2016/07/28 - 2016/07/28
582位(同エリア2886件中)
愛吉さん
生涯大学OB会の歩きま専科7月例会に参加しました。
表題は銀座・歴史散歩で、今回は銀座通りを境にした西半分、西銀座から愛宕山界隈迄歩く前半部分です。
集合は午前10時、有楽町駅中央口、参加は8人です。
このコースで有楽町駅を10時にスタートして、新橋駅到着は午後3時半になりました。
尚後半東銀座築地界隈は8月末を予定しております。
表紙の写真は、愛宕山出世の石段
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
JR有楽町駅中央口、10時集合です。
-
ここは駅前広場。
南町奉行所跡の目印が在りますが目立ちません、私も初めて見ました。
昔は駅前広場全体が奉行所だったのでしょう。
左下に見えるのは、最近発掘された奉行所石垣の一部です。
こここの場所が講談で有名な遠山の金さんや大岡越前守が活躍した舞台なのです。 -
銀座1丁目、京橋の袂に出て来ました。
今は地名だけで橋は有りません。
京橋の親柱が残されています。 -
傍にある案内板。
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親柱と道路を挟んだ反対側に、江戸歌舞伎発祥の地の石碑が在ります。
歌舞伎は1603年に出雲の阿国が京都で演じたのが最初ですが、江戸では1624年に猿若勘三郎(初代中村勘三郎)がこの地に芝居小屋を建てて演じたのが最初と云われます。 -
石碑の横には、猿若中村座之史跡と有ります。
江戸時代の京橋界隈は、芝居小屋が並ぶ歓楽街だったのでしょう。
尚中村座は幕府認可の歌舞伎江戸三座の一つです。 -
続いて隣に、京橋大根河岸青物市場跡碑が建っています。
昭和10年、築地に移転するまでここに青物市場があつた事を示す記念碑です。 -
同じく銀座1丁目には、煉瓦銀座碑が在ります。
明治3年の銀座大火後、政府は国費をもって不燃建築化に取り組み、煉瓦建てを奨励、完成後煉瓦通りと呼ばれるようになります。 -
続いて銀座通りを少し歩くと、銀座発祥の地、銀座役所跡碑が在ります。
1612年徳川幕府は、この地に銀貨鋳造の役所を設置し、町名を銀座町としました。 -
銀座通りを4丁目迄来ました。
銀座4丁目交差点を右折し日比谷に向かいます。
銀座のシンボル和光の前を通ります。 -
ソニービルの前には、熱帯魚の水槽が置かれています。
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数寄屋橋に到着。
君の名はで有名になりましたね。
昭和33年に外堀は埋め立てられ、高速道路が走るようになりました。 -
碑の裏側です。
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数寄屋橋公園に建つモニュメント。
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泰明小学校、銀座のど真ん中に建つ小学校として有名。
創立は明治11年、昭和4年鉄筋校舎完成、現在歴史的建築物、近代産業遺産に登録されています。
未だ現役です。 -
校門脇に建つ石碑。
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帝国ホテルに到着しました。
別にホテルが目当ではありません、その隣が目的地です。 -
帝国ホテルと隣地を隔てるNBF日比谷ビルの壁面に小さなプレートが嵌め込まれています、読んでみましょう。
鹿鳴館跡
ここは薩摩の装束屋敷の跡であって、その黒門は戦前まで国宝であった。
その中に明治16年鹿鳴館が建てられ、いわゆる鹿鳴館時代発祥の地となった。
千代田区 と在ります。
鹿鳴館は煉瓦造りの2階建て、連日パーティが開かれていました。
その後は明治27年に華族会館に払い下げ、次いで大和生命に売却、昭和15年に取り壊されます。
今は昔を偲ぶ何物もありません、宴の跡を示すのはこのプレートのみです。 -
続いて向かいの日比谷公園に入ります。
日比谷公園は明治36年日本最初の洋式公園として誕生しました。 -
中央の噴水。
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宮崎の平和台公園から贈られた埴輪2体。
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ちょっと早いですが、公園内の松本楼で昼食を取ります。
松本楼も公園と同時に開店し、松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む事が当時のモボ、モガの間で大流行しました。
私達もカレーを食べてコーヒーを飲みます。 -
食事を済ませ出て来ると、公園内の一隅に多くの大人の男女が集まり一心に何かをしている異様な風景に出会います。
きっとポケモンですね。 -
鴎の噴水を出て虎ノ門に向かいます。
この噴水の周りにも多くの人が集まって居ます。 -
虎ノ門交差点にある虎御門跡碑、虎が大きな口を開けこちらを向いています。
ここには江戸時代、桜田門から東海道に向かう街道を扼する枡形門が築かれ,西を守る白虎の意味で虎ノ門と呼ばれていました。 -
虎ノ門金刀比羅宮、交差点から歩いて2〜3分の距離です。
この社は、四国丸亀藩京極氏が1660年江戸藩邸内に藩地の琴平宮を勧請したのに始まり、屋敷替えと共にこの地に移転して来ました。
境内には覆いかぶさる様に琴平タワーが建ちます。 -
拝殿です。
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鳥居の横には百度石。
今はする人は居ませんが、お百度詣の起点になる目印石です。
戦争中には多くの人が夫や子供の武運長久を祈った事でしょう。 -
鳥居の柱には四方を守る青龍、白虎、朱雀、玄武が取り付いています。
こちらは玄武。 -
更に3分程歩くと、日本消防会館に到着です。
ここは江戸時代仙石伯耆守の屋敷跡で、元禄年間赤穂浪士の討入り時に大目付を拝命していました。 -
義士洗足の井戸の解説。
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洗足の井戸。
上の段には47士の群像、下には使者にたった2名が井戸で足を洗う像が表示されます。 -
愛宕山の麓、栄閑院に到着。
解体新書の杉田玄白の墓が在ります。 -
杉田玄白の墓。
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境内風景
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愛宕トンネルを潜り、愛宕神社正面の男坂を目指します。
愛宕山は自然の山では都内最高峰で、石段も急勾配で知られます。
この社は、1603年徳川家康が江戸防火の神として祀った事に始まります。
又高所である為、江戸市中の見晴台として人気を博しました、江戸湾も見えたそうです。
鉄道唱歌の一番、新橋の次に登場するのが愛宕山です。 -
この階段を出世の石段として一躍有名にしたのが、曲垣平九郎の騎馬による上り下りです。
寛永11年3代将軍家光が芝増上寺墓参の帰りにここを通りかかり、石段の上に咲く梅の花を愛で、誰ぞ騎馬にてあの花を取ってまいれと命じます。
あまりにも石段が急である為皆しり込みをして躊躇しますが、その時一人馬を進めたのが四国丸亀藩の曲垣平九郎で、無事花を手折り将軍に献上します。
平九郎が藩の名誉を高めたと出世したのは言をまちません。
それ以来、この石段を出世の石段と呼びます。
尚現代に入り、この石段を騎馬にて上下した人が3人います。
明治15年石川清馬、大正14年岩木利夫、昭和57年渡辺隆馬の3名です。
誰も登りはほぼ一気に登りますが、下りは5倍から10倍の時間を掛けています。 -
愛宕神社
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境内に在ります。
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神社の参拝を済ませ鳥居を出て、石段を上から望みます。
急ですね。
石段の下では、ポケモンをする男性がまだやって居ます。 -
愛宕神社の隣は、NHK放送博物館。
大正14年ここからラジオ放送が開始されました、今は博物館となりその歴史100年を伝えています。
8Kスーパーハイヴィジョンを堪能しました。 -
最後の訪問地、新橋烏森神社です。
新橋烏森と云うと、一杯呑屋街として有名です、事実神社は呑屋街の真中にこじんまりと存在します。
しかしその社歴は古く、940年の東国将門の乱を鎮めた俵藤太が戦勝御礼に建てたのが始まりです。
当時この付近は江戸湾の砂州で松林が続き、烏が群れていました。
その後江戸の振袖火事に焼け残り、一気に厄除けの神社として信仰を集めます。
現在は必勝祈願、商売繁盛の神様です。
これで今回の歴史散歩は終了、新橋駅は目の前です、時間は午後3時半。
後半の東銀座から築地にかけては8月末の予定です。
終
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