2016/05/18 - 2016/05/18
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旅人のくまさんさん
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ポルトガル人の宣教師のルイス・フロイスが、天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問した時の記録では、『城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した』と表現しています。
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結木氏北ノ庄城見学のために、県庁方面に向かう途中の光景です。北ノ庄城は、福井城とも呼ばれていますので、結木氏北ノ庄城を簡略化して福井城と呼ぶことにします。街路脇で咲いていた、真っ赤なゼラニュウムの花です。フウロソウ科テンジクアオイ属の植物で、和名は天竺葵(てんじくあおい)です。
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商店街を通り抜ける端にあった鳥居の光景です。この石鳥居も柴田神社の鳥居の一部のようでした。柴田神社辺りがかつての福井城の三の丸辺りですから、この辺りも三の丸か、あるいは二の丸跡になるようです。
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柴田神社の石の鳥居を潜ったところで、右手に曲がりました。その通りの脇の光景です。台座に『歴史の道・北の庄通リ』の文字が刻まれ、その上部に、『柴田勝家とお市の方の自生の和歌』と『柴田神社の由来』の説明パネルがありました。
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街路樹が効果的に配された商店街の光景です。この通りは東西の向きだった記憶です。右側が陰になった建物の北側、左側は光が射しこんだ建物の南側になるようです。
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アーケードの商店街光景です。天井から吊り下げられた大きな宣伝ポスターには、『歴史のみち・ガレリア元町』の表示がありました。ガレリアは、イタリア語で『屋根のある商店街や歩行者用道路』を意味します。その宣伝キャラクターは、勝家・お市の方のほか、ここでは新田義貞公と、朝倉義景公でした。
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『歴史のみち・ガレリア元町』のアーケード通りを過ぎて、広い幹線道路に出ました。この通りは東西の向きだった記憶です。広い通りですが、思ったより車の通行は少なく感じました。
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福井城跡が見える場所までやってきました。柴田氏が天正3年(1575年)に築城した『柴田氏北ノ庄城』と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築された『結城氏北ノ庄城』とがあります。この場所は、後に『福井城』に改名された『結城氏北ノ庄城址』になります。
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イチオシ
福井城のお堀と石垣光景です。形式は平城で、本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされます。1600年に家康の次男の結城秀康が68万石で北ノ庄に入封され、1601年から天下普請により『柴田氏北ノ庄城』の跡地に、北ノ庄城が築城開始されました。江戸時代には、福井藩主の越前松平家の居城となりました。後に『福井城』に改名されました。
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内堀に架かる、『御本城橋』の袂付近の光景です。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成した『結城氏北ノ庄城』です。
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内堀に架かる、『御本城橋』の光景です。完成した城は2キロ四方に及ぶ規模とされます。五重の水堀が囲む本丸には四重五階の天守が建てられていましたが、1669年に焼失しました。以後、藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはありませんでした。
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内堀に架かる、『御本城橋』の袂から眺めた内堀の光景です。かつての五重の堀の一番内側のお堀です。1624年に第3代藩主の松平忠昌により、『北』の字が『敗北』にあたり不吉であるとして『北ノ庄』から『福居』に改名され、さらに後に『福井』と改名されたようです。改名の経緯については、諸説があるようです。天守台のそばに『福の井』という井戸が残っていて、『福井』の由来となったとする説もあります。
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内堀に架かる、『御本城橋』と、本丸石垣の光景です。かつての天守があった場所は、本丸北西隅の天守曲輪とされます。望楼型四重五階の天守が建てられていました。高さは、天守台も含めて約37メートルに及んだとされます。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があったようです。
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内堀に架かる、『御本城橋』の途中から眺めた、東側方面の光景です。天守が寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように類焼した本丸南西隅の二重巽櫓を三重に再建し、天守の代用としたようです。
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内堀に架かる、『御本城橋』の途中からズームアップした、本丸石垣の光景です。福井城が廃城となったのは明治4年(1871年)、本丸御殿の一部は福井市内の瑞源寺本堂及び書院に移築されています。高照山瑞源寺は、第5代、第7代藩主・昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所です。
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イチオシ
越前北ノ庄藩の初代藩主の結木秀康公(1574~1607年)の騎馬像です。越前松平家宗家の初代にもなります。天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれました。母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方です。池鯉鮒明神は、現在は知立神社の呼び名となりました。江戸時代には『東海道三社』の一つに数えられました。
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同じく、結木秀康公の騎馬像とその周りの福井城址の光景です。『秀康は双子で誕生した』したとする説があり、兄は知立神社32代神主の永見貞愛とされています。結木秀康公と同じ、天正2年(1574年)2月8日の生まれです。当時双子での出生は『畜生腹』と言われ忌み嫌われ、秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかったと伝わります。
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福井城址の本丸に残る石垣の光景です。家康公との対面も、異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしがあったとされます。信康公は天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により切腹させられました。近年の説では、家康との不和説が原因ともされます。
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同じく、福井城址の本丸に残る石垣の光景です。1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震(M7.1)により、天守台の一部が損壊するなどの被害を受けました。震源地は、現在の坂井市丸岡町とする直下型地震でした。総延長約25キロの地割れが生じました。南南東方向への延長線上には濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯があり、更にその延長線は1945年三河地震の深溝断層があります。
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福井地震発生当時、日本戦後最多となる死者を出し、大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となりました。今回の旅行で見学した丸岡城も倒壊しました。写真は本丸側から眺めた、内堀光景です。福井県での死者は3,728名、現在の坂井市部分では、死者が人口の5%に達しました。
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本丸を取り囲む石垣の立ち上がり部分のズームアップ光景です。結木秀康公の話題に戻ります。長男の信康が切腹させられ、次男の秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずでした。しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と秀吉が和解する条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされました。
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橋の上から眺めた、本丸石垣の光景です。秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めでは先鋒を務めました。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げ、天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されました。天正18年(1590年)の小田原平定、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加しました。
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内堀の外側から眺めた本丸方面の光景です。本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが立ち並びます。天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が誕生し、秀吉は生後4ヶ月で豊臣氏の後継者に指名しました。このため秀康は、他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されました。その養子先が、下野国の守護に任命されたこともある名家の結城家でした。
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福井城の見学を終え、再集合場所の柴田公園に戻る途中の福井市街の光景です。1945年の福井大空襲、1948年の福井地震、地震の1ヶ月後に集中豪雨で発生した九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受け、その度に復興を遂げてきました。この経験から、福井市は『不死鳥の町』を合言葉にしているようです。
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『九十九橋の由来』と題された説明パネルです。結木秀康公の話題のもう一度戻ります。武人としての抜群の器量を持ち、数々の実績もある秀康公ですが、残された自筆の書状などから、決して武勇一辺倒の人物ではなかったようです。惜しまれながら、34歳の若さで病没しました。始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬されましたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗で再葬されました。
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先程の説明パネルにあった、九十九橋の遺構の展示です。半石半木の九十九橋の架け替えは、江戸時代に10回行われ、最後の架け替えが明治7年(1874年)に行なわれました。この展示物は、民間で保存され、寄贈されたものと紹介されていました。
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鮮やかな黄色の花を咲かせた灌木です。マメ科の植物のエニシダ花その近縁種のヒメエニシダ当たりでしょうか、マメ科の植物には間違いがないようです。
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見頃だった、真っ赤なバラの花の光景です。バラ科の植物は、およそ90属2500種とされ、サクラ、ウメ、モモなど日本で古くから親しまれている花木類や、イチゴ、リンゴ、ナシ、ビワ、カリンなど果実、アーモンドなど種子が食用であるものも多く含まれます。
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北ノ庄城の紹介の締め括りです。左上が柴田勝家公、その右がお市の方です。下段は晩年の姿を含めた浅井三姉妹です。市多段は、右から長女の茶々、次女のお初、と三女のお江です。
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イチオシ
同じく、展示室にあった写真での紹介ですが、かつての『柴田氏北ノ庄城』の模型のライトアップ光景です。天正3年(1575年)に勝家公の縄張りによって築城が開始され、まだ完成しなかったとされる天正11年(1583年)、勝家公とお市の方の自害により火を放たれ、焼失しました。天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したフロイスが目にした天守閣です。
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同じく、展示室にあった写真で紹介する『柴田氏北ノ庄城』の模型です。ポルトガルの宣教師のフロイスにより、『城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した』と記された天守閣です。この『石』とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことです。今回の旅行では、石で葺かれた丸岡城の天守閣の屋根を見学できました。鯱も笏谷石で造られていました。
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