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 5月の山中湖ロッジ滞在の帰り道にちょっと遠回りして、かねてより一度訪れてみたかった武相荘(ぶあいそう)に立ち寄ってみた。<br />実は白洲次郎のことを知ったのはそんなに古いことではない。次郎の妻、正子は随筆家であり、古美術品の目利きに関しては女性としては当代一と言われた女性である。茶の湯をたしなむ連れ合いが茶道具関係で白洲正子のことを知っており、武相荘に行ってみたいと言い出したのは連れ合いの方なのである。<br /> 白洲次郎は明治35年に現・芦屋市の裕福な商家の次男として生まれ、旧制中学卒業後、イギリスの名門ケンブリッジ大学に留学。イギリス流紳士道を身につけ、身長180cmを越す長身にロンドン、セヴィルロウの紳士服の老舗のスーツを着こなしていた。40代の頃の写真を見ると日本人離れした端正な顔立ちは、「日本一かっこいい男」と評されるのも頷ける。<br /> 見かけのかっこよさだけではなく、太平洋戦争を挟んだ戦前・戦後の激動の時代を駆け抜け、妻正子が145冊もの著作を残したのに、たった一冊の本「プリンシプルのない日本」とわずか8文字の遺言「葬式無用・戒名不要」を残して歴史の舞台を颯爽と去って行った次郎。彼の生き方全てに共感するものではないが、プリンシプル(直訳すれが原理・原則だが、日本語としては筋が通ったというような意味合い)を貫いた生き様は、たしかにかっこいいのである。

白洲次郎・正子夫妻が終の棲家とした武相荘を訪ね、次郎のダンディズムに刺激される

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2016/05/25 - 2016/05/25

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玄白

玄白さん

 5月の山中湖ロッジ滞在の帰り道にちょっと遠回りして、かねてより一度訪れてみたかった武相荘(ぶあいそう)に立ち寄ってみた。
実は白洲次郎のことを知ったのはそんなに古いことではない。次郎の妻、正子は随筆家であり、古美術品の目利きに関しては女性としては当代一と言われた女性である。茶の湯をたしなむ連れ合いが茶道具関係で白洲正子のことを知っており、武相荘に行ってみたいと言い出したのは連れ合いの方なのである。
 白洲次郎は明治35年に現・芦屋市の裕福な商家の次男として生まれ、旧制中学卒業後、イギリスの名門ケンブリッジ大学に留学。イギリス流紳士道を身につけ、身長180cmを越す長身にロンドン、セヴィルロウの紳士服の老舗のスーツを着こなしていた。40代の頃の写真を見ると日本人離れした端正な顔立ちは、「日本一かっこいい男」と評されるのも頷ける。
 見かけのかっこよさだけではなく、太平洋戦争を挟んだ戦前・戦後の激動の時代を駆け抜け、妻正子が145冊もの著作を残したのに、たった一冊の本「プリンシプルのない日本」とわずか8文字の遺言「葬式無用・戒名不要」を残して歴史の舞台を颯爽と去って行った次郎。彼の生き方全てに共感するものではないが、プリンシプル(直訳すれが原理・原則だが、日本語としては筋が通ったというような意味合い)を貫いた生き様は、たしかにかっこいいのである。

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車

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  • 武相荘。<br />場所は旧鶴川村(現町田市能ヶ谷7丁目3番2号)、白洲夫妻が住み始めたころは、多摩丘陵の田園地帯だったが、今は住宅が密集する市街地のど真ん中にある。<br />建物の裏手に専用駐車場がある。<br />写真は駐車場から武相荘敷地内に入るところの土壁の塀である。

    イチオシ

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    武相荘。
    場所は旧鶴川村(現町田市能ヶ谷7丁目3番2号)、白洲夫妻が住み始めたころは、多摩丘陵の田園地帯だったが、今は住宅が密集する市街地のど真ん中にある。
    建物の裏手に専用駐車場がある。
    写真は駐車場から武相荘敷地内に入るところの土壁の塀である。

    旧白洲邸 武相荘 美術館・博物館

  • 受付まで、適度に手入れされた林や竹林が続いている。<br /><br />旧鶴川村は「武蔵の国」と「相模の国」の境に位置していることから、次郎は自分の住居を「武相荘」と名付けたのだが、「不愛想」にもひっかけた彼独特のアイロニーでもあるようだ。<br />

    受付まで、適度に手入れされた林や竹林が続いている。

    旧鶴川村は「武蔵の国」と「相模の国」の境に位置していることから、次郎は自分の住居を「武相荘」と名付けたのだが、「不愛想」にもひっかけた彼独特のアイロニーでもあるようだ。

  • 孟宗竹の竹林が見事である。<br /><br /><白洲次郎のこと その1><br />ここで白洲次郎の略歴を記しておこう。(Weblioより引用)<br />・1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれる。<br />・1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学。サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。<br />中学時代にアメリカ車ペイジ・オートモビルのグレンブルックを父親から買い与えられて乗り回していた。<br />・神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる<br /><br />ここまでは、まさしく金持ちのボンボンを地で行っている。<br />

    イチオシ

    孟宗竹の竹林が見事である。

    <白洲次郎のこと その1>
    ここで白洲次郎の略歴を記しておこう。(Weblioより引用)
    ・1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれる。
    ・1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学。サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。
    中学時代にアメリカ車ペイジ・オートモビルのグレンブルックを父親から買い与えられて乗り回していた。
    ・神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる

    ここまでは、まさしく金持ちのボンボンを地で行っている。

  • 通路脇にはおびただしいドクダミが可憐な白い花を咲かせている。<br /><br /><白洲次郎のこと その2> <br />・1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。全寮制なので、このころの寮生活で、イギリス流紳士道を叩き込まれたようだ<br />・1928年(昭和3年)、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を止め日本への帰国<br />・1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。<br />・伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。<br />・この間、商談などで海外に赴くことが多く駐英特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、近衛文麿のブレーンとして行動する。<br /><br />わずか35歳で日本水産の取締役になったり、吉田茂、近衛文麿といった政治権力とも結びついたということは、ただの金持ちボンボンではない、有能な資質を備えていたということになる。<br />なお、近衛文麿は3度に亘り首相を務め、国家総動員法施行、大政翼賛会設立、八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟締結など、日本を無謀で悲惨な戦争の道へと進めたA級戦犯である。そんな人物のブレーンとして活躍した白洲次郎も、戦犯の誹りは免れないと思う。<br />しかし・・・

    通路脇にはおびただしいドクダミが可憐な白い花を咲かせている。

    <白洲次郎のこと その2> 
    ・1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。全寮制なので、このころの寮生活で、イギリス流紳士道を叩き込まれたようだ
    ・1928年(昭和3年)、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を止め日本への帰国
    ・1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。
    ・伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。
    ・この間、商談などで海外に赴くことが多く駐英特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、近衛文麿のブレーンとして行動する。

    わずか35歳で日本水産の取締役になったり、吉田茂、近衛文麿といった政治権力とも結びついたということは、ただの金持ちボンボンではない、有能な資質を備えていたということになる。
    なお、近衛文麿は3度に亘り首相を務め、国家総動員法施行、大政翼賛会設立、八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟締結など、日本を無謀で悲惨な戦争の道へと進めたA級戦犯である。そんな人物のブレーンとして活躍した白洲次郎も、戦犯の誹りは免れないと思う。
    しかし・・・

  • オオヤマレンゲのつぼみ。初めて見る花である。<br /><br /><白洲次郎のこと その3><br />第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、白洲次郎は、鶴川村能ヶ谷の古い農家を購入し、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送るようになった。この農家が武相荘である。こうした行動が近衛文麿に絡んだ戦犯容疑から免れたのかもしれない。<br />このとき、すでに戦争の末路に東京空襲、食糧難がやってくることを見越していたと思われる。田舎に土地と財産を持って住み、中央政界の動向を地方から伺うというイギリスのカントリージェントルマンのセンスである。こうした行動の下地はイギリス留学時代に培われたものだろう。<br /><br />

    オオヤマレンゲのつぼみ。初めて見る花である。

    <白洲次郎のこと その3>
    第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、白洲次郎は、鶴川村能ヶ谷の古い農家を購入し、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送るようになった。この農家が武相荘である。こうした行動が近衛文麿に絡んだ戦犯容疑から免れたのかもしれない。
    このとき、すでに戦争の末路に東京空襲、食糧難がやってくることを見越していたと思われる。田舎に土地と財産を持って住み、中央政界の動向を地方から伺うというイギリスのカントリージェントルマンのセンスである。こうした行動の下地はイギリス留学時代に培われたものだろう。

  • オオヤマレンゲの花<br /><br /><白洲次郎のこと その4><br />第二次世界大戦戦末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将)に頼み込み召集を免れている。<br /><br />上流特権階級のネットワークを利用した兵役逃れは、いつの時代、いずこの国でもあることとは思うが、庶民感情からすれば、許しがたいものである。<br />白洲次郎の人物像が、明暗・好悪定まらないのは、本人自身の記録などの一次資料が少ないことと、生きざまのかっこよさと、こういう負の側面があるからなのだろう。<br />

    オオヤマレンゲの花

    <白洲次郎のこと その4>
    第二次世界大戦戦末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将)に頼み込み召集を免れている。

    上流特権階級のネットワークを利用した兵役逃れは、いつの時代、いずこの国でもあることとは思うが、庶民感情からすれば、許しがたいものである。
    白洲次郎の人物像が、明暗・好悪定まらないのは、本人自身の記録などの一次資料が少ないことと、生きざまのかっこよさと、こういう負の側面があるからなのだろう。

  • 駐車場から200mほど敷地の林の中を歩いてくると、武相荘にたどり着く。農家とは言え、長屋門を構える立派な建物である。左側の建物はオープンスペースのカフェになっている。<br />なお、母屋は現在はレストランとミュージアムとして一般公開されていて、ミュージアムには\1,050の入場料が必要。<br /><br /><白洲次郎のこと その5><br />白洲次郎が直接書き留めた言葉ではないが、当時周囲に居た人達によると、小石川から武相荘に引っ越す際に、こんなことを言ったそうだ。<br /><br />「田舎に住んでまともな生活をしている人は田舎者とは言わない。都会の中で恥も外聞もなく振る舞う人種を田舎者という」<br /><br />ウン! これは100%共感できる名言だ。<br /><br />

    イチオシ

    駐車場から200mほど敷地の林の中を歩いてくると、武相荘にたどり着く。農家とは言え、長屋門を構える立派な建物である。左側の建物はオープンスペースのカフェになっている。
    なお、母屋は現在はレストランとミュージアムとして一般公開されていて、ミュージアムには\1,050の入場料が必要。

    <白洲次郎のこと その5>
    白洲次郎が直接書き留めた言葉ではないが、当時周囲に居た人達によると、小石川から武相荘に引っ越す際に、こんなことを言ったそうだ。

    「田舎に住んでまともな生活をしている人は田舎者とは言わない。都会の中で恥も外聞もなく振る舞う人種を田舎者という」

    ウン! これは100%共感できる名言だ。

  • 元は納屋か作業場だったと思われる小屋がカフェに改造されている。そこの一角に、次郎が旧制神戸第一中学に通っていたころ父親に買ってもらった、当時としては最先端のスポーツカーと同型のクラシックカーが展示されている。1916年型PAIGE Six-38 5passenger Carというアメリカ車である。2008年に放映されたNHKドラマ「白洲次郎」で撮影のために、イギリスの名門クラブ「ヴィンテージ・スポーツカー・クラブ」の協力により輸入されたものだそうだ。<br />クラシックカーに特段の興味はないので、ふーんと眺めただけだが、現代に置き換えれば、高校生の息子にポルシェとかランボルギーニを買い与えたようなものだ。父親の白洲文平は、綿花の輸入を手掛けた商社で成功し巨額の財を成した人物だという。

    イチオシ

    元は納屋か作業場だったと思われる小屋がカフェに改造されている。そこの一角に、次郎が旧制神戸第一中学に通っていたころ父親に買ってもらった、当時としては最先端のスポーツカーと同型のクラシックカーが展示されている。1916年型PAIGE Six-38 5passenger Carというアメリカ車である。2008年に放映されたNHKドラマ「白洲次郎」で撮影のために、イギリスの名門クラブ「ヴィンテージ・スポーツカー・クラブ」の協力により輸入されたものだそうだ。
    クラシックカーに特段の興味はないので、ふーんと眺めただけだが、現代に置き換えれば、高校生の息子にポルシェとかランボルギーニを買い与えたようなものだ。父親の白洲文平は、綿花の輸入を手掛けた商社で成功し巨額の財を成した人物だという。

  • イギリスに留学してからも、次郎のカーキチ振りは嵩じる一方で、Oily Boy と呼ばれていたそうだ。<br />晩年、70歳をすぎて軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めていたころまで、ポルシェを乗り回していたという。

    イギリスに留学してからも、次郎のカーキチ振りは嵩じる一方で、Oily Boy と呼ばれていたそうだ。
    晩年、70歳をすぎて軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めていたころまで、ポルシェを乗り回していたという。

  • 長屋門をくぐり、母屋の前へ。<br />手前が今はレストランになっている。ちょうど12時になったので、ここでランチにするが、あいにく満席。しばらく待たされることになった。

    長屋門をくぐり、母屋の前へ。
    手前が今はレストランになっている。ちょうど12時になったので、ここでランチにするが、あいにく満席。しばらく待たされることになった。

  • レストランの空きを待つ間、長屋門の脇にある2階建ての元納屋を見学。<br />一階は、次郎が農作業や庭の手入れに使っていた器具が展示されている。奥の赤い塗装が施された機械は、アメリカから輸入した芝刈り機。

    レストランの空きを待つ間、長屋門の脇にある2階建ての元納屋を見学。
    一階は、次郎が農作業や庭の手入れに使っていた器具が展示されている。奥の赤い塗装が施された機械は、アメリカから輸入した芝刈り機。

  • 2階が”Play Fast&quot;と名付けられたギャラリー&バーになっている。<br />次郎の趣味の一つがゴルフ。性格はけっこう短気だったらしく、ゴルフでコースをラウンド中も前の組のスロープレイに苛立ち、Play Fastと叫んでいたらしい。<br />

    2階が”Play Fast"と名付けられたギャラリー&バーになっている。
    次郎の趣味の一つがゴルフ。性格はけっこう短気だったらしく、ゴルフでコースをラウンド中も前の組のスロープレイに苛立ち、Play Fastと叫んでいたらしい。

  •  白洲次郎は、終戦直後の1945年(昭和20年)東久邇宮内閣の外務大臣となっていた吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。終連とは、日本の省庁と占領軍(GHQ)との間で占領政策、戦後復興政策を調整する役割を担う重要組織だった。<br /> 戦前、駐英特命全権大使として赴任していた吉田は、次郎が大使館を定宿にするほど懇意になっていて、次郎の抜群の英語力、欧米人に引けを取らない長身の堂々とした風貌、だれが相手でも主張すべきところは徹底して主張する硬骨漢ぶりを見込んだのである。<br /> 白洲次郎が、いよいよ本領を発揮するのは、吉田の懐刀となってGHQと渡り合うようになってからである。<br /><br />写真は、次郎愛用のオリベッティ社のタイプライター

     白洲次郎は、終戦直後の1945年(昭和20年)東久邇宮内閣の外務大臣となっていた吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。終連とは、日本の省庁と占領軍(GHQ)との間で占領政策、戦後復興政策を調整する役割を担う重要組織だった。
     戦前、駐英特命全権大使として赴任していた吉田は、次郎が大使館を定宿にするほど懇意になっていて、次郎の抜群の英語力、欧米人に引けを取らない長身の堂々とした風貌、だれが相手でも主張すべきところは徹底して主張する硬骨漢ぶりを見込んだのである。
     白洲次郎が、いよいよ本領を発揮するのは、吉田の懐刀となってGHQと渡り合うようになってからである。

    写真は、次郎愛用のオリベッティ社のタイプライター

  • すりガラスに書かれた「GENTLEMEN ONLY」というのが、いかにも次郎のダンディズムにふさわしい。<br /><br />

    すりガラスに書かれた「GENTLEMEN ONLY」というのが、いかにも次郎のダンディズムにふさわしい。

  • 洒落たバーカウンター。次郎が住んでいた頃からあったものか、ここをギャラリーとして公開するようになってから作られたものか定かではない。一般見学者が利用することはできないのかな? 特別のイベントや、武相荘倶楽部のメンバーは使えるようだ。

    洒落たバーカウンター。次郎が住んでいた頃からあったものか、ここをギャラリーとして公開するようになってから作られたものか定かではない。一般見学者が利用することはできないのかな? 特別のイベントや、武相荘倶楽部のメンバーは使えるようだ。

  • GHQとの交渉にあたっていた頃の次郎にはいろいろなエピソードがある。<br /><br /><エピソード1><br />終戦の年の12月、昭和天皇からマッカーサーへ送られたクリスマスプレゼントを持って次郎はマッカーサーと面会した。そのとき、多くのプレゼントをもらっていたマッカーサーは、天皇からの贈り物を「その辺に置いといてくれ」とぞんざいな扱いをしようとした。それを見た次郎は「天皇陛下からの贈り物をそんな扱いをするとは何事か!」をマッカーサーを叱りつけたという。このエピソードにより、白洲次郎はマッカーサーを叱った唯一の日本人ということになった。<br />ただし、アメリカ側に保管されているマッカーサーの面会記録には白洲次郎の名前はなく、どうも、このエピソードは次郎の硬骨漢振りを演出する作り話ではないかという説もある。<br />

    GHQとの交渉にあたっていた頃の次郎にはいろいろなエピソードがある。

    <エピソード1>
    終戦の年の12月、昭和天皇からマッカーサーへ送られたクリスマスプレゼントを持って次郎はマッカーサーと面会した。そのとき、多くのプレゼントをもらっていたマッカーサーは、天皇からの贈り物を「その辺に置いといてくれ」とぞんざいな扱いをしようとした。それを見た次郎は「天皇陛下からの贈り物をそんな扱いをするとは何事か!」をマッカーサーを叱りつけたという。このエピソードにより、白洲次郎はマッカーサーを叱った唯一の日本人ということになった。
    ただし、アメリカ側に保管されているマッカーサーの面会記録には白洲次郎の名前はなく、どうも、このエピソードは次郎の硬骨漢振りを演出する作り話ではないかという説もある。

  • 1947年に次郎は終戦連絡中央事務局を辞することになった。そのとき、次郎がマッカーサーに餞別としてプレゼントした椅子(レプリカ)が展示されている。<br /><br />敗戦国の立場からGHQの無理難題に対しても、唯々諾々と平身低頭し、押し付けられるがままだった日本の官僚の中で、白洲次郎だけは、主張すべきところは主張したようで、GHQの中では、次郎を評して「従順ならざる唯一の日本人」と評されたという。<br />次郎が語ったという次の言葉が、彼の心意気をよく表している。<br /> &quot;Although we were defeated in war, we didn&#39;t become slaves&quot;<br /> (われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない)<br /><br />この心意気や良しである。

    1947年に次郎は終戦連絡中央事務局を辞することになった。そのとき、次郎がマッカーサーに餞別としてプレゼントした椅子(レプリカ)が展示されている。

    敗戦国の立場からGHQの無理難題に対しても、唯々諾々と平身低頭し、押し付けられるがままだった日本の官僚の中で、白洲次郎だけは、主張すべきところは主張したようで、GHQの中では、次郎を評して「従順ならざる唯一の日本人」と評されたという。
    次郎が語ったという次の言葉が、彼の心意気をよく表している。
     "Although we were defeated in war, we didn't become slaves"
    (われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない)

    この心意気や良しである。

  • ありし日の囲炉裏のある部屋で撮影した次郎のポートレート写真が飾られている。<br /><br /><エピソード2><br />GHQ民政局長のホイットニー准将という人物が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言った。これに対して、次郎は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたという。<br />ここまで言うと、痛快を通り越して、いささか傲慢さが鼻につく感じがしないでもない。生来、次郎の性格は短気、傲慢と評されていたらしい。<br /><br />それはともかく、このホイットニーという人物と次郎は、日本国憲法を巡って関わり合いを持つことになるのである。<br />

    ありし日の囲炉裏のある部屋で撮影した次郎のポートレート写真が飾られている。

    <エピソード2>
    GHQ民政局長のホイットニー准将という人物が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言った。これに対して、次郎は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたという。
    ここまで言うと、痛快を通り越して、いささか傲慢さが鼻につく感じがしないでもない。生来、次郎の性格は短気、傲慢と評されていたらしい。

    それはともかく、このホイットニーという人物と次郎は、日本国憲法を巡って関わり合いを持つことになるのである。

  • レストラン「武相荘」

    レストラン「武相荘」

  • 30分待って、ようやく空きができたので中に入る。<br />武相荘はそれほど有名というわけではないので空いているだろうと想像していたが、平日にも関わらず結構大勢の見学客が来ている。圧倒的に中高年女性が多い。白洲正子ファンなのだろうか・・・

    30分待って、ようやく空きができたので中に入る。
    武相荘はそれほど有名というわけではないので空いているだろうと想像していたが、平日にも関わらず結構大勢の見学客が来ている。圧倒的に中高年女性が多い。白洲正子ファンなのだろうか・・・

  • このレストラン、もとは次郎の工作室だった部屋を喫茶室として開放していたのだが、昨年1月にレストランに改装してリニューアルオープンしたそうだ。<br />壁には次郎の肖像写真と正子の肖像画が掲げられている。

    このレストラン、もとは次郎の工作室だった部屋を喫茶室として開放していたのだが、昨年1月にレストランに改装してリニューアルオープンしたそうだ。
    壁には次郎の肖像写真と正子の肖像画が掲げられている。

  • オーダーしたランチメニュー<br />左上:連れ合いがオーダーしたエビカレー。白洲夫妻がよく食べていたカレーライスと同じレシピで作られていて、いわばこのレストランの目玉メニュー。<br />野菜嫌いの次郎が、このカレーの付け合わせとして出されたキャベツだけは食べていたというので、それに忠実にキャベツが添えられている。<br />昔風のカレーでちょっと塩味が強すぎる。\2,100は高い。<br />右上:牛ほほ肉のシチュー。独特の香辛料の使い方がされていて、ちょっとクセのある味で、やはり塩味が強い。こちらも\2,100<br />下:連れ合いがデザートでオーダーした武相荘オリジナルのどら焼き。あんことアイスクリームがサンドイッチされている。連れ合いに言わせると。これはどら焼きというよりホットケーキだと言う。玄白には、その違いはよくわからない。

    オーダーしたランチメニュー
    左上:連れ合いがオーダーしたエビカレー。白洲夫妻がよく食べていたカレーライスと同じレシピで作られていて、いわばこのレストランの目玉メニュー。
    野菜嫌いの次郎が、このカレーの付け合わせとして出されたキャベツだけは食べていたというので、それに忠実にキャベツが添えられている。
    昔風のカレーでちょっと塩味が強すぎる。\2,100は高い。
    右上:牛ほほ肉のシチュー。独特の香辛料の使い方がされていて、ちょっとクセのある味で、やはり塩味が強い。こちらも\2,100
    下:連れ合いがデザートでオーダーした武相荘オリジナルのどら焼き。あんことアイスクリームがサンドイッチされている。連れ合いに言わせると。これはどら焼きというよりホットケーキだと言う。玄白には、その違いはよくわからない。

  • 歪みがある昭和レトロ風のガラスが嵌った窓越しに緑がきれいである。

    歪みがある昭和レトロ風のガラスが嵌った窓越しに緑がきれいである。

  • 満腹になったところで、隣のミュージアムに行ってみる。<br />庭には、ガクアジサイがすでに花を咲かせている。

    満腹になったところで、隣のミュージアムに行ってみる。
    庭には、ガクアジサイがすでに花を咲かせている。

  • 武相荘の母屋。最近ではめずらしくなった茅葺屋根である。萱葺屋根は20〜30年毎に定期的に葺き替えないといけないのだが、最近では萱を葺く職人が減ってしまい、葺き替えに苦労したそうだ。わざわざ琵琶湖周辺の萱を運び、近江の職人を呼んで葺き替えをしたそうだ。

    武相荘の母屋。最近ではめずらしくなった茅葺屋根である。萱葺屋根は20〜30年毎に定期的に葺き替えないといけないのだが、最近では萱を葺く職人が減ってしまい、葺き替えに苦労したそうだ。わざわざ琵琶湖周辺の萱を運び、近江の職人を呼んで葺き替えをしたそうだ。

  • 玄関脇に置かれた壺は、農家の納屋にあった生活雑器の一つである。<br />白洲夫妻の、特に正子の美意識は、こういう何気ない生活道具の中にも美があるというセンスなのである。<br />連れ合いに言わせると、千利休の侘茶に通じるものがあるという。

    玄関脇に置かれた壺は、農家の納屋にあった生活雑器の一つである。
    白洲夫妻の、特に正子の美意識は、こういう何気ない生活道具の中にも美があるというセンスなのである。
    連れ合いに言わせると、千利休の侘茶に通じるものがあるという。

  • 資料館内部は撮影禁止。カフェにTVが置いてあり、白洲夫妻を紹介するビデオが流れていたので、以下の写真は、そのTV画面を撮影したものである。<br /><br />中に入るとすぐ、白いタイル張りのリビング兼応接室がある。ここは、もとは農家の作業用の土間だったのだが、夫妻がタイル張りの床を張り改装した。当時としては珍しい床暖房も取り入れている。<br />和洋折衷のインテリアだが、夫妻の美意識が感じとれるスペースである。<br /><br />

    資料館内部は撮影禁止。カフェにTVが置いてあり、白洲夫妻を紹介するビデオが流れていたので、以下の写真は、そのTV画面を撮影したものである。

    中に入るとすぐ、白いタイル張りのリビング兼応接室がある。ここは、もとは農家の作業用の土間だったのだが、夫妻がタイル張りの床を張り改装した。当時としては珍しい床暖房も取り入れている。
    和洋折衷のインテリアだが、夫妻の美意識が感じとれるスペースである。

  • ここで食事も摂っていた。食卓に上った食材は、終戦直後は次郎が畑で作ったものが多かったようだが、次郎は野菜嫌いだったので不自由な思いをしたかもしれない。<br /><br /><白洲正子のこと><br />正子は、明治43年、伯爵樺山愛輔と母・常子の次女として生まれた。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)で警視総監、海軍大臣、初代台湾総督など務めた人物で、いわば、正子は名家のお姫様である。<br />わずか4歳の時から能を習い始めた。それが、本人の希望だったのか、両親が習わせたものか、調べてみたがわからなかった。14歳のとき、女人禁制だった能舞台に上がり、女性として初めて能を演じた。<br />学習院初等科女子部を卒業後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。<br /><br />

    ここで食事も摂っていた。食卓に上った食材は、終戦直後は次郎が畑で作ったものが多かったようだが、次郎は野菜嫌いだったので不自由な思いをしたかもしれない。

    <白洲正子のこと>
    正子は、明治43年、伯爵樺山愛輔と母・常子の次女として生まれた。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)で警視総監、海軍大臣、初代台湾総督など務めた人物で、いわば、正子は名家のお姫様である。
    わずか4歳の時から能を習い始めた。それが、本人の希望だったのか、両親が習わせたものか、調べてみたがわからなかった。14歳のとき、女人禁制だった能舞台に上がり、女性として初めて能を演じた。
    学習院初等科女子部を卒業後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。

  • 帰国後、19歳のとき、正子の兄の紹介で白洲次郎とお見合い、意気投合し結婚。このとき次郎27歳。<br />次郎は正子に何通ものラブレターを送っていたらしい。それも、すべて英語で。<br />その中の一節が残っている。<br /><br />「You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals」<br />(君は僕の発想の泉であり、究極の理想だ)<br /><br />うわー!キザ 白洲次郎のダンディズム、ここに極まれりだ。自分には、こんなこと、こっぱずかしくて、とても言えない。<br /><br />

    帰国後、19歳のとき、正子の兄の紹介で白洲次郎とお見合い、意気投合し結婚。このとき次郎27歳。
    次郎は正子に何通ものラブレターを送っていたらしい。それも、すべて英語で。
    その中の一節が残っている。

    「You are the fountain of my inspirations and the climax of my ideals」
    (君は僕の発想の泉であり、究極の理想だ)

    うわー!キザ 白洲次郎のダンディズム、ここに極まれりだ。自分には、こんなこと、こっぱずかしくて、とても言えない。

  • 晩年の白洲夫妻。<br /><br />結婚40周年のとき、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて、「一緒にいないことだよ」と答えたという。ウ〜ム、それも一つの正解だろうな〜と思う。<br />実際、次郎と正子は結婚後、一緒に行動するということはほとんどなかったようだ。連れだって旅行に行くことも最晩年の一時期以外はなかったらしい。<br />我が家では、こんなことを連れ合いに言えば、逆鱗に触れること間違いなし!

    晩年の白洲夫妻。

    結婚40周年のとき、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて、「一緒にいないことだよ」と答えたという。ウ〜ム、それも一つの正解だろうな〜と思う。
    実際、次郎と正子は結婚後、一緒に行動するということはほとんどなかったようだ。連れだって旅行に行くことも最晩年の一時期以外はなかったらしい。
    我が家では、こんなことを連れ合いに言えば、逆鱗に触れること間違いなし!

  • これは正子の書斎の机。<br /><br />

    これは正子の書斎の机。

  • 正子の書斎の本棚。どんな蔵書があるのか近くで見たかったが、書斎には入れない。<br /><br /><正子のこと2><br />もともと、華族のお姫様だった正子は、結婚してからも、炊事・洗濯・掃除などといった家事は一切やらなかった(できなかった?)。育児のほとんどもタチという女性に任せきりだったらしい。<br />次郎も妻に対して、当時の世間一般の価値観である「有能な主婦としての能力や良妻賢母」を求めてはいなかった。<br />正子は戦後、著名な文芸評論家の小林秀雄、美術評論家の青山二郎といった、当代の文化人たちとの交流をしていた。<br />彼女自身、随筆家として頭角を現し「能面」、「かくれ里」で読売文学賞を受賞している。140冊を超す著作があり、日本の美に関する随筆が多い。青山二郎の影響で、古美術にも開眼し自らも熱心な骨董品収集家であった。<br /><br />

    正子の書斎の本棚。どんな蔵書があるのか近くで見たかったが、書斎には入れない。

    <正子のこと2>
    もともと、華族のお姫様だった正子は、結婚してからも、炊事・洗濯・掃除などといった家事は一切やらなかった(できなかった?)。育児のほとんどもタチという女性に任せきりだったらしい。
    次郎も妻に対して、当時の世間一般の価値観である「有能な主婦としての能力や良妻賢母」を求めてはいなかった。
    正子は戦後、著名な文芸評論家の小林秀雄、美術評論家の青山二郎といった、当代の文化人たちとの交流をしていた。
    彼女自身、随筆家として頭角を現し「能面」、「かくれ里」で読売文学賞を受賞している。140冊を超す著作があり、日本の美に関する随筆が多い。青山二郎の影響で、古美術にも開眼し自らも熱心な骨董品収集家であった。

  • 囲炉裏がある部屋には、夫妻が日常使っていた食器類が展示されている。<br /><br />晩年、正子は「どうしたら骨董がわかるか」という質問にこう答えている。<br />「五、六十年もやって、やっと骨董にも魂があるってことを知ったの。その魂が私の魂と出会って、火花を散らす。といっても、ただどきどきするだけよ。人間でいえばひと目惚れっていう奴かな。そして、どきどきさせるものだけが美しい。」<br />そんな正子をどきどきさせたのは、高価な名品ばかりではない。<br />農具として使われた箕や、漆桶など、生活の中の道具に美しさを見いだしている。<br /><br />こういう価値観に我が連れ合いも共感している。<br />

    囲炉裏がある部屋には、夫妻が日常使っていた食器類が展示されている。

    晩年、正子は「どうしたら骨董がわかるか」という質問にこう答えている。
    「五、六十年もやって、やっと骨董にも魂があるってことを知ったの。その魂が私の魂と出会って、火花を散らす。といっても、ただどきどきするだけよ。人間でいえばひと目惚れっていう奴かな。そして、どきどきさせるものだけが美しい。」
    そんな正子をどきどきさせたのは、高価な名品ばかりではない。
    農具として使われた箕や、漆桶など、生活の中の道具に美しさを見いだしている。

    こういう価値観に我が連れ合いも共感している。

  • 正子は魯山人とも交流があった。日曜雑器だけでなく、こうした名品にも、心をときめかせていた。

    正子は魯山人とも交流があった。日曜雑器だけでなく、こうした名品にも、心をときめかせていた。

  • 骨董品だけでなく、織物にも鑑識眼があったようだ。決して華やかな着物ではないが、連れ合いに言わせると、とても味がある良いものだという。<br />自分には、この手のものはさっぱりわからないが・・・

    骨董品だけでなく、織物にも鑑識眼があったようだ。決して華やかな着物ではないが、連れ合いに言わせると、とても味がある良いものだという。
    自分には、この手のものはさっぱりわからないが・・・

  • 晩年の白洲正子。1998年、88歳で亡くなっている。これに先立つ3年前、1995年に次郎に先立たれている。<br />80歳を超えてからも、骨董品収集に熱を入れ、4歳から始めた能に関しても、能楽師・友枝喜久夫の「おっかけ」と称して、九州まで追って行ったりしている。<br /><br />ともかく、白洲正子は一介の主婦に収まり切れない女性であり、この夫婦は現代においてさえ、超現代的先端的夫婦だったのである。

    晩年の白洲正子。1998年、88歳で亡くなっている。これに先立つ3年前、1995年に次郎に先立たれている。
    80歳を超えてからも、骨董品収集に熱を入れ、4歳から始めた能に関しても、能楽師・友枝喜久夫の「おっかけ」と称して、九州まで追って行ったりしている。

    ともかく、白洲正子は一介の主婦に収まり切れない女性であり、この夫婦は現代においてさえ、超現代的先端的夫婦だったのである。

  • 次郎愛用の小物たち。すべて本物志向だった次郎のセンスがしのばれる。

    次郎愛用の小物たち。すべて本物志向だった次郎のセンスがしのばれる。

  • 白洲次郎の連合国軍の日本占領時代のことについてはすでに記したとおりだが、日本国憲法と次郎の関わりについて書いておかねばなるまい。<br /><br />終戦後の重要なアイテムが新憲法制定問題だった。日本側は、松本憲法担当大臣を中心として明治憲法をベースに改定案を練っていた。だが、GHQからすると、その草案は日本を民主国家に生まれ変わらせるという観点からは不十分だと判断し、日本側の草案を拒否し、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を明確にしたGHQ案を受け入れるよう迫ってきた。このときのGHQ側の交渉相手が民生局長、ホイットニー准将だった。<br />当時の日本側は認識できていなかったようだが、連合国の大半が天皇を戦犯として裁くこと、天皇制廃止に傾いていたが、マッカーサーは、日本国民統合のためには天皇を守り、天皇制を存続させることが必要と考えていたという。そのためにGHQ案を受け入れさせることを急いでいたようだ。<br />結果的に日本国憲法の草案はGHQが作成し、日本政府は、ほぼその通りに翻訳して公布した。その翻訳の中心になったのが白州次郎だった。<br /><br />現代の改憲論者たちが憲法改正を訴えている根拠の一つが、日本国憲法はGHQに押し付けられたものだから、日本人自身が自ら作った憲法を持つべきだというものである。白洲次郎自身も、そのように考えていた。しかし、次郎は「GHQに押し付けられたものではあるが、その中身についてはすばらしい面もある」とも言っている。逆に言えば、当時の日本には、今日定着している民主国家としての日本を構想する能力がなかったとも言える。<br /><br />GHQが示した憲法草案の第1条<br />「The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source」<br />で、&quot;symbol&quot;をどう日本語にするかで、翻訳チームはずいぶんと悩んだという。今でこそ、辞書を引けば象徴という訳語が出てくるが、それまで天皇を現人神としていた日本人にとって、天皇に対してsymbolをどういう日本語にするか、難しい面があったのは想像に難くない。結果的に白洲次郎主導で、「象徴」という日本語を採用した。<br /><br /><br />

    白洲次郎の連合国軍の日本占領時代のことについてはすでに記したとおりだが、日本国憲法と次郎の関わりについて書いておかねばなるまい。

    終戦後の重要なアイテムが新憲法制定問題だった。日本側は、松本憲法担当大臣を中心として明治憲法をベースに改定案を練っていた。だが、GHQからすると、その草案は日本を民主国家に生まれ変わらせるという観点からは不十分だと判断し、日本側の草案を拒否し、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を明確にしたGHQ案を受け入れるよう迫ってきた。このときのGHQ側の交渉相手が民生局長、ホイットニー准将だった。
    当時の日本側は認識できていなかったようだが、連合国の大半が天皇を戦犯として裁くこと、天皇制廃止に傾いていたが、マッカーサーは、日本国民統合のためには天皇を守り、天皇制を存続させることが必要と考えていたという。そのためにGHQ案を受け入れさせることを急いでいたようだ。
    結果的に日本国憲法の草案はGHQが作成し、日本政府は、ほぼその通りに翻訳して公布した。その翻訳の中心になったのが白州次郎だった。

    現代の改憲論者たちが憲法改正を訴えている根拠の一つが、日本国憲法はGHQに押し付けられたものだから、日本人自身が自ら作った憲法を持つべきだというものである。白洲次郎自身も、そのように考えていた。しかし、次郎は「GHQに押し付けられたものではあるが、その中身についてはすばらしい面もある」とも言っている。逆に言えば、当時の日本には、今日定着している民主国家としての日本を構想する能力がなかったとも言える。

    GHQが示した憲法草案の第1条
    「The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source」
    で、"symbol"をどう日本語にするかで、翻訳チームはずいぶんと悩んだという。今でこそ、辞書を引けば象徴という訳語が出てくるが、それまで天皇を現人神としていた日本人にとって、天皇に対してsymbolをどういう日本語にするか、難しい面があったのは想像に難くない。結果的に白洲次郎主導で、「象徴」という日本語を採用した。


  • ミュージアムを出て、庭を散策。竹林が風にそよぐ音が心地よい。<br /><br /><その後の白洲次郎1><br /> やがて、GHQの日本占領も、1951年のサンフランシスコ講和条約で終わり、名実ともに独立を回復する。講和条約調印式に、吉田茂に随行して次郎もサンフランシスコに出向いている。そのときの機内での次郎のいでたちはジーパンを穿き、尻ポケットにウィスキーの小瓶を入れていたという。次郎は日本人で最初にジーパンを穿いた男ということになっている。<br /> 調印式では、スタッフが作成した吉田茂の演説の草稿が英語で準備されていて、しかもGHQを褒めあげる文面が入っていた。それを知った次郎は激怒し、演説は日本語でやるべし、連合国と日本は対等な立場であることをはっきりさせるべしとして、急遽、原稿を作り直させたという。<br />常々「戦争には負けたが、戦勝国の奴隷になったわけではない」と言っていた次郎の面目躍如である。<br />

    ミュージアムを出て、庭を散策。竹林が風にそよぐ音が心地よい。

    <その後の白洲次郎1>
     やがて、GHQの日本占領も、1951年のサンフランシスコ講和条約で終わり、名実ともに独立を回復する。講和条約調印式に、吉田茂に随行して次郎もサンフランシスコに出向いている。そのときの機内での次郎のいでたちはジーパンを穿き、尻ポケットにウィスキーの小瓶を入れていたという。次郎は日本人で最初にジーパンを穿いた男ということになっている。
     調印式では、スタッフが作成した吉田茂の演説の草稿が英語で準備されていて、しかもGHQを褒めあげる文面が入っていた。それを知った次郎は激怒し、演説は日本語でやるべし、連合国と日本は対等な立場であることをはっきりさせるべしとして、急遽、原稿を作り直させたという。
    常々「戦争には負けたが、戦勝国の奴隷になったわけではない」と言っていた次郎の面目躍如である。

  • 竹林の中に石塔が置かれている。この中には、正子が収めた次郎の遺髪が眠っている。結婚後、互いに自分のやりたいことをやってきた夫婦だが、最愛の夫ゆえ、いつまでも傍にいてほしいという正子の愛情が感じられる。<br /><br /><その後の白洲次郎2><br />やがて、吉田茂が失脚したあと、本格的な政界入りを望む声があったようだが、次郎は政治の世界から離れ、実業界に戻っていく。1951年、電力会社「日本発送電」を9分割することに関わり、そのうちの一つ東北電力の会長におさまっている。<br />そのとき、経営理念として「安全重視」を強く打ち出している。<br />東日本大震災で東京電力福島第1原発が過酷な事故を引き起こしてしまったのに、東北電力の女川原発は無傷だったのは、次郎が打ち出した「安全重視」という経営理念が東北電力には今もひきつがれていたからだという見方もある。<br />

    竹林の中に石塔が置かれている。この中には、正子が収めた次郎の遺髪が眠っている。結婚後、互いに自分のやりたいことをやってきた夫婦だが、最愛の夫ゆえ、いつまでも傍にいてほしいという正子の愛情が感じられる。

    <その後の白洲次郎2>
    やがて、吉田茂が失脚したあと、本格的な政界入りを望む声があったようだが、次郎は政治の世界から離れ、実業界に戻っていく。1951年、電力会社「日本発送電」を9分割することに関わり、そのうちの一つ東北電力の会長におさまっている。
    そのとき、経営理念として「安全重視」を強く打ち出している。
    東日本大震災で東京電力福島第1原発が過酷な事故を引き起こしてしまったのに、東北電力の女川原発は無傷だったのは、次郎が打ち出した「安全重視」という経営理念が東北電力には今もひきつがれていたからだという見方もある。

  • 庭の一角に、ドクダミに埋もれてホタルブクロがひっそりと咲いていた。<br /><br /><晩年の白洲次郎><br />実業界からも引退した次郎は、趣味だったゴルフが昂じて名門「軽井沢ゴルフ倶楽部」の理事長についている。<br />この時期の次郎にもエピソードが残されている。<br />「軽井沢ゴルフ倶楽部」は歴代首相もプレーにやってくる名門中の名門。ある日、中曽根首相がSPを引き連れてやってきた。首相は警備のため、SPもコースに入れるように言ってきたが、次郎は「首相だろうが誰だろうが、倶楽部の規則によりプレーをしない人をコースに入れるわけにはいかない」と首相の要請をきっぱりと断っている。どんな立場の人に対しても、主張すべきは主張するという硬骨漢ぶりは終生変わらなかった。<br /> やむなくコースの外から双眼鏡をのぞきながら風見鶏と評されていた中曽根首相を見守っていたSP達を見て、次郎の一言。<br />「これが本当のバードウォッチングだな、ハハッ」<br /><br />

    庭の一角に、ドクダミに埋もれてホタルブクロがひっそりと咲いていた。

    <晩年の白洲次郎>
    実業界からも引退した次郎は、趣味だったゴルフが昂じて名門「軽井沢ゴルフ倶楽部」の理事長についている。
    この時期の次郎にもエピソードが残されている。
    「軽井沢ゴルフ倶楽部」は歴代首相もプレーにやってくる名門中の名門。ある日、中曽根首相がSPを引き連れてやってきた。首相は警備のため、SPもコースに入れるように言ってきたが、次郎は「首相だろうが誰だろうが、倶楽部の規則によりプレーをしない人をコースに入れるわけにはいかない」と首相の要請をきっぱりと断っている。どんな立場の人に対しても、主張すべきは主張するという硬骨漢ぶりは終生変わらなかった。
     やむなくコースの外から双眼鏡をのぞきながら風見鶏と評されていた中曽根首相を見守っていたSP達を見て、次郎の一言。
    「これが本当のバードウォッチングだな、ハハッ」

  • 住宅地のど真ん中に、こんな緑豊かな自然がそのまま残っているのは奇跡的にも思える。<br /><br /><br />次郎は終生、庶民には考えられないような豪奢な生活をしていた。家事一切はメイドに任せ、能、骨とう品収集に熱を上げていた正子。その経済的基盤は、次郎の実業界での仕事以外に、吉田茂の懐刀として権力中枢に近づき、それを利用してイギリス留学時代に築いた人脈から戦後日本のイギリス資本の日本への投資に手を貸し、高額のコミッションを手にするという政商もどきの行動もしていたようである。そんなことから、白洲次郎を「日本のラスプーチン」と評する向きもいる。

    住宅地のど真ん中に、こんな緑豊かな自然がそのまま残っているのは奇跡的にも思える。


    次郎は終生、庶民には考えられないような豪奢な生活をしていた。家事一切はメイドに任せ、能、骨とう品収集に熱を上げていた正子。その経済的基盤は、次郎の実業界での仕事以外に、吉田茂の懐刀として権力中枢に近づき、それを利用してイギリス留学時代に築いた人脈から戦後日本のイギリス資本の日本への投資に手を貸し、高額のコミッションを手にするという政商もどきの行動もしていたようである。そんなことから、白洲次郎を「日本のラスプーチン」と評する向きもいる。

  •  武相荘を訪れ、この旅行記をしたためるにあたって、白洲次郎のことを少し調べてみた。<br /> だが、調べれば調べるほど、白洲次郎の人物像が定まらなくなってきた。ポンと膝を打って共感できる考えもある一方、庶民感情から許せないと思うようなこともやっている。所詮、一小市民である自分には理解できない、清濁併せ飲む大人物ということなのかもしれない。<br /> ただ、かっこいい男であることは確かである。インターネットのあるサイトで、「男が憧れる男」人気投票で、かの坂本龍馬を抑えて白洲次郎がダントツのトップだったということもうなづけるのである。

     武相荘を訪れ、この旅行記をしたためるにあたって、白洲次郎のことを少し調べてみた。
     だが、調べれば調べるほど、白洲次郎の人物像が定まらなくなってきた。ポンと膝を打って共感できる考えもある一方、庶民感情から許せないと思うようなこともやっている。所詮、一小市民である自分には理解できない、清濁併せ飲む大人物ということなのかもしれない。
     ただ、かっこいい男であることは確かである。インターネットのあるサイトで、「男が憧れる男」人気投票で、かの坂本龍馬を抑えて白洲次郎がダントツのトップだったということもうなづけるのである。

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