2016/06/22 - 2016/06/22
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
平成28(2016)年6月23日木曜日。沖縄では日本軍司令官の自決により組織的抵抗が終わったとされる実質的な終戦から71年目を迎えます。現在では〝沖縄慰霊の日〟とされている〝沖縄県の祝日〟ではあるものの、終戦直後に制定されたものではなく、1961年6月22日に当時の琉球政府が制定され、その後1965年6月23日に変更された経緯があり、その後昭和47(1972)年5月15日に沖縄県の日本復帰とともに祝日とはならなくなったものの、昭和49(1974)年に改めて〝沖縄県慰霊の日を定める条例〟が制定され現在に至っています。
昨年平成27(2015)年は太平洋戦争終結後70年の節目の年であり、戦没者遺族のひとりとして〝戦後70年沖縄戦全戦没者追悼式〟に参列したく沖縄へとやって来ました。しかし1年でたった1日の慰霊の日が、心ないプロバガンダをふりかざす輩により台なしにされている〝現実〟を目の当たりし、沖縄に於ける慰霊の念の乏しさに正直失望したのが本音です。
昨年も記載しましたが、平和祈念公園へと向かう送迎バスに乗っておられた多分内地から来られたご年配のご婦人が、公園入口での抗議活動を見て凄く寂しそうな表情をされていたことが頭から離れません。こういった場違いな活動が続けられるようでは、正直追悼式典に来る〝価値〟を見いだせないと感じました。それを私の〝小さなまなこ〟で確認すべく今回の沖縄訪問を企画しました。そういうところから計画立案した今回の≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱が始まります。
こちらでは旅2日目≪2016.June≫あみんちゅ沖縄の一番長い日に触れる旅沖縄本島その壱之弐~二日日:識名・那覇の戦跡編~の行程を紹介しています。
平成28(2016)年6月22日水曜日
ホテルパークスタジアム那覇 09:03(0.0km:0.0km:37.2km:0.0km/h)
サンエーV21食品館繁多川 09:30(7.1km:7.1km:44.3km:15.8km/h)
09:57
繁多川 10:10 (5.0km:12.1km:49.3km:7.5km/h)
公民館 10:25
識名霊園 10:41 (1.3km:13.4km:50.6km:4.9km/h)
県庁壕 11:25 (8.0km:21.4km:58.6km:10.9km/h)
12:11
識名霊園 12:15(0.9km:22.3km:59.5km:15.0km/h)
12:25
繁多川 12:28 (0.6km:22.9km:60.1km:20.0km/h)
公民館 12:40
ローソン 12:41 (0.6km:23.5km:60.7km:37.5km/h)
13:00
首里城 13:11 (3.4km:26.9km:64.1km:18.9km/h)
14:29【駐車場:260円】
サンエー楚辺 14:50 (5.2km:32.1km:69.3km:28.9km/h)
17:43
松山公園 18:00 (2.3km:34.4km:71.6km:8.3km/h)
18:40
イオン 19:05(14.6km:49.0km:86.2km:35.7km/h)
南風原 19:50
平和祈 20:16 (16.9km:65.9km:103.1km:39.4km/h)
念公園 20:41
みん宿ヤポネシア 20:46(2.6km:68.5km:105.7km:32.5km/h)
【1泊2食付和室:6,000円(割引後:5,850円)】
小計:6,260円(割引後:6,110円)
累計:32,780円(割引後:31,730円)
平成28(2016)年6月22日水曜日
目覚ましで7:30に起きました。旅2日目も良い天気です。服だけ着替えて1階へと降りて行きバイキングの朝食を頂きます。無料で付けておられるようですがなかなか本格的です。昨晩中途半端にしか食事を摂っていなかったため、がっつり頂きました♪そして一旦部屋へと戻り荷物を片付けて9:00過ぎに出発します。
今日の第一目的地は県庁壕跡。昨日識名霊園まで行ったものの、場所がわからずじまいでした。以前はフリーで入れたのですが、なにかと悪さをする輩のおかげで今では施錠されており、鍵を那覇市役所文化財課と繁多川公民館で管理されているとのこと。でも県庁で借りると往復の距離があるため事前に問い合わせて繁多川公民館でも貸し出しているとの情報を仕入れました。普段なら事前に連絡を入れるところですが、前日営業時間に間に合わず当日連絡入れます。
あまりアバウトな時間では申し訳ないと思い、近くのスーパーサンエーに着いた時に連絡を入れましたがここでまさかの展開が(驚)。一般向けには貸し出していないと回答されてしまいます。ここまで来て・・・の状態でこちらも素直に引き下がらず〝こういうブログを書いてます〟と食い下がった結果、なんとか貸してもらうことに成功します。那覇市役所ならば本人確認と時間を言えば大丈夫だそうですが、原則繁多川公民館では〝入壕に正当な理由があり、過去に入壕経験のある方〟のみとされているようです。とりあえず第一関門は通過し、再び識名霊園へと向かいます。
識名霊園には管理事務所があり、聞けばすぐわかると考えていたのがまた甘かった・・・。ここにはありませんというつれない返事に冷や汗が(泣)。仕方がないので繁多川公民館に電話したところ〝塩せんべい屋さん〟ところから入って下さいとのこと。ナビですぐさま探して走ること数分〝GAMA(ガマ)〟の標示を見つけます。
本当にお墓の隙間の狭い通路を通り抜けた場所に県庁壕A入口はありました。県庁壕Aとは表入口のことを指すようで、別に裏口として県庁壕B入口もありました。今回は初めてと言うことでA入口から入ることにします。入口に取り付けられた南京錠を開けて中に入りますが、しばらく入壕者はいなかったようでくもの巣だらけになっていました。両手に持った懐中電灯で払いながら奥へと進みます。入口は結構狭いようにも思うのですが、下に下りてみると結構広く高さもありました。昭和20(1945)年4月に沖縄戦が始まるも県庁は4月中旬頃まで地上での業務を行っていました。本島中部での激しい攻防戦が行われる中で市町村長会議を行うため各自治体の首長に招集がかかります。そして昭和20(1945)年4月27日に雨のように砲弾が降り注ぐ中、県内17市町村長が集合して壕内で会議が開かれます。これが戦前の沖縄県政最後の市町村長会議となりました。壕の中には県職員100名程がいたとされています。島守の〝島田叡知事〟や〝荒井退造県警部長〟もその中におられ、寝ている部下達の足を踏んで起こさないようにヨロヨロと歩くなどの逸話が残っています。しかし5月下旬には第32軍司令部が首里を放棄し南部へと撤退することになり、県庁もそれに伴い轟壕へと移動することになります。
県庁としての役目は1ヶ月程のこの県庁壕ですが、地元の方が〝シッポウジヌガマ〟と呼ばれる四方地の神を祀る御嶽がある拝所でもありました。戦後遺品等も多く出土した場所であり、行政機関としてこの壕が確かに使われていた事実は明確なのですが、平和教育問い名前に於ける壕巡りは、沖縄戦末期に激戦地となった南部地域の壕に集まり、訪れる方も多くはないとの話をお聞きしました。数年前に那覇市が文化財指定をするとした方針を打ち出したそうですがその後どのようになっているのやら…。
そして内部には往時を偲ぶものがたくさんあると書かれているものの、実際には〝これがなに?〟と言うものまではなかなかわからないのが現実です。たとえ図面を持って行って、壕内で照らし合わせるにしても、懐中電灯の灯りを消してしまうと闇に覆われてしまう場所ゆえ、私のような〝ヘタレ〟では〝怖さ〟が前面に出てしまいなかなかわからないのが現実です。さすがに御嶽の文字は読めましたが、その他は落盤のため立入禁止の文字くらい…それが素人の限界だと思います。
自分の身の危険も顧みず沖縄にやってきた島守がいた場所…それはどんなことがあっても変わらぬ事実です。その〝聖なる場所〟にゴミを投げ込まれている現実には、どう解釈をしていいのか私にはわかりません。やっと来られたという満足感はあれど、その現実にはやるせない気持ちになった私でした。
入壕に対する注意ですが、管理壕ではあれど事故その他は自己責任になっています。まぁ勿論のことですが…。入口から壕下部に下りるまで結構急な斜面になっており、また泥が結構堆積しており足場もよくありません。本来ならヘルメット着用が当たり前なのでしょうが、私自身そこまで深く入り込むには危険を伴うと考えているため、それを目安にしていたのですが、この県庁壕は見た目結構高さもあり広いように思うのですがやはり暗闇で見辛いところがあったのでしょう。頭を一度ぶつけました(泣)。また両手を空けるためデジカメを首にかけていたところ岩にぶつかり故障しました…。ケアレスミスではあるものの先入観で判断すると痛い目にあうことを身に染みてわかったように思います。もし県庁壕を訪れられる方がいらっしゃったらご注意下さい。
小一時間程で見学と参拝を済ませ外に出ます。壕に入っているときにスコールが降ったようですが、普段の行い(?)のおかげか夏の空が広がっています。識名霊園に一旦戻って靴の汚れを取ってから繁多川公民館へ鍵を返却に向かいます。そういえばお昼休みの時間があったことを忘れていました。丁寧にお礼を言って
鍵を返し、繁多川公民館に展示されていた〝沖縄県庁の足取り〟をしばらく眺めてから出発します。
那覇地区を走り回った記憶はまったくないため距離感がつかめないまま少し走ると首里城付近へと到着します。立ち寄り候補としていくつか挙げていたことを思い出し、とりあえず市営駐車場に車を停めます。ぶらぶらと歩いていると〝一中健児之塔〟の標識を見つけたので向かうことにします。現沖縄県立首里高等学校の向かいの高台にある〝一中健児之塔〟は、沖縄戦に於いて学徒隊を結成した沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校の前身)の生徒の戦没者210名を祀っています。知名度が決して高くない一中学徒隊ですが、昭和20(1945)年3月に5・4年生が同時に卒業し、3年生とともに鉄血勤皇隊を組織し、第5砲兵隊司令部に配属。また2年生は前年11月より通信隊要員として訓練を受けており、同時期に少年志願特別兵として電信兵第36連隊の各無線中隊に配属されました。
学徒兵として陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の後方任務に始まり、戦況の悪化により熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し結果として多くの犠牲者を出しました。
数の多い少ないで語れるものではありませんが、371名の学徒隊に対し、戦死者が210名と生存された方も比較的多く、また学校も新制沖縄県立首里高等学校として残ることとなり、学徒隊の中では比較的情報が多いことも事実です。しかし学徒隊そのものの認識が低いこともあって、一般の参拝者があまり訪れていないところもあります。
体が小さいことに目をつけて、爆雷を背負ったまま戦車のキャタピラに轢かれに行く。このような特攻が実際に行われていたのです。キャタピラに轢かれた瞬間、爆雷が破裂しキャタピラも壊れるが同時に体も木っ端微塵に飛び散ってそして何もなくなった・・・。書くには簡単ですが想像することすらできない光景です。
元学生寮だった養秀寮跡地に建立された一中健児之塔。その近くには塔の管理運営をする社団法人養秀同窓会があり、一中学徒隊資料展示室が設けられ、学徒動員され志半ばで亡くなられた少年の姿を風化させぬように情報発信されています。あと沖縄県立首里高等女学校の〝瑞泉同窓会〟も同じ建物内に看板が付いていましたが、詳細はわかりませんでした。
そしてまたひとつ学徒の足跡を辿ることができたことに感謝し、次の目的地へと向かいます。
那覇市楚辺。中心部と言えばそうですが、こちらに今回の目的地がありました。戦争資料館、国吉勇戦争資料館と記載してあるものもあるようですが、沖縄の遺骨発掘の第一人者国吉勇氏の資料館です。普通ならば土日祝日のみの開館ですが、今回特別に受け入れて貰いました。自営されている会社のすみずみに並べ置かれている遺品の数々は、正直言葉で言い表わせる限界をはるかに超えています。一部を写真として切り取りましたが、ご自分自身ご家族を亡くされていることもあり、今なお戦場に残されている遺骨収集に掛ける熱意は私のような部外者が理解できる範囲をはるかに超えていました。決して〝愛想がいい〟という方ではないため、人によっては苦手意識を持たれる方もいらっしゃることは聞いていました。しかしここの出土品を片手に熱弁をふるって説明をして頂ける内容は、webや文献考察からは絶対に得られない〝生きた知識〟に他ならないように思います。
見せることを目的にした資料館とは違い、長年土の中に埋もれていた出土品には説明書きはありません。説明を受けてはじめて史実とのつながりがわかるものゆえ、あまり知識がなければ意味がわからないかも知れません。どちらかと言うと一通り色々な戦跡を巡り、その背景を理解しているレベルの知識を持っていれば、個々の品々が70余年にどんな役割を担っていたかということがわかるため、有意義な時間を過ごせると思います。
さほど広くはない場所ゆえ短時間で見終わると思っていましたが、たっぷり2時間見学させて頂きました。
最後にお礼を申し上げ、また知識をつけて伺いますと挨拶し、再び車を走らせます。そしてたどり着いた先は松山公園。那覇の中心部にある大きな公園ですが、明治維新の後沖縄県立の学校・病院・県庁などが置かれていた歴史ある地区です。沖縄県立沖縄病院、沖縄県庁、そして白梅学徒隊を構成した沖縄県立第二高等女学校が移設開校した場所です。残念ながら病院跡には碑が残るのみでしたが、沖縄県立第二高等女学校跡地には〝白梅の乙女たち〟のブロンズ像が建立されていました。
白梅学徒の足跡を色々と回ってきたつもりでしたが、原点を見逃していたことに正直恥ずかしさを覚えました。学徒看護隊の結成の際、十・十空襲で校舎が全焼し、無事だった県庁の建物を利用して勉強をされた逸話は知ってはいたもののやはり百聞は一見に如かずのことわざ通りだと改めて実感しました。
なおこの松山公園の駐車場ですが、違法駐車が後を絶たないという理由から平成28(2016)年7月1日から有料化されるために工事中でした。残念なことですが、そういう考えを持つ輩がいる以上仕方がないのかも知れません・・・。
これで那覇市内の用事を済ませ、一路南風原のイオンへと向かいます。泊まるのは糸満なのになぜに南風原?となりますが、今回から壕内の写真撮影に〝写ルンです〟を取り入れました。モバイルカメラやデジカメではどうしても光量不足でうまく撮れないためISO1600の感度でどうなるかを試すことが目的です。しかし自宅まで持って帰るには飛行機のセキュリティのX線照射があります。カブリを防ぐため現地調達現地現像しようとカメラのキタムラがあるイオン南風原店へと向かったものの、まさかの仕上がり5日間宣言を受けました。確かにアナログカメラの流通は減り、稼働率が下がっていることは知ってはいますが、まさかの全国チェーン店で現像機を置いていないとは・・・。すまなそうに店員さんが小禄店にはあるんですが・・・とおっしゃっていました。松山公園から10分程の距離・・・、やっちゃいました(泣)。とはいえ今更仕方がないので気を取り戻し、本日最終目的地の沖縄県営平和祈念公園を目指すことにします。
具志頭を経由しておよそ30分、平和祈念公園へと到着します。昨年も訪れたのですが、追悼式前夜祭で〝平和の灯火〟が行われています。毎夜やっている〝光の柱〟と平和祈念堂前広場のキャンドルサービス。浮き上がる文字は勿論〝平和〟の2文字ですが、暗闇に浮き上がる平和の灯火は、遠くあの世から戦没者の方々がやって見られておられるように思えてなりません。コンセプトとしては大したことはないように思えるものの、なにか一番慰霊の気持ちがこもっているように感じるのは私だけでしょうか?
という一日が終わり、今晩お世話になる糸満市大度のみん宿ヤポネシアへと向かいます。所要時間僅か5分、しかしいつもながら二食付きをオーダーしているのに遅い到着をするマイペースなお客でした(汗)。
毎度のことながら到着時間を連絡しているので、到着後すぐに食事ができます。慰霊の日前日の宿泊をみん宿ヤポネシアで過ごされるお客は、ある意味同じ目的での宿泊をされているように思います。適度にマニアックな会話をした後、またマニアックに豊見城城跡公園の話を交わしたら、皆さん明日に備えて早めの就寝となります。
マニアックな行程を宣言した当の本人は、どこに車を停めるのが一番効率が良いかを考えているうちにいつものように寝てしまいましたzzz。そしていよいよ6月23日の慰霊の日を迎えます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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沖縄の旅2日目を迎えました。今日も良い天気です♪
ホテルパークスタジアム那覇 宿・ホテル
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ホテルパークスタジアム那覇、食堂とフロント。
ホテルパークスタジアム那覇 宿・ホテル
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ガッツリ朝食バイキングを頂きます♪
ホテルパークスタジアム那覇 宿・ホテル
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さあそろそろ出発しましょうか…。
ホテルパークスタジアム那覇 宿・ホテル
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サンエーV21食品館繁多川店でひと休みし、繁多川公民館に電話連絡を入れます。
サンエー (V21食品館繁多川店) スーパー・コンビニ・量販店
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やっとたどり着いた県庁壕の入口。?丸吉塩せんべい屋?を目印に向かえばありますよ。
なんか怪しい雲が…。丸吉塩せんべい屋 グルメ・レストラン
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県庁壕への道のり。車ではもう少し先まで行って駐車します。
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県庁壕への通路。
本当にお墓の隙間を縫って行きました。 -
そしてようやくたどり着いた県庁壕A入口。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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1945年4月下旬からおよそ1か月間、県庁と警察のほとんどの機能が、この壕のなかに移された。当時、壕の中はおよそ100人の職員であふれかえっていたという。首里陥落直前の5月25日に、「六○万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ 此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」と内務省に打電し、この壕を離れたらしい。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、入口。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、入口(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕内部へと入ります。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、入口。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(iPhone6s)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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これ以上は落盤の危険性がありは立ち入り禁止です。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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壕内の拝所。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(モバイルカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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県庁壕、内部の様子(アナログカメラ)。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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ではそろそろ壕から出るとしますか…。
県庁壕跡(シッポウジヌガマ) 名所・史跡
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繁多川公民館での沖縄県庁の足跡展示。
繁多川公民館 名所・史跡
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繁多川公民館での沖縄県庁の足跡展示。
繁多川公民館 名所・史跡
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繁多川公民館での沖縄県庁の足跡展示。
繁多川公民館 名所・史跡
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繁多川公民館での沖縄県庁の足跡展示。
繁多川公民館 名所・史跡
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繁多川公民館での沖縄県庁の足跡展示。
繁多川公民館 名所・史跡
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繁多川公民館にて、原爆と戦争展の案内。
繁多川公民館 名所・史跡
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車を首里城の市営駐車場に停めて・・・。
首里城 名所・史跡
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玉陵を通り・・・。
玉陵 名所・史跡
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一中健児之塔へとやってきました。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔の謂れ書き。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔と戦没者記銘碑。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔、追魂の歌碑。
よどみなく ふるいはけみし健児らの 若き血潮そ 空をそめける一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔戦没者記銘碑。
真ん中の校章が光っています。一中健児の塔 名所・史跡
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イチオシ
一中健児之像。たくましい体つきです。
一中健児の塔 名所・史跡
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イチオシ
一中健児之像と戦没者記銘碑。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中健児之塔敷地内の地蔵さま。
一中健児の塔 名所・史跡
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社団法人養秀会が運営する一中学徒隊資料展示室。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中学徒隊資料展示室、パンフレット。
一中健児の塔 名所・史跡
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一中学徒隊資料展示室、パンフレット。
一中健児の塔 名所・史跡
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建物には養秀同窓会と瑞泉同窓会とありました。
一中健児の塔 名所・史跡
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そして首里城へと戻ってきました。
首里城 名所・史跡
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那覇市楚辺にある戦争資料記念館へとやってきました。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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こちらは沖縄の遺骨収集の第一人者国吉勇氏が個人でされている資料館です。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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建物外に砲弾が置いてありました。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。こんなものもありました。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。中身はわかりませんが医薬品のアンプルです。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
積徳学徒看護隊がいた壕から出土した医療器具。戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。直撃弾をくらったオカマだそうです。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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戦争資料館館内の出土品の数々。戦時中の?水?だそうです。
戦争資料記念館 美術館・博物館
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松山公園へとやってきました。
松山公園 公園・植物園
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那覇市立尋常小学校・國民学校跡地の碑、松山公園にて。
松山公園 公園・植物園
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沖縄県立沖縄病院跡地、松山公園にて。現在では何も残ってはいません。
沖縄県立沖縄病院跡(オキナワケンリツオキナワビョゥインアト)
『県病院』『県立病院』と呼ばれ、当時、県内唯一の総合病院であった『沖縄県立沖縄病院』の跡地。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)に先立ち、西村(にしむら、現那覇市西)に置かれていた旧薩摩藩在藩奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)は、明治政府の外務省出張所、次いで内務省出張所となり、1876年8月には医局を設け、内務省官吏や一般住民に医療を施していた。 1878年8月、出張所は西村の個人宅を間借りし、改めて医局を置き、翌年の沖縄県設置により、沖縄県医局(後に病院)と改称した。1885年(明治18)6月には、『下の天妃宮(シムヌテンピグウ)』跡に移転し、橋せめて病室を設け、入院患者を収容したという。1889年(明治22)4月に沖縄県病院と改称。その後、老朽(ろうきゅう)化と狭隘(きょうあい)化により、1901年(明治34)年6月、那覇区字久茂地(くもじ)の松尾山(マーチューヤマ、現那覇市松山)に移転し、1909年(明治42)4月に沖縄県立沖縄病院と改称された。 病院の敷地は約3,226坪。一部2楷建ての瓦葺き木造平屋建てで、南側に正門玄関、外科・内科などの他に、売店・食堂が入った棟があり、長い渡り廊下を上がって、東・北病棟へ続いた。北病棟の奥に遺体安置所があり、遺体の引き取りは、近くの裏門からなされたため、裏門は俗に『死に門(しにもん)』と呼ばれた。 1944年(昭和19)10月10日の空襲で、建物は焼失し、その後は宜野湾(ぎのわん)の出張診療所で診察を続けたという。1945年(昭和20)の沖縄戦により自然閉院した。跡地は、1953年(昭和28)に那覇商業高等学校の敷地の一部となった。 なお、県立沖縄病院には、医生(いせい)教習所(1885年創設)、産婆(さんば)養成所(1890年創設)が併設され、他に付属施設として、伝染病隔離(かくり)のための台瀬(だいのせ)病院(1896年創設)や性病対策の若狭(わかさ)病院(1900年創設)が設置されていた。
設置2014年3月 那覇市歴史博物館松山公園 公園・植物園
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袋中上人来琉400年行化碑。
東北福島出身の袋中(たいちゅう)上人が沖縄に来られて400年を記念して作られています。松山公園 公園・植物園
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福島の?じゃんがら念仏?を元にして?エイサー?が作られました。
松山公園 公園・植物園
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白梅学徒の足跡。
松山公園 公園・植物園
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白梅の乙女たちの像。
沖縄県立第二高等女学校跡に建立されています。松山公園 公園・植物園
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白梅の乙女たちの像。
松山公園 公園・植物園
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白梅の乙女たちの像。
白梅の乙女たち
沖縄県立第二高等女学校は、太平洋戦争の戦渦によって昭和19年(1944)10月10日に校舎全焼し、暫時民家等で分散授業が行われたが、沖縄戦の激化によって学校の機能は消滅、戦後も復興されることなく自然廃校となった。 創立80年の節目にあたり、元職員と同窓生及び篤志家の協力を得て、母校が存在した証のモニュメントとして、また、人類共通の願いである平和のシンボルとして、永遠の乙女像『白梅の乙女たち』をここ母校跡地に建立する。
昭和59年(1984)9月10日 白梅同窓会松山公園 公園・植物園
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ユウナヌカー跡。昭和初期まで井戸として使われていたそうです。
松山公園 公園・植物園
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ユウナヌカー跡とガジュマルの木。
ユーナヌカー跡(ユウナヌカーアト)那覇市松山1丁目松山公園内
この地にあった村ガー(共同井戸)の跡。近くにゆうなの木があったことから、『ゆうなの井戸(カー)』と呼ばれたという。 浮島と呼ばれた那覇(なは)は、周りを海に囲まれているため、多くの井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかった。そのため、那覇港南岸の『落平(ウティンダ)』の水が、那覇市中や入港する船舶に向けて販売されていた。このような中、松尾山(マーチュウヤマ、現松山公園一帯)周辺の井戸の水は、飲み水として利用されたという。ユウナヌカーもその一つで、周辺住民の産湯などに使われる貴重な村ガーとなっていた。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となった。水道敷設計画は何度も持ち上がり、1933年(昭和8)に念願の水道が敷かれた。水道普及により、ユウナヌカーは使われなくなったが、その後も水への感謝として、周辺住民から拝まれた。 ユウナヌカーは、この地にあった沖縄県立第二高等女学校の運動場の一角にあったが、現在、1986年(昭和61)に整備された松山公園の池として、憩いの場所となっている。
設置 2014年3月 那覇市歴史博物館松山公園 公園・植物園
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駐車マナーの悪さから有料化される松山公園駐車場。
松山公園 公園・植物園
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追悼式前夜祭が行われている平和祈念公園へとやって来ました。
まずはシャトルバスの行き先チェックです。Bは農業研究センター行き。沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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Cは糸満観光農園行き。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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Dは晴明の丘公園行き。去年はこれを利用しました。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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イチオシ
かなり広範囲から見ることができる?平和の光の柱?♪
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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イチオシ
平和の灯火と平和祈念堂。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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イチオシ
平和の灯火と平和祈念堂。よく見ると?平和?と書かれています。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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平和の灯火。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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平和の灯火。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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明日の戦没者追悼式典会場です。
沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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みん宿ヤポネシアに到着しました。まずは夕食を頂きます♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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今回は二段ベッドのお部屋です♪
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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内装は大差ありません。
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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でも二段ベッドって・・・。
みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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子供の頃を思い出しますね〜♪
ちなみに?上段派?のたかティムさんです(笑)。それではおやすみなさ〜いzzz。みん宿ヤポネシア 宿・ホテル
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