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豊かな自然の森に包まれた書写山に於いて、性空上人が過ごした時代と変ったものは「参拝に訪れる人の数と山から見下ろす町の景色だけ」と言われるほどです。これを裏付けるエピソードがあります。書写山 圓教寺が中世の日本の趣を今に残していることから、監督の一目惚れで急遽、三之堂がハリウッド映画『ラスト サムライ』のロケ地に選定されたのです。このハリウッド・デビューを端緒に、数々のTVドラマや映画のロケ地に選ばれるようになりました。<br />また、奥の院は深山幽谷の佇まいを湛え、落ち着いた雰囲気を好まれる方々に人気のスポットです。三之堂の開放的で明るい空間とは対照的に、しっとりとした空気の中に落ち着いた堂宇が佇み、時間がゆっくりと流れています。<br />その他、剛勇無双、怪力、破天荒の武蔵坊弁慶の伝説にも触れられ、その中でも主君 源義経と出会う以前の若き日の弁慶の姿を語り継ぐ伝説が残されているのは歴史好きには興味深いところです。<br />また、奥の院 開山堂の脇には歌塚が佇み、性空上人の教えに触れようと、藤原道長の娘 中宮彰子にお供して書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人 和泉式部が詠んだ歌を顕彰しています。ドラマチックな多少の行き違いの末、上人の返歌も残され、上人の人柄を偲ばせる逸話として語り継がれています。<br />こうした、豊かな自然や中世や深山幽谷の佇まい、弁慶が源義経と出会うきっかけになった伝説、黒田官兵衛の足跡、女流文学が開花した平安文学の世界に浸れるなど、バラエティーに富んだ嗜好に応じられる書写山 圓教寺の引き出しの多さも魅力のひとつなのかもしれません。<br />境内マップです。<br />http://www.shosha.or.jp/map.cgi

情緒纏綿 播磨紀行④書写山 圓教寺(後編・エピローグ)

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2016/11/17 - 2016/11/17

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

豊かな自然の森に包まれた書写山に於いて、性空上人が過ごした時代と変ったものは「参拝に訪れる人の数と山から見下ろす町の景色だけ」と言われるほどです。これを裏付けるエピソードがあります。書写山 圓教寺が中世の日本の趣を今に残していることから、監督の一目惚れで急遽、三之堂がハリウッド映画『ラスト サムライ』のロケ地に選定されたのです。このハリウッド・デビューを端緒に、数々のTVドラマや映画のロケ地に選ばれるようになりました。
また、奥の院は深山幽谷の佇まいを湛え、落ち着いた雰囲気を好まれる方々に人気のスポットです。三之堂の開放的で明るい空間とは対照的に、しっとりとした空気の中に落ち着いた堂宇が佇み、時間がゆっくりと流れています。
その他、剛勇無双、怪力、破天荒の武蔵坊弁慶の伝説にも触れられ、その中でも主君 源義経と出会う以前の若き日の弁慶の姿を語り継ぐ伝説が残されているのは歴史好きには興味深いところです。
また、奥の院 開山堂の脇には歌塚が佇み、性空上人の教えに触れようと、藤原道長の娘 中宮彰子にお供して書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人 和泉式部が詠んだ歌を顕彰しています。ドラマチックな多少の行き違いの末、上人の返歌も残され、上人の人柄を偲ばせる逸話として語り継がれています。
こうした、豊かな自然や中世や深山幽谷の佇まい、弁慶が源義経と出会うきっかけになった伝説、黒田官兵衛の足跡、女流文学が開花した平安文学の世界に浸れるなど、バラエティーに富んだ嗜好に応じられる書写山 圓教寺の引き出しの多さも魅力のひとつなのかもしれません。
境内マップです。
http://www.shosha.or.jp/map.cgi

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 瑞光院<br />大仏の手前から左の林道の方を見ると鄙びた塔頭が見られます。<br />塔頭寺院のひとつですが一般公開はしておらず、切妻、本瓦葺の表門は閉められたままです。長い古びた土塀と苔生した緩いスロープの参道が古刹の雰囲気を醸しています。<br />

    瑞光院
    大仏の手前から左の林道の方を見ると鄙びた塔頭が見られます。
    塔頭寺院のひとつですが一般公開はしておらず、切妻、本瓦葺の表門は閉められたままです。長い古びた土塀と苔生した緩いスロープの参道が古刹の雰囲気を醸しています。

  • 瑞光院<br />散紅葉と苔のコントラストが絶妙です。<br />案内板によると、「創建、縁起は不詳。圓教寺の各塔頭は、往時は多数あった講(信者のグループ)の宿院も兼ねていた。瑞光院も現網干観音講の宿院となっている。書写山の紅葉は各所にあるが、門前の紅葉は11月ともなれば、古びた土塀ともよくあって抜群の美しさである。本尊:六臂如意輪観世音菩薩」とあります。

    瑞光院
    散紅葉と苔のコントラストが絶妙です。
    案内板によると、「創建、縁起は不詳。圓教寺の各塔頭は、往時は多数あった講(信者のグループ)の宿院も兼ねていた。瑞光院も現網干観音講の宿院となっている。書写山の紅葉は各所にあるが、門前の紅葉は11月ともなれば、古びた土塀ともよくあって抜群の美しさである。本尊:六臂如意輪観世音菩薩」とあります。

  • 大仏<br />参道の脇に安置されている大仏です。ブロンズ製、坐像、石を積んだ台の上に金属製の台座を設けて安置されています。<br />背景のもみじの紅葉には少々早かったようです。

    大仏
    参道の脇に安置されている大仏です。ブロンズ製、坐像、石を積んだ台の上に金属製の台座を設けて安置されています。
    背景のもみじの紅葉には少々早かったようです。

  • 千年杉<br />通称「千年杉」と呼ばれ、豊かな自然を誇る圓教寺の中でも最も樹齢が高く、最も幹周が大きい巨木です。説明板には、「樹齢700年、樹高約35m、幹周7.6m」とあります。<br />地上8m程の所で二股に分岐していますが、そこまでは枝がありません。森の精霊が現れても不思議ではないような雰囲気を湛えています。

    千年杉
    通称「千年杉」と呼ばれ、豊かな自然を誇る圓教寺の中でも最も樹齢が高く、最も幹周が大きい巨木です。説明板には、「樹齢700年、樹高約35m、幹周7.6m」とあります。
    地上8m程の所で二股に分岐していますが、そこまでは枝がありません。森の精霊が現れても不思議ではないような雰囲気を湛えています。

  • 三之堂 <br />摩尼殿から歩いて5分程で3つの堂宇(大講堂、食堂、常行堂)がコの字状に向き合う平坦地に到着します。ここは壮麗な摩尼殿とは趣を異にし、明るく質素ですが重厚な印象があり、中世にタイムスリップした気分が味わえます。また、静謐の中に凛とした緊張感が漂っている空間でもあります。<br />三之堂は、トムクルーズ主演『ラスト サムライ』や大河ドラマ『軍師 官兵衛』のロケ地ともなりました。『ラスト サムライ』は最初は姫路城で撮影される予定だったそうですが、ロケハンをしていたエドワード・ズウィック監督をこの書写山に案内したところ、三之堂周辺に古い日本のイメージが残っているのに感動し、一目惚れでここでの撮影に切り替えたというエピソードがあります。

    三之堂
    摩尼殿から歩いて5分程で3つの堂宇(大講堂、食堂、常行堂)がコの字状に向き合う平坦地に到着します。ここは壮麗な摩尼殿とは趣を異にし、明るく質素ですが重厚な印象があり、中世にタイムスリップした気分が味わえます。また、静謐の中に凛とした緊張感が漂っている空間でもあります。
    三之堂は、トムクルーズ主演『ラスト サムライ』や大河ドラマ『軍師 官兵衛』のロケ地ともなりました。『ラスト サムライ』は最初は姫路城で撮影される予定だったそうですが、ロケハンをしていたエドワード・ズウィック監督をこの書写山に案内したところ、三之堂周辺に古い日本のイメージが残っているのに感動し、一目惚れでここでの撮影に切り替えたというエピソードがあります。

  • 三之堂 大講堂(重文)<br />圓教寺の本堂に当たるのが、右手に聳える大講堂です。天空に競り上がる2層屋根の甍が何とも優美な建物です。986(寛和2)年に花山法皇の勅願により創建され、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場となりました。<br />和様を基調として一部に唐様を加えた室町時代の折衷様式で1331(元徳3)年に建立され、その後、全焼するも下層を1440(永享12)年、上層をその22年後に再建したのが現在の建物であり、1956(昭和31)年に解体修理されています。本瓦葺の入母屋造、裳階付の2重1階建てです。

    三之堂 大講堂(重文)
    圓教寺の本堂に当たるのが、右手に聳える大講堂です。天空に競り上がる2層屋根の甍が何とも優美な建物です。986(寛和2)年に花山法皇の勅願により創建され、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場となりました。
    和様を基調として一部に唐様を加えた室町時代の折衷様式で1331(元徳3)年に建立され、その後、全焼するも下層を1440(永享12)年、上層をその22年後に再建したのが現在の建物であり、1956(昭和31)年に解体修理されています。本瓦葺の入母屋造、裳階付の2重1階建てです。

  • 三之堂 <br />大講堂は、1622年に姫路藩主 本多忠政が修復しています。ここに安置されている本尊 釈迦如来、脇侍 文殊菩薩(右側)と普賢菩薩(左側)は重要文化財に指定され、摩尼殿安置の四天王立像と共に釈迦三尊像は感阿上人の作(986年)とされています。<br />

    三之堂
    大講堂は、1622年に姫路藩主 本多忠政が修復しています。ここに安置されている本尊 釈迦如来、脇侍 文殊菩薩(右側)と普賢菩薩(左側)は重要文化財に指定され、摩尼殿安置の四天王立像と共に釈迦三尊像は感阿上人の作(986年)とされています。

  • 三之堂 大講堂<br />大講堂の前に立つと、トムクルーズと渡辺謙扮する勝元との対話シーンが脳裏に浮かびます!<br />映画で使われた小道具は全てアメリカから持ち込まれたようですが、座布団がなく、圓教寺の物を借用したというエピソードも残されています。また、出演している僧侶は、本物の圓教寺の僧侶だそうです。 <br />また、トムクルーズはヘリコプターで書写山入りし、「十地院」にソファーやベッド、テレビなどを持ち込み、休憩室として使っていたそうです。奥の院では、「10秒の撮影のために、雪の準備に1週間の時間をかけた」という点でも話題を呼びました。<br />また、書写山の千年杉に見立てた和風バウムクーヘン「書写 千年杉」は、トムクルーズが50箱購入したことで一躍有名になりました。駐車場の一角にある「杵屋」さんで購入できます。小倉クリームと柚子あんがありますが、トムクルーズ御用達は柚子あんの方だったそうです。

    三之堂 大講堂
    大講堂の前に立つと、トムクルーズと渡辺謙扮する勝元との対話シーンが脳裏に浮かびます!
    映画で使われた小道具は全てアメリカから持ち込まれたようですが、座布団がなく、圓教寺の物を借用したというエピソードも残されています。また、出演している僧侶は、本物の圓教寺の僧侶だそうです。
    また、トムクルーズはヘリコプターで書写山入りし、「十地院」にソファーやベッド、テレビなどを持ち込み、休憩室として使っていたそうです。奥の院では、「10秒の撮影のために、雪の準備に1週間の時間をかけた」という点でも話題を呼びました。
    また、書写山の千年杉に見立てた和風バウムクーヘン「書写 千年杉」は、トムクルーズが50箱購入したことで一躍有名になりました。駐車場の一角にある「杵屋」さんで購入できます。小倉クリームと柚子あんがありますが、トムクルーズ御用達は柚子あんの方だったそうです。

  • 三之堂 大講堂<br />この地でロケされた映画やTVドラマの代表作を上げると次のようになります。<br />どうやら、『ラスト サムライ』が火付け役だったようです。<br />2003年、映画『ラスト サムライ』<br />2003年、NHK大河ドラマ『武蔵』<br />2011年、映画『源氏物語・千年の謎』<br />2012年、映画『天智明察』<br />2014年、NHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』<br />2015年、映画『駆込み女、駆出し男』<br />2015年、映画『黒衣の刺客』<br />第68回カンヌ国際映画祭の「監督賞」を受賞した作品です。台湾のホウ・シャオシェンが監督し、制作期間が5年という大作です。摩尼殿や食堂で撮影されています。<br />2017年、映画『本能寺ホテル』<br />「本能寺の変」前日を描く歴史ミステリーです。書写山圓教寺でクランクインし、京都を中心に姫路や滋賀県で撮影されています。圓教寺は、本能寺が焼ける時のシーンに使われています。

    三之堂 大講堂
    この地でロケされた映画やTVドラマの代表作を上げると次のようになります。
    どうやら、『ラスト サムライ』が火付け役だったようです。
    2003年、映画『ラスト サムライ』
    2003年、NHK大河ドラマ『武蔵』
    2011年、映画『源氏物語・千年の謎』
    2012年、映画『天智明察』
    2014年、NHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』
    2015年、映画『駆込み女、駆出し男』
    2015年、映画『黒衣の刺客』
    第68回カンヌ国際映画祭の「監督賞」を受賞した作品です。台湾のホウ・シャオシェンが監督し、制作期間が5年という大作です。摩尼殿や食堂で撮影されています。
    2017年、映画『本能寺ホテル』
    「本能寺の変」前日を描く歴史ミステリーです。書写山圓教寺でクランクインし、京都を中心に姫路や滋賀県で撮影されています。圓教寺は、本能寺が焼ける時のシーンに使われています。

  • 三之堂 大講堂<br />外陣は瓦敷きの土間になっており、これは京都延暦寺根本中堂と同じ天台宗院独特の形式で、現存する最古の例と言われています。この格子の奥が内陣です。<br /><br />現存していませんが、かつては本多家廟所がある場所に五重塔が建っていたそうです。九条道家の御願により、その娘で四条天皇の母である藻璧門院の菩提を弔うために造立されました。1235(文暦2)年に棟上され、本尊には五智如来を祀っていたそうです。1331(元徳3)年に雷火によって焼失しています。ここに五重塔が加わったとなれば、さぞ壮麗な伽藍だったことでしょう。

    三之堂 大講堂
    外陣は瓦敷きの土間になっており、これは京都延暦寺根本中堂と同じ天台宗院独特の形式で、現存する最古の例と言われています。この格子の奥が内陣です。

    現存していませんが、かつては本多家廟所がある場所に五重塔が建っていたそうです。九条道家の御願により、その娘で四条天皇の母である藻璧門院の菩提を弔うために造立されました。1235(文暦2)年に棟上され、本尊には五智如来を祀っていたそうです。1331(元徳3)年に雷火によって焼失しています。ここに五重塔が加わったとなれば、さぞ壮麗な伽藍だったことでしょう。

  • 三之堂 食堂(重文)<br />西側にあるのが食堂で、1174(承安4)年に後白河法皇の勅願によって創建されました。ここは修行僧が勉強したり寝食をする寮として使われていました。鎌倉時代に2層2階建13面となり「三宝院」と改称されましたが、1331(元徳3)年に全焼し、再建に着手するも上層が未完成のまま放置され、現在の建物は室町時代の1463(寛正4)年以降の再建とされ、1963(昭和38)の解体修理で再建以来500年ぶりに未完部分が完成しました。<br />近世以前の仏堂建築でこのように長大(40m)かつ総2階建てで、腰縁を巡らした建物は他に類を見ないそうです。並外れた長大さ故に「長堂」とも呼ばれたそうです。東西の柱間は、1ヶ所の格子戸を除き全て蔀戸なのも圧巻です。

    三之堂 食堂(重文)
    西側にあるのが食堂で、1174(承安4)年に後白河法皇の勅願によって創建されました。ここは修行僧が勉強したり寝食をする寮として使われていました。 鎌倉時代に2層2階建13面となり「三宝院」と改称されましたが、1331(元徳3)年に全焼し、再建に着手するも上層が未完成のまま放置され、現在の建物は室町時代の1463(寛正4)年以降の再建とされ、1963(昭和38)の解体修理で再建以来500年ぶりに未完部分が完成しました。
    近世以前の仏堂建築でこのように長大(40m)かつ総2階建てで、腰縁を巡らした建物は他に類を見ないそうです。並外れた長大さ故に「長堂」とも呼ばれたそうです。東西の柱間は、1ヶ所の格子戸を除き全て蔀戸なのも圧巻です。

  • 三之堂 食堂 下層<br />『ラスト サムライ』でトムクルーズが床に座りながら勝元と話をしていた場所です。<br />衝立の先は写経道場です。<br /><br />映画のシーンを紹介しているサイトです。<br />http://www.fanpop.com/clubs/the-last-samurai/images/24584032/title/last-samurai-screencap

    三之堂 食堂 下層
    『ラスト サムライ』でトムクルーズが床に座りながら勝元と話をしていた場所です。
    衝立の先は写経道場です。

    映画のシーンを紹介しているサイトです。
    http://www.fanpop.com/clubs/the-last-samurai/images/24584032/title/last-samurai-screencap

  • 三之堂 食堂 上層<br />食堂は、宝物館として内部が公開されており、上層に上がることができます。<br />蔀戸が上げられており、そこから大講堂の東南の隅にある土塀で囲まれた本多家廟屋が一望できます。<br />江戸時代初期と中期の2度、通算3人が姫路城主となった本多家の墓所であり、本田忠勝、忠政、政朝、政長、忠国の墓が並んでいます。忠政が池田家の後に姫路城主となり、その子である政朝が引き継ぎ、忠国は福島より姫路城に入封しました。<br />ここは、大河ドラマ『軍師 官兵衛』で黒田官兵衛と竹中半兵衛が言葉を交わすシーンで使われていました。<br /><br />ドラマのシーンを紹介しているサイトです。<br />http://ameblo.jp/u-nation/image-11835720043-12922666515.html

    三之堂 食堂 上層
    食堂は、宝物館として内部が公開されており、上層に上がることができます。
    蔀戸が上げられており、そこから大講堂の東南の隅にある土塀で囲まれた本多家廟屋が一望できます。
    江戸時代初期と中期の2度、通算3人が姫路城主となった本多家の墓所であり、本田忠勝、忠政、政朝、政長、忠国の墓が並んでいます。忠政が池田家の後に姫路城主となり、その子である政朝が引き継ぎ、忠国は福島より姫路城に入封しました。
    ここは、大河ドラマ『軍師 官兵衛』で黒田官兵衛と竹中半兵衛が言葉を交わすシーンで使われていました。

    ドラマのシーンを紹介しているサイトです。
    http://ameblo.jp/u-nation/image-11835720043-12922666515.html

  • 三之堂 食堂 上層<br />食堂を一巡りする蔀戸が並んだ腰縁の簡素な風情は、一見の価値があります。また、この腰縁から望む、大講堂や常行堂の眺めも抜群です。大河ドラマでもここで撮影されたシーンが印象的でした。<br />この建物は映画『ラスト サムライ』で渡辺謙演じる勝元の住居という設定でロケが行われた場所ですので、見覚えのある方も多いのでは…。

    三之堂 食堂 上層
    食堂を一巡りする蔀戸が並んだ腰縁の簡素な風情は、一見の価値があります。また、この腰縁から望む、大講堂や常行堂の眺めも抜群です。大河ドラマでもここで撮影されたシーンが印象的でした。
    この建物は映画『ラスト サムライ』で渡辺謙演じる勝元の住居という設定でロケが行われた場所ですので、見覚えのある方も多いのでは…。

  • 三之堂 食堂 上層<br />常行堂の軒が食堂の軒に食い込んでいます。

    三之堂 食堂 上層
    常行堂の軒が食堂の軒に食い込んでいます。

  • 三之堂 食堂 上層<br />常行堂の屋根の四隅にあるのは、鬼瓦ではなく三鈷杵が載せられています。

    三之堂 食堂 上層
    常行堂の屋根の四隅にあるのは、鬼瓦ではなく三鈷杵が載せられています。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館<br />上層は宝物館になっています。食堂の本尊 僧形文殊菩薩像の他、五大明王像、薬師如来像等の仏像や弁慶の机、姫路城の鯱瓦などの貴重な文化財や寺宝が多数展示されています。<br />こちらは、薬師如来像を中心に十二神将などが展示されています。<br />

    三之堂 食堂 上層 宝物館
    上層は宝物館になっています。食堂の本尊 僧形文殊菩薩像の他、五大明王像、薬師如来像等の仏像や弁慶の机、姫路城の鯱瓦などの貴重な文化財や寺宝が多数展示されています。
    こちらは、薬師如来像を中心に十二神将などが展示されています。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館<br />仏像や歴史的資料が陳列されており、その中に「弁慶の机」と伝わるものがあります。武蔵坊弁慶はこの大きな机を小脇に抱えて持ち歩いたと伝わっています。<br />自然木を縦割りにして脚を付けた、長さ2m程ある机です。全山丸焼けとなった中で何故この勉強机だけが焼け残ったのかと野暮な詮索をしたくなりますが、荒削りな表面や幹の凹凸をそのまま残した縁は自由奔放な弁慶のイメージにぴったり当て嵌ります。<br />よく観ると、角が丸くなり、多数の傷が見られます。近所の子供たちがこの机の端を小刀で削り、「頭が良くなるように」とお守りにしたと言われています。往時の子供たちも気が優しくて力持ち、かつ聡明で豪快な弁慶にあやかろうとしていたと思うと頬が弛みます。こうしたヒーロー像が健全な子どもたちを育てたのでしよう。<br />ところで現代のヒーローとして思い浮かべる人物像がいるでしょうか?個人的には誰も思い浮かべることができません。これが何時の時代もヒーローの出現を待ち望む現実というものなのでしょうか…。

    三之堂 食堂 上層 宝物館
    仏像や歴史的資料が陳列されており、その中に「弁慶の机」と伝わるものがあります。武蔵坊弁慶はこの大きな机を小脇に抱えて持ち歩いたと伝わっています。
    自然木を縦割りにして脚を付けた、長さ2m程ある机です。全山丸焼けとなった中で何故この勉強机だけが焼け残ったのかと野暮な詮索をしたくなりますが、荒削りな表面や幹の凹凸をそのまま残した縁は自由奔放な弁慶のイメージにぴったり当て嵌ります。
    よく観ると、角が丸くなり、多数の傷が見られます。近所の子供たちがこの机の端を小刀で削り、「頭が良くなるように」とお守りにしたと言われています。往時の子供たちも気が優しくて力持ち、かつ聡明で豪快な弁慶にあやかろうとしていたと思うと頬が弛みます。こうしたヒーロー像が健全な子どもたちを育てたのでしよう。
    ところで現代のヒーローとして思い浮かべる人物像がいるでしょうか?個人的には誰も思い浮かべることができません。これが何時の時代もヒーローの出現を待ち望む現実というものなのでしょうか…。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館 金剛薩た坐像<br />宝物館安置の仏像のうち、目を引くのは金剛薩た坐像です。密教では大変重要な仏ですが、彫刻作品は珍しいそうです。 像高は40cm程、金剛堂の本尊でした。右手に煩悩を破壊する武器の五鈷杵、左手に五鈷鈴を持ち、全身が金泥で彩色され、宝冠の見事な細工など装飾性の強い仏像です。<br />像底に朱で銘文が書かれ、南北朝時代の1359年、仏師康俊(東寺大仏師)の作と知ることができます。康俊は、運慶、湛慶などの系譜上にあるかどうかは不明ですが、慶派の流れを汲むこの時代の代表的な仏師とされています。 <br />美しい台座は、調査によると江戸時代後期に修復されており、台座の顔料はヨーロッパからの輸入品であることが判っているそうです。

    三之堂 食堂 上層 宝物館 金剛薩た坐像
    宝物館安置の仏像のうち、目を引くのは金剛薩た坐像です。密教では大変重要な仏ですが、彫刻作品は珍しいそうです。 像高は40cm程、金剛堂の本尊でした。右手に煩悩を破壊する武器の五鈷杵、左手に五鈷鈴を持ち、全身が金泥で彩色され、宝冠の見事な細工など装飾性の強い仏像です。
    像底に朱で銘文が書かれ、南北朝時代の1359年、仏師康俊(東寺大仏師)の作と知ることができます。康俊は、運慶、湛慶などの系譜上にあるかどうかは不明ですが、慶派の流れを汲むこの時代の代表的な仏師とされています。
    美しい台座は、調査によると江戸時代後期に修復されており、台座の顔料はヨーロッパからの輸入品であることが判っているそうです。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館 金剛薩た坐像<br />凛々しくもやさしそうな顔立ちとしなやかさが感じられる腕の表現など芸術性も兼ね合わせています。膝や脇腹に着衣の端が波打つのは、宋様式の特徴かもしれません。<br />

    三之堂 食堂 上層 宝物館 金剛薩た坐像
    凛々しくもやさしそうな顔立ちとしなやかさが感じられる腕の表現など芸術性も兼ね合わせています。膝や脇腹に着衣の端が波打つのは、宋様式の特徴かもしれません。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館 十二神将<br />それぞれが味わいのある表情とポーズで頬を弛ませてくれる神将たちです。<br />十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るとされています。そのため十二支が割り当てられています。左手前から時計回りに、迷企羅大将(辰)、宮毘羅大将(寅)、招杜羅大将(子)、毘羯羅大将(丑)、伐折羅大将(卯)、安底羅大将(巳)になります。<br />他の六神将は薬師如来坐像の左側にあります。

    三之堂 食堂 上層 宝物館 十二神将
    それぞれが味わいのある表情とポーズで頬を弛ませてくれる神将たちです。
    十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るとされています。そのため十二支が割り当てられています。左手前から時計回りに、迷企羅大将(辰)、宮毘羅大将(寅)、招杜羅大将(子)、毘羯羅大将(丑)、伐折羅大将(卯)、安底羅大将(巳)になります。
    他の六神将は薬師如来坐像の左側にあります。

  • 三之堂 食堂 上層 宝物館 旧大日堂仏像群<br />姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていた、10~11世紀の16体の仏像が展示されています。廃仏毀釈を免れるため、村の所有とすることで廃棄を逃れ、現存に至った仏像たちです。しかし大日堂は維持困難となり仏像は公民館に移されましたが、その公民館も2002年に老朽化によって解体の憂き目に遭いました。その際、法界寺に横たえた状態で保管されたため損傷が激しく、2006年に保存修復が行なって圓教寺に奉安されたものでそうです。<br />いすれも満身創痍の形相で、涙ぐましくもあります。<br />写真を撮るのを失念しましたが、かろうじて奥の方に写っていました。<br /><br />ネットに載せられていた写真です。<br />http://blog-imgs-93-origin.fc2.com/s/h/i/shibayan1954/20160610212908a58.jpg

    三之堂 食堂 上層 宝物館 旧大日堂仏像群
    姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていた、10~11世紀の16体の仏像が展示されています。廃仏毀釈を免れるため、村の所有とすることで廃棄を逃れ、現存に至った仏像たちです。しかし大日堂は維持困難となり仏像は公民館に移されましたが、その公民館も2002年に老朽化によって解体の憂き目に遭いました。その際、法界寺に横たえた状態で保管されたため損傷が激しく、2006年に保存修復が行なって圓教寺に奉安されたものでそうです。
    いすれも満身創痍の形相で、涙ぐましくもあります。
    写真を撮るのを失念しましたが、かろうじて奥の方に写っていました。

    ネットに載せられていた写真です。
    http://blog-imgs-93-origin.fc2.com/s/h/i/shibayan1954/20160610212908a58.jpg

  • 三之堂 食堂 上層 <br />西面は、東側と打って変わって深山幽谷の趣を湛える景観が見られます。

    三之堂 食堂 上層
    西面は、東側と打って変わって深山幽谷の趣を湛える景観が見られます。

  • 三之堂 食堂 上層 <br />こちらも西面の雅な景観です。<br />時間が許せば、ゆっくり腰縁を一周していただきたいと思います。

    三之堂 食堂 上層
    こちらも西面の雅な景観です。
    時間が許せば、ゆっくり腰縁を一周していただきたいと思います。

  • 三之堂 弁慶の鏡井戸(弁慶鏡池)<br />食堂の右脇には「弁慶の鏡井戸」があります。ここもパワースポットのひとつです。長さ3m、幅2m程の長方形の石組みがあり、井戸と言うよりも池の趣ですが、寡黙に水を湛えています。 <br />弁慶が寝ている間に 顔に落書きをされ、この鏡池で自分の顔を見て憤怒と復讐の鬼と化したという伝説の場所です。<br /><br />この地には、弁慶にまつわる伝承と源義経と出会うきっかけになった出来事が伝えられています。<br />弁慶は、乱暴が過ぎて比叡山を追放され、その後、書写山へ登ってその地で人生の転機を迎えます。その顛末は、源義経の生涯を記した『義経記』に記され、奥の院の「護法堂拝殿」は別名「弁慶の学問所」とも呼ばれ、弁慶がここで修行したと伝えられています。<br />比叡山を降りた弁慶は、性空上人を慕って書写山へと登り、修行に励みました。往時、弁慶と接触した衆徒は、「見た目と違って穏やかな人」と弁慶を褒め讃えたと伝わっています。<br />ある日、弁慶が昼寝をしてた時、悪僧の信濃坊戒円が弁慶の顔に「弁慶は平足駄とぞなりにけり、面を踏めども起きも上らず」と落書きをしました。周囲の者たちが大笑いする中、弁慶は何の事か判らず、近くの井戸に顔を映して初めて落書きに気付きました。<br />恥をかかされた弁慶は烈火のごとく怒り、それに対して戒円は檪(くぬぎ)の燃えさしで打ちかかりました。すると弁慶は、戒円を抱え上げて大講堂の屋根へと放り投げました。その時、戒円の檪の燃えさしが軒に挟まり、谷から吹き上げられた風に煽られ、大講堂他の54棟が炎上し、その全てが焼け落ちました。<br />弁慶は、「寺を焼いたのはこの私でござる。再建するのも私が仕る。ただし、再建のための財を持っておりませぬ。それ故に太刀を千本奪い取り、釘の代金として差し上げます」と仏に誓いました。この出来事の後、弁慶は侍から太刀を奪い歩き、999本を手に入れました。そして最後の1本となった時、京の五条大橋で牛若丸(源義経)と運命の出会いを果たしたのです。<br />一般的には弁慶は乱暴者で喧嘩が絶えなかった荒法師と伝えられていますが、『義経記』によると比叡山の修行においても「人に勝り、学問は世を越えて器用なり」とあります。また、書写山でも真面目に修行を終え、学頭に対して暇の挨拶へ行くほど律義な姿が書かれています。どうやら弁慶は、普段は真面目で礼儀正しいものの、一度切れると制止がきかない気質だったのかもしれません。<br />書写山に残されている史料によると、1858(安政5)年の『霊仏霊宝目録』に「天神名号 武蔵坊弁慶筆」などの3点の記載があり、太刀や長刀を奉納したとあります。

    三之堂 弁慶の鏡井戸(弁慶鏡池)
    食堂の右脇には「弁慶の鏡井戸」があります。ここもパワースポットのひとつです。長さ3m、幅2m程の長方形の石組みがあり、井戸と言うよりも池の趣ですが、寡黙に水を湛えています。
    弁慶が寝ている間に 顔に落書きをされ、この鏡池で自分の顔を見て憤怒と復讐の鬼と化したという伝説の場所です。

    この地には、弁慶にまつわる伝承と源義経と出会うきっかけになった出来事が伝えられています。
    弁慶は、乱暴が過ぎて比叡山を追放され、その後、書写山へ登ってその地で人生の転機を迎えます。その顛末は、源義経の生涯を記した『義経記』に記され、奥の院の「護法堂拝殿」は別名「弁慶の学問所」とも呼ばれ、弁慶がここで修行したと伝えられています。
    比叡山を降りた弁慶は、性空上人を慕って書写山へと登り、修行に励みました。往時、弁慶と接触した衆徒は、「見た目と違って穏やかな人」と弁慶を褒め讃えたと伝わっています。
    ある日、弁慶が昼寝をしてた時、悪僧の信濃坊戒円が弁慶の顔に「弁慶は平足駄とぞなりにけり、面を踏めども起きも上らず」と落書きをしました。周囲の者たちが大笑いする中、弁慶は何の事か判らず、近くの井戸に顔を映して初めて落書きに気付きました。
    恥をかかされた弁慶は烈火のごとく怒り、それに対して戒円は檪(くぬぎ)の燃えさしで打ちかかりました。すると弁慶は、戒円を抱え上げて大講堂の屋根へと放り投げました。その時、戒円の檪の燃えさしが軒に挟まり、谷から吹き上げられた風に煽られ、大講堂他の54棟が炎上し、その全てが焼け落ちました。
    弁慶は、「寺を焼いたのはこの私でござる。再建するのも私が仕る。ただし、再建のための財を持っておりませぬ。それ故に太刀を千本奪い取り、釘の代金として差し上げます」と仏に誓いました。この出来事の後、弁慶は侍から太刀を奪い歩き、999本を手に入れました。そして最後の1本となった時、京の五条大橋で牛若丸(源義経)と運命の出会いを果たしたのです。
    一般的には弁慶は乱暴者で喧嘩が絶えなかった荒法師と伝えられていますが、『義経記』によると比叡山の修行においても「人に勝り、学問は世を越えて器用なり」とあります。また、書写山でも真面目に修行を終え、学頭に対して暇の挨拶へ行くほど律義な姿が書かれています。どうやら弁慶は、普段は真面目で礼儀正しいものの、一度切れると制止がきかない気質だったのかもしれません。
    書写山に残されている史料によると、1858(安政5)年の『霊仏霊宝目録』に「天神名号 武蔵坊弁慶筆」などの3点の記載があり、太刀や長刀を奉納したとあります。

  • 三之堂 常行堂(重文)<br />南側にある常行堂は、唐破風と切妻の屋根の組み合わせが独特の趣を見せています。寺伝によれば南北朝時代の1331~34年(元弘年間)に建立され、1436(永享8)年の焼失後、1453(享徳2)年に再建されています。本尊は丈六阿弥陀如来坐像(重文)で、本質的にはひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う常行三昧の道場ですが、現在は一般向けに坐禅の場としても使われています。<br />方五間の大規模な東向きの建物で、北接する長さ十間の細長い建物が楽屋とその中央に張り出した舞台で構成されています。この舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するために設けられたものです。2度の焼失を経て、現在の建物は1453(享徳2)年に上棟されています。内部には、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊 丈六阿弥陀如来坐像が安置されています。<br />

    三之堂 常行堂(重文)
    南側にある常行堂は、唐破風と切妻の屋根の組み合わせが独特の趣を見せています。寺伝によれば南北朝時代の1331~34年(元弘年間)に建立され、1436(永享8)年の焼失後、1453(享徳2)年に再建されています。本尊は丈六阿弥陀如来坐像(重文)で、本質的にはひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う常行三昧の道場ですが、現在は一般向けに坐禅の場としても使われています。
    方五間の大規模な東向きの建物で、北接する長さ十間の細長い建物が楽屋とその中央に張り出した舞台で構成されています。この舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するために設けられたものです。2度の焼失を経て、現在の建物は1453(享徳2)年に上棟されています。内部には、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊 丈六阿弥陀如来坐像が安置されています。

  • 三之堂 常行堂<br />本瓦葺の入母屋造ですが、正面から見て左右に翼のように切妻造りの吹き放し廊が広がり、さらに中央部が唐破風造屋根の舞台が突起しているという珍しい構造の堂宇です。

    三之堂 常行堂
    本瓦葺の入母屋造ですが、正面から見て左右に翼のように切妻造りの吹き放し廊が広がり、さらに中央部が唐破風造屋根の舞台が突起しているという珍しい構造の堂宇です。

  • 三之堂 常行堂<br />常行三昧堂の正面入口です。<br />現在はこちらで座禅の会を開かれているそうです。

    三之堂 常行堂
    常行三昧堂の正面入口です。
    現在はこちらで座禅の会を開かれているそうです。

  • 鐘楼(重文)<br />「三之堂」の隣の敷地にあります。本瓦葺の入母屋造り、袴腰付で腰組を持つ正規の鐘楼で、2001年に解体修理を終えているため形がよく整っています。解体修理により、元々は宝形であったと推測されています。<br />寺伝によると、鐘楼は1332(元弘2)年の再建、鐘は1324(元亨4)年の再鋳とされています。いずれも確証はないようですが、形や手法から14世紀前半のものと推定されています。鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重だそうです。<br />銅鐘は、県指定文化財で、姫路市内では最古の釣鐘です。

    鐘楼(重文)
    「三之堂」の隣の敷地にあります。本瓦葺の入母屋造り、袴腰付で腰組を持つ正規の鐘楼で、2001年に解体修理を終えているため形がよく整っています。解体修理により、元々は宝形であったと推測されています。
    寺伝によると、鐘楼は1332(元弘2)年の再建、鐘は1324(元亨4)年の再鋳とされています。いずれも確証はないようですが、形や手法から14世紀前半のものと推定されています。鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重だそうです。
    銅鐘は、県指定文化財で、姫路市内では最古の釣鐘です。

  • 法華堂<br />黎明期の圓教寺における中心的施設であり、開粗 性空上人がお経を読んで修行を積んだと伝わる小さな堂宇です。法華三昧堂とも言い、985(寛和3)年に播磨国司 藤原李孝によって建立されました。元は桧皮葺だったようですが、江戸時代に瓦葺で再建されています。<br />建物は宝形造、桁行3間、梁間3間、白木造、軒下の欄間部は白漆喰で仕上げられています。

    法華堂
    黎明期の圓教寺における中心的施設であり、開粗 性空上人がお経を読んで修行を積んだと伝わる小さな堂宇です。法華三昧堂とも言い、985(寛和3)年に播磨国司 藤原李孝によって建立されました。元は桧皮葺だったようですが、江戸時代に瓦葺で再建されています。
    建物は宝形造、桁行3間、梁間3間、白木造、軒下の欄間部は白漆喰で仕上げられています。

  • 金剛堂 (重文)<br />戦国時代の1544年に建立されたものです。三間四方の小堂で、棟に置かれた鯱瓦は日本最古のデザインとされています。<br />元は984(永観2)年創建の茅葺、小組格天井の普賢院という塔頭の持仏堂でした。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天女の天井絵があります。<br />圓教寺の開祖 性空が夢の中で金剛薩たに密教の印を授けられた場面が描かれており、天女たちが華やかに舞っています。その天女に珍しい足が描かれていることで知られています。性空上人は、この地において金剛薩たにお会いになり、密教の印を授けられたと言われています。

    金剛堂 (重文)
    戦国時代の1544年に建立されたものです。三間四方の小堂で、棟に置かれた鯱瓦は日本最古のデザインとされています。
    元は984(永観2)年創建の茅葺、小組格天井の普賢院という塔頭の持仏堂でした。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天女の天井絵があります。
    圓教寺の開祖 性空が夢の中で金剛薩たに密教の印を授けられた場面が描かれており、天女たちが華やかに舞っています。その天女に珍しい足が描かれていることで知られています。性空上人は、この地において金剛薩たにお会いになり、密教の印を授けられたと言われています。

  • 金剛堂周辺の様子です。

    金剛堂周辺の様子です。

  • 苔生した石垣とその上から燃え出る紅葉の競演です。

    苔生した石垣とその上から燃え出る紅葉の競演です。

  • 苔生した石垣と散紅葉のコラボレーションです。

    苔生した石垣と散紅葉のコラボレーションです。

  • 奥の院<br />食堂から鐘楼、金剛堂を経由して5分程歩くと奥の院があり、ここも開山堂、護法堂、護法堂拝殿がコの字状に並んでいます。奥の院は祈りの聖地であり静寂な場所ですが、性空上人を祀るパワースポットでもあります。深山幽谷の佇まいを湛え、落ち着いた雰囲気を好まれる方にピッタリの場所です。<br />因みに食堂の裏手から奥の院へ行ける近道もあります。徒歩2分程ですので、時間がない場合はこのショートカットを使うと便利です。<br />

    奥の院
    食堂から鐘楼、金剛堂を経由して5分程歩くと奥の院があり、ここも開山堂、護法堂、護法堂拝殿がコの字状に並んでいます。奥の院は祈りの聖地であり静寂な場所ですが、性空上人を祀るパワースポットでもあります。深山幽谷の佇まいを湛え、落ち着いた雰囲気を好まれる方にピッタリの場所です。
    因みに食堂の裏手から奥の院へ行ける近道もあります。徒歩2分程ですので、時間がない場合はこのショートカットを使うと便利です。

  • 奥の院 護法堂 拝殿(重文)<br />「三之堂」の開放的で明るい空間とは対照的に、しっとりとした空気の中に落ち着いた堂宇が佇み、時間がゆっくりと流れています。豊かな森に包まれた書写山に於いて性空上人が過ごした時代と変ったものは、参拝に訪れる人の数と山から見下ろす町の景色だけと言われる所以です。<br />左側の建物が拝殿です。参道を挟んで護法堂と対面して建てられています。桁行(正面)7間、梁間(側面)2間の本瓦葺の切妻造・懸造の細長い建物です。<br />案内には、「拝殿と本殿が離れて建てられているのは珍しいとされ、今の建物は、1589(天正17)年に建立されたもので、神社様式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿」とあります。<br />この拝殿は桃山様式の建造物とされ、その昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた7歳から10年間、この山で修行したことから「弁慶の学問所」とも呼ばれています。その時の勉強机が食堂の宝物館に展示されていたものです。

    奥の院 護法堂 拝殿(重文)
    「三之堂」の開放的で明るい空間とは対照的に、しっとりとした空気の中に落ち着いた堂宇が佇み、時間がゆっくりと流れています。豊かな森に包まれた書写山に於いて性空上人が過ごした時代と変ったものは、参拝に訪れる人の数と山から見下ろす町の景色だけと言われる所以です。
    左側の建物が拝殿です。参道を挟んで護法堂と対面して建てられています。桁行(正面)7間、梁間(側面)2間の本瓦葺の切妻造・懸造の細長い建物です。
    案内には、「拝殿と本殿が離れて建てられているのは珍しいとされ、今の建物は、1589(天正17)年に建立されたもので、神社様式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿」とあります。
    この拝殿は桃山様式の建造物とされ、その昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた7歳から10年間、この山で修行したことから「弁慶の学問所」とも呼ばれています。その時の勉強机が食堂の宝物館に展示されていたものです。

  • 奥の院 手水鉢<br />散紅葉が情緒を醸しています。

    奥の院 手水鉢
    散紅葉が情緒を醸しています。

  • 奥の院 井戸<br />苔生して風情を湛える井戸です。

    奥の院 井戸
    苔生して風情を湛える井戸です。

  • 奥の院 開山堂(重文)<br />圓教寺開山の性空上人を祀り、境内で最も神聖な堂宇です。堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木造が納められています。1007(寛弘4)年に98歳で入寂後に弟子の延照律師が創建し、1286(弘安9)年に焼失しています。現存のものは江戸時代の1671(寛文11)年に再建され、屋根は本瓦葺の宝形造りになっています。<br />

    奥の院 開山堂(重文)
    圓教寺開山の性空上人を祀り、境内で最も神聖な堂宇です。堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木造が納められています。1007(寛弘4)年に98歳で入寂後に弟子の延照律師が創建し、1286(弘安9)年に焼失しています。現存のものは江戸時代の1671(寛文11)年に再建され、屋根は本瓦葺の宝形造りになっています。

  • 奥の院 開山堂<br />上人像は、1002(長保4)年に花山法皇が93歳の上人を訪ねた時にスケッチしたものを、京都の絵師が画像に描き直し、この画像を元に鎌倉時代に仏師 慶快が制作したと伝わります。<br />手前に祀られている痛みの激しい上人像は、1998年に塔頭 仙岳院の土蔵から白布に巻かれた像が見つかり、調査の結果、性空上人像と確認されたもので、制作は平安時代末期を下らないものと見られています。

    奥の院 開山堂
    上人像は、1002(長保4)年に花山法皇が93歳の上人を訪ねた時にスケッチしたものを、京都の絵師が画像に描き直し、この画像を元に鎌倉時代に仏師 慶快が制作したと伝わります。
    手前に祀られている痛みの激しい上人像は、1998年に塔頭 仙岳院の土蔵から白布に巻かれた像が見つかり、調査の結果、性空上人像と確認されたもので、制作は平安時代末期を下らないものと見られています。

  • 奥の院 開山堂<br />開山堂が最強のパワー・スポットである所以は、次のエピソードにあります。<br />鎌倉時代に開山堂の本尊が焼失してしまうのですが、その時像内には性空上人の遺骨が入っていたそうです。像は焼けてしまいましたが、その遺骨は焼け残ったため、1288年に慶快が新しく制作した新像に同じように納入しましたと伝わっています。<br />時が経ち、2008年に行なわれた奈良国立博物館によるX線調査により、開山堂本尊の性空上人像の頭部に、伝承通りに御真骨が納められていることが確認されています。

    奥の院 開山堂
    開山堂が最強のパワー・スポットである所以は、次のエピソードにあります。
    鎌倉時代に開山堂の本尊が焼失してしまうのですが、その時像内には性空上人の遺骨が入っていたそうです。像は焼けてしまいましたが、その遺骨は焼け残ったため、1288年に慶快が新しく制作した新像に同じように納入しましたと伝わっています。
    時が経ち、2008年に行なわれた奈良国立博物館によるX線調査により、開山堂本尊の性空上人像の頭部に、伝承通りに御真骨が納められていることが確認されています。

  • 奥の院 開山堂<br />正面に配された龍の蟇股です。<br /><br />最強のパワースポットの由来は、本尊に納められた御真骨のエピソードだけではありません。2009年に解体修理中の開山堂須弥壇下から、石櫃や五輪塔など、数々の経石が発見され、その中から石櫃内に分骨された性空上人の遺骨が発見されたのです。その桐箱には、「性空御真骨」と書かれていたそうです。<br />1000年以上前の開祖の遺骨が残されていたとは吃驚ポンです。<br />さすが播磨屈指のパワー・スポットは、年季がはいっています。

    奥の院 開山堂
    正面に配された龍の蟇股です。

    最強のパワースポットの由来は、本尊に納められた御真骨のエピソードだけではありません。2009年に解体修理中の開山堂須弥壇下から、石櫃や五輪塔など、数々の経石が発見され、その中から石櫃内に分骨された性空上人の遺骨が発見されたのです。その桐箱には、「性空御真骨」と書かれていたそうです。
    1000年以上前の開祖の遺骨が残されていたとは吃驚ポンです。
    さすが播磨屈指のパワー・スポットは、年季がはいっています。

  • 奥の院 開山堂<br />右側面の蟇股には、珍しい「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が彫られています。仏教で説かれる想像上の鳥で、極楽浄土に住み、妙声をもって法を説くと言われ、上半身が人で下半身が鳥の姿で表されます。天人や観音菩薩が出現される時、その前触れとして現れます。<br />迦陵頻伽の描かれた図像は浄土を表現していると理解され、同時に如来の教えを称えることを意図する。この鳥が現れる時は、良い芳香が匂い、心地よい音楽が聞こえ、花弁が舞うそうです。<br />因みにこの鳥は、琵琶を演奏しています。

    奥の院 開山堂
    右側面の蟇股には、珍しい「迦陵頻伽(かりょうびんが)」が彫られています。 仏教で説かれる想像上の鳥で、極楽浄土に住み、妙声をもって法を説くと言われ、上半身が人で下半身が鳥の姿で表されます。天人や観音菩薩が出現される時、その前触れとして現れます。
    迦陵頻伽の描かれた図像は浄土を表現していると理解され、同時に如来の教えを称えることを意図する。この鳥が現れる時は、良い芳香が匂い、心地よい音楽が聞こえ、花弁が舞うそうです。
    因みにこの鳥は、琵琶を演奏しています。

  • 奥の院 開山堂<br />こちらも迦陵頻伽です。手にしているのは、横笛でしょうか?<br />足が鳥足になっているのがリアルです。<br />

    奥の院 開山堂
    こちらも迦陵頻伽です。手にしているのは、横笛でしょうか?
    足が鳥足になっているのがリアルです。

  • 奥の院 開山堂<br />軒下の四隅には、開山堂の屋根の重みを必死の形相で支える、筋肉質のな力士像が配されています。江戸時代の名工 左甚五郎の作と伝えられていますが、何故か北西の隅には像がありません。重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名でが、文化庁の資料にも「北西隅を除き、隅木下に力士像を据えている」と記されているだけです。重文にも指定されている開山堂ですが、この力士像の不思議は未だ謎のベールに包まれたままです。<br />憶測に過ぎませんが、日光東照宮の逆柱のように、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という考え方から、崩壊を避ける魔除けとして1ヶ所だけを未完で残しているのかもしれません。

    奥の院 開山堂
    軒下の四隅には、開山堂の屋根の重みを必死の形相で支える、筋肉質のな力士像が配されています。江戸時代の名工 左甚五郎の作と伝えられていますが、何故か北西の隅には像がありません。重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名でが、文化庁の資料にも「北西隅を除き、隅木下に力士像を据えている」と記されているだけです。重文にも指定されている開山堂ですが、この力士像の不思議は未だ謎のベールに包まれたままです。
    憶測に過ぎませんが、日光東照宮の逆柱のように、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という考え方から、崩壊を避ける魔除けとして1ヶ所だけを未完で残しているのかもしれません。

  • 奥の院 開山堂<br />黒ずんでいるのは、千社札を剥がした跡かと思います。<br />縁を一周することができないようになっているため、逃げ出した力士の場所を確かめることはできません。

    奥の院 開山堂
    黒ずんでいるのは、千社札を剥がした跡かと思います。
    縁を一周することができないようになっているため、逃げ出した力士の場所を確かめることはできません。

  • 奥の院 和泉式部の歌塚<br />開山堂の右脇には立派な歌塚があり、石製宝篋印塔には天福元年(1233年)10月26日の銘が刻まれています。<br />性空上人の教えに触れようと、藤原道長の娘 中宮彰子にお供して書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人 和泉式部が詠んだ歌と伝えられます。貴人や権勢嫌いの上人に居留守を使われ、その無念さを歌に認めたものとされています。<br />式部は「冥き(くらき)より 冥き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」と詠んで立ち去ろうとました。しかし性空は、弟子から伝え聞いたこの歌にいたく感心し、急いで一行を呼び戻し、「日は入りて 月まだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法の灯」と詠んだと言われています。「今は釈迦入滅後の末法の世、次に衆生を救う弥勒菩薩下生までに56億7000万年かかる。その間の黄昏の間、法華の教えを灯として示そう」と式部に返歌したものです。<br />和泉式部は、当時の最高権力者 藤原道長から「浮かれ女」と酷評された恋多きプレイガールだったそうです。数々の恋遍歴、愛憎や葛藤に無常を感じた式部が、性空に救いを求めた歌だったのかもしれません。さすれば、書写山は女人救済の山だったのかも?一時は女人禁制でしたが…。<br />式部の歌は謡『鵺』で歌われるものです。源頼政に退治された鵺が鴨川から淀川に流され、魂の救済を求めるところに引用されています。鵺は淀川を流され浦曲(うらわ)の浮洲に流れ留まります。「冥き(くらき)より 冥き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の遥かに照らせ山の端の月と共に海月も入りにけり 海月と共に入りにけり」という言葉で終わります。<br /><br />しかし時代考証してみると、性空上人は式部が中宮彰子に仕える以前に亡くなっており、この話は事実ではないようです。しかし詠まれた2つの歌は確かに存在していることから、初めに和歌があり、それをベースに書写山のエピソードが演出されたということなのでしょう。仏の救いを求道する祈りのこもった式部の歌をもし性空上人が知ったなら、伝説が現実に変わっても何ら不思議はないと思います。 <br />ところで式部の歌は、長徳年間(995~99年)に編纂された勅撰和歌集『拾遺集』に、敢えて詞書「性空上人のもとに、よみてつかわしける」を付与して所収されています。仏教上のつながり「結縁(けちえん)」を求めたこの歌は、彼女が20歳代の作品と窺えます。<br />作者名は大江雅致の娘とされ、少女時代の式部に間違いありません。この年ですでに波乱万丈の人生を察知していることが窺われ、詠みぶりが気にかかる歌です。数多の男遍歴に、いつしか無常を感じ始めていた時期なのかも知れません。<br />余談ですが、和泉式部の晩年には、娘に先立たれた悲しみのうちに無常を悟り、性空上人に「誓願寺へ急ぎ行きて御本尊に帰依すべし」と諭されています。そして道長によって与えられた誓願寺近くの東北院の小堂に移り住み、やがてその生涯を終えたと伝えられています。

    奥の院 和泉式部の歌塚
    開山堂の右脇には立派な歌塚があり、石製宝篋印塔には天福元年(1233年)10月26日の銘が刻まれています。
    性空上人の教えに触れようと、藤原道長の娘 中宮彰子にお供して書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人 和泉式部が詠んだ歌と伝えられます。貴人や権勢嫌いの上人に居留守を使われ、その無念さを歌に認めたものとされています。
    式部は「冥き(くらき)より 冥き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」と詠んで立ち去ろうとました。しかし性空は、弟子から伝え聞いたこの歌にいたく感心し、急いで一行を呼び戻し、「日は入りて 月まだ出ぬ たそがれに 掲げて照らす 法の灯」と詠んだと言われています。「今は釈迦入滅後の末法の世、次に衆生を救う弥勒菩薩下生までに56億7000万年かかる。その間の黄昏の間、法華の教えを灯として示そう」と式部に返歌したものです。
    和泉式部は、当時の最高権力者 藤原道長から「浮かれ女」と酷評された恋多きプレイガールだったそうです。数々の恋遍歴、愛憎や葛藤に無常を感じた式部が、性空に救いを求めた歌だったのかもしれません。さすれば、書写山は女人救済の山だったのかも?一時は女人禁制でしたが…。
    式部の歌は謡『鵺』で歌われるものです。源頼政に退治された鵺が鴨川から淀川に流され、魂の救済を求めるところに引用されています。鵺は淀川を流され浦曲(うらわ)の浮洲に流れ留まります。「冥き(くらき)より 冥き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の遥かに照らせ山の端の月と共に海月も入りにけり 海月と共に入りにけり」という言葉で終わります。

    しかし時代考証してみると、性空上人は式部が中宮彰子に仕える以前に亡くなっており、この話は事実ではないようです。しかし詠まれた2つの歌は確かに存在していることから、初めに和歌があり、それをベースに書写山のエピソードが演出されたということなのでしょう。仏の救いを求道する祈りのこもった式部の歌をもし性空上人が知ったなら、伝説が現実に変わっても何ら不思議はないと思います。 
    ところで式部の歌は、長徳年間(995~99年)に編纂された勅撰和歌集『拾遺集』に、敢えて詞書「性空上人のもとに、よみてつかわしける」を付与して所収されています。仏教上のつながり「結縁(けちえん)」を求めたこの歌は、彼女が20歳代の作品と窺えます。
    作者名は大江雅致の娘とされ、少女時代の式部に間違いありません。この年ですでに波乱万丈の人生を察知していることが窺われ、詠みぶりが気にかかる歌です。数多の男遍歴に、いつしか無常を感じ始めていた時期なのかも知れません。
    余談ですが、和泉式部の晩年には、娘に先立たれた悲しみのうちに無常を悟り、性空上人に「誓願寺へ急ぎ行きて御本尊に帰依すべし」と諭されています。そして道長によって与えられた誓願寺近くの東北院の小堂に移り住み、やがてその生涯を終えたと伝えられています。

  • 奥の院 護法堂(重文)<br />護法堂は、性空上人に付き添って仕えた乙天(不動明王<右>)と若天(毘沙門天<左>)の2人の童子を祀る神社で、室町時代後期の1559年(永禄2)年に再建されたものです。同寸同型の檜皮葺の春日造で、小規模ながら細部の手法に優れ室町時代の神社建築の特徴をよく表しています。圓教寺ではこのように神仏習合の景観が今も残されています。<br />江戸時代最後の大老が姫路藩 酒井忠績だったこともあり、播磨では明治新政府の政策にことごとく非協力的だったとも言われていますが、「旧大日堂仏像群」からも窺えるように播磨の諸寺に対して新政府から廃仏毀釈を迫る圧力がかかったことは確かであり、加古郡では27ヶ寺が廃寺に追い込まれたそうです。

    奥の院 護法堂(重文)
    護法堂は、性空上人に付き添って仕えた乙天(不動明王<右>)と若天(毘沙門天<左>)の2人の童子を祀る神社で、室町時代後期の1559年(永禄2)年に再建されたものです。同寸同型の檜皮葺の春日造で、小規模ながら細部の手法に優れ室町時代の神社建築の特徴をよく表しています。圓教寺ではこのように神仏習合の景観が今も残されています。
    江戸時代最後の大老が姫路藩 酒井忠績だったこともあり、播磨では明治新政府の政策にことごとく非協力的だったとも言われていますが、「旧大日堂仏像群」からも窺えるように播磨の諸寺に対して新政府から廃仏毀釈を迫る圧力がかかったことは確かであり、加古郡では27ヶ寺が廃寺に追い込まれたそうです。

  • 奥の院 不動堂<br />この地にはかつて慶雲が寺物で建立した真言堂が建てられていました。しかし、 1492(延徳4)年に焼失しています。その後、建てられたのが不動堂です。<br />延宝年間(1673~81年)に堂宇が建てられ、明王院の乙天護法童子の本地仏 不動明王を祀っています。1697(元禄10)年に修理がなされ、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としました。<br />俗に赤堂と呼ばれ、不動明王の化身 乙天童子の本地堂ですが、毘沙門天の化身の若天童子の名を冠する堂宇は存在していません。一説には、若天はその姿があまりに怪異なために人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したとも伝えられています。<br />高僧が人を見かけで判断することはないだろうと思い、調べてみました。<br />元々は東壇に不動明王、西壇に毘沙門天、その中間に茶湯があったものを、現在の護法堂に不動明王と毘沙門天を祀ったために一方の壇が空き、そこに不動明王等五大尊ならびに毘沙門天を一堂に安置する一壇を造替させたのが現在の不動堂のようです。名は不動堂ですが、不動明王と毘沙門天を合祀しているのがミソです。

    奥の院 不動堂
    この地にはかつて慶雲が寺物で建立した真言堂が建てられていました。しかし、 1492(延徳4)年に焼失しています。その後、建てられたのが不動堂です。
    延宝年間(1673~81年)に堂宇が建てられ、明王院の乙天護法童子の本地仏 不動明王を祀っています。1697(元禄10)年に修理がなされ、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としました。
    俗に赤堂と呼ばれ、不動明王の化身 乙天童子の本地堂ですが、毘沙門天の化身の若天童子の名を冠する堂宇は存在していません。一説には、若天はその姿があまりに怪異なために人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したとも伝えられています。
    高僧が人を見かけで判断することはないだろうと思い、調べてみました。
    元々は東壇に不動明王、西壇に毘沙門天、その中間に茶湯があったものを、現在の護法堂に不動明王と毘沙門天を祀ったために一方の壇が空き、そこに不動明王等五大尊ならびに毘沙門天を一堂に安置する一壇を造替させたのが現在の不動堂のようです。名は不動堂ですが、不動明王と毘沙門天を合祀しているのがミソです。

  • 展望公園<br />瀬戸内海(播磨灘)を眺望すれば家島群島などが確認できます。条件が整えば淡路島はもとより、四国も望めるそうです。<br />左側のひょうたん型の島は鞍掛島、その右にある小さな島がふたつ寄り添うのは太島です。<br />

    展望公園
    瀬戸内海(播磨灘)を眺望すれば家島群島などが確認できます。条件が整えば淡路島はもとより、四国も望めるそうです。
    左側のひょうたん型の島は鞍掛島、その右にある小さな島がふたつ寄り添うのは太島です。

  • 展望公園<br />墨絵のように色の濃淡が重畳する低い山並みは、播磨を代表する風景のひとつです。

    展望公園
    墨絵のように色の濃淡が重畳する低い山並みは、播磨を代表する風景のひとつです。

  • 根本薬師堂(県指定文化財)<br />簡素な草庵だったものを書写山に入山した性空上人が造り替え、三間四面の堂宇にしたのが始まりと伝えられています。1319(元応元)年の再建と推定され、天竺様式(大仏様の手法)を取り入れた正面一間、側面二間の宝形造りで、圓教寺に現存する最古の鎌倉時代の建物です。<br />尚、1978(昭和53)年の解体修理に伴う発掘調査により、土層から奈良時代の遺物が発掘されています。<br />余談ですが、昨年ここの賽銭箱が壊され、お賽銭が盗まれたことでも知られています。賽銭箱も古いもので、「天保14年」や「江戸品川」などの文字が確認できるものです。

    根本薬師堂(県指定文化財)
    簡素な草庵だったものを書写山に入山した性空上人が造り替え、三間四面の堂宇にしたのが始まりと伝えられています。1319(元応元)年の再建と推定され、天竺様式(大仏様の手法)を取り入れた正面一間、側面二間の宝形造りで、圓教寺に現存する最古の鎌倉時代の建物です。
    尚、1978(昭和53)年の解体修理に伴う発掘調査により、土層から奈良時代の遺物が発掘されています。
    余談ですが、昨年ここの賽銭箱が壊され、お賽銭が盗まれたことでも知られています。賽銭箱も古いもので、「天保14年」や「江戸品川」などの文字が確認できるものです。

  • 松平家廟所<br />松平直基は徳川家康の孫に当たり、出羽国山形城にいたところ、1648年に播磨国の姫路城主を命じられました。しかし、山形から姫路へ移封中、江戸で発病し、その年に亡くなっています。享年45歳でした。<br />

    松平家廟所
    松平直基は徳川家康の孫に当たり、出羽国山形城にいたところ、1648年に播磨国の姫路城主を命じられました。しかし、山形から姫路へ移封中、江戸で発病し、その年に亡くなっています。享年45歳でした。

  • 松平家廟所<br />父の不慮の死により、5歳の直矩が家督を継ぎますが、姫路城が西国の抑えの要所だったことから越後村上藩へ国替えを余儀なくされました。しかし、その後1667年に姫路藩に復帰しています。<br />直基の菩提は神奈川県南足利市の最乗寺に分骨されていますが、直矩が1670年に書写山にも分骨してこうした立派な墓所を建てています。<br />墓所には五輪塔が建てられており、塔下部には戒名と没年月が刻まれています。<br />徳川四天王のうち、榊原、本多、酒井諸侯が姫路城主となっています。天下統一を果たした徳川家康が、西の外様大名を抑える目的で家康の腹心を送り込んだものと窺えます。

    松平家廟所
    父の不慮の死により、5歳の直矩が家督を継ぎますが、姫路城が西国の抑えの要所だったことから越後村上藩へ国替えを余儀なくされました。しかし、その後1667年に姫路藩に復帰しています。
    直基の菩提は神奈川県南足利市の最乗寺に分骨されていますが、直矩が1670年に書写山にも分骨してこうした立派な墓所を建てています。
    墓所には五輪塔が建てられており、塔下部には戒名と没年月が刻まれています。
    徳川四天王のうち、榊原、本多、酒井諸侯が姫路城主となっています。天下統一を果たした徳川家康が、西の外様大名を抑える目的で家康の腹心を送り込んだものと窺えます。

  • 魔尼殿まで戻ってきました。<br />魔尼殿を借景に紅葉が映えます。

    魔尼殿まで戻ってきました。
    魔尼殿を借景に紅葉が映えます。

  • 三十三所堂<br />摩尼殿の手前に位置し、西国三十三観音を模したミニチュアの観音様が沢山祀られています。「うつし霊場」と言い、ここでお参りすると三十三箇所を全て巡礼したのと同じご利益があるそうです。<br />

    三十三所堂
    摩尼殿の手前に位置し、西国三十三観音を模したミニチュアの観音様が沢山祀られています。「うつし霊場」と言い、ここでお参りすると三十三箇所を全て巡礼したのと同じご利益があるそうです。

  • 魔尼殿とそれを囲む紅葉を少し引いて写した景色です。

    魔尼殿とそれを囲む紅葉を少し引いて写した景色です。

  • 圓教寺の門です。

    圓教寺の門です。

  • 鄙びた圓教寺の土塀をアクセントにグラデーションの妙を魅せる紅葉です。

    鄙びた圓教寺の土塀をアクセントにグラデーションの妙を魅せる紅葉です。

  • 送迎ミニバス乗り場の近くに色鮮やかで艶っぽいもみじがありました。

    送迎ミニバス乗り場の近くに色鮮やかで艶っぽいもみじがありました。

  • 権現坂を上った所にある十妙院付近の紅葉です。<br />少し離れて望遠で写すと、近くのものと遠くのものの距離感を縮める圧縮効果が働き、こうした密度の高い絵にすることができます。

    権現坂を上った所にある十妙院付近の紅葉です。
    少し離れて望遠で写すと、近くのものと遠くのものの距離感を縮める圧縮効果が働き、こうした密度の高い絵にすることができます。

  • こうした圧縮効果を活かした撮り方は、桜の季節にも効果的です。

    こうした圧縮効果を活かした撮り方は、桜の季節にも効果的です。

  • 十妙院の先から右手に折れ、林道へ合流します。<br />アップダウンがない分、時間的に早く着きます。

    十妙院の先から右手に折れ、林道へ合流します。
    アップダウンがない分、時間的に早く着きます。

  • 林道<br />どのもみじも自己顕示欲が強く、歩が進みません。

    林道
    どのもみじも自己顕示欲が強く、歩が進みません。

  • 林道<br />暫く前までは、「馬車道」と呼ばれていたそうです。

    林道
    暫く前までは、「馬車道」と呼ばれていたそうです。

  • 林道<br />この辺りは真紅に近いもみじです。

    林道
    この辺りは真紅に近いもみじです。

  • 展望台<br />ロープウェイ乗車口の手前にある展望台の屋上から俯瞰した山並みです。

    展望台
    ロープウェイ乗車口の手前にある展望台の屋上から俯瞰した山並みです。

  • ロープウェイから俯瞰する景色です。<br />2時間半程の滞在でした。

    ロープウェイから俯瞰する景色です。
    2時間半程の滞在でした。

  • 姫路駅から続く「みゆき通り」です。<br />アーケードの電飾が灯されると一気にクリスマス・モードに切り替わります。<br />

    姫路駅から続く「みゆき通り」です。
    アーケードの電飾が灯されると一気にクリスマス・モードに切り替わります。

  • クリスマスツリーもすでに点灯準備が整っています。

    クリスマスツリーもすでに点灯準備が整っています。

  • 炭焼あなご やま義(やまよし)<br />「みゆき通り」から東へ1筋入った、「小溝筋(おみぞすじ)商店街」にある「炭焼あなご やま義」です。姫路駅から徒歩3分程の商店街の一画にあり、グルメ雑誌に紹介されるなど極上の瀬戸内海産の穴子が味わえるお店です。自家製タレの香ばしい匂いが辺りに漂い、素通りできないほどです。<br />お店の2Fは焼鳥の「ゆ鳥」の姫路駅前店になっています。この「やま義」も「ゆ鳥」と同じ系列の会社が運営しているそうです。因みに右隣は、そこそこ有名な「とんかつ赤心」です。B級グルメ激戦区と言っても過言ではないエリアです。<br />まだ18時前ですので行列はできていないようです。<br /><br />食べログの紹介ページです。<br />https://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28034320/

    炭焼あなご やま義(やまよし)
    「みゆき通り」から東へ1筋入った、「小溝筋(おみぞすじ)商店街」にある「炭焼あなご やま義」です。姫路駅から徒歩3分程の商店街の一画にあり、グルメ雑誌に紹介されるなど極上の瀬戸内海産の穴子が味わえるお店です。自家製タレの香ばしい匂いが辺りに漂い、素通りできないほどです。
    お店の2Fは焼鳥の「ゆ鳥」の姫路駅前店になっています。この「やま義」も「ゆ鳥」と同じ系列の会社が運営しているそうです。因みに右隣は、そこそこ有名な「とんかつ赤心」です。B級グルメ激戦区と言っても過言ではないエリアです。
    まだ18時前ですので行列はできていないようです。

    食べログの紹介ページです。
    https://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28034320/

  • 炭焼あなご やま義<br />お店の中は、昭和時代を彷彿とさせる落ち着いた雰囲気です。BGMはFMラジオです。壁に貼られたポスターもレトロです。お酒でも入ったら長居しそうなお店ですが、案外回転は速いそうです。

    炭焼あなご やま義
    お店の中は、昭和時代を彷彿とさせる落ち着いた雰囲気です。BGMはFMラジオです。壁に貼られたポスターもレトロです。お酒でも入ったら長居しそうなお店ですが、案外回転は速いそうです。

  • 炭焼あなご やま義<br />奥にあるのが、名物「あなごめし(上)」(950円)です。瀬戸内海産の穴子の旨みを存分に引き出すために炭火で焼いた後に蒸し、自家製タレで炊き込んだご飯の上に載せた丼ものです。手前の(並)とはボリュームと厚さが異なります。穴子の旨みと脂が絶妙にマッチし、ふっくらした食感に敷き詰められた海苔の相性もピッタリです。また、ちょこんと載せられたワサビが全体の味を引き締め、食をそそります。<br />手前は名物「やま義定食」(1270円)です。「炭焼あなご」と「あなごめし(並)」を一緒に楽しめる欲張りセットです。<br />いずれもコストパフォーマンスが高いお得なメニューです。ワサビと海苔がいいアクセントになり、とても美味しいです!締めは、ひつまぶし風にお出汁を入れて完食いたしました。<br />お腹もいっぱいになり、帰路のJRでは暴睡でした。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    炭焼あなご やま義
    奥にあるのが、名物「あなごめし(上)」(950円)です。瀬戸内海産の穴子の旨みを存分に引き出すために炭火で焼いた後に蒸し、自家製タレで炊き込んだご飯の上に載せた丼ものです。手前の(並)とはボリュームと厚さが異なります。穴子の旨みと脂が絶妙にマッチし、ふっくらした食感に敷き詰められた海苔の相性もピッタリです。また、ちょこんと載せられたワサビが全体の味を引き締め、食をそそります。
    手前は名物「やま義定食」(1270円)です。「炭焼あなご」と「あなごめし(並)」を一緒に楽しめる欲張りセットです。
    いずれもコストパフォーマンスが高いお得なメニューです。ワサビと海苔がいいアクセントになり、とても美味しいです!締めは、ひつまぶし風にお出汁を入れて完食いたしました。
    お腹もいっぱいになり、帰路のJRでは暴睡でした。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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