2016/10/06 - 2016/10/06
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風 魔さん
プラモデル模型の箱書き(ボックス・アート作品)で有名な上田毅八郎氏は、太平洋戦争に従軍して輸送艦の砲手として初の実戦経験は1942年(昭和17年)3月に行われた輸送船・「神州丸」に乗船してジャワ島上陸作戦(蘭印作戦)を初めとして、以来計26隻の輸送船に乗り組み6度にわたる撃沈に遭遇して、利き腕の右手の自由を失い郷里の静岡へ帰り、家業の塗装業を手伝いました。
あたかも、太平洋戦争の激戦地で左手を失った「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である水木しげる氏と同じような境遇をたどりました。
しかし、上田氏は右手足の障害から塗装業という高所の仕事上での不自由さを感じて、自身が北はアリューシャン列島から南はジャワ島まで戦地での輸送業務の実体験を通して眺めた日本海軍の軍艦や、現地のセルリアンブルーの空や海の風景などを背景に実物の艦船群を描こうと、昭和30年代より盛んになり始めたプラモデルの箱書き(ボックスアート作品)に左手一本で作品を完成させたものです。
とくに静岡にあるプラモデル・メーカーのタミヤ他4社の「ウオーター・ラインシリーズ」の艦船の箱書き=ボックス・アート作品は、プラモデル・マニアにとって大人気となり、今までに2000点以上の船舶・海洋の画を完成しました。
上田氏は本年6月にご逝去(享年95歳)されましたが、10月に「静岡模型教材協同組合」の主催によりJR静岡駅の南口にあるサウス・ポット静岡内のタミヤ常設の展示場(静岡ホビースクエア)にて追悼展が開催されていたので、上田氏を偲び遺作の鑑賞のため行きました。
会場には上田氏の代表作品が展示され、実体験した艦船と赴いた戦地での風景の精密な描写は素晴らしく感動いたしました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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「 上田毅八郎氏・追悼展 」
ご本人の遺作である「戦艦:大和」をポスターにしています。
☆ 開催場所 :静岡ホビースクエア (JR静岡駅南口・サウスポット静岡
タワー3階)
☆ 開催期間 : 2016.10.1~9. -
「上田毅八郎氏・追悼展」
ご本人の遺作である「戦艦・大和」が描かれています。 -
「㈱タミヤ 代表取締役会長 田宮俊作氏の追悼文」
追悼 上田毅八郎
昭和33年3月大学の卒業式の直前、母を突然失った私は、この年から自宅より数キロ先にある父の会社に通い製材所のいろいろな仕事をすることになった。
父と運転手が前の席に乗ると、小さなダットサントラックの後部座席は荷物を積む場所しかないので ここに私は運転席と背中を合わせるように座って通勤した。
製材木工所と言われる会社だけあって大卒の私のする仕事はごく限られていて、
当面できる仕事は単純作業しかない。
この単純作業の繰り返しを続ける中で、いろいろなことを考えることによって時間の過ぎるのを計る。当時の仕事の90%は、軍艦模型の材料でいろいろな部品などを削ったりすることであったが、このような中でまずこれを変えなければいけないと思ったことは、 BOXTOP の単純なラベルをやめてしっかりした軍艦の原画を描いてもらい その雄姿を写真製版で印刷することであった
そうしなければ店頭に並べても商品価値は上がらないし人を引き付ける要素に乏しいと感じたからである。
幸い軍艦の描きとしては右に出るものはいないと言われていた上田毅八郎氏が同じ町内で塗装業を営んでいた当時から今も続いているデルタクラブと言う模型同好会のリーダー格で主に飛行機、艦船模型を作る人たちが集まっているのが、その当時の素材は木製であった。
ある時、この上田氏のところにお伺いを立てる為に恐る恐る出かけてみた。
私の会社の軍艦模型の絵を描いてもらえないか、と言うお願いのためである。
かなり気難しい人であると言う評判だったので、当時まだ23歳で若造と言われる年齢だった私は、 当たって砕けろと言う気持であった。
商売の話をしながら私の意図を話すと、意外と気楽な返事をいただけた。
「そうか、それなら、描いてみるか」である。
もちろん当時は、木製の武蔵や重巡クラスの巡洋艦が最初のお願いであった。
上田氏の本業は塗装業であるから一日の仕事が終わって自宅に戻り食事を済ませてから絵筆を持つ。
当然私もその時間に合わせて、ご自宅訪問と言う事になる。
概ね夜の8時ごろからである。
私の軍艦に関する知識の大部分は、上田氏に絵を描いてもらう傍らにいて会話の中から聞いて学んだことであった。
上田氏は戦時中輸送船の後部甲板の機銃士であり、様々な艦とすれ違ったり、また数回撃沈された末、利き手の右腕に怪我をし、戦後は左手で筆を持つようになっていた。
上田氏の凄いところは、海戦となった様々な海の色を覚えていたこと、各艦の波の切り方を知っていたこと、そして軍艦の大きさを実に見事にBOXTOPに表現されたことである。
時折私への質問の中で、「波長500mの波を見たことがあるか」と尋ねられたことがあるが、もちろん私は見たことなどあるはずもない、どうして機銃手の自分だけが生き残っているか等等 興味津々な話を絵を描きながらしてくれるのである。 ⇒ 次頁へつづく -
⇒ 前頁よりつづく
絵を描き上げるのは、実に早かったが、問題はこれが本業ではないことであった。
プラモデルの時代になると、千葉県の柏市にある小松崎茂先生にまずお願いを立てることも私の仕事の大きな部分となっていた。
上田氏が模型のパッケージの絵を専門の仕事にするようになったのは十数年たって塗装業の仕事を辞められた時からである。
丁度このころに静岡の模型組合4社のウォーターラインシリーズが始まり このシリーズのBOXTOPの大半が上田氏の手によるものである。
ところが今年の6月22日の朝、突然私のところにお嬢さんから上田氏の訃報が届いた。
今夜父の通夜なので田宮さんと常務の曽根さんのお二人に見送ってほしいとの事。
90歳をしばらく過ぎたころ、いろいろな健康のケアをしてくれる施設に入所され もう絵を描ける状態ではなかったが、 私たちは時折浜松インター近くにあるこの場所を訪問していた。
今年は5月のホビーショーが始まる前に尋ねたばかりであった。
その後に体調が急変し、病院のお世話になって間もなく亡くなられたとの事だが、
病院の世話になっていたことを知らなかった私は何とも言えない虚しさに襲われ
この日は仕事も手につかなかった。
今まで上田氏に教えていただいたことが、山ほどあると言う方が大勢いらっしゃると思うが、 家族葬にするので新聞にも掲載しないし、他に誰にも知らせなかったという事で 通夜の席はほんの僅かな人たちだけの参列であった。
このようなことから、偲ぶ会があるなら出席したいと言う人が多い。
いずれそのような機会を持ってくれると言うが、 私は約60年近いお付き合いをしてきた中である。そして上田画伯を慕う人が多いことをこのような機会にご家族にはさらに知っていただきたいと私は思っている。
これほど日本帝国海軍の艦船を愛情をこめて見事に表現された方が、あったであろうか。
失ったものがあまりにも大きく、私は今もって残念でならない。
今はただ、心からご冥福をお祈りするばかりである。
「上田毅八郎先生の追悼展と偲ぶ会 」にて 田宮俊作氏
(注)以上は、原文のままに引用させていただいております。 -
静岡市・清水区にある「フェルケール博物館」で開催された上田氏の作品展。
戦時中の艦船は戦艦や駆逐艦乗りが「花形」ですが、「上田氏のライフワークは輸送船」で乗船した輸送船を最も愛していました。 -
上田氏は、静岡にある40年続く艦船模型の同好会である「静岡デルタクラブ・艦船研究会」の創立者(初代会長)であり、毎月1回例会があり小生もプラモデル模型に興味があるため、会員の友人に誘われて数回参加しました。
会員の模型作品は、下記の「旅行記」で紹介しました。( 2015.7.26.記 )
☆ 静岡市で設立40周年を迎える「デルタクラブ艦船研究会」の模型展を見学する! -
上田氏が乗船した、「金華丸の撃沈の画」。
大戦末期の昭和19年に優秀輸送船「金華丸」(レーダー搭載)に乗船して、「多号作戦(フィリピン防衛戦)」において兵員・物資の輸送任務に従事し、オルモック湾において11月より行っていた揚陸を成功させた。
しかし、マニラ湾にて敵機250機からの3日間に亘る空襲を受けて「金華丸」は沈没、船砲隊員の3分の2は戦死し、船首の砲座にいた上田氏は海に飛び込み、3、4時間漂流の後に一命を取り留めたものの、利き腕の右手と右足を負傷して障害を残しました。 -
朝焼けの暁空に、出撃する戦艦「大和」の雄姿。
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太平洋の大波を蹴立てて進撃する、大和同型二番艦の戦艦・「武蔵 」の雄姿。
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同上の迫力ある拡大図。
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静岡にあるプラモデル製品会社・「Hasegawa」の箱書き。
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第一航空艦隊の旗艦空母・「赤城」。
太平洋戦争初期の主要な海戦においては、連合艦隊機動部隊の旗艦として活躍しました。 -
ボックス・アート作品とは、プラモデル製品の箱に描く艦船の画のことです。
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箱絵の作者は、「上田毅八郎氏」及び「小松崎氏茂」が「箱絵画家の双璧」と称され、タミヤの模型製品の箱に描かれていました。
☆上田氏は、戦地から復員後左手だけで作業する「ペンキ職人」から、50才を過ぎてから戦地での記憶をたどり、艦船の箱書きを始めました。
☆小松崎氏は、東京出身の画家・イラストレーターで、日本画家を志望しましたが、後に模型の箱絵を描きました。 -
1/700 ウオーター・ラインシリーズの艦船箱書き。
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大海原を征く戦艦・「武蔵 」。
太平洋戦争の末期に、アメリカ軍のレイテ島上陸により生起した4つの海戦を総称して「レイテ沖海戦」と呼ばれています。
1. シブヤン海海戦 2. スリガオ海峡海戦
3. エンガノ岬沖海戦 4. サマール沖海戦。
戦艦・武蔵は「シブヤン海海戦」において、米海軍の雷撃機による数十発の魚雷攻撃をうけて撃沈されました。 -
クラシック・カーも描きます。
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写真のように精密な描写です。
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ドイツの乗用車には、外見から特別な「車格」を感じます。
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蒸気機関車も描きます。
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「撮り鉄マニア」憧れの蒸気機関車。
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まさに、「軍艦行進曲」=軍艦マーチの世界です。
1. 守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の
浮かべる城(しろ)ぞ頼(たの)みなる
浮かべるその城(しろ)日(ひ)の本(もと)の
皇國(みくに)の四方(よも)を守(まも)るべし
眞鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇(あだ)なす國(くに)を攻(せ)めよかし -
まさに、「軍艦行進曲」=軍艦マーチの世界です。
2. 石炭(いわき)の煙(けむり)は大洋(わだつみ)の
龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
彈(たま)撃(う)つ響(ひび)きは雷(いかづち)の
聲(こゑ)かとばかり響(どよ)むなり
萬里(ばんり)の波濤(はとう)を乘り越えて
皇國(みくに)の光(ひかり)輝かせ -
小生は、幼い頃から模型づくりが趣味で「軍艦~船~飛行機~自動車」に大いに興味がありプラモデル模型を作りましたが、決して「軍国主義者」ではありません!
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重巡洋艦・「妙高」。
連合艦隊は太平洋戦争開戦時に18隻の重巡洋艦、25隻の軽巡洋艦を保有していましたが、その殆んどを撃沈されました。 -
ともに連合艦隊の歴代旗艦を務めた戦艦。
上 :「大和」 :1942年(昭和17年) ~1943年(昭和18年)
下 :「長門」 :1920年(大正9年) ~ 1942年(昭和17年)
・・ この間「陸奥」と一時期交代
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日本海軍では、艦船の写真を厳重な「軍秘」としてほとんど公開していないため保存数はきわめて少なく、上田氏の艦船画は歴史的に貴重な存在です。
上 図: 戦艦 「日向」
下 図: 重巡洋艦 「足柄」 -
上 : 空母 ・「赤城」
下 : 輸送船・「サイパン丸」 -
上田氏の乗船した輸送船・「報国丸」。
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米海軍の空母。
上図 : 「エンタープライズ」
下図 : 「サラトガ」 -
「静岡デルタクラブ艦船研究会」の所蔵品絵画。
日本海軍に当初輸送船として徴用された後、病院船に転用された「氷川丸」は現在横浜港に保存展示中です。 -
クラシック・カーも描きます。
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レーシングカーも描きます。
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艦船~帆船~クラシック・カー~飛行機など「乗り物全般」と制作分野は広い。
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帆船の画も描いています。
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15世紀中頃から17世紀中頃、ヨーロッパ人による植民地主義的な海外進出
の大航海時代に、アジアを目指して南アフリカ共和国沖の波高い希望峰
(Cape of Good Hope)を航行する帆船。 -
ケープ・ホーン岬(喜望峰)の暴風雨の中を進む帆船の画。
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夕暮れの帆船は、風景のアート作品としても絵になります。
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港街の風景画としても、鑑賞できます。
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艦船の艦橋部分だけの「緻密なデッサン画」。
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飛行機と豪華客船の未来予想図。(50年前に描いたもの)
今まさに、この様な時代となりました! -
ニューヨーク港を出航する「KAIZER WILHELM Ⅱ世号」。
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現代の大型客船は、この様なスマートな船型となりました。
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当時の日本海軍の駆逐艦の船名は、カタカナ書きで右手から読みます。
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上図から、ゼロ戦、九七式艦爆機、九九式艦攻機、彗星(空母搭載機)。
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大型潜水艦・「伊-400号」は、特殊攻撃機3機を搭載して攻撃目標は「パナマ運河のゲート」でした。当時は世界最大の潜水艦でした。
< 船体の仕様 >
基準 :3,530トン( 常備:5,223トン)
水中 :6,560トン
全長 :122m
全幅 : 12m
速力 水上 :18.7kt(水中:6.5kt)
航続距離 水上 :14ktで37,500海里(水中:3ktで60海里)
乗員 : 157名 -
大型潜水艦・「伊-400号」。
甲板上の格納庫には、特殊攻撃機「晴嵐」3機の翼を折り畳んで搭載して、発艦には強力なカタパルトを利用しました。
現代で云うならば、ミサイル搭載の「戦略潜水艦」のような存在です。 -
基地港に係留中の2隻の「伊号・潜水艦」。
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空母・「隼鷹」。
「隼鷹」は建造途中の日本郵船の高速貨客船(橿原丸)を徴用取得して、航空母艦に改装したものです。 -
連合艦隊の大型空母・「 瑞鶴 」。
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連合艦隊の大型空母・「 翔鶴 」。
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砂浜に接岸する二等輸送船(上陸揚収船)。
日本海軍の輸送船は、最前線の戦地へ物資、人員、兵器を輸送するために、当初は民間の船舶会社から貨客船を徴用して活用しましたが、後に専門の輸送船=「一等~二等輸送船」を建造して、専用の輸送任務部隊を編成しました。 -
日本が軍国一色の社会情勢の中、「軍国少年の憧れ」の戦闘機。
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高速力35ノットを誇る軽巡洋艦・「阿武隈 」。
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重巡洋艦の砲塔に描かれた日の丸の塗装。
敵味方が入り乱れた海空の戦場において、味方の飛行機(艦攻・艦爆)による誤爆を防ぐため、上空から視認できるよう一番砲塔の上部に日の丸を描いてある重巡洋艦「三隈」。 -
速力35ノットを誇る軽巡洋艦・「長良 」。
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三本煙突の高速軽巡洋艦・「鬼怒」は、駆逐艦から編成された水雷戦隊の旗艦を務めました。
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海自の護衛艦・「おおすみ」。
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海自の護衛艦・「しもきた」。
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太平洋の群青の大海原を征く戦艦・「大和」。
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プラモデル製品の箱に艦船画を描いています。
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プラモデル模型のファンは、この箱書きを見ているだけでも楽しいです!
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連合艦隊の一部の空母には飛行甲板上に日の丸を描いていますが、敵の艦上攻撃機から攻撃の際に「恰好の標的」として、ロック・オンされる懸念はないのか …?
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太平洋戦争中日本海軍の「連合艦隊」は、幾多の海戦(作戦数・50回以上)において米海軍と死闘を繰り広げたが、その艦船のほとんどを喪失しました。
世界の海戦史上、まさに全滅:完敗です! -
< 大海戦における勝利の方程式 >
米海軍と比較して、日本海軍の「情報戦の概念の不足」と「作戦の策定上における戦略なき戦術のみの軍事行動」、「不十分な科学兵器の開発と活用」、「潜水艦の輸送船攻撃の有効活用」ならびに「物資、食料、兵器の輸送面での脆弱な兵站部門の欠如」および「大和魂の精神論だけ」では、近代戦の勝利は難しいと後世の軍事研究家は判定しています。
また艦隊司令官は、その人物の専門分野の知識、器量の有無に関わらず海軍兵学校の卒業年次順(ハンモック・ナンバー)に登用され、まさに勝敗を左右する重要な大海戦において作戦の判断ミスにより失敗した事例が数多くありました。
☆事例 ⇒ 「真珠湾の港湾施設への第二次攻撃ナシ」・「ミッドウェー海戦の空母出現への対応」・「レイテ島沖海戦の輸送船団への攻撃ナシ反転」など。 -
上 図 : 重巡洋艦「那智」
左下図 : 駆逐艦 「霞」
右下図 : 駆逐艦 「朝潮」 -
北海の氷山を背景に、ドイツ海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン号」。
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アメリカ海軍の「インディアナポリス号」:排水量 9,800トン 。
インディアナポリス号 (USS Indianapolis, CA-35) は、アメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦ですが、1945年7月26日にテニアン島へ原子爆弾を運んだ後、7月30日フィリピン海域において日本の潜水艦「伊58号」の雷撃により撃沈されました。
第二次世界大戦において、敵の攻撃により沈没した最後のアメリカ海軍の大型艦船でした。 -
「インディアナポリス号」を雷撃で撃沈した潜水艦・「伊58号」。
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米海軍の量産型「フレッーチャー級駆逐艦」は、太平洋戦争中に大量に建造、実戦に投入され大活躍しました。
☆ 175隻建造の量産型駆逐艦。
排水量 ( 基準):2,100t
満載 :2,850t -
上田毅八郎氏および小松崎茂氏は、艦船の写実的な画を描きひとつの「模型アート作品」の分野を確立しました。
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第二次世界大戦中アイスランド沖にて、英海軍と砲撃戦を繰り広げるドイツ海軍の巨大戦艦・「ビスマルク号」。
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プラモデル・マニアは、この模型の箱書き(ボックス・アート作品)を見て制作しようとする心が動かされます。
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第二次大戦中、僚艦として共同作戦行動したドイツ海軍の重巡洋艦。
上図 : シャルンホルスト号
下図 : グナイゼナウ号 -
1941年5月24日・独海軍の大西洋の通商破壊作戦=「ライン演習作戦」に出撃し、アイスランド沖にて「ビスマルク号」と砲撃戦の死闘を繰り広げた2隻の英海軍の戦艦。
上 図 : キングジョージ5世号(ビ号撃沈の立役者)
下図 : フッド号 (砲撃戦で撃沈される)
ちなみに、キングジョージ5世号の同型艦・「プリンス・オブ・ウェールズ号」は太平洋戦争の開戦初頭のマレー沖にて、日本海軍の大型雷撃機(九六式陸攻、一式陸攻)の攻撃を受けて撃沈されました。⇒ 1941.12.10.沈没 -
現在は、横浜港に係留中の日本郵船の高速貨客船「「氷川丸」。
日本海軍に徴用された日本郵船の高速貨客船・「氷川丸 」は、輸送船 ⇒ 病院船 ⇒ 引き揚げ船と数奇な運命をたどりましたが、現在は横浜港に歴史的記念船として保存係留されています。 -
太平洋戦争の末期に、船腹に「白十字マーク」を表示していたにもかかわらず、台湾沖で米海軍の潜水艦に撃沈された病院船・「阿波丸」。
戦時国際法の交戦規定によれば、「白十字マーク」を表示した艦船を攻撃してはならないと定めています。
⇒ 敵国の船舶であっても、病院船や沿岸救助用小型艇、などの非軍事的な任務を 担う船舶は特別の保護を受けているために攻撃・拿捕が免除されている。 -
連合艦隊および史上最大の空母・「信濃」。
< 船体の仕様 >
総排水量 62,000英トン・(公試排水量 68,059トン・満載排水量 71,890 トン)
全長 266.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
速力 27.0ノット
搭載機 47機 -
連合艦隊の巨大空母・「信濃」。
「信濃」は、日本海軍の建造中の大和型戦艦3番艦(110号艦)を戦局の変化に伴い、戦艦から航空母艦に設計変更したもので、艦名は旧国名の信濃国から命名されました。
しかし1944年(昭和19年)11月下旬、横須賀海軍工廠にて未完成のまま呉へ回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく和歌山・潮岬沖に沈没した。
信濃には、艦上戦闘機「烈風」20機、艦上攻撃機「流星」20機、高速偵察機「彩雲」7機の常用42機、補用5機、合計47機の搭載が計画されていました。 -
日本海軍の雷撃戦が得意な3本煙突の高速軽巡洋艦・「名取 」。
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軽巡洋艦・「夕張」。
「夕張」は日本海軍の軽巡洋艦ですが、武装類を全て中心線上に配置し2890トンの艦体ながら、5500トン級の軽巡洋艦と同等の砲備雷装を備えています。 -
「木曾」は、連合艦隊の球磨型軽巡洋艦の5番艦。
大正時代に建造された同型艦は、石炭焚きボイラーにより速力30ノット以上を誇り、特徴は艦首が半月型で3本煙突です。 -
荒天の太平洋を征く戦艦・「大和」は、「武蔵」とならび史上最大の戦艦で正式な呼称は「軍艦・大和」です。
< 艦体の概要 >
基準排水量 : 64,000トン・ (満載) 72,809トン
全長 263.0m
全幅 38.9m
最大速力 27.46ノット
乗 員 竣工時 :2,500名( 最終時 :3,332名) -
太平洋の大波の中を疾走する、連合艦隊の重巡洋艦・「鈴谷」。
ご本人は、輸送任務中に波長500m、波高50mの超大波を体験したと云う。 -
連合艦隊の重巡洋艦・「摩耶」。
艦体の煙突の白線の本数は、所属艦隊を表示します。 -
連合艦隊の重巡洋艦・「愛宕」のデッサン画。
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僚艦を引き連れて、艦隊行動中の戦艦「武蔵 」。
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< 駆逐艦戦隊の活躍 >
日本海軍の駆逐艦戦隊は、太平洋戦争中に日本からの距離:5,450kmもある決戦の地「ガダルカナル島」まで作戦行動で行き、また小さな船体にもかかわらず北はアリューシャン列島から南はセイロン島まで広範囲な海域を縦横無尽に活躍しました。 -
空母群に随行して、艦隊行動する重巡洋艦・「熊野 」。
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また艦船模型の箱書きを見て、子ども心に戻りわくわくする!
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航空巡洋艦に改装された重巡洋艦・「最上」。
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流麗な重巡洋艦の艦型。
上図 :「 最上 」
下図 :「 熊野 」
日本の艦船の中で、側舷から眺めた艦型が最も美しいと形容された「連合艦隊の重巡洋艦」の姿です。
特に外国の巡洋艦の船型にない「ゆるやかなシーア・ライン」を有する艦首からの前甲板の形状は、日本海軍独特の設計のものです。 -
南洋から北洋の海域まで、広く作戦行動する軽巡洋艦。
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ミッドウェー海戦にて、米海軍の艦上攻撃機、雷撃機により攻撃をうける空母「赤城 」。
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暁の空に出撃する戦艦「大和 」。
「大和」の最後は、1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦(沖縄への特攻作戦)において数次にわたる米軍機動部隊の猛攻撃を受けて、九州・坊ノ岬沖で撃沈されました。 -
大西洋の荒波にもまれるドイツ海軍のUボート「7C・9C」。
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巡洋艦は防御面でも重要区画(バイタルパート)が鋼鉄で防御されているため、艦体はとても重量があり、全速力で航行の際は前・後部甲板上は大波に流されています。
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軽巡洋艦・「夕張」。
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空母・「加賀」。
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空母・「飛龍」。
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戦艦・「陸奥」は、かって連合艦隊の旗艦でした。
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戦艦・「山城」。
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進化した船の未来予想図。
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上田氏は輸送任務の中で、実際に南方の海域にて眺めた海と空の「セルリアン・ブルー」の色を多用しています。
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重巡洋艦・「鈴谷」。
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波穏やか太平洋の大海原を征く戦艦「 武蔵 」。
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マリアナ沖の海戦で、米潜水艦の雷撃により撃沈された大型空母「大鳳」。
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ドイツ海軍を代表する大型戦艦「ビスマルク号」。
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前部甲板のみに砲塔を集中した、英海軍の異形戦艦・「ロドニー号」。
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米海軍の空母・「ホーネット」。
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国鉄時代の「こだま号」。
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富士山を背景に飛行する空自の「ジェット練習機」。
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空自の戦闘機・「F‐4ファントム」。
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静岡ホビースクエアーの入り口に展示中のガンダム像。
タミヤの常設展示会場で、JR静岡・南口を出て「ホテル・センチュリー静岡」3階にあり、徒歩5分で行ける交通アクセスの良い施設です。 -
レーシング仕様の「スズキ・オートバイ」。
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静岡ホビースクエアー(タミヤ運営)の中の展示品。
田宮俊作氏は、模型の品質管理とタミヤブランドの向上に努めてきました。
さらに、上田毅八郎、小松崎茂、高荷義之といったプラモ時代を代表するイラストレーターを起用して、プラモデルの顔となる箱絵をパッケージ装飾という役割を超えて発展させ、ボックスアート(模型の箱書き)と呼ばれる絵画様式を確立させました。
さらに、1994年より静岡模型教材協同組合理事長に就任して毎年5月(4日間)には静岡で定期的に開催される「静岡ホビーショー」を主催して、期間中には7万人の模型マニアの観客が来場します。 -
プラモデルの東京駅・丸の内駅舎。
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実物のゼロ戦のプロペラと、コックピットのメーター類とカウリング部分の展示。
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「世界の模型首都・静岡」のホビースクエアのPR模型図。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 黒田(温泉)さん 2016/10/09 09:28:07
- はじめまして。
- 風 魔さん
はじめまして。
「
艦船・海洋画家の「上田毅八郎氏の追悼作品展」を鑑賞する! 」を拝見いたしました。
素晴らしいイベントですね!
本日が最後の展示日でしょうか?
私は、10月27日に「静岡市」に「リピート山中」さんのコンサートがあり、さいたま市から参加予定です。
静岡の街は、今度で3回目です。
駅前に「静岡ホビースクエア」あるそうですから、時間のやりくりをして訪ねてみたいです。
その日!「イベント」はないようですが、常設展示の物も面白そうですね!
情報、ありがとうございました。
いつも、拙「4トラ」をご覧頂き、ありがとうございます。
なお、ホームページ「温泉ウォーキング/浦和発」はこちら↓↓です。
http://www.ne.jp/asahi/kuroda/onsen/
併せて、よろしくお願いします。
- 風 魔さん からの返信 2016/10/09 11:24:49
- RE: はじめまして。
- > 艦船・海洋画家の「上田毅八郎氏の追悼作品展」を鑑賞する! 」を拝見いたしました。
> 素晴らしいイベントですね!
> 本日が最後の展示日でしょうか?
>
> 私は、10月27日に「静岡市」に「リピート山中」さんのコンサートがあり、さいたま市から参加予定です。
> 静岡の街は、今度で3回目です。
> 駅前に「静岡ホビースクエア」あるそうですから、時間のやりくりをして訪ねてみたいです。
> その日!「イベント」はないようですが、常設展示の物も面白そうですね!
> 情報、ありがとうございました。
初めまして、コメントありがとうございます。
上田氏の追悼展は本日9日まで開催されていますが、プラモデルに関心があるならば「静岡ホビースクエア」は常設の展示場(タミヤ運営)ですので、いつでも無料見学できます。
場所は、JR静岡駅の南口を出て目の前の「ホテル・センチュリー静岡」の3階にあり徒歩5分で行けます。
またタミヤ本社工場は、駅からタクシーで15分位ですが、見学の予約受付は可能です。
さらに清水港の荷役施設〜船舶に興味があれば、清水港にある「フェルケール博物館」では、常設の展示以外に特別展が開催されています。
またの訪問と情報交換を!
風 魔
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