2016/07/08 - 2016/07/09
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旅人のくまさんさん
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静岡県のお城巡りです。興国寺城の文献上の初出は、『北条五代記』における長享元年(1487年)とされ、正確な築城年は不明ですが、文明年間(146〜1487年)には築城されていたと推定されています。
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地名から根古屋城とも呼ばれる、興国寺城の歴代城主は、北条氏、武田氏、松平氏、中村氏と天野氏です。関ヶ原の戦い後に天野康景が1万石で入封し、興国寺藩が立藩しました。しかし、康景は領内の問題で責めを負い、その裁定に不満を募らせて出奔、興国寺藩は改易となり、慶長12年(1607年)3月に廃城となりました。
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この辺りは二の丸跡になるようです。その先の一段高くなった場所が本丸跡です。本丸址等の土塁が見所の一つでした。
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興国寺城址の見学のために、市役所から駆けつけてくれた学芸員の方です。発掘調査時の写真などを持参して、熱心に解説して戴きました。これも発掘調査時の写真でしたが、写り込みが多く、はっきりとした内容は分かりませんでしたが、沼津市のHPに発掘調査結果が紹介されていました。
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イチオシ
発掘調査で出現した、『三日月堀』の写真です。埋め戻した後に、少し色が変わっていた『三日月堀』の場所も教えて戴きました。
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説明をお聞きしなければ、絶対に分からない、『三日月堀』の跡の光景です。中央、やや左側に見える色変わりの部分のようです。発掘調査の後に再現工事が行われれば、その姿が確認できるかもしれません。ただし、『三日月堀』は本丸堀を造る際に埋められた跡があったようですから、武田氏の支配後に、虎口の改築で埋められたのかも知れません。
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二の丸址付近から眺めた本丸址方面の光景です。緩やかな傾斜の山裾を使ったらしい縄張りは、本丸から二の丸、三の丸と、一直線に曲輪が並んでいました。
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二の丸址付近からズームアップした、本丸址方面の光景です。登りの段差があることが目視できました。
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二の丸址付近の脇から眺めた、南方面の光景です。次第に高度が増して、市街地や駿河湾が見えて来ました。
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本丸址とその周りの土塁の光景です。本丸の西北方面になります。本丸の標高は20メートルほどのようです。
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本丸の西側部分の土塁の光景です。その終端部分です。
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イチオシ
『本丸・城門』のタイトルがあった、発掘調査時の写真です。6個の礎石の内、1個が見付からなかったと説明書きがされていました。写真の左上の礎石の表示部分のようでした。
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自然の地形を利用した土塁部分もありましたが、この土塁の端面は、人工的に造られたように見えました。
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『天野三郎兵衛康景』のタイトルがあった説明立て看板です。最初に、康景は領内の問題で責めを負い、その裁定に不満を募らせて出奔、興国寺藩は改易となったことを紹介しておきましたが、その内容が記されていました。公平さを保つため、自分の足軽を庇って、城を捨てたとされるいきさつです。
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『興国寺城主・天野康景碑』の文字が刻まれた石碑の光景です。立看板には、『彼是扁無し(どちへんなし)の三郎兵衛』と呼ばれていた、公平な人柄の事も記されていました。
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『穂見神社』とその付近にあった石碑や立札の光景です。興国寺城の本丸址になります。
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興国寺城の本丸跡にあった『穂見神社』の鳥居と拝殿の光景です。鳥居の先から拝殿までは登りの石段になっていました。
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『穂見神社』の鳥居のズームアップ光景です。『穂見神社』は、かつての甲斐の国の巨摩郡を中心に存在していたようでした。現在の地名では、山梨県が最も多く、静岡県、長野県にも残されています。総本社は存在しないようでしたが、戦国時代の武田家との繋がりを感じさせる神社です。
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『穂見神社』の陽刻の文字があった石製の扁額のズームアップ光景です。『巨摩郡』は、古代においては、『巨麻郡』とも表記され、中世以降に『巨摩』の表記へ移行したようです。平安期に編纂された、『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)に甲斐を含む東国の高麗人を武蔵国へ移し高麗郡が置かれたとあり、中核集団が移住したとも考えられています。
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『穂見神社』の周りにあった、『初代城主・北条早雲碑』の文字が刻まれていた石碑の光景です。興国寺城の文献上の初出は、『北条五代記』における長享元年(1487年)の記載とされます。この年、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍によりこの城を与えられました。このため、初代城主とされるようです。盛時は、この後再び室町幕府官僚として京を中心に活動しましたので、この時期、興国寺城には常在はしていません。
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『穂見神社』の前から眺めた本丸の光景です。『穂見神社』が武田氏と繋がりがあると仮定すれば、1571年頃から1582年頃に興国寺城を支配下に置きました。1571年1月に、北条氏の垪和氏続と垪和善次郎が城と共に討死し、以降は武田氏の所有となり、穴山梅雪の家臣である、保坂掃部、向井正重、曾根正清らが在番しました。
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沼津市の教育委員会から説明に来て頂いた学芸員の方は、本丸址でも熱心に解説をされていました。実際に発掘作業を手掛けられているだけに、説得力のある解説でした。
天正10年(1582年)、武田滅亡時の興国寺城主は曾根正清です。徳川家康に興国寺城を明け渡し、徳川家臣となりました。 -
先行して本丸の北側の土塁に登る人達もいました。ここから眺めた規模からみても、堀を造った時の土を積み上げただけの規模とは思えませんでした。
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一度途中まで登って撮影した、本丸側の光景です。眼下の建物は、『穂見神社』の社殿です。
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同じく、一度途中まで登って撮影した本丸側の光景です。右手に『穂見神社』の社殿、その前での解説が続いていました。
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本丸の北側にある天守台の光景です。本丸を守る土塁の一部にもなっていました。興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城です。一番高いところで標高36メートルほど、根小屋の交差点とので比高が31メートルとされます。目を見張るような高さではありません。
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天守台の東端方面から南側方面の光景になるようです。右手には東海道方面の家並みが見えていました。
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熱心に説明を聞かれる城巡りツアーに参加の皆さん方です。そろそろ天守台に向かうようです。
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『国指定史跡・興国寺跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。興国寺城の初代城主は、戦国時代の魁を成した北条早雲です。早雲の旗揚げの場所としても有名なお城です。
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『天守台石垣』の新しい標識の光景です。現地ガイド役の学芸員の方は、天守台の一番目立つ場所にだけ、石垣が使用されていたと説明されていました。興国寺城の築城当時には、まだ土塁が主流で、石垣はあまり築かれていなかったようです。
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『天守台石垣』の光景です。野面積と呼ばれる積み方よりも、もっと原始的な積み方のようにも見えました。
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天守台の石垣の脇を通って、天守台に登りました。その途中の光景です。人工的に造られた土塁ではなく、自然の地形を利用したように見える規模と険しさでした。
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イチオシ
天守台に残る礎石の光景です。駿河・甲斐・伊豆の国の境にあった興国寺城の所有者は、目まぐるしく変わりました。天文6年(1537年)以降は、今川氏のものとなり、この間に小規模だった興国寺城は城域を拡大したと伝わります。
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天守台に残る直線的に連続した礎石のズームアップ光景です。天守台の発掘調査結果では、瓦が出土しなかったことから、立派な城郭ではなく、簡易な建物であったことが推測されているようです。
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天守台址から眺めた南方面の光景です。市街地の先に駿河湾が見えていました。その間を東海道が通っています。
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イチオシ
深さ約10メートル、幅約10メートルとされる、本丸北側の空堀の光景です。堀を挟んだ更に北側に北の丸が位置しているようでした。天守台は、背後の大空堀に対して張り出しているのが特徴です。北側から攻められた場合、横矢掛けが可能な構造です。
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同じく、深さ約10メートル、幅約10メートルとされる、本丸北側の空堀の光景です。天守台がある本丸は、興国寺城の中でも、最も守りが固い場所のようでした。本丸の北側には北の丸、東側には清水丸があったようです。
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同じく、深さ約10メートル、幅約10メートルとされる、本丸北側の空堀の光景です。
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二の丸付近の光景です。青々と葉を茂らした、ひときわ目立つ樹木がありました。その脇に通路がありました。興国寺城は、根古屋城のほか、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城とも呼ばれたようです。目まぐるしく支配者が変わったことを反映しているのかも知れません。
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駿河湾方面になる、南側方面の光景です。新たに買い増しされた土地のようでした。街道を挟んで三の丸エリアが続いているようでした。かつては、三の丸の東側は駿河湾に注ぐ水路があったようです。
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花崗岩で造られたような、まだ新しく見える石柱の光景です。『興国寺城址』らしい赤い文字がありました。柵などに使われた柱の一部のようです。
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