2014/11/05 - 2014/11/05
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hide-bachさん
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俳聖芭蕉が歩いた「おくのほそ道」をたどります。
塩釜神社から松島へ舟で遊覧します。
塩釜神社楼門の扉には、菊の御紋があります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
(御釜神社)
(奥の細道【19】塩釜神社 1)
元禄二年五月八日(陽暦6月24日)仙台を立った芭蕉は、塩竃に行っている。
御釜神社は、JR本塩釜駅を出て直進し、すぐ広い道路に出るので左折。
たぶん四つ目と思うが歩行者用信号を左折すると、御釜神社へ出る。
ここに曽良が書いた「塩竃のかま」がある。 -
(東参道の鳥居)
海水を汲んでお釜に入れて火を入れ、煮つめて塩を作った。
その鉄製の御釜が四口祀られている。
塩釜の地名はこの釜に由来していると言われます。
残念ながら社務所は閉まっていて、
肝心のお釜を見ることは出来なかったのはくれぐれも残念であった。
(拝観料百円と観光案内所で聞いていたのに。)
御釜神社を出て、もと来た道に戻ると、道路向こう側に鳥居が見える。
塩釜神社の東参道の鳥居であった。
この奥に、松尾芭蕉が塩竃に来た時に宿を借りた法連寺跡がある。 -
(芭蕉止宿の法連寺跡の碑、芭蕉はこの門前に泊まった。)
「曽良の旅日記」に、
「八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅(こく)ヨリ晴ル。
未の尅、塩竃ニ着、
(中略)
出初めニ塩釜の釜を見る。宿、治兵へ。
法連寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」とある。
「五月八日 朝の内は小雨であった。午前10時より晴れる。
午後2時、塩竃に着く。
(中略)
出始めに塩竃の「御釜」を見る。宿は治兵宅に。
法連寺門前なり。加衛門からの紹介状を渡す。
銭湯があったので入る。」こんな意味であろうか。
その法連寺跡が鳥居の奥にあった。
塩竃市教育委員会の説明では、
「法連寺は塩釜神社の別当寺であった。
金光明山法連寺と号し、真言宗のお寺であったが、
明治維新に神仏判然令が布告され廃寺となった。」とある。
-
(法連寺跡) -
(表参道への道案内)
芭蕉が訪れた塩釜神社の表参道はもっと先である。
案内板には250m先と書いてある。
のぼり坂の道路を進むと、
東日本大震災で押し寄せた津波がここまで来たという石碑が建っている。
避難所になった小学校へは住民が炊き出しをして運んだと記されている。
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(津波が押し寄せた記念の石碑) -
(鎮護塩釜神社の石碑)
やがて塩釜神社の表参道の鳥居が見えてきた。
芭蕉がすごい階段があると記した場所である。
鳥居の後ろに確かにその階段が見え、近所の方か、観光客か、
何人かその階段を上っている姿が見える。
入口の石柱には、「東北鎮護塩釜神社」とあり、
鳥居の扁額には「陸奥国一宮」と書いてある。
宮城県の一之宮である。
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(表参道の鳥居) -
(鳥居の扁額) -
(九仭に重なる石の階段は、202段あると言う)
塩釜神社を訪ねた芭蕉は、
「早朝、塩がまの明神に詣づ。国主再興せられて、宮柱ふとしく、
彩椽(さいてん)きらびやかに、
石の階(きざはし)九仭(きゅうじん)に重なり、・・・」とあり、
「石の階九仭に重なり」は、
表参道の200段に及ぶ石の階段のことを言っている。 -
(振り返って見た階段)
地元の方は、一日置きに御参りしているからか、
いとも簡単に、この階段を上っている。
カミさんもすいすいとは行かないが、
途中で休むこともなく上まで登って、
ボクが行くのを待っている。
150段ほど登ったところで、一休憩していると、
地元の方が、
「この階段を上り終わったところから、まだ25段あって、
やっと門がくぐれます。」という。
少し休んで残りを一気に登る。
上を見るとまだ階段があって、その先に門がある。
一息入れて、今登って来た階段を振り返ってみると、
なるほど、芭蕉が「九仭の階」と云った意味が解った。
-
(階段の上の階段と楼門) -
(唐門)
更に25段の石段を上って、楼門をくぐると唐門があり、
そのおくに拝殿があるが、
拝殿に向かって右側に左宮、左側に右宮と記されている。
これはどうも塩釜神社を背にして、左右が付けられているように思える。
案内書では、左右本殿図が逆に記入してあったので、
間違いではなかろうかと思っていたが、現物を見て正しいことが分かった。 -
(左右逆転している左右本殿) -
(文治の灯篭)
次に芭蕉は奥の細道で、
(神前に古き宝塔有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎寄進」と有。
五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。
渠(かれ)は勇義忠孝の士なり。
佳名今に至りてしたはずと言う事なし。)と綴っている。
その灯篭は今は「文治の灯篭」として拝殿前に置かれている。
-
(国の指定天然記念物の塩竃桜)
和泉三郎について「奥の細道菅菰抄」の解説によれば、
「それ、よく父の遺命を守りて、
義経を捨てざるは孝也。よく義経に仕えるは忠なり。
兄に従わず義経に従うは義也。
終に戦死するは勇なり。佳は善なり。佳名は聞こえの良きことを言う。」と述べている。
参拝を終えて唐門を出て左折すると、天然記念物の塩竃桜がある。
この塩竃桜を見物するのを、
芭蕉は奥の細道を旅する目的に入れていたらしい。
芭蕉の書簡に
(弥生にいたり、待わび候塩竃の桜・・・)と書き送っている、という。
ボクが訪ねたのは時期が秋だったため、桜は枯葉を残す状態であるが、
目の前に写真があったのでご覧ください。 -
(塩竃桜の花模様の写真)
写真で見るように、八重桜でも普通の八重と少し違って、
花びらに皺があり、雑多に重なっているように見える。 -
(志波彦神社)
塩竃桜の前を通り、東門を出ると、
左手に志波彦神社がある。志波彦神(しばひこのかみ)をお祀りして、
農業守護・国土開発・殖産の神として崇敬されている。 -
(志波彦神社で額づく女性)
それ相応に霊験あらたかなのであろう、
おごそかなご神域に、靴を脱ぎ石畳の上で、
額づきお祈りする女性の後ろ姿に、感動を覚えた。 -
(遊覧船)
そのまま東参道のだらだら階段を降りて、マリンゲート塩竃に向かう。
地図の上では、マリンゲート塩竃は近くにある様にみえたが、
歩くとかなり先の方にあることが分かった。
途中、まばらに建っている家は真新しいものが多いが、
先年の東日本大震災の津波で家屋敷が流されて、
新しい家と家の間はきれいさっぱり何もない更地のようで、
戦後の焼け野原のようであった。
マリンゲート塩竃から観光遊覧船で松島湾を横断して松島海岸へ向かうことにする。
観光船は毎時00分に出発するのであるが、
最終はPM15時である。
近いと思ったマリンゲート塩竃が思ったより遠くにあったため、
船着き場に着いた時は14:50分で危うく乗り遅れるところであったが、
遊覧船に乗って見るとお客様はボク達二人だけ。 -
(籬島/まがきしま)
それでも出船するまで待っていると乗客数人がどやどや乗り込んできた。
これでどうやら運航費用も出ると言うもんだ。
内心少しはらはらした。
出港するとすぐ左手に「籬島(まがきしま)」が見える。
松島湾の入口に沢山の島が重なりあったのが防波堤の役目をはたして、
大震災の津波を防ぎ、松島海岸は被害を免れたと言う。
それでも津波は島々に押し寄せて、奇岩をこわし、
松に襲い掛かって枯れ木になったものもある。
それでも芭蕉に「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥じず。」
と言わした美しい風景は、残ったようである。
次にその島々を載せておきたい。 -
(松島1) -
(松島2) -
(松島3) -
(松島4) -
(松島5) -
(松島6) -
(松島7) -
(松島8)
以上で松島の案内は終わりとしたい。
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