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平成28(2016)年6月23日木曜日。沖縄では日本軍司令官の自決により組織的抵抗が終わったとされる実質的な終戦から71年目を迎えます。現在では〝沖縄慰霊の日〟とされている〝沖縄県の祝日〟ではあるものの、終戦直後に制定されたものではなく、1961年6月22日に当時の琉球政府が制定され、その後1965年6月23日に変更された経緯があり、その後昭和47(1972)年5月15日に沖縄県の日本復帰とともに祝日とはならなくなったものの、昭和49(1974)年に改めて〝沖縄県慰霊の日を定める条例〟が制定され現在に至っています。<br /><br />昨年平成27(2015)年は太平洋戦争終結後70年の節目の年であり、戦没者遺族のひとりとして〝戦後70年沖縄戦全戦没者追悼式〟に参列したく沖縄へとやって来ました。しかし1年でたった1日の慰霊の日が、心ないプロバガンダをふりかざす輩により台なしにされている〝現実〟を目の当たりし、沖縄に於ける慰霊の念の乏しさに正直失望したのが本音です。<br /><br />昨年も記載しましたが、平和祈念公園へと向かう送迎バスに乗っておられた多分内地から来られたご年配のご婦人が、公園入口での抗議活動を見て凄く寂しそうな表情をされていたことが頭から離れません。こういった場違いな活動が続けられるようでは、正直追悼式典に来る〝価値〟を見いだせないと感じました。それを私の〝小さなまなこ〟で確認すべく今回の沖縄訪問を企画しました。そういうところから計画立案した今回の≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱が始まります。<br /><br />平成28(2016)年6月23日木曜日<br />みん宿ヤポネシア 09:08(0.0km:0.0km:105.7km:0.0km/h)<br />ファミマ 09:11(1.4km:1.4km:107.1km:28.0km/h)<br />米須糸満 09:21<br />豊 見 城 09:50(14.2km:15.6km:121.3km:21.9km/h)<br />城址公園 10:14<br />サ ン エ ー 10:18(1.6km:17.2km:122.9km:26.7km/h)<br />V21おろく   10:37<br />カメラのキタ 10:45(2.2km:19.4km:125.1km:17.0km/h)<br />ムラ那覇小禄 10:50<br />農業研究 11:19(12.9km:32.3km:138.0km:26.9km/h)<br />センター 11:29<br />平和祈 11:43<br />念公園 13:15<br />バス乗車 13:31<br />バス出発 13:34<br />農業研究 13:51(0.0km:32.3km:138.0km:0.0km/h)<br />センター 14:16<br />白梅之塔 14:19(1.4km:33.7km:139.4km:28.0km/h)<br />     15:10<br />梯梧之塔 15:18(4.1km:37.8km:143.5km:31.6km/h)<br />     17:17<br />平和祈 17:23(4.0km:41.8km:147.5km:40.0km/h)<br />念公園 19:52<br />ローソン 19:58(3.9km:45.7km:151.4km:39.0km/h)<br />玻 名 城 20:10<br />ガスト 20:29(10.0km:55.7km:161.4km:32.3km/h)<br />南風原 21:38【チーズインハンバーグ:1,022円】<br />ゲストハウスりゅうかく 21:57(11.5km:67.2km:172.9km:37.1km/h)<br /><br />【1泊朝食付ツイン:5,940円】<br />小計:6,962円(割引後:6,962円)<br />累計:39,742円(割引後:38,692円)<br /><br />7:30に起床しウダウダと荷物をまとめます。今晩は奥武島に泊まるため宿替えです。皆さん揃って朝食を頂いた後、珍しく2番目に出発します。明晩はまたお世話になるため、お見送りを断って出発します。<br /><br />まずは最寄りのファミリーマート糸満米須店に立ち寄り、ドリンク1本飲んで気つけをします。そして沖縄県道7号線を北上し、旧豊見城城跡公園へと到着します。平成15(2003)年9月30日で閉鎖された豊見城城跡公園は、入口付近の標記板に〝豊見城城跡公園〟と書かれたものがついこの前まであったはずですが、今回確認をした限り見当たりませんでした。昨年豊見城市が城跡公園跡地を再開発するとの発表がなされ、現在空手道場の建設が急ピッチで進んでいます。<br /><br />ずっと立入禁止とされていた場所なのですが、webの書き込みに慰霊の日に慰霊祭参加者に限り入場を認めている一文を見つけました。しかし豊見城市に問い合わせても明確な答えは得られず、ならば当日現地調査するしかないとのことになり当日やって来ました。道路の舗装工事が進む敷地内に〝これかな?〟と思われる標記を発見し、指示通り徐行運転して入って行きます。そして富瀬御嶽までやって来ると道路にはロープが掛けられているものの広場からは入ることができるため覗いてみると・・・ありました。旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑が。70余年前この場所に置かれた第24師団第二野戦病院の職員並びに患者の犠牲者を祀るために、昭和58(1983)年に学徒看護隊として動員された〝ふじ(積徳)学徒看護隊〟の生存者や同隊軍医であった島尾二軍医中尉の犠牲者追悼の念を込められて建立されたものになります。残念ながら島尾先生は碑の建立前に亡くなられ、待ちに待った慰霊碑の前に立つことはできませんでした。しかし慰霊碑の背面に刻まれた島尾先生の句には、文才のない私でも〝自分の意に背いて行わなければならなかった当時〟を悔やむ気持ちがありありと伝わってくるものを感じます。積徳高等女学校の学徒看護隊の生存者の方々も高齢化が進み、定期的な追悼式典は行われていないと聞きました。確かに人が年を取ることは避けられないことではあるものの、それ以外の理由で今のように慰霊碑を訪ねることができない環境は、早急に解決すべきだと思います。<br /><br />そしてこの慰霊碑の下方に広がっていた第24師団第二野戦病院壕も長きに渡り放置された結果、入壕もままならない状況となっています。沖縄戦や豊見城城跡公園の開発時によって中世のグスク跡は壊されてしまい多くは残っていません。しかしそこまでの犠牲を払ってまで復元した野戦病院壕ならば、余計に早急かつ中長期的に渡る改善策を取る必要性を感じました。<br /><br />豊見城城跡公園敷地内からはとよみ大橋や漫湖の素晴らしい景色が望めます。勿論70余年前にはこのような風景はなかったものの、特殊な場所ではなく散歩がてら訪れることができる場所になって貰いたい・・・そう思いながらこの地を後にします。<br /><br />今回からデジタルカメラで撮影すると光量不足でうまく撮れなかった写真を補うため、〝アナログカメラ〟を一部に導入することにしました。前日県庁壕内を撮影した〝写ルンです〟の現像とデジタル化を頼むためにカメラのキタムラ那覇小禄店を経由し、次は平和祈念公園の〝沖縄戦全戦没者追悼式〟へと向かいます。混雑を避けるため許可車両でなければ平和祈念公園駐車場には車を停めることはできません。いくつか駐車場を設け、シャトルバスにて現地入りする形になるのですが、今回は沖縄県農業研究センターを利用します。ただ豊見城から一番近いという理由で選んだのですが、実はこの選択が後々功を奏することに気付いていませんでした。<br /><br />ほぼ予定時刻通りに沖縄県農業研究センターに到着し、15分程で平和祈念公園へと到着します。確か去年は半分程の距離しかない沖縄清明の丘公園から倍近い時間がかかった記憶がありますが、今年は非常に速やかです。平和祈念公園へと到着後は追悼式会場となる〝テント〟を取り巻くように陣取るも、なかなかここという場所がありません。そのため向かって祭壇から左方向に陣取り式の進行を見守ります。そして正午の黙祷の後12:51に式典終了、昨年のような醜いヤジが出なかったのが救いでした。<br /><br />昨年はこのまま平和祈念公園を散策しましたが、今回は午後からの慰霊祭を回るため、シャトルバスに乗り込みます。沖縄県農業研究センターまで戻って来てスマホナビを開き近くの戦跡を検索すると、本当にすぐの距離に白梅之塔があることを知り行き先を変更します。僅か3分で到着と言いたいところですが、いつもならガラガラな場所に駐車車両がえっ?というくらい停まっています。白梅之塔前を通り過ぎ、山形の塔を越えた場所でやっと駐車できたので、小走りに坂を下って慰霊祭を見学します。<br /><br />式典の中では白梅学徒並びに白梅之塔の活動に尽力された方々への感謝状が手渡され、白梅同窓会会長の中山キクさんが慰霊祭について参加者にお礼を言われた後、最後に沖縄県立第二高等女学校校歌斉唱をして締めくくりとなりました。白梅学徒の数少ない生存者のおひとりである中山キクさんの元気なお姿に、なにかエネルギーを与えられた気持ちになりました。そして閉会の後さっと車に戻ってまた走り出します。<br /><br />再び沖縄県道7号線経由で米須へと向かい、ひめゆりの塔駐車場に車を停めます。私がいつも停めるのは〝ひめゆり観光会館でいご〟の駐車場なのですが、まずは梯梧之塔に参拝し、慰霊祭直後の花々に囲まれている塔に向かって手を合わせます。それからひめゆりの塔へと向かう途中に突然声をかけられます。みん宿ヤポネシアの福永ファミリーでしたが、やはりこのような日に慰霊塔を回られることはおチビさんにとってもかけがえのない経験になるように思えます。私自身がボケてしまい、明後日よろしくお願いしますね~♪なんて言ってしまったら、〝明日ですよね~♪〟なんて切り返されてしまいました(笑)。<br /><br />そうこうしてひめゆりの塔へとやって来ました。まずは時間の制約があるひめゆり平和資料館へと向かいます。本日6月23日慰霊の日には、通常入館料がかかる施設が無料で公開されます。別に310円の入館料をケチるわけではありませんが、せっかくなので見学します。<br /><br />ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒から構成された21あった学徒隊のひとつです。現在ひめゆりの塔が建立されている伊原第三外科壕に撤退を余儀なくされたひめゆり学徒に米軍の執拗な攻撃が加えられ、多くの犠牲者を出しました。それだけに留まらず砲弾の飛び交う中出された解散命令により更に南部へと向かうものの、荒崎海岸では陸からも海からも攻撃を受け、逃げ場を失った引率教員を含めた学徒達はあるものは戦死、あるものは自決を選び尊い命を落としました。戦後になり映画化されたものがきっかけとなり、ひめゆり学徒が注目を浴びることとなって現在に至ります。<br /><br />そのひめゆり学徒の構成から悲劇の終焉までを物語っているのがひめゆり平和祈念資料館だと思います。前回4月も訪れてはいるものの、毎回言葉を失う展示内容には時間が過ぎるのを忘れて見入ってしまいます。研究目的以外立入禁止となっている第三外科壕の実物大のジオラマは、ひめゆり平和祈念資料館の看板的要素を持つもののように思います。しかしいつも残念に思うのは、伊原第三外科壕が中心となり過ぎて、他の壕に関しては端折られているように見えることです。事実近隣の土産物屋の店員は勿論のこと、ひめゆり平和祈念資料館のスタッフまでもが伊原第一外科壕や糸洲第二外科壕等近くのひめゆり学徒所縁の場所に対しての知識がないことが挙げられます。そのことを部外者がとやかく言うことではないのかも知れません。しかし荒崎海岸のひめゆり学徒散華の跡を含めた〝ここにひめゆり学徒が確かにいた〟場所に対し知識不足で答えられないというのはあまりにも悲し過ぎる現実です。戦跡を正しく伝えるのであれば、少なくとも近隣史跡位は案内できる位の知識は必要かと思います。じっくりと見学をした後退館通路からひめゆりの塔納骨堂等表から見えない場所を巡って戻って来ました。<br /><br />このひめゆりの塔敷地一体には、新旧ひめゆりの塔、陸軍病院第三外科職員之碑、沖縄戦殉職医療人之碑等の慰霊碑の他学校敷地内にあって学徒所縁の〝相思樹(ソウシジュ)〟植樹の碑や追悼の歌碑〝いわまくら〟の碑等いろいろなものがあります。ここを漠然と見るだけではつながりがわかりませんが、少しの下準備をして行くだけですべてのものにまつわる由来がわかり、大変興味深いものになると思います。<br /><br />そして最後にずゐせんの塔へと向かいます。沖縄県立首里高等女学校の学生で構成された〝ずゐせん(瑞泉)学徒看護隊〟。南風原の第62師団野戦病院ナゲーラ壕に配属され、軍司令部の南部撤退に伴い伊原や米須の壕に入るも、米軍の執拗な馬乗り攻撃にあい多くの犠牲者を出しました。普段は参拝者も稀でいつ収められたのかわからない花などが置かれている程度ですが、こちらでも午後から慰霊祭が執り行われており、多くの花が飾られていました。ただその日中に撤去しなければならないものも多いようで、ゆっくりと参拝できる雰囲気ではなかったのが少し残念でした。<br /><br />白梅学徒・梯梧学徒・ひめゆり学徒・瑞泉学徒の各慰霊碑を駆け足で回り、自分なりには行程的に満足のいくものでした。<br /><br />そして車へと戻り、改めて走り出します。向かう先は沖縄県営平和祈念公園です。先程も行っていますが、夕方からのファイナルイベントを見学するためにやって来ました。<br /><br />まずはギリギリ行けるかも・・・と向かった平和祈念資料館。こちらも本日は無料ですが、残念ながら17:30で入館終了となっていました。後は改めて平和の礎、平和の灯、摩文仁の丘慰霊碑群と回ってから、〝平和の灯火〟と〝とうろう流し〟で締め、本年平成28(2016)年6月23日の〝沖縄のいちばん長い日〟は終わりを告げました。<br /><br />あたりも暗くなってきましたが奥武島のゲストハウスは朝食付きプランであるため、夕食を食べに向かいます。しかしこの時間でこの界隈では結構開いている店も少なく、ドライブがてら津嘉山のガスト沖縄南風原店に向かうことにします。具志頭から南風原へと向かい約40分、お目当てのガストが見えてきました。元々慰霊の日は沖縄は祝日扱いであるがため、結構混雑していると読んで時間をずらしたつもりだったのですが・・・、ちょっとまだ早かったようです。とはいえ10分程待てば良かったのでまぁ許容範囲です。久しぶりのガストなので〝チーズインバーグAセット〟を注文します。1時間程ゆっくりした後、おなかが膨れれば次は眠気が襲ってきたため、そろそろ退散することにします。<br /><br />約20分走って、海の上の橋を渡ると、4ヶ月ぶりの奥武島。後は記憶に従って走るとすぐに2月28日にお世話になったゲストハウスりゅうかくに到着します。今日一日の走行距離67.2km。バスも利用しているので結構走りました。<br /><br />場所は当然利用したことがあるためナビに頼らなくてもわかるのですが、今晩はどうやら同宿者がおられる模様。建物敷地内にレンタカーが停まっていたためそれはわかるのですが、到着時刻は既に22:00近く、もう休んでおられたようです。どういう方が泊まっておられたのかはわかりませんが、今回はシングルルームではなくツインルームのシングルユースで部屋を利用させて貰い、快適な一夜を過ごさせて頂きました。部屋の大きさはそれ程変わるものではないと思いますが、二人で泊まれる部屋だけにゆったりとしたものでした。チェックイン後宿帳を記入しますがそれは一度泊まったことのある場所、前回の情報をコピーして貰っていたためほとんど時間もかかりません。この〝ゲストハウスりゅうかく〟の良いところは、プライベートタイムを尊重し付かず離れずの対応を心掛けておられること。南城市の宿泊施設で数少ない部屋にシャワートイレが完備しているということもあり、少ない時間ながらも疲れを取ることができます。<br /><br />今日一日本当に炎天下を歩いていたため、がっちり焼けています。おまけに昨日歩き回ったことによって足も筋肉痛(泣)だったため、イタイイタイと思いながら温めのシャワーを浴びるともう小さな眼は開けていることが限界になってきました。今回の行程は雨が降ると大きく行程変更を余儀なくされるため、適当にしか行く場所を決めていません。タブレットナビに行く場所をプロット打ちしているといつの間にか寝てしまいました。そんなこんなで旅3日目が静かに過ぎていき、一日観光に充てられる最後の日を迎えますzzz。<br /><br />【次編に続く】

≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱之参~三日目:沖縄慰霊の日編~

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2016/06/23 - 2016/06/23

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

平成28(2016)年6月23日木曜日。沖縄では日本軍司令官の自決により組織的抵抗が終わったとされる実質的な終戦から71年目を迎えます。現在では〝沖縄慰霊の日〟とされている〝沖縄県の祝日〟ではあるものの、終戦直後に制定されたものではなく、1961年6月22日に当時の琉球政府が制定され、その後1965年6月23日に変更された経緯があり、その後昭和47(1972)年5月15日に沖縄県の日本復帰とともに祝日とはならなくなったものの、昭和49(1974)年に改めて〝沖縄県慰霊の日を定める条例〟が制定され現在に至っています。

昨年平成27(2015)年は太平洋戦争終結後70年の節目の年であり、戦没者遺族のひとりとして〝戦後70年沖縄戦全戦没者追悼式〟に参列したく沖縄へとやって来ました。しかし1年でたった1日の慰霊の日が、心ないプロバガンダをふりかざす輩により台なしにされている〝現実〟を目の当たりし、沖縄に於ける慰霊の念の乏しさに正直失望したのが本音です。

昨年も記載しましたが、平和祈念公園へと向かう送迎バスに乗っておられた多分内地から来られたご年配のご婦人が、公園入口での抗議活動を見て凄く寂しそうな表情をされていたことが頭から離れません。こういった場違いな活動が続けられるようでは、正直追悼式典に来る〝価値〟を見いだせないと感じました。それを私の〝小さなまなこ〟で確認すべく今回の沖縄訪問を企画しました。そういうところから計画立案した今回の≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱が始まります。

平成28(2016)年6月23日木曜日
みん宿ヤポネシア 09:08(0.0km:0.0km:105.7km:0.0km/h)
ファミマ 09:11(1.4km:1.4km:107.1km:28.0km/h)
米須糸満 09:21
豊 見 城 09:50(14.2km:15.6km:121.3km:21.9km/h)
城址公園 10:14
サ ン エ ー 10:18(1.6km:17.2km:122.9km:26.7km/h)
V21おろく 10:37
カメラのキタ 10:45(2.2km:19.4km:125.1km:17.0km/h)
ムラ那覇小禄 10:50
農業研究 11:19(12.9km:32.3km:138.0km:26.9km/h)
センター 11:29
平和祈 11:43
念公園 13:15
バス乗車 13:31
バス出発 13:34
農業研究 13:51(0.0km:32.3km:138.0km:0.0km/h)
センター 14:16
白梅之塔 14:19(1.4km:33.7km:139.4km:28.0km/h)
     15:10
梯梧之塔 15:18(4.1km:37.8km:143.5km:31.6km/h)
     17:17
平和祈 17:23(4.0km:41.8km:147.5km:40.0km/h)
念公園 19:52
ローソン 19:58(3.9km:45.7km:151.4km:39.0km/h)
玻 名 城 20:10
ガスト 20:29(10.0km:55.7km:161.4km:32.3km/h)
南風原 21:38【チーズインハンバーグ:1,022円】
ゲストハウスりゅうかく 21:57(11.5km:67.2km:172.9km:37.1km/h)

【1泊朝食付ツイン:5,940円】
小計:6,962円(割引後:6,962円)
累計:39,742円(割引後:38,692円)

7:30に起床しウダウダと荷物をまとめます。今晩は奥武島に泊まるため宿替えです。皆さん揃って朝食を頂いた後、珍しく2番目に出発します。明晩はまたお世話になるため、お見送りを断って出発します。

まずは最寄りのファミリーマート糸満米須店に立ち寄り、ドリンク1本飲んで気つけをします。そして沖縄県道7号線を北上し、旧豊見城城跡公園へと到着します。平成15(2003)年9月30日で閉鎖された豊見城城跡公園は、入口付近の標記板に〝豊見城城跡公園〟と書かれたものがついこの前まであったはずですが、今回確認をした限り見当たりませんでした。昨年豊見城市が城跡公園跡地を再開発するとの発表がなされ、現在空手道場の建設が急ピッチで進んでいます。

ずっと立入禁止とされていた場所なのですが、webの書き込みに慰霊の日に慰霊祭参加者に限り入場を認めている一文を見つけました。しかし豊見城市に問い合わせても明確な答えは得られず、ならば当日現地調査するしかないとのことになり当日やって来ました。道路の舗装工事が進む敷地内に〝これかな?〟と思われる標記を発見し、指示通り徐行運転して入って行きます。そして富瀬御嶽までやって来ると道路にはロープが掛けられているものの広場からは入ることができるため覗いてみると・・・ありました。旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑が。70余年前この場所に置かれた第24師団第二野戦病院の職員並びに患者の犠牲者を祀るために、昭和58(1983)年に学徒看護隊として動員された〝ふじ(積徳)学徒看護隊〟の生存者や同隊軍医であった島尾二軍医中尉の犠牲者追悼の念を込められて建立されたものになります。残念ながら島尾先生は碑の建立前に亡くなられ、待ちに待った慰霊碑の前に立つことはできませんでした。しかし慰霊碑の背面に刻まれた島尾先生の句には、文才のない私でも〝自分の意に背いて行わなければならなかった当時〟を悔やむ気持ちがありありと伝わってくるものを感じます。積徳高等女学校の学徒看護隊の生存者の方々も高齢化が進み、定期的な追悼式典は行われていないと聞きました。確かに人が年を取ることは避けられないことではあるものの、それ以外の理由で今のように慰霊碑を訪ねることができない環境は、早急に解決すべきだと思います。

そしてこの慰霊碑の下方に広がっていた第24師団第二野戦病院壕も長きに渡り放置された結果、入壕もままならない状況となっています。沖縄戦や豊見城城跡公園の開発時によって中世のグスク跡は壊されてしまい多くは残っていません。しかしそこまでの犠牲を払ってまで復元した野戦病院壕ならば、余計に早急かつ中長期的に渡る改善策を取る必要性を感じました。

豊見城城跡公園敷地内からはとよみ大橋や漫湖の素晴らしい景色が望めます。勿論70余年前にはこのような風景はなかったものの、特殊な場所ではなく散歩がてら訪れることができる場所になって貰いたい・・・そう思いながらこの地を後にします。

今回からデジタルカメラで撮影すると光量不足でうまく撮れなかった写真を補うため、〝アナログカメラ〟を一部に導入することにしました。前日県庁壕内を撮影した〝写ルンです〟の現像とデジタル化を頼むためにカメラのキタムラ那覇小禄店を経由し、次は平和祈念公園の〝沖縄戦全戦没者追悼式〟へと向かいます。混雑を避けるため許可車両でなければ平和祈念公園駐車場には車を停めることはできません。いくつか駐車場を設け、シャトルバスにて現地入りする形になるのですが、今回は沖縄県農業研究センターを利用します。ただ豊見城から一番近いという理由で選んだのですが、実はこの選択が後々功を奏することに気付いていませんでした。

ほぼ予定時刻通りに沖縄県農業研究センターに到着し、15分程で平和祈念公園へと到着します。確か去年は半分程の距離しかない沖縄清明の丘公園から倍近い時間がかかった記憶がありますが、今年は非常に速やかです。平和祈念公園へと到着後は追悼式会場となる〝テント〟を取り巻くように陣取るも、なかなかここという場所がありません。そのため向かって祭壇から左方向に陣取り式の進行を見守ります。そして正午の黙祷の後12:51に式典終了、昨年のような醜いヤジが出なかったのが救いでした。

昨年はこのまま平和祈念公園を散策しましたが、今回は午後からの慰霊祭を回るため、シャトルバスに乗り込みます。沖縄県農業研究センターまで戻って来てスマホナビを開き近くの戦跡を検索すると、本当にすぐの距離に白梅之塔があることを知り行き先を変更します。僅か3分で到着と言いたいところですが、いつもならガラガラな場所に駐車車両がえっ?というくらい停まっています。白梅之塔前を通り過ぎ、山形の塔を越えた場所でやっと駐車できたので、小走りに坂を下って慰霊祭を見学します。

式典の中では白梅学徒並びに白梅之塔の活動に尽力された方々への感謝状が手渡され、白梅同窓会会長の中山キクさんが慰霊祭について参加者にお礼を言われた後、最後に沖縄県立第二高等女学校校歌斉唱をして締めくくりとなりました。白梅学徒の数少ない生存者のおひとりである中山キクさんの元気なお姿に、なにかエネルギーを与えられた気持ちになりました。そして閉会の後さっと車に戻ってまた走り出します。

再び沖縄県道7号線経由で米須へと向かい、ひめゆりの塔駐車場に車を停めます。私がいつも停めるのは〝ひめゆり観光会館でいご〟の駐車場なのですが、まずは梯梧之塔に参拝し、慰霊祭直後の花々に囲まれている塔に向かって手を合わせます。それからひめゆりの塔へと向かう途中に突然声をかけられます。みん宿ヤポネシアの福永ファミリーでしたが、やはりこのような日に慰霊塔を回られることはおチビさんにとってもかけがえのない経験になるように思えます。私自身がボケてしまい、明後日よろしくお願いしますね~♪なんて言ってしまったら、〝明日ですよね~♪〟なんて切り返されてしまいました(笑)。

そうこうしてひめゆりの塔へとやって来ました。まずは時間の制約があるひめゆり平和資料館へと向かいます。本日6月23日慰霊の日には、通常入館料がかかる施設が無料で公開されます。別に310円の入館料をケチるわけではありませんが、せっかくなので見学します。

ひめゆり学徒は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒から構成された21あった学徒隊のひとつです。現在ひめゆりの塔が建立されている伊原第三外科壕に撤退を余儀なくされたひめゆり学徒に米軍の執拗な攻撃が加えられ、多くの犠牲者を出しました。それだけに留まらず砲弾の飛び交う中出された解散命令により更に南部へと向かうものの、荒崎海岸では陸からも海からも攻撃を受け、逃げ場を失った引率教員を含めた学徒達はあるものは戦死、あるものは自決を選び尊い命を落としました。戦後になり映画化されたものがきっかけとなり、ひめゆり学徒が注目を浴びることとなって現在に至ります。

そのひめゆり学徒の構成から悲劇の終焉までを物語っているのがひめゆり平和祈念資料館だと思います。前回4月も訪れてはいるものの、毎回言葉を失う展示内容には時間が過ぎるのを忘れて見入ってしまいます。研究目的以外立入禁止となっている第三外科壕の実物大のジオラマは、ひめゆり平和祈念資料館の看板的要素を持つもののように思います。しかしいつも残念に思うのは、伊原第三外科壕が中心となり過ぎて、他の壕に関しては端折られているように見えることです。事実近隣の土産物屋の店員は勿論のこと、ひめゆり平和祈念資料館のスタッフまでもが伊原第一外科壕や糸洲第二外科壕等近くのひめゆり学徒所縁の場所に対しての知識がないことが挙げられます。そのことを部外者がとやかく言うことではないのかも知れません。しかし荒崎海岸のひめゆり学徒散華の跡を含めた〝ここにひめゆり学徒が確かにいた〟場所に対し知識不足で答えられないというのはあまりにも悲し過ぎる現実です。戦跡を正しく伝えるのであれば、少なくとも近隣史跡位は案内できる位の知識は必要かと思います。じっくりと見学をした後退館通路からひめゆりの塔納骨堂等表から見えない場所を巡って戻って来ました。

このひめゆりの塔敷地一体には、新旧ひめゆりの塔、陸軍病院第三外科職員之碑、沖縄戦殉職医療人之碑等の慰霊碑の他学校敷地内にあって学徒所縁の〝相思樹(ソウシジュ)〟植樹の碑や追悼の歌碑〝いわまくら〟の碑等いろいろなものがあります。ここを漠然と見るだけではつながりがわかりませんが、少しの下準備をして行くだけですべてのものにまつわる由来がわかり、大変興味深いものになると思います。

そして最後にずゐせんの塔へと向かいます。沖縄県立首里高等女学校の学生で構成された〝ずゐせん(瑞泉)学徒看護隊〟。南風原の第62師団野戦病院ナゲーラ壕に配属され、軍司令部の南部撤退に伴い伊原や米須の壕に入るも、米軍の執拗な馬乗り攻撃にあい多くの犠牲者を出しました。普段は参拝者も稀でいつ収められたのかわからない花などが置かれている程度ですが、こちらでも午後から慰霊祭が執り行われており、多くの花が飾られていました。ただその日中に撤去しなければならないものも多いようで、ゆっくりと参拝できる雰囲気ではなかったのが少し残念でした。

白梅学徒・梯梧学徒・ひめゆり学徒・瑞泉学徒の各慰霊碑を駆け足で回り、自分なりには行程的に満足のいくものでした。

そして車へと戻り、改めて走り出します。向かう先は沖縄県営平和祈念公園です。先程も行っていますが、夕方からのファイナルイベントを見学するためにやって来ました。

まずはギリギリ行けるかも・・・と向かった平和祈念資料館。こちらも本日は無料ですが、残念ながら17:30で入館終了となっていました。後は改めて平和の礎、平和の灯、摩文仁の丘慰霊碑群と回ってから、〝平和の灯火〟と〝とうろう流し〟で締め、本年平成28(2016)年6月23日の〝沖縄のいちばん長い日〟は終わりを告げました。

あたりも暗くなってきましたが奥武島のゲストハウスは朝食付きプランであるため、夕食を食べに向かいます。しかしこの時間でこの界隈では結構開いている店も少なく、ドライブがてら津嘉山のガスト沖縄南風原店に向かうことにします。具志頭から南風原へと向かい約40分、お目当てのガストが見えてきました。元々慰霊の日は沖縄は祝日扱いであるがため、結構混雑していると読んで時間をずらしたつもりだったのですが・・・、ちょっとまだ早かったようです。とはいえ10分程待てば良かったのでまぁ許容範囲です。久しぶりのガストなので〝チーズインバーグAセット〟を注文します。1時間程ゆっくりした後、おなかが膨れれば次は眠気が襲ってきたため、そろそろ退散することにします。

約20分走って、海の上の橋を渡ると、4ヶ月ぶりの奥武島。後は記憶に従って走るとすぐに2月28日にお世話になったゲストハウスりゅうかくに到着します。今日一日の走行距離67.2km。バスも利用しているので結構走りました。

場所は当然利用したことがあるためナビに頼らなくてもわかるのですが、今晩はどうやら同宿者がおられる模様。建物敷地内にレンタカーが停まっていたためそれはわかるのですが、到着時刻は既に22:00近く、もう休んでおられたようです。どういう方が泊まっておられたのかはわかりませんが、今回はシングルルームではなくツインルームのシングルユースで部屋を利用させて貰い、快適な一夜を過ごさせて頂きました。部屋の大きさはそれ程変わるものではないと思いますが、二人で泊まれる部屋だけにゆったりとしたものでした。チェックイン後宿帳を記入しますがそれは一度泊まったことのある場所、前回の情報をコピーして貰っていたためほとんど時間もかかりません。この〝ゲストハウスりゅうかく〟の良いところは、プライベートタイムを尊重し付かず離れずの対応を心掛けておられること。南城市の宿泊施設で数少ない部屋にシャワートイレが完備しているということもあり、少ない時間ながらも疲れを取ることができます。

今日一日本当に炎天下を歩いていたため、がっちり焼けています。おまけに昨日歩き回ったことによって足も筋肉痛(泣)だったため、イタイイタイと思いながら温めのシャワーを浴びるともう小さな眼は開けていることが限界になってきました。今回の行程は雨が降ると大きく行程変更を余儀なくされるため、適当にしか行く場所を決めていません。タブレットナビに行く場所をプロット打ちしているといつの間にか寝てしまいました。そんなこんなで旅3日目が静かに過ぎていき、一日観光に充てられる最後の日を迎えますzzz。

【次編に続く】

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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