1994/02/06 - 1994/02/06
413位(同エリア928件中)
マローズさん
先史時代、当時の技術では製作不可だった遺物、オーパーツについては兵庫の石の宝殿の旅行記(http://4travel.jp/travelogue/11084144)で解説したが、石の宝殿の倍近い900トンもの日本屈指の巨大石造物であるオーパーツが奈良県橿原市に存在する。しかも、石の宝殿が現地の岩盤から削り出したものに対し、この橿原市の「益田岩船」は他所で製作し、現地へ運搬したもの。現代の技術でも900トンの石造物を移動させるのは容易くないが、超古代の日本にこういう技術があったことには驚愕させられる。
因みに世界最大の巨石文明石造物は、レバノンの「バールベックの石柱」と思われ、推定重量は約2,000トン。これは世界最大のクレーンであるNASAのロケット移動用クレーンをもってしても吊り上げは不可という巨大さ。
益田岩船は岩船山の標高130m地点にある。東西の長さ11m、南北8m、高さ4.7mの花崗岩を加工したもので、上面には一辺1.6m、深さ1.3mの方形竪孔が二個開いており、孔の両側には溝が掘られている。
この遺物は製作年代、製作地、製作者、使用目的等一切不明で、弘法大師が築造した益田池の記念碑台石説、自然暦観測石説、物見台を兼ねた水槽説、二個の穴に蔵骨器を納める火葬墳墓説、製作が中断された古墳説、禊場説、電磁気発生装置説等がある。
岩船からはハイキングコースが明日香村の史跡巡りコースに繋がっている。明日香村は大化の改新の舞台である飛鳥地方の中心地であり、日本屈指の規模を誇る石室の古墳・石舞台古墳や、学校の教科書にも記載されている高松塚古墳を始めとした古墳群、各種謎の石像群、古代天皇陵墓群、古刹群等があり、関西随一の古代史跡観光地となっている。
その史跡群の中に飛鳥坐(あすかにいます)神社という古社がある。境内には多数の陽石が祀られ、子授けの神として信仰が厚いが、毎年二月第一日曜日には「天下の奇祭」と呼ばれる、夫婦和合の所作を行う神事「御田祭」(おんだまつり)があり、一番の人出となる。ただ、和合の妻(お多福)役が昭和中期以降、男性になっている点が玉に瑕。
探訪した史跡の数が多く、コースガイドを記述すると長文になるため、以下の投稿記事を参照されたい。
http://www.yamakei-online.com/cl_record/detail.php?id=25570
各史跡や観光地については明日香村のサイトhttp://asukamura.com/?page_id=29を。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 交通手段
- 私鉄
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益田岩船の側面
益田岩船 自然・景勝地
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岩船上面には上がることができる。二つの方形穴には雨水が溜まっている。
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岩船を見下ろす
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「大和名所図会」に描かれた益田岩船 。昔から有名だった。
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牽牛子塚古墳だったか? 7世紀後半、真弓丘陵に築かれた二段八角形墳で、一辺12.2m、対角線長33m。中央内部には凝灰岩を刳り貫いた横口式石槨があるが、下部にある柵の隙間からごく一部を見られるに過ぎない。
牽牛子塚古墳 名所・史跡
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マルコ山古墳・・・202.6m峰から北東に伸びる尾根の南斜面に築かれた二段六角形墳。但し、上段の墳丘がドーム型なので、一見すると円墳に見える。築造年代は7世紀末から8世紀。径23m、高さ5.3mで、二上山石切場から切出した凝灰岩を組んだ横穴式石槨を擁す。
棺と共に金銅六花形飾金具が出土した他、副葬品として金銅大刀金具や金銅製尾錠もあり、被葬者は天武天皇に関係する皇族ではないかと言われている。マルコ山古墳 名所・史跡
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於美阿志(おみあし)神社境内に建つ檜前寺跡十三重石塔。側にかつて檜前寺の塔が聳えていた。石塔の南側が金堂跡。
神社は元々現在地のやや西にあり、現、神社の建つ地にあった檜前寺の守護社だった。
神社の祭神は阿智使主(あちのおみ)神夫妻二柱。檜前寺は東漢(やまとのあや)一族の氏寺だが、そこは応神天皇20年9月に渡来した一族の祖・阿智使主の住居跡でもある。阿智使主の祖先は漢人で、祖国の戦乱から逃れて百済に移り、その後、百済の友好国・日本に渡来したものと考えられている。
応神帝は阿智使主と、彼と共に渡来した者たちに使主という姓を与え、檜前郷に土地を与えた。一族は東漢直と称し、朝廷の外交文書を取り扱う職を代々継ぐことになる。そして蘇我氏が政権を握ると連携し、勢力を拡大していく。 -
文武天皇陵。文武帝は草壁皇子の子・軽皇子で、15歳で即位し、文武天皇となった。大宝律令の制定や、断絶していた唐との国交正常化等を成し遂げた。
文武天皇陵 名所・史跡
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高松塚古墳。石槨内の壁画はあまりにも有名。丘陵の南西斜面に築かれた二段の円墳だが、見た目には方墳のように見える。下段径23m、上段径18m、高さ8.5mで、周囲に幅2.5mの周溝が廻らされている。
この古墳はオカルト界でも「高松塚の21日の呪い」として有名。実は、古墳の壁画の発見や発掘に関わった人物が、発見から2年の内、当該月の「21日」に不可解な死を遂げている。その数5人。国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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中尾山古墳・・・三段の八角形墳で墳丘径19.4m。横穴式石槨を擁すが、棺ではなく、火葬骨の蔵骨器を納めていることから、7世紀末から8世紀初頭の築造と考えられている。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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欽明天皇陵 ・・・全長140mの前方後円墳で周濠を巡らせているが、南側がやや削られているため、元々の全長はもっと長い。葺石が良好な状態で残っているらしいが、宮内庁管理のため、確認する術はない。
昔この陵墓では、長大な木柱を立てて並ばせる奇怪な祭祀が行われていたようだが、これは推古天皇28年(620)10月、葺石改良工事の際、氏ごとに大柱を古墳の上に建てさせた、という日本書紀の記述に由来しているものと思われる。欽明天皇陵 (平田梅山古墳) 名所・史跡
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檜前の猿石 ・・・欽明天皇陵の南側水田から元禄15年(1702)に出土した謎の石像群で、どれも高さは1m弱ほど。皆、異形の姿をしているが、猿の姿のものは一体だけで、他は庚申、山王権現、翁に見立てられている。
製作者や製作年代、製作目的等は不詳だが、「今昔物語」にも「石の鬼形」という表現で記述されていることから、中世のある時期まで、どこかに整然と置かれていたことが窺える。猿石 名所・史跡
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鬼の俎(まないた)・・・明治31年から宮内庁が欽明陵の陪冢(ばいちょう)の一つとして管理している古墳の石槨の底石で、全長4.3m、幅3.3m。
鬼の俎 自然・景勝地
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鬼の雪隠・・・鬼の俎の石棺の蓋石で、底石に合わさる部分が1.3m刳り貫かれている。扉石は明治以前に割って他所に運搬された模様で残っていない。
鬼の爼 鬼の雪隠 名所・史跡
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天武・持統天皇陵。天武帝は飛鳥浄御原(あすかきよみはら)律令や行政単位の設定等、律令国家体制の基盤を作った。伊勢神宮の式年遷宮も制定している。
その妻・持統帝は天武帝の崩御後、皇后の身分のまま政権を担い、息子である草壁皇子を即位させるべく、大津皇子を処刑する等したが、草壁皇子が早逝してしまったため、自ら飛鳥浄御原宮で即位した。藤原京に遷都したことでも知られる。遷都から3年後、孫である軽皇子(文武帝)に譲位した。天武 持統天皇陵 名所・史跡
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亀石・・・高さ約2m、長さ約4.3m、幅約2.7mの花崗岩を加工した石像。亀に見えることからそのように呼称されているが、顔の部分は蛙にも見える。両側下部に切断跡があるため、翼があったのではないかとも言われている。7世紀頃の製作ではないかと言われているが、記録はない。
この亀石、元々は東に向いて置かれていたというが、次第に南方向に回転して行き、現在は南西に向いている。これが真西を向いた時、飛鳥は泥の海と化す、という伝説がある。亀石 名所・史跡
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佛頭山橘寺・・・欽明天皇の別宮跡で聖徳太子生誕地でもある聖徳太子創建七ヶ寺の一つ。創建当時は66もの堂塔を擁す大寺だったが、落雷や戦火で何度も焼失し、現在は藩政期に再建された太子殿その他の小堂が見られるのみ。本尊は聖徳太子座像。
橘寺 寺・神社・教会
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橘寺観音堂の如意輪観音像
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二面石・・・二つの顔が背中合わせになった高さ1mほどの像で、人間の善悪を表現したものだとか、男女合体の道祖神だと言われる。
二面石 名所・史跡
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三光石。推古天皇14年(606)7月、聖徳太子は勅命により、ここで一切経の中の勝鬘(しょうもん)経を三日間、講読したが、その時、天から庭に蓮華の花が降り、南の山に千仏が光り輝いて出現し、太子の冠に日・月・星の光が点滅したという。その太子の冠に光を照射したのが三光石。
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石舞台古墳・・・墳丘の盛土が流失した一辺50mの方墳で石室の規模は日本最大級。全長19m、玄室の長さ7.5m、幅3.5m、高さ4.7m、総重量は2,300トンに及ぶ。蘇我馬子の墓ではないかと言われてきたが、石棺がないため、神殿説もある。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石室へは自由に出入りできる。
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酒船石・・・花崗岩の石造物で、全長5.5m、幅2.3m、高さ1m。上面には円と直線からなる幾何学図形の溝が掘られている。かつては古代の酒造施設跡説や薬の調合台説、生贄台説、天体観測・暦説等々があったが、現在では付近の複数箇所から古代の導水・湧水施設跡遺構が発見されたことにより、古代庭園遺構説が有力視されている。
酒船石 名所・史跡
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飛鳥坐神社境内の陽石。神社は元々式内社で社格は高い。創祀時期は詳らかではないが、天長6年(829)、神託により、高市郡賀美郷甘南備山から現在の鳥形山に遷座されたことが「日本紀略」にある。
藩政期は高取藩主により庇護され、末社80社を数えた。現在でも48社が現存する。飛鳥坐神社 寺・神社・教会
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御田祭の演者である天狗とお多福と翁。神事は最初、農耕の所作をし、それが終わると天狗とお多福が夫婦和合の様を行い、翁が囃し立てる。和合の所作が終わると、お多福が「福の紙」を股間にあて、精液を拭き取る仕草をする。その紙を持ち帰った女性は子宝に恵まれるという。
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飛鳥寺(鳥形山安居院[あんごいん])の庭。6世紀、百済から伝来した仏教の受容を巡って政争が起こり、蘇我氏が勝利する。蘇我馬子は甥の崇峻天皇が即位すると我が国初の本格的寺院の造営を発願、推古天皇4年(596)に完成した。法興寺、またの名を飛鳥寺と言った。10年後には聖徳太子の命により、本尊となる銅仏が製作される。それが銅造釈迦如来坐像、通称:飛鳥大仏。
都が平城京に遷都されると養老2年(718)、法興寺もその機能は移転され、元興寺と改称された。が、元の場所の堂宇はそのまま残され、本元興寺と呼ばれるようになった。安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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飛鳥大仏。像高約3メートル。
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蘇我入鹿の首塚・・・皇極天皇4年(645)、中大兄皇子や中臣鎌足によって飛鳥板蓋宮で暗殺された蘇我入鹿の首を埋葬した墓。暗殺の際、刎ねられた入鹿の首がここまで飛んできたとも、首が鎌足を追いかけてきたからここに供養塔を建てたとも言われているが、塚の五輪塔は鎌倉時代のものと言われている。
蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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飛鳥水落遺跡・・・日本書紀に記されている、斉明天皇6年(660年)5月、中大兄皇子が製作した日本初の水時計(漏刻台)跡。基壇は一辺22.5m、四囲には貼石を施した溝が巡り、基壇上には二層の建物が建ち、地下には樋や銅管が埋設されていたという。
飛鳥水落遺跡 名所・史跡
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甘樫丘からの畝傍山方面の眺め。万葉集にも詠まれた甘樫丘(147.7m)は蘇我蝦夷・入鹿父子の屋敷跡であり、允恭天皇が415年、氏姓の乱れを正すため、盟神探湯(くがたち)の儀式を行った場所でもある。「氏」は血縁を中心に構成された集団で、「姓」(かばね)とは、臣、君、連等、家柄や職能を示す称号。煮えたぎる湯の中に腕を浸けさせると、氏姓に偽りのある者は火傷をする、という荒唐無稽で理不尽な検査法。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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