2016/08/08 - 2016/08/10
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ねいちゃさん
会津旅二日目、8月9日(火)の続きです。
会津若松観光の手始めに「武家屋敷」見学を終えた私らは
次に今旅のメイン「会津若松城」へ行くことにします。
会津若松市の見どころって「鶴ヶ城」と「白虎隊」だろうと思うのですが、
小さな町なので、車移動では15分もあれば次の目的地に着きます。
だから一個一個丁寧に回っても、じっくり見て回れるのは有り難いです。
曇りがちの空だったのが、ちらほらと晴れ間も見えてきました。
では、ぼちぼち行きましょうか。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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新島八重[にいじまやえ]銅像
幕末から昭和まで生き抜いた女性で、同志社の創立者の新島襄の妻として有名なお方。
2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公で、綾瀬はるかさんが演じましたね。
私はこの大河は見てないので、詳細はよく知りませんが、
今回の旅で、「賊徒」となる会津の人々を追いかけてみたいと思います。新島八重之像 名所・史跡
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この辺りは江戸時代には三の丸がありました。
現在では城外にあたっていて、福島県立博物館や旧会津陸上競技場となっています。
ここに駐車場が設けられていたので、ここに車を停め城内に向かうことにします。福島県立博物館 美術館・博物館
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三の丸から二の丸へむかう途中にある堀。
会津若松城の堀って幅が広いっすね。
かつて、難攻不落と言われた一端を垣間見た気がします。 -
二の丸手前。
かつてはここも枡形虎口で、しっかりとした東の備えとなっていました。 -
現在はテニスコートなどのスポーツ施設となっており、市民の憩いの場のようです。
写真は、会津降伏後に山本[新島]八重の心の声を詠んだ歌の案内板です。
〜明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月影 〜
子供の頃から眺めていたお城が、明日からどこの国の誰の手にわたってしまうのか
八重の無念さがヒシヒシと伝わってきます。 -
二の丸から本丸までの堀。
幅が広く、左手の石垣も堅牢な作りとなっています。
今まで色んなお城を見てきましたが、ここまで広い堀って見たことないなぁ。 -
二の丸から本丸へつづく廊下橋。
二の丸が突破されたら、いつでも落とせるように木橋となっています。 -
ここでやっと天守閣が顔をのぞかせてくれました。
正面はどこの城にみられる枡形虎口がはっきりと見てとれます。
もっとも往時は櫓がありましたから、こんな風には天守は見えなかったでしょうが。 -
イチオシ
瓢箪堀[ひょうたんぼり]
右手の石垣の高さやその切り立ち具合は半端ないです。
どう攻めても攻略できない堅牢さ。
会津戦争の折には、藩の主力は出払っていて、この辺りを守る兵は少なく新政府軍の突破を許したわけですが、最初から籠城をしていれば簡単に落とせなかったと思われます。 -
枡形虎口を抜けると正面の天守に直線的には向かえず、右手に迂回させられる作りとなってます。
ここからも敵軍を狙えるようになっていたわけです。もっとも兵がいればの話ですが・・・。
この石垣の反対側に、かつては本丸御殿がありました。 -
野面積みでしょうか?
苔むした感じがなんともいい風情です。
こういう時を経た城址というのが、私的には大のお気に入り。 -
迂回路を進むと天守が眼前にそびえ立っていました。
思わず「おぉ〜!」と声をだしてしまう瞬間。 -
江戸時代にはここには埋門[うづめもん]があって裏門となっています。
築城当初は、この東側が表門だったのですが、
寛永年間の加藤家の時代に城の勝手口に変更されています。 -
会津若松城天守閣
さぁ城内に入城しましょう。
天守閣 大人410円、小中学生150円
麟閣共通券 大人510円
営業時間 8:30〜17:00(入場締め切りは16:30)
(2016年8月現在)鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
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会津若松城の見所は実はこの瓦・・・何となく「赤く」ないですか?
そうなんです。
平成23年には赤瓦へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現しました。
現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守閣となっています。
あの八重や白虎隊が見ていたのも、赤い瓦の鶴ヶ城だったんですよ。 -
それにしても、なぜ赤い瓦なんでしょう?
色々言われているようですが・・・
会津松平藩の藩祖保科正之の時代の1648年頃に葺き替えられたことが記録にあって、
表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があって、
会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えられるからだと言われています。 -
会津若松城(鶴ヶ城)
鶴ヶ城は室町時代の初め、今から約630年前の1384年に蘆名直盛[あしななおもり]が
東黒川館として造営したのが始まりとされています。
お城といっても当時は天守閣はなく、館程度でした。
戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖盛氏が出て、
黒川城を中心に広大な版図が築かれました。 -
イチオシ
1589年、蘆名氏と長年争いを繰り返していた伊達政宗は、
豊臣秀吉の「惣無事令」に従わず蘆名義広を攻め、
蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にします。
しかし、政宗は北条討伐の折り、1590年に秀吉に臣従し、
会津を召し上げられてしまうのです。 -
その後、会津の地を任されたのが、蒲生氏郷[がもううじさと]で、
町の名を黒川から「若松」へと改めます。
ちなみに「若松」の名は、蒲生氏の氏神を祀る神社の参道近くにあった
「若松の杜」に由来すると言われています。 -
1593年、望楼型七重の天主が作られ、名も「鶴ヶ城」に改められました。
また、近年の発掘調査で、蒲生時代の石垣の基底部が確認され、
瓦の一部に金箔が貼られたものが出土しているそうです。
現在は五層の天守閣ですから今よりも立派で、
周囲は黒壁に塗られて、まるで安土城のようだったとも言われています。 -
以前もお話したと思いますが、
黒は豊臣系、白は徳川系のお城とざっくり思えばいいので、
豊臣恩顧の蒲生家の城は、やはり黒になるんですね。
写真は、2001年に復元された南走長屋。 -
細長いアンテナ?のように見えている棒の向こう・・・
あの山が白虎隊が自決した飯盛山になります。
白虎隊のお話については、また後ほど・・・わくわく(笑) -
蒲生氏郷の支配の後、越後の上杉景勝が120万石で入封。
しかし、上杉景勝は1600年の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍についたため、
戦後、徳川家康により、30万石に減封され、出羽の米沢に移されました。
1601年蒲生秀行(氏郷の子)が入城しますが、
嫡男忠郷に継嗣がないまま亡くなってしまったので、
忠知(秀行の次男)が継ぐも、伊予の松山に移封されます。
その松山の城主である加藤嘉明[かとうよしあき]が、代わって会津に入封。
その子の明成は西出丸や北出丸などの造築を行いました。 -
加藤嘉明って誰?って思われる人も多いかな。
秀吉子飼いの武将の一人で、加藤清正・福島正則・脇坂安治らとともに「賤ヶ岳の七本槍」の一人といえば、「あぁ」と思われるかもしれません。
朝鮮出兵の折りにも、淡路水軍を駆使し、かの李舜臣とも戦い戦果をあげた勇将です。
秀吉からもその勇猛さを激賞され、国主大名に取り立てる話もありましたが、
秀吉薨去により実現しませんでした。 -
面白いお話を一つ。
加藤嘉明と藤堂高虎は、朝鮮出兵の時も武勇を争い、
領地も伊予の国の今治と松山で隣接していて、しのぎを削る間柄。
仲がいいとは言えないというより、むしろ思い切り犬猿の仲。
2代将軍秀忠は要項の地である会津に、藤堂高虎を封ずるつもりだったのですが、
高虎は高齢と遠方を理由に嘉明を推薦しました。
秀忠は「おまえたちは不仲だったのではなかったか?」と尋ねると、
高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と推挙しました。
後にこの話をきいた嘉明は、いたく感銘し以後は水魚の交わりの如くなったといいます。
この時代に名をなした武将らしいエピソードだと思いませんか? -
2001年に復元された南走長屋[みなみばしりながや]
お土産屋となっている走長屋の奥から、靴を脱いで板の間を抜けると
鉄門[くろがねもん]の上に出て、その先に南走長屋があります。
この遺構は古地図や絵図・写真などを参考に、
使用する木材なども吟味されて忠実に復元されています。
詳細は会津市のHP「甦る鶴ヶ城 干飯櫓の復元」をご覧下さい。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/index.htm -
江戸時代の人の平均身長と背比べ中。
「おぉ高いやん!」「私160はあるわよ〜・・・?」
う〜む、そんな変わんないような気も・・・。
歳とって縮んだか?! -
さて、城主のお話の続きをば・・・。
えっと、どこまで話ったけ?あぁ加藤嘉明が城主となりましたってところだったね。
秀吉の子飼いの武将たちのうち、武闘派を一気に味方につけた徳川家康は、
関ヶ原の戦いに勝利します。
ここから徳川政権の幕開けとなっていくのですが、加藤嘉明もまた、
福島正則らと同様に徳川方の武将となって伊予から会津に封じられます。
ところが、2代目の明成は「暗愚」。
そんな時に会津を揺るがす大災厄が起こるわけです。 -
イチオシ
1611年会津地方を襲う直下型地震が起こりました、いわゆる会津地震。
マグニチュードは6.9、ただ震源が浅かったため、
局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされています。
記録によれば、倒壊家屋は2万戸余り、死者は3700人。
鶴ヶ城も石垣が崩れ落ち7層の天守閣が傾いたほどであったそうです。
熊本地震で、熊本城の櫓の石垣が崩落した惨状を見て心を痛めたものですが、
会津でも400年前に同様の地震があったのですね。 -
イチオシ
再建される際、七層あった天守閣は、現在のような五層に縮小されます。
写真を見てわかりますか?
石垣は蒲生氏郷の頃のもので「野面積み」です。
それに比して天守閣は端まで来てませんよね。
かなり内側で収まっているので城壁でカバーされています。
七層の頃は石垣の稜線から真っ直ぐ上に伸びた天守閣があったんはずなんですよ。
面白いですね〜。実に面白い。鶴ヶ城 (若松城、鶴ヶ城城址公園) 名所・史跡
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1631年加藤嘉明は病を得て亡くなり、1643年2代目の明成は改易されます。
その後、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。
以後、明治維新まで保科から改名した会津松平家の居城となるわけです。
これで会津=松平家となって、いよいよ幕末の動乱の時代に進めますね。 -
イチオシ
良かった・・・白虎隊までに、松平家が出てこなかったらどうしよう・・・
と心配しておりましたが、何とか間に合いました。(笑)
野面積み・・・写真でわかりますか?
近世の石垣は角の石が加工されていて、人工美を醸し出すんですけど、
野面積みでは自然石をほぼそのまま使うので、
写真のように空間が開いてしまうんです。 -
上方の近代的な天守閣と凸凹した石垣のバランスが取れてませんよね。
でも、これが会津若松城の魅力なわけです。
天守閣は写真的にはとても絵になる素材ですけど、
そこだけを美しく切り取ったりしないという、
歴史好き目線の一端を見ていただくのも醍醐味だと思ってます。
歴史好きな輩は、こんな風に見てるのかと知ってもらえると、ちょっと嬉しい。(笑) -
ご堪能いただけましたでしょうか。
お城にはいろんなドラマがあります。
敗軍兵として仰ぎ見た時の絶望的な美しさが、この鶴ヶ城にはあるということを
ご理解いただけたら、きっと違った目線で見ることができますよ。 -
こんな風に望むと何の変哲もない再建天守閣・・・なんだけどね〜。
360度から天守閣を眺めてみたかったんですけど、
やっぱ暑いのでバテちゃいました。 -
この辺りにある管理センターでは、写真のような御朱印が貰えます。
御朱印集めをされてる方は是非。
しかし、城に御朱印というのは多少の違和感がありますが・・・。
歴代城主の家紋があしらわれているので、これはこれで面白い。 -
今まで語ってきた歴代城主さまの家紋です。
主が変わる中、天守閣もまた変わっていく。
城そのものに歴史があり、歴史の中に人が生きてる・・・。
面白かったです、ココ。 -
「えっと、お昼になったけど、どっかでメシ食う?」私
「朝一杯食べたから、いらなーい。」嫁
「あぁそう、会津名物ソースかつ丼は?」私
「無理!(怒)」嫁・・・今日は昼飯抜きだな、こりゃ。 -
じゃあ、一気に飯盛山へ行きますか。
ここから会津の悲劇パート2の始まりです! -
松平容保[まつだいらかたもり]
会津藩9代目の城主。8代の容敬は叔父で養子となります。
「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったそうです。
後継者となって以降、会津式教育の薫陶を受け、
会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対的服従を叩き込まれ、
のちの容保の行動指針となっていきます。
家訓第一条「一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」
会津の後継者たるもの、主家である徳川に決して二心を抱くべからず・・・
これが容保の行動指針・・・何があっても徳川への絶対服従。
この選択肢の無さが、会津に悲劇をもたらすことになります。 -
飯盛山にやってきました。
ここは皆さんもご存じの白虎隊が自刃した場所。
長い階段があるんですけど、脇に250円だったかな?
動く歩道があってスイスイと山頂へいざなってくれます。
体力は使うべき時に使うのが、私らのモットーなので(笑)
ここは温存させてもらっています。飯盛山スロープコンベア 名所・史跡
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山頂に到着。
資料館のようなものがあって、そこで御朱印を書いて下さるというので、
いただいてまいりました。
飯盛山全体が白虎隊への追悼の場所
・・・ここは神域となっております。 -
嫁が御朱印をもらってる間に、少し風景写真を・・・。
おぉ、鶴ヶ城が見えてますね。
白虎隊が最期に見た景色はこんなものだったのかもしれません。 -
「忠烈白虎隊」の文字の造型が実に美しい。
「會津白虎士魂ここに眠る」・・・神となられた隊士の御霊の住まわれる場所。
この御朱印、実際に目の前で書いていただいたのですが、
この方不在が多くて、通常は予め書かれたものをいただくのが普通だそう・・・。
私たち、むっちゃラッキーだったんです〜。
日頃の行いの成果、有り難いことです。(笑) -
こちらは通称「さざえ堂」。
上からみた様子ですけど、後ほどお邪魔させていただきます。 -
会津藩殉難烈婦碑
山頂にやってまいりました。
暑い最中でも、ふっと霊気を感じる深淵な場所。
会津戦争で自刃または戦死した女子二百余名の霊を弔うために昭和3年に建てられた顕彰碑。
西郷頼母親族や中野竹子さんが祀られている石碑です。烈婦の碑 名所・史跡
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白虎隊[びゃっこたい]
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の
武家の男子によって構成された部隊。
中には年齢を偽って参加したものもいました。
他にも幼少組として13歳の少年も加わっていたそうです。
名前の由来は、中国の四神、玄武・朱雀・青龍・白虎が元となっております。 -
鳥羽伏見の戦いで新政府軍の仇敵となった会津藩ですが、
江戸が無血開城されたことで、憤る新政府軍の「闘気」のはけ口と
なったのが会津戦争。
その暴虐さは凄まじく、略奪・強姦・殺戮・・・と
ありとあらゆる鬼畜の行為の犠牲の的となってゆく会津。
そんな中で、会津を守るべく組織された白虎隊・・・
彼らの潔さとは無縁の暴力に為す術はありませんでした。
写真は「少年武士慰霊碑」 -
ここで自刃したのは20名なのですが、
白虎隊という組織は本来340名を誇る大部隊でした。
部隊といっても年少者たち、あくまで予備兵力にすぎない存在で、
前線に出ることは想定されておりませんし、
装備も火縄銃に毛の生えたレベルの旧式銃しか持っていませんでした。
しかし、この世はあくまで残酷です。
主力部隊が壊滅し、この白虎隊が前線に担ぎ出される事態となっていくのです。
写真は「松平容保弔歌の碑」松平容保碑 名所・史跡
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イチオシ
若年兵の投入が「焼け石に水」なのは誰もが承知のこと。
それでも会津の老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては、
白虎隊も各防衛拠点へと投入されていくのは
仕方のないことなのかもしれません。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、
最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされてゆきます。白虎隊の墓 名所・史跡
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白虎隊の一番隊は城主護衛の任につき、
二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走します。
戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら
郊外の飯盛山へと落ち延びていくのです。 -
ボロボロになりながら、飯盛山から城下を見下ろした時、
鶴ヶ城が紅蓮の炎に焼かれる様を見ることになります。
もっとも彼らが見た景色は、戦闘による城下が焼き払われた状況で、
まだ鶴ヶ城は落ちてはいなかったのですが、
通説ではそれを見誤ったと解釈されています。
しかし、唯一の生存者である飯沼貞吉の手記には、
鶴ヶ城はいまだ健在と記されています。
写真は「白虎隊が会津各地で戦死した31名の墓」 -
でも、もう彼らには余力は残ってなかったのでしょうね。
小さい時から会津魂を植え付けられ、生きて虜囚の辱めを受けるくらいならと、
潔い自刃を選択したのだと容易に察することができます。
極限状態においては、生きることの難しさより、
死んだほうが楽だという意識が働いてしまうことも想像できるというものです。
かつての旧日本軍の玉砕にも通ずる気概、もうよいと思う気持ち、
そんな死地に臨んだことは一度もありませんが、
それでも何となくわかる気がします。 -
現世にたっぷりと未練を残している私には、
到底選ぶことのない選択でしょうけど、
愛する人々が何らかの事故や災害で亡くなったとして
たった一人この世に残されたとしたら・・・。
生きる方が辛いと思える境地に彷徨うことは想像に難くない。
白虎隊の眼前に繰り広げられた光景は、
まさにこういうものだったのかもしれません。
写真は「嗚呼、忠烈白虎隊の碑」 -
ここで自刃した白虎隊の遺骸は、新政府軍によって弔うことすら許されず
野ざらしにされ、見せしめとされています。
約三か月後、村民によって妙園寺に運ばれ、仮埋葬され、
その後、自刃した場所に改葬されたそうです。
現在の十九名の墓が建立されたのは、明治二十三年のこと。
会津戦争から23年の月日が経過しています。
写真は「ローマ市寄贈の碑」フォン エッツ ドルフ氏寄贈の碑 名所・史跡
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上記の石柱は、ポンペイで発見された石柱で、
「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、
古代ローマの権威を表すファシスタ憲章の鉞を飾り、
永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
と刻まれています。
イタリアと三国軍事同盟を締結していた頃の名残でしょうけど、
ちょっと政治利用が甚だしくて好きになれませんね。
新政府軍の末裔の一部は、昭和の軍部となっていますから、
そこまで利用(愚弄)しなくてもいいんじゃない? -
飯沼貞雄
飯盛山の白虎隊で唯一生き残られた方です。
今日、白虎隊の最期が正確に分かるのは彼が存命されたお蔭。
当時は貞吉といい、15歳ながら長身だったため1歳偽って入隊を果たします。
8月22日戸ノ口原に出撃するも敗走、翌23日早朝四時頃、
ここ飯盛山で皆とともに喉に刃を突き立てましたが、死に切れませんでした。飯沼貞雄の墓 名所・史跡
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彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われています。
ハツには貞吉と同じ年頃の息子がいて、その子が戻らないので、
飯盛山に探しに来た所、まだ息のある貞吉を見つけたそうです。
その後、医者を求めて塩川に辿り着き、
町医者三本住庵や長岡藩の軍医阿部宗達・吉見雲台が治療して
何とか一命をとり止めたと言われています。 -
歴史は常に残酷です。
彼を生かすことで、彼に何を語らせ、彼に何をさせようとしたのか。
長州藩士楢崎頼三に引き取られ、敵国の長州で生活します。
その後も貞吉は何度も自死を試みますが、生き直すように諭され
一度は死んだ身を日本のために、活かそうと考え方が変わってゆきます。 -
その後、貞吉は貞雄と改名し、1870年には静岡の塾で学び
1872年に工部省技術教場に入所して、電信技師となります。
その後、電信部門を中心とした各地での勤務を経て
1894年には日清戦争のため、大本営付となり技術部総督として出征もしました。
日本の電信電話の発展に貢献したことにより、正五位勲四等を受章しています。 -
白虎隊が自刃した場所に立つ、鶴ヶ城を仰ぎ見る少年兵士像
城下町が燃えている・・・「もはや、これまで」と確認した像です。
白虎隊と大戦中の特攻隊・・・私の中ではいつもなぜかリンクして見えてしまいます。
大きなうねりに飲み込まれ、自分の想いや感情を捨てて、大義のために命を燃やすことになった若き魂。白虎隊士自刃の地 名所・史跡
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イチオシ
飯沼貞雄は1881年に広島藩士松尾錬太郎の娘れんと結婚、3人の子に恵まれました。
退職後は仙台に住み続け、晩年は會津三園會のメンバーとなります。
1931年2月12日、仙台にて永眠。墓は仙台市内の輪王寺にあります。
「死後若し形見のものを会津の方へ持って葬りたいという話があったら、これをやれ」と、髪と抜けた歯を収めた箱を渡して遺言しています。
1957年、戊辰戦争九十年祭の時、前島会の手で飯盛山に墓碑が建てられますが、
貞吉は白虎隊のことを一部の史家以外にはほとんど話さなかったそうです。
生き恥という言葉が、最期まで語らせなかったんだと思います。 -
最後に一つエピソードを。
日清戦争に従軍中、危険だからとピストルを持参するよう促した者に対して、
貞雄は「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と言って笑ったそうです。
この言葉が飯沼貞雄さんの全てを表していると思えてなりません。さざえ堂 寺・神社・教会
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さざえ堂
通称は「会津さざえ堂」で、正式名称は「円通三匝堂[えんつうさんそうどう]」。
平面六角形の特異な建物で、三層構造となっています。
内部には二重らせん構造の斜路が続いていて、
右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在しています。 -
入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、
別の斜路を降りて出口から出ることができます。
面白い建築物ですよね〜、
拝観料を払えば、こうして実際に上ることもできます。 -
木造建築の危うさはあちこちに見受けられますが・・・。
こういう様式で、私的に真っ先に思い起こすのは
ダヴィンチのシャンボール城。
実際内部には入れなかったんですけど、どうしても見たかった建築物。
洋の東西を問わず、人が考えることって似てるもんですね。 -
そういえば、バチカン美術館も・・・入口から二重螺旋構造になってましたね。
こちらはお邪魔したことがあるんですけど、
二重螺旋は通る分に関しては、そうとは感じさせないんで、
指摘されて初めて気づくような、そういう建築なんですよね。 -
最上階、ここから下りの螺旋となります。
さざえ堂は小規模なので、下る合間に上る階段が垣間見れます。
これはこれで楽しい空間。
こんなん、よぅ作らはったなと感心します。 -
かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸時代後期の1796年に
当時の住職であった郁堂[いくどう]が建立。
当時は斜路に三十三観音像が安置されていたそうです。
往復路が一本道という構造は、その堂を上り下りするだけで、
三十三の観音巡りをしたことになります。
明治の廃仏毀釈で正宗寺は廃寺となり、三十三観音像も他所へ移されています。 -
かなり面白い構造で、螺旋がどうなっているのか
実際歩いてもよくわかんなかった。
一説によると、ダヴィチの二重螺旋が日本まで渡ってきて、
それを元に郁堂和尚が作らはったとも言われていますが、
どうなんでしょう? -
イチオシ
とっても面白い建造物なので、拝観料400円は高めですけど
是非堂内を歩かれることをお奨めします。
でっかい地震来たら、崩壊は避けられそうもないのでお早めに。
この向かいのお土産屋さんでも御朱印がいただけます。
こちらは判子で筆書きではありませんが、記念ですしね。 -
大変珍しい建造物なので、1995年6月27日、国の重要文化財に指定されました。
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さざえ堂の前の階段を下っていくと、小さな祠の神社があります。
厳島神社
かつては宗像神社と言っていたんですが、神仏分離令が出された時に、
改名されたそうです。
宗像三女神の一人市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]を祀る神社で
有名な安芸の宮島の厳島神社は総本社になります。厳島神社 (会津若松) 寺・神社・教会
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戸ノ口堰洞穴[とのぐちせきどうけつ]
右手奥に穴が開いていてそこから水がドボドボと湧き出てきます。
これが戸ノ口堰洞穴で、猪苗代湖から会津地方へ水を引くため掘られた堰で
トンネルの長さは約150m、工事にかり出された人夫は5万5千人。
完成後には2500haの灌漑が可能になり、会津藩には絶大な恩恵となりました。
こんな洞穴にも白虎隊の足跡が残っています。
白虎隊士中二番隊二十名が鶴ケ城に戻るために逃げ延びた洞穴がここなんです。戸ノ口堰洞穴 名所・史跡
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戸ノ口原の戦い
8月22日、戦略上重要拠点であった十六橋が突破されると、
会津城下は無防備な状態に陥るため、懸命な抵抗をみせたものの
押し寄せる新政府軍になすすべはありませんでした。
白虎隊は藩主容保護衛のため滝沢村へ行く途中、戸ノ口原より救援を求められ、
そちらに向かうことになりました。
会津軍は奮戦するも空しく、次々に退却していきます。
白虎隊も心身ともに疲れ果て、散り散りになりながら、鶴ヶ城を目指しました。 -
このとき本隊とはぐれた白虎士中二番隊の20名は、
城下に戻るため、この堰を通ってゆきました。
ここから見ても真っ暗なトンネル、季節は夏だったので寒くはなかったでしょうが
あんな暗い通路を、腰まで水に浸かりながら、
失意の中進んだ彼らの胸中はどんなものだったんでしょう。
その上に、死地を抜けどうにか飯盛山に辿り着き、城下が紅蓮の炎に焼かれる様を見た白虎隊。
生きる希望も、頼るべき縁も失ったと思えた瞬間。
彼らの自刃は、衝動的でもなく、極々自然の帰結だったのでしょうね。 -
彼らの無念さを、ここに来てようやく感じることができました。
正直に言うと、ただの軟弱者だったのじゃないかと、
どっかで上から目線で見ていたんですけど、
この地に立って、彼らの絶望感がヒシヒシと伝わってきます。
飯盛山はまさに神域。想像力を思い切り働かせて、
是非この場所に皆さんも立ってほしいと思います。 -
会津の歴史を堪能させていただいた私たちは、本日最後の観光拠点、
七日町に向います。
ノスタルジックな街並みを拝見する前に、礼儀として会津の根幹を
作られた蒲生氏郷公のお墓参りは欠かせませんよね。蒲生氏郷の墓 名所・史跡
-
大変分かりにくい場所にある御廟所です。
辿り着くまでに何度も行ったり来たりして、ようやく見つけることができました。 -
あれこれ言いながら、なんか昔の方々のお墓参りという程に
なってきておりますが、これをやっとかないと収まらないというのも事実です。
歴史散策の醍醐味でもあり、これを欠かすと画竜点睛を欠くっていうもんです。 -
この辞世の句は秀逸。氏郷さんの教養がほとばしっております。
「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」
〜風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。
それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか〜
蒲生氏郷は享年40で亡くなっています。
今なら考えられない早世・・・そんな想いがよく伝わってくる歌ですね。 -
さて、本日最後の観光、阿弥陀寺に辿り着きました。
ここには会津藩(東軍)の墓石があります。
会津戦争で亡くなった方々、埋葬すら許されなかった方々のお墓です。
1300というとてつもない数の遺骸が埋葬されております。阿弥陀寺 寺・神社・教会
-
阿弥陀寺は会津戦争で堂宇が焼かれ、鶴ヶ城の小天守であった御三階が移築され、
仮本堂となった歴史を持っています。
また、ここには飯盛山にあった正宗寺の大仏が移された場所でもあり、
会津戦争とは切っても切れない因縁のお寺さんなのです。 -
阿弥陀寺は1603年、蒲生秀行の時代に良然[りょうねん]が開山しました。
戊辰戦争後、会津藩の戦死者の遺骸は西軍の命で放置され、
触ることすら許されませんでした。
幾度もの嘆願で、翌年になりようやく埋葬が許可されますが、
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、ここ阿弥陀寺には
千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました。 -
新選組隊士 斉藤一[さいとうはじめ]=藤田五郎の墓
1863年、新選組に参加した斉藤一は、三番隊隊長として活躍します。
会津戦争の折には、仙台で再起を図ろうとする土方歳三に、「会津侯あっての新選組、会津を見捨てることはできぬ」と袂を分かったと伝えられています。
降伏後は、一時幽閉されるも、後に警視庁に加わり、会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚、西南戦争にも従軍しました。
1915年七二歳で死去、会津人として生きた本人の希望により、ここに眠っておられます。斉藤一の墓 名所・史跡
-
この方、「るろうに剣心」で「牙突」という技を繰り出す、ニヒルな二枚目ですけれど、実在の人物は熱い方だったようですね。
奥さんの高木時尾は、新島八重の親友だった人で、会津戦争で八重が男装して出撃する際、髪をうまく切れないでいるのを手伝ったと言われています。
夫の藤田五郎との間に三人の子をもうけ、ご子孫は今も東京で住まわれているとか。
会津女性らしい、気丈で優しい方で、夫の五郎とともに、阿弥陀寺に眠っておられます。 -
御三階[ごさんかい]
元々は鶴ヶ城本丸にあった建物で、明治3年に移築され、本堂として使用されました。
外見は、三階建てなのですが、内部は四階になっており、秘密の会議などが行われた場所だと言われています。 -
入れないので、内部の様子はわかりませんが、
解説によると、二階から三階にかけての階段は跳ね上げ式になっていて、
下からの進入を防ぐ構造。
床板は鶯張りで足音が鳴るように作られているとか。
この辺が秘密の会議の場所と言われる所以なのでしょう。 -
一説によると、蒲生氏郷がキリシタンであったため、
礼拝堂だったとも言われています。
でも蒲生時代の天守閣は残ってないので、これだけが蒲生時代というのもね。
お話としては説得力がありそうではありますが、ミスリードさせるものかも? -
ただ江戸時代の会津若松城の遺構で、現存する唯一の建造物というのは、
間違いなさそうです。
また、正面の破風は移築の際、本丸御殿から同時に
移築されたものとのこと。
確かに建物に対して、破風がでっかいなぁと思ってました。 -
渋川問屋
「渋川問屋」は阿弥陀寺近くに位置し、ランチや宿泊もできるお店になっています。
ただし、見学だけの入場は不可。ちょっとケチですね。(笑)
http://shibukawadonya.com/index.html -
七日町通りに面した木造2階建の店舗は、大正時代に建て替えられたもの。
その中の2階の離れにある6畳間は二・二六事件に連座し、
民間人として処刑された渋川善助ゆかりの部屋があるそうです。
が、二・二六事件まで語りだすとキリがないので
今回はパス。(→安心してください、語りませんよ) -
七日町通り
七日町通りは会津五街道のうち米沢・越後・下野の主要な街道となる城下町の
重要な通りで、会津一の繁華街として、現在も古い蔵や洋館・木造町家などの
建物に見ることができます。
ただ、行った感じでいうと、まだまだ開発途上かな。
少し垢抜けてない気がしました。
会津七日町通りのポータルサイト
https://www.nanukamachi.com/ -
夏の献立−二日目の夕食
食前酒 すもものしずく
先付 焼き茄子のかつお掛け
前菜 裏磐梯のじゅんさい・きゃらぶき・酵母牛の美酒佳肴焼き・赤大根の甘酢漬け・花嫁ささぎ・アスパラのオリーブ和え
向付 大豆の美味しさ香ります 会津生湯葉
蓋物 会津の郷土料理 棒たら
強肴 ぜんまい煮
台の物 会津の山里朴葉焼き 福島酵母牛・きのこ
お凌ぎ 竹の子の蒸し寿司
進肴 おかひじきのからし和え
焼物 ミニトマトのベーコン串
揚物 会津地鶏の串天ぷら
汁 新玉葱のかき玉汁
ご飯 米どころ会津のこしひかり
香の物 人参の三五八漬けときゅうりの山葵漬け
デザート 向瀧限定 美酒佳肴のシャーベット -
もう満腹・・・動けん! む?!
しまったぁぁぁ、忘れてたぁぁぁ!
庭の夜景撮らなきゃ。
色んなガイドブックとかで掲載されているヤツ。
これを撮らないと、向瀧さんに来た甲斐がない・・・。 -
イチオシ
この中庭から奥の木造3階建てを望む感じがいいんですよね。
三脚使用ですけれど、縦向きに変えたいところですが
もって来た三脚ボロイので、すぐ足がへた〜ってなる。 -
無事に立ってくれてる間に・・・
3万くらいでカーボン製で軽いの買おうかなぁ。
今の環境と私の腕ではこれが限界。 -
もう正面玄関、木戸を閉められている途中だったのですが
「すいませ〜ん、ちょっと建物の夜景撮らして貰っていいですか?」とお願い。 -
イチオシ
「ならぬものはならぬ」と言われるわけもなく、
満面の笑顔で「どうぞ〜どうぞ〜」とダチョウ倶楽部さんのように・・・。 -
扁額横と1階のお部屋の明かりがついてたら、
もっと幻想的になってたんだけども。
まぁ贅沢はいいません。 -
会津二日目も無事終わり・・・明日はもう帰るんですねぇ〜。
定年になったら、一月ほどダラダラと、旅をしたいもんだなぁ。
というわけで、今回も語りスギなくらい語らせてもらいました。
大変ご迷惑をおかけしました。
もう大きな歴史は終わりましたので、三部はサクっと参ります。(←予定)
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ippuniさん 2016/09/22 03:27:10
- 飯盛山
- ねいちゃさん、こんにちは
最近取り込んでおりまして、やっとゆっくり見に来ることが出来ました。
鶴ヶ城は2013年の秋に家族で行きました。
あの時、フランス人の学生も2人一緒に那須で過ごしていたのですが、
鶴ヶ城行く?と聞いたら「福島」という言葉に怖れを感じ彼らは行きませんでした。
とても日本らしい素晴らしい風景も見れたのですが、残念です。
でも強要は出来ませんからね。
当時は犬連れだったので、城の内部までは入れませんでした。
鶴ヶ城へ行ったのは2度目だったのですが、1度目は子供の頃で覚えていません。
大きなお堀があって、立派なお城ですよね。
おっしゃる通り再建されたものでも歴史のある場所ですよね。
周りの町の風景も好きです。
飯盛山にも行かれたのですね。
私は行ったことがありません。
250円で、動く歩道に乗れるとは、無駄に体力使う私でも利用することでしょう。
流石ですね、日本の施設は。観光客の事をよく考えてくれています。
見たけりゃ勝手に来ればいい、的なフランスとは大違いです。
白虎隊のお話し、しみじみと読ませて頂きました。
本当に、清き心を持った勇敢な若者たちが命を失った残酷な場所ですね。
燃え落ちる鶴ヶ城をどんな気持ちで見ていたかと思うと。。。
お話を読んでいてふと思い出したことがあります。
フランス各地でテロが起きた時に、自爆テロの事を「Kamikaze」と放送していました。
一人のKamikazeが…、Kamikazeを逮捕した…、などと耳が痛くなるほど聞きました。
あの時はなんだか違うんだけどなぁと思っていましたけど、やっぱり違います。
こちらの人曰く、テロを行った人も彼らの国の特攻隊のようなものだと言いますが、
私はやっぱり違うと思うんです。どうでしょうか。
お写真を見ていて、福島県、やっぱり好きだなぁと感じました。
父が東北(秋田)出身だからか、私もどちらかと言うと東北びいきなんです。
秋のあの田舎の風景、忘れられません。
ippuni
- ねいちゃさん からの返信 2016/09/22 22:41:04
- RE: 飯盛山
- ippuniさん、こんばんは。
この頃ようやく過ごしやすい気候になりつつある京都です。
とは言っても、ジメジメしてますけどね〜。
京都人の性根はジメジメしているので、これくらいがちょうどいいのかも。(笑)
> あの時、フランス人の学生も2人一緒に那須で過ごしていたのですが、
> 鶴ヶ城行く?と聞いたら「福島」という言葉に怖れを感じ彼らは行きませんでした。
外国の方にとっては、爆心地に赴くようなものなんでしょうねぇ。
実際日本で報道されている以上に、放射能汚染は深刻だったと思います。
国内ではオブラートに包まれているような感じがしましたもの。
外国ではストレートに報道されていたでしょうから、彼らの懸念は肯けますね。
> 飯盛山にも行かれたのですね。
今回は「白虎隊」を語る旅・・・でしたからね。(笑)
ドラマとかでもよく見るんですが、実際はどうなんだろうとずっと思ってて今回ようやく彼らの心の中を見てきたような気もします。
「絶望」とかね、簡単に言うけれど、本当の意味での絶望は彼らが見た光景なんだろうな・・・と、この地に立ってみて普通に思えてきました。
「生きる」地獄って、本当にあるんでしょうね。
> フランス各地でテロが起きた時に、自爆テロの事を「Kamikaze」と放送していました。
私は自爆テロを説明する際に、特攻隊のようなものというフレーズをよく使います。
それは、死を賭して国に報いるという局面を一度も想像もしたことのない若者に伝わるかもしれないと思っての言葉です。
白虎隊の悲劇にしろ、主君の仇を討つ忠臣蔵にしろ、今の若者には理解できないものなんですよね。
彼らは共感はできなくとも、こういう説明をすると想像しようとする。
フランスでの放送もおそらくそういう効果なんだろうと思いますが、これはあくまでも方便なんですよね。わかりやすい一例にすぎない。
本当のところは、仰るとおり、似て非なるもの・・・。
自爆テロは虚栄が産んだ偶像で、神風は守るものを守るためのもの、死の掛け方の重みはどっか違います。
このニュアンスの違いは日本人ならではの感性なのかも、知れませんね。
もっとも神風は美化してはイケないんですけどね、神風を吹かせるような世の中を作ってはいけません。
> お写真を見ていて、福島県、やっぱり好きだなぁと感じました。
自分の中の原風景ってどの人にもあると思います。
欧州の綺麗な街並みって、本当に美しく思いますが、私が心やすらかに過ごせる風景は、毎日の日常で見る鴨川の流れだとか、御所の中の木漏れ日とか、そういうものだったりします。
二条城のお堀を毎日眺めて暮らしているんですが、毎日毎日綺麗だなと思っています。贅沢ですよね〜、申し訳ない。(笑)
今回もじっくり読んでくださってありがとうございました。
ねいちゃ
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