2016/11/17 - 2016/11/17
2位(同エリア2152件中)
montsaintmichelさん
- montsaintmichelさんTOP
- 旅行記365冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,054,031アクセス
- フォロワー141人
今回のミッションは、12門を突破して大天守最上階に登閣し、姫路城7不思議の真偽を確かめることにあります。
大天守最上階には妖怪が棲み、眼下の人間界を揶揄と侮辱の目で眺めている特権的な異界と言われていきました。そこに祀られた刑部神社は、宮本武蔵所縁の社と伝わります。実際は時代が合わず、伝説の域を越えるものではありませんが、武蔵は若い頃、足軽「滝本又三郎」と称して木下家定時代の姫路城に奉公していたというのです。
その頃の姫路城は、夜な夜な天守が揺らぐと騒がれ、暗闇の天守最上階に灯が点るという怪奇現象が起こっていました。ならば妖怪を退治してくれようと、剣豪 宮本武蔵が妖怪退治に馳せ参じました。天守の3階に差し掛かった時、地震のような大音響と共に火炎を吹きかけられます。武蔵は、大刀で火炎に斬りつけ、さらに最上階へ登り、何ほどの事もないではないかと刑部明神の社にもたれてうとうと居眠りをしていました。すると官女姿の美しい姫が現れ、「わらわは、城を守る刑部明神なり。武勇で聞こえるそなたに恐れをなし、妖怪どもは逃げ去っていった。礼を申すぞ」と銘刀「郷義弘」の入った白木の箱を武藏に手渡して姿を消したという話です。
また、吉川英治著『宮本武蔵』では、沢庵和尚に捕えられた武蔵が3年間幽閉され、天守3階の「開かずの間」で万巻の書を読み精神修養をしたとあります。これも創作とされ、小部屋は倉庫として使われていた可能性が高いそうです。ただし、実際に姫路城と武蔵には繋がりがあり、元和3年頃の姫路藩主は本多忠政であり、家康の孫娘 千姫の夫の嫡男 忠刻や家老たちに武蔵が剣術指南をしていた記録が残されています。
しかしながら、こうした伝説が語り継がれるのも頷ける、独特の妖気に満ちた雰囲気が姫路城天守にあることも確かです。
因みに泉鏡花著『天守物語』の舞台でもあります。大天守に住む妖怪 富姫と主君の鷹を追って姫路城にやって来た姫川図書之助との恋愛物語です。富姫と妖怪たちが天守閣から釣竿を垂らして花釣りを楽しむシーンから始まり、「世は戦でも蝶が舞う、撫子も桔梗も咲くぞ。馬鹿めが!ここに獅子がいる。お祭礼だと思って騒げ!」で終わります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル
PR
-
大天守1階
地下1階にある玄関口を入るとすぐに階段で1階へ登ります。地下階の見学は復路でできるようです。
武者走りと言うには広すぎる回廊が出迎え、そこには城の遺物が展示されています。以前あった遺物は全て西の丸にある百間廊下に移されたと聞いていたのですが、一部は残されています。 -
大天守1階
鬼瓦に彫られた「揚羽蝶」の紋です。これは大天守を造った池田輝政の代表的な家紋です。 -
大天守1階
「十六弁八重表菊紋」は天皇家の紋章と条件反射してしまうのですが、菊紋が公式に皇室の御紋とされたのは1869(明治2)年のことだそうです。それまでは公家や一部の武将が用いたそうです。この時に、天皇家の紋章として「十六弁八重表菊紋」、その他皇族方の紋章として「十四弁一重裏菊紋」がそれぞれ定められました。
しかし、その後、1879(明治12)年には一般の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許されています。 -
大天守1階
松平忠明時代のものと想定される「沢瀉(おもだか)」紋の鬼瓦です。
松平忠明の実家が奥平家であり、この家紋を使っていたことからの推測だそうですが、確かなことは判っていないそうです。 -
大天守1階
大天守5層大棟西側にあった大天守創建時の波紋の鬼瓦です。
鯱瓦の真下に配され、鯱が波間から踊り出しているような姿を彷彿とさせていたそうです。 -
大天守1階 軸組構造模型
この模型は、大天守の解体修理工事に当たって実物の20分の1のスケールで制作されたものです。史上初の解体修理だったため、構造体の持つ技術的特徴、あるいは構造上の欠陥や細部の処理方法を理解した上で工事を行う必要があり、こうした模型を制作したようです。
また、建物を末永く維持できるよう、破損・腐朽部分の取り替えや各部材の補強方法の検討も不可欠であり、様々な問題点を詳らかにするための検討資料に使われたそうです。確かに1~3階のコーナー部に筋交構造が見られます。1~2階は通し筋交柱を採用しています。
昭和の大修理が50年耐性だったことから、平成の大修理が企画されることになったそうです。 -
大天守1階
この階段を上がると2階の武者走りに出ます。階段の上面には扉があり、締め切ることができます。1階と3階は引き戸、それ以外は開き戸タイプになっています。
扉は下の階側で鍵を掛ける仕組みのようです。戦闘時は侵攻を防ぐ目的で上の階で鍵を閉めるのが妥当ではないかと思うのですが、通常は上の階から異常がないか見回りながら、降りる際に鍵を閉めていくものだそうです。 -
大天守1階
内陣となる身舎(もや)側の壁の高い位置には細い竹で作られた「用具掛け」が見られます。この用具掛けは、鉄砲の弾などを袋に入れてぶら下げておくもので、機動性を向上させるために下から引っ張った時に折れて取り易いように竹材のものが多いそうです。 -
大天守1階 武者走り
身舎の外側を囲う廊下です。戦闘時は武士が行き交い、敵兵に射撃を浴びせることを目的に造られたものです。大人が5人横になっても余裕で歩ける程の幅がありますが、実際のこの幅の意味は、鎧兜に刀を身に着けた侍が2人横並びで走れる幅だそうです。つまり、この幅が必要最小限のサイズだということになります。
また、天井に渡された梁には肘木を添え、荷重を分担させています。こうした肘木は、大天守では1階のみで見られます。
両側には武具掛けが所狭しと並び、往時は鉄砲や長槍が掛けられていたそうです。
また、こちらの身舎側の武具掛けは、「竹」で作られたものではなく、L字型の「金属製」となっています。恐らく、火縄銃や長槍などの重量物を掛けたのでしょう。用途によって材質を違えるとは、まさに実戦を見越した設計であることが窺えます。 -
大天守1階 二の渡櫓への扉
鉄板鋲打ちの扉があります。大天守1階と二の渡櫓を結ぶ扉ですが、火災と防備を兼ねた役割を担います。大天守に入る扉は4ヶ所すべて2重扉になっていますが、そのうちのひとつです。
内側の門は片側に潜り戸が設けら、両扉とも内側からカンヌキがかけれるようになっています。また、潜り戸の大きさは、刀を差したままでは通れないサイズになっています。 -
大天守1階
これは木製黒塗りの釘隠で、地階から5階まで長押に493個の六葉の釘隠と152個の鏝頭釘隠が取り付けてあり、最上階の釘隠は金箔押しの六葉飾り金具打ちになっています。 -
大天守2階 武者走り
荒削りの自然木の横木が整然と並んでいます。格子窓がある分、地下階と比べると多少明るいのですが、それでも大天守内は暗いのでカメラマン泣かせです。
ISO感度が変えられるカメラであれば、ノイズが気にならない程度(ISO3200~4000)に上げてシャッタースピードを早くすると手振れが防止できます。それでもシャッタースピードが遅い場合は、絞り値も小さくします。 -
大天守2階
開き窓が千鳥破風内部にあります。右側の格子窓は、屋根や外壁の修理をするために設けられた開閉式になっています。開き窓から屋根伝いに西小天守に渡ることができるようで、脱出路としての役割も兼ねていたそうです。
しかし、この開口面積では、甲冑を脱いでの決死の脱出にしかなりませんが…。 -
大天守3階
他の階に比べ天井が高く、1階2階とは見える風景が違います。欄間風の格子が身舎を取り囲み、格式を湛えた空間かと思えますが、2本の心柱と身舎を囲む防衛上の仕掛けの数々に目を瞠ります。
大柱は、「東はオリジナルで、西は交換されたもの」で、オリジナルと交換したものが一目で判る仕掛けになっています。
東大柱は丸材です。西大柱は取り替えたことが判るように角材に加工されています。もう少し詳しく記せば、東大柱も地階から1階の途中までの部分は継いであり、継ぎ目から下は角材、そこから上は丸材となっています。
こうした対応が一般的なのかどうかは判りませんが、備中松山城の土塀にも同様に重文の現存土塀と復元のものが見分けられるように境目が設けられていたことを思い出しました。 -
大天守3階 西大柱
かつての西大柱は、下方が樅材、上方がツガ材で3階床上で2本を継ぎ合わせ、1本の柱としていました。築城から48年経った明暦2年に、根元を四方から添え木を当てて帯鉄で巻いて補強されました。その後、昭和の大修理の折、樹齢780年の木曾檜で1本柱に交換する予定でしたが、運搬中の事故で2つに折れ、上方に播州地の笠形神社から伐出した樹齢670年の檜材を用いて3階で柱継ぎし、鉄輪で補強しています。
しかし後日、西大柱は構造上2本継ぎの柱しか使用できないことが判り、運搬中に折れたことがむしろ幸いしたそうです。東大柱が1本材の柱で、西大柱が2本継ぎの柱であったのには、正当な理由があったわけです。 -
大天守3階 東大柱
東大柱は、樅の自然木で継手なしの通し柱で、築城時は播州の山林から切り出されたと伝えられています。昭和の大修理で根元5.4mを檜材で継ぎ合わせて補強され、根元の切断された旧材は兵庫県立歴史博物館に展示されています。
両柱の長さは、26.4mあり、6階の床下まで通されています。 -
大天守3階 宮本武蔵幽閉「開かずの間」
4階への踊り場の真下になる部屋です。
宮本武蔵が3年間幽閉され、万巻の書を読み精神修養をしたという部屋です。吉川英治著『宮本武蔵』の「光明蔵の章」でお馴染みの話ですが、武蔵(たけぞう)から武蔵(むさし)に精神的に変身した場所とされていますので、伝説とはいえ感慨深いものがあります。しかし天守内には、「開かずの間」の札や説明板もなく、味も素っ気もありません。
武蔵と池田輝政との関わりも創作とされ、この部屋は倉庫として使われていた可能性が高いようです。因みに本多忠刻とは関わりがあります。
奥行き4.8m、高さ2.7mの小部屋で、奥に開け閉めできる明かりとりの与力窓が設けてられているようです。壁は厚さ6cmもある板で囲われ、鉄砲からも守られる堅固なスペースだそうです。書庫とするにはもったいないスペースであり、他に戦術上の用途があったように思えます。
天井が高いため、階段には踊り場が設けられています。下の階段と踊り場から4階までの階段は斜度が異なり、踊り場までは45.5度、踊り場からは52度とより急な角度になっています。 -
大天守4階
4階に上がってまず感じるのは、大千鳥破風があるため、窓の位置が高すぎて外が見えないことです。また、4・5階は、身舎と武者走りの区別がなく、ひとつのオープンスペースになっています。 -
大天守4階 石打棚
周囲の壁には奇妙な台座が四方の窓に沿って設けられています。これらは「石打棚」と呼ばれる段付き台です。物見や射撃用の足場である他、棚の上に積み上げた石を攻め上ってくる敵兵向けて投げ落とす場所ともなります。 -
大天守4階 石打棚
天面は滑り落ちたりしないよう、枡形の形になっており、枠で囲まれています。台の下は、内室と呼ばれ、武者隠しや倉庫として使われていました。
別名「武者台」とも呼ばれ、窓の位置が予想より高くなってしまったことから、後付けで取り付けられたとも言われています。 -
大天守5階
最上階へ登る最後の階段です。
ここは4層目の屋根裏に当たり、南北の千鳥破風の窓が明かりとりになる狭く暗い空間です。大天守は外観は5層、内部は7階、その食い違い部分に当たります。敵は5階建と思って攻め登るも、実際は6階になっていて混乱を招くという仕掛けです。こうしたトリックは、城ではよく用いられたそうです。
畳を敷ける部屋だったので「大広間」と呼ばれ、籠城戦の指揮所を想定したのか広さは70畳程あるそうです。コーナー部すべてにL字型の入室が配され、倉庫と言うよりも武者隠しが主な用途と窺えます。
右側にある階段は下り専用で、混雑緩和のため近世になって設けられたものです。
東西の心柱は、いずれもこの天井まで貫通しています。 -
大天守最上階 刑部神社
今までの階とは全く異る意匠を呈し、天井が張られた東西7間(約12.6m)、南北5間(約9m)の空間です。天守閣というと、関ヶ原の戦いまでの天守閣で見られた廻縁高欄が巡らされた姿を想像しますが、姫路城はそれを室内に取り込み、周囲に設けた入側から一段高くし、書院造りの座敷仕様としています。現在はフローリングですが畳が敷かれていた時期もあったそうですので、城主が日常的に天守へ上がってきていたと窺えます。また、廻縁は、南側と東西側は広く、北側のみ狭くなっています。
刑部神社(長壁神社 おさかべじんじゃ)は、言わば姫路城の守護神です。
祭神は、第49代光仁天皇と皇后井上内親王の皇子 他戸(おさべ)親王と王女 冨姫の2柱を祀り、今から1150余年前に、国司角野氏によって祀られました。
姫路城が建てられる以前から姫山に祀られていた神社で、現在同名の神社が姫路市に3ヶ所あります。姫路城の搦手道に当たる「との一門」虎口の裏手には、長壁神社が元々あった場所を示す石碑が建っています。秀吉時代、築城のために一旦城外へ移築されましたが、刑部明神が祟って怪事を引き起こしたことから再び城内へ戻したそうです。
大天守には明治12年に祀られるようになり、城の守護神として、また火災・災厄除けに霊験あらたかとして人々の信仰が篤い神社です。 -
大天守最上階 竿縁天井
竿縁天井と言い、竿縁を一定間隔に並べた上に天井板を載せたものです。格式の高い部屋に用いられることが多く、通常、床の間に対して平行に付けられるので、刑部神社の収まりが良くなっています。
姫路城では、各小天守の最上階にも大天守と同じ竿縁天井が用いられているそうです。 -
大天守最上階 蟻壁
天井と蟻壁長押の間の壁には、横に細長く白漆喰が塗られています。これは「蟻壁」と言い、部屋の間延びした感じを引き締める書院造りでも格式の高い形式だそうです。
天井まで柱を延ばさず、縁を切って天井を浮かす視覚上の効果を狙っています。古くは室町時代の和様建築、東山殿東求堂(15世紀後半)に見られるそうです。姫路城では、備前丸の東側の入口に設けられた折廻櫓や西の丸の千姫所縁の化粧櫓でもこの意匠が見られます。 -
大天守最上階 舞良戸
上り階段付近に戸板が嵌められています。この戸板は、「舞良戸」と言い、細木を狭い間隔で横向きに入れた書院造で使われる建具です。元々は四面全てに舞良戸が嵌められていたそうです。 -
大天守最上階
敷居を見ると溝が3本あり、舞良戸で2本、残りは障子が入っていたと考えられます。舞良戸は、西の丸の化粧櫓にも使われています。
宮本武蔵は、1584(天正12)年に播磨で生まれ、二刀を用いることで知られた二天一流兵法の祖、また水墨画や工芸などの芸術家としても知られる謎多き伝説の剣豪です。
死の直前に熊本市近郊の金峰山 霊巌洞で執筆したとされる兵法書『五輪書』によると、13歳で初めて決闘して勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回全勝としています。関ヶ原の戦いでは、西軍に参加したと言われていますが、父の「新免無二」が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家文書が存在することから、父と共に豊前を領していた黒田官兵衛に従って東軍として九州で戦った可能性が高いとされています。
大坂の陣では豊臣方でなく徳川方に参陣し、その後、姫路城主「本多忠刻」と交渉を持ちながら活躍し、明石では町割(都市計画)を行い、姫路や明石等の城や寺院の作庭を行っています。 -
大天守最上階
最上階が特別な部屋であることを示すパーツが、釘隠です。地階から5階までの木製の黒い釘隠とは異なり、最上階では豪華な銅製六葉金鍍金の釘隠を使い、格式を高めています。 -
大天守最上階
大天守の屋根の天辺の標高が92mあるため、城下を俯瞰する気分も大名並みの満足感が得られます。
こちらは、西側にある西の丸の化粧櫓から伸びる百間廊下方面を俯瞰した光景です。 -
大天守最上階
中央にあるのが登城口の「菱の門」です。三国堀や「いの門」なども見下ろせます。
刑部神の由来は、古墳~飛鳥時代にかけての中央豪族の私有民である部民の一つ、刑部と考えられれています。こうした刑部の人々が祀る氏神が、本来の刑部神だったようです。そして、他戸親王との名称の類似から、いつしか姫山の刑部神と他戸親王の御霊信仰が結び付いたものとされています。
富姫は、井上内親王と他戸親王との母子の間に生まれた不義の子供と伝わり、都から播磨に彷徨い下って姫山に館を構えとされています。
こうした伝説はあくまでも近世の解釈であり、史実とは捉え難い面があります。ただし、井上内親王と他戸親王は実在の母子であり、この2人は772(宝亀3)年に光仁天皇を呪詛したとして皇后・皇太子の位を追われ、後に幽閉先の大和国で殺害されています。古代から中世にかけては、無実の罪で殺された者は怨霊となって祟るとされ、この母子も後に祟りがあったとして神として祀られることになりました。 -
大天守最上階
上山里丸にある「お菊井戸」です。
手前の案内板の所には外国人観光客が大勢いますが、ガイドさんはこの「お菊井戸」をどのように説明されているのか興味深い所です。
まさか、案内板の内容に毛の生えた説明で茶を濁すようなことはなされていませんよね!? -
大天守最上階
鯱は、頭が虎のごとく、尾ひれがトゲのごとくで、よく鯨を倒し、波を起こし、雨を降らせるという想像上の海魚です。鯱瓦はこれを鉾のように逆立てているため鯱鉾とも言います。
火を見ると口から水を吐くとされ、火災除けのまじないとして屋根に置かれています。本来は口を開けているものと閉じているものが狛犬の「阿吽」のように一対になっているはずですが、姫路城大天守の11尾の鯱は全て口を閉じています。因みに口を閉じた鯱は、「雌」とも言われます。
これは、昭和の大修理の際、鯱瓦の損傷が激しかったため、西側大千鳥破風に掲げられていた貞享4年銘(1687年)の鯱瓦を見本にし、全てを同じ形で修復したためです。平成の大修理では最上層の鯱瓦が新調されましたが、これも貞享の鯱瓦の形状を模して口を閉じています。 -
大天守最上階
南側にあるJR姫路駅に伸びる大手町通りです。
本多輝政にとり付いた妖怪伝説を紹介しておきましょう。
姫路城の竣工直後から、輝政は様々な「妖怪」に悩まされていました。悪鬼や山伏、一丈を超える大入道などが夜な夜な輝政の枕元に姿を見せ、奥女中の処にも現れ、誰もいないはずの天守最上階に灯りが点ったり、時には大勢の泣きわめく声が聞こえてくるのです。さらに、城内から輝政に宛てた数十枚もの手紙が発見され、そこには「輝政と夫人に天狗が憑りついて呪いをかけようとしている。この呪いを解くには、城の鬼門に八天塔を建てて大八天神を祀れ」とありました。しかし話が荒唐無稽すぎたため、無視していましたが、いっこうに妖怪騒ぎは収まらず、築城のために移された刑部神社の祟りだとも噂されるようになったのです。秀吉が築城する折、姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂しました。輝政は刑部神社を城内の「とノ三門」に祀りましたが、ついに重病に臥します。そこで今度は、呪いの手紙に書かれた通りに円満寺の明覚上人を招いて呪文を解く護摩祈祷を行い、手紙通りに八天塔を刑部神社の横に建てると輝政の病状は回復し、妖怪騒ぎも収まりました。
しかしその喜びもつかの間、その2年後に輝政はあっけなく亡くなり、その子供たちも次々に若死していきました。その結果、「やはり、刑部大神の祟りに違いない」と噂はその後も消えなかったのです。 -
大天守最上階
周囲を取り巻く廻縁の天井には、竿縁がありません。
また、右手の柱の上部には、舟形の肘木(ひじき)「舟肘木」が設けられています。舟肘木は、桁と柱の間に挿入することで接地面積が増えて屋根や小屋組の荷重を軽減する役割を持ち、他の階では見られない様式です。 -
大天守最上階
天守閣の窓の端には幻の窓があったそうです。現在は南北面に各5つ、東西面に各3つの窓が並びますが、どの面も窓の両端は壁です。ところが平成の修理で土壁を撤去したところ、中から計8つの窓枠が発見されたそうです。調査の結果、築城当時に造られたものと判明したそうです。旧窓跡に嵌められた板は、硬い椋の木の一枚板で、5~6cmの厚みがあるそうです。建設途中までは4方向、全ての端まで窓を配し、死角をなくして城下を360度のパノラマで俯瞰できる計画だったようです。
建設途中に窓の数が減らされた理由は定かではありませんが、構造補強や暴風雨、防弾対策などが考えられます。
塞がれた窓の所に四角く凹んだ箇所が見られます。設計変更で付けられた鉄砲狭間です。また、窓の下にも同じように四角形に凹んだ箇所がありますが、それも鉄砲狭間です。普段は塞がれ、戦闘時に破って使用する「隠し狭間」といわれるタイプです。 -
大天守最上階 埋め木
材木の「死に節」や「抜け節」、「割れ節」に寸分違わぬ大きさと形をした別の板を嵌め込んだ埋め木が至る所で見られます。
築城に携わった大工たちが気晴らしに施したのでしょうか?
由緒正しい国宝に、こんな遊び心が隠されていたとは…。 -
大天守最上階 埋め木
北側の廻廊の下り階段の正面右側にある、星と京茄子(?)の埋め木です。
梁も斜めにカットされているのが判ります。
降り口に当たり、かつ廻縁が狭くなった所ですので大渋滞になります。進行の流れを阻害しないように手早くシャッターを押してください。 -
大天守5階 切り込み番付
見学順路があり、同じ階でも往路・復路で見られる箇所が違いますので注意してください。見逃したらスタートからやり直しですので…。
千鳥破風内の梁には、建築時にどの材がどこに使われるのかを記した文字や絵柄が書かれた「切り込み番付」が見られます。「六中め南通ちどりむね」と彫られています。大天守地階が「一中め」ですから、この「六中め」とは5階を表わしています。
同じ模様同士を継ぎ合わせるといった具合に目印として使われたそうですが、諸説あるそうです。 -
大天守4階
四方の窓に沿って設けられた「石打棚」を見下ろした様子です。 -
大天守3階
四隅には上下2層の武者隠しが設けられています。上層は人ひとりがかろうじて入れる程の狭いスペースで、外部へ向けた鉄砲狭間から攻撃することができ、また、天守へ侵攻した敵を隠れて狙撃することもできます。
下方にある隠し狭間のある所が下層の武者隠しです。 -
大天守3階
左手に石打棚がありますが、その階段の所に下層の武者隠しへ潜るための扉が見られます。 -
大天守3階
コーナー部分には、筋交柱が見られます。荷重負担の比較的大きな1~3階に設けられ、5700トンもの大天守の耐久性と耐震性を高めています。筋交柱1本でも建物の四隅にかかる応力をかなり緩和できるそうです。筋交柱は、近代建築では当たり前のように採用されていますが、この時代の建築では稀で貴重なものだそうです。
因みに5700トンは、梅田スカイビル空中庭園部分や赤坂プリンスホテル旧館などの重量に等しいそうです。 -
大天守3階
こちらのコーナーにも筋交柱が見られます。
正面にある隠し狭間の上にある窓は「高窓」と言い、火縄銃の煙を排気する機能を果たすそうです。 -
大天守2階
格子窓は八角形に加工されており、広い角度で鉄砲を撃つことができます。また、窓の下にも、鉄砲狭間があります。大天守だけで約180個の銃眼があるそうです。
格子窓の格子は、八角形の木材に漆喰を塗っただけでなく、その木材を鉄板で覆っています。防火と防備を意識した造りになっており、ノコギリも受け付けません。大天守の壁には鉄板は入れられていないようですが、木材の上に砂漆喰約3cm、白漆喰約4cmを塗って厚みを持たせているため、鉄砲の弾を通さないそうです。 -
大天守2階
窓の下側の桟に当たる部分に小さな丸い穴が開けられており、内側にパイプが通してあります。これは、桟に溜まる雨水を抜くためのパイプです。
この仕組み自体は造営当時からのスタイルだそうです。建築物を雨による劣化から如何に守るかというのは、城の維持管理にとって大きな課題だったのです。 -
大天守1階
柱の元にある木箱のようなものは、平成の大修理で追加された耐震補強材を覆っています。
余談ですが、大天守は「地階から2階」と「3階」「4階」「5階と6階」の4ブロックで構成されています。建築方法は、まず「地階から2階」まで通し柱を立て、下部ブロックとなる巨大な直方体の「3階建ての箱」を組み立てます。次に3階にこれより小さい箱を、4階にはさらに小さい箱を乗せ、最後に5階と6階部分に下部ブロックと同じような通し柱を立てた「2階建ての箱」を組み上げます。
各ブロックは井桁の上に櫓を組んだ頑丈な造りですが、縦の柱の位置は一定でないため横揺れに対しては弱い構造です。それを補うのが、地階から6階の床部分まで中央部を貫く東西2本の「心柱」です。各ブロックを心柱側に固く絞り込まれるように組み上げて強度を増すと共に、横揺れを防ぐ構造です。 -
大天守1階
箱の内部は、このようになっています。
この写真は鹿島建設のHPから借用させていただきました。
http://www.kajima.co.jp/tech/himeji_castle/progress/restoration_2/index-j.html -
大天守1階
蓋付きの石落しです。 -
大天守1階 武者走り
-
大天守地下1階 流し台
明り取りの窓がないため、行灯の灯りだけが頼りの暗い空間です。
石垣に囲まれているため、外部からは地下階があることは判りません。また、流れ弾さえ飛んでこない安全地帯と言えます。城に地下階がある場合は主に倉庫として使われるのが一般的ですが、姫路城には「流し台」や6つの「厠」が設けられています。「厠」が残存するのは姫路城だけだそうです。
厠は看板が立てられているだけで内部は見ることができません。あくまでも籠城などの非常用であり、台所櫓へ通じる扉もあるため、地下階を臨戦時に活用する目的があったことは確かです。百戦錬磨の戦国大名 輝政らしい籠城戦への備えです。因みに、実際に使用された痕跡はなく、400年以上誰も使わなかった厠です。 -
大天守地下1階 流し台
ここにも鉄板鋲打ちの重厚な扉があります。
台所櫓に通じる扉ですが、それにしても厳重です。 -
備前丸
5層7階、総重量5700トン、石垣の高さ15m、建物の高31.5mの威風堂々たる大天守を見上げます。
複雑に幾重にも重なる屋根や千鳥破風や唐破風、白漆喰総塗籠の壁など、白鷺が雛を守るようにも、また、美しい姫が侍女を従えたようにも見える姫路城の天守群の変化に富んだ外観が構成美を魅せています。
大天守を取り囲むように東小天守、乾小天守、西小天守の3層の小天守が配置され、それぞれが二重のイ、ロ、ハ、ニの渡櫓で繋がる連立式天守をなし、本丸内は独立した天守曲輪を四方から守る堅固な防御になっています。これは城の北腰曲輪を守り、天守が直接攻撃されることを防御するための軍事戦略でもあります。
天守台は、ここに建っていた秀吉が築城した3層4階の天守を解体し、同じ場所に一回り大きい石垣を積み直して池田輝政が築いたものです。昭和の大修理の折、コンクリートの地盤を埋め込むために天守台を掘ったところ、地中から秀吉時代の天守台が発掘されています。
尚、大天守の石垣の裾野部分だけが黒ずんでいるのは、その部分には常に雨が当たり、長い歳月によって雨に含まれた酸やゴミによって変色しているようです。酸性雨の影響がこんな所にも顕著に現れていることが判ります。 -
備前丸
姫路城には、「傾き柱の伝説」が残されています。
池田輝政は、姫路城の建造を大工の棟梁 桜井源兵衛に命じました。彼は持てる限りの力を尽くし、最高傑作を造り上げるために8年という歳月をかけて見事完成させました。しかし、漸く完成した城郭を見て源兵衛はどこか違和感を覚えました。実は作業中も城が傾いているような気がしてならなかったのです。猜疑心に駆られながらも、生涯一度として任されることのない大役だから神経質になっているんだと自らを慰めていました。
源兵衛は自分の最高傑作を妻に見てもらいたいと思い、夫婦揃って特別に天守閣に登ってその様子を見ることになりました。妻は夫の作品を誇りに思い、その感慨深い感情を吐露したのでした。「とても素晴らしいお城です。ですが、少し傾いて見えるのですが…」。その言葉を聞き、源兵衛は現実に打ちのめされました。素人の目にも傾きが判るようでは、自分の設計に誤りがあったに違いない。そう思った源兵衛は自らの大工道具である八分ノミを口にくわえ、天守閣から飛び降りたと伝わっています。命を賭して姫路城を造り上げた棟梁が迎えた壮絶な最期でした。
実際、昭和の解体大修理の際に行われた測定では天守は東南に44cm沈んでいることが確かめられ、真っ直ぐに建て直されています。しかし、これは姫路城を支える心柱の礎石の地盤が経時的に沈下したための不可抗力であり、源兵衛の設計に誤りがあった訳ではありませんでした。
地盤沈下による傾きは築後80年頃から目立ち始め、「東に傾く姫路のお城、花のお江戸を恋しがる」という唄の文句にもなっていたそうですが、創建当時から傾いていたというのは工法的にあり得ませんので、伝説と言うより他ないようです。
綺麗過ぎるお城ですから、こうした未完成部分を残しておかないと崩壊してしまうかもしれないのです。昭和の大修理が吉とでるのか凶とでるのか…。 -
備前丸
大天守の格子窓で注目すべきは、2層の正面にある窓です。柱間(柱と柱の間)の数から、窓の配置が左右対称になっていません。外観が美しくないため、それを隠すために中央の柱間5間分を格子の出窓で覆い、他の階と同じように窓の配置を左右対称に見せています。また、そのままだと不格好なため、その上に大きな軒唐破風を設けたそうです。しかしその出窓の下面には石落としが設けられ、真下の敵をしたたかに攻撃する機能を備えているのも注目したいところです。
これは一例ですが、姫路城には場当たり的に造られた部分が随所に見られるそうです。普通なら破綻をきたすはずですが、逆説的にそれをこれほどまでに見事にまとめた大天守ということも誉れ高い所なのです。 -
備前門
大天守に向かって右手に開く櫓門が備前門です。本丸に当たる備前丸への入口の門であるため「備前門」と呼ばれますが、江戸時代には「東入口門」と味も素っ気もない名だったそうです。
1882(明治15)年の火災で他の備前丸の建物と共に階上の渡櫓の部分が焼失し、長らく門だけが棟門のような形で残されていたそうですが、1963(昭和38)年の解体修理の際に元の姿に復元されました。
池田氏が城主だった時代には備前丸に城主の居館があったため、この門には厳重な防御体制が施されています。門扉だけでなく、柱や梁も鉄板で覆われています。また、平時にはこの門が居館の勝手口的な役割をしていたそうです。
ところで播磨なのに何故備前丸と呼ぶのでしょうか?池田輝政の次男 忠継が備前国を与えられた時、まだ幼少であったため、暫くここにあった居館に住んでいことが由来とされています。忠継はその後、藩主として備前岡山城に入封しています。 -
備前門
門を潜って振り返って見ていただきたいのは、右側の鏡柱のすぐ脇にある石垣の大きな縦長の石です。くり抜かれた部分が内側に隠されているため判り難いのですが、これは古代の石棺を転用した石垣です。このように姫路城の石垣には31個もの石棺が転用されているそうです。
棺をむやみに石垣に使うのは祟りが気になるところですが、形は四角に加工され、石垣に取り込み易かったことは確かです。この備前門の石棺については、埋葬されていた人のパワーを取り込んで城を守るといった呪術的な意味合いもあるそうですから吃驚です。
石が縦に置かれバランスが悪そうですが、これにも意味があります。金沢城の石垣を手がけた後藤家の秘伝書には、「横に置いた石は陰、縦の石は陽」という記述があります。往時は、全ての物事に陰と陽の性質があり、両方を合わせることで完全になると考えられていました。
因みに、手前の石垣の右端、一番下も石棺の転用石です。 -
帯の櫓
帯の櫓は、特徴的な形をしています。城内側に壁も扉もないのは、井郭櫓と並んで珍しい形式です。戦闘時に使うための櫓ですが、内部には茶室があったりして何気に雅な櫓です。
また、2階建てですが、実は1階部分は腰の当たりまで石垣に覆われており、半地下のような形になっています。それで、その石垣の上の狭間から射撃をするために石打棚という棚を設けています。まるで現代のロフトのような空間を巧みに使った構造です。2階も同様に狭間が開けられており、城外から見ると狭間が上下2段に並んでいます。 -
帯の櫓
現在は立ち入れませんが、「腹切丸」へと向かう虎口も地下道になっており、帯の櫓の下を潜り抜けます。
因みに、このトンネルも埋門の一種です。 -
帯曲輪
1966年、英国映画『007は二度死ぬ』のロケがこの曲輪で行われました。映画の内容は、丹波哲郎率いる日本の公安当局とショーン・コネリーが演じるジェームス・ボンドが協力し、日本で国際的な悪の組織を退治するという荒唐無稽なストーリーです。日本でのロケがふんだんに盛り込まれた「007」シリーズということで世界的に話題になりました。
因みに姫路城での撮影シーンは、公安の秘密部隊が忍者であり、その養成機関が城の中にあって日夜密かに訓練をしており、それをボンドが視察に来るという設定でした。
その撮影場所として選ばれたのが、「へノ櫓(太鼓櫓)」へと続く土塀と石垣の間の帯曲輪でした。姫路城側は「石垣に向かって手裏剣を投げるのなら撮影を許可する。投げた手裏剣が的を外れる恐れがあるので、塀側に向かって投げるのは厳禁」と釘を刺したそうです。ところが撮影が始まると、監督はあろうことか塀側に向かって投げるよう指示したのです。案の定、幾つかの手裏剣が的を外して国宝の塀を傷付け、塀の修理費用を映画会社が全額負担することで決着したようです。「映画のロケ地として有名にしてやる」や「お金を払って修復するからいいじゃない」といった「007」なら何をしてもOKといった傲慢な態度で、他国の文化財を守ろうという意識が希薄だったのでしょう。修復は次善の策でしかありません。 -
腹切丸
狭間から覗くとかの有名な「腹切丸」が見られます。公式名は「井戸曲輪」と言い、曲輪の中央に鎮座するこの井戸に由来します。
さすがに今では、ここで切腹が行われたとか、切腹する場所として作られた曲輪などと説明するガイドさんはいませんが、未だに「櫓の一階に設えられた石打棚が検死役人の座、下の板場が切腹場、前にある井戸の水で首を洗うように見えたのでそう考えられた」と説明される方も多いようです。逃場のない閉ざされた空間であることも、「切腹」のイメージを膨らませたのかもしれません。実際には姫路城が大正元年に姫路市に払い下げられ、一般公開するに当たって作り上げられた「姫路城おもしろエピソード」のひとつだそうです。
切腹丸の見所は狭間から見て正面にある塀の控え塀です。実は、姫路城は塀の造り方においても日本の城の中ではマイナーな存在だそうです。
普通、土塀はまず木を等間隔に立ち並べて主柱とし、その間を竹を編んだ小舞で結び、そこに土壁を塗り重ねて仕上げます。また、城内側に木製や石製の控え柱を立てて補強します。しかしここ姫路城の土塀の造り方は、あらかじめ山土で作った30cm角ほどのブロックを積み上げ、仕上げに漆喰を塗ります。同じ工法の塀は備中松山城にも例がありますが、全国的に珍しいものです。一般的な塀に比べて頑丈で耐久性もあり、姫路城の土塀はほとんどこの工法で造られており、控え柱もありません。
ところが、ここ井戸曲輪の短い塀と「るノ門跡」に近い三国堀に面した塀の2か所だけには控え塀が設けられています。敵兵が取りついて引き倒しを図るような場所でもなく、何故こうした所に特別に控え塀を設けているのか積年の謎だそうです。
一説には、この上に板を渡して応急の石打棚を作ってそこから射撃をすると言う推論もあるのですが、それをすれば射撃手は敵に身を晒すことになり、現実的ではないと思います。 -
太鼓櫓(への櫓)
正面にあるのが太鼓櫓です。
ここで時を告げる太鼓が鳴らされていたことから太鼓櫓と呼ばれています。
太鼓櫓の下に伸びる石垣は城内でも有数の20mの高さを誇る高石垣です。因みに城内で最も高い石垣は、東曲輪内にある23mのものです。 -
りノ門
帯曲輪と門外に広がる上山里丸を繋ぐ、最も狭まった部分を押さえる門です。小さな高麗門ですのでさほどの守備力や攻撃力があるようには見えませんが、隣接する太鼓櫓と一緒になって要衝をしっかりと締めています。
この門は、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが裏付けられています。それは、この門の解体修理で軒天井板の裏面から「慶長四ねん 大工五人」の墨書きが発見されたからです。慶長4年と言えば秀吉の死の翌年、関ヶ原の戦いの前年に当たります。時の城主は北の政所ねねの兄の木下家定でした。ですから、この時代に家定がこの「りノ門」をはじめ姫路城の各所を改めて整備したものと考えられています。そして、関ヶ原の戦いの後姫路城に入った池田輝政は、この「りノ門」や隣接する備前丸の石垣などの要所を木下時代のものをそのまま生かしながら縄張りしたことが窺えます。 -
お菊井戸
「りノ門」を潜った先が上山里丸です。
「姫路城三大おもしろエピソード」のフィナーレは、『播州皿屋敷』の「お菊井戸」です。現在の姫路城を築城した池田輝政の名は知らなくても「お菊さん」は誰もが知っているため、観光客は恐る恐る井戸の中を覗き込みます。
これほど多くの方に覗きこまれる井戸も少ないため、もし落ちても大丈夫なようにと親切心から金網が張られています。否、お菊さんが外に出てこられないように!?
姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てるも、忠臣 衣笠元信が事前に察知し、妾のお菊を鉄山の家に女中として潜り込ませ、その手柄によって陰謀を阻止したという話です。しかし、お菊はその後スパイである事に気付かれ、彼女が預かる家宝「こもがえのぐそく皿(=毒消しの皿)」の10枚のうちの1枚を隠され、因縁を付けられて責め殺され、井戸に投げ込まれました。それ以後、この井戸の底から「1枚、2枚…」と皿を数える声が聞こえるようになったとの由。 -
お菊井戸
このパターンの話は、東京では四谷怪談『番町皿屋敷』として有名ですが、全国津々浦々48ヶ所に同じような怪談があるそうです。『播州皿屋敷』は江戸時代から語り継がれ、往時は城の東側にある県立姫路東高校の敷地にあった井戸が舞台だったそうです。また、皿屋敷には、新しい城主が入ってきて城下の町割りを変えるたびにそれまでの住民が屋敷を更(さら)にして召し上げられるため、下々が時の為政者への恨みを込めた「更屋敷」伝説だとの見方もあるようです。恐ろしくも悲哀を誘う物語ですが、井戸の底には観光客が投げ入れた埋蔵金(お賽銭)が沢山眠っているそうです。さすれば、この金網は賽銭泥棒除けなのかも???
また、この井戸は元は「釣瓶取井戸」と呼ばれ、備前丸の御殿や大天守に近いことから、抜け穴伝説も根強く残されています。機密を守るために人が近付かないように故意に怪談を流布したとも言われています。
確かに奥の方に横穴らしきものが見られます。しかし、以前TV番組で調査が行われましたが、竪穴の途中に横穴はあるものの、その先は岩盤で遮られ、結局抜け穴は発見できなかったようです。
火の無い所に煙は立ちませんので、全国の何処かに本物の『皿屋敷』があるのかも知れません。伝説というのはミステリーのままそっとしておくのが良いのかも知れません。 -
ぬノ門
上山里丸の西の要「ぬノ門」です。左手は工事中の「リの一渡櫓」です。
春に来た時も工事中でしたが、何時まで工事が続くのでしょうか?
三の丸からお城を見上げた時にとても目立つ場所ですので、早くシートが外されるのを期待したいと思います。 -
リの一渡櫓(改修工事中)
上山里曲輪の西端にある「リの一渡櫓」には、3代の鯱瓦が展示されています。4代目明治時代(1910年)、5代目昭和時代、そして6代目平成年代と変遷の様子が見られます。現存最古の1687(貞享4)年の江戸時代ものは、書写山圓教寺の食堂で見られます。
こうしたものはオリジナルの意匠を参考に似せて作られるものだと信じて疑わなかったのですが、よく見ると牙や耳、エラなどデザインが異なり、新しくなる度に味わいが薄れているように思えます。デザインが変わっているのは技術が向上して大きな釜で焼けるようになったことと制作者の嗜好によるそうですが、復元なのに何故オリジナルのデザインを踏襲しないのか腑に落ちません。ましてや国宝であり、世界遺産でもある建物ですから…。
また、阿吽(=雌雄)の鯱瓦に替えるという提案には、「確実な資料がないものを想像では作らない。それが文化財の原則」と論破したことと矛盾しているような…。次回の改修では、後世のために江戸時代バージョンに戻すことを提案したいと思います。
因みに鯱を最初に天守に導入したのは、織田信長の安土城だそうです。総金箔貼だったそうで、まさに信長の城に相応しい棟飾りと言えます。 -
ぬノ門
「にノ門」と並ぶ姫路城随一の鉄壁の守りの3層の櫓門です。渡櫓門の部分は2層ですが、非常に珍しい遺構だそうです。輝政時代は、備前丸の御殿に賓客を迎える際や城主が日常的に本丸に出入りする場合はこの門を使っていたそうです。こうした3層の櫓門は金沢城や彦根城や津山城、伊予松山城にもありましたが、現存するのは姫路城のこの門だけだそうです。
門の扉や柱、冠木などは黒鉄板で覆われています。この門の金具をはじめ、姫路城に使われた金具は、播磨の鍛冶師で有名な「芥田五郎右衛門」が一族と共に鍛えたものです。今も近くに五郎右衛門邸とか鍛治町、金屋町という町名がその名残りをとどめています。 -
扇の勾配
「ぬノ門」を背にして正面に高く聳える石垣が備前丸のものです。この石垣の角の稜線が「扇の勾配」の説明に使われます。上にいくほど反り返るようなプロフィールが、開いた扇の曲線に似ることからこの名が付けられています。
また、このナイフ・エッジのような石垣は、長方形の石の長辺と短辺を交互に積み重ねた「算木積み」です。石垣が内部からの圧力で前方に膨らむのを抑え、荷重を分散させる積み方です。この技術の開発により、石垣を飛躍的に高く積むことができるようになりました。この辺りの石垣は池田輝政の慶長年間の普請とされており、この時代にはすでに石垣作りの技術がここまで進化していたことが窺えます。 -
扇の勾配
南面石垣の中央にある石には刻印が打たれています。このような刻印は城内のあちらこちらで見られるようです。 -
ぬノ門 鏡石
枡形空間の正面、門を背にして右手の石垣に注目してください。石垣から顔が浮かび上がってきませんか?
大きな2つの目玉に太い鼻の巨大な顔がこちらを睨んでいます。これは偶然の産物ではありません。元々城郭の石垣は、重要な場所に鏡石と言われる巨大な石を選んで配置しています。有名なのは大阪城の「蛸石」と呼ばれるタコの形のシミが入った石や名古屋城の「清正石」と呼ばれる、本当は黒田長政が積んだ気の毒な石です。これらは、築城者の威厳や経済力、技術力を見せつけるために意図的に目立つ場所に積まれたものですが、一方では呪術的な意味もあり、城内に入り込もうとする邪気を人智を超えた大きな鑑石でブロックし、跳ね返すものです。
後藤家の秘伝書には、石垣を積むための注意事項が和歌の形で記されています。「鏡石、ところを知りて築くべし必ず神もいます、とぞ知れ」。歌はそこに神が宿ると言い、神の力を借りて城を守るという意味があります。この人面に見える石群、通称「人面石」も呪術的な意味を持たせたというのが専門家の見解です。このような複数の石による鏡石は珍しく、分かりやすい石組みでもあって稀有な事例のようです。それにしても、やはり石工のユーモアのセンスや遊び心を感じさせます。
因みに顔の左側には「ハート石」もあります。見つけられますか?
白いコートを着た女性の頭の上です。スマホの待ち受けにすると良いことがあるという話が広まり、ちょっとした人気スポットにもなっています。 -
三国堀の土塀
腹切丸にある土塀と同じように控え塀が設けられています。
ところで、この土塀に不自然さを覚えませんか?
塀そのものではなく、そこに開けられている狭間の高さです。狭間は銃眼ですから、当然射撃手が撃ち易い高さに設置されるものです。通常、弓は立って射るので矢狭間は地面から75cm程の高さ、銃は片膝を着いて撃つため地面から45cm程の高さに開けられます。ところが、ここの狭間の高さはどれも地面すれすれの高さです。これでは腹這いになって撃ってもまだ低すぎます。
この理由は、後世に土が盛られ、地面の高さが上がったからだそうです。
因みにこの塀の向こうには、三国堀があります。 -
をノ門跡
この石垣の特徴は、石が端整な四角形に加工されていることです。秀吉時代の野面積みの石垣はもちろんのこと、輝政時代の打ち込みハギの石垣とも違い、整然とした形の石が積み上げられています。石の表面を削り、四角く丁寧に加工していることが窺えます。これは後の時代に切り込みハギと呼ばれる石積み工法ですが、この石垣が作られたのは輝政の時代です。何故かこの小さな場所にだけ、石工が腕によりをかけて時代に先駆けた技術で石垣を積んだということです。
因みに城内で切り込みハギの石垣が見られるのは、ここと武蔵野御殿の庭石だけです。武蔵野御殿のものは明らかに「見せるため」の石垣ですが、ここは戦いの場ですから、何故ここだけ手の込んだ加工をしたのか謎を呼んでいます。
「をノ門」とその横にあった「リの櫓」は、明治時代に火災で焼失したそうです。 -
西の丸 南門跡
スタート地点の「菱の門」まで戻ってきました。
ここから「菱の門」に向かって右手にある坂を上って西の丸へ進みます。
男の子が立っている場所に南門が建てられていたそうです。 -
西の丸 南門跡
かつては番所付きの高麗門が建ち、坂道の真ん中に40cm角の正方形の礎石(束石)が残されています。坂道の西端にもいくつかの礎石が見られます。 -
西の丸 南門跡
坂の途中から振り返ると「武者隠し」が設けられています。「いノ門」を目がけて突進した敵を後方から攻撃する部隊が駐屯する場所です。敵を欺くために狭間は開けられていませんが、土塀の高さが腰高となっており、上から見渡すことができます。
さて、「菱の門」の西面ですが、「素木造りの木連格子になっており、破風や懸魚も木地を露出させています。西面をよく目にするのは西の丸に滞在することが多かった千姫です。夫忠刻や家中の者たちが、大坂落城という大きな悲劇の後で本多家に再嫁してきた千姫の心をいたわり、和ませたかったのではという解釈もあるそうです」と解説されているのですが、現在は白漆喰で真っ白の状態です。痛みが激しいからでしょうか? -
西の丸 かノ櫓
鬼門は、古来より鬼が入ってくるとされる方角を言い、北東の方角を指します。城郭には様々な鬼除け、魔除けの工夫が凝らされていますが、その中に裏鬼門があります。裏鬼門とは、鬼門の正反対、すなわち南西の方角を指し、鬼門に次ぐ縁起の悪い方角です。そして、このかノ櫓が天守から見て裏鬼門に当たります。
ここの裏鬼門封じの工夫は、櫓に桃の紋の鬼瓦を配しています。桃は古来より霊力のある果物と信じられ、桃太郎もその象徴とされています。その桃の紋が入った鬼瓦をかノ櫓の1階の屋根の北東角、すなわち池田家御殿と向き合う位置に設けて鬼に対して睨みを利かせています。残念ながら城内側からは見ることはできませんが、実は鬼門の方角にも同じ桃の鬼瓦が設けられています。北腰曲輪の一番東隅、現在へノ渡櫓と呼ばれる多門櫓の天守に向かい合った側の鬼瓦がそれです。現在は立ち入れませんが、立ち入れるようになったら眺めてみてください。 -
西の丸 わノ櫓
2層2階の隅櫓です。
ここが百間廊下への入口になります。 -
西の丸
ここから天守群を見ると、松の木の緑と天守の白が素晴らしいコントラストを描いています。テレビドラマのオープニング映像などにもよく使われる、城内随一のビュースポットです。
昭和の修理の際、地下から古い石垣の遺構などが出土したことから、本多忠政が西の丸を整備する以前から何らかの城郭の構造物があったことは間違いないようです。しかし、ここに本格的な御殿を建て、西の丸としたのは本多忠政です。忠政は、徳川家康が最も信頼を寄せた徳川四天王のひとりで、勇猛でならした本多忠勝の嫡子です。池田家3代目 光政が幼少を理由に姫路から鳥取に国替えになった後、1617(元和3)年に伊勢桑名藩から入封しました。忠政は入城後すぐに鷺山の造成と周囲の多門櫓の建造に着手し、併せて前年祝言を挙げた忠刻と千姫のための御殿「中書丸」を建造しました。化粧櫓や御殿の造営資金には、千姫の化粧料10万石が当てられました。姫路藩の所領の石高は15万石ですから、如何に多額の資金だったかが判ります。これは、大坂夏の陣で秀頼と引き裂かれて心に深い傷を負った愛娘 千姫が再婚相手の忠刻と共に姫路城で穏やかな第2の人生を送れるようにと将軍秀忠が舅の忠政に託したものです。その意を汲んだ忠政は、この地に若夫婦のための上屋敷を建てると共に、三の丸の一角に武蔵野御殿という千姫のための下屋敷まで建てて彼女の心を癒そうと努めたようです。 -
西の丸
平成の修理ではいつくかの発見がありました。そのひとつが、池田氏の家紋の揚羽蝶紋が逆さになった掛丸瓦です。大天守最上層の切妻屋根の南側と、2重目から3重目に掛かる大千鳥破風の北側の2箇所で発見されています。この掛丸瓦は、昭和の大修理時に取り付けられた瓦ですが、その理由は謎に包まれたままだそうです。
こうしたものは日光東照宮の陽明門でも見られ、12本ある柱のうち1本だけが彫刻の模様が逆向きになって建て込まれています。「魔除けの逆柱」と呼ばれ、「完成と同時に崩壊が始まる」との故事を逆手にとり、わざと柱を未完成の状態にすることによって、災いを避けようという発想のものです。
昭和の大修理に携わった瓦職人が、それを知った上で大天守の末永い安泰を願い、意図的に「逆さ揚羽」にしたということなのでしょうか? -
西の丸
百間廊下への入口から伸びる白壁にある黒格子窓の上方に注目してください。L字型の釘らしきものが壁から突き出しています。これも姫路城の長い戦いの歴史の1ページを物語る遺産のひとつです。と言っても、第二次世界大戦時の話です。
この釘は、空襲から姫路城を守るために被せた黒い擬装網に打ち付けられたものです。大天守については開戦初期の昭和17年に完成し、他の建物も翌年に全て覆い尽くされました。これで米軍の爆撃機の目をくらませようとしたのです。築城時の姿を今も留めていることから、この擬装網が奏功したのでしょうか?それとも空襲がなかったのでしょうか?答えはいずれもNoです。姫路は、昭和20年6月22日と7月3日の深夜から4日未明にかけての2度に亘り空襲を受け、特に後者では米軍爆撃機B-29約100機による無差別爆撃が行われ、甚大な被害を蒙っています。
では姫路城が焼け落ちなかった理由は何だったのでしょう?未だに「米軍が文化財を破壊を回避した」とのGHQが流布した都市伝説を信じる方も多いのですが、これは伝説以外の何者でもありません。よく知られるのは「京都への空襲を避けた」との件ですが、広島、長崎に続く第3の原爆投下目標地点が京都だったのは周知の事実です。無論、姫路城への攻撃を回避する発想は毛頭なく、大天守の南800mを中心に半径1220mの範囲を焼き尽くす計画でした。実際、現在の三の丸公園には鷺城中学校がありましたが、空襲で全焼しています。
昭和20年の米軍の爆撃目的は日本人の戦争継続意欲を削ぐことにあり、民間人居住エリアへの夜間無差別焼夷攻撃が中心でした。従って、夜間に上空2000mから爆弾を落すのに標的が肉眼で見えるはずもなく、レーダに頼って決められた地点に爆弾を投下したに過ぎません。ですから、擬装網は何の役にも立ちませんでした。それどころか、焼夷弾1発が大天守を直撃し、屋根を突き破って6階の床に突き刺さっていたそうです。ラッキーにもそれは不発弾で、すぐに除去されたためことなきを得ています。もし不発弾でなければ、また担ぎ出す途中で爆発していれば、姫路城は影も形もなかったはずです。幾つもの偶然と奇跡が姫路城を戦禍から守ったのです。ですから、焼けなかった理由は、刑部大明神の霊験としか説明のしようがないそうです。それにしても、悪夢の空襲の夜が明け、灰燼に化した姫路の街にいつもと変わらぬ姫路城の孤高の雄姿を見た時、市民の感慨はいかばかりだったことでしょう。市民に大きな勇気と生きる力を与えたのではないでしょうか…。 -
西の丸 わノ櫓
いきなり急な石段を上がります。
スリッパもありませんが、石段には板が敷かれています。 -
西の丸 百間廊下
格子窓からは紅葉した西側の景色が良く見通せます。 -
西の丸 百間廊下 石落し
蓋付きの石落しがあります。石落しという名前から、多くの書物や城の案内板にも「ここから石を落して敵を撃退する」などと書かれていますが、これは間違いだそうです。石落しの多くは石垣の隅部やここのように建物の壁や塀に取り付けられていますが、その間隔は疎らです。上から石が落ちてくるならば、その真下を避けて石垣を登ればよく、何の効果も期待できません。そもそも、こんな狭い隙間から落せる石の大きさは握り拳程が関の山であり、そんな石に威力は期待できません。また、煮えたぎった油や糞尿を撒いたとも言われますが、これは江戸時代に書かれた「軍学書」にそうありますが、実はこれは南北朝時代の楠木正成の戦いぶりを太平記などの軍記物が面白おかしく書いたもので事実ではないようです。
では本来の石落しの用途は何かと言うと、ここから鉄砲で石垣に取り付いた敵を狙撃するための銃眼です。つまり下方に向けられた狭間です。当時の銃は下を向けたら弾が転がり落ちると心配される方もいますが、弾は銃内部で留まるようにできていたそうです。 -
西の丸 百間廊下
窓には太い縦格子が入っていますが、この格子は八角形の断面をしています。これは、この窓からも敵を射撃するためで、八角形にしておくと四角形より鉄砲を左右広角に狙える利点があります。また、漆喰で塗り籠められているため判り難いのですが、格子の内部は八角形の断面を持つ木柱を鉄板で四面または八面を覆ってから塗り籠めしているそうです。窓に取りついた敵が簡単に刃物で格子を破らないようにするためです。女の園とは言え、有事には戦闘態勢を取れる構造になっています。
桟に設けられた雨水抜きの穴も大天守と同じ構造でパイプが通されています。 -
西の丸 百間廊下
石落しのすぐ横には蓋付きの狭間も見えます。これは雨水や鳥、害虫などが屋内に侵入しないように平時は閉められます。黒田純、中野みゆき、森谷瑛子氏の労作『わたし達の姫路城』によると、姫路城の狭間は記録では3125個もあり(現在は997個)、そのうち土塀の狭間の数は419個あり、87個が隠し狭間だそうです。しかし、土塀にも蓋が必要な理由が判りません。遠くからでは判らないようにするカムフラージュでしょうか?土塀に狭間は付きものなのですが…。 -
西の丸 百間廊下
百間廊下と言いますが、実際は121間、約300mあり、日本一長い廊下になっています。「わノ櫓」の脇から「るノ櫓」までは、往時は主に倉庫として使われ、その先、化粧櫓までの北半分は長局でした。長局とは、城主やお姫様にお使えする奥女中たちが居住した長屋のようなものです。本多忠政が嫡男忠刻と千姫のために建てた「中書丸」がこの西の丸の中心に建てられていたためです。こうした長局がここまで完存している例は全国でも類がなく、貴重な文化財とされています。しかし忠刻が早逝し、千姫が姫路を去った1626(寛永3)年以降は中書丸もその役割を終え、次第に寂れていったようです。結局、本来の長局の役割を果たしていたのは西の丸造営から僅か20年程の間だけだったようです。 -
西の丸 百間廊下
お城を撮るにも様々なアクセントが付けられます。 -
西の丸 百間廊下
長局入口にある大戸です。こうした住居の戸には似つかわしくないほど頑丈な潜戸付き方開き扉です。長局には女性が住んでいたため、毎夜扉を閉ざして厳重な守りをしていたそうです。実はここから先は男子禁制なる、大奥にも似た「女の園」だったのです。こうした扉があるというのも姫路城の長局の特徴だそうです。 -
西の丸 百間廊下
幾つもの折れを持った多聞櫓ですので先を見通すことができません。
薄暗い廊下を進んで行くと、渡櫓とこれを結ぶ長局、その北端に位置する化粧櫓が残されています。長局の右側には侍女たちの部屋があり、広さは様々ですがひとつの部屋に数人の侍女が住んでいたそうです。 -
西の丸 百間廊下
侍女たちの居住です。こうした部屋が幾つも並んでいます。
往時、千姫はお姫様、勝姫は小姫様と呼ばれ、千姫には23人の局や侍女、16人の下女が仕えており、また勝姫には3人の侍女が仕えていたとの記録が残されています。因みに勝姫は、1628(寛永5)年に11歳で池田光政に嫁ぎ、その10年後に岡山池田家江戸藩邸で嫡男 綱政を産みました。
展示品も盛り沢山ですが、時間的な余裕がなく、じっくり見ていられません。 -
男山 千姫八幡宮
毎朝、百間廊下から千姫が遥拝していたという千姫神社です。
千姫八幡宮のレポは次のサイトを参照してください。(春に訪問した時の旅行記です)
http://4travel.jp/travelogue/11120022 -
西の丸 化粧櫓
百間廊下の端は化粧櫓と通じています。化粧櫓は、千姫が姫路城西方の男山 千姫天満宮を遥拝する際の休憩所でした。階上には18畳、15畳、窓辺に6畳の3室を設け、天井は杉柾張りの竿縁天井、壁面は全て黒い木枠に紙を張ったものを嵌めるなど、技巧を凝らした書院風の造りです。かつては、壁には極彩色の障壁画が描かれ、床の間もあったそうです。城内で床の間があったのは、この化粧櫓と帯の櫓だけだそうです。
百人一首を愉しんでいる千姫と侍女の姿が人形で演出されています。普通なら相手は娘 勝姫のはずですが、彼女がここに居たのは8歳までのこと。8歳の少女には見えないから消去法で侍女と思います。
2代将軍 徳川秀忠とお江の娘 千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁ぐも、大坂夏の陣後、桑名城主 本多忠政の嫡子 忠刻と再婚。その後、本多家が姫路城主となり、千姫も移りました。「夫婦雛」と言われるほど仲睦まじく、一男一女をもうけますが、嫡男 幸千代を3歳で失いました。傷心の千姫は、長局から西へ500m先の男山に小さな天満宮を建てました。そして、比叡山の阿闍梨が彫った菅原道真の木造を安置し、金泥法華経、唐鏡や身の回り品、秀頼との思い出深い遺品でもある羽子板を奉納しました。千姫は毎朝、化粧櫓で身繕いをした後、百間廊下に出て、天満宮を遙拝したそうです。
その後、忠刻も31歳の若さで亡くなり、千姫は10年程の姫路城での思い出を胸に江戸に戻り、落飾して天樹院と号し70歳で亡くなりました。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたそうですので吃驚ポンです。千姫にとっては、姫路城で過ごした時期が最も幸せだったと言われています。 -
西の丸 化粧櫓
千姫が手にする札は、後京極摂政前太政大臣 藤原良経の歌です。
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む 」。
霜の降る寒々とした夜に、こおろぎが鳴きしきっている。そんな中、寒々とした筵(むしろ)に、衣を着たまま片袖だけ敷いて、私はひとり寂しく寝るのであろうか…。
一雨ごとに深まる秋の気配と嫡男 幸千代と夫 忠刻を相次いで失った心境をこの歌に重ね合わせた演出でしょうか…。
余談ですが、千姫は豊臣秀頼の娘を育て上げています。彼女が産んだ子ではありませんが、懸命に助命を願い出て受け入れられたそうです。忠刻に再嫁した時も密かに姫路城に住まわせ、西の丸の長局に一室を与えて養育したそうです。養女は成長して天秀尼と名乗り、鎌倉の東慶寺の住持となりました。そして家康に「女人擁護の寺法」(東慶寺に駆け込み、3年間仏道の修行をすれば夫との離縁が許される縁切り寺法)の永続を願い出て認められ、東慶寺は縁切り寺になり、離縁を願う多くの女性たちの拠り所となりました。やがて天秀尼は20世住持となり、37歳で他界するまで寺を守りました。千姫も東慶寺の仏殿を建立するなど、天秀尼と東慶寺のために尽力したそうです。
この時代に自分の腹を痛めていない子を育て上げるのは、なかなかできるものではありません。こうしたところから千姫の人柄というか人徳が窺えます。また、家康や父 秀忠に可愛がられ、弟の3代将軍家光にも慕われたそうです。性格の良い女性だったのでしょう。 -
西の丸 化粧櫓
姫路城の7不思議のひとつは「千姫を襲う怨霊」です。
千姫は豊臣秀頼に嫁いでいましたが、大坂夏の陣で大坂城が落城する際に救出され、後に本多忠刻と結婚して姫路城にやってきました。
伝説では、燃え上がる大坂城から彼女を命がけで救出する際、ひどい火傷を負った坂崎出羽守の事を嫌った千姫がイケメンの忠刻と結婚し、家康との約束を反故にされた出羽守が輿入れ行列を襲って千姫を強奪する計画を企てたとする咎により、切腹を申し付けられるという件になっています。
晴れて姫路城に輿入れした千姫は、やっと生まれた嫡男 幸千代を3歳で亡くします。そこで祈祷を受けたところ、「千姫には秀頼と坂崎出羽守の怨霊が憑りつき、子孫繁栄を阻止している」とのお告げを受けます。その後、千姫は、怨念から解かれることを祈念して内部に本多家安泰の願文を入れた千姫観音像を千姫八幡宮に奉納しています。実際に大阪城天守閣には、千姫観音像からでてきた秀頼の死霊に宛てた「怨念を解いてください」と認めた願文が展示されています。しかし、その後子宝に恵まることはなく、また夫も31歳の若さで早逝したことから効能はなかったようです。 -
西の丸 百間廊下
このように石垣の上に直接載せられていない多聞櫓もあります。
姫路城の7不思議を紹介してきましたが、「千姫を襲う怨霊」が最後になります。
しかし、数えてみると全部で6つしかありません。ひょっとして「6つしかないのに七不思議と呼ぶのが7つ目の不思議」という、小噺のオチなのでしょうか?
調べてみると、意外に「6つしかない七不思議」は珍しくありません。例えば、「知恩院の七不思議」や「比叡山の七不思議」もそうです。また、京都御所のように7つ以上ある場合もあります。逆に、7つぴったりの方が珍しいようです。
それには訳があり、「6つしかないのに七不思議と呼ぶのが7つ目の不思議」というケースでは「7つ目の不思議を知ると呪われる」と噂されており、これ以上詮索するのは止めておきましょう。
1.播州皿屋敷
2.宮本武蔵の妖怪退治
3.姫路城の刑部姫
4.傾いた天守閣
5.切腹丸
6.千姫を襲う怨霊 -
西の丸
化粧櫓から「将軍坂」へ降りる所からのキャッスル・ビューです。 -
西の丸
土塀や石垣、小天守など様々なアクセントがあるので撮り甲斐があります。
ここの坂を下った所が「将軍坂」の上り口です。 -
イーグレ姫路 5F展望台
書写山での紅葉狩りを愉しんだ後、夕食には時間が早かったのでイーグレ姫路に寄ってみました。天気はすっかり曇ってしまいましたが、丁度、日没の時間に合わせて姫路城がライトアップされました。
せっかくの展望台なのですが、貸切状態です。イーグレ姫路自体は23時まで開いているのですが、展望台は18時(日没後、1時間?)で閉まるためでしょうか? -
イーグレ姫路 5F展望台
ようやく三脚の出番がやって来ました。
しかし、あれこれカメラの設定を変更してうちにブルーモーメントの時間に…。
「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言ったものです。 -
イーグレ姫路 5F展望台
新機材のズーム・レンズの威力発揮!感謝です!!
展望台には20分程の滞在でした。
この続きは、情緒纏綿 播磨紀行③書写山圓教寺(前編)でお届けいたします。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
99