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現存の最古とも言われる天守閣を持つ、日本百名城の一つ丸岡城の紹介です。戦国時代の天正4年(1576年)、一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせたお城です。

2016春、福井県の名城(2/15):丸岡城(2):天守台、現存の天守閣、福井大地震時の写真

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2016/05/18 - 2016/05/18

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旅行記グループ 2016春、福井の名城巡り

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旅人のくまさん

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現存の最古とも言われる天守閣を持つ、日本百名城の一つ丸岡城の紹介です。戦国時代の天正4年(1576年)、一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせたお城です。

交通手段
観光バス

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  • 木々に囲まれた丸岡城の光景です。丸岡城は、現存天守閣では『最古の建築様式』を持つ平山城とされます。戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆への備えとして、織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせたお城です。

    木々に囲まれた丸岡城の光景です。丸岡城は、現存天守閣では『最古の建築様式』を持つ平山城とされます。戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆への備えとして、織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせたお城です。

  • 同じく、丸岡城の天守の光景です。外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣を持ちます。柴田勝豊の後の城主は、安井家清・青山宗勝・青山忠元を経て慶長18年(1613年)に、本多成重に代わりましたが、本多氏は4代で改易となりました。元禄8年(1695年)、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末に至るまで8代続きました。

    同じく、丸岡城の天守の光景です。外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣を持ちます。柴田勝豊の後の城主は、安井家清・青山宗勝・青山忠元を経て慶長18年(1613年)に、本多成重に代わりましたが、本多氏は4代で改易となりました。元禄8年(1695年)、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末に至るまで8代続きました。

  • 丸岡城の天守台の石垣光景です。表面が平坦に揃っていませんから、野面積のようです。コーナー部分は、算木積でした。

    丸岡城の天守台の石垣光景です。表面が平坦に揃っていませんから、野面積のようです。コーナー部分は、算木積でした。

  • 天守閣登り口の石段の横に置かれていた石造の品々です。福井大地震で落下した笏谷石の鯱像です。『笏谷石(しゃくだにいし)』は、凝灰岩の一種で、福井市の足羽山で採掘される石材です。1999年に採掘は終了し、現在は採掘されていません。

    天守閣登り口の石段の横に置かれていた石造の品々です。福井大地震で落下した笏谷石の鯱像です。『笏谷石(しゃくだにいし)』は、凝灰岩の一種で、福井市の足羽山で採掘される石材です。1999年に採掘は終了し、現在は採掘されていません。

  • 石製の『鯱(しゃち)』についての説明パネルです。元々は木製銅板張りの鯱でしたが、昭和15~17年(1940~42年)の修理の際に、石製に作り替えられ、福井大地震で落下したと紹介されていました。現在の鯱は、昭和27~30年(1952~55年)の修理の際に、元の木製銅張に戻されたとも紹介されていました。

    石製の『鯱(しゃち)』についての説明パネルです。元々は木製銅板張りの鯱でしたが、昭和15~17年(1940~42年)の修理の際に、石製に作り替えられ、福井大地震で落下したと紹介されていました。現在の鯱は、昭和27~30年(1952~55年)の修理の際に、元の木製銅張に戻されたとも紹介されていました。

  • 丸岡城は、国指定の重要文化財です。天正4年(1576年)築城と記されていた、重要文化財指定の標識です。現在は、国宝指定を目指してPR活動中のようです。

    丸岡城は、国指定の重要文化財です。天正4年(1576年)築城と記されていた、重要文化財指定の標識です。現在は、国宝指定を目指してPR活動中のようです。

  • 大きな松の根元に建てられていた石碑の光景です。『東宮殿下御手植』の文字に下に『有馬子爵』の文字も見えました。大正天皇が皇太子時代の明治42年(1909年)の行啓の時の記念植樹碑です。有馬子爵は、最後の城主の子孫のようです。

    大きな松の根元に建てられていた石碑の光景です。『東宮殿下御手植』の文字に下に『有馬子爵』の文字も見えました。大正天皇が皇太子時代の明治42年(1909年)の行啓の時の記念植樹碑です。有馬子爵は、最後の城主の子孫のようです。

  • 正面から見上げた丸岡城の天守光景です。廃藩後、丸岡城は天守以外の建物は取り壊され、堀も埋められました。昭和23年(1948年)の福井大地震で天守が倒壊しましたが、昭和30年(1955年)に修復されました。

    正面から見上げた丸岡城の天守光景です。廃藩後、丸岡城は天守以外の建物は取り壊され、堀も埋められました。昭和23年(1948年)の福井大地震で天守が倒壊しましたが、昭和30年(1955年)に修復されました。

  • ここからは、石段を登って入場しての見学です。明治時代のお城の写真が数多く残されていました。撮影日時もしっかりと記録されていたようです。

    ここからは、石段を登って入場しての見学です。明治時代のお城の写真が数多く残されていました。撮影日時もしっかりと記録されていたようです。

  • 城内に数多く掲示されていた、明治期の丸岡城の写真です。引き続いて、個別に写真を紹介します。

    城内に数多く掲示されていた、明治期の丸岡城の写真です。引き続いて、個別に写真を紹介します。

  • 戦後間もない昭和23年(1948年)6月28日に発生した、福井大地震の時の写真でしょうか。震源地は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近で、地震の大きさは、M7.1でした。従来から把握されていた断層の活動ではなく、200メートル以上の厚い堆積層により地表に現れていない活断層が活動したとされます。南南東方向への延長線上には濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、更にその延長線は1945年の三河地震の深溝断層方向と同一とされます。

    戦後間もない昭和23年(1948年)6月28日に発生した、福井大地震の時の写真でしょうか。震源地は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近で、地震の大きさは、M7.1でした。従来から把握されていた断層の活動ではなく、200メートル以上の厚い堆積層により地表に現れていない活断層が活動したとされます。南南東方向への延長線上には濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、更にその延長線は1945年の三河地震の深溝断層方向と同一とされます。

  • 文化財保護委員会名で発行された、昭和25年8月29日付の『建第936号・重要文化財指定書』の写しです。指定の主な内容は、『丸岡城天守・一棟・二重三階・石製本瓦葺』です。

    文化財保護委員会名で発行された、昭和25年8月29日付の『建第936号・重要文化財指定書』の写しです。指定の主な内容は、『丸岡城天守・一棟・二重三階・石製本瓦葺』です。

  • 明治8年(1875年)に撮影された丸岡城天守の写真です。右端に着物姿の二人の人物も写っていました。左院・右院が廃され、元老院・大審院・地方官会議が設置された年です。樺太・千島交換条約の年でもあります。

    明治8年(1875年)に撮影された丸岡城天守の写真です。右端に着物姿の二人の人物も写っていました。左院・右院が廃され、元老院・大審院・地方官会議が設置された年です。樺太・千島交換条約の年でもあります。

  • 明治19年(1886年)撮影の丸岡城の天守光景です。イギリスとの間で、ノルマントン号事件が起きた年です。紀州沖で座礁・沈没したイギリス船籍貨物船から始まった、船長らの人種差別的行為と不平等条約を巡る紛争事件です。

    明治19年(1886年)撮影の丸岡城の天守光景です。イギリスとの間で、ノルマントン号事件が起きた年です。紀州沖で座礁・沈没したイギリス船籍貨物船から始まった、船長らの人種差別的行為と不平等条約を巡る紛争事件です。

  • 明治34年(1901年)撮影の丸岡城の天守光景です。大勢の人が一緒に写っていました。迪宮裕仁親王(昭和天皇)誕生の年です。足尾銅山鉱毒事件の原因が次第に明らかになって来た頃です

    明治34年(1901年)撮影の丸岡城の天守光景です。大勢の人が一緒に写っていました。迪宮裕仁親王(昭和天皇)誕生の年です。足尾銅山鉱毒事件の原因が次第に明らかになって来た頃です

  • 明治45年(1912年)撮影の丸岡城の天守光景です。7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王が天皇に践祚、大正に改元された年です。

    明治45年(1912年)撮影の丸岡城の天守光景です。7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王が天皇に践祚、大正に改元された年です。

  • 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で大名の本多成重(1572~1647年)についての解説でした。一筆啓上の手紙で有名な、幼少の頃の『お仙』です。戦乱の世では武功を上げ、32年の城主の時代では善政を敷いた人のようです。

    安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で大名の本多成重(1572~1647年)についての解説でした。一筆啓上の手紙で有名な、幼少の頃の『お仙』です。戦乱の世では武功を上げ、32年の城主の時代では善政を敷いた人のようです。

  • 丸岡城とその周りの復元模型図です。本丸と二の丸の周りには、かなり大きな内堀が廻らされていたようです。出入口は二箇所、表門から大手門を通るコースと、普段は閉じられているかも知れない不明門です。

    イチオシ

    丸岡城とその周りの復元模型図です。本丸と二の丸の周りには、かなり大きな内堀が廻らされていたようです。出入口は二箇所、表門から大手門を通るコースと、普段は閉じられているかも知れない不明門です。

  • 『入側(いりがわ)と窓』のタイトルがあった説明パネルです。1階外側の1間幅の通路の『入側(いりがわ)』の説明です。『武者走』の呼び名もあるようです。石落しや挟間の防御施設も説明されていました。

    『入側(いりがわ)と窓』のタイトルがあった説明パネルです。1階外側の1間幅の通路の『入側(いりがわ)』の説明です。『武者走』の呼び名もあるようです。石落しや挟間の防御施設も説明されていました。

  • 『釿(ちょうな)』で削って仕上げたような柱の光景です。『釿(ちょうな)』は、鍬に似た形状をした斧の一種で、鉋が普及する以前は木材の荒削り用として世界各国で使われていました。 石器時代から存在する、歴史のある工具とされます。

    『釿(ちょうな)』で削って仕上げたような柱の光景です。『釿(ちょうな)』は、鍬に似た形状をした斧の一種で、鉋が普及する以前は木材の荒削り用として世界各国で使われていました。 石器時代から存在する、歴史のある工具とされます。

  • 1階に掲示されたカラー写真の光景です。日本国内の名城の紹介でした。右から松本城、彦根城、向きが変わって、丸岡城と弘前城の天守でした。

    イチオシ

    1階に掲示されたカラー写真の光景です。日本国内の名城の紹介でした。右から松本城、彦根城、向きが変わって、丸岡城と弘前城の天守でした。

  • 1階外側の1間幅の通路の『入側(いりがわ)』の天井光景です。頑丈そうな気組になっていました。二階部分は、通し柱では閣、1階を土台として建てられているようです。

    1階外側の1間幅の通路の『入側(いりがわ)』の天井光景です。頑丈そうな気組になっていました。二階部分は、通し柱では閣、1階を土台として建てられているようです。

  • 立入り禁止の表示があった、出窓のような部分です。石落しの施設が設けられていたようです。

    立入り禁止の表示があった、出窓のような部分です。石落しの施設が設けられていたようです。

  • 1階のコーナー部分の光景です。両脇に明かり採りの窓がありました。

    1階のコーナー部分の光景です。両脇に明かり採りの窓がありました。

  • 丈夫な柱で作られた連子窓と、その外の跳ね上げ式の扉の光景です。

    丈夫な柱で作られた連子窓と、その外の跳ね上げ式の扉の光景です。

  • 内側から外にはね上げる、古式な窓の開閉装置の光景です。跳ね上げるには、付属の棒が使用されています。

    内側から外にはね上げる、古式な窓の開閉装置の光景です。跳ね上げるには、付属の棒が使用されています。

  • 明かり採りの目的だけではなく、弓狭間にも使用されたらしい格子窓の光景です。狭間として、改良される前の古い様式かも知れません。

    明かり採りの目的だけではなく、弓狭間にも使用されたらしい格子窓の光景です。狭間として、改良される前の古い様式かも知れません。

  • 『二階のつくり』のタイトルがあった説明パネルです。二階の大きさは1階の約3分の1の12坪(約43平方メートル)』で、1階にはあった『入側』はないことなどが解説されていました。1階からの通し柱はないことも紹介されていました。

    『二階のつくり』のタイトルがあった説明パネルです。二階の大きさは1階の約3分の1の12坪(約43平方メートル)』で、1階にはあった『入側』はないことなどが解説されていました。1階からの通し柱はないことも紹介されていました。

  • 窓から眺めた天守の屋根瓦と、周りの木々の光景です。屋根瓦は、焼物ではなく、地元で採れた、『笏谷石(しゃくだにいし)』と呼ばれる凝灰岩の一種が使われています。

    窓から眺めた天守の屋根瓦と、周りの木々の光景です。屋根瓦は、焼物ではなく、地元で採れた、『笏谷石(しゃくだにいし)』と呼ばれる凝灰岩の一種が使われています。

  • 同じく、『笏谷石(しゃくだにいし)』で葺かれたお城の屋根と、お城の周りの光景です。遠くには市街光景が見えました。

    イチオシ

    同じく、『笏谷石(しゃくだにいし)』で葺かれたお城の屋根と、お城の周りの光景です。遠くには市街光景が見えました。

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2016春、福井の名城巡り

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