2016/05/03 - 2016/05/06
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mikoyan358さん
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2016年5月3日~6日に、東北太平洋岸4県(青森・岩手・宮城・福島)をレンタカーで旅行しました。
震災前後にも行く機会のあった地域に加え、名前だけは知っていても未訪問だった地域も多数。
うまいものをたらふく食べて地域貢献しつつ、復興の状況が実際にはどのようなものなのか、そしてその教訓から学ぶべきことを探すことを主眼に置いた旅でした。
※震災の遺構なども、現状をありのままに伝える意味で掲載いたします
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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前の晩に美味いものを食べ過ぎて、横になれずに寝不足のまま朝を迎えました(笑)。
宿泊したこのダイワロイネットホテルは朝食がとても評判がよかったので、予約したプランには入っていなかったもののチェックイン時に別途つけていました。
とても豊富なバイキングとのことですが、まだすいていない腹に入るかどうか...
この日はとても混むとのことで普段より30分早い6時オープンでしたが、6時ジャストに行ってみるともうすでに数名の先客がw
その噂のバイキングは、確かにビジネスホテルの朝食としては破格に豪華なものでした(^^)
きれいに盛り付けられた升入りのお寿司が3種類、それと競うように並ぶマグロ・サーモン・イカなどの新鮮なお刺身。
それだけではなく、八戸せんべい汁や十和田バラ焼きといった、せっかく来たのだから食べてみたいと思っていた青森B級グルメも勢揃いしています。
普通の朝食バイキングなら主役級のエビチリとかが完全に脇役になるクオリティとボリューム。
これで1000円ちょっとというリーズナブルさも嬉しいところ(^^)
昨晩のを消化しきれていない状態でのこのボリュームには、心底完敗で全種類制覇など夢のまた夢でした。ダイワロイネットホテル八戸 宿・ホテル
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大満足のまま、朝から臨月を迎えたような(笑)腹を抱え、車に乗り込んで今日の旅をスタートさせます。
この日は、久慈→宮古→釜石と三陸海岸沿いを通るルート。
今回の旅で学ぶべき「震災を、実際の場所に身を置いて体感する」というテーマは、走りはじめてほどなく見えてきたこのような津波の痕跡を示す看板を見ることでさっそく身に染みてきます。 -
八戸から、青森・岩手県境を越え、きのう食べた絶品のうにの産地である種市海岸(実際にある名前か!だから種市先輩なのかw)を過ぎ1時間と少し走ると、久慈の街へとたどり着きました。
駅前広場へ入って、まず見えてきたのがこちらの古びた建物。
「あまちゃん」では観光協会が入っていた「駅前デパート」です。
ロケ地効果でファンにとっては聖地と化していますが、老朽化のためどうやら取り壊しになるようですね。
確かに、駅前にこれだけ人の気配がない建物があることで、駅前の寂しさ側際立っている気はしますが...久慈駅 駅
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実際にロケにも使われた看板。
次に来た時にはもうこの光景はないんでしょうかね。久慈駅 駅
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久慈駅は、JRの八戸線と、三陸鉄道の北リアス線がそれぞれ終着駅同士でつながっている場所です。
両方とも上り列車しかない、ということはもしかしたら日本で一番低いところにある駅かもしれませんね(笑)。
こちらが、JRの駅舎のそばに並んでいる、三陸鉄道の久慈駅。
もちろん「あまちゃん」のあの駅の外観としても使われた場所です。久慈駅 駅
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入口。だいぶ色あせたポスターが、年月の移り変わりを感じさせます。
このポスター、あとで調べたら岩手県でしか見られないものらしいです。
確かに前回3年前に岩手に来た時に目にして以来かな。久慈駅 駅
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ドラマと構造はやや異なりますが、窓口の雰囲気とかはそっくり!
ちゃんと実際の駅を見てセットを作ったんだなというのがよくわかります。久慈駅 駅
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ドラマのほうでは喫茶「リアス」がありましたが、実際の駅にあるのは「リアス亭」というそばとお弁当のお店。
ここの「うに弁当」はすさまじい人気で、いつも早朝には売り切れてしまうそうです。
その評判は聞いていましたが、さすがに10時頃だとないだろうな...と思っていたら、案の定売り切れてました。
まあ、仮にあったとしても朝食べすぎたので入らなかったと思いますが(笑)。久慈駅 駅
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列車はだいたい1〜2時間に一本、という感じ。
ちょうど我々が行った時には、10時半の列車を待つ人たちで混雑していました。
大半は地元の人でしたが、中には海外からの観光客の姿も。
外国から来てこの辺まで来るというのは、かなりの日本リピーターではないでしょうか。久慈駅 駅
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駅構内には、当然ながら「あまちゃん」に関する展示がたくさん。
どこを見渡しても能年玲奈がいます(笑)。久慈駅 駅
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これは、駅長の大吉さんと副駅長!
実際にこの駅の名誉駅長・副駅長に就任したようです。久慈駅 駅
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潮騒のメモリーズの衣装が置いてあり、着用自由でした。
さすがにこれを着るとイタいので(笑)、横にあった駅長コスで我慢w久慈駅 駅
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とりあえず東京のところに1枚貼っておきました。
久慈駅 駅
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全線復旧から2年あまり。
当時はかなり話題になりましたが、その後のドキュメンタリーなどではお客さんも減って...というのを何度も見かけました。
車で来て、列車に乗ることもなく去ってしまうのが申し訳なくも感じられます。
なので、かわりに駅にあったお土産をがっつり購入(笑)。久慈駅 駅
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「不思議の国の北リアス」という文句が妙に印象に残りますw
もう少し歳とって余裕が出来たら、列車でこういう場所を巡りたいですね。久慈駅 駅
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街なかを車で通っていて驚きましたが、かなりの店のシャッターに「あまちゃん」関連のイラストが描かれていたこと。
ドラマの雰囲気を求めてやってきた人を、街をあげて楽しませようという心意気が伝わってきます。 -
想定よりも長居してしまったので、ここからは先を急ぎます。
リアスの真っただ中を通る国道45号らしく、少し上り坂になって海から離れ、またしばらくして下りながら入り江へと近づく、という景色が何度も繰り返されます。
その「入り江」の部分が例外なく更地になってしまっている様子が走り進めるたびに次々と目に飛び込んでくるのですが... -
水際はともかくとして、走っている限りは海の気配が感じられない場所にも「ここから浸水地域」の看板が出ていて、その規模を否応なしに体感。
覚悟はしていましたが、ここまでとは...
そんな光景を繰り返し見ているうちに、国道徐々に海から離れていきました。
次の目的地へ向け、途中から山の中を通る道へと折れて先を急ぎます。 -
この後に入れていた予定の関係で、11時半までに着けなければちょっと見られないかな...と思っていた観光地がありましたが、頑張ったおかげで(笑)久慈からほぼ1時間ジャストで到着することが出来ました。
ここでの持ち時間は1時間。
ちょっと急ぎ目に歩いてチケットを購入します。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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こちらは、山口県の秋芳洞、高知県の龍河洞と並ぶ「日本三大鍾乳洞」として有名な「龍泉洞」。
この日はゴールデンウィーク真っただ中という事もあって混雑しており、出口まで一方通行になります、との案内が出ていました。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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龍泉洞は、何よりその内部の水の綺麗さが有名。
入るなりまったく列が進まず、これは出てくるまでにいったいどのくらいかかるんだろう?と思っていましたが、単に入ってすぐのところにこの淵があって写真を撮る人が列をなしていただけでした(笑)。
この青、実際に見た様子そのままに撮れています。
こんな色どうやったら天然に出るんだろう??龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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洞窟内部は非常によく整備されていて、暗いながらも足元を気にする必要はほとんどありません。
進むたびにどんどん通路が狭くなっていきます。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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龍泉洞が注目を集める大きな要因の一つが、その形状とそれを最大限に美しく見せるライトアップであることは間違いないでしょう。
この辺はまだ普通ですが、奥に行くと万華鏡の中にいるような状態になります(笑)。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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足元に噴き出してくる水。
のぞき込んでみると、恐ろしいほど深い所まで見通せます。
地中に潜りこんだ水が地下で湧き出すまでに丁寧にろ過され、このような澄んだ状態を作り出しているんだそうです。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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恐ろしく長い年月をかけて創り出された自然の造形も楽しいです。
これはどう見ても亀(笑)。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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これは、かぶせてある布の効果もありますが、最初からお地蔵さんとして作られた以外の想像が浮かびません。
龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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左上のほうの、一度言われてしまうともう獅子以外に見えなくなってしまいます。
何万年という洞窟の歴史の中で訪れた一瞬の奇跡。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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内部の構造よりも地底湖に特徴があるだけあって、石筍は他の名だたる鍾乳洞で見たものよりは幾分小ぶり。
でもこれでも数百年かかってるんですよね。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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洞内は、一部狭いところはありますが、こんな風に広間になっているような個所もいくつかあります。
ここのライトアップが凄くて、レインボーカラーに次々と変化。
冒頭に述べた「万華鏡の中にいる」とはまさにこの辺のことで、地球上という雰囲気が全然ありません(笑)。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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ちょっと待っているとこんな色に変化。
WEBなどにたくさんあがっているこうした写真を見て「どんなところなんだろう?」と思って訪れる方も多いと思いますが、きっと期待は裏切りません。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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そんなエリアを通り過ぎると、いよいよ一番奥の地底湖エリアへ。
ここからは急に天井高も低くなり、狭い通路に行列が出来て流れが悪くなります。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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ここには第一から第三まで3つの地底湖があります。
まず最初、第一地底湖。
水深35メートルというのは十分凄いのですが、この後がさらに強烈なので完全な前座扱い(笑)。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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かなり真っ暗な中での撮影なのでその深さがわかりにくいかもしれませんが、あのライトのはるか向こう側に湖底が見えます。
何なんだこの透明度!龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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続いては第二地底湖。
龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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さっきよりさらに深くなり、湖底らしきものは見えますがややあやふや。
でも、そこまでに至る何十メートルかはしっかり見渡せるんだから、凄いもんです。
あのライト、誰がどうやって設置したんだろう??龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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そして第三地底湖。
深さ、なんと98メートル!!
ジャック・マイヨールでもぎりぎり到達できるかどうかという、驚異的な深さです。
考えるだけで怖いくらい。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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人の群がり方も他の場所と段違いで、いい観賞スポットを確保するのにも一苦労。
湖底は、当然ながら視認不可能。
遠すぎて、逆に凄さがよくわからなくなってきました(笑)。
しかしながら、地底へと伸びる垂直の穴の外壁にある凸凹がかなり先まで見渡せます。
写真では写りきれませんが、実際に見るとまるでハッブル宇宙望遠鏡で撮った深淵の宇宙の大星雲を見ているかのよう。
まだ訪問されてない方はこれは必見です。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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気になっていた所要時間も、ゆっくり歩いて(途中渋滞したところもありながら)40分ほどでした。
だったらもうちょっとゆっくりすればよかった(笑)。
最後は、こんな急な階段を登って、出口へと至ります。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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出口からは、7〜8分かけてゆっくりと戻ります。
一帯はテキ屋がたくさん出て、こんな木登りイベントなんかもありすっかり家族連れの憩いの場になっていました。
何か昼ごはん代わりに食べていこうかと思いましたが、今一つ地元感のないものばかりだったので、ソフトクリームだけいただいて出発。龍泉新洞科学館 自然・景勝地
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だいぶ内陸まで入ってきましたので、ここから国道455号を真東へ進み、そこからまた45号に戻って南下を続けます。
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14時からの予定に間に合うように進んでいましたが、あまりに腹が減ったので、宮古市田老地区に入る手前のローソンでおにぎりやサンドイッチを買って急ぎ腹ごしらえ。
ここは田老の集落に入る入口の下り坂のところにありますが、目の前には1933年(昭和8年)の「三陸大津波」の津波浸水域の表示がありました。
※ちなみに、東日本大震災の浸水域の看板は、ここよりずっと手前にありました... -
カーナビによれば、田老の中心街を確かに走っていて、細かい路地もたくさん地図に描かれていますが、特に海側に見えるのは更地と盛土ばかり。
あるはずのない場所に野球場もできています。
この日14時に田老を目指していたのは、この地区で開催されている「学ぶ防災ガイド」に参加するためでした。
世界一ともうたわれた防潮堤を持っていながら、東日本大震災の前に多くの犠牲者を出してしまった田老地区。
この経験を幅広く後世に伝え防災に役立てていきたい、という地元の方の強い想いから実現したもので、実際に震災そして津波を経験された方をガイドに、田老地区の被害地域を見学する、というツアーです。 -
この4月から始まったというこのガイドツアー。
多くの人が参加していると聞きつつも、実際に現地でどのくらい移動できるかが読めなかったので、予約できなかったら仕方ないと思いつつ現地で距離感がつかめた前日に電話してみましたが、思いのほかすんなりと予約することが出来ました。
集合場所の田老駅まで向かうと、ガイドの方が近寄ってきてご挨拶。
我々以外に年配のご夫婦がもう一組。
この4人で、実際に地元で被災されたというガイドのHさんに連れられて見学していきます。田老駅 駅
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まずは、防潮堤の見学のため、Hさんの車に連なって移動します。
田老の集落には3つの防潮堤があり、画面の左手の水門のあたりまで第3防潮堤が伸び、そのそばには防潮林が連なっていて本来なら正面左手に見えていたはずなのですが、現在ではひとつもなくなっています。
左側にも工場があったようなのですが、現在では太陽光発電の大規模なパネルエリアに。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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右側に見えているエリアには、かつて田老の野球場がありました。
第3防潮堤の内側にあった施設ですが...
いまその場所には、生コンクリートのプラントが建っています。
※帰ってからGoogleマップで空撮映像を見ましたが、生コンプラントの敷地が野球場の形をしています。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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激しい津波の影響で、道がかなり荒れています。
道路の幅をいっぱいに使って穴をよけながら進行。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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慎重に車を5分ほど進めていくと、右側に海、そして左側に防潮堤が見えてきました。
ここは、3つある中で唯一現存している「第1防潮堤」。
昭和8年の三陸大津波を教訓として、翌年昭和9年から20年以上の歳月をかけて築かれた、田老の街にある最も古い防潮堤です。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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震災後に再整備されたであろう階段を登ります。
高さは10メートル。
確かに、これだけ堅固なつくりであれば、津波など来ないとつい思ってしまいます。
ちなみにこの防潮堤がいかに堅固なつくりかというエピソードがひとつ。
この向こう側には(後ほど画像で紹介する)野球場があって試合が行なわれており、鳴り物の応援とかも入っていたのですが、この階段を登りきるまではかなり遠くで何かが鳴ってるな、という程度しか聞こえませんでした。
それが、 -
こちらが、第1防潮堤の上からの景色。
登ったとたん、さっきはかなり小さかった野球の応援の音が大音響で聞こえるようになりました。
いかにこれが厚い「壁」になっていたか、ということをこの一件から体感できます。
「防潮堤の街」という代名詞もついていた田老の防潮堤は数多くの津波被害を食い止めた、と昔から聞いていました。
ただ、Hさんの説明によって、その「津波を食い止めた」歴史の代表格として語られ私も総記憶していた1960年(昭和35年)のチリ地震津波(太平洋を横断して三陸沿岸にも数メートルの波が!)が、実際には防潮堤までたどり着かなかったことも知りました。
この防潮堤の安心感がそんな伝説を作り上げたのでしょうが、それが今回の震災ではかえって過信につながった、というHさんの説明には、心にズシリと来るものがあります。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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こちらは、先ほど見た水門の方へ伸びていた第3防潮堤。
いま私が立っているのは、ちょうどXの字型に広がっていた防潮堤のちょうど交差点あたり。
最初に作られた第1防潮堤は、海側に突き出したベロの形のように守りを固めていました。
この形状は、防潮堤で受け止めた波を左右に逃がし、その間に防潮堤の内部の人々が避難するという、近年注目されている「減災」の考え方に基づいた合理的なつくりになっていました。
当初はそれで問題なかったのですが、やがて人口が増えてきて宅地の需要が高まったため、その「波を逃がす」方向にあった土地が利用され、今度はそこを守るために第2・第3の防潮堤が築かれて、最終的にX字型になりました。
それだけ守りが堅かったはずの田老の街ですが、結果的に津波は3つの防潮堤をすべて、言い方は悪いかもしれませんが「軽々と」超えて行ってしまいました。
この防潮堤は津波でのダメージが激しかったこともあり、最近になって取り壊しが始まっていてかつての面影はありません。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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こちらは、北東側の第2防潮堤を見たところ。
すっかり、姿が消えていますね。
一定間隔おきに残っている防水門の入口の部分を残して、すべて津波で流されてしまったそうです。
津波は、湾に入ってきたあと先ほどの水門にぶつかり、そして跳ね返った波と第2防潮堤へまっすぐ来た波とがぶつかって渦ができ、強烈な力で堤防ごと巻き込みながら街へと入ってきました。
コンクリートで築かれていたはずなのに、その姿が確認できないほどに流されるとは...
その左奥に見えているのが「たろう観光ホテル」。
本来はホテルから防潮堤の間にもたくさんの家が建っていましたが、堤防すら流してしまう波の前ではなすすべがありません。
残念なことに、この第2防潮堤が流されたために、引き波で全て沖へと流されてしまい、現在でもこのエリアにいた何十名もの人々が行方不明になっているそうです。
本来波を逃がすはずだった場所ですから、いったん堤防がなくなってしまうと完全に無防備ですね。。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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第1防潮堤の広がったU字型の内側には、かつて碁盤の目状に道路が走り、田老の中心街がありました。
今その場所には、宮古市長の肝いりで作られたという新しい野球場があります。
地元の人の中には、野球場ではなくもっと役に立つものを、という声もあるようですが...
つい先日落成式があったそうですが、本来はそこに楽天出身の岩隈投手が来るはずだったところ、工事が遅れたためにMLBのシーズンが開幕して日程調整ができなくなり、代わりに「たけし軍団」と「ゴールデンゴールズ」が来たそうです。
Hさんの残念そうな(笑)説明ぶりに思わず笑いが出ました。
ちょうどその説明をしている最中、目の前で行なわれていた少年野球の試合が終わってゲームセットのサイレンが鳴ったのですが、それにHさんが思わず身をすくめていました。
いわく「あの音は、震災の時を思い出して本当に嫌です」と。。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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その野球場の向こうに見えているのが、田老第一中学校。
右奥の建物が校舎、その左側の青い屋根の建物が体育館です。
Hさんが、震災当時の様子を詳しく教えてくれます。
当日地震発生後、大津波警報が発令され、生徒たちは一度グラウンドに集合になりました。
(ちょうど、翌日の卒業式のリハーサルが行なわれていて、数分で全員が集合できたそうです)
そのままグラウンドで待機する予定だったそうです。
防潮堤が高いのでグラウンドから海は見えない状態。
しかし、勤務経験がとても長い地元の用務員さんが、防潮堤の向こうに「見てはいけないもの」(=湾の入口にぶつかった波が立てた、防潮堤の高さを越えてグラウンドから見えてしまうような高いしぶき)を見て、とっさに「山に逃げろ!」と叫んだそうです。
生徒と引率の先生たちは、左側にある丘へと急行。
避難路自体も設けられていましたが、とっさの判断で避難路にこだわらず多くの生徒が斜面を駆け上ったそうです。
一緒に避難していたお年寄りや近くの保育園児たちは、生徒たちが抱えたりしながら。
グラウンドに津波が到達し、流されてきた家が数軒そこに留まるまで、わずか数分の出来事でした。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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生徒たちはその後、丘の反対側にあり、この右側に見える丸い屋根の地区の事務所(かつての田老町役場)や、その左側に見えるお寺へ逃げ込んで一夜を明かしたそうです。
結果として、当日学校にいた生徒たちは全員が助かりました。
防災訓練を頻繁に行なっていたという経験、そしてとっさの正しい判断がこの結果を生んだ事は間違いないでしょう。
子どもたちがこうして避難した一方で、なぜ街の大人たちにここまで被害が広がったのか。
当日、地震の後に大津波警報が発令されたのですが、当初の予測では波の高さは「3メートル」。
しかも折悪く、地震の影響で停電が発生し、町内放送で大津波警報発令の事実が伝えられたのは最初の1回だけだったそうです。
実際にはかなりの人が避難をしていたのですが、とはいっても体の不自由なご老人やその親族の方など、動きづらいという方も多かったはず。
3メートルの高さであれば防潮堤が防ぐ。
そんな思いもあり、家にとどまった人もいました。
せめて、津波の情報がもう少しだけでも正しく事前に伝われば、被害がより抑えられたのでは、という気がします。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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そういった事態を繰り返さないようにということか、街のあらゆる場所にソーラーパワーを用いた街灯などが設置されています。
学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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防潮堤での説明が終わり、再びHさんの車に付いて走ります。
いま門だけ残っているこの場所の両脇に高さ10メートルの防潮堤があった、と言われてもにわかには信じられません。学ぶ防災ガイド 名所・史跡
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第一防潮堤から3分ほどで到着したこちらが「たろう観光ホテル」。
第2防潮堤の内側にあった建物の中で数少ない、辛うじて以前の姿を留めている建物です。
震災と津波の脅威を物語る建物として、地元の方を含めた激しい議論があったものの、最終的には「この事実を未来に伝える」ということを主眼に「震災遺構」として保存されることになりました。
復興庁の資金援助を得て保存された、最初の建物だそうです。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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写真にもありますが、このホテルは1986年のオープン後、田老を代表する宿として営業を続けてきました。
あの日あの時、地震では特に大きな被害はありませんでしたが、その後の津波で4階(!)まで浸水しています。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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このホテルの社長さんは、以前から「防潮堤のある街がどのように津波から守られているか」を海外から見学に訪れた来賓に紹介するため、津波警報などが出るたびに自身のホテルから映像を撮影していたそうです。
あの日も、社長さんはカメラを回していましたが、結果としてそれはこの田老で起きた大惨事をすべて克明に記した資料として、現在も受け継がれています。
この高台にある建物は、社長さんが震災後に新たに建設して開業したホテル。
場所は変わりましたが、田老の街を自らの手で復興させようという強い意志を感じます。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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こちらのホテルの遺構は、復興庁の支援のもとに保存工事などが行なわれ、今年の4月に公開されたばかり。
それとともに、我々が今参加している防災ツアーも始まりました。
敷地はフェンスで囲われていて、その周辺からの見学は自由。
ただし、中に入れるのは事前にこのツアーに申し込んだ人だけになっています。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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この建物の存在を知ったのは、今年のちょうど3月11日にNHKで放映されていた震災関連の番組。
内容は、俳優の伊勢谷友介さんがこのホテルの遺構を紹介し、そして社長が撮ったという当時の映像を見る、というものでした。
その際にも紹介されていた、1階の壁がえぐり取られた部分。
普通に壁やエントランス、そしてフロントなどがあったはずなのですが、どの場所に何が、という想像すらつかない状況です。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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辛うじてわかるのは、階段とエレベーターがあった場所だけ。
そのエレベーターも完全に海側からの圧力に押しつぶされています。
ガイドのHさんは、毎回ここを6階まで上がるのが大変らしく「保存するのならばエレベーターをつけて欲しかった」と笑いながら話していました。
ただ、ここを自力で登ることが、津波がどの高さまでやってきたのかを身をもって理解できるという意味では、ツアーとしての趣旨に沿っているのではないかと思います。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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当時、社長がいたのが、建物の一番端っこにある6階のこちらの部屋。
社長自体も、ひとまず(お客さんは当時いなかったそうなので)従業員を高台に避難させてから、ホテルに戻ってこの部屋で映像を撮り始めたそうですが、実際に波が押し寄せている間は覚悟を決めていたそうです。
そりゃ、2つ下のフロアまで水が来たら、そのままホテルごと流されるかも、と思いますよね...
幸いにして社長の指示によりこのホテルで亡くなった方が誰もいなかったことが、震災遺構としての保存につながったのだと思います。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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外階段を昇り、5階からは内階段を使って、6階へと上がってきました。
一見すると、いまでも普通に使われているホテルの一角のように見えます。
映像が撮影された603号室は一番奥。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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603号室から、下を見下ろします。
そして、この防災ツアーのハイライトである、社長が撮った映像を、この部屋で見ることになります。
「実際に映像が撮られたのと同じ場所から見て、その規模や恐怖を感じ今後への糧としてもらいたい」という社長の意向により、この映像はこのツアーでこの部屋でだけ見ることが出来るようになっています。
※別の番組で、おそらく社長が撮った映像と同じものの冒頭だけ使われているのは見ましたが「その後」は入っていませんでした
実際に見た映像では...
まず、この写真と同じアングルに、たくさんの家が並んでいるのが見えています。
そして、すでに大津波警報が発令されている中、家から出てくる人、街の中を普通に移動している車、そして逃げ遅れた人がいないかを見回る消防車の姿など「人の気配」がまだたくさん感じられます。
その街並みが、湾の入口で巨大なしぶきを上げながら入ってきて、あっという間に防潮堤を越えてきた津波により、わずか数秒で姿を消してしまいます...
私が書けるのは、せいぜいこのくらいの事実。
ただ映像を見るだけでなく、自らがいる場所のスケール感にあわせて、その出来事を追体験する。
言いようのない無力感、そして寒気だけが、体を駆け抜けていきました。
全ての方にお勧めできるものではありませんが、特に津波を実際に体験していない方には、ぜひ田老のこの場所を訪れ「想定外の災害」というものがどのような規模でやってくるのかを体感して頂きたいと、心から思います。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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ちなみに館内には、我々が目にした6階だけでも、このような張り紙が複数見られました。
ここに貼ってあるという事は、当然ながらあの震災の前からここにあったということですね。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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社長さんは単に資料として映像を残すだけではなく、津波の被害がいかに恐ろしいかを認識し、このような貼り紙で注意を喚起しつつ、避難の手順なども入念に準備して訓練していたそうです。
その意識があったからこそ、当日このホテルにいた従業員は、すべて事前に高台に避難していて無事だったんですね。
社長さんの極めて高い防災意識が伝わってきます。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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映像にもう言葉が何も出なくなり、ただ「恐ろしい」という感情に支配されながら、階段を下りてHさんのガイドに御礼を述べました。
先ほど見た映像で、確かに家が建ち並んでいた場所。
ここを歩いていたお婆さんは、いまだ行方不明だそうです...
本来は一度高台に避難していたものの、寒さに耐えかねて上着を取りに戻った際に津波がやってきたとのこと。
家で災害にあった際にその辺をいきなり考えるのは難しいと思いますが、こうして話を聞いた上で、事前に心の準備をしておくことは十分に可能。
様々な場面を想定して事前に心の避難訓練をしておくことの必要性の高さを、この映像から強く思い知りました。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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地震の影響で2メートル以上移動、そして30センチ降下したという水準点。
これを見るだけでも十分に凄い変化ではあるんですが、周囲の景色が映像と違い過ぎていたことのショックがあまりに大きすぎて、何も頭に入ってきません。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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高台には、新しく移転先の住宅が建ち並び始めています。
これだけ高ければ、Hさんの言葉を借りれば「千年に一度の津波」が来ても大丈夫でしょう。
不便には違いないのですが、かつての街の地域はすでに居住禁止区域に設定されていますので、致し方ない部分も多々あります。震災遺構 たろう観光ホテル 名所・史跡
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田老の海沿いの集落で、津波の猛威に負けることなく残った建物が2つあります。
1つが先ほどのたろう観光ホテル、そしてもう一つがこの製氷倉庫。
こちらの方が圧倒的に水辺には近いものの、湾に対して脇の方にあったために津波の直進を逃れたのが大きかったのでしょう。
何やら表示がついていますが... -
一番下が、昭和8年の三陸大津波。
それでも10メートル。
その上、3つあるうちの真ん中が、明治29年(1896年)の明治三陸地震の津波。
15メートルの津波が押し寄せたこの時には、田老で1800人以上の犠牲者が出たそうです。
そして、一番上が東日本大震災時。
17.3メートルという高さは、もうはるか彼方に感じられます。
これだけの津波が実際に押し寄せる場所がある。
このことを体感できただけでも、私にとっては貴重な財産になりました。
こんな津波を前に、逃げる際に残された時間はそれほど多くない。
そうなったときに「いのちだいじに」と頭をちゃんと切り替えられる、冷静な判断力を持てるように努力しなければなりません。。 -
再び第1防潮堤へと戻り、周辺の音に耳を傾けます。
海からはかなり距離があるので、潮の音さえ聞こえません。
聞こえるのは、我々の回のあとも引き続き行なわれている防災ツアーの説明の声と、散歩する犬の足音だけ。 -
堤防の外側は、水産業の仮設の施設が建ち並んでいます。
人が住めない以上、こうするしか方法がありませんね。。 -
中央のビニールシートがある部分。
ちょっとわかりにくいかもしれませんが、防潮堤側に少し下っているのがわかりますでしょうか。
防潮堤の内側はかなり土が盛られており、先ほど外側から見た水門はかなり埋もれてしまってもはや開けることができないそうです。 -
今でも、この田老の湾の入口方面を写した写真を見ると、この写真の上3分の1くらいの高さまで達した第1波の怒れるようなしぶきを忘れることができません。
先ほどのガイドのHさんも、地震発生時には宮古市方面の安全な場所にいたそうですが、その後お子さんが無事かどうかを確認しに家に戻り、危うく津波の直撃を受けるところだったそうです。
災害があった時には、危険な場所に戻らない。
そして、戻らなくてよいようにするためには、各個人がお互いを信頼しながら自己の判断で避難する。
この地方に伝わる「津波てんでんこ」という言葉の説明をしっかりと受け、その内容を理解して自分の中に落とし込みます。
ただてんでんばらばらに逃げる、という意味ではなく、そうした事前の取り決めや「自分自身が責任もって行動する」という意味合いをも含んだ言葉だという事を、改めて学びました。
最後に手を合わせて、田老の街を後にしました。田老川 自然・景勝地
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ここからは特に被害の激しい街が続いていきます。
震災の映像でも目にした宮古の市街。
海に近い場所は工事中だらけでしたが、その中で道の駅が元気に営業していました。道の駅 みなとオアシスみやこ (シートピアなあど) 道の駅
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目を脇に移すと、ここにもこれだけの高さの水がやってきたことに驚かされるのですが...
道の駅 みなとオアシスみやこ (シートピアなあど) 道の駅
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宿の予約の時間が迫っていたので、ここからは目的地に向けてひたすら移動。
ここも被害の大きかった山田の街を通り抜けます。 -
ところどころに出来ている三陸自動車道。
まだつながっておらず、無料区間として通行可能です。
普段はこうした対面通行の高速道路の必要性について懐疑的な見方をしていますが、この場所に関しては「海沿いの道が被害を受けたときの物流の大事な柱」として、存在価値は非常に高いように思います。 -
時間は17時ごろ。だいぶ陽も陰ってきました。
見えてきたのは、大槌の街。
津波の被害としては最大級の場所ですが、こうして見えてきた街並みに目立つ建物がほとんどないのを実際に目にすると、私のようなテレビを通じて情報を仕入れた人間にはこの街が経験した事のほんの10%も伝わっていないことがよくわかります。 -
そして、大槌の街と同じ湾に面している、釜石市の「鵜住居(うのすまい)」地区。
ここも、大きな被害を受けた場所でした。
しかも、街の防災センターに避難していた200人以上の人々が津波の直撃を受け、人口に比例した犠牲者の多さが「釜石の悲劇」とも呼ばれた場所。
今は、保存かどうかで議論の的になっていた防災センターも解体され、何一つ残っていない集落の盛土だけが目に飛び込んでくる変化です。 -
そこから、海沿いの道を進みます。
カーナビで宿の場所は設定していましたが、到着がちょっと遅れそうだったので宿に電話したところ「カーナビで指示されたルートだと来られないので近づいたら電話してください」と言われました。
電話で教えてもらった道を通ることで特に苦も無く目的の道へと入れたのですが、確かに「カーナビが指示していた道」はすでに存在していませんでした。。 -
今日泊まる宿は、こちらの「宝来館」。
鵜住居地区の海辺にあり、お料理が自慢で宿泊者の口コミ評価も非常に高い宿です。
車で駐車場に入ると、女将さんが目ざとく我々を見つけて近寄ってきてくれました。浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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予約したのが遅かったので海辺の部屋は埋まっていましたが、山側の角部屋だったので部屋から海の様子も見渡せます。
古い建物のようですが、内部はしっかりとリフォームされていてとても清潔。
このベッドもかなり寝心地良く、この日の夜は爆睡してしまいました(笑)。浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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着いてまず、目の前の浜辺を散策してみます。
大槌湾に面したこの「根浜」は、かつては2キロ近くも美しい砂浜が広がる場所で、海水浴の名所でもありました。
震災後の津波はここも直撃し、その砂浜をすべて消し去ってしまいました。浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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今は、砂浜の部分にはデッキが整備中で、立ち入り禁止になっています。
この浜辺のすぐ背後にある宝来館も、津波で2階まで浸水したそう。
(この辺は翌日詳しく述べます)浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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根浜から、この先に伸びる箱崎半島へと向かう方向を望みます。
ここも、小さな集落だったはずですが、今は盛土と高台の民宿だけが目立つようになっています。
個人的には特に、知り合いがここの地区の出身だっただけに、この見通しの良さに極めて複雑な感情を覚えました。 -
宿から湾の奥側、鵜住居の集落の中心方向を望む場所へ移動。
左奥には、かつてこの地域の子どもたちが通う小学校・中学校がありましたが津波で被災し、現在は取り壊されています。
盛土が見えるかと思いますが、この学校があった場所には現在、2019年のラグビーワールドカップで使用するスタジアムが建設中。
まだまだ完成は先のようですが、あと3年経つとここに歓声が響き渡るのでしょうか。。 -
宿へ戻り、温泉ではないものの眺めのよい露天風呂で汗を流し、待望の夕食へ。
料理自慢の宿だけあり、先付から本当にうまい!浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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せっかくなのでという事で頼んだ地酒をちびちびと飲みながら、料理の到着を待ちます。
浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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濃厚なスープがやみつきになる鍋物。
味が染みたホタテ、そしてホタテのエキスを吸ったスープまで、本来ついてなかったレンゲまで借りて完食(笑)。浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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そして、地元の素材にこだわったというお刺身。
豪勢にアワビが2つも乗っかっていて、信じがたいボリュームと豪華さ(^^)浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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新鮮さと濃厚さが一見して伝わる、黒毛和牛の陶板焼き。
正直焼くのがもったいないくらいです(笑)。
もうこれをご飯に乗っけて食べた日には...浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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料理自慢の名に恥じない素晴らしい逸品が並ぶ、忘れがたい夕食でした。
食事の後は、宿のロビーで行なわれていた、震災で実際にお兄様を亡くされたという方が釜石やその周辺の震災を語りづくべく始めたという、相撲甚句のコンサートに参加しました。
学校に訪れた津波の脅威とそこから逃れた子どもたちの姿など、私が目にすることのなかった釜石の姿が、歌を聴いているうちに脳裏に再生されていきます。
「震災を語り継ぐ義務が私たちにあると思っています」という女将さんの言葉の通り、この日は最後のこの甚句まで含めて「あの日、あの時にこの地の人々が体験し感じた事」を十分に受け取り、自分たちの今後の教訓にできるように租借出来た気がしています。
明日は、ここからまた海沿いを走り、宮城県へと入ります。
(3日目へ続く)浜べの料理宿 宝来館 宿・ホテル
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