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国立西洋美術館は川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(松方コレクション)を基に昭和34年に設立されています。<br />第二次大戦後の作品群です。解説は国立西洋美術館名作選から参照。<br />2018年4月・2019年6月・2019年10月・2020年7月写真追加しました。

国立西洋美術館⑤20世紀~(ナビ派、第二次大戦後)

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2016/03/20 - 2016/11/23

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旅行記グループ 国立西洋美術館

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国立西洋美術館は川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(松方コレクション)を基に昭和34年に設立されています。
第二次大戦後の作品群です。解説は国立西洋美術館名作選から参照。
2018年4月・2019年6月・2019年10月・2020年7月写真追加しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通手段
新幹線 JRローカル

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  • ラファエル・コラン「詩」1899年<br />ラファエル・コランはフランスの画家で、日本から留学した黒田清輝らを指導しています。

    ラファエル・コラン「詩」1899年
    ラファエル・コランはフランスの画家で、日本から留学した黒田清輝らを指導しています。

  • ラファエル・コラン「楽」1899年<br />アカデミーの古典的な骨格を備えながら、印象派や象徴主義の影響を受けた優美な画風の作品を制作し、裸婦像も多い。

    ラファエル・コラン「楽」1899年
    アカデミーの古典的な骨格を備えながら、印象派や象徴主義の影響を受けた優美な画風の作品を制作し、裸婦像も多い。

  • ヴィルヘルム・ハンマースホイ「ピアノを弾く妻イーダのいる室内 」1910年<br />19世紀末デンマークを代表する画家ハンマースホイの作品。

    ヴィルヘルム・ハンマースホイ「ピアノを弾く妻イーダのいる室内 」1910年
    19世紀末デンマークを代表する画家ハンマースホイの作品。

  • アルベール・グレーズ 「収穫物の脱穀 」1912年

    アルベール・グレーズ 「収穫物の脱穀 」1912年

  • ピエール・ボナール「坐る娘と兎」 1891年<br />19世紀後半、ヨーロッパではジャポニスムのブームが起き、日本の美術品・工芸品が西洋の芸術家たちに多大な影響を与えました。ドニやヴュイヤールらとともに「ナビ派」として出発したボナールの作品。

    ピエール・ボナール「坐る娘と兎」 1891年
    19世紀後半、ヨーロッパではジャポニスムのブームが起き、日本の美術品・工芸品が西洋の芸術家たちに多大な影響を与えました。ドニやヴュイヤールらとともに「ナビ派」として出発したボナールの作品。

  • ピエール・ボナール「働く人々」1916-20年頃<br />パリで大画商として名高かったベルネーム=ジューヌの邸宅のために制作された4点の作品の一つ。

    ピエール・ボナール「働く人々」1916-20年頃
    パリで大画商として名高かったベルネーム=ジューヌの邸宅のために制作された4点の作品の一つ。

  • ピエール・ボナール「花」1933年頃<br />

    ピエール・ボナール「花」1933年頃

  • モーリス・ドニ「字を書く少年」1920年<br />モーリス・ドニは、フランスの画家。ナビ派の一員。

    モーリス・ドニ「字を書く少年」1920年
    モーリス・ドニは、フランスの画家。ナビ派の一員。

  • モーリス・ドニ「若い母 」1919年

    モーリス・ドニ「若い母 」1919年

  • モーリス・ドニ「雌鶏と少女」1890年<br />この絵の制作された1890年は、ドニが初めてサロンに入選し、続いて「絵画とは、一定の秩序のもとに配された色彩によって覆われた、平らな面であることを忘れまい」という、有名な絵画の定義を含む論文を発表した年として重要です。事実この作品には、縦長の画面や署名などにみられる日本美術の影響、モザイクのような装飾的効果を発揮する点描技法の使用、宗教的礼拝像にも似た人物の取り扱いなど、この時期のドニの作品に特徴的なさまざまな要素が指摘されます。そして、画面全体には、見慣れた身辺の事物の中にほのかな神秘感を漂わせるという、象徴主義時代のドニ芸術の手法が見事に発揮されています

    モーリス・ドニ「雌鶏と少女」1890年
    この絵の制作された1890年は、ドニが初めてサロンに入選し、続いて「絵画とは、一定の秩序のもとに配された色彩によって覆われた、平らな面であることを忘れまい」という、有名な絵画の定義を含む論文を発表した年として重要です。事実この作品には、縦長の画面や署名などにみられる日本美術の影響、モザイクのような装飾的効果を発揮する点描技法の使用、宗教的礼拝像にも似た人物の取り扱いなど、この時期のドニの作品に特徴的なさまざまな要素が指摘されます。そして、画面全体には、見慣れた身辺の事物の中にほのかな神秘感を漂わせるという、象徴主義時代のドニ芸術の手法が見事に発揮されています

  • モーリス・ドニ「シエナの聖カテリーナ」1921年

    モーリス・ドニ「シエナの聖カテリーナ」1921年

  • モーリス・ドニ「踊る女たち」1905年<br />ドニはフランクフルト近郊、ヴィースバーデンのミュッツェンベッカー男爵邸内の奏楽室のための装飾(現在は紛失)を手掛けています。《永遠の夏》と題されたこの装飾は、5枚の画面から成り、それぞれには、「オルガン」、「声楽」、「四重奏」、「舞踏」、「オラトリオ」の主題が描かれており、本作の《踊る女たち》は、そのうちの「舞踏」のための習作またはレプリカと考えられます。

    モーリス・ドニ「踊る女たち」1905年
    ドニはフランクフルト近郊、ヴィースバーデンのミュッツェンベッカー男爵邸内の奏楽室のための装飾(現在は紛失)を手掛けています。《永遠の夏》と題されたこの装飾は、5枚の画面から成り、それぞれには、「オルガン」、「声楽」、「四重奏」、「舞踏」、「オラトリオ」の主題が描かれており、本作の《踊る女たち》は、そのうちの「舞踏」のための習作またはレプリカと考えられます。

  • モーリス・ドニ「ロスマパモン」1918年<br />

    モーリス・ドニ「ロスマパモン」1918年

  • モーリス・ドニ「水浴」1920年<br />本作品は、ペロス=ギレックの別荘「シランシオ」付近の海岸を描いたものと思われます。オールをもつ少年と舳に両手を掛ける少年は、どちらもドニの孫ドミニク、手前の少年は次男フランソワを描いています。強い色彩や自然主義的な人物描写は初期の象徴主義的作品群とは異なりますが、様式化された波の描写には装飾的表現の名残がみられます。

    モーリス・ドニ「水浴」1920年
    本作品は、ペロス=ギレックの別荘「シランシオ」付近の海岸を描いたものと思われます。オールをもつ少年と舳に両手を掛ける少年は、どちらもドニの孫ドミニク、手前の少年は次男フランソワを描いています。強い色彩や自然主義的な人物描写は初期の象徴主義的作品群とは異なりますが、様式化された波の描写には装飾的表現の名残がみられます。

  • モーリス・ドニ「ヴィラ・メディチ、ローマ」1921年

    モーリス・ドニ「ヴィラ・メディチ、ローマ」1921年

  • エドゥアール・ヴュイヤール「縫いものをするヴュイヤール夫人」1920年<br /> この作品は小品ながら、ヴュイヤールの特徴が充分に発揮されています。モデルはしばしばこの画家の画面に登場する母親。

    エドゥアール・ヴュイヤール「縫いものをするヴュイヤール夫人」1920年
    この作品は小品ながら、ヴュイヤールの特徴が充分に発揮されています。モデルはしばしばこの画家の画面に登場する母親。

  • エミール=アントワーヌ・ブールデル「首のあるアポロンの頭部」1900年<br />

    エミール=アントワーヌ・ブールデル「首のあるアポロンの頭部」1900年

  • 藤田嗣治(1929年)「坐る女 」<br />日本生まれの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動<br />したエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ。

    藤田嗣治(1929年)「坐る女 」
    日本生まれの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動
    したエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ。

  • ローラ・ナイト「屋内練習場のジョー・シアーズとW.エイトキン衛兵伍長」1917年<br />ローラ・ナイトは、20世紀の前半にイギリスで最も評価された女性画家の1人。

    ローラ・ナイト「屋内練習場のジョー・シアーズとW.エイトキン衛兵伍長」1917年
    ローラ・ナイトは、20世紀の前半にイギリスで最も評価された女性画家の1人。

  • ピエール=アルベール・マルケ「レ・サーブル・ドロンヌ」1921年<br />レ・サーブル・ドロンヌは、ロワール河の河口より60キロほど南の、大西洋に面したフランスの海岸線の一角にある観光地。

    ピエール=アルベール・マルケ「レ・サーブル・ドロンヌ」1921年
    レ・サーブル・ドロンヌは、ロワール河の河口より60キロほど南の、大西洋に面したフランスの海岸線の一角にある観光地。

  • モーリス・ド・ヴラマンク「町役場」1920年

    モーリス・ド・ヴラマンク「町役場」1920年

  • キース・ヴァン・ドンゲン「ターバンの女 」1922年頃

    キース・ヴァン・ドンゲン「ターバンの女 」1922年頃

  • キース・ヴァン・ドンゲン「カジノのホール 」1920年<br />1920年代のドンゲンの作品には、ファッショナブルな社交界や街の情景、あるいは流行の衣裳を着けた婦人たちを描いたものが多い。

    キース・ヴァン・ドンゲン「カジノのホール 」1920年
    1920年代のドンゲンの作品には、ファッショナブルな社交界や街の情景、あるいは流行の衣裳を着けた婦人たちを描いたものが多い。

  • ラウル・デュフィ(1904年)「モーツァルト」<br />ラウル・デュフィは、「色彩の魔術師」と呼ばれる20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家です。

    ラウル・デュフィ(1904年)「モーツァルト」
    ラウル・デュフィは、「色彩の魔術師」と呼ばれる20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家です。

  • シャイム・スーティン(1920年)「心を病む女」 <br />スーティンの人物画は、極端なデフォルメと激しい筆触と強烈な色彩対比が特徴ですが、この作品もまた、大きく見開いて据わった目、引きつった顔面、緊張のゆるまない肩先や両腕、振り乱した髪などが、異様な緊迫感を画面にみなぎらせています。

    シャイム・スーティン(1920年)「心を病む女」
    スーティンの人物画は、極端なデフォルメと激しい筆触と強烈な色彩対比が特徴ですが、この作品もまた、大きく見開いて据わった目、引きつった顔面、緊張のゆるまない肩先や両腕、振り乱した髪などが、異様な緊迫感を画面にみなぎらせています。

  • ロジェ・ビシエール(1922年)「花を持つ婦人 」

    ロジェ・ビシエール(1922年)「花を持つ婦人 」

  • アンドレ・ドラン(1923年頃) 「ジャン・ルノワール夫人(カトリーヌ・ヘスリング)」<br />アンドレ・ドランは、アンリ・マティスらとともにフォーヴィスム(野獣派)の運動において指導的役割を果たした画家。この肖像画に描かれている女性は、映画監督ジャン・ルノワールの夫人カトリーヌ・ヘスリングです。

    アンドレ・ドラン(1923年頃) 「ジャン・ルノワール夫人(カトリーヌ・ヘスリング)」
    アンドレ・ドランは、アンリ・マティスらとともにフォーヴィスム(野獣派)の運動において指導的役割を果たした画家。この肖像画に描かれている女性は、映画監督ジャン・ルノワールの夫人カトリーヌ・ヘスリングです。

  • アンドレ・ドラン「果物 」

    アンドレ・ドラン「果物 」

  • マックス・エルンスト「石化した森」1927年<br />

    マックス・エルンスト「石化した森」1927年

  • ジョルジュ・ルオー 「道化師 」1937-38年<br />ジョルジュ・ルオーは、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家でピエロや道化師は、彼が生涯描き続けた主題です。

    ジョルジュ・ルオー 「道化師 」1937-38年
    ジョルジュ・ルオーは、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家でピエロや道化師は、彼が生涯描き続けた主題です。

  • ジョルジュ・ルオー 「リュリュ(道化の顔)」1952年<br />

    ジョルジュ・ルオー 「リュリュ(道化の顔)」1952年

  • ジョアン・ミロ「絵画」1953年<br />ミロの作品では常に自然に基づく象徴的記号が登場する。この作品でも、太陽や星を示す記号が極めて単純化されて、画面の重要な構成要素となっています。

    ジョアン・ミロ「絵画」1953年
    ミロの作品では常に自然に基づく象徴的記号が登場する。この作品でも、太陽や星を示す記号が極めて単純化されて、画面の重要な構成要素となっています。

  • フェルナン・レジェ「赤い鶏と青い空」1953年

    フェルナン・レジェ「赤い鶏と青い空」1953年

  • ジャン・デュビュッフェ「美しい尾の牝牛 」1954年 <br />第二次大戦後のヨーロッパ界における重要な傾向の一つにアンフォルメルがありますが、これは戦前の幾何学的抽象に対する反動あるいは修正と見做すことができます。この傾向の画家たちは、幾何学的抽象のアカデミスム化、形式化を批判し、抽象の中に象徴的要素や情緒的多様性を取り込むことによって、戦前の抽象芸術とシュルレアリスムの対立を超克しようとしたのです。幾何学的抽象が古典主義的であったのに対し、アンフォルメルはロマン主義的抽象といえます。このアンフォルメルの運動に先鞭をつけたのが、ジャン・フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスらでした。アンフォルメルは絵画の内包する多くの問題に取り組ましたが、その最も重要な試みの一つは新たな絵画的マティエールの開拓であり、デュビュッフェはこの領域に大きな役割を果たしました。《美しい尾の牝牛》は、絵具そのものの生み出すマティエールの可能性を極限まで引き出したものですが、彼はさらに絵具に土を混ぜることによって絵画と自然との断層を埋めようとし、さらには木の葉や蝶の羽根を画面に貼りつめて、自然を一層象徴的に表わしています。後者は一種のコラージュですが、デュビュッフェ自身はこれをアッサンブラージュと呼びました

    ジャン・デュビュッフェ「美しい尾の牝牛 」1954年
    第二次大戦後のヨーロッパ界における重要な傾向の一つにアンフォルメルがありますが、これは戦前の幾何学的抽象に対する反動あるいは修正と見做すことができます。この傾向の画家たちは、幾何学的抽象のアカデミスム化、形式化を批判し、抽象の中に象徴的要素や情緒的多様性を取り込むことによって、戦前の抽象芸術とシュルレアリスムの対立を超克しようとしたのです。幾何学的抽象が古典主義的であったのに対し、アンフォルメルはロマン主義的抽象といえます。このアンフォルメルの運動に先鞭をつけたのが、ジャン・フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルスらでした。アンフォルメルは絵画の内包する多くの問題に取り組ましたが、その最も重要な試みの一つは新たな絵画的マティエールの開拓であり、デュビュッフェはこの領域に大きな役割を果たしました。《美しい尾の牝牛》は、絵具そのものの生み出すマティエールの可能性を極限まで引き出したものですが、彼はさらに絵具に土を混ぜることによって絵画と自然との断層を埋めようとし、さらには木の葉や蝶の羽根を画面に貼りつめて、自然を一層象徴的に表わしています。後者は一種のコラージュですが、デュビュッフェ自身はこれをアッサンブラージュと呼びました

  • パブロ・ピカソ「横たわる女」1960年<br />スペイン南部のマラガに生まれ、バルセロナ、パリ、南フランスなどで制作した今世紀最大の芸術家であるピカソは、その生涯にわたって破壊と創造を繰り返しました。第二次世界大戦後に行った彼の試みの一つは、キュビスムを造形主義の方向に解体したことです。本作品はキュビスムとは別の観点で描かれた裸婦の重要な作例といえます。

    パブロ・ピカソ「横たわる女」1960年
    スペイン南部のマラガに生まれ、バルセロナ、パリ、南フランスなどで制作した今世紀最大の芸術家であるピカソは、その生涯にわたって破壊と創造を繰り返しました。第二次世界大戦後に行った彼の試みの一つは、キュビスムを造形主義の方向に解体したことです。本作品はキュビスムとは別の観点で描かれた裸婦の重要な作例といえます。

  • パブロ・ピカソ「アトリエのモデル」1965年<br />梅原龍三郎氏より寄贈された作品。 <br /><br />

    パブロ・ピカソ「アトリエのモデル」1965年
    梅原龍三郎氏より寄贈された作品。

  • パブロ・ピカソ「男と女」1969年 <br />ピカソ88歳の時の作品です。

    パブロ・ピカソ「男と女」1969年
    ピカソ88歳の時の作品です。

    国立西洋美術館 美術館・博物館

  • アンドレ・ボーシャン「アルクマールの運河、オランダ 」1940年

    アンドレ・ボーシャン「アルクマールの運河、オランダ 」1940年

  • ベルナール・ビュッフェ「鰊のある静物」1948年<br />1947年12月にレザンプレッシオン・ダール画廊で初めての個展を開くやいなや、ビュッフェは戦後フランス画壇の寵児となります。この作品が描かれた翌48年には「批評家賞(プリ・ド・ラ・クリティーク)」を受賞し、多くの批評家たちから賞賛の言葉をよせられましたが、この時彼はまだ弱冠20歳でした。灰色と褐色という極端に切りつめた色彩と鋭く黒い線描によって作り出された、理想化を拒否した表現が、混乱した戦後社会の、不安と動揺に満ちた精神的な状況を象徴的に描き出すものとして圧倒的な支持を受けたのです。 この年にビュッフェは、本作品と同じモチーフを描いた静物画を多数制作しています。しかし、例えばここにも描かれている干した鰊とコーヒーミルや、あるいは他の作品に見られる羽をむしられた若鶏、皮をはがされた兎など、およそ味覚をそそるといった感覚的快楽の刺激とは程とおいものでした。貧しく殺伐とした食卓を支配するのは、虚無感や悲惨さです。 しかしこのような彼の表現は、暗澹とした終戦直後の社会においては確かに時代の目撃者としてのアクチュアリティを持っていたにせよ、時の経過とともに衝撃力が失われ、類型化し、通俗化していくこととなりました。

    ベルナール・ビュッフェ「鰊のある静物」1948年
    1947年12月にレザンプレッシオン・ダール画廊で初めての個展を開くやいなや、ビュッフェは戦後フランス画壇の寵児となります。この作品が描かれた翌48年には「批評家賞(プリ・ド・ラ・クリティーク)」を受賞し、多くの批評家たちから賞賛の言葉をよせられましたが、この時彼はまだ弱冠20歳でした。灰色と褐色という極端に切りつめた色彩と鋭く黒い線描によって作り出された、理想化を拒否した表現が、混乱した戦後社会の、不安と動揺に満ちた精神的な状況を象徴的に描き出すものとして圧倒的な支持を受けたのです。 この年にビュッフェは、本作品と同じモチーフを描いた静物画を多数制作しています。しかし、例えばここにも描かれている干した鰊とコーヒーミルや、あるいは他の作品に見られる羽をむしられた若鶏、皮をはがされた兎など、およそ味覚をそそるといった感覚的快楽の刺激とは程とおいものでした。貧しく殺伐とした食卓を支配するのは、虚無感や悲惨さです。 しかしこのような彼の表現は、暗澹とした終戦直後の社会においては確かに時代の目撃者としてのアクチュアリティを持っていたにせよ、時の経過とともに衝撃力が失われ、類型化し、通俗化していくこととなりました。

  • ジャクソン・ポロック (1951年)「ナンバー8, 1951 黒い流れ」<br />1951年にから52年にかけて、ポロックは、希薄な黒のエナメルを下地の無い綿製帆布にしたたらせ染み込ませた、モノクローム作品を多数制作しています。

    ジャクソン・ポロック (1951年)「ナンバー8, 1951 黒い流れ」
    1951年にから52年にかけて、ポロックは、希薄な黒のエナメルを下地の無い綿製帆布にしたたらせ染み込ませた、モノクローム作品を多数制作しています。

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