萩旅行記(ブログ) 一覧に戻る
長州藩は、明治維新の立役者。薩長の雄であり、藩主からして過激な尊王攘夷の思想の持ち主だったのですが、これは実は稀有なこと。しかし、その流れはけっこう複雑なので、名残りをどこに求めるかでも景色は全く変わってくように思います。<br /><br />例えば、萩はこれまで二度訪ねているのですが、松陰神社から古い武家屋敷の勤王志士の生家を回っても、ただ穏やかな風景が印象に残っているだけ。むしろ、それ以降に回った山口市や特に下関市の方が新しい時代を切り開いた事件が生々しい。例えば、下関で起きた高杉晋作の功山寺の挙兵は、これがなければ明治維新はなかったとも言えるほどの快挙。諸隊を巻き込んで、守旧派、俗論党の根拠地、萩を攻めるのですが、私の中では薩長同盟のような理性で判断できる行動の対極ですね。山口市から湯田温泉もしかり。藩主自らが萩から情報の得やすい山口市に居を移し、新たな時代を模索する。熱い思いが感じられました。<br /><br />萩、下関、山口市。私の中での整理は、おおよそこのようなものであったのですが、今回、それでもと思って、おさらいしてみた萩の印象はまさに一変。明治維新への原動力の始まりはやはり萩、松陰先生で育まれたものだということを痛感しました。ただ、その思いはあまりにも純粋であり、驚愕なほどに的を得ている。偉大さを比較することにどれだけ意味があるか分かりませんが、坂本龍馬や西郷隆盛らを5とすれば、間違いなく高杉晋作は7、松陰先生は10以上。高杉晋作や松陰先生のレベルになると凡人には理解できないサプライズの領域に入る気がします。さらに、松陰先生は日本にとっての貢献に計り知れないものがあった一方で、その心の内を思うと激しい危機感と限りない使命感は孤独や絶望感と隣り合わせ。その深さは他の追従を許しません。<br />というのも、尊皇攘夷が最も高揚した文久3年の頃でさえ、尊皇攘夷は幕府の変革を迫るものであり、求める理想は朝廷に従う幕府の姿。結局、攘夷を実行するのも幕府であるとしていて、それでは施政の中心はやっぱり幕府であるという考え方にしか過ぎません。幕府なんかなくしてしまえというのだって、単に勇ましい掛け声の域は出ていなかったのだと思います。大政奉還は倒幕の動きを押し戻したものと言われますが、薩摩藩ですら、本当に倒幕の腹を固めたのはやっとこの頃だったような。それも岩倉具視や大久保利通の強い意思がなかったら、かなり怪しかったように思います。<br />それに対し、松蔭先生は早くから倒幕の思想を持ち、草莽崛起論に行き着く。その先見性から見た時代の有り様は、泣きたくなるような風景だったはず。しかし、それでもそこに諦めの言葉はない。ひたすら、人を信じ、未来を信じるその姿勢こそが松蔭先生。志士たちの心を動かす根本だったのだと思います。<br /><br />ふと気がつくと感謝の気持ちがあふれてきて、胸がいっぱい。涙が止まらなくなってしまいました。一方、その感謝の気持ちや尊敬の気持ちはまだしっかり地元に息づいていることが確認できたことも嬉しい収穫。幕末の長州藩の原点は萩にあり。かなり回り道になりましたが、妥当なところにようやく帰ることができたかなと思います。<br /><br />さて、萩の街歩きはこれから二日間。どこにどんなものが眠っているか。例によって、しらみつぶしでどんどん回る旅の始まりです。<br /><br /><山口県内の維新関係の旅(参考まで)><br /><br />山口市<br />http://4travel.jp/travelogue/10889765<br /><br />下関市<br />http://4travel.jp/travelogue/11004242<br /><br />http://4travel.jp/travelogue/11004244<br /><br />岩国市<br />http://4travel.jp/travelogue/11137352<br />

宇部から萩、山口ちょうちん祭りと徳山の旅(二日目)~維新の志士を育み、その心を強く動かした吉田松陰の思いは本物。ふと感謝の気持ちが溢れてきて、最後は涙が止まりませんでした~

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2016/08/05 - 2016/08/05

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たびたび

たびたびさん

長州藩は、明治維新の立役者。薩長の雄であり、藩主からして過激な尊王攘夷の思想の持ち主だったのですが、これは実は稀有なこと。しかし、その流れはけっこう複雑なので、名残りをどこに求めるかでも景色は全く変わってくように思います。

例えば、萩はこれまで二度訪ねているのですが、松陰神社から古い武家屋敷の勤王志士の生家を回っても、ただ穏やかな風景が印象に残っているだけ。むしろ、それ以降に回った山口市や特に下関市の方が新しい時代を切り開いた事件が生々しい。例えば、下関で起きた高杉晋作の功山寺の挙兵は、これがなければ明治維新はなかったとも言えるほどの快挙。諸隊を巻き込んで、守旧派、俗論党の根拠地、萩を攻めるのですが、私の中では薩長同盟のような理性で判断できる行動の対極ですね。山口市から湯田温泉もしかり。藩主自らが萩から情報の得やすい山口市に居を移し、新たな時代を模索する。熱い思いが感じられました。

萩、下関、山口市。私の中での整理は、おおよそこのようなものであったのですが、今回、それでもと思って、おさらいしてみた萩の印象はまさに一変。明治維新への原動力の始まりはやはり萩、松陰先生で育まれたものだということを痛感しました。ただ、その思いはあまりにも純粋であり、驚愕なほどに的を得ている。偉大さを比較することにどれだけ意味があるか分かりませんが、坂本龍馬や西郷隆盛らを5とすれば、間違いなく高杉晋作は7、松陰先生は10以上。高杉晋作や松陰先生のレベルになると凡人には理解できないサプライズの領域に入る気がします。さらに、松陰先生は日本にとっての貢献に計り知れないものがあった一方で、その心の内を思うと激しい危機感と限りない使命感は孤独や絶望感と隣り合わせ。その深さは他の追従を許しません。
というのも、尊皇攘夷が最も高揚した文久3年の頃でさえ、尊皇攘夷は幕府の変革を迫るものであり、求める理想は朝廷に従う幕府の姿。結局、攘夷を実行するのも幕府であるとしていて、それでは施政の中心はやっぱり幕府であるという考え方にしか過ぎません。幕府なんかなくしてしまえというのだって、単に勇ましい掛け声の域は出ていなかったのだと思います。大政奉還は倒幕の動きを押し戻したものと言われますが、薩摩藩ですら、本当に倒幕の腹を固めたのはやっとこの頃だったような。それも岩倉具視や大久保利通の強い意思がなかったら、かなり怪しかったように思います。
それに対し、松蔭先生は早くから倒幕の思想を持ち、草莽崛起論に行き着く。その先見性から見た時代の有り様は、泣きたくなるような風景だったはず。しかし、それでもそこに諦めの言葉はない。ひたすら、人を信じ、未来を信じるその姿勢こそが松蔭先生。志士たちの心を動かす根本だったのだと思います。

ふと気がつくと感謝の気持ちがあふれてきて、胸がいっぱい。涙が止まらなくなってしまいました。一方、その感謝の気持ちや尊敬の気持ちはまだしっかり地元に息づいていることが確認できたことも嬉しい収穫。幕末の長州藩の原点は萩にあり。かなり回り道になりましたが、妥当なところにようやく帰ることができたかなと思います。

さて、萩の街歩きはこれから二日間。どこにどんなものが眠っているか。例によって、しらみつぶしでどんどん回る旅の始まりです。

<山口県内の維新関係の旅(参考まで)>

山口市
http://4travel.jp/travelogue/10889765

下関市
http://4travel.jp/travelogue/11004242

http://4travel.jp/travelogue/11004244

岩国市
http://4travel.jp/travelogue/11137352

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  • 朝一番のバスで、新山口駅から萩に向かいます。<br />新山口駅から萩へのアクセスは、はぎ号が一番便利。というか、JRなんかを使っていたら、かなりの遠回り。時間がいくらあっても足りません。<br />ただ、朝一番の便は普通の路線バスなので、通勤や通学に使う人が主。平日だったこともあってか観光客らしき人は私一人でした。

    朝一番のバスで、新山口駅から萩に向かいます。
    新山口駅から萩へのアクセスは、はぎ号が一番便利。というか、JRなんかを使っていたら、かなりの遠回り。時間がいくらあっても足りません。
    ただ、朝一番の便は普通の路線バスなので、通勤や通学に使う人が主。平日だったこともあってか観光客らしき人は私一人でした。

  • 東萩駅出てすぐの貸自転車屋さんはスマイル。朝8時からやっていたので、ここを利用することに。<br />結局、二日間借りたんですが、ホテルの名前を言うとそのまま借りっぱなしでいいよと言われて、これは柔軟な対応。無駄がなくて、とても助かりました。自転車で回れる範囲が詳しく載った観光地図も重宝します。

    東萩駅出てすぐの貸自転車屋さんはスマイル。朝8時からやっていたので、ここを利用することに。
    結局、二日間借りたんですが、ホテルの名前を言うとそのまま借りっぱなしでいいよと言われて、これは柔軟な対応。無駄がなくて、とても助かりました。自転車で回れる範囲が詳しく載った観光地図も重宝します。

  • まず向かったのは、萩反射炉。こちらも明治維新の関係で世界遺産登録された施設の一つです。

    イチオシ

    まず向かったのは、萩反射炉。こちらも明治維新の関係で世界遺産登録された施設の一つです。

  • いち早く西洋の近代技術を導入した藩としては、薩摩藩や鍋島藩が有名ですが、長州藩でもやっていましたよということなんでしょうが、やっぱりよく聞いて見るとちょっと違うような。この反射炉は、鍋島藩の反射炉を視察し、それを真似たものなんですが、鍋島藩の反射炉の7割くらいの大きさしかなくて、十分な性能は得られなかったそう。実際に役に立ったものではありません。<br />ただ、それでもレンガを積み上げた煙突とか、執念のようなものも感じられる。異様な迫力があるように感じました。

    いち早く西洋の近代技術を導入した藩としては、薩摩藩や鍋島藩が有名ですが、長州藩でもやっていましたよということなんでしょうが、やっぱりよく聞いて見るとちょっと違うような。この反射炉は、鍋島藩の反射炉を視察し、それを真似たものなんですが、鍋島藩の反射炉の7割くらいの大きさしかなくて、十分な性能は得られなかったそう。実際に役に立ったものではありません。
    ただ、それでもレンガを積み上げた煙突とか、執念のようなものも感じられる。異様な迫力があるように感じました。

  • 続いて向かったのは、恵美須ヶ鼻造船所跡。静かな入江の先になります。

    続いて向かったのは、恵美須ヶ鼻造船所跡。静かな入江の先になります。

  • ここは長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡。ロシアの造船技術による丙辰丸とオランダの造船技術による庚申丸が造られました。

    ここは長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡。ロシアの造船技術による丙辰丸とオランダの造船技術による庚申丸が造られました。

  • 石を積んだ堤防と山の間の平地に船を分業して組み立てた区割りが残っていて、今の感覚だとさほどの規模ではないのですが、とにかく何とかしないといけないの一心で取り組んでいたことはうかがえます。<br />ちなみに、鍋島藩は幕末にはもう蒸気船を造っています。単純な比較で言えば、鍋島藩や薩摩藩の方が明らかに上なんですが、長州藩の維新への貢献度はそんなことではない。必要以上に長州の西洋技術への取組を強調すると、それはまた本質を見誤るようにも思います。

    石を積んだ堤防と山の間の平地に船を分業して組み立てた区割りが残っていて、今の感覚だとさほどの規模ではないのですが、とにかく何とかしないといけないの一心で取り組んでいたことはうかがえます。
    ちなみに、鍋島藩は幕末にはもう蒸気船を造っています。単純な比較で言えば、鍋島藩や薩摩藩の方が明らかに上なんですが、長州藩の維新への貢献度はそんなことではない。必要以上に長州の西洋技術への取組を強調すると、それはまた本質を見誤るようにも思います。

  • ついでに寄ってみた、道の駅 萩しーまーとです。魚の市場だと聞いていたのに、開店は10時から。

    ついでに寄ってみた、道の駅 萩しーまーとです。魚の市場だと聞いていたのに、開店は10時から。

  • これにはちょっとがっかりしましたが、少し待って中に入ると、確かに内容はその通り。今できたてといったあじの巻寿司を買って、テーブルに座っていただきました。ちょっと味が濃い目かなあと思いましたが、新鮮さはいい。いい腹ごしらえができました。

    これにはちょっとがっかりしましたが、少し待って中に入ると、確かに内容はその通り。今できたてといったあじの巻寿司を買って、テーブルに座っていただきました。ちょっと味が濃い目かなあと思いましたが、新鮮さはいい。いい腹ごしらえができました。

  • そのまま、吉賀大眉記念館へ。

    そのまま、吉賀大眉記念館へ。

  • こちらは、文化功労者である吉賀大眉の陶芸作品を中心に展示する美術館ですが、

    こちらは、文化功労者である吉賀大眉の陶芸作品を中心に展示する美術館ですが、

  • 氏ゆかりの作家の鮮やかな染物の作品が並んでいたり、

    氏ゆかりの作家の鮮やかな染物の作品が並んでいたり、

  • 総合的な美術展示としてすばらしいと思います。<br />

    総合的な美術展示としてすばらしいと思います。

  • これは画家香月泰男の絵付け作品。けっこう存在感があって、とても面白く拝見しました。館内はゆったりしているし、十分に時間を取って訪ねることをお勧めします。<br />その後、敷地内にある萩焼窯元泉流山にも寄ってみました。ちなみに、萩焼は秀吉の朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮の陶工がルーツ。その後は一楽二萩三唐津と言われ、お茶の世界では圧倒的な地位を築きました。<br />このお店は文政9年創業の老舗窯元。隣りに今は使っていないという登り窯が残っていたり、いろんな雰囲気を楽しめます。若い人の作品もあって、それだと求めやすい値段になっています。

    これは画家香月泰男の絵付け作品。けっこう存在感があって、とても面白く拝見しました。館内はゆったりしているし、十分に時間を取って訪ねることをお勧めします。
    その後、敷地内にある萩焼窯元泉流山にも寄ってみました。ちなみに、萩焼は秀吉の朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮の陶工がルーツ。その後は一楽二萩三唐津と言われ、お茶の世界では圧倒的な地位を築きました。
    このお店は文政9年創業の老舗窯元。隣りに今は使っていないという登り窯が残っていたり、いろんな雰囲気を楽しめます。若い人の作品もあって、それだと求めやすい値段になっています。

  • 郡司鋳造所遺構広場は、松陰神社近くの交差点角。遠くからでも何かあるなというのが見えるので、迷うことはありません。<br />

    郡司鋳造所遺構広場は、松陰神社近くの交差点角。遠くからでも何かあるなというのが見えるので、迷うことはありません。

  • 広場内には、萩藩の鋳造師であった郡司家の鋳造所を復元したもの。

    広場内には、萩藩の鋳造師であった郡司家の鋳造所を復元したもの。

  • 金属を3つの窯で溶かし、そのまま鋳型に流し込んで固めていたというのですが、本当にこんなもので大砲とか作れていたのでしょうか。まあ、形はできたんでしょうが、強度とかはやはり限界はあったのではないかと思います。<br />(そんな風に思っていたのですが、実はここで造られたのは”青銅製”の西洋式大砲。鉄製の方はうまくいかなかった長州藩ですが、青銅製であれば、こうしたやり方でなんとか大砲が造れたということのようですね。(ポポポさんからのご指摘で分かった事実です。なるほど・・))

    イチオシ

    金属を3つの窯で溶かし、そのまま鋳型に流し込んで固めていたというのですが、本当にこんなもので大砲とか作れていたのでしょうか。まあ、形はできたんでしょうが、強度とかはやはり限界はあったのではないかと思います。
    (そんな風に思っていたのですが、実はここで造られたのは”青銅製”の西洋式大砲。鉄製の方はうまくいかなかった長州藩ですが、青銅製であれば、こうしたやり方でなんとか大砲が造れたということのようですね。(ポポポさんからのご指摘で分かった事実です。なるほど・・))

  • そして、いよいよ松陰神社へ。明治23年に吉田松陰を祀って作られた神社。萩の観光ではここに来ないと話にはなりません。私は今回で三回目のはずなんですが、ちょっと記憶はおぼろげです。<br />敷地内には、松下村塾に吉田松陰幽囚ノ旧宅。吉田松陰歴史館に松陰神社宝物殿 至誠館など、松陰に関連する施設のオンパレード。今回は、一つ一つ丹念に見て回りたいと思います。

    そして、いよいよ松陰神社へ。明治23年に吉田松陰を祀って作られた神社。萩の観光ではここに来ないと話にはなりません。私は今回で三回目のはずなんですが、ちょっと記憶はおぼろげです。
    敷地内には、松下村塾に吉田松陰幽囚ノ旧宅。吉田松陰歴史館に松陰神社宝物殿 至誠館など、松陰に関連する施設のオンパレード。今回は、一つ一つ丹念に見て回りたいと思います。

  • この薩長土連合密議之處碑は松陰神社の境内ですが、場所がよく分からない。訪ねるとトイレの方だということで、やっと見つけることができました。<br />ここは、土佐藩武市半平太の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねてきた坂本龍馬に、薩州藩樺山三円の書簡を持って萩にやってきていた田上藤七が互いに日本の将来について語り合った場所。まだ文久2年。薩長同盟もまだまだ先のことですが、逆に、禁門の変以前で薩長の関係も悪くはなかった時期。同じ思いを持つ同志としての出会いを心行くまで楽しんだのではないかと思います。

    この薩長土連合密議之處碑は松陰神社の境内ですが、場所がよく分からない。訪ねるとトイレの方だということで、やっと見つけることができました。
    ここは、土佐藩武市半平太の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねてきた坂本龍馬に、薩州藩樺山三円の書簡を持って萩にやってきていた田上藤七が互いに日本の将来について語り合った場所。まだ文久2年。薩長同盟もまだまだ先のことですが、逆に、禁門の変以前で薩長の関係も悪くはなかった時期。同じ思いを持つ同志としての出会いを心行くまで楽しんだのではないかと思います。

  • 明治維新胎動之地は、吉田松陰歴史館の前です。これは、昭和43年、明治維新100年を記念して建立されたもの。揮毫は佐藤栄作。長州の維新の志士にとって、松陰は心の支え。高杉晋作の功山寺挙兵も松陰の教えがなくてはあり得なかったのではないか。いろんな思いが湧いてきます。

    明治維新胎動之地は、吉田松陰歴史館の前です。これは、昭和43年、明治維新100年を記念して建立されたもの。揮毫は佐藤栄作。長州の維新の志士にとって、松陰は心の支え。高杉晋作の功山寺挙兵も松陰の教えがなくてはあり得なかったのではないか。いろんな思いが湧いてきます。

  • では、吉田松陰歴史館の中へ。<br />

    では、吉田松陰歴史館の中へ。

  • ここでは、吉田松陰の生涯を等身大の蝋人形で再現してみせています。

    イチオシ

    ここでは、吉田松陰の生涯を等身大の蝋人形で再現してみせています。

  • まだ11歳の年齢で藩主毛利敬親へ武教全書を講義した早咲きの天才は、黒船の来航を期に、世界の情勢に目を向ける。言わば謹慎の身でありながらも、新たな時代を切り開く人材育成に邁進するが、古伝馬町の牢で29歳没。その生涯は今でも色あせることはない。感動的な抒情詩です。<br /><br />兄とともに、叔父、玉木文之進に厳格な教育を受ける松陰。<br />

    まだ11歳の年齢で藩主毛利敬親へ武教全書を講義した早咲きの天才は、黒船の来航を期に、世界の情勢に目を向ける。言わば謹慎の身でありながらも、新たな時代を切り開く人材育成に邁進するが、古伝馬町の牢で29歳没。その生涯は今でも色あせることはない。感動的な抒情詩です。

    兄とともに、叔父、玉木文之進に厳格な教育を受ける松陰。

  • 11歳の年齢で藩主毛利敬親へ武教全書を講義する松陰。敬親からはお褒めの言葉がかけられます。

    11歳の年齢で藩主毛利敬親へ武教全書を講義する松陰。敬親からはお褒めの言葉がかけられます。

  • 松代藩の藩士、佐久間象山に入門。海外へ目を開くことになります。

    松代藩の藩士、佐久間象山に入門。海外へ目を開くことになります。

  • 黒船来航。西洋の文化をその目で見ようと密航を試みようと、黒船に向かう松陰です。大胆不敵ですが、それが正しい道と信じて疑うところはない。<br />しかし、これが幕府から目を付けられる始まりに。。

    黒船来航。西洋の文化をその目で見ようと密航を試みようと、黒船に向かう松陰です。大胆不敵ですが、それが正しい道と信じて疑うところはない。
    しかし、これが幕府から目を付けられる始まりに。。

  • 牢から出て国許に帰されたのはいいのですが、謹慎の身。しかし、有為の人を育てるため、松下村塾の活動に打ち込みます。久坂玄瑞、高杉晋作など元気な若者が集まって、松蔭の絶頂期だったと言えるかもしれません。

    牢から出て国許に帰されたのはいいのですが、謹慎の身。しかし、有為の人を育てるため、松下村塾の活動に打ち込みます。久坂玄瑞、高杉晋作など元気な若者が集まって、松蔭の絶頂期だったと言えるかもしれません。

  • 再び幕府から呼び出しがあり、別れの席。書をしたためる松陰です。

    再び幕府から呼び出しがあり、別れの席。書をしたためる松陰です。

  • 世は井伊直弼の安政の大獄の嵐が吹き荒れる時代。危険人物とみなされた松陰は

    世は井伊直弼の安政の大獄の嵐が吹き荒れる時代。危険人物とみなされた松陰は

  • 伝馬町の獄に繋がれ、とうとう斬首刑に処される。安政6年(1859年)10月27日。松陰、享年30歳のことでした。<br />ところで、死罪は老中間部詮勝の暗殺を謀ったというのが大きな理由。自ら自白したということが松陰の純粋さを表しているといった評価もありますが、いずれにいしても、それを聞いて幕府としてこれを許すことはできない。強引な判断ではないように思います。<br />ただ、私はなぜ松陰が間部詮勝に狙いを付けたのかがよく分からない。間部詮勝は日米和親条約の勅許を朝廷から得るのに成功しますが、その論旨は極めて明快。もともと、勅許を得ずに条約締結をしたというのは尊王攘夷派の言いがかりであり、そこから先に高邁な思想があったわけではないんですよね。モヤモヤが残ります。<br /><br />これは、鯖江で間部詮勝に触れた時の旅行記です。参考まで。<br />http://4travel.jp/travelogue/11088594<br />

    伝馬町の獄に繋がれ、とうとう斬首刑に処される。安政6年(1859年)10月27日。松陰、享年30歳のことでした。
    ところで、死罪は老中間部詮勝の暗殺を謀ったというのが大きな理由。自ら自白したということが松陰の純粋さを表しているといった評価もありますが、いずれにいしても、それを聞いて幕府としてこれを許すことはできない。強引な判断ではないように思います。
    ただ、私はなぜ松陰が間部詮勝に狙いを付けたのかがよく分からない。間部詮勝は日米和親条約の勅許を朝廷から得るのに成功しますが、その論旨は極めて明快。もともと、勅許を得ずに条約締結をしたというのは尊王攘夷派の言いがかりであり、そこから先に高邁な思想があったわけではないんですよね。モヤモヤが残ります。

    これは、鯖江で間部詮勝に触れた時の旅行記です。参考まで。
    http://4travel.jp/travelogue/11088594

  • 吉田松陰歴史館から、その先へ。

    吉田松陰歴史館から、その先へ。

  • 花月楼は、松陰神社の境内に移築された山口の文化的建物。<br />七代藩主毛利重就が、江戸千家の元祖川上不白の献上した設計図に基づいて、防府の別邸内に建てた茶室です。

    花月楼は、松陰神社の境内に移築された山口の文化的建物。
    七代藩主毛利重就が、江戸千家の元祖川上不白の献上した設計図に基づいて、防府の別邸内に建てた茶室です。

  • 茶室というとこじんまりした建物を想像しますが、ここはそれなりの規模。茶室はこの建物の一角に付属してあるのだと思います。

    茶室というとこじんまりした建物を想像しますが、ここはそれなりの規模。茶室はこの建物の一角に付属してあるのだと思います。

  • これが松下村塾。吉田松陰が安政4年(1857年)から翌年にかけ、ここで私塾を預かり、後の維新の志士たちを育てます。双璧と言われた久坂玄瑞、高杉晋作始め、伊藤博文、山縣有朋などなど。

    これが松下村塾。吉田松陰が安政4年(1857年)から翌年にかけ、ここで私塾を預かり、後の維新の志士たちを育てます。双璧と言われた久坂玄瑞、高杉晋作始め、伊藤博文、山縣有朋などなど。

  • 小さな建物で、松陰先生は屋根裏で休息していたとかほほえましい話もありましたが、いずれにしても後の日本を左右する人材がここで育って行ったのはちょっと衝撃的。

    イチオシ

    小さな建物で、松陰先生は屋根裏で休息していたとかほほえましい話もありましたが、いずれにしても後の日本を左右する人材がここで育って行ったのはちょっと衝撃的。

  • あまりにも凄すぎて、正直、なかなか想像がついて行けないようなところもあるように思います。

    あまりにも凄すぎて、正直、なかなか想像がついて行けないようなところもあるように思います。

  • 最近、萩では反射炉とか造船所とかが世界遺産の登録となり、長州藩では近代技術の導入についても相応の取り組みがあったという視点がクローズアップされてきているようです。<br />それと合わせてでしょうか。至誠館でも松陰先生関連の展示として、松陰が西洋の機械技術に関する書物を写したものを展示していました。驚くほど細かなところまで正確に写し取っていて、これは几帳面な性格というだけでなく、一方では危機意識のなせるもの。松陰は人を育てただけではなくて、旺盛な知識欲も傑出していたことが窺われました。<br />また、アヘン戦争後の中国では中国を破った英国の歴史や文化、科学技術や社会体制など広範囲に渡った膨大な報告書が出ていて、これもいち早く入手し研究している。松蔭先生は想像以上に正確な知識や情報を持っていたんですね。松陰先生の知らなかった側面を知り、ぼんやりしていたイメージが急に鮮やかなものに変わった気がしました。

    最近、萩では反射炉とか造船所とかが世界遺産の登録となり、長州藩では近代技術の導入についても相応の取り組みがあったという視点がクローズアップされてきているようです。
    それと合わせてでしょうか。至誠館でも松陰先生関連の展示として、松陰が西洋の機械技術に関する書物を写したものを展示していました。驚くほど細かなところまで正確に写し取っていて、これは几帳面な性格というだけでなく、一方では危機意識のなせるもの。松陰は人を育てただけではなくて、旺盛な知識欲も傑出していたことが窺われました。
    また、アヘン戦争後の中国では中国を破った英国の歴史や文化、科学技術や社会体制など広範囲に渡った膨大な報告書が出ていて、これもいち早く入手し研究している。松蔭先生は想像以上に正確な知識や情報を持っていたんですね。松陰先生の知らなかった側面を知り、ぼんやりしていたイメージが急に鮮やかなものに変わった気がしました。

  • さらに本殿に進むと。これは小さな傘のおみくじです。

    さらに本殿に進むと。これは小さな傘のおみくじです。

  • これが本殿。意外にシンプル。これでは、記憶に残っていないのも仕方ないでしょう。

    これが本殿。意外にシンプル。これでは、記憶に残っていないのも仕方ないでしょう。

  • 松陰神社本殿の隣りにあるのは松門神社。吉田松陰の門下生が祀られている神社ですが、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿以下、伊藤博文や山県有朋などなど。松下村塾で学んだそうそうたる顔ぶれ。松陰と同じく松陰神社に祀られてもおかしくはないのでしょうが、そこに一線を引いたのが、逆に思いの深さ。こちらも外観がおとなしいのがいいでしょう。

    松陰神社本殿の隣りにあるのは松門神社。吉田松陰の門下生が祀られている神社ですが、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿以下、伊藤博文や山県有朋などなど。松下村塾で学んだそうそうたる顔ぶれ。松陰と同じく松陰神社に祀られてもおかしくはないのでしょうが、そこに一線を引いたのが、逆に思いの深さ。こちらも外観がおとなしいのがいいでしょう。

  • 再び戻って、これは吉田松陰幽囚旧宅。松下村塾の隣りです。<br />

    再び戻って、これは吉田松陰幽囚旧宅。松下村塾の隣りです。

  • 松陰は安政元年(1854年)に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗。その結果、江戸の伝馬町の牢から、萩の野山獄に入れられます。そして、釈放後は父杉百合之助の預かりの身となり、ここで謹慎生活を送ったんですね。松下村塾の主宰はこれに続くものです。

    松陰は安政元年(1854年)に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗。その結果、江戸の伝馬町の牢から、萩の野山獄に入れられます。そして、釈放後は父杉百合之助の預かりの身となり、ここで謹慎生活を送ったんですね。松下村塾の主宰はこれに続くものです。

  • 幽囚室の3畳半の一室は外から拝見。ずっとこの部屋に閉じこもりっきりだったとも思えませんが、再び自らの考えを冷静に研ぎ澄まして行った場所だと思うとちょっと感慨もひとしおです。<br /><br />これで、松蔭神社を後にして。

    幽囚室の3畳半の一室は外から拝見。ずっとこの部屋に閉じこもりっきりだったとも思えませんが、再び自らの考えを冷静に研ぎ澄まして行った場所だと思うとちょっと感慨もひとしおです。

    これで、松蔭神社を後にして。

  • そのまま今度は東光寺です。

    そのまま今度は東光寺です。

  • 萩藩三代藩主、毛利吉就公が創建した黄檗宗の寺で、

    萩藩三代藩主、毛利吉就公が創建した黄檗宗の寺で、

  • 見所は奥に整備された毛利家墓所です。

    見所は奥に整備された毛利家墓所です。

  • ゆるい斜面の参道脇に密集して建つ石灯籠がちょっとない眺め。

    ゆるい斜面の参道脇に密集して建つ石灯籠がちょっとない眺め。

  • 墓前に据えられた亀趺碑は、黄檗宗というより儒教的な匂い。

    墓前に据えられた亀趺碑は、黄檗宗というより儒教的な匂い。

  • 徳川幕府への配慮もあるように感じましたが、

    徳川幕府への配慮もあるように感じましたが、

  • いかがでしょうか。

    いかがでしょうか。

  • それにしても、おびただしい石灯籠ですね。

    イチオシ

    それにしても、おびただしい石灯籠ですね。

  • そして、吉田松陰の墓は、東光寺からけっこうな坂を上った先。

    イチオシ

    そして、吉田松陰の墓は、東光寺からけっこうな坂を上った先。

  • といっても、ここは松陰が生まれた場所の近くです。

    といっても、ここは松陰が生まれた場所の近くです。

  • ちょっとした山すそのようなところを切り開いた松陰の墓の周囲には一族の墓のほか、探すと高杉晋作や

    ちょっとした山すそのようなところを切り開いた松陰の墓の周囲には一族の墓のほか、探すと高杉晋作や

  • 久坂玄瑞の墓もあって、なんとなく賑やか。松陰先生は亡くなっても仲間たちとは一緒です。

    久坂玄瑞の墓もあって、なんとなく賑やか。松陰先生は亡くなっても仲間たちとは一緒です。

  • 高杉晋作草庵跡の碑は、松陰の墓の駐車場から萩の市街を見下ろすような場所に建っていました。先のとがった黒い石碑です。<br />文久3年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩。これに対し、高杉晋作は脱藩し、京都に潜伏します。しかし、その後、長州へ戻ると脱藩罪で野山獄に投獄。出所後はここで謹慎していたという場所です。ちなみに、八月十八日の政変の翌年に起きた禁門の変で久坂玄瑞もすでに斃れたあと。獄につながれていたことで、禁門の変への参加ができなかったことで命拾いをした面もなくはない。何を思っていたか、想像がふくらみます。

    高杉晋作草庵跡の碑は、松陰の墓の駐車場から萩の市街を見下ろすような場所に建っていました。先のとがった黒い石碑です。
    文久3年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩。これに対し、高杉晋作は脱藩し、京都に潜伏します。しかし、その後、長州へ戻ると脱藩罪で野山獄に投獄。出所後はここで謹慎していたという場所です。ちなみに、八月十八日の政変の翌年に起きた禁門の変で久坂玄瑞もすでに斃れたあと。獄につながれていたことで、禁門の変への参加ができなかったことで命拾いをした面もなくはない。何を思っていたか、想像がふくらみます。

  • 松陰の墓を含む墓地群の隣りには松陰先生銅像もあります。もしかして、これが松陰の生誕地なのかと思ったのですが、これはこれで別のものです。<br />

    松陰の墓を含む墓地群の隣りには松陰先生銅像もあります。もしかして、これが松陰の生誕地なのかと思ったのですが、これはこれで別のものです。

  • 像は松陰が弟子の金子重輔を従え、下田沖のペリー艦隊を見つめている姿なのだそう。ここから密航への思いを固める松蔭先生です。<br />一を知れば十を知るの天才の真骨頂はその行動力にもある。さほど年も離れていない若者を虜にしたその人間性にも思いを馳せれる像だと思います。

    像は松陰が弟子の金子重輔を従え、下田沖のペリー艦隊を見つめている姿なのだそう。ここから密航への思いを固める松蔭先生です。
    一を知れば十を知るの天才の真骨頂はその行動力にもある。さほど年も離れていない若者を虜にしたその人間性にも思いを馳せれる像だと思います。

  • そして、松陰誕生地は、吉田松陰の墓からすぐの場所。

    そして、松陰誕生地は、吉田松陰の墓からすぐの場所。

  • しかし、山すそを回りこんだような場所なので、少し分かりにくいかもしれません。

    しかし、山すそを回りこんだような場所なので、少し分かりにくいかもしれません。

  • 萩城を遠くに眺めるちょっとした平地。当時の間取りとかが示されていて、それなりに整備されています。しかし、城からこれだけ遠いということはやはり下級の武士だったということでしょう。

    萩城を遠くに眺めるちょっとした平地。当時の間取りとかが示されていて、それなりに整備されています。しかし、城からこれだけ遠いということはやはり下級の武士だったということでしょう。

  • そこから坂を下って、今度は玉木文之進旧宅へ。こちらは、吉田松陰が主催した松下村塾のルーツと言われる場所。<br />

    イチオシ

    そこから坂を下って、今度は玉木文之進旧宅へ。こちらは、吉田松陰が主催した松下村塾のルーツと言われる場所。

  • というのも、松下村塾はもともと吉田松陰の叔父である玉木文之進が開いたものなんですね。松陰も当初はここで学んでいます。松陰が11歳の時、藩主毛利敬親い講義ができるまでになったのも、玉木文之進の厳しい指導があったからこそ。松陰が藩校明倫館の助教授となった時も後見人となっています。<br />建物は藁ぶきで、保存状態は良好。清貧な雰囲気が残っていて、背筋が伸びるような気持ちになりました。管理人の叔母さんがいて、付近の松陰ゆかりの地を詳しく教えてくれました。

    というのも、松下村塾はもともと吉田松陰の叔父である玉木文之進が開いたものなんですね。松陰も当初はここで学んでいます。松陰が11歳の時、藩主毛利敬親い講義ができるまでになったのも、玉木文之進の厳しい指導があったからこそ。松陰が藩校明倫館の助教授となった時も後見人となっています。
    建物は藁ぶきで、保存状態は良好。清貧な雰囲気が残っていて、背筋が伸びるような気持ちになりました。管理人の叔母さんがいて、付近の松陰ゆかりの地を詳しく教えてくれました。

  • 伊藤博文旧宅と別邸は玉木文之進旧宅と松陰神社の中間あたり。二つの建物は隣り合わせで建っています。<br />ここは、松陰の誕生地から下ったところで、玉木文之進旧宅や松下村塾からも近い場所。伊藤博文も吉田松陰の門下生ですが、けっこうご近所の子供だったんですね。<br />

    伊藤博文旧宅と別邸は玉木文之進旧宅と松陰神社の中間あたり。二つの建物は隣り合わせで建っています。
    ここは、松陰の誕生地から下ったところで、玉木文之進旧宅や松下村塾からも近い場所。伊藤博文も吉田松陰の門下生ですが、けっこうご近所の子供だったんですね。

  • 旧宅は、伊藤の実家で農家だったよう。

    旧宅は、伊藤の実家で農家だったよう。

  • 家は藁ぶき。周囲から外観を見るだけですが、まあ普通という以上のものではないでしょう。

    家は藁ぶき。周囲から外観を見るだけですが、まあ普通という以上のものではないでしょう。

  • 空地に伊藤の萩焼で作られた像が建っていて、その功績を伝えています。<br />明治18年、44歳2ヶ月の若さで初代総理大臣就任。対外的な面では、陸奥宗光をうまく制御しつつ日清戦争を勝利し、その後の日露戦争開戦の決断・勝利から朝鮮併合等。欧米列強の仲間入りを実現していくのですが、最後は朝鮮で暴漢の手により暗殺される。内政外交両面に獅子奮迅の働きをした人物と言えるでしょう。

    空地に伊藤の萩焼で作られた像が建っていて、その功績を伝えています。
    明治18年、44歳2ヶ月の若さで初代総理大臣就任。対外的な面では、陸奥宗光をうまく制御しつつ日清戦争を勝利し、その後の日露戦争開戦の決断・勝利から朝鮮併合等。欧米列強の仲間入りを実現していくのですが、最後は朝鮮で暴漢の手により暗殺される。内政外交両面に獅子奮迅の働きをした人物と言えるでしょう。

  • 伊藤博文別邸は、伊藤の晩年にあたりますが、明治40年、東京の当時大井村に建てた別邸の一部を移築したもの。

    伊藤博文別邸は、伊藤の晩年にあたりますが、明治40年、東京の当時大井村に建てた別邸の一部を移築したもの。

  • 間口の広い式台玄関から奥に続く廊下も十分な広さがあって、

    間口の広い式台玄関から奥に続く廊下も十分な広さがあって、

  • これは大勢の訪問客を意識した造りのように思います。

    これは大勢の訪問客を意識した造りのように思います。

  • 母屋の部分と

    母屋の部分と

  • 渡り廊下でつながった

    渡り廊下でつながった

  • 二階建ての離れもあって、後者の方がよりプライベートな感じ。<br />展示は少しですが、松陰との出会いから、長州の同志たちとの関わりなどを紹介。当初は過激な攘夷思想の持ち主だったこともちょっと微笑ましいような気持ちになりました。

    二階建ての離れもあって、後者の方がよりプライベートな感じ。
    展示は少しですが、松陰との出会いから、長州の同志たちとの関わりなどを紹介。当初は過激な攘夷思想の持ち主だったこともちょっと微笑ましいような気持ちになりました。

  • 小さな実家の農家と多くの客で賑わったであろうこの別邸が並んで建っているのも、また一興かなと思います。

    小さな実家の農家と多くの客で賑わったであろうこの別邸が並んで建っているのも、また一興かなと思います。

  • 吉田稔麿誕生地は、伊藤博文旧宅から松陰神社に向かう途中。吉田もご近所さんの一人ですが、今は道端に説明板と石柱だけがある簡素なスポットです。<br />ちなみに、吉田稔麿は、久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称された人物。元治元年(1864年)新選組が襲撃した池田屋事件で最期を遂げました。

    吉田稔麿誕生地は、伊藤博文旧宅から松陰神社に向かう途中。吉田もご近所さんの一人ですが、今は道端に説明板と石柱だけがある簡素なスポットです。
    ちなみに、吉田稔麿は、久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称された人物。元治元年(1864年)新選組が襲撃した池田屋事件で最期を遂げました。

  • 松浦松洞誕生地は、松陰神社前のロータリーのあたり。大きな石碑なんですが、字が読みにくくて分かり辛いかもしれません。ちなみに、松浦松洞は魚商人の子から尊王攘夷運動に身を捧げた人物。その名を有名にしたのは、安政6年(1859年)安政の大獄によって江戸への護送が決定した吉田松陰の肖像画を残したこと。何かあると出される松陰の肖像画はたいていがこの肖像画です。

    松浦松洞誕生地は、松陰神社前のロータリーのあたり。大きな石碑なんですが、字が読みにくくて分かり辛いかもしれません。ちなみに、松浦松洞は魚商人の子から尊王攘夷運動に身を捧げた人物。その名を有名にしたのは、安政6年(1859年)安政の大獄によって江戸への護送が決定した吉田松陰の肖像画を残したこと。何かあると出される松陰の肖像画はたいていがこの肖像画です。

  • 明安寺は、松陰神社のすぐそば。ここも松陰ゆかりの寺。親交のあった尊王攘夷の僧、月性がここで講和を行った際、塾生を聴講させたといいます。月性は早くから討幕なども唱えていた過激な思想の持ち主ですが、松陰もやっぱり負けてはいない。熱い関係があったように思います。<br />しかし、それほどのことがあったにしては、寺では境内のどこにもそんなことをアピールしていない。何も知らないとここが松陰のエピソードがある寺とは誰も気が付かない。ちょっと残念なことだと思います。<br />松蔭神社の周辺は、これで終了。

    明安寺は、松陰神社のすぐそば。ここも松陰ゆかりの寺。親交のあった尊王攘夷の僧、月性がここで講和を行った際、塾生を聴講させたといいます。月性は早くから討幕なども唱えていた過激な思想の持ち主ですが、松陰もやっぱり負けてはいない。熱い関係があったように思います。
    しかし、それほどのことがあったにしては、寺では境内のどこにもそんなことをアピールしていない。何も知らないとここが松陰のエピソードがある寺とは誰も気が付かない。ちょっと残念なことだと思います。
    松蔭神社の周辺は、これで終了。

  • 萩椿は和菓子屋さんですが、ロードサイドのお店。地元の人には便利でしょうが、観光客にとっては少し縁遠くなっているような気もしますね。

    萩椿は和菓子屋さんですが、ロードサイドのお店。地元の人には便利でしょうが、観光客にとっては少し縁遠くなっているような気もしますね。

  • しかし、並んだお菓子類はちょっとほれぼれするほど多彩で美しい。水まんじゅうをいただきましたが、落ち着いた甘さがとっても美味。いいお店です。

    しかし、並んだお菓子類はちょっとほれぼれするほど多彩で美しい。水まんじゅうをいただきましたが、落ち着いた甘さがとっても美味。いいお店です。

  • 同じ並びにある果子乃季は、山口では時々見かけるメジャーなお菓子屋さん。駐車場も広いし、店内も悠々。

    同じ並びにある果子乃季は、山口では時々見かけるメジャーなお菓子屋さん。駐車場も広いし、店内も悠々。

  • 品数も豊富です。街歩きしながら食べるのに、月まるというお菓子を買いました。洋風ふわふわのかすてら饅頭。軽いので何個でも食べれそうに思いました。

    品数も豊富です。街歩きしながら食べるのに、月まるというお菓子を買いました。洋風ふわふわのかすてら饅頭。軽いので何個でも食べれそうに思いました。

  • さらに進むと、これは村田蒲鉾店です。広い敷地に団体客用の店舗と一般客用の店舗を構えたりして、蒲鉾屋さんにしては途方もない規模。たぶん、観光バスが乗り付けたりするんでしょうね。<br />

    さらに進むと、これは村田蒲鉾店です。広い敷地に団体客用の店舗と一般客用の店舗を構えたりして、蒲鉾屋さんにしては途方もない規模。たぶん、観光バスが乗り付けたりするんでしょうね。

  • 私は一般客用の店舗で平たい蒲鉾を一ついただきました。これって、弾力のあるプリプリ感が半端ではない。ここまでするかというくらい。材料の良さもあるんでしょうが、かなり過激な蒲鉾です。

    私は一般客用の店舗で平たい蒲鉾を一ついただきました。これって、弾力のあるプリプリ感が半端ではない。ここまでするかというくらい。材料の良さもあるんでしょうが、かなり過激な蒲鉾です。

  • もう萩駅の近くまで来ていたようで、そこから松本川を渡って、中心部に向かいます。

    もう萩駅の近くまで来ていたようで、そこから松本川を渡って、中心部に向かいます。

  • 井上勝旧宅跡は、普通の住宅地の中。<br />場所を示す石柱だけでなく、旧宅のしっかりした門がきちんと残っていて、往時の雰囲気がそれなりに偲べます。ちなみに、井上勝は日本の鉄道の発展に尽くした人物。東京だと品川の山手線とか東海道線が集まる場所に墓があるんですが、ここが自宅だったんですね。

    井上勝旧宅跡は、普通の住宅地の中。
    場所を示す石柱だけでなく、旧宅のしっかりした門がきちんと残っていて、往時の雰囲気がそれなりに偲べます。ちなみに、井上勝は日本の鉄道の発展に尽くした人物。東京だと品川の山手線とか東海道線が集まる場所に墓があるんですが、ここが自宅だったんですね。

  • 井上勝旧宅跡の近くにある入江九一 野村靖誕生地。ブロック塀の前に少し古ぼっけた石柱と説明板があるだけでしたが、説明板によれば入江九一 野村靖は、下級武士野村家の長男と三男。兄は、松下村塾で学び、高杉晋作の奇兵隊結成にも協力。禁門の変で戦死。弟は明治に入って逓信大臣も務めるとありました。激しい世の中を駆け抜けた兄弟です。

    井上勝旧宅跡の近くにある入江九一 野村靖誕生地。ブロック塀の前に少し古ぼっけた石柱と説明板があるだけでしたが、説明板によれば入江九一 野村靖は、下級武士野村家の長男と三男。兄は、松下村塾で学び、高杉晋作の奇兵隊結成にも協力。禁門の変で戦死。弟は明治に入って逓信大臣も務めるとありました。激しい世の中を駆け抜けた兄弟です。

  • 周布政之助旧宅地は、青空駐車場を囲むブロック塀の前。おまけに電柱の支えに少しかかるようなところに、それを示す石柱がありました。<br />説明板もあって、周布政之助は萩藩大組78石の家に生まれ、俊才と評される。要職を歴任して尊王攘夷運動を主導。長州ファイブをイギリスへ送り込んだのも周布政之助です。<br />ただ、これほどの人物でも8月18日の政変後、追い詰められ自決。尊王攘夷は紆余曲折があって、なかなか一筋縄ではいかない。藩主以下が尊王攘夷派という特異な長州藩でも事情はさして変わりません。

    周布政之助旧宅地は、青空駐車場を囲むブロック塀の前。おまけに電柱の支えに少しかかるようなところに、それを示す石柱がありました。
    説明板もあって、周布政之助は萩藩大組78石の家に生まれ、俊才と評される。要職を歴任して尊王攘夷運動を主導。長州ファイブをイギリスへ送り込んだのも周布政之助です。
    ただ、これほどの人物でも8月18日の政変後、追い詰められ自決。尊王攘夷は紆余曲折があって、なかなか一筋縄ではいかない。藩主以下が尊王攘夷派という特異な長州藩でも事情はさして変わりません。

  • 小川家長屋門は、萩藩大組士500石小川家の屋敷表門。明治元年まで3年間、萩町奉行を勤めたとありまして、長さは27mと相当な規模。ただ、今ではかなり傷んでいて、一見しても戸板や屋根などはボロボロ。風雨を凌いできた歴史を刻んでいます。

    小川家長屋門は、萩藩大組士500石小川家の屋敷表門。明治元年まで3年間、萩町奉行を勤めたとありまして、長さは27mと相当な規模。ただ、今ではかなり傷んでいて、一見しても戸板や屋根などはボロボロ。風雨を凌いできた歴史を刻んでいます。

  • 楢崎弥八郎旧宅地は、前原一誠旧宅を探していて、偶然見つけたもの。ちょっと荒れた公園のような空地の前に、少し傷んだ石柱が建っていました。石柱だけで説明板はありません。<br />ちなみに、楢崎弥八郎は江戸で学び尊王攘夷運動に身を投じた変わり種。禁門の変の後、幕府恭順派に捕えられ、刑死したということです。

    楢崎弥八郎旧宅地は、前原一誠旧宅を探していて、偶然見つけたもの。ちょっと荒れた公園のような空地の前に、少し傷んだ石柱が建っていました。石柱だけで説明板はありません。
    ちなみに、楢崎弥八郎は江戸で学び尊王攘夷運動に身を投じた変わり種。禁門の変の後、幕府恭順派に捕えられ、刑死したということです。

  • 前原一誠旧宅は、住宅地の中なんですが奥まった場所なので、少し分かりにくいかもしれません。例によって、石柱と説明板がありますが、邸宅の門は涼しげな雰囲気です。<br />説明によれば、萩藩大組士の家柄。松下村塾に入門し、戊辰戦争では大村益次郎の後を受けて兵部大輔となったほどの人物。新政府にも参加しますが、最後は萩で反政府の挙兵をして刑死しています。<br />それにしても、この辺りは路地に特徴もないし、正確な地図を持っていないと目指すスポットは探し出せません。結構大変です。

    前原一誠旧宅は、住宅地の中なんですが奥まった場所なので、少し分かりにくいかもしれません。例によって、石柱と説明板がありますが、邸宅の門は涼しげな雰囲気です。
    説明によれば、萩藩大組士の家柄。松下村塾に入門し、戊辰戦争では大村益次郎の後を受けて兵部大輔となったほどの人物。新政府にも参加しますが、最後は萩で反政府の挙兵をして刑死しています。
    それにしても、この辺りは路地に特徴もないし、正確な地図を持っていないと目指すスポットは探し出せません。結構大変です。

  • うどんのどんどん。<br />どんどんはチェーン店なんですが、こちらは土原店。

    うどんのどんどん。
    どんどんはチェーン店なんですが、こちらは土原店。

  • 手軽さもあって、かなり賑わっています。

    手軽さもあって、かなり賑わっています。

  • 肉うどんと角寿司をいただきました。コシの具合がちょうど良くて、少し甘めの出汁は以前いただいた時と同じ素直なおいしさです。角寿しの方は岩国寿しに似ていますね。見た目はきれいですが、ただ、薄味でちょっとさっぱりし過ぎかなあという感じではあります。

    肉うどんと角寿司をいただきました。コシの具合がちょうど良くて、少し甘めの出汁は以前いただいた時と同じ素直なおいしさです。角寿しの方は岩国寿しに似ていますね。見た目はきれいですが、ただ、薄味でちょっとさっぱりし過ぎかなあという感じではあります。

  • 再び、街歩き開始。<br />野山獄跡と岩倉獄跡は向かい合わせの場所。いずれも限られた広さの場所ですが、石碑が建ち塀に囲まれた一角です。<br />こちらの野山獄は上牢で士分の者を収容し、

    再び、街歩き開始。
    野山獄跡と岩倉獄跡は向かい合わせの場所。いずれも限られた広さの場所ですが、石碑が建ち塀に囲まれた一角です。
    こちらの野山獄は上牢で士分の者を収容し、

  • こっちの岩倉獄は下牢で庶民を収容したとあります。<br />吉田松陰は海外渡航の咎で野山獄に収容されたよう。その後、尊王攘夷の激動の中で、長州藩の意見が割れた際には、正義派、俗論派双方の志士が投ぜられ、多くの志士が処刑される。悲劇を重ねた場所です。

    こっちの岩倉獄は下牢で庶民を収容したとあります。
    吉田松陰は海外渡航の咎で野山獄に収容されたよう。その後、尊王攘夷の激動の中で、長州藩の意見が割れた際には、正義派、俗論派双方の志士が投ぜられ、多くの志士が処刑される。悲劇を重ねた場所です。

  • 常念寺は、野山獄跡から。ここの表門は毛利輝元が豊臣秀吉から拝領したという聚楽第の裏門。これがなんといっても見どころでしょう。堂々とした四脚門で、さりげない二重たるきが重厚さを加えています。本堂の方は、軒唐破風が少し大きいくらい。まあ普通でしょう。<br />

    常念寺は、野山獄跡から。ここの表門は毛利輝元が豊臣秀吉から拝領したという聚楽第の裏門。これがなんといっても見どころでしょう。堂々とした四脚門で、さりげない二重たるきが重厚さを加えています。本堂の方は、軒唐破風が少し大きいくらい。まあ普通でしょう。

  • 近所にある一〇酒造のブランドは一〇正宗(イチマルマサムネ)。<br />元々は、明治時代の呉服屋で店の名前は「一〇呉服店」。酒造は大正6年の創業です。今古萩町の街中に忽然と現れる感じ。開けっぴろげの玄関の奥にはがらんとした広い土間があって、醸造元の暖簾に、美しいデザインの酒製品が並んでいて、町の品格を高めているような存在です。

    近所にある一〇酒造のブランドは一〇正宗(イチマルマサムネ)。
    元々は、明治時代の呉服屋で店の名前は「一〇呉服店」。酒造は大正6年の創業です。今古萩町の街中に忽然と現れる感じ。開けっぴろげの玄関の奥にはがらんとした広い土間があって、醸造元の暖簾に、美しいデザインの酒製品が並んでいて、町の品格を高めているような存在です。

  • 光國本店は、萩の名物、夏みかん丸漬のお店。表通りから少し入ったあまり目立たない場所にありました。

    光國本店は、萩の名物、夏みかん丸漬のお店。表通りから少し入ったあまり目立たない場所にありました。

  • 萩の特産品が夏ミカンとは知りませんでしたが、その夏ミカンを上品な甘さで煮詰めた砂糖菓子は甘さと夏ミカンのほろ苦さがちょうどいいあんばい。

    萩の特産品が夏ミカンとは知りませんでしたが、その夏ミカンを上品な甘さで煮詰めた砂糖菓子は甘さと夏ミカンのほろ苦さがちょうどいいあんばい。

  • 小袋をお土産にしましたが、ちょっとしびれる逸品です。

    小袋をお土産にしましたが、ちょっとしびれる逸品です。

  • 今度は寺町のほうへ。<br />海潮寺の本堂は、藩校明倫館の遺構である聖廟を移築したもの。内部は石畳なので土足のまま入ります。

    今度は寺町のほうへ。
    海潮寺の本堂は、藩校明倫館の遺構である聖廟を移築したもの。内部は石畳なので土足のまま入ります。

  • 中央には石地蔵を祀った厨子が置かれて、

    中央には石地蔵を祀った厨子が置かれて、

  • 天井の格天井は絵天井。それが斜めの格天井なんか初めて見ましたね。<br />その他、壁際には千手観音や聖徳太子などの美しい像が並んでいて、ちょっとした美術館みたい。予想以上に見どころのあるお寺です。

    イチオシ

    天井の格天井は絵天井。それが斜めの格天井なんか初めて見ましたね。
    その他、壁際には千手観音や聖徳太子などの美しい像が並んでいて、ちょっとした美術館みたい。予想以上に見どころのあるお寺です。

  • 亨徳寺は、高杉晋作の高杉家の菩提寺。大通りに面した立派な三門は、元禄8年(1695年)年に建てられたもののようですが、この辺りのお寺ではずば抜けて立派です。

    亨徳寺は、高杉晋作の高杉家の菩提寺。大通りに面した立派な三門は、元禄8年(1695年)年に建てられたもののようですが、この辺りのお寺ではずば抜けて立派です。

  • 三門を入って

    三門を入って

  • 左手にだるま像を安置するお堂があって、これがなにげに面白い。

    左手にだるま像を安置するお堂があって、これがなにげに面白い。

  • ぎょろりとにらんだだるまさん。一見の価値があるように思います。

    ぎょろりとにらんだだるまさん。一見の価値があるように思います。

  • ここから、北に向かうと今度は商人のエリアです。<br />ところで、萩の一番のお祭りは、萩夏まつり。その祭りはこの住吉神社のお祭りです。<br />

    ここから、北に向かうと今度は商人のエリアです。
    ところで、萩の一番のお祭りは、萩夏まつり。その祭りはこの住吉神社のお祭りです。

  • このあたりは浜崎町地区と言って、萩の城下町が整備された時から町人の町だったということ。海に面した場所でもあり、海の神様、住吉神社はこの地域には相応しいものでもあるでしょう。境内は十分広いし、鳥居の脇には祭りの名残りの天狗の山車も置かれていました。祭りの賑やかさが想像されました。

    このあたりは浜崎町地区と言って、萩の城下町が整備された時から町人の町だったということ。海に面した場所でもあり、海の神様、住吉神社はこの地域には相応しいものでもあるでしょう。境内は十分広いし、鳥居の脇には祭りの名残りの天狗の山車も置かれていました。祭りの賑やかさが想像されました。

  • 梅屋七兵衛旧宅は、通りから奥まったところにあって、てっきり通りに面した建物だとばかり思って探していたので、見つけるのにけっこうてこずりました。

    梅屋七兵衛旧宅は、通りから奥まったところにあって、てっきり通りに面した建物だとばかり思って探していたので、見つけるのにけっこうてこずりました。

  • 隠居所みたいな小さな築山を備えた庭付の建物。

    隠居所みたいな小さな築山を備えた庭付の建物。

  • 御主人がいらっしゃいまして、少し説明をしてもらいました。梅屋七兵衛は、代々浜崎町で北国問屋を営む家柄。幕末においても長州の海の玄関は下関というイメージが強いのですが、萩も海に面した港がある。北前船の取引をちゃんとやっていたというのは考えてみればその通りなのですが、ちょっと意表を突かれた感じもするお話でした。

    御主人がいらっしゃいまして、少し説明をしてもらいました。梅屋七兵衛は、代々浜崎町で北国問屋を営む家柄。幕末においても長州の海の玄関は下関というイメージが強いのですが、萩も海に面した港がある。北前船の取引をちゃんとやっていたというのは考えてみればその通りなのですが、ちょっと意表を突かれた感じもするお話でした。

  • 浜崎町の中心部に出てきました。この辺りは武家屋敷はまったく見当たらない。萩市街はどこにでも武家屋敷っぽい建物があるので、その分、この地区は逆にホッとするような感じもありますね。伝統的建造物群保存地区に指定されています。<br />山中家、山村家、御船倉。松陰先生の菩提寺、泉福寺はここから回ります。

    浜崎町の中心部に出てきました。この辺りは武家屋敷はまったく見当たらない。萩市街はどこにでも武家屋敷っぽい建物があるので、その分、この地区は逆にホッとするような感じもありますね。伝統的建造物群保存地区に指定されています。
    山中家、山村家、御船倉。松陰先生の菩提寺、泉福寺はここから回ります。

  • まずは、旧山中家住宅。まさに浜崎町の中心にあって、観光案内所のような位置づけもあるでしょう。観光案内のボランティアのような人がいて、辺りの見どころを紹介してくれます。

    まずは、旧山中家住宅。まさに浜崎町の中心にあって、観光案内所のような位置づけもあるでしょう。観光案内のボランティアのような人がいて、辺りの見どころを紹介してくれます。

  • さて、この建物のうなぎの寝床のような建て方も押さえておく必要がありますが、展示された品々もなかなか。

    さて、この建物のうなぎの寝床のような建て方も押さえておく必要がありますが、展示された品々もなかなか。

  • たぶん、町人衆がこれで遊んだという酒器や

    たぶん、町人衆がこれで遊んだという酒器や

  • 二階にはそっくりさん人形も。

    二階にはそっくりさん人形も。

  • 活き活きした展示が気持ちいいと思います。

    活き活きした展示が気持ちいいと思います。

  • 続いては、はす向かいの旧山村家住宅へ。

    続いては、はす向かいの旧山村家住宅へ。

  • 昭和初期の町家だそうですが、

    昭和初期の町家だそうですが、

  • 当時の暮らしが偲ばれる室内は、

    当時の暮らしが偲ばれる室内は、

  • 今でもそのまま住めそうな感じ。

    今でもそのまま住めそうな感じ。

  • 蔵の方には、

    蔵の方には、

  • 朝鮮半島などとの手広い商売をしていた資料も展示されていて、これは意外。萩が田舎だと思っていたイメージは修正しないといけないような気になりました。<br />

    朝鮮半島などとの手広い商売をしていた資料も展示されていて、これは意外。萩が田舎だと思っていたイメージは修正しないといけないような気になりました。

  • 別の部屋には、商家の宣伝に使われていた今でいうポスターの類。

    別の部屋には、商家の宣伝に使われていた今でいうポスターの類。

  • 蔵にしまってあったので色がまったくあせていない。

    イチオシ

    蔵にしまってあったので色がまったくあせていない。

  • 鮮やかな美しい色合いをしっかり確かめさせてもらいました。

    鮮やかな美しい色合いをしっかり確かめさせてもらいました。

  • 再び表に出て。この先が旧萩藩御船倉です

    再び表に出て。この先が旧萩藩御船倉です

  • これは、浜崎町の最大の見どころの一つ。旧山中家住宅から声をかけてもらった地元の方が案内してくれました。<br />

    これは、浜崎町の最大の見どころの一つ。旧山中家住宅から声をかけてもらった地元の方が案内してくれました。

  • かつて藩主が参勤交代にも使ったという御座船を格納していたという建物ですが、

    イチオシ

    かつて藩主が参勤交代にも使ったという御座船を格納していたという建物ですが、

  • 周囲は城のような頑丈な石垣。

    周囲は城のような頑丈な石垣。

  • 扉を開けると巨大な倉庫のような内部空間が現れました。かつては海に面していて、ここから直接海につながっていたようです。それにしても、これだけの規模の施設が保存状態もよく残っているってすごいこと。予想外の迫力で、ちょっと感動しました。

    扉を開けると巨大な倉庫のような内部空間が現れました。かつては海に面していて、ここから直接海につながっていたようです。それにしても、これだけの規模の施設が保存状態もよく残っているってすごいこと。予想外の迫力で、ちょっと感動しました。

  • 続いては、泉福寺。ここが、吉田松陰の菩提寺です。

    続いては、泉福寺。ここが、吉田松陰の菩提寺です。

  • 拝観を申し込むと、

    拝観を申し込むと、

  • 位牌堂にある松陰の位牌をあっさりと見せてくれました。普段はレプリカということで写真を撮らせてもらいましたが、本物が見れるという時でも写真を撮る人がいるみたい。やっぱり、それはどうかと思います。

    位牌堂にある松陰の位牌をあっさりと見せてくれました。普段はレプリカということで写真を撮らせてもらいましたが、本物が見れるという時でも写真を撮る人がいるみたい。やっぱり、それはどうかと思います。

  • 浜崎町を後にして。<br />こちらの女台場と呼ばれる菊ケ浜土塁は、これも幕末の遺構。<br />文久3年(1863)5月10日、尊皇攘夷にはやる長州藩は、関門海峡を通過するアメリカの商船など外国船を砲撃しますが、その翌年、英・米・仏・蘭の四カ国連合艦隊がその報復として下関を砲撃する下関戦争が起きることになります。<br />そして、海に面した萩の街でもいち早くこれに備えんと造られたのが、この女台場。身分を問わず、老若男女が力を合わせて築いたもの。草ぼうぼうの中に石碑が建っていましたが、結局、萩は萩城だけでなく萩の街全体が海に面している。想像以上の恐怖があったように思います。

    浜崎町を後にして。
    こちらの女台場と呼ばれる菊ケ浜土塁は、これも幕末の遺構。
    文久3年(1863)5月10日、尊皇攘夷にはやる長州藩は、関門海峡を通過するアメリカの商船など外国船を砲撃しますが、その翌年、英・米・仏・蘭の四カ国連合艦隊がその報復として下関を砲撃する下関戦争が起きることになります。
    そして、海に面した萩の街でもいち早くこれに備えんと造られたのが、この女台場。身分を問わず、老若男女が力を合わせて築いたもの。草ぼうぼうの中に石碑が建っていましたが、結局、萩は萩城だけでなく萩の街全体が海に面している。想像以上の恐怖があったように思います。

  • 菊ケ浜は、萩の街の日本海側。萩市内を散策している時は萩が海沿いの街だという感じはしないのですが、実は菊ケ浜は意外なほどすぐの場所。幕末、長州藩は欧米と戦う下関戦争を経験していますが、もし萩が襲われたらと恐れていた恐ろしさは相当なものがあったということが分かりました。実際は遠浅の海だったので、杞憂に終わったのですが、ちょっと足を向けてみるのもいいでしょう。<br /><br />萩は萩城も含めて、海岸に面した街。なので、市街を抜けるとすぐに本格的な砂浜の菊ヶ浜海水浴場があります。海水浴の季節ではなかったのでほとんど人影はありませんでしたが、日本海に沈む夕日がけっこうきれいでした。

    菊ケ浜は、萩の街の日本海側。萩市内を散策している時は萩が海沿いの街だという感じはしないのですが、実は菊ケ浜は意外なほどすぐの場所。幕末、長州藩は欧米と戦う下関戦争を経験していますが、もし萩が襲われたらと恐れていた恐ろしさは相当なものがあったということが分かりました。実際は遠浅の海だったので、杞憂に終わったのですが、ちょっと足を向けてみるのもいいでしょう。

    萩は萩城も含めて、海岸に面した街。なので、市街を抜けるとすぐに本格的な砂浜の菊ヶ浜海水浴場があります。海水浴の季節ではなかったのでほとんど人影はありませんでしたが、日本海に沈む夕日がけっこうきれいでした。

  • 再び中心部に戻って。<br />これは萩城外堀。萩城の防備のために造られたものなんでしょうが、今の姿を見れば、ほとんどその役割は果たせそうにないですね。<br />しかし、初めの頃は掘幅は約40mで、船の通行も出来ていたのだとか。それが平和な時代が続くとともに、無用の長物。住宅地が迫ってきて、遂には現在の姿になったということでしょう。

    再び中心部に戻って。
    これは萩城外堀。萩城の防備のために造られたものなんでしょうが、今の姿を見れば、ほとんどその役割は果たせそうにないですね。
    しかし、初めの頃は掘幅は約40mで、船の通行も出来ていたのだとか。それが平和な時代が続くとともに、無用の長物。住宅地が迫ってきて、遂には現在の姿になったということでしょう。

  • 北の総門は、萩城外堀の一角に建つ、かつては城下から三の丸に入るために設けられた総門の一つ。総門は三つあり、他は中の総門、平安古の総門。唯一、この門が萩開府400年を記念して復元されました。門にコロが付いていて、これなら開け閉めも楽だと思いましたが、さすがに当時はこうではなかったでしょう。

    北の総門は、萩城外堀の一角に建つ、かつては城下から三の丸に入るために設けられた総門の一つ。総門は三つあり、他は中の総門、平安古の総門。唯一、この門が萩開府400年を記念して復元されました。門にコロが付いていて、これなら開け閉めも楽だと思いましたが、さすがに当時はこうではなかったでしょう。

  • 益田家物見矢倉は、北の総門から北に向かってすぐ。益田氏は国司として下向し島根県の益田を領していた土豪。大内氏から毛利氏に仕え、毛利氏が萩に移ってからは永代家老となっています。<br />

    益田家物見矢倉は、北の総門から北に向かってすぐ。益田氏は国司として下向し島根県の益田を領していた土豪。大内氏から毛利氏に仕え、毛利氏が萩に移ってからは永代家老となっています。

  • 矢倉は武器を収納する倉だけでなく、物見というように人の出入りを見張る役目もあったようです。精緻に組んだ石垣の上に長屋風の建物が乗っかっているシンプルな姿ですが、格子窓になっていて、ちょっと美的なセンスも忘れていないように思います。<br />

    矢倉は武器を収納する倉だけでなく、物見というように人の出入りを見張る役目もあったようです。精緻に組んだ石垣の上に長屋風の建物が乗っかっているシンプルな姿ですが、格子窓になっていて、ちょっと美的なセンスも忘れていないように思います。

  • 繁沢家長屋門は、吉川元春の次男を祖とする阿川毛利家の分家で萩藩寄組に属した繁沢家の長屋門。長さが35.5mもある堂々とした規模。長屋というシンプルな構造ですが、左右三つずつ、出窓風の格子が付いていることで景色に変化が生まれていると思います。<br />

    繁沢家長屋門は、吉川元春の次男を祖とする阿川毛利家の分家で萩藩寄組に属した繁沢家の長屋門。長さが35.5mもある堂々とした規模。長屋というシンプルな構造ですが、左右三つずつ、出窓風の格子が付いていることで景色に変化が生まれていると思います。

  • 萩市内には伝統的建造物群保存地区が三つあって、この辺りは堀内地区です。萩城にも近く、高級武士のお屋敷が軒を並べていたエリア。一つ一つの区画がどれも広大で、長く続いた塀とかが、ここの特徴です。建物はせいぜい長屋門とかが残るだけですが、この区画の大きさだけでも普通の武家屋敷ではないことは十分想像できると思います。<br /><br />そして、その代表格がこの問田益田氏旧宅土塀。長さ231.7mと、とにかくひたすら長い白い塀です。ここにも説明板があって、問田益田氏は永代家老益田家の分家筋。それでもこれだけの構えをしていたというのはちょっと驚きです。

    萩市内には伝統的建造物群保存地区が三つあって、この辺りは堀内地区です。萩城にも近く、高級武士のお屋敷が軒を並べていたエリア。一つ一つの区画がどれも広大で、長く続いた塀とかが、ここの特徴です。建物はせいぜい長屋門とかが残るだけですが、この区画の大きさだけでも普通の武家屋敷ではないことは十分想像できると思います。

    そして、その代表格がこの問田益田氏旧宅土塀。長さ231.7mと、とにかくひたすら長い白い塀です。ここにも説明板があって、問田益田氏は永代家老益田家の分家筋。それでもこれだけの構えをしていたというのはちょっと驚きです。

  • ここから萩城のほうに向かいます。<br />旧毛利家別邸表門は、堀の内の真ん中。江戸時代の遺構と思いきや、これは明治時代に建てられたもの。14代藩主、毛利元徳が建てました。元々は鎌倉の材木座の別邸にあったものを現在地に移築したということ。<br />なお、門には萩セミナーハウスという表札がかかり、奥には公共の施設のようなものがあって広場では大勢の人たちの影も見えました。

    ここから萩城のほうに向かいます。
    旧毛利家別邸表門は、堀の内の真ん中。江戸時代の遺構と思いきや、これは明治時代に建てられたもの。14代藩主、毛利元徳が建てました。元々は鎌倉の材木座の別邸にあったものを現在地に移築したということ。
    なお、門には萩セミナーハウスという表札がかかり、奥には公共の施設のようなものがあって広場では大勢の人たちの影も見えました。

  • 少し先には、天樹院墓所。毛利輝元の墓所ですが、街の真ん中です。<br />ただ、ここは輝元の隠居所のあった場所なんだそうで、輝元が亡くなると、天樹院という菩提寺が建てられたということ。いずれにしても輝元ゆかりの地になります。<br /><br />

    少し先には、天樹院墓所。毛利輝元の墓所ですが、街の真ん中です。
    ただ、ここは輝元の隠居所のあった場所なんだそうで、輝元が亡くなると、天樹院という菩提寺が建てられたということ。いずれにしても輝元ゆかりの地になります。

  • 今では寺はなくて、墓所だけです。<br />墓の前に「長井元房と忠義の猫」というのがあって、猫までも輝元に殉死したという説明がありました。

    今では寺はなくて、墓所だけです。
    墓の前に「長井元房と忠義の猫」というのがあって、猫までも輝元に殉死したという説明がありました。

  • 萩城にやってきました。

    萩城にやってきました。

  • まずは、萩史料館へ。萩城の駐車場横に建つ高床式の勿体のある構えの施設です。

    まずは、萩史料館へ。萩城の駐車場横に建つ高床式の勿体のある構えの施設です。

  • 藩政時代から明治にかけての資料の数々が展示されていて、さすが雄藩長州の面目躍如という感じ。維新の志士たちも一通りの説明が付されているので、入門編の整理としてはいいでしょう。私は古い萩焼が美しくて、これにはちょっと見とれてしまいました。

    藩政時代から明治にかけての資料の数々が展示されていて、さすが雄藩長州の面目躍如という感じ。維新の志士たちも一通りの説明が付されているので、入門編の整理としてはいいでしょう。私は古い萩焼が美しくて、これにはちょっと見とれてしまいました。

  • 萩城の入口の石垣前に毛利輝元像があります。毛利元就の嫡孫で、早くに父を亡くしたものの、叔父の吉川元春、小早川隆景に支えられて中国地方の覇者となりますが、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として担がれたことで、関ヶ原の戦いの後は周防・長門2ヶ国に押し込められました。<br />像は威厳を持った表情で座った姿。しかし、内心はじくじたるものがあったに違いないでしょう。仇は明治維新まで待つことになります。<br />

    萩城の入口の石垣前に毛利輝元像があります。毛利元就の嫡孫で、早くに父を亡くしたものの、叔父の吉川元春、小早川隆景に支えられて中国地方の覇者となりますが、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として担がれたことで、関ヶ原の戦いの後は周防・長門2ヶ国に押し込められました。
    像は威厳を持った表情で座った姿。しかし、内心はじくじたるものがあったに違いないでしょう。仇は明治維新まで待つことになります。

  • 萩城跡を整備したのが指月公園。ここが入口です。

    萩城跡を整備したのが指月公園。ここが入口です。

  • 天守閣が残っていないので、ちょっと寂しいですが、

    天守閣が残っていないので、ちょっと寂しいですが、

  • 天守閣台はしっかり残っているので、まずはそれに登ってみましょう。指月山にお堀とかが一望です。<br />

    天守閣台はしっかり残っているので、まずはそれに登ってみましょう。指月山にお堀とかが一望です。

  • 指月山は、萩城の背後にそびえる山。萩城跡から見ると特にどうということはないのですが、城下を少し離れると三角の整った形が特徴的で、これを目印にするとすぐにお城のある辺りが分かる。萩市のランドマークになっている山だと思います。

    指月山は、萩城の背後にそびえる山。萩城跡から見ると特にどうということはないのですが、城下を少し離れると三角の整った形が特徴的で、これを目印にするとすぐにお城のある辺りが分かる。萩市のランドマークになっている山だと思います。

  • ほか、移築された歴史的な建物とかが複数ありますが、はっきり言えば、保存状態はあまりよくない。萩市内の歴史ポイントはあまりにも豊富。それを考えると指月公園は整備まではなかなか十分に手が回らないのかもしれません。<br />ということで。<br />これは花江茶亭。これは、旧三の丸にあった13代藩主、毛利敬親の別邸にあった茶室「自在庵」を移築したもの。敬親は幕末の藩主で、藩主自らが尊王攘夷の急先鋒という特異な長州藩の象徴でもある。この茶室でも盛んに国事を画策したといわれていて、歴史的な遺構でもあると思います。<br />

    ほか、移築された歴史的な建物とかが複数ありますが、はっきり言えば、保存状態はあまりよくない。萩市内の歴史ポイントはあまりにも豊富。それを考えると指月公園は整備まではなかなか十分に手が回らないのかもしれません。
    ということで。
    これは花江茶亭。これは、旧三の丸にあった13代藩主、毛利敬親の別邸にあった茶室「自在庵」を移築したもの。敬親は幕末の藩主で、藩主自らが尊王攘夷の急先鋒という特異な長州藩の象徴でもある。この茶室でも盛んに国事を画策したといわれていて、歴史的な遺構でもあると思います。

  • 見れるのは外観のみですが、奇岩と蘇鉄の庭がけっこう見応えあり。これは後から作ったものでしょうが、ちょっと緊迫感のようなものも感じられて、面白いと思います。

    見れるのは外観のみですが、奇岩と蘇鉄の庭がけっこう見応えあり。これは後から作ったものでしょうが、ちょっと緊迫感のようなものも感じられて、面白いと思います。

  • 花江茶亭の隣りは、梨羽家茶室。<br />これは、毛利家の重臣、梨羽家の別邸茶室を移築したもの。茶室は雨戸が閉まっているし、特にどうということはないのですが、

    花江茶亭の隣りは、梨羽家茶室。
    これは、毛利家の重臣、梨羽家の別邸茶室を移築したもの。茶室は雨戸が閉まっているし、特にどうということはないのですが、

  • 前庭の迫力はちょっとすごい。十分に手が入っていないので荒れているのも事実ですが、飛び石から池を囲んだ石組みなど、豪快な姿には目を見張ります。

    前庭の迫力はちょっとすごい。十分に手が入っていないので荒れているのも事実ですが、飛び石から池を囲んだ石組みなど、豪快な姿には目を見張ります。

  • 志都岐山神社は、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳のほか、初代から12代まで萩藩歴代藩主を祀っています。<br />ただ、どちらにしても、明治11年の創建であり、後から作られた神社。毛利氏の古き良き時代を偲ぶ気持ちの発露というくらい。正直言えば正面の石段とか始めちょっと荒れてきていて、時代の流れはやむを得ないでしょう。

    志都岐山神社は、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳のほか、初代から12代まで萩藩歴代藩主を祀っています。
    ただ、どちらにしても、明治11年の創建であり、後から作られた神社。毛利氏の古き良き時代を偲ぶ気持ちの発露というくらい。正直言えば正面の石段とか始めちょっと荒れてきていて、時代の流れはやむを得ないでしょう。

  • 旧福原家書院は、その志都岐山神社の正面石段を登る手前です。<br />福原家は、毛利氏の準一門であり、永代家老の家柄。これは旧宅の一部を移築したもので、江戸中期の建築。ここで保存を図ったものだと思いますが、もう朽ちるにまかせた感じがなくもない。建物の内部も外からそのまま拝見できますが、これでは雨風もそのまま入ってしまうかも。ちょっと心配になりました。

    旧福原家書院は、その志都岐山神社の正面石段を登る手前です。
    福原家は、毛利氏の準一門であり、永代家老の家柄。これは旧宅の一部を移築したもので、江戸中期の建築。ここで保存を図ったものだと思いますが、もう朽ちるにまかせた感じがなくもない。建物の内部も外からそのまま拝見できますが、これでは雨風もそのまま入ってしまうかも。ちょっと心配になりました。

  • 万歳橋は、志都岐山神社に至る正面石段へとつながる橋。中国式みたいな少し反りのある美しい石橋です。これは明倫館の遺構でもあるよう。移築した当時はさておき、見た目はそうでもないのですが、今ではちょっと傷んでいるようで渡ることはできません。

    万歳橋は、志都岐山神社に至る正面石段へとつながる橋。中国式みたいな少し反りのある美しい石橋です。これは明倫館の遺構でもあるよう。移築した当時はさておき、見た目はそうでもないのですが、今ではちょっと傷んでいるようで渡ることはできません。

  • 志都岐山神社の本殿も確認して、さらに奥のほうへ。

    志都岐山神社の本殿も確認して、さらに奥のほうへ。

  • 東園は、かつては藩主の遊息の庭園。大正14年に復元修理が行われました。ここは当時は二の丸。今見てもそれなりの規模があって、池を中心とした構えはなかなかのもの。花江茶亭や梨羽家茶室の庭も見応えがありましたが、萩城内の庭はどれもレベルが高いように思います。<br />以上で指月公園はおしまいです。

    東園は、かつては藩主の遊息の庭園。大正14年に復元修理が行われました。ここは当時は二の丸。今見てもそれなりの規模があって、池を中心とした構えはなかなかのもの。花江茶亭や梨羽家茶室の庭も見応えがありましたが、萩城内の庭はどれもレベルが高いように思います。
    以上で指月公園はおしまいです。

  • 清水清太郎親知旧宅跡は、萩城から萩キリシタン殉教者記念公園に向かう途中。堀内なんですが、ちょっと観光エリアからは外れると思います。石柱が建っていましたが、もうけっこうボロボロ。説明板も日焼けして白く変色していました。<br />ところで、清水清太郎親知は勤王派であり、禁門の変時は老中、国元加判役。しかし、変の責任をとり謹慎していましたが、その後、高杉晋作が挙兵すると報復として俗論派から切腹を申し付けられる。享年22歳の若さだったということです。

    清水清太郎親知旧宅跡は、萩城から萩キリシタン殉教者記念公園に向かう途中。堀内なんですが、ちょっと観光エリアからは外れると思います。石柱が建っていましたが、もうけっこうボロボロ。説明板も日焼けして白く変色していました。
    ところで、清水清太郎親知は勤王派であり、禁門の変時は老中、国元加判役。しかし、変の責任をとり謹慎していましたが、その後、高杉晋作が挙兵すると報復として俗論派から切腹を申し付けられる。享年22歳の若さだったということです。

  • 萩キリシタン殉教者記念公園は、萩城の石垣築造に際して起きた五郎太石事件を今に伝えるもの。石垣築造工事が遅延した責任をとらせる形で、熊谷、天野の一族を討ち滅ぼしたのですが、それは口実。キリシタンを迫害するための処置であったということも言われます。<br />

    萩キリシタン殉教者記念公園は、萩城の石垣築造に際して起きた五郎太石事件を今に伝えるもの。石垣築造工事が遅延した責任をとらせる形で、熊谷、天野の一族を討ち滅ぼしたのですが、それは口実。キリシタンを迫害するための処置であったということも言われます。

  • 石垣に囲まれた公園の中央に石碑がありますが、その上には十字が立つ。公園内はそれなりに掃除もされているよう。寂しい場所ですが、草ぼうぼうではありません。

    石垣に囲まれた公園の中央に石碑がありますが、その上には十字が立つ。公園内はそれなりに掃除もされているよう。寂しい場所ですが、草ぼうぼうではありません。

  • 少し移動して。<br />江風山月書楼跡を示す石柱と説明板は、堀内の明倫館跡と同じ並び。この辺りは目印になるものがないので、同じところを行ったり来たりしながら目指す場所を探すことになります。<br />ちなみに、江風山月書楼は、萩藩主の別邸。萩城跡内に移築された花江茶亭は、元々はここにあったものです。藩主毛利敬親はここに重臣たちを集めて、国事を画策した場所。長州は藩主以下が尊王攘夷派であり、熱い議論が戦わされたことは想像に難くありません。

    少し移動して。
    江風山月書楼跡を示す石柱と説明板は、堀内の明倫館跡と同じ並び。この辺りは目印になるものがないので、同じところを行ったり来たりしながら目指す場所を探すことになります。
    ちなみに、江風山月書楼は、萩藩主の別邸。萩城跡内に移築された花江茶亭は、元々はここにあったものです。藩主毛利敬親はここに重臣たちを集めて、国事を画策した場所。長州は藩主以下が尊王攘夷派であり、熱い議論が戦わされたことは想像に難くありません。

  • ほどなく口羽家住宅へ。口羽家も永代家老に次ぐ家柄。<br />表門を拝見しましたが、白壁に美しいなまこ壁が印象的。頑丈そうな建物にこの美しさが加わって、ちょっと破格な感じですが、元は江戸藩邸の門だったよう。それを拝領して移築したものだそうです。<br />なお、主屋の方も残っているようですが、夕方でもう門が閉まっていて、それは見れませんでした。<br /><br />ここからしばらく堀内エリアなんですが、堀内はとっても広いですねえ。以下、武家屋敷のオンパレードです。

    ほどなく口羽家住宅へ。口羽家も永代家老に次ぐ家柄。
    表門を拝見しましたが、白壁に美しいなまこ壁が印象的。頑丈そうな建物にこの美しさが加わって、ちょっと破格な感じですが、元は江戸藩邸の門だったよう。それを拝領して移築したものだそうです。
    なお、主屋の方も残っているようですが、夕方でもう門が閉まっていて、それは見れませんでした。

    ここからしばらく堀内エリアなんですが、堀内はとっても広いですねえ。以下、武家屋敷のオンパレードです。

  • 続いては、二宮家長屋門。本瓦葺き入母屋造りの落ち着いた構え。下見板張りに格子の出窓が付くという最低限の意匠も余計ないやみがないでしょう。<br />ちなみに、二宮家は萩藩大組(891石)。祖の二宮就辰は毛利元就の子だそうです。<br />

    続いては、二宮家長屋門。本瓦葺き入母屋造りの落ち着いた構え。下見板張りに格子の出窓が付くという最低限の意匠も余計ないやみがないでしょう。
    ちなみに、二宮家は萩藩大組(891石)。祖の二宮就辰は毛利元就の子だそうです。

  • 租式家長屋はがっちりした石垣の土台に切り妻屋根の建物はシンプルなもの。入口がはっきりしないし、長屋門というよりも倉庫の役割をしていた櫓のような建物ですね。<br />ちなみに、租式家は、初代萩藩主に側近として仕えたという家柄です。

    租式家長屋はがっちりした石垣の土台に切り妻屋根の建物はシンプルなもの。入口がはっきりしないし、長屋門というよりも倉庫の役割をしていた櫓のような建物ですね。
    ちなみに、租式家は、初代萩藩主に側近として仕えたという家柄です。

  • 旧梨羽家書院は、ちょっと荒れた遺構。崩れかけた塀のある簡単な入口には石柱と説明板がありましたが、危なっかしいような。書院はこの入口を入った奥なんでしょうが、とても入れるような感じではない。外からちらりと見える屋根を確認したくらいでした。<br />ちなみに、梨羽家は毛利家の重臣。別邸茶室が萩城跡に移築されていて、そっちの方が見応えがあるように思います。

    旧梨羽家書院は、ちょっと荒れた遺構。崩れかけた塀のある簡単な入口には石柱と説明板がありましたが、危なっかしいような。書院はこの入口を入った奥なんでしょうが、とても入れるような感じではない。外からちらりと見える屋根を確認したくらいでした。
    ちなみに、梨羽家は毛利家の重臣。別邸茶室が萩城跡に移築されていて、そっちの方が見応えがあるように思います。

  • 長州藩の藩校明倫館はその場所を移したことがあって、初めにあったのは堀内にある旧明倫館跡。荒地のような畑のような場所に少し石垣が残っていまして、その前に石柱が建っていました。藩主の別邸だった江風山月書楼や高級武士の屋敷が集まるエリア。ちょっと敷居が高い存在だったのかもしれません。

    長州藩の藩校明倫館はその場所を移したことがあって、初めにあったのは堀内にある旧明倫館跡。荒地のような畑のような場所に少し石垣が残っていまして、その前に石柱が建っていました。藩主の別邸だった江風山月書楼や高級武士の屋敷が集まるエリア。ちょっと敷居が高い存在だったのかもしれません。

  • 旧児玉家長屋は、萩藩寄組の大身武士の長屋。元々は平安古総門の南に面して建っていたということなので、今の場所だと少し移動しているのかもしれません。白い漆喰壁になまこ塀の組み合わせは他にもありますが、入口が片側に寄った分だけ、なまこ塀を長く感じるのが面白いなかと思います。

    旧児玉家長屋は、萩藩寄組の大身武士の長屋。元々は平安古総門の南に面して建っていたということなので、今の場所だと少し移動しているのかもしれません。白い漆喰壁になまこ塀の組み合わせは他にもありますが、入口が片側に寄った分だけ、なまこ塀を長く感じるのが面白いなかと思います。

  • 馬来杢旧宅は、朽ちた門の辺りから草ぼうぼうでちょっと廃墟と言った方がいいかも。それでも、門の脇に説明板があって、馬来家は萩藩大組士361石。島根の仁多郡で尼子十騎の一人でもあった尼子氏の配下だったルーツ。明治維新後の萩の乱では前原党二番隊長として参加したともありました。<br />毛利氏は中国地方で急速に勢力を伸ばした過程では、敵方の武将も多くを配下に組み込んでいて、そうした有力武将がまた毛利家を支えていたということでしょう。また、幕末の動乱を戦った長州藩の中でも多様な人たちがいたことを理解すべきだと思います。

    馬来杢旧宅は、朽ちた門の辺りから草ぼうぼうでちょっと廃墟と言った方がいいかも。それでも、門の脇に説明板があって、馬来家は萩藩大組士361石。島根の仁多郡で尼子十騎の一人でもあった尼子氏の配下だったルーツ。明治維新後の萩の乱では前原党二番隊長として参加したともありました。
    毛利氏は中国地方で急速に勢力を伸ばした過程では、敵方の武将も多くを配下に組み込んでいて、そうした有力武将がまた毛利家を支えていたということでしょう。また、幕末の動乱を戦った長州藩の中でも多様な人たちがいたことを理解すべきだと思います。

  • 旧周布家長屋門は、木造平屋建て本瓦葺きのシンプルな構造。長さ25mの堂々とした規模の長屋は、戸板にちょこっと格子の出窓が付いただけの最低限の意匠で、華美なところが全くありません。<br />ちなみに、周布家は萩藩大組士筆頭。永代家老、益田氏の支流にもあたります。ただ、周布と言えば、一族の一人、周布政之助。吉田松陰の門下を中枢に登用したり、藩論を攘夷にまとめようと奔走したことなどが後に改めて評価されている人物です。

    旧周布家長屋門は、木造平屋建て本瓦葺きのシンプルな構造。長さ25mの堂々とした規模の長屋は、戸板にちょこっと格子の出窓が付いただけの最低限の意匠で、華美なところが全くありません。
    ちなみに、周布家は萩藩大組士筆頭。永代家老、益田氏の支流にもあたります。ただ、周布と言えば、一族の一人、周布政之助。吉田松陰の門下を中枢に登用したり、藩論を攘夷にまとめようと奔走したことなどが後に改めて評価されている人物です。

  • 楫取素彦は群馬県県令ほか「花燃ゆ」では最後ふみの夫になった人物で、ちょっと注目度が上がったかもしれません。旧宅地やそれ以外のゆかりの地も含めて、けっこう大きな目立つ看板が建っていました。看板はかなり詳しい説明が書かれていて、なぜか他の人物とは全然違う破格の扱いです。<br />なお、素彦とふみの墓は防府市にあります。

    楫取素彦は群馬県県令ほか「花燃ゆ」では最後ふみの夫になった人物で、ちょっと注目度が上がったかもしれません。旧宅地やそれ以外のゆかりの地も含めて、けっこう大きな目立つ看板が建っていました。看板はかなり詳しい説明が書かれていて、なぜか他の人物とは全然違う破格の扱いです。
    なお、素彦とふみの墓は防府市にあります。

  • 弘法寺は、明治に入ってからのことですが、萩の乱首謀者として処刑された前原一誠の墓所があります。東萩駅からも比較的近いのですが、広い境内ですがちょっと荒れたような陰気な感じの無住の寺なので、観光スポットという雰囲気からは程遠いかもしれません。罪人として処刑されたこともあって、仕方ないのかもしれません。<br />

    弘法寺は、明治に入ってからのことですが、萩の乱首謀者として処刑された前原一誠の墓所があります。東萩駅からも比較的近いのですが、広い境内ですがちょっと荒れたような陰気な感じの無住の寺なので、観光スポットという雰囲気からは程遠いかもしれません。罪人として処刑されたこともあって、仕方ないのかもしれません。

  • 田町商店街というより、お成り道と言った方が分かるかも。萩市内中心部のアーケード商店街です。ただ、ここも地方都市の商店街のご多分に漏れず、ちょっと寂しいかなあ。シャッター通りというほどには錆びれていませんが、一生懸命探してもこれといった食堂なんか見当たらないし、残念でした。

    田町商店街というより、お成り道と言った方が分かるかも。萩市内中心部のアーケード商店街です。ただ、ここも地方都市の商店街のご多分に漏れず、ちょっと寂しいかなあ。シャッター通りというほどには錆びれていませんが、一生懸命探してもこれといった食堂なんか見当たらないし、残念でした。

  • 唐樋札場跡は、お成り道からバスセンターの方に抜けたところ。いわゆる高札場のことですね。けっこう大きな建物で、ここまで大きくする必要があったのかなあと思わないでもないですが、住民によく伝わるよう考えたものなのでしょう。そして、人が多く集まるところに建っていたのでしょうが、ここは武家屋敷からはちょっと離れています。むしろ庶民が多く住んでいたエリアではないかと思います。

    唐樋札場跡は、お成り道からバスセンターの方に抜けたところ。いわゆる高札場のことですね。けっこう大きな建物で、ここまで大きくする必要があったのかなあと思わないでもないですが、住民によく伝わるよう考えたものなのでしょう。そして、人が多く集まるところに建っていたのでしょうが、ここは武家屋敷からはちょっと離れています。むしろ庶民が多く住んでいたエリアではないかと思います。

  • 和食れすとらん 中村は、繁華街でもない場所。川のほとりにポツンとありました。<br />店内は広いし、これなら気兼ねなく寛げます。和食れすとらんとありますが、洋風の料理も程よく組み合わせてあって、これなら飽きずにいろいろ楽しめます。おいしくいただきました。ちょっと穴場的な食堂のような気がします。

    和食れすとらん 中村は、繁華街でもない場所。川のほとりにポツンとありました。
    店内は広いし、これなら気兼ねなく寛げます。和食れすとらんとありますが、洋風の料理も程よく組み合わせてあって、これなら飽きずにいろいろ楽しめます。おいしくいただきました。ちょっと穴場的な食堂のような気がします。

  • 萩の市街中心部、住宅地の中にある宿泊所。相部屋かなと思っていたんですが、申し込んでいたのは個室のタイプだったよう。二段ベッドの部屋で一人で寝れました。宿泊所に入るといきなり食堂とキッチンがあるような狭苦しい建物ではあるのですが、清潔感はちゃんと保たれている。女主人も落ち着いた応対で、贅沢を言わなければまあまあ使えるかなと思います。<br />さて、萩の一日目は終了ですが、予定の見どころはまだまだたくさん残っていて。明日もう一日で回れるかなあ。ちょっと不安に思いながら休みます。

    萩の市街中心部、住宅地の中にある宿泊所。相部屋かなと思っていたんですが、申し込んでいたのは個室のタイプだったよう。二段ベッドの部屋で一人で寝れました。宿泊所に入るといきなり食堂とキッチンがあるような狭苦しい建物ではあるのですが、清潔感はちゃんと保たれている。女主人も落ち着いた応対で、贅沢を言わなければまあまあ使えるかなと思います。
    さて、萩の一日目は終了ですが、予定の見どころはまだまだたくさん残っていて。明日もう一日で回れるかなあ。ちょっと不安に思いながら休みます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • tadさん 2017/02/06 19:48:18
    素晴らしい萩の紹介です!
    これは詳細な素晴らしい萩の紹介旅行記ですね!五つ星の拍手を送りたいです!フォローさせていただきます。

    たびたび

    たびたびさん からの返信 2017/02/22 10:35:39
    RE: 素晴らしい萩の紹介です!
    二日目の旅行記もアップしましたので、よろしく。長州藩の志士たちは禁門の変の後ですら、京都では一番人気だったそうです。山口の人に「よかですか」とか言われると、ちょっとドキッとしてしまいました。

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