2016/05/18 - 2016/05/18
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旅人のくまさんさん
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慶長3年(1601年)に柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されました。このため、それぞれ柴田氏北ノ庄城と、結城氏北ノ庄城と呼ばれています。
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柴田神社の浄めの水の光景です。龍の口からの浄水が、花崗岩らしい水盤から溢れていました。
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『○美祈願所』の題字があった説明パネルの光景です。授与所から始まり、この祈願所で完結する、五段階の『美(モテ)祈願の作法』が紹介してありました。
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横から眺めた、『柴田神社』の拝殿光景です。柴田神社の公式HPには、御祭神は柴田勝家公、お市の方と殉難武士と記してありました。茶々・初・江与の三姫を祀る『三姉妹神社』、宇賀之魂神(伏見稲荷分御霊)を祀る『稲荷社』は、境内社と紹介されていました。
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正面から眺めた、『お市の方(おいちのかた)』の全身像です。『お市の方』は、天文16年(1547年)に生まれ、 天正11年4月24日(1583年6月14日)に北庄城で亡くなりました。戦国時代から安土桃山時代にかけての著名な女性で、『小谷の方(おだにのかた)』、『小谷殿』とも称されました。通説では、『於市(おいち)』とも呼ばれました。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされています。戦国大名・織田信長の妹とされ、従妹説もあります。初めは近江の大名・浅井長政の正室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の後妻となりました。子の三姉妹は浅井長政が父とされ、『浅井三姉妹』とも呼ばれます。
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『お市の方』の顔の正面からのズームアップ光景です。三姉妹の子達は、この後紹介する、『茶々(ちゃちゃ)』(豊臣秀吉側室)、『初(はつ)』(京極高次正室)、『江(ごう)』(徳川秀忠継室)です。今上天皇に繋がる血筋とされます。
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イチオシ
左斜め前から眺めた、お市の方の全身像です。お市の方が浅井長政に嫁いだ時期については、諸説があるようです。通説では、永禄10年(1567年)9月、または永禄11年(1568年)早々の1月から3月頃とされます。この婚姻により、織田家と浅井家は同盟を結びました。長政は主家である六角家臣・平井定武との婚約がなされていましたが、お市の方との婚姻により破談となりました。これも乱世の常です。
元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶しました。
長政が姉川の戦いで敗北し、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政は自害しましたが、お市の方と三姉妹は小谷城から救出されました。 -
イチオシ
左斜め前から眺めた、お市の方のズームアップ光景です。落城した小谷城から救出されたお市の方と三姉妹は、織田家に引き取られました。その後、信長の許しを得て、清洲城で兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたとされます。新説では、信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次が庇護したとの説もあります。
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お市の方の像の近くには、三姉妹像もありました。明智光秀の謀反により、信長が本能寺で自害したのは天正10年6月(1582年)、信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせ、清洲会議での承諾を得て、柴田勝家と再婚になりました。婚儀は信長の三男・信孝の居城・岐阜城で行われました。
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『三姉妹』と題された説明プレートです。説明文には、『天正10年(1583年)、三姉妹(茶々、初、江)は、お市の方が柴田勝家に嫁いだ際、勝家の居城、『北庄城』に移り、この地で共に過ごした』と紹介されていました。
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イチオシ
三姉妹の説明プレートを紹介した後、改めて紹介する三姉妹です。左から長女の『茶々』、中央が末娘の『江』右が次女の『初』です。
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右端に柴田勝家公、中央に三姉妹、左端にお市の方が揃った、柴田神社の境内光景です。お市の方が、北庄城で自害したのは37歳の時です。戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられます。
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柴田公園、柴田神社の周りはそれほど広くありませんでしたから、建物などの紹介が重複してしまいました。赤い鳥居と稲荷神社の光景も、既に紹介済みです。
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最上部に、右から読んで『柴田神社之碑』の文字が記された大きな石碑の光景です。題字を含めた文字の部分はブロンズ製のプレートが嵌め込まれていました。碑文の初めの方に『朝倉氏』、中間辺りに『羽柴秀吉』などの文字が部分的に読み取れました。明治の初め頃に建立された石碑のようでした。
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『北の庄城・お市の方・殉難将士・慰霊碑』の文字が刻まれた、まだ新しい石碑の光景です。三姉妹の名前はありません。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて北ノ庄城が落城、勝家とお市の方は自害しましたが、浅井三姉妹は救出されました。三姉妹は秀吉に預けられたとされますが、三姉妹を保護したのは秀吉ではなく織田信雄とする説もあります。
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『柴田氏北ノ庄城址』の発掘箇所のズームアップ光景です。お堀の西側、あるいは南側の石垣跡のようです。この辺りは、『結城氏北ノ庄城址』の三の丸跡と重複しているようでした。
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『北庄城石垣』のタイトルがあった説明パネルです。柴田勝家の時代の石垣は、その後の結城秀康時代の福井城築城のために、流用された可能性が高いことなどが解説されていました。
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柴田勝家時代の北ノ庄城の石垣遺構のようです。現在の柴田神社付近は、かつての北ノ庄城の本丸付近の可能性があるようです。
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寺社には付きもののソテツ(蘇鉄)の光景です。あまり年代を経た樹木ではないようですが、生育状態は上々でした。寒さに弱い樹木ですから、冬場には丁寧に菰巻がされているのかも知れません。
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『柴田神社』の扁額のズームアップ光景です。『張州府誌』によれば、柴田勝家は尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)の生まれです。名東区には所縁の寺社があり、生誕の地の石碑も置かれています。『張州府誌』は、元禄年間(1688~1704年)に編集、宝暦2年(1752年)に完成した、尾張で最初の官撰地誌です。
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柴田神社の社務所の窓口付近の光景です。柴田勝家に嫁いだお市の方は、織田信長の妹、その子達は、江戸時代から、現代に至るまで、聡明で美人の誉が高い三姉妹です。その人気にあやかった御守やグッズが販売されていました。
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柴田神社の本殿光景です。尾張で最初の官撰地誌、『張州府誌』の話題に戻ります。現在は、名古屋史談会編の活字化されたディジタル資料を、国立国会図書館ディジタルコレクションで閲覧することができます。
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『柴田氏北ノ庄城址』の発掘調査は、福井市の公式HPによれば、『柴田神社の建設工事、北の庄城址・柴田公園の整備工事を契機に、「福井城」、そして伝承されてきた『北庄城』を確認することを目的として、平成5年度から6回にわたり発掘調査を実施』と紹介されていました。
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福井市の公式HPでは、『北庄城は、これまで文献資料や伝承でのみ語られてきた城郭でありましたが、発掘調査によってはじめてその存在を確認しました』とも紹介されていました。『野面積』より、『打込み接ぎ』のイメージの石積のズームアップ光景です。発掘調査で出現した石垣のようです。
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発掘された堀と石垣の上に設けられた休憩場所の光景です。遺跡の保存と、観光施設の両立で、工夫が凝らされているようでした。
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既に紹介した『半石半木』の橋の光景です。撮影している場所は木製部分、その少し先が石製部分です。
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柴田勝家公とお市の方の辞世の和歌が刻まれた大きな歌碑の光景です。
柴田勝家公は、
『夏の夜の夢路はかなきあとの名を 雲井にあげよ山時鳥』(夏の夜のように短くはかない私の名を、のちの夜(世)までも伝えてくれよ、山ほととぎす)
お市の方は、
『さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそう時鳥かな』(夏の夜のほととぎすの鳴き声が、別れの悲しさをさそっているように聞こえる)
平安の昔から、ホトトギス(時鳥、杜鵑等)は、『黄泉の国(あの世)へと導く鳥』とされていました。漢字表記では、『不如帰』とも書きます。 -
同じく、柴田勝家公とお市の方の辞世の和歌が刻まれた歌碑の周りの光景です。歌碑の説明パネルも立っていました。
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歌碑の周りの格子状に編んだ竹垣の光景です。この庭の一角に、落ち着いた雰囲気を醸していました。
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室内展示品からの紹介です。『北ノ庄城跡』のタイトルがあった説明パネルです。発掘調査で確認された、堀址と、南側と西側の石垣の光景です。北に向かって伸びた堀の幅は約25メートル、石垣は結城氏北ノ庄城の築城の際に流用されたらしく、根石のみが残されていたと説明されていました。堀からは、16世紀の備前焼類の陶磁器、小銭などのほか、焼けた土壁が発掘されています。
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巨大な腰掛のようにも見える庭石の光景です。板状に精製したらしい筋が多くあり、奇石として配置された庭石のようでした。笏谷石も庭石として使われていたかもしれません。
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