいる。その男は、その場にいる全員を見渡した後、私に日本人かと英語で聞いてきた。隣のブッタロッジで日本人が急性高山病で倒れているらしい。
ブッダロッジでは、酸素マスクをつけられた日本人が横たわっていた。自分の名前は答えられたが、自分の年を答えることができない。旅行保険の証書が見つからないので、カトマンズの大使館に救助を要請する。大使館から日本人の家族に連絡を取る。ブッダロッジのオーナーにカトマンズからのヘリを呼んでもらう。私はその日本人を抱え、声をかけながら、一緒に長い呼吸をし、背中をさすった。
日本人はエベレスト登山用の、高級酸素を与えられていた。日本人が時々酸素マスクをはずしてなにか伝えようとすると、ブッダロッジのオーナーは慌てて酸素ボンベのバルブを閉めた。酸素は一本US1500ドルするそうだ。彼の血中酸素濃度の数値は60を切っていた。
2時間半遅れてヘリがようやく到着した。ガタイのいいオージー2人が日本人を抱えるようにして、ヘリが着陸した小高い丘まで運ぶ。オージーの女の子がすぐさま自分のダウンを脱いで彼に着させた。私は大使館からヘリで一緒に下るよう要請を受けたが、一緒に行っても何の役にもならないことを告げ、大使館職員が病院に向かってくれるようお願いした。
レスキューヘリは、ポタシアムの大袋や、中国語が書かれたダンボール箱の積荷と一緒にカトマンズから上がってきた。その積荷を降ろしてから、意識が朦朧としている日本人をヘリに乗せる。私達はダウンウオッシュで発生するすさまじい砂嵐に、顔を下にむけて、上昇するヘリを見送った。日本人はヘリポートが屋上にあるカトマンズの病院に搬送された。
そこにいたネパール人のガイド達は、「なぜ日本人ばかりが高山病で倒れるのか、ちゃんとガイドをつけて登山するよう政府に伝えろ」、と私に攻撃的だった。無性に腹が立ち、「おまえたち日本人が倒れていることを知りながら、なぜもっと早く知らせないのか」、と反論し怒鳴りたてた。中華麺のダンボール箱への苛立ちもひっくるめてだったので、感情は2割増しになった。
去年、6人の日本人がネパールで高山病で亡くなっている。ソロで山に入るからではなく、有給を取れない日本人が、高度順応をせずに強行登山し、急性高山病で倒れるのではないかと察する。こんな地の果ての月のような辺境地にまで、日本社会の不条理が影を落としていることに驚き、胸が痛む。 -
ベースキャンプには、何もないよと聞いていた。シーズンオフだし、ダーティアイス(汚れた氷河)があるだけだと。
そんなことはなかった。景色も美しく、セレブレーションモードで、皆、ワイワイ騒いでいる。私もシャンパンの栓をあけたくなるが 笑、もちろんそんなものは持ち合わせていない。
出発が遅くなったので、ベースキャンプから下りる途中でどっぷりと日が落ちてしまった。パンという高い音がしてヌプツェで中規模の雪崩が発生したのを見た。あぁ、こんな音がするんだと思った。テンボジェのマットが言っていた。雪崩が起きたらYou go right, I go left。運がよければ、どちらか一方が助かる。
今朝のことを考えた。私が伝えたかったことをちゃんと理解してくれただろうか。それとも、裕福な国から来た、世間知らずで、ナイーブで愚かな旅行者のたわごとだとでも思ったのだろうか。この国に今だはびこるの悪しき慣習が、人々の心に退廃的な考えを植えつけるのか。感情に訴えても、相手にはなにも伝わらないことは良くわかっている。この点は反省と改善に余地があるな。日本人は、この道を一人で上がってきたのか。きっと心細かっただろうに。今頃どうしているだろう、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。そんなことをごちゃ混ぜに考えていたら、悔しいやら、悲しいやら、可哀想やらで涙と鼻水が一緒に出てきた。
強風が顔を容赦なく打ち、ゴアテックスの手袋の下の指が凍りついた。店で一番高かったアゾロのトレッキングブーツの下の指もかじかんだ。
この日フェリチェまで下る予定が、ラブジェまでしか下れなかった。ベースキャンプに辿り着いたのが、遠い過去の出来事のように思うほど、長くて、惨めな一日だった。
ゴラクシェップ~ベースキャンプ~ラブジェ -
ディンボチェで一緒に病気になり、励まし合ったハナも一緒にベースキャンプの土を踏みました!
-
Day 13 - 12月4日
ヌプチェとオリオン
満天の星空を眺めた。カシオペアの横っちょにアンドロメダが肉眼で見える。久しぶりに心が震えた。
翌朝、10時にロッジを出発する。悠々としたフェリチェパスを下る。遠足で山に来ている感じで、体も軽い。ヤクのキャラバンも心なしか楽しそうだ。上の方では、ヤクも人間も舌をだしてぜいぜい登った。
ロブチェ~フェリチェ~テンボジュ -
下りは背中に羽が生えた鳥のように飛んでいけます 笑。
-
テンボジュゴンパのマニ車をぐるぐる廻す。一度廻すと、経典を一回読んだことになります。怪我もたいした病気もせず無事戻ってこられたことに感謝します。
-
Day 14 - 12月5日
モンジョのイエティ
エベレストも、アマダブラムもこの辺で見納めだ。
ナムチェバザールで一泊したいガイドを説き伏せ、モンジョまで下ることにする。
ナムチェまで下ると、気圧の関係なのか手足がびっくりするほどむくんできた。
ナムチェのうんざり坂は、よくこんなところを登ってきたなぁ、と自分でも感心した。
モンジョの宿でシェルパの御一行と一緒になった。ミンマ(火曜日)は、モンジョの出身で、お姉さんが醸造したリンゴのロキシーをご馳走してくれた。二人のラクパ(水曜日)は、テルマと、ミーティーとチュッティ(イエティ)の話をしてくれた。もう一人は、土曜日生まれのペンパだが、子供の時病気がちだったので、別の名前に変えられた。私は彼のことをジュニアと呼んだ。シェルパは、生まれた曜日が名前になる。
テルマについて:
テルマは、ヒマラヤに生息する(またはしていた)森の精霊。脇の下に大きなコブがあり、それをワシワシと鳴らす。人の顔を持つが、体は長い毛をたくわえた動物の姿をしている。身長約60センチで、時々人をさらう。さらわれた人間は数週間ほどで戻ってくるが、シャーマンになり砂を食べたりして生きていけるらしい。モンジョの周辺では、テルマにさらわれた人がまだ生きているそうである。テルマは、また過激なエンバイロメンティストでもあるようだ 笑。シャクナゲの生木を薪にして持って帰った村人が、次の日滝壺で発見された。なんでも、テルマにさらわれ、殴られ、滝壺に落とされたそうである。
イエティについて:
イエティにはミーティとチュッティの2種類がある。ミーティは動物を襲い、チュッティは人間を食らう。最近の目撃報告では、ゴーキョーでヤクを放牧していた女性がミーティに襲われた。女性は突き飛ばされ意識を失なったが、意識を取り戻すとミーティがヤクを一匹食いつくし、2頭目のヤクを襲っていた。恐ろしい話である。
9年間にアメリカのNBC放送局が、イエティ特集でモンジョに長期滞在した。その時モンジョ川の川岸で6本指の足跡が発見された。ヘリコプターが飛びかい、科学者や、生物学者がモンジョ入りし、石膏で型を取ったりDNAを採取したりと静かな山間の村が一夜にして、未確認生物大発見の大ニュースで大騒ぎとなる。
村人達は、冷静な目でその騒ぎの様子を伺っていた。
実は村には6本の指を持った男が住んでいる。村人達はそいつじゃないか、と密か思ったいたそうだ。そんな話をストーリーテラーの才がある、ミンマが面白おかしく話す。私達はロキシーの影響もあって、腹をかかえて大笑いした。その6本の指を持った男に、明日の朝会いに連れていってもらうことを約束して、その晩はお開きとなる。
夜もふけ、自分の部屋に戻るとテルマが窓から覗いていそうで、カーテンを閉めてふとんにもぐる。もう寝袋は必要ではなくなっていた。
テンボジェ~モンジョ -
か細い 笑、私の手が相撲取りの手になってる!そしたら顔は?怖くて鏡はみれませんでした。
-
ハイキングシューズと、ウールの靴下の下の足です。汚くてすみません 笑。
-
腕のいいシェルパは100キロも運ぶことができるそう。
額を支点とし、頚椎と胸椎を軸にしてドッコを担ぐので、筋力よりも、体のバランスのほうが大切なのかもしれません。
汗もかかずに淡々と歩んで行くシェルパは、私の体とDNAレベルで違うんじゃないかなと思いました。 -
坂を登り学校に通う子供たちは、元気に挨拶をしてくれます。
-
Day 15 - 12月6日
Off the Beaten Pass
朝寝坊し、モンジョのイエティとセルフィーを撮ることが叶わなっかたが、ガイドを先に行かせて、シェルパの御一行と一緒に遠回りしてルクラまで下りることにした。後から知ることになるが、ミンマは大学の教授だった。ラクパは、エドモンドヒラリーのヒマヤラントラスト奨学金で博士号を授与された初めてのシェルパだった。
ラクパ達はニュージーランドで教育をうけた後、ネパールに戻り、教育、貧困、環境などの分野のエキスパートとして活動している。御一行にこうして出会ったのも、山岳地帯に現金収入をもたらすため活動を終えて、山を下ってきたところに私がちょうどに出くわしたからだった。御一行は16日間かけて山岳地帯の村々を訪ね歩いた。
私はイギリスで教育を受けたが、アジアやアフリカからの途上国から来たクラスメート達は、こぞって卒業後もロンドンに残った。そりゃそう。ロンドンにはお金をたくさん稼げる仕事もいっぱいあるし、楽しいし。祖国のために生きることを心に決めた、若き日のラクパとミンマの姿を想像し、彼らの故郷とそこに暮らす人々への想いを感じた。そして彼らの情熱は若いシェルパに脈々と受け継がれている。ジュニアは環境科学を学ぶ大学生で、私にヒマラヤの環境破壊と将来の夢について真剣に語ってくれた。 -
途中Pema Cholingゴンパでお参りし、ラクパのお友達のロッジで、お昼をいただいた。
ペマチョリングゴンパは2015年の地震で全壊し、立替工事が完了したばかりだ。まだ朱色に塗られない真新しいゴンパであるが、実は550年もの歴史がある由緒正しいゴンパだ。寺にはこんな言い伝えがある。
昔々、チベットから来た盗人が、ゴンパから小さな箱を持ち出した。チベットの国境近くで、その箱がだんだんと重くなり、とうとう7人の盗人が運べない重さとなる。箱を開けてみると、そこには小さな仏像が鎮座しているではないか。小さな仏像は、私はチベットには行かない。私の住まう場所は、ペマチョリングゴンパの白い葉をたわわにつける樹の下だと告げる。今すぐ私をペマチョリングゴンパに戻さなければ、お前達は命を失うだろう。
その小さな仏像は、白い葉をつける樹の下にあるペマチョリンゴンパで、(ミンマの兄が奉納した鉄格子の金庫のなかに 笑)今でも大切に安置されている。 -
61歳のラクパが先頭を切って歩く。水戸黄門。私は由美かおる。
途中、シェルパの歴史、言語、宗教、政治、ヒマヤラの植物について話してくれる。ミンマは、田部井淳子さんと交流があったそうだ。昨日のリンゴのロキシーは、田部井さんが送ってくれたリンゴの苗から収穫したリンゴから醸造したそう。エベレストの標高にあやかって、田部井さんから8848本の苗木が送られた。
村から犬がついて来た。人懐こくて可愛いなと思ったが、ヒョウ(マウンテンレオパード)がこの辺りには生息するので、賢い犬たちは人間について安全に移動するらしい。
エベレスト街道をしばし外れ、off the beaten passを歩く。行き違う人もロバのキャラバんも、ティーハウスも、土埃もないシェルパだけが知っている、シェルパ街道。
この20キロの道のりが一番楽しかった。
モンジョ~ルクラ -
小さなシェルパの村々を通る。この辺りは、ジュニアの故郷。大学に通うため村を離れているジュニアは、挨拶まわりに忙しく、遅れては追いつき、また遅れては追いついてきた。挨拶がてらお茶やお菓子をいただいたりしてるのだろう。
ジュニアのお婆さんにも会った。84歳になるそうだが、とてもお元気でいらしゃった。 -
Day 16 - 12月7日
カトマンズへ
空港で、ラクパの一行に再会する。お互いの幸せと健康を願いながら別れた。
着いたらホテルに戻って、ゆっくりしよう思っていたのに、ガイドがオフィスに寄らないとダメだ言いだす。しぶしぶオフィスに行くと、ヒマラヤの地図がプリントされているシャツを一枚くれた。一回洗ったらダメになりそうなシャツである。
高山病の日本人から無事回復したとの電話があった。以前ボリビアでも、高山病のような症状を発症したことがあると言った。「その時は、バスに乗っていたので、乗り物酔いだと思ったんです。僕の体は山にはむかないみたいですね」と少々天然ちゃんなその日本人は、話していると人柄の良さを感じる。元気になって本当によかった。
大使館からも電話があった。国民名誉賞をくださいとお願いした。申請しておきます、とお茶目な返事が返ってきた。
あれほど恋焦がれた熱いシャワーも今となっては、過去の恋人となっていた。そんなことは、もうどうもいい。短いシャワーを浴びてベットの上で体を伸ばす
トレッキング中、一度も辞めようと思わなかった自分を褒めた。
気の持ちようがすべてを決める。 -
Day 17 - 12月8日
第2章
観光地を見て回るが、あまり興味をそそられるものはない。私は観光地に対してシビアだ。
ストゥパが目の前に見える3階のレストランのテラスでお昼を食べていると、隣にもう一人のお一人様が着席した。何をしにネパールに来たのかなどを話していると、彼はナガルコットの近くの村の学校に行くという。一人旅は好きだが、計画を立てるのが苦手な私は、一緒に連れて行ってもらうことにする。 -
仏教寺院にて。街には、仏教寺院とヒンドゥー寺院が混在します。
-
Day 18 - 12月9日
学校訪問
中国系シンガポール人のショーンと、バクタプールのバス停までタクシーに乗り、そこから乗り合いバスに揺られナガルコットのちょっと手前の村で降りる。彼はネパールは9回目だという。
先生へのお土産に卵を5ダースほど買う。その卵はドライバー席のダッシュボードに大切に置かれた。ショーンは中国語はまったくダメだが、シンガポールなまりの英語(Singlish)ではなく、ブリティッシュイングリッシュを話す。
満員のバスは乗り降りする都度、出口のあたりに立っている私も降りなくてはならない。降りて待っていると、バスがいきなり走り出した。こんなことろでおいてかれては困ると思い、バスに飛び乗ろうとしたが、体が重くて(荷物が重いから 笑)バスに飛び乗れない。
バスは単に、バランスをとるために足場の良い場所に移動しただけだった。一部始終を見ていた乗客達に大笑いされた。ショーンには、what are you doing?
are you trying to kill yourself? と怒られた。19歳の私だったら、バスにスッと飛び乗ることができたし、笑われることも、怒られるこもなかったな、と思った。
カトマンズ~ナガルコット -
村の学校を訪問する。ショーンのサプライズな訪問に、学校の先生達はとても喜んだ。私は、教室の中のリヤカーとスコップに目がいくが、別の国で、もっとひどい状況を見たことがある。ここの子供達は、みな幸せそうに見えた。
校長が話しかけてくる。来週、遠足に子供達を連れて行きたいが、8000ルピーのバス代が支出できない。いや待った、食事代、薬代やらでで20000ルピーが必要だ。予算が5分の会話で2倍以上に膨れ上がった。私が、彼のATMに見えているらしい。校長の芝居がかった演技に、私も負けずと女優となり、それは大変だ的な表情を作る。ショーンが隣で笑いを必死にこらえているのが横目で見えた。
ショーンは過去に学校に寄付をして来た。しかし彼にも、寄付金がちゃんと使われているのか不明だという。もし自分が同じ立場だったら、自分のポケットマネーにしてしまうかもしれないかな、とも言った。正直で優しい青年だ。
校長の息子は、来週から沖縄に短期で交換留学で行くそうだ。 -
村では、成人式をやっていた。仲間に入れてもらう。村人達にご馳走が振舞われる。お米からできたロキシーは40プルーフくらいだ。タモン(民族)の女性は、お酒を飲まない。ちょっと気がひけたが、せっかくだからいただく。ロキシーは、アルマイトの大きなお椀で振舞われた。どんぶり酒を口につけようとしたところで、待ったという感じで、小さなコップが渡された。(タモンの)淑女はこんな酒の飲み方をしてはいけないのか、と赤面する。
ステレオから、EDMとは一線を画す懐かしい感じのディスコミュージックが流れていた。そろそろテントは、ダンス会場になりそうだ。行きのバスの中で、ショーンがネパール語を少し教えてくれた。「一緒にダンスを踊ってくれませんか」というフレーズがあったのを思い出した。そのフレーズ使う前に私たちは退散した。 -
この子が今日の主人公。11歳の成人式。新しいシャツ、ジーンズ、ジャケット、靴にその場で着替えさせられ照れてる。お坊さんに剃髪されたばかりの頭が青い。
-
女子達はドレスアップしておしゃれをしています。とてもかわいい。
-
おしゃれしたタモンの女性たちは、外国人の私達も笑顔で迎え入れてくれました。
-
Day 19 - 12月10日
貧乏バックパッカー
昨日ナガルコットまで上がった。ニヴァニワロッジに泊まるつもりが満員で、ヒマラヤンハートという安いロッジに泊まる。夜は酔うほど飲んだ。ショーンが持っていたケントを一本盗んで吸った。旅行中は少しくらい羽目をはずしてもいい。
目が覚めるとちょうど日の出だった。エベレストで見た、緊迫感さえ覚えたダイナミックな朝焼けと違って、水平線に、オレンジジュースと金箔を混ぜた魔法のポーションを静かにこぼしたように昇ってくる。ランタン山脈の幾重にもなるシルエットが美しいと思った。
ショーンが帰りのバスを捕まえてきた。そう、文字通りマイクロバスを捕まえてきたのだ。そもそも二泊する予定が、土曜日は学校がお休みなのをすっかり忘れていた。ニヴァニワロッジまで散歩に行った時に、そこの宿泊グループと知り合いになり、バスに空席があるならカトマンズまで乗せて行ってくれるよう交渉したらしい。
ミヤンマー、インド、ベトナム、モンゴルとネパールからなるグループにシンガポールと、日本が加わった。中国を除くアジアの主要国が勢ぞろいした。
途上国の発展に関する会議に集まっていた彼らは、Mercy Corpsのスタッフで、私達にお昼までご馳走してくれた。きっと、私たちのことを貧乏バックパッカーと思っていたに違いない。悪い気はしなかった。家に戻ったら、お礼に、Mercy Corpsに少し寄付を送ろう。
ナガルコット~カトマンズ -
その晩、山で出会った日本人に夕食に誘われた。
ネパール人の友人宅で料理を作るそうだ。二人は、6000Mのアイランドピークをサミットしてきた豪傑だ。
一番大きな鶏を買う。首を絞め、血抜きし、熱湯に浸す。そうすると鶏の羽がつるっと剥けるようにとれた。
その鶏は、孤高かつ破天荒な、ゆうたの手によって唐揚げとなり、カレーとなった。山ではずっとベジタリアンだった私だが、最後の骨までしゃぶった。命をいただくことは、命を大事にすること。一対一で鶏に向き合ったのは、初めての経験だった。
8000M級対応の高級登山ギアーで颯爽と登場し、シェルパの心を鷲掴みにした(が中身もとても魅力的な)トミーのリクエストでフルーツポンチも作った。果物を切ったり、皮をむいたり、4人の手がフルーツポンチのボールに入る。汚いなぁ、と思ったが、私には例のラッパのマークの正露丸という強い味方がある。手がかかった割には、衛生上問題のあるフルーツポンチは不評だった。 -
Day 20 - 12月11日
誕生日
さて、そろそろ家に帰ろう。
昼間は、ボダバナでチベット人の写真を撮りに行く。ベンチに座って、カメラレンズを拭いていると、インドから来た32歳のチベットの坊さんにナンパされた。あなたは、美しい魂を持っている、だからお茶を一緒に飲みたい。個人的にはポイント高い口説き文句だと思った。
午後は、トレッキング会社のオーナーとモモとツックパを食べに行く約束をしていたが、ボダバナからの渋滞に巻き込まれてタメルに戻るのが遅れてしまった。カトマンズの道は止まると動かない。
その後、ショーンと最後のお茶をする。彼はコーヒーと一緒にサイドデッシュを2皿たのんだ。28歳の男ってこんなに食べるんだ、とナガルコットにいる時からずっと感心していた。思いっきり食べる人は見てて気持ちがいい。それに彼の食べ方は綺麗だ。
誕生日だからご馳走するよ、とショーン。コーヒーしか頼んでないけど、と私。
空港までの見送りには、例のガイドが来た。トレッキング会社のオーナーに行けと言われたので来たという。へんなところで正直だな、こいつは、と思う。
白いスカーフを私の首にかけ、See you soon Didi! と別れの言葉をいう。Didiとは、ネパール語でお姉さんと言う意味。トレキング中、私のことをずっとDidiと呼んでいた。
Slowly Slowly Didi! (ゆっくり、ゆっくりだよ!)
I can help Didi! (手伝うよ!)
Be careful Didi!(気をつけて!)
Do you need a rest Didi?(ちょっと休む?)
You need to eat Didi! (なにかたべないとダメだよ!)
I can pray my Powerful God Didi!(僕のパワフルゴッドに祈ってみるよ!)
憎たらしいガイドが、最後の最後に少しだけ、ほんの少しだけ愛しく思える。 -
チベット仏教はとてもカラフル。五体投地は三度、額を地へ付けるまでの礼拝を行い、起立してもう一度合唱を行います。
-
12月11日は、私の48歳の誕生日。
ここに1つ歳をとっただけじゃなくて、精神的にも一回り成長した私がいる。まだまだ成長できる。
田部井さんの言葉を借りると、一番必要なもの。それは本当に行くんだ、本当にやるんだという意志。健康に留意してバケットリストを持ち続けよう。
デパーチャーの掲示板を見ながら、次はどこに旅しようかと思いを巡らせていた。 -
おまけ:ティーハウスでのキッチンの様子。おばあちゃん、キッチン生理整頓されてますね!
-
おまけ:私が注文した、フレンチフライを作ります。ちょっとお芋がおおすぎやしませんか?
-
おまけ:ご夫婦でチャンを仕込みます。奥さん見てるだけだったけど 笑。仲良しでいいですね!
-
おまけ:フルーツポンチの図(トミー)
この日、薄着でいた私に、「これ着ておれ、おばはん」と彼が山で着ていた8000m級対応の高級登山ギアーを貸してくれた。袖を通すと、なつかしい山の匂いと野獣のようなトミーの匂いにむせかえった。
トミーとゆうたを見ていると男の友情ってほんといいな、と思う。 -
ボーナス:ショーンと 笑。歳の離れた(親子とはいわせない)姉弟のようにふざけ合って、からかいあった。
Photo by A. Tamang -
最後までお付き合い、ありがとうございました!
Photo by I. Spaan
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (8)
-
- ほいみさん 2017/06/17 21:34:37
- 2.5?の三脚・・・?
- 初めまして。
エベレススト街道の旅行記、以前にも拝見したのですが、今回はじっくり読ませていただきました。
>24-70mmと11-20mmレンズの2本
私も写真が好きなので、ここに興味が行きました。
11-20?の方ですが、もしかして超マイナーなトキナー??
だとしたら、実は私も使っています!
>ちょっぴり悪いことをして警察沙汰
29年前だと・・・アレですね!
とても楽しい旅だったことが想像できます。
カラパタールでは天候に恵まれた様で、素晴らしい眺め。
私ももう一度行ってみたいと思いながら、あの上りを思い出すと萎えます。
plastic_treesさんの旅日記は、内容も写真も素晴らしいです。
他にもたくさん旅行してるはずですかから、これからもアップして下さい。
ほいみ
- plastic_treesさん からの返信 2017/06/18 06:48:57
- RE: 2.5?の三脚・・・?
- ほいみのおじ様、初めまして笑。
バルトロ氷河から沼津アルプスまでバラエティーに富んだ山のお話、毎回楽しく読ませてもらってます。私も生まれが静岡で(母の実家は三島です)懐かしい地名が出てくる時は、ここ知ってる!とはしゃぎます。
そうです。Tokinaの11-20mm f2.8です。超マイナーなんですか?笑。そして、2.5キロの洗濯竿にもなった三脚はこちらです 笑。
https://www.amazon.co.jp/MeFOTO-C2350Q2K-Carbon-GlobetrotterTravel/dp/B00BETIT36/ref=sr_1_1?s=electronics&ie=UTF8&qid=1497714774&sr=1-1&keywords=MeFOTO+C2350Q2K+Carbon+Fiber
写真も文章もへたくそで恥ずかしいのですが、旅行記は後から読み返しすのもよし、私がいつかいなくなった時、家族や友人が、案外面白い人生を送っていたんだな、と思ってくれるのもいいなと思い(それまで4トラベルさん続けてほしい)笑。
次は3月にメラピークに行ってこようと思ってます。山では身軽が一番。身をもって経験したので、次からはソニーのコンデジを持っていこうと思ってます。軽くなった分チョコレートと、ようかん笑。
- ほいみさん からの返信 2017/06/18 22:44:26
- RE: RE: 2.5kgの三脚・・・?
- お母さん、三島市なんですか!
私は現役中は隣の清水町でした・・・いきなりローカル。
サントムーンの傍でした。
ところで三脚、初めて聞いたメーカーでした。
私は自分で荷物を持つ時には、
http://www.velbon.com/jp/catalog/cube/cube.html
を使っています。
使い方にコツがあるけど、わずか400gで伸縮も超簡単です。
今年のキリマンジャロではこの三脚にkiss7とtokina- 11-20mmを乗せて撮りました。
危なっかしかったけど、それなりに撮れましたよ。
メラーピーク、いいですね。
私も友人を煽ててアイランドピークを狙っているのですが乗って来ません。
私も今までの旅の写真を整理しながらアップしてます。
4トラにアップして自慢?する目標がないと、やる気になりません・・・ボケが入りだしたし。
じゃ、また。
- plastic_treesさん からの返信 2017/06/21 10:07:32
- RE: RE: RE: 2.5kgの三脚・・・?
- 母は北高なんです。昨日、長岡で同窓会があったみたいで電話越しに楽しそうでした 笑。アイランドピークですか、wow。私には技術がないので、歯を食いしばってひたすら歩くトレキングしかできなくて 笑。
ホイミさん、正直ですね 笑。私は写真の方は、フリッカーにアップロードしています。400グラムの三脚の情報ありがとうございます。調べて見ますね。
-
- ままさん 2017/03/03 12:05:04
- はじめまして!
- はじめましてplastic_treesさん
ベティーままと申します
トレッキングなんて 無理!無理!な私…
それなのに写真の綺麗さとplastic_treesさんの逞しさに
何故か見入ってしまいました*゚。+☆+。゚
あっ!48歳の誕生日おめでとうございます。゚☆。゚
★ベティーままより
- plastic_treesさん からの返信 2017/03/03 14:22:01
- RE: はじめまして!
- ベティーままさん、
こんにちは。サントリーニの写真、素敵ですね。
人生は年を重てからが面白いハズ。同感です! 今が一番なんです 笑。
もしかしたら、どこかの空港ですれ違っているかもしれませんね 笑。
-
- ノーーウォリーズさん 2017/02/10 23:56:57
- 綺麗な写真ですね
- こんにちは、
すごく綺麗な写真ですね。旅の雰囲気も良くわかりました。でもネパールで地震には逢いたくないですが。私も昔アンナプルマを2週間トレッキングしましたが、3週間休みがあればEBCにも行ってみたいです!
- plastic_treesさん からの返信 2017/02/11 01:47:05
- RE: 綺麗な写真ですね
- ぜひ歩いて、ずっと心に残るストーリーを作ってきてくださいね!四姑娘山のレポート参考になりました。ありがとう。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
8
58