2016/10/15 - 2016/10/15
97位(同エリア570件中)
ベームさん
上野から谷根千巡り、前回足を痛め上野、谷中で終わってしまったので今日は駒込から千駄木、根津を歩きました。この界隈は森鴎外の観潮楼、夏目漱石の猫の家などがあった両文豪に縁の深い所です。
本郷台にある千駄木、根津は上野台にある上野、谷中と向かい合っており、その境目の谷を不忍通りが走っています。
良い天気です、というか好天の日を選んで出かけました。
写真は根津教会。
PR
-
横浜から新橋、地下鉄銀座線で溜池山王、南北線で本駒込。
ここから本日のスタートです。 -
スタートは左上本駒込駅、ゴールは右下根津駅。
黒枠が訪問地。 -
地上に出ると本郷通りが南北に走っています。
-
吉祥寺方向(北)に向かうところを本郷通りを逆に歩き早速時間のロス。
時間よりも足に与えるマイナスが心配です。先日の谷中でも途中足の故障で往生しましたから。
歩道に埋め込まれている案内板。 -
間違って歩いた途中の定泉寺。
-
江戸三十三観音札所第九番、十一面観世音菩薩像があるそうです。
-
目赤不動尊南谷寺(なんこくじ)。
-
江戸時代からある五色不動の一つです。
五色不動:目黒、目赤、目白、目黄、目青不動。 -
南谷寺本堂。
-
目赤不動。
ここで間違いに気づきUターン、吉祥寺方向へ。 -
吉祥寺の手前左側に養昌寺という寺があります。
-
養昌寺。
-
ここに樋口一葉の小説の師で一葉が世に出るきっかけを与えた半井桃水(なからいとうすい)の墓があります。
東京朝日新聞専属作家として小説を書き、通俗小説家として人気がありました。1861~1926/大正15年。長崎県対馬の生まれ。
当時は新聞社の専属作家なんてのがあったのですね。夏目漱石も東京朝日新聞社
の専属作家でした。社員なのです。石川啄木も勤めていましたが、啄木は作家としてでなく校正掛かりでした。 -
明治24年4月、19歳の一葉は文筆で身をたてんと教えを乞うべく桃水のもとを訪ねます。桃水は、男でも小説家で身を立てるのは難しい、まして女の身では、と翻意を促すが一葉の意思は固かった。一葉は日記に「色いと白く面て穏やかに少し笑み給えるさま誠に3歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」、と書いています。一葉は桃水を恋い慕うようになりました。
そのうち一葉が桃水のもとに出入りするのが、当時一葉が学んでいた中島歌子の歌塾「萩の舎」のなかで噂になってくる。一葉は身も心もやましいことは無い、と訴えるが段々立場が悪くなり、ついに明治25年6月一葉は桃水に、変な噂が広がっているから、といって出入りすることを止める。 -
しかしその後も手紙のやり取りは続き、一葉の桃水への思慕の情は明治29年一葉の死まで消えなかったようです。
桃水の一葉への思いはどうだったのか。当時桃水は先妻に死なれ独身でした。慕ってくる一葉の心身を捉えることはたやすいことだったでしょう。しかしそれをしなかった。師弟の則を越えることはしなかった、と私は思います。
「明ぬれど暮ぬれど 嬉しきにも悲しきにも 露わすれたるひまなく
夢うつつ身をはなれぬ人の・・・」
桃水を慕う気持ちを述べた一葉の日記です。
一葉の処女作「闇櫻」は明治25年3月、桃水の発行した文芸誌「武蔵野」に載せられました。 -
樋口一葉。
そのうち美人である一葉のもとに馬場胡蝶、戸川秋骨、平田禿木、島崎藤村など「文学界」の同人、川上眉山、斎藤緑雨などが集まってくるようになった。皆自分が一葉に好まれていると思っていた。ところが一葉の死後その日記によって一葉と桃水の関係がわかると皆は一様に落胆した。
一葉には同年配で口先で文学を論じる若い文士の卵たちより年上の落ち着いた桃水の方に男の魅力を感じたのでしょう。 -
半井桃水。
確かに現代でも通じる美男です。
明治28年6月、久しぶりに会った桃水のことを一葉は日記に書いています。
「ただなつかしくむつまじき友として過ごさんことを願い、誠のみほとけを拝めるやうの心地、いひしらずうれし」
男たるもの、一度は女性にこう思われてみたい。 -
養昌寺の斜め向かい、本郷通りの反対側に諏訪山吉祥寺があります。
-
吉祥寺の前の本郷通り。
-
この辺りは旧駒込吉祥寺町。
昭和37年の住居表示法で消えた町名の一つです。 -
寺の並びに古い家屋が残っていました。
-
創建は1458年、大田道灌が江戸城の和田倉門辺りに建てた寺といいます。
後水道橋に移り、明暦3年/1657年の振袖火事に逢いこの地に移ったそうです。 -
ここに榎本武揚、川上眉山、鳥居耀蔵、二宮尊徳、赤松則良の墓があります。
-
栴檀林(せんだんりん)の扁額。
湯島の昌平黌とならぶ江戸期の学林。境内に後の駒澤大学となる曹洞宗の学問所栴檀林という学寮が作られた。1000人の学僧がいたという。 -
長い参道。都内でも有数の広い寺域です。
-
明治40年頃の吉祥寺。
山本松谷:新選東京名所図会より。
上の写真とほとんど同じです。大仏は参道の左側だったと思いますが、この絵では右側になっています。私の記憶違いか。 -
茗荷(みようが)稲荷。
-
昭和28年再建。
-
参道の左手に八百屋お七、吉三郎の比翼塚があるが吉祥寺とは何の関係もないそうです。では何故か。多分講談か芝居によるのでしょう。吉三郎が吉祥寺の小姓だったという説もあります。
後世の八百屋お七物語に決定的な影響を与えた井原西鶴の「好色五人女」ではこうなっています。
本郷の八百屋の娘お七は天和の大火(1683年)で焼け出され、一家は菩提寺である駒込吉祥寺に避難する。そこでお七は寺の小姓吉三郎と恋仲になる。やがて本郷に戻ったお七は、家が火事になれば再び吉三郎に逢えるだろうと自宅に火をつける。火はすぐ治まったが、当時火付けは重罪で、哀れお七は鈴ヶ森の刑場で火刑に処せられた。 -
釈迦大仏。1722年頃のもの。
-
参道の両側に墓域が広がっています。
順天堂大学で解剖された人たちの供養碑。 -
榎本武揚。
1836~1908/明治41年。
旧幕臣、政治家。幕末にオランダに留学、船舶操縦術、砲術、化学を学ぶ。 -
榎本武揚(えのもとたけあき、ぶよう)の墓。
戊辰戦争で幕府側で徹底抗戦を主張。徳川慶喜の駿府移封ののち幕府艦隊を率いて箱館五稜郭に籠る。敗北し捕えられるがその才能を惜しむ明治政府に引き立てられ、ついには文部、外務大臣などを歴任、子爵にまでなった。
旧幕臣でも成島柳北のように、旧幕臣たるもの明治政府には仕えず、と下野した人もいれば榎本武揚のような人もいます。 -
赤松家の墓。
森鴎外の最初の妻赤松登志子の父赤松則良の墓。登志子も眠っています。
たしか登志子の母の姉が榎本武揚に嫁いでいます。 -
経蔵。
1800年頃の建築で、山門と経蔵だけが戦災にあわなかった。 -
鐘楼。
-
二宮尊徳/通称金次郎の「墓碑」がありました。
尊徳翁の墓は今市市の二宮神社とか小田原の善栄寺とか相馬市とか、分骨されて幾つかあるようです。
ここ吉祥寺のは、墓とも碑ともとれる「墓碑」としています。ずばり「墓」と銘する確証がないのでしょうか。 -
二宮尊徳墓碑。
寺の人に訊くとお骨ではなく髪の毛が納められているそうです。 -
二宮尊徳。
江戸時代後期の農政家。1787~1856年。今の小田原生まれ。
私の小学校時代はまだ二宮尊徳が教科書に現れていたと思いますが今はどうでしょう。 -
本堂。
-
明治の作家川上眉山(びざん)の墓です。
-
川上眉山。
1869/明治2年~1908/明治41年。大阪出身。
東大予備門で尾崎紅葉、山田美妙と知り合い、明治18年共に硯友社設立に参画。「墨染桜」で文学界に出る。その後しだいに硯友社と距離を置き北村透谷、馬場胡蝶、戸川秋骨、島崎藤村、樋口一葉ら文学界同人に接近。社会の矛盾を題材にした観念小説といわれるジャンルで人気を博した。
代表作:大盃、書記官、うらおもて。 -
明治41年6月、突然自殺をして世間を驚かした。頸動脈を剃刀で切るという凄惨なものだった。遺書もなく知人たちも理由は分らないとした。文学的行き詰まり、生活苦などと取りざたされた。その死のひと月ほど前に眉山はふらりと広津柳浪の所にやってきて「やろうじゃないか、君、大いにやろうじゃないか」と声高に言っているのを柳浪の息子広津和郎が聞いている。硯友社系の文士が低迷し自然主義派が世を謳歌しているのを憤慨しているのである。自殺どころかまだやる気満々である。
墓は硯友社同人建立となっています。硯友社から離れて行ったとはいえ昔の仲間は彼の死を悼んだのでした。 -
硯友社同人。明治24年。
後列中央が川上眉山、右江見水蔭、左武内桂舟。
前列右尾崎紅葉、中石橋思案、左巌谷小波。 -
山門の両脇には築地塀があります。
このあと近くに落合直文の興したあさ香社(浅香社)の跡があるというので探しましたが見つかりませんでした。近代短歌発祥の地で、与謝野鉄幹、尾上柴舟などを育てた歌人です。 -
高林寺。
少し本駒込の方に戻った所にあります。 -
岡麓(おかふもと)。歌人、書家。1877(明治10)~1951(昭和26)年。
正岡子規門下。子規の死後馬酔木、アララギ同人。
お墓は見つかりませんでした。 -
緒方洪庵墓。
江戸末期の蘭学者、医学者。1810~1863年。岡山出身。
長崎でオランダ人にオランダ語、医学を学んだのち大坂に蘭学塾「適塾」を開く。
門下から福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎などを輩出。
天然痘治療に貢献し日本近代医学の祖といわれる。最晩年には将軍の侍医になったが望まない役目だったせいかどうか1年後に亡くなった。 -
緒方洪庵墓所。
純粋に医の倫理を掲げ続けた人でした。
「医の世に生活するは人のためのみ」
「病者に対してはただ病者を視るべし、貴賤富貴を顧みることなかれ」
「安逸を思わず、名利を顧みず、ただおのれをすてて人を救わんことをねがうべし」
当今の名医と云われる医者はどう思うでしょうね。 -
緒方洪庵の墓に向かいに織田家の墓がありました。
この織田家とは織田信長の二男織田信雄の子孫で、出羽天童藩主織田家のことです。織田信長の裔と言うことで豊臣秀吉も徳川家も一目を置き、2万石の大名として徳川の時代にも存続しました。明治に入り同家は華族(子爵)となっています。 -
本郷通りを南に向ヶ丘高校の手前を右に入ると大圓寺があります。
-
朱塗りの大圓寺山門。
-
山門を入るとすぐにほうろく(焙烙)地蔵があります。
-
放火の罪で火あぶりの刑になった八百屋お七の霊を供養するために祀られたお地蔵様とのことです。
ほうろくとは素焼きの土鍋のことで、火事と火傷と頭痛を救うため、熱した焙烙を頭にかぶっている地蔵さんです。 -
本堂。
-
山門から50mほど離れた所に大圓寺の墓地があります。
ここに斉藤緑雨と高島秋帆の墓があります。 -
門前にある説明板。
-
墓地の一番奥に高島秋帆の墓。
-
高島秋帆。
1788~1866年。長崎出身の砲術家。
オランダ人にオランダ語と西洋砲術を学ぶ。日本に西洋砲術を導入。韮山の反射炉を造った江川太郎左衛門は秋帆の弟子。
幕末ペリー来航時交戦論が高まる中で秋帆は平和論を唱え、幕府に鎖国を止め開国し外国貿易を行うべしと進言した。 -
斉藤緑雨の墓。
本名賢。号正直正太夫(しょうじきしょうだゆう)。1867/慶応3年~1904/明治37年。三重出身。
小説家、ジャーナリスト、評論家。仮名垣魯文に師事。弟子に小杉天外。
歯に衣を着せない毒舌家で、主に万朝報、読売新聞、二六新報に拠りその辛辣な評論に政財界人、文士たちは戦々恐々だった。明治23年の当時の文壇人を揶揄した「小説八宗」は有名。
森鴎外、幸田露伴と共に文芸評論誌「めざまし草」のコラム「三人冗語」での評論は好評で、とくに緑雨は樋口一葉を高く評価した。一葉の死後緑雨は遺族(母、妹)の面倒を見、「一葉全集」の編集に力を注いだ。
墓碑銘は幸田露伴。 -
一方世におもねず、世の中を斜に生きたその生活は貧困を極めた。その葬儀費用も友人たちが出し合った。緑雨の最後までもっとも近しんだ友人は馬場胡蝶と幸徳秋水、幸田露伴、上田萬年だった。緑雨は死の間際に馬場胡蝶にこう依頼した。僕が死んだらこれを新聞に出してくれ。その内容は「僕本月本日をもって目出度死去致候間この段謹告仕候也、緑雨斎藤賢」。この死亡広告は死の日の万朝報の朝刊に掲載された。
死の翌朝早く遺骸は本所横網町の住まいから三河島の火葬場へ運ばれた。付き従ったのは馬場胡蝶、幸田露伴、与謝野鉄幹、幸徳秋水ほか数名。
石橋思案は弔文の中で「嗚呼、現代作家はもはや君の批評文に接することを得ぬ」と嘆いた。 -
警句の幾つか。
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」
「おもうに結婚は一種の冒険事業なり。知らぬ二人を相いだかしめこれに生涯の徳操を強うるなり」
「貧を誇るは富を誇るよりも更に卑し」
「人は常に機会を待てども、機会は遂に人を待たず」
川柳に「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」
「チョピンとは俺がことかとショパン言い」は緑雨だったか。
私は反骨精神の持ち主斉藤緑雨が好きなのでついいろいろ調べて書いてしまいました。 -
「めざまし草」の合評「三人冗語」のメンバー。
右緑雨、中幸田露伴、左森鴎外。鴎外の観潮楼にて。鴎外が座っている石は今も有ります。
写真でも緑雨の目はギロリとしていますが、樋口一葉は緑雨のことを「正太夫(緑雨のこと)、としは二十九、やせ姿の面やう、すご味を帯びて、ただ口もとにいひ難き愛嬌あり、・・・。その眼の光りの異様なると、・・・、眉山(川上)、禿木(平田)が気骨なきにくらべて、一段上ぞとは見えぬ・・・」と言っています。一葉日記より。 -
駒込から大観音通りを団子坂の方に歩きました。この通りの両側にもお寺が幾つかあります。
栄松院。 -
初代松本幸四郎の墓があるようです。
-
本堂。
-
墓地の奥に大きな木があります。
-
天然記念物「榮松院の椎」。
-
-
光源寺。
駒込大観音(おおがんのん)があります。 -
聞いたことのない名前です。
平安時代に遡る甲冑師の家柄で、江戸時代には幕府お抱えの甲冑師だったそうです。 -
境内でご近所の集まり?
-
本堂。
-
明珍の墓。
-
大観音通り。
このすぐ先の団子坂上に住んでいた森鴎外、近くの千駄木に住んでいた夏目漱石がよく歩いた道です。その小説の中にも出てきます。 -
青鞜社(せいとうしゃ)発祥の地です。
団子坂上の手前、道の左手にプレートが建っています。帝大教授物集(もずめ)高見の邸宅の一室で青鞜は発足した。跡かたは全くありません。
目的は男尊女卑の社会から女性の近代的自我の確立を目指すもので、いわゆる「新しい女」運動だった。最初は文芸運動だったが次第に女性解放運動に重点が移っていく。 -
明治44年6月平塚明(はる、らいてう、雷鳥)を中心に田村俊子、野上弥生子、物集和子、与謝野晶子、長谷川時雨などの社員、賛助会員で発足。その後神近市子、伊藤野枝も加わる。
その機関誌として発行されたのが「青鞜」。9月に第一号が発刊された。
創刊の辞に平塚明は有名な「元始実は女性は太陽であった。・・・。今女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く。・・・。」と述べている。与謝野晶子は「山の動く日来る」との一文を寄せている。 -
「青鞜」創刊号。表紙は長沼智恵子(後の高村智恵子)。
しかし社会一般の無理解、嘲笑、官憲の度々の発禁処分、青鞜社内部のスキャンダル(平塚明と画家の卵奥村博史の同棲、伊藤野枝と大杉栄の恋愛など)などで勢いを失くしていき、大正5年廃刊となった。 -
平塚雷鳥(らいてう)。本名平塚明(はる)。1886/明治19~1971/昭和46年。評論家、作家、女性解放運動家、反戦運動家。高級官僚平塚定二郎の娘。
日本女子大卒。在学中に禅を習得し、生田長江の主催する閨秀文学界で文学に目覚める。明治41年22歳の時閨秀文学界の講師であった森田草平と恋愛関係になり那須の塩原で心中未遂事件を起こす。森田はのちこのことを「煤煙」という小説にした。
明治44年中心となって青鞜社設立、「青鞜」を発刊。
大正元年奥村博史と同棲(事実婚)、子供もでき青鞜編集との両立が困難となり、大正4年編集を伊藤野枝に譲る。 -
青鞜廃刊後は新婦人協会を設立しもっぱら婦人参政権運動、母性保護運動に携わる。
第2次世界大戦後は野上弥生子、市川房江らと共に反戦・平和運動に活躍。
昭和46年、85歳で終世婦人の地位向上、反戦活動にささげた生涯を閉じた。
色の浅黒い、輪郭の美しい面長な顔で、くすんだ好みの服装に、緑色の袴をぐっと下目に穿いている。全く化粧をしないのに、不思議な魅力のある下膨れの面長な顔に、利発らしい黒い目。誰だったかの明子評です。
漱石の「三四郎」のヒロイン美禰子のモデルともいわれる。漱石は森田草平から平塚明子との自殺行のいきさつとか明子の人となりを聞いて、その女性の事を小説に書いてみようか、と言った。しばらくして漱石が朝日新聞に書きはじめたのが「三四郎」だった。漱石と明子は一度も逢ったことは無いという。 -
団子坂上に来ました。
森鴎外記念館があります。
森鴎外、本名林太郎。1862~1922(大正11)年。島根県津和野の生まれ。 -
明治25年から大正11年の死まで住んだ家がありました。2階から浜離宮の木立の上に品川沖の白帆が見えることから「観潮楼」と名付けました。
ここから品川沖の海がみえるなんて本当かなと思いますが、鴎外自身が書いているのですから本当なんでしょう。
この家のことについては鴎外の著「細木香以(さいきこうい)」に詳しく描かれています。千住で医院を開いていた鴎外の父も医院を畳んでここに住んでいます。 -
明治40年3月から43年3月まで毎月1回ここで短歌会を催し、「明星」の与謝野鉄幹、「アララギ」の伊藤左千夫、「心の花」の佐々木信綱、遅れて石川啄木、斉藤茂吉、木下杢太郎など当時の代表的歌人が集まり短歌の改良にあたった。すなはち観潮楼歌会です。
昭和12年失火で大部分が焼失、昭和20年1月の空襲で灰燼に帰した。 -
「めざまし草」の新作合評コラム「三人冗語」の三人。
左森鴎外、中幸田露伴、右斎藤緑雨。
鴎外の座っている石が今も庭に残っています。 -
庭。
鴎外は父母に孝養を尽くし妻(2番目の妻)をいたわり子を溺愛した。家族も鴎外のことを「パッパ」と呼んでなついた。
子は先妻登志子との間の長男於菟(おと)、後妻志げとの間に長女茉莉(まり)、次女杏奴(あんぬ)、次男類(るい)と計4人。
4人の子供と後妻志げ、妹(小金井)喜美子は文才があり、それぞれ鴎外のこと、兄妹のことを本にしている。 -
鴎外が座っていた石、根府川石です。
それらを読むと、一見華麗に見える一家も、親子・兄妹間の葛藤は相当なものだったことが分ります。森家の長男鴎外を独り占めにして家計を取り仕切る母峰子と嫁志げの対立。長男於菟と継母志げの対立。その間に立つ鴎外の苦悩。結婚離婚を繰り返し気ままに生きる姉茉莉と弟妹達の葛藤。鴎外の遺産、遺作物の帰属、墓の問題。
それらの本にはその状況がかなり赤裸々にかかれていて、類が「森家の兄弟」を書いたとき出版社側から「身内のことをあんなに悪く描くのは不道徳だ、書き直さないと出版しない」と言われたそうです。結局一部手直しして別の雑誌「群像」に「鴎外の子供たち」として発表されました。 -
塀に鴎外の歌碑が埋め込まれていました。
沙羅の木
褐色(かちいろ)の根府川(ねぶかは)石に 白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに 見えざりしさらの木の花
昭和29年鴎外33回忌に長男於莵が兄妹を代表して文京区に寄贈したもの。字は永井荷風。
沙羅の木は夏椿のことです。 -
観潮楼の表門があった所。
藪下通りに面しています。写真の女性、いつまでたってもそのままでしたので已む無く。おそらく在りし日の姿を想っていたのでしょう。 -
団子坂上。
今日は明治の二大文豪夏目漱石と森鴎外の旧居跡を見ました。
二人は互いを人物として意識していたことは間違いないと思いますが、交流は殆どなかったようです。漱石が鴎外について述べたものは私の読んだ限りでは、明治43年の修善寺大患の時、漱石の日記に「一等軍医正矢島氏、伊東まで来れるついでにと見舞わる。森氏の命令也。」とあります。森氏とは森鴎外のことです。
一方鴎外は「夏目漱石論」という小文があります。
要約すると、「漱石の今の文壇の地位は力量からして当然である。二度ばかりしか会ったことはないが立派な紳士である。あまり金持ちではないようだ。その家に行ったことは無いので家庭でどんな主人なのか知らない。漱石の本は少しばかり読んだが、創作家の技量は立派である。作品を通しての人生観は読んだ本が少ないので判断しにくい。漱石の長所と短所については読んだ限りでは長所が目につき、短所というほどのものは目につかない。」と、いささか素っ気なくクールです。 -
団子坂上。
-
団子坂。
江戸時代坂下に団子を売る店があったのでこう呼ばれました。別名潮見坂、観潮楼と同じですね。明治末まで菊の季節には道の両側にびっしり菊人形の小屋が立ち並んでいたそうです。
文学作品によく出てきます。森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」。夏目漱石の「三四郎」にはここの菊人形の様が描かれています。その当時は道幅5m弱でもっと急坂だったそうです。「三四郎」に坂の上から下を見ると”人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる”と書いています。大正に入り都内あちこちで菊人形をやるようになり団子坂の菊人形はすたれました。 -
明治40年頃の団子坂の菊人形。
山本松谷:新選東京名所図会より。
坂下から坂上を望んだ絵。今の原宿みたいですね。
坂の両側にずらりと掛小屋が並び、呼び込みが声をからしている。この年のテーマは太閤記、弁天小僧、佐倉惣五郎、里見八犬伝など、また中村芝翫、市村羽左衛門、尾上菊五郎など芝居役者たち。
「いらっしゃい、音羽屋の一世一代の弁天小僧をごらんなさい」
「いらっしゃい、こっちは歌舞伎座の当り狂言、滝の文覚、堀越の文覚でござい」 -
坂の下に地下鉄千駄木駅がありその先三崎坂を登ると谷中になります。
鴎外と漱石は生前数回しか会ったことはないようですが互いに意識はしていました。互いに自著の献呈をしたりしています。鴎外は漱石の作はあまり読んでいないと言っていますが、そうでもないようです。鴎外の小品「団子坂」にこんな場面があります。
男女の学生です。
女が言った、「おや、もう橋の処へ来ましたのね」
男が受けて、「三四郎が何とかいう、綺麗なお嬢さんと此処から曲がったのです」女「ええ、ストレイシープ」
三四郎とは勿論漱石の「三四郎」の中の三四郎で、何とかいう綺麗なお嬢さんは美禰子のことです。鴎外の小説「青年」は「三四郎」を意識して書いたと云われます。 -
オブジェ「舞」
観潮楼の門の前にあります。 -
-
観潮楼の門前から根津神社裏に続く道、藪下通り。
-
藪下通りを根津神社の方に歩きました。
-
今は両側に家が立ち並び、なんの変哲もない道ですが、鴎外が住んでいたころは竹藪に覆われた薄暗い道で、永井荷風は観潮楼に通う時に通るこの道の様子をその随筆「日和下駄」の中でこう書いています。
「根津の低地から弥生ヶ丘と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。」 -
右手に登る石段、千駄木だんだんと言うそうです。
さらに「日和下駄」より、
「片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足元を覗くと・・・・人家の屋根が小さく見え、・・・・、
左手には上野谷中に連なる森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴らされ・・・・。当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。」
昔は片側は人家も何もなく崖で、ずっと上野浅草方面が見通せたのですね。 -
藪下通り。
森鴎外もこの道をいつも通っていたでしょう。
「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道に似た小径がある。これを藪下の道と云う」となにかに書いています。小説「青年」にも根津界隈がしばしば描かれています。
当時はここからずっと谷中、上野さらには東京湾のほうまで見えたのでしょう。崖下は畑や水田だったそうです。 -
鴎外はまたこうも書いています。
「崖の上は向岡から王子に連なる丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している」。 -
藪下通りの尽きる手前、右に登る石段を解剖坂と呼びます。
-
坂の下に日本医科大学の解剖室があったのでその名が付いたそうです。
-
この辺り日本医科大学。
-
解剖坂を上ったすぐ右に夏目漱石の旧居跡があります。当時千駄木町57番地、今文京区向丘。
明治36年3月ロンドン留学から帰った漱石は、熊本五高教授を辞め一高教授、東大講師になりここに居を定めました。漱石東大学生時代の学友斎藤阿具(歴史学者、仙台二高教授)の父の家で、斉藤が欧州留学で空家になっていたのを借りたのです。学友のこととて敷金不要、家賃月15円という破格の条件だったようです。 -
この家で一高教授、帝大講師を務めるかたはら漱石は、高浜虚子の主宰する歌誌「ホトトギス」に「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」、「倫敦塔」などを発表、作家としての名声も確立したのでした。
明治39年12月、家主が帰ってきたので西片町に転居。千駄木の家は今犬山市の明治村に移築保存されています。 -
当時漱石は一高教授、東大英文科講師でした。その名誉ある地位を棄て東京朝日新聞社に入ったのは明治40年です。
安定した教師の口を棄てて筆1本の道を選んだのですから朝日入社に当たってはいろいろ条件を付けました。例えば、教師時代の年収約1500円にたいし朝日の月給は200円、年にすると2400円、さらに年2回のボーナスも要求しています。条件として毎年一編の長編小説を朝日に書く、ほかの雑誌、新聞には書かない、もし雑文などをほかに書くときは朝日新聞の了解を得る、等です。
しかし漱石は朝日新聞に朝日文芸欄を設けて島崎藤村、徳田秋声など新進作家に執筆の場を与えるとともに朝日新聞の洛陽の紙価を高めたのでした。 -
この家には明治23年、妻登志子と別れた森鴎外が明治25年1月まで住んでいて千朶山房(せんださんぼう)と称していました。奇しくも2大文豪が住んでいたのです。来客が多くなりなり手狭になったので、鴎外はここから団子坂の観潮楼に移っていきました。この家と観潮楼とは歩いて15分ほど、しかし漱石がここに住んでいた4年足らずのあいだに両文豪の往来は無かったようです。
-
鴎外と漱石、この二人が実際に会ったのは数回しかなかったようです。半藤一利氏(漱石の長女筆子の娘婿)の著によると、二人の最初の出会いは明治29年1月、根岸の子規庵での句会でした。前年28年の12月の暮れ、漱石は見合いのため松山から上京していました。句会は祝漱石婚約という主旨かどうかは分かりませんが正岡子規の発案で催されました。その時の参会者が豪華なもので、内藤鳴雪、森鴎外、正岡子規、夏目漱石、高浜虚子、河東碧梧桐等です。もっとも漱石は松山の中学教師、虚子・碧梧桐はまだ書生の身分でした。
当時すでに帝国陸軍の高級官僚で、「舞姫」、「うたかたの記」などを著し文名高かった鴎外は一地方中学英語教師の漱石との出会いは覚えていなかったようです。その後人生でも文学活動でも後輩である漱石が(鴎外より5歳年下)鴎外に交誼を求めた形跡はありません。漱石は軍人、官僚が嫌いでした。鴎外を敬して遠ざけていたのでしょう。もっとも漱石は学生時代に鴎外の書を幾つか読んでいて、正岡子規に”鴎外はなかなか良い”と手紙で書き送った所、子規から”鴎外が良いなんてお前は馬鹿だ”と叱られています。 -
もう一つの鴎外と漱石の出会い。英文学者で文学界同人の平田禿木の回想によると、明治40年4月、上野精養軒で「明星」派の会があり鴎外と漱石も同席していた。その時の漱石は饒舌で、次々と警句をとばし鴎外も受け太刀だったそうです。
明治40年といえば漱石が朝日新聞社に入社した前後で、すでに「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」等を発表し文名高かった時です。漱石も鴎外に臆することは無かったのでしょう。
明治43年の修善寺の大患のとき鴎外は部下を漱石の見舞いにやっています。
この奥に学校があります。郁文館中学で、「猫」には「落雲館中学」と描かれています。
この学校の生徒が野球中しきりにダムダム弾(ごむボール)を漱石の家に打ち込んでくる。「吾輩は猫である」の中で、苦沙弥先生がボールを取りに庭に闖入してきた中学生を捕えて大人げなく大奮闘する様子が描かれています。庭には家のものがナスやキュウリを植えていました。 -
今明治村に保存されている家です。建坪39坪、敷地は400坪ほどでした。
右端に出っ張ているのが書斎。廊下があり中之間(書庫替り)、客間、寝室と続いています。
建物の南側、写真の手前に車屋があり、西側には郁文館中学がありました。いずれも「吾輩は猫である」に登場しています。その中学(猫では落雲館中学)からダムダム弾(野球ボール)がナスやキュウリを植えている庭に飛んできて、苦沙弥先生の大立ち回りとなるのです。
この家には鴎外と漱石の間に何人か住んでいますが、いずれも後に高級官僚、大学教授になるなど当時のエリートでした。本郷、根津界隈が下宿屋の多いごちゃごちゃした町だったのに対し、西片町から千駄木にかけては学者、役人など知識人が多く住んでいました。 -
根津裏門坂の方から根津神社に入りました。
漱石が裏の郁文館の学生と度々渡り合ったのは事実です。漱石に心酔する小宮豊隆が手紙で、「漱石を父のように思う」と書いたのに対し「僕をおとっさんにするのはいいが、そんな大きなむす子があると思うと落ち着いて騒げない。おとっさんになると今日のような気分で郁文館の生徒なんかと喧嘩が出来る訳のものじゃない。」と返事しています。明治39年12月の手紙です。 -
根津・千駄木下町祭りで大変賑わっています。
-
フリーマーケット。
-
社域にある乙女稲荷神社の石の鳥居。
-
鳥居の内側から。
-
乙女稲荷。
-
乙女稲荷神社社殿。
恋愛成就とかで女性に人気があるようです。 -
千本鳥居。
-
左はつつじ苑。
-
稲荷の上から。
-
下から。
-
乙女稲荷。
-
ぬいぐるみのようです。一つ10円。
-
お参りする人の行列が出来ていました。
-
権現造りの拝殿。別名根津権現。
1706年、5代綱吉の時。 -
唐門。
-
国宝となっていますが重要文化財ではないかと思います。
-
根岸神社、別称根津権現。
約1900年前、日本武尊が千駄木の地に創建。1706年五代将軍綱吉が現在地に社殿を建築し遷座した。 -
楼門。内側。
社殿、唐門、楼門すべて国の重要文化財です。 -
楼門、外側。
-
楼門。
-
じじばばとお孫さん。
-
神楽殿。
-
約3000株のつつじの木があり、花時には文京つつじ祭りが開かれます。
-
境内の池は古いもので多分東大構内の三四郎池と水脈は繋がっているのでしょう。
境内に森鴎外寄進の水飲み場があるのですが人並みと仮設のテントなどに隠れて見つかりません。
お祭りはそれで賑やかで面白いのですが、私は街歩きの時お祭りに出くわすのはあまり好きでありません。街並みとか寺社の本来の姿を見ることが出来ないからです。 -
ノッポの怪人登場。
-
フランクフルト、焼き鳥、七味唐辛子。祭りの屋台の定番。
-
表側。
裏口から入ったので表側から出ました。 -
表参道口。
この門前辺り1706年の根津権現造営当初からから明治半ばにかけ岡場所(非公認の遊郭)があったそうです。徳川吉宗の享保の改革、水野忠邦の天保の改革、火災などで大打撃を受けますが、その都度不死鳥のようによみがえりました。
明治18年には貸座敷106軒で東京一、娼妓数は943人で吉原に次いで2位、遊
客数は31万人だったそうです。
東大のキャンパスが本郷に集められ、日本の将来を担うべき学生が根津遊郭で遊ぶようになる。文教の地近くに遊廓があるのは如何なものかということになり、明治21年ついに遊廓は深川の洲崎に移転させられ、根津遊郭の歴史は終わりました。
東大生の坪内逍遥もここに遊んだようで、夫人センはここの大籬(おおまがき)大八幡楼の娼妓でした。 -
このテントで白山ビールを売っていたので飲みました。中で650円。
寺社の門前に遊郭はつきものでした。いったい、遊郭で遊んでから寺社で身を浄めたのか、寺社で身を浄めてから遊郭に乗り込んだのか、どっちなんでしょうね。 -
人混みを抜け出し根津教会。
-
大正8年建築。当初は本郷福音教会だったそうです。関東大震災、先の大戦でも生き残った貴重な遺産。
登録有形文化財に指定されています。 -
近くにお化け階段と言われる石段があります。
-
上りと下りで段数が違うそうです。しんどいので試しませんでした。
-
階段の上。
-
この辺り文京区弥生。
住居表示実施の嵐の中、よくぞ弥生の名が残ったものです。 -
弥生坂/言問通りに抜ける道端にサトウ・ハチロー旧居跡の看板がありました。
本名佐藤八郎。明治36年~昭和48年。詩人、童謡作詞家。
童謡「小さい秋みつけた」、歌謡曲「リンゴの唄」、「長崎の鐘」。
並木路子の歌で大ヒットした「リンゴの唄」は戦後の日本人に生きる望みを与えた。
明治・大正の大衆作家で「あゝ玉杯に花うけて」の作詞者佐藤紅緑の息子。子供のころは不良少年だったという。「九十歳。何がめでたい」の作者佐藤愛子は異母妹です。 -
サトウ・ハチロー旧居跡。
-
弥生坂/言問通りに出ました。この辺りに寺田寅彦住居跡があったそうですが分かりません。写真に写っている本屋さんで聞くと、ここらに住んでいたそうだが特定されない、とのことです。
-
言問通り、この坂を上ると東大農学部前、下ると不忍通り、地下鉄根津駅にでます。
-
不忍通り。
-
上野から谷根千、これで終わりです。
大手町から東京駅に行き横浜まで、疲れました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
谷根千(東京) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
153