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天空の城とも呼ばれる、越前大野城の紹介です。天正3年(1575年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、その翌年から築き始めたお城です。

2016春、福井県の名城(11/15):越前大野城(1):城下町、芍薬の花、天空の城へ

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2016/05/18 - 2016/05/18

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旅行記グループ 2016春、福井の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

天空の城とも呼ばれる、越前大野城の紹介です。天正3年(1575年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が、その翌年から築き始めたお城です。

交通手段
観光バス

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  • バスの駐車場から眺めた、越前大野城の天守の光景です。バスの駐車場は、旧城下町の武家屋敷辺りのようでした。

    バスの駐車場から眺めた、越前大野城の天守の光景です。バスの駐車場は、旧城下町の武家屋敷辺りのようでした。

  • 『結(ゆい)ステーション』の建物光景です。物品販売スペース『結楽座』のほか、『まちなか交流センター』、『平成大野屋』など数多くの施設があります。市民の憩いの場です。

    『結(ゆい)ステーション』の建物光景です。物品販売スペース『結楽座』のほか、『まちなか交流センター』、『平成大野屋』など数多くの施設があります。市民の憩いの場です。

  • 『結(ゆい)ステーション』の中央に位置する、シンボル・モニュメントの『時の鐘』の光景です。丁度午後の三時を指していました。

    『結(ゆい)ステーション』の中央に位置する、シンボル・モニュメントの『時の鐘』の光景です。丁度午後の三時を指していました。

  • 『シャクヤク(芍薬)』の赤い花です。ボタン科ボタン属の多年草です。二の丸か三の丸跡に建てられた中学校の脇の花壇で咲いていました。背後に見えるのが、お城の堀址です。

    イチオシ

    『シャクヤク(芍薬)』の赤い花です。ボタン科ボタン属の多年草です。二の丸か三の丸跡に建てられた中学校の脇の花壇で咲いていました。背後に見えるのが、お城の堀址です。

  • 『シャクヤク(芍薬)』の赤い花のズームアップ光景です。赤い花というより、鮮やかなピンク色の花といった方が合っていたかも知れません。

    『シャクヤク(芍薬)』の赤い花のズームアップ光景です。赤い花というより、鮮やかなピンク色の花といった方が合っていたかも知れません。

  • 更にズームアップした『シャクヤク(芍薬)』の赤い花です。現地ガイドさんにも、『ボタン(牡丹)』ではなく、芍薬であることを確認できました。

    更にズームアップした『シャクヤク(芍薬)』の赤い花です。現地ガイドさんにも、『ボタン(牡丹)』ではなく、芍薬であることを確認できました。

  • 地図で確認したところ、越前大野城址に建つ、大野市立有終西小学校の建物ようでした。現在の住所は大野市城町です。

    地図で確認したところ、越前大野城址に建つ、大野市立有終西小学校の建物ようでした。現在の住所は大野市城町です。

  • 平成17年(2005年)に建てられた、『大野中学校・大野高等学校跡の碑』です。福井県立大野中学校が明治38年(1905年)に開港され、その100周年の記念碑です。

    平成17年(2005年)に建てられた、『大野中学校・大野高等学校跡の碑』です。福井県立大野中学校が明治38年(1905年)に開港され、その100周年の記念碑です。

  • まだ新しい、観光案内が記された道案内の看板です。越前結ステーション付近のバス駐車場を出発し、越前大野城に向かう途中にありました。

    まだ新しい、観光案内が記された道案内の看板です。越前結ステーション付近のバス駐車場を出発し、越前大野城に向かう途中にありました。

  • 幕末の名藩主・土井利忠公を祀る神社、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の鳥居光景です。周りの木々が、鎮守の『杜』か『林』に育っていました。

    幕末の名藩主・土井利忠公を祀る神社、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の鳥居光景です。周りの木々が、鎮守の『杜』か『林』に育っていました。

  • 逆光で醜くなってしまいましたが、石碑の文字は、幕末の名藩主・土井利忠公を祀る神社、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の文字です。左手に、その神社の鳥居が見えています。

    逆光で醜くなってしまいましたが、石碑の文字は、幕末の名藩主・土井利忠公を祀る神社、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の文字です。左手に、その神社の鳥居が見えています。

  • 『柳廼社(やなぎのやしろ)』の参道脇にあった建物の光景です。『大野市民俗資料館』の大きな看板が懸かっていました。公式HPでは、この建物は、明治22年(1889年)、大野治安裁判所として建てられ、昭和43年(1968年)まで使用されていたと紹介されていました。現在は大野市指定の文化財の建物です。

    イチオシ

    『柳廼社(やなぎのやしろ)』の参道脇にあった建物の光景です。『大野市民俗資料館』の大きな看板が懸かっていました。公式HPでは、この建物は、明治22年(1889年)、大野治安裁判所として建てられ、昭和43年(1968年)まで使用されていたと紹介されていました。現在は大野市指定の文化財の建物です。

  • 越前大野城の第7代藩主の土井利忠公を祀る『柳廼社』の石の鳥居のズームアップ光景です。土井利忠公は、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829年)19歳で藩主として大野へ入りました。

    越前大野城の第7代藩主の土井利忠公を祀る『柳廼社』の石の鳥居のズームアップ光景です。土井利忠公は、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829年)19歳で藩主として大野へ入りました。

  • 土井利忠公を祀る『柳廼社』の拝殿光景です。創建は明治15年(1882年)、新しい部類に入る神社です。

    土井利忠公を祀る『柳廼社』の拝殿光景です。創建は明治15年(1882年)、新しい部類に入る神社です。

  • 殆どの文字が読み取れませんでしたが、横書きで、『良休翁之碑』らしい文字が読み取れました。幕末の大野藩の家老でした。藩主の利忠公は自筆をもって『更始の令』を発布しました。その内容は、『藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい、家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない』というものです。その利忠公が藩の立て直しに抜擢した内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟の兄の良休の方です。

    殆どの文字が読み取れませんでしたが、横書きで、『良休翁之碑』らしい文字が読み取れました。幕末の大野藩の家老でした。藩主の利忠公は自筆をもって『更始の令』を発布しました。その内容は、『藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい、家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない』というものです。その利忠公が藩の立て直しに抜擢した内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟の兄の良休の方です。

  • 幕末大野藩の家老、『内山良休翁の碑』の解説パネルです。幕末の大野藩の名君、土井忠利公を助けた第一人者と締め括られていました。

    幕末大野藩の家老、『内山良休翁の碑』の解説パネルです。幕末の大野藩の名君、土井忠利公を助けた第一人者と締め括られていました。

  • 横から眺めた、『柳廼社』の拝殿の光景です。土井利忠公を祀る『柳廼社』は、明治15年(1882年)、旧藩士達により、大野城麓に建てられました。

    横から眺めた、『柳廼社』の拝殿の光景です。土井利忠公を祀る『柳廼社』は、明治15年(1882年)、旧藩士達により、大野城麓に建てられました。

  • 曰くがありそうな立派な門ですが、表札や説明看板が見当たりませんでした。『越前大野城』の大手門のような場所であり、『柳廼社』の神門のような場所でした。<br />(追記)観光案内図には、『越前大野城』の『城門』とだけ記されていました。<br />

    イチオシ

    曰くがありそうな立派な門ですが、表札や説明看板が見当たりませんでした。『越前大野城』の大手門のような場所であり、『柳廼社』の神門のような場所でした。
    (追記)観光案内図には、『越前大野城』の『城門』とだけ記されていました。

  • 立派な山門風の入口付近から眺めた、『柳廼社』の建物光景です。土井利忠公の隠居所の建物は、こちらに移築され、社務所として使われているようでした。おそらく、利忠公の意思を反映した質素な建物でしょう。

    立派な山門風の入口付近から眺めた、『柳廼社』の建物光景です。土井利忠公の隠居所の建物は、こちらに移築され、社務所として使われているようでした。おそらく、利忠公の意思を反映した質素な建物でしょう。

  • 立派な山門風の門を潜り、その後は、ずっと登り道となりました。この辺りはまだ麓付近です。前方に、野面積らしい石垣が見えていました。

    立派な山門風の門を潜り、その後は、ずっと登り道となりました。この辺りはまだ麓付近です。前方に、野面積らしい石垣が見えていました。

  • 『百閒坂』のタイトルがあった説明看板の光景です。江戸時代の藩士たちが本丸に向かうには、必ず通った道とされ、それ以外の登り道は、明治以降に造られたものであることが説明されていました。

    『百閒坂』のタイトルがあった説明看板の光景です。江戸時代の藩士たちが本丸に向かうには、必ず通った道とされ、それ以外の登り道は、明治以降に造られたものであることが説明されていました。

  • 先程の説明看板にあった、『百閒坂』のようです。藩邸や御殿があった『二の丸』は、今は学びの里『めいりん』になっていると紹介されていました。御殿は、藩主の居館などがあった場所です。

    先程の説明看板にあった、『百閒坂』のようです。藩邸や御殿があった『二の丸』は、今は学びの里『めいりん』になっていると紹介されていました。御殿は、藩主の居館などがあった場所です。

  • 本丸に向かう登り道の頭上光景です。5月半ばの爽やかな新緑光景が続いていました。木漏れ日が心地よい坂道でした。

    本丸に向かう登り道の頭上光景です。5月半ばの爽やかな新緑光景が続いていました。木漏れ日が心地よい坂道でした。

  • 登り道の途中から見下ろした、麓の光景です。まだ上り始めですから、眼下に『柳廼社』の建物が見えていました。『柳廼社』は、土井利忠公の雅号『柳涯』からの命名です。

    登り道の途中から見下ろした、麓の光景です。まだ上り始めですから、眼下に『柳廼社』の建物が見えていました。『柳廼社』は、土井利忠公の雅号『柳涯』からの命名です。

  • 石垣を積まれた基壇の上に置かれた、桜の花を模した石碑の光景です。『宝くじ桜植栽地』の文字がありました。

    石垣を積まれた基壇の上に置かれた、桜の花を模した石碑の光景です。『宝くじ桜植栽地』の文字がありました。

  • 文字は読み取れませんでしたが、江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船の『大野丸』の記念碑のようです。幕末に箱館奉行所により建造された西洋式帆船の『箱館丸』と同型の帆船です。交易でかなりの富を大野藩にもたらした『大野丸』ですが、1864年9月24日(元治元年8月24日)、択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中、根室沖で座礁、沈没しました。

    文字は読み取れませんでしたが、江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船の『大野丸』の記念碑のようです。幕末に箱館奉行所により建造された西洋式帆船の『箱館丸』と同型の帆船です。交易でかなりの富を大野藩にもたらした『大野丸』ですが、1864年9月24日(元治元年8月24日)、択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中、根室沖で座礁、沈没しました。

  • 標高249メートルの大野城本丸へ向かっての登り道の光景です。大野盆地の小孤峰に建てられた大野城です。築城に数年間を要したとされますが、1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建され、明治維新後に破却されました。現在の復興天守は、1968年(昭和43年)の鉄筋コンクリート造りです。

    標高249メートルの大野城本丸へ向かっての登り道の光景です。大野盆地の小孤峰に建てられた大野城です。築城に数年間を要したとされますが、1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建され、明治維新後に破却されました。現在の復興天守は、1968年(昭和43年)の鉄筋コンクリート造りです。

  • 『大野市の花・コブシ』の文字が刻まれていた石碑の光景です。『コブシ(辛夷)』は、モクレン科 モクレン属の落葉広葉樹の高木です。早春に白い花を咲かせ、にぎりこぶし状のデコボコがある実が生ります。この形状がコブシの名前の由来とされます。

    『大野市の花・コブシ』の文字が刻まれていた石碑の光景です。『コブシ(辛夷)』は、モクレン科 モクレン属の落葉広葉樹の高木です。早春に白い花を咲かせ、にぎりこぶし状のデコボコがある実が生ります。この形状がコブシの名前の由来とされます。

  • 本丸に向かっての登り道は、まだまだ続きます。登り道の途中から眺めた城下町方面の光景です。中央付近に見えている屋根は、城下町ではなく、麓の柳廼社辺りのようでした。

    本丸に向かっての登り道は、まだまだ続きます。登り道の途中から眺めた城下町方面の光景です。中央付近に見えている屋根は、城下町ではなく、麓の柳廼社辺りのようでした。

  • 眼下に見えていた、本丸に向かっての登り道の光景です。『天空の城』とも呼ばれる越前大野城ですから、少々の登り道は頑張らなくてはなりません。

    眼下に見えていた、本丸に向かっての登り道の光景です。『天空の城』とも呼ばれる越前大野城ですから、少々の登り道は頑張らなくてはなりません。

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2016春、福井の名城巡り

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