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岡山の後楽園は、岡山藩2代藩主 池田綱政が藩主の安らぎの場として家臣 津田永忠に命じて14年の歳月を投じて築庭させ、1700(元禄13)年に完成しました。元禄文化を代表する大名庭園として国の特別名勝庭園に指定され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ「日本三名園」のひとつに数えられています。築庭に際しては、京都の諸寺院(西芳寺など)をお手本にしたそうです。<br />市内を流れる旭川を挟み、岡山城対岸の中州に位置し、賓客をもてなした「延養亭」を中心とした遠州流の林泉回遊式庭園です。岡山城天守閣や操山を借景に取り入れ、13haもの敷地に緑の芝生や池、築山の間を縫うように曲水と園路を巡らし、和の情緒溢れる日本庭園の粋が凝縮されています。<br />また、畑や田圃といった日本の原風景すら庭園の要素として取り込み、庭園の中でも一目置かれる存在です。昔日の姿をそのままに留め、細部まで形を変えることなく維持できていることから、貴重なものとされています。<br />春は梅や桜、夏は蓮や花菖蒲が美しく咲き乱れて四季折々の風情を湛え、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三ツ星を獲得するなど、世界に誇れる庭園と評価されています。<br /><br />庭園のガイドブックです。<br />http://www.okayama-korakuen.jp/guide/pamphlet_jp.pdf

青嵐薫風 吉備路逍遥②後楽園

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2016/05/01 - 2016/05/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

岡山の後楽園は、岡山藩2代藩主 池田綱政が藩主の安らぎの場として家臣 津田永忠に命じて14年の歳月を投じて築庭させ、1700(元禄13)年に完成しました。元禄文化を代表する大名庭園として国の特別名勝庭園に指定され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並ぶ「日本三名園」のひとつに数えられています。築庭に際しては、京都の諸寺院(西芳寺など)をお手本にしたそうです。
市内を流れる旭川を挟み、岡山城対岸の中州に位置し、賓客をもてなした「延養亭」を中心とした遠州流の林泉回遊式庭園です。岡山城天守閣や操山を借景に取り入れ、13haもの敷地に緑の芝生や池、築山の間を縫うように曲水と園路を巡らし、和の情緒溢れる日本庭園の粋が凝縮されています。
また、畑や田圃といった日本の原風景すら庭園の要素として取り込み、庭園の中でも一目置かれる存在です。昔日の姿をそのままに留め、細部まで形を変えることなく維持できていることから、貴重なものとされています。
春は梅や桜、夏は蓮や花菖蒲が美しく咲き乱れて四季折々の風情を湛え、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三ツ星を獲得するなど、世界に誇れる庭園と評価されています。

庭園のガイドブックです。
http://www.okayama-korakuen.jp/guide/pamphlet_jp.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
新幹線

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  • 正門<br />藩主 池田綱政の時代に、藩主の居間延養亭や園内に点在する建物の座敷から眺望を愉しむ趣向の庭として、現在の後楽園の輪郭と基礎ができました。その後、子の継政は、能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、その麓に曲水を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶ瓢箪池を掘らして林泉回遊式庭園の基盤を構築しました。一方、孫の治政は、藩の財政難から田畑の耕作人を削減して一時的に芝生を主体にした庭園としましたが、その後園内東を田畑に戻しています。現在の井田はその名残です。こうした時代毎の藩主の嗜好や社会情勢を反映して後楽園の景観は時代と共に遷り変わり、その積み重ねが現在の庭園の姿です。<br />このように後楽園の真骨頂は、完成図に基づいて造園されたものではなく、藩主の嗜好に応じて造作が変えられていったところにあります。

    正門
    藩主 池田綱政の時代に、藩主の居間延養亭や園内に点在する建物の座敷から眺望を愉しむ趣向の庭として、現在の後楽園の輪郭と基礎ができました。その後、子の継政は、能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、その麓に曲水を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶ瓢箪池を掘らして林泉回遊式庭園の基盤を構築しました。一方、孫の治政は、藩の財政難から田畑の耕作人を削減して一時的に芝生を主体にした庭園としましたが、その後園内東を田畑に戻しています。現在の井田はその名残です。こうした時代毎の藩主の嗜好や社会情勢を反映して後楽園の景観は時代と共に遷り変わり、その積み重ねが現在の庭園の姿です。
    このように後楽園の真骨頂は、完成図に基づいて造園されたものではなく、藩主の嗜好に応じて造作が変えられていったところにあります。

  • 平四郎の松<br />正門を潜った先の正面に植えられているのが、後楽園のシンボルともなっている黒松です。<br />かつてここには後楽園の前身となる名主 里庄平四郎の屋敷がり、その庭先に植わっていた松を残したものが「平四郎の松」です。<br />しかし初代の松は、ここに移植された時点で樹齢が150年だったとも言われており、推定樹齢350年以上となった1945年に松喰虫のため枯れています。現在の松は2代目となります。<br />この松の右手に鶴鳴館があります。

    平四郎の松
    正門を潜った先の正面に植えられているのが、後楽園のシンボルともなっている黒松です。
    かつてここには後楽園の前身となる名主 里庄平四郎の屋敷がり、その庭先に植わっていた松を残したものが「平四郎の松」です。
    しかし初代の松は、ここに移植された時点で樹齢が150年だったとも言われており、推定樹齢350年以上となった1945年に松喰虫のため枯れています。現在の松は2代目となります。
    この松の右手に鶴鳴館があります。

  • 後楽園<br />特徴は広い芝生の園です。伝統的な日本庭園で見られる「苔の美しさ、奇岩名木の組合せ」とは趣向が異なりますが、旭川の中洲という砂地の土質には湿気を好む苔は適せず、苦肉の策で砂地に強い芝生を植えたことが奏功したと思われます。<br />当初は、岡山城の後方に造られた庭園という意味から「後園」と呼ばれていましたが、その後、中国 宋時代の『岳陽楼記』に「士まさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という言葉があり、池田綱政がこの「先憂後楽」の精神で14年掛けて造園したことを顕彰し、1871(明治4)年に名称を「後楽園」と改めています。<br />「先憂後楽」の意味は、「為政者またはリーダーたる者は、人々の困窮を早く察知し、それを回避し、人々が幸福を感じることをもって自らの喜びとする」です。<br />どこかの総理大臣に噛みしめていただきたいお言葉です。

    後楽園
    特徴は広い芝生の園です。伝統的な日本庭園で見られる「苔の美しさ、奇岩名木の組合せ」とは趣向が異なりますが、旭川の中洲という砂地の土質には湿気を好む苔は適せず、苦肉の策で砂地に強い芝生を植えたことが奏功したと思われます。
    当初は、岡山城の後方に造られた庭園という意味から「後園」と呼ばれていましたが、その後、中国 宋時代の『岳陽楼記』に「士まさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という言葉があり、池田綱政がこの「先憂後楽」の精神で14年掛けて造園したことを顕彰し、1871(明治4)年に名称を「後楽園」と改めています。
    「先憂後楽」の意味は、「為政者またはリーダーたる者は、人々の困窮を早く察知し、それを回避し、人々が幸福を感じることをもって自らの喜びとする」です。
    どこかの総理大臣に噛みしめていただきたいお言葉です。

  • 後楽園<br />反時計回りで巡るため、まず鶴鳴館や延養亭が立ち並ぶ一画を目指します。<br />後楽園は、1884(明治17)年までは池田家の茶屋屋敷でしたが 以後名園保存を目的に岡山県に譲渡され、最初は公園ではなく県庁付属地として公開されたそうです。1934(昭和9)年には水害、1945年には戦災に遭い、一時は進駐軍の宿舎として使われたりと数奇な運命を辿りましたが、1967年(昭和42)年に江戸時代の絵図に基づいて復旧が図られ、往時の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。

    後楽園
    反時計回りで巡るため、まず鶴鳴館や延養亭が立ち並ぶ一画を目指します。
    後楽園は、1884(明治17)年までは池田家の茶屋屋敷でしたが 以後名園保存を目的に岡山県に譲渡され、最初は公園ではなく県庁付属地として公開されたそうです。1934(昭和9)年には水害、1945年には戦災に遭い、一時は進駐軍の宿舎として使われたりと数奇な運命を辿りましたが、1967年(昭和42)年に江戸時代の絵図に基づいて復旧が図られ、往時の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。

  • 鶴鳴館<br />鶴鳴館は、庭園で遊ぶ鶴から付けられた館名で、賓客を招待したり、会合を開くための場所でした。かつては接待などに使われた「茅葺の鶴鳴館」がありましたが、残念ながら戦災で焼失しています。<br />現在の建物は1949(昭和24)年に山口県岩国市にあった吉川邸を移築したものですが、武家屋敷の佇まいをよく伝えています。現在は、結婚式や同窓会など、広く一般の方に利用されています。

    鶴鳴館
    鶴鳴館は、庭園で遊ぶ鶴から付けられた館名で、賓客を招待したり、会合を開くための場所でした。かつては接待などに使われた「茅葺の鶴鳴館」がありましたが、残念ながら戦災で焼失しています。
    現在の建物は1949(昭和24)年に山口県岩国市にあった吉川邸を移築したものですが、武家屋敷の佇まいをよく伝えています。現在は、結婚式や同窓会など、広く一般の方に利用されています。

  • 延養亭<br />藩主の静養所や賓客の接待、藩校の儒学の講義場として使われました。園内に点在する建物の中で最も重要な建物で、真っ先に建てられています。藩主は飛び石を渡って入り、ここの縁側から前庭を眺めるのを愉しみにしていたそうです。東向きに建てられている理由は、仲秋の名月を愛でるのに最適なようにしてあるからです。

    延養亭
    藩主の静養所や賓客の接待、藩校の儒学の講義場として使われました。園内に点在する建物の中で最も重要な建物で、真っ先に建てられています。藩主は飛び石を渡って入り、ここの縁側から前庭を眺めるのを愉しみにしていたそうです。東向きに建てられている理由は、仲秋の名月を愛でるのに最適なようにしてあるからです。

  • 延養亭<br />母屋は茅葺、庇は杮葺の田舎式寝殿造です。ここの主室からの眺望が最も素晴らしく、沢の池や唯心山、借景となる操山、その中腹の安住院多宝塔などが一望でき、園内の景勝の殆どがここから見渡せるように造園されています。残念ながら、普段は非公開の建物のひとつです。<br />戦災で焼失しましたが、1960(昭和35)年に当時の後楽園を描いた『御茶屋御絵図』を元に、材料・技術共に日本最高峰のものを集結させて再建しています。この絵図は、奇しくも後楽園の蔵の中から発見されたものですが、奇跡的に空襲で焼け残ったそうです。<br /><br />清流 旭川の豊かな澄んだ水を園内に引込んだ後楽園のもうひとつの見所は、バリエーション豊かな曲水です。ある時はせせらぎ、ある時は大河や渓流、滝の如く、また島を浮かべる瀬戸内海の多島美のように千変万化の姿を魅せてくれます。<br />園内を流れる曲水の全長は実に640mにもおよび、その起点は、園内北の松林の中にある観騎亭の横にあり、石組みの暗い穴の奥から清冽な水が注ぎ込んでいます。ほとんど高低差のないこの土地に川から水を引き込み、曲水を造ることは、往時としては相当高度な土木技術だったそうです。案内板によると、園内に巡らされた水は、旭川の約4km上流にある灌漑用水から引き込み、サイホンの原理を応用して園の北側の低湿地を潜らせて吐出させていたそうです。そして園内で池や滝となって美しい景観を創った後は再び旭川へ戻され、自然と環境に配慮した造園構造が採られていたようです。1964年以降は、地下の伏流水をポンプで汲み上げているようです。

    延養亭
    母屋は茅葺、庇は杮葺の田舎式寝殿造です。ここの主室からの眺望が最も素晴らしく、沢の池や唯心山、借景となる操山、その中腹の安住院多宝塔などが一望でき、園内の景勝の殆どがここから見渡せるように造園されています。残念ながら、普段は非公開の建物のひとつです。
    戦災で焼失しましたが、1960(昭和35)年に当時の後楽園を描いた『御茶屋御絵図』を元に、材料・技術共に日本最高峰のものを集結させて再建しています。この絵図は、奇しくも後楽園の蔵の中から発見されたものですが、奇跡的に空襲で焼け残ったそうです。

    清流 旭川の豊かな澄んだ水を園内に引込んだ後楽園のもうひとつの見所は、バリエーション豊かな曲水です。ある時はせせらぎ、ある時は大河や渓流、滝の如く、また島を浮かべる瀬戸内海の多島美のように千変万化の姿を魅せてくれます。
    園内を流れる曲水の全長は実に640mにもおよび、その起点は、園内北の松林の中にある観騎亭の横にあり、石組みの暗い穴の奥から清冽な水が注ぎ込んでいます。ほとんど高低差のないこの土地に川から水を引き込み、曲水を造ることは、往時としては相当高度な土木技術だったそうです。案内板によると、園内に巡らされた水は、旭川の約4km上流にある灌漑用水から引き込み、サイホンの原理を応用して園の北側の低湿地を潜らせて吐出させていたそうです。そして園内で池や滝となって美しい景観を創った後は再び旭川へ戻され、自然と環境に配慮した造園構造が採られていたようです。1964年以降は、地下の伏流水をポンプで汲み上げているようです。

  • 延養亭<br />手水鉢が「カバ」が大きく口を開けた様を彷彿とさせ、思わず頬が弛みます。<br />本来は亀を象ったものなのでしょうか?<br /><br />綱政から造園を任されたのは津田永忠でしたが、彼一人でこのような立派な後楽園が造れるはずもなく、多くの家臣が粉骨砕身で尽力し、改修に改修を重ねて今日の後楽園があります。<br />また、完成後も水害で流されたりして廃園の声も上がったそうですが、その度に見識のある人が懸命に訴えてなんとか存続してきました。<br />その中で一番の存続危機は終戦直後だったそうです。岡山大空襲で岡山城も焼け落ちて後楽園も廃虚と化しました。一面焼け野原で 後楽園は浮浪者の溜まり場やゴミ捨て場になっていたそうです。1954(昭和29)年に当時の三木知事が復興財源の確保とモラルの向上を訴え、入場料を徴収して本格的な庭園整備を行なって復旧させたそうです。現代では人々を魅了してやまない岡山県のランドマークとなっていますが、何百年もの歴史の中には聞くも涙の物語が隠されていたとは…。

    延養亭
    手水鉢が「カバ」が大きく口を開けた様を彷彿とさせ、思わず頬が弛みます。
    本来は亀を象ったものなのでしょうか?

    綱政から造園を任されたのは津田永忠でしたが、彼一人でこのような立派な後楽園が造れるはずもなく、多くの家臣が粉骨砕身で尽力し、改修に改修を重ねて今日の後楽園があります。
    また、完成後も水害で流されたりして廃園の声も上がったそうですが、その度に見識のある人が懸命に訴えてなんとか存続してきました。
    その中で一番の存続危機は終戦直後だったそうです。岡山大空襲で岡山城も焼け落ちて後楽園も廃虚と化しました。一面焼け野原で 後楽園は浮浪者の溜まり場やゴミ捨て場になっていたそうです。1954(昭和29)年に当時の三木知事が復興財源の確保とモラルの向上を訴え、入場料を徴収して本格的な庭園整備を行なって復旧させたそうです。現代では人々を魅了してやまない岡山県のランドマークとなっていますが、何百年もの歴史の中には聞くも涙の物語が隠されていたとは…。

  • 花葉(かよう)の池<br />この池では、大輪の白い花を咲かせる蓮「一天四海(通称:大名蓮)」が夏に咲くそうです。しかし、このシーズンは少し寂しげです。<br /><br />池田綱政は我侭で女好き、勉強嫌いといった一面がクローズアップされていますが、「英断の君」「仁愛の君」と家臣から慕われていたそうです。そんな綱政の人となりが後楽園の築庭プロセスにも窺え、面白いことに年代毎に分類することができます。<br />50歳代では庭園内の建築物などの施設がほぼ整い、60歳代では神仏を祀る御堂を造り、70歳代には能舞台を造って家臣やその妻女、領民たちに藩主自ら舞う能の興行を拝見させています。参勤交代により岡山在国は限られていましたが、144回の能の興行を行い、75000人に能を見物させたと日記に記したほどです。<br />歴代の藩主は民の言い分をよく聞き、年貢も抑えていたため、他所にあるような一揆などは起こらなかったそうです。まさに「先憂後楽」だったと言えます。

    花葉(かよう)の池
    この池では、大輪の白い花を咲かせる蓮「一天四海(通称:大名蓮)」が夏に咲くそうです。しかし、このシーズンは少し寂しげです。

    池田綱政は我侭で女好き、勉強嫌いといった一面がクローズアップされていますが、「英断の君」「仁愛の君」と家臣から慕われていたそうです。そんな綱政の人となりが後楽園の築庭プロセスにも窺え、面白いことに年代毎に分類することができます。
    50歳代では庭園内の建築物などの施設がほぼ整い、60歳代では神仏を祀る御堂を造り、70歳代には能舞台を造って家臣やその妻女、領民たちに藩主自ら舞う能の興行を拝見させています。参勤交代により岡山在国は限られていましたが、144回の能の興行を行い、75000人に能を見物させたと日記に記したほどです。
    歴代の藩主は民の言い分をよく聞き、年貢も抑えていたため、他所にあるような一揆などは起こらなかったそうです。まさに「先憂後楽」だったと言えます。

  • 栄唱橋<br />花葉の池に架かるのは、藩主が来園の際に必ず渡ったと伝えられる後楽園十勝のひとつの「栄唱橋」です。<br />高欄付きのジグザグに折れ曲がった趣のある板橋で、花葉の池を斜めに渡ることになります。園を描いた古地図ではどれもがこの橋を異様に大きく描いており、栄唱橋が占める存在感の高さを示しています。<br />何故、橋がジグザグの形をしているのかご存知でしょうか?<br />悪い霊(直進しかできない悪霊)が橋を渡って向こう岸へ渡れないように、ジグザグ橋になっているそうです。

    栄唱橋
    花葉の池に架かるのは、藩主が来園の際に必ず渡ったと伝えられる後楽園十勝のひとつの「栄唱橋」です。
    高欄付きのジグザグに折れ曲がった趣のある板橋で、花葉の池を斜めに渡ることになります。園を描いた古地図ではどれもがこの橋を異様に大きく描いており、栄唱橋が占める存在感の高さを示しています。
    何故、橋がジグザグの形をしているのかご存知でしょうか?
    悪い霊(直進しかできない悪霊)が橋を渡って向こう岸へ渡れないように、ジグザグ橋になっているそうです。

  • 大立石<br />江戸時代に造られた大名庭園には、子孫繁栄を願うために「陰陽石」が設置されていることが多いようです。中国から伝わった思想「陰陽五行説」を信奉する大名たちが、庭園の各所に陰・陽セットの岩を据えたのです。<br />後楽園に8か所ある陰陽石のうち、最も巨大なものが「大立石」です。花葉の池の畔にどっしりと腰を据え、高さ7.5m、周囲23mもあります。ひとつの岩が陰と陽の両方を備えた「雌雄同体」となっており、岩全体の姿が陽、池の対岸から見られる割れ目の側が陰となります。元禄時代初期の築庭に当たり、綱政が運ばせたものです。しかも、巨石な花崗岩を90数個に割って運び、元の形に組み上げたもので、まるで立体ジグソーパズルのようです。

    大立石
    江戸時代に造られた大名庭園には、子孫繁栄を願うために「陰陽石」が設置されていることが多いようです。中国から伝わった思想「陰陽五行説」を信奉する大名たちが、庭園の各所に陰・陽セットの岩を据えたのです。
    後楽園に8か所ある陰陽石のうち、最も巨大なものが「大立石」です。花葉の池の畔にどっしりと腰を据え、高さ7.5m、周囲23mもあります。ひとつの岩が陰と陽の両方を備えた「雌雄同体」となっており、岩全体の姿が陽、池の対岸から見られる割れ目の側が陰となります。元禄時代初期の築庭に当たり、綱政が運ばせたものです。しかも、巨石な花崗岩を90数個に割って運び、元の形に組み上げたもので、まるで立体ジグソーパズルのようです。

  • 大立石<br />単に割ったのでは崩れたり想定外の割れ方をすることを察すれば、往時の石工の技術は神の領域に達していたと窺えます。石の目を読んで隙間を作り、そこへ木材で作った楔を打ち込み、それに水をかけます。木材は水分を吸収して膨張し、その力で石を割ったようです。<br />石の割り方が判る木型も残されており、それが入れられた木箱の裏には、墨で「天明8年2月8日改めて御覧に入れる花葉大立石 石数92」と記されているそうです。<br />因みに、瀬戸内海に浮かぶ石の産地 犬島から運ばれた花崗岩と説明されていますが、産地の学術的な検証はまだできていないそうです。

    大立石
    単に割ったのでは崩れたり想定外の割れ方をすることを察すれば、往時の石工の技術は神の領域に達していたと窺えます。石の目を読んで隙間を作り、そこへ木材で作った楔を打ち込み、それに水をかけます。木材は水分を吸収して膨張し、その力で石を割ったようです。
    石の割り方が判る木型も残されており、それが入れられた木箱の裏には、墨で「天明8年2月8日改めて御覧に入れる花葉大立石 石数92」と記されているそうです。
    因みに、瀬戸内海に浮かぶ石の産地 犬島から運ばれた花崗岩と説明されていますが、産地の学術的な検証はまだできていないそうです。

  • 二色が岡<br />花葉の池の周囲は、二色が岡という鬱蒼とした杜になっています。<br />木漏れ日を浴びながら散策が愉しめます。<br /><br />3代藩主 継政は綱政と側室 幸品との間に授かったのですが、幸品32歳、綱政はなんと65歳の時の子でした。大名家にとって世継ぎを得ることは、最重要課題だったことが窺えます。<br />幸品は世継ぎの生母となり地位も上がりましたが、責任も重大だったようです。藩主が江戸に詰めている時は岡山城を差配し、江戸では将軍家や諸大名との付き合いに苦労したようです。継政の正室には伊達吉村の娘 和子を迎え入れましたが、色々あって幕府に頼んで岡山城に帰らせてもらったようです。その後、継政は正室を離縁し、伊達藩とその後50年間も絶縁状態になるという大事件に発展しています。<br />岡山城に帰らせてもらった幸品は、後楽園を見学したり、末息子の所に遊びに行ったり、比較的心穏やかに余生を過ごしていたようです。

    二色が岡
    花葉の池の周囲は、二色が岡という鬱蒼とした杜になっています。
    木漏れ日を浴びながら散策が愉しめます。

    3代藩主 継政は綱政と側室 幸品との間に授かったのですが、幸品32歳、綱政はなんと65歳の時の子でした。大名家にとって世継ぎを得ることは、最重要課題だったことが窺えます。
    幸品は世継ぎの生母となり地位も上がりましたが、責任も重大だったようです。藩主が江戸に詰めている時は岡山城を差配し、江戸では将軍家や諸大名との付き合いに苦労したようです。継政の正室には伊達吉村の娘 和子を迎え入れましたが、色々あって幕府に頼んで岡山城に帰らせてもらったようです。その後、継政は正室を離縁し、伊達藩とその後50年間も絶縁状態になるという大事件に発展しています。
    岡山城に帰らせてもらった幸品は、後楽園を見学したり、末息子の所に遊びに行ったり、比較的心穏やかに余生を過ごしていたようです。

  • 地蔵堂<br />藩主が後楽園に御舟入する場所の直ぐ近くに設けられていることから、藩主にとって極めて重要な場所であったことが窺えます。<br />側室 幸品(栄光院)の男子(継政)出産を祈って、1702(元禄15)年に綱政が設置した杉皮葺の小堂です。地蔵は子供の守り仏です。祠の手前には小さな石燈籠が2つ立てられ、鳥居は1802(享和2)年に6代藩主 斉政が建立しています。<br />嗣子の政順は7歳に成長したものの、御家のことを考えればもう一人は男児が欲しい。そんな折、側室 幸品の懐妊が分かりました。幸品は元禄15年8月に継政を生みますが、綱政が地蔵堂を設けたのが2月のことでした。頻繁に後楽園に通い、その度に地蔵堂で手を合わせていた綱政の姿が目の前に浮かぶようです。綱政は継政の健康を祈り、地蔵堂へのお参りを続けたことでしょう。案の定、継政8歳の時、嗣子の政順が14歳で早世します。こうして地蔵堂の前に立つと、綱政の魂が今もここに息づいているような気がします。

    地蔵堂
    藩主が後楽園に御舟入する場所の直ぐ近くに設けられていることから、藩主にとって極めて重要な場所であったことが窺えます。
    側室 幸品(栄光院)の男子(継政)出産を祈って、1702(元禄15)年に綱政が設置した杉皮葺の小堂です。地蔵は子供の守り仏です。祠の手前には小さな石燈籠が2つ立てられ、鳥居は1802(享和2)年に6代藩主 斉政が建立しています。
    嗣子の政順は7歳に成長したものの、御家のことを考えればもう一人は男児が欲しい。そんな折、側室 幸品の懐妊が分かりました。幸品は元禄15年8月に継政を生みますが、綱政が地蔵堂を設けたのが2月のことでした。頻繁に後楽園に通い、その度に地蔵堂で手を合わせていた綱政の姿が目の前に浮かぶようです。綱政は継政の健康を祈り、地蔵堂へのお参りを続けたことでしょう。案の定、継政8歳の時、嗣子の政順が14歳で早世します。こうして地蔵堂の前に立つと、綱政の魂が今もここに息づいているような気がします。

  • 廉池軒(れんちけん)<br />池は優美な曲線を描き、廉池軒には意図的に「く」の字に歪曲させた切石の石橋を渡って至る演出がなされています。珍しく粋な力作です。<br />種々の趣向を凝らした御茶屋のひとつであり、木造平屋建、寄棟、茅葺、平面は雁行状に配置され、池に面する濡縁と下屋庇が印象深い景観を創りだしています。

    廉池軒(れんちけん)
    池は優美な曲線を描き、廉池軒には意図的に「く」の字に歪曲させた切石の石橋を渡って至る演出がなされています。珍しく粋な力作です。
    種々の趣向を凝らした御茶屋のひとつであり、木造平屋建、寄棟、茅葺、平面は雁行状に配置され、池に面する濡縁と下屋庇が印象深い景観を創りだしています。

  • 廉池軒<br />軒は東西2棟に分かれ、「漣波(さざなみ)」と称する柿葺の6畳間で2棟が繋がれています。西棟は鈎の手になった17畳床付き、東棟は茶店「さざなみ茶屋」となっています。<br />1934(昭和9)年の室戸台風で壊れた後 絵図に基づいて復旧され、岡山大空襲では戦災を免れたため300年前に築庭された往時の配置と意匠を今に伝えています。<br />

    廉池軒
    軒は東西2棟に分かれ、「漣波(さざなみ)」と称する柿葺の6畳間で2棟が繋がれています。西棟は鈎の手になった17畳床付き、東棟は茶店「さざなみ茶屋」となっています。
    1934(昭和9)年の室戸台風で壊れた後 絵図に基づいて復旧され、岡山大空襲では戦災を免れたため300年前に築庭された往時の配置と意匠を今に伝えています。

  • 廉池軒<br />2代藩主 綱政が好んで利用したと伝えられ、ここで朝食を摂ったり、庭園の管理をしている奉行に褒美を渡すなどした記録が残されているそうです。<br />ここの「漣波の間」と称する6畳間が藩主の食事の間でした。ここに竹飾りが添えられた風雅な円窓があり、往時が偲ばれます。

    廉池軒
    2代藩主 綱政が好んで利用したと伝えられ、ここで朝食を摂ったり、庭園の管理をしている奉行に褒美を渡すなどした記録が残されているそうです。
    ここの「漣波の間」と称する6畳間が藩主の食事の間でした。ここに竹飾りが添えられた風雅な円窓があり、往時が偲ばれます。

  • 廉池軒<br />初代藩主 池田光政の正室は勝姫であり、本多忠刻と千姫の娘に当たります。また、勝姫は後楽園を築庭した2代藩主 綱政の実母でもあります。このことから、綱政は徳川歴代将軍との縁が深く、祖母「千姫」の御蔭をもらった幸運なお殿様とも言われました。<br />また、千姫に留まらず、叔母に当たる桂昌院(綱吉の母)からも御蔭を受けたり、姉の輝子が3代将軍家光の養女として嫁いだことも幸いし、将軍家との繋がりが深く、とても人間関係に恵まれたお殿様だったようです。<br />余談ですが、千姫は、姫路旅行記で紹介したように政略結婚に人生を翻弄された悲運なお姫様です。彼女は、優しく穏やかで美しいお姫様のイメージに加え、芯の強さや奔放さも併せ持ちました。更に妖艶さや猟奇性までバラエティ豊かな人物像にも親しみが感じられる女性です。

    廉池軒
    初代藩主 池田光政の正室は勝姫であり、本多忠刻と千姫の娘に当たります。また、勝姫は後楽園を築庭した2代藩主 綱政の実母でもあります。このことから、綱政は徳川歴代将軍との縁が深く、祖母「千姫」の御蔭をもらった幸運なお殿様とも言われました。
    また、千姫に留まらず、叔母に当たる桂昌院(綱吉の母)からも御蔭を受けたり、姉の輝子が3代将軍家光の養女として嫁いだことも幸いし、将軍家との繋がりが深く、とても人間関係に恵まれたお殿様だったようです。
    余談ですが、千姫は、姫路旅行記で紹介したように政略結婚に人生を翻弄された悲運なお姫様です。彼女は、優しく穏やかで美しいお姫様のイメージに加え、芯の強さや奔放さも併せ持ちました。更に妖艶さや猟奇性までバラエティ豊かな人物像にも親しみが感じられる女性です。

  • おほほ石<br />唯心山の南麓、曲水に面した位置にある陰陽石は、「おほほ石」とも呼ばれ園内の代表的存在です。水際にある陰石は桃の実のような形をしています。その背後に雄々しく屹立するのが高さ2m以上もある陽石です。絵に描いたような陰陽カップルです。綱政とその子継政は、池田宗家の末裔たちが1826(文政9)年に島津藩から最初の養子を迎えざるを得ない事態となることを予見していたのかも知れません。<br />何故「おほほ石」と呼ばれるのかと言うと、「昭和皇后」が若かりし頃にここを訪れた際、案内人がそれとな「陰陽石」を説明したところ、口に手を当てて上品に「オホホ」と笑われたそうです。それ以来、この陰陽石は「おほほ石」と呼ばれるようになったそうです。<br />

    おほほ石
    唯心山の南麓、曲水に面した位置にある陰陽石は、「おほほ石」とも呼ばれ園内の代表的存在です。水際にある陰石は桃の実のような形をしています。その背後に雄々しく屹立するのが高さ2m以上もある陽石です。絵に描いたような陰陽カップルです。綱政とその子継政は、池田宗家の末裔たちが1826(文政9)年に島津藩から最初の養子を迎えざるを得ない事態となることを予見していたのかも知れません。
    何故「おほほ石」と呼ばれるのかと言うと、「昭和皇后」が若かりし頃にここを訪れた際、案内人がそれとな「陰陽石」を説明したところ、口に手を当てて上品に「オホホ」と笑われたそうです。それ以来、この陰陽石は「おほほ石」と呼ばれるようになったそうです。

  • 中の島<br />沢の池に浮かぶ島で、当初は半島状でしたが江戸時代末期に島として造成されています。隣にある御野島との間が上道郡と御野郡との郡境で石標が建立されています。<br />当初、中の島には弁財天堂が勧請されていましたが、1754(宝暦4)年に千入の森(現在地)に遷され、代わって島茶屋が設けられています。 <br />中の島に架けられた太鼓橋は絶好の撮影スポットなのでいつも混み合っています。TVCMの影響でしょうか?

    中の島
    沢の池に浮かぶ島で、当初は半島状でしたが江戸時代末期に島として造成されています。隣にある御野島との間が上道郡と御野郡との郡境で石標が建立されています。
    当初、中の島には弁財天堂が勧請されていましたが、1754(宝暦4)年に千入の森(現在地)に遷され、代わって島茶屋が設けられています。
    中の島に架けられた太鼓橋は絶好の撮影スポットなのでいつも混み合っています。TVCMの影響でしょうか?

  • 唯心山(ゆいしんざん)<br />3代藩主 継政の時代の1723(享保8)年頃に着工し、2年がかりで後楽園のほぼ中央に高さ6mの築山が設けられました。頂上からは庭園全体が見渡せると同時に、どこからでも挑められるように設計されています。それまでの後楽園は平面的でしたが、唯心山の築造によって立体的な景観へと変貌を遂げました。<br />特に北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店からの眺望に重きを置いているようです。山腹には唯心堂があり、斜面には石組に併せてツツジやサツキが植えられ、花の季節には紅白の花で彩られます。

    唯心山(ゆいしんざん)
    3代藩主 継政の時代の1723(享保8)年頃に着工し、2年がかりで後楽園のほぼ中央に高さ6mの築山が設けられました。頂上からは庭園全体が見渡せると同時に、どこからでも挑められるように設計されています。それまでの後楽園は平面的でしたが、唯心山の築造によって立体的な景観へと変貌を遂げました。
    特に北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店からの眺望に重きを置いているようです。山腹には唯心堂があり、斜面には石組に併せてツツジやサツキが植えられ、花の季節には紅白の花で彩られます。

  • 唯心山<br />ここにもジグザグの形をした石橋が架けられています。<br />悪い霊が橋を渡って唯心山へ来ないように縁起を担いでいます。

    唯心山
    ここにもジグザグの形をした石橋が架けられています。
    悪い霊が橋を渡って唯心山へ来ないように縁起を担いでいます。

  • 唯心山<br />唯心山からの眺望です。<br />琵琶湖をイメージして造られた大きな沢の池には、近江八景を藩主が懐かしみ縮景を庭園に取り入れた景色が望めます。<br />池に浮かぶ島は、右から順に島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島(みのしま)、白砂青松が美しい砂利島となり、瀬戸内海の多美島の雰囲気も秘めています。<br />砂利島は、優雅に泳ぐ海亀の姿を模した島です。島の白砂青松にはアクセントに雪見燈篭が置かれ、穏やかで静かな瀬戸内の海にひっそりと浮かぶ孤島をイメージさせます。

    唯心山
    唯心山からの眺望です。
    琵琶湖をイメージして造られた大きな沢の池には、近江八景を藩主が懐かしみ縮景を庭園に取り入れた景色が望めます。
    池に浮かぶ島は、右から順に島茶屋のある中の島、釣殿のある御野島(みのしま)、白砂青松が美しい砂利島となり、瀬戸内海の多美島の雰囲気も秘めています。
    砂利島は、優雅に泳ぐ海亀の姿を模した島です。島の白砂青松にはアクセントに雪見燈篭が置かれ、穏やかで静かな瀬戸内の海にひっそりと浮かぶ孤島をイメージさせます。

  • 唯心山<br />田圃や畑と言った日本の原風景までも庭園に取り込んでいるのは珍しいです。<br />手前の井田(せいでん=田圃)には一面にレンゲの花が咲き、紫色の絨毯のようです。かつて園内に広がっていた田畑の名残で、中国周時代の田租法に倣って幕末に形作られた田圃です。井田の右には、2000年の時を経て甦った大賀ハスがあります。<br />その先には、美しい丸刈りの列が続く茶畑が広がり、どこか牧歌的な風情を湛えています。茶畑は築庭当初からこの位置にあり、背景の緩やかな曲線を描く土手山と調和しています。江戸時代には、ここで作られた葉茶は、藩主が普段飲むお茶として使われたそうです。

    唯心山
    田圃や畑と言った日本の原風景までも庭園に取り込んでいるのは珍しいです。
    手前の井田(せいでん=田圃)には一面にレンゲの花が咲き、紫色の絨毯のようです。かつて園内に広がっていた田畑の名残で、中国周時代の田租法に倣って幕末に形作られた田圃です。井田の右には、2000年の時を経て甦った大賀ハスがあります。
    その先には、美しい丸刈りの列が続く茶畑が広がり、どこか牧歌的な風情を湛えています。茶畑は築庭当初からこの位置にあり、背景の緩やかな曲線を描く土手山と調和しています。江戸時代には、ここで作られた葉茶は、藩主が普段飲むお茶として使われたそうです。

  • 唯心山<br />鶴鳴館と延養亭、能舞台方面です。<br />後楽園が当時とても珍しいとされた理由は、日本で初めて大量の芝生を使って造られた林泉回遊式の大庭園だったからです。庭を一周りすることで、一巻の絵巻物を見るがごとく、移り変わる景色が愉しめたからです。

    唯心山
    鶴鳴館と延養亭、能舞台方面です。
    後楽園が当時とても珍しいとされた理由は、日本で初めて大量の芝生を使って造られた林泉回遊式の大庭園だったからです。庭を一周りすることで、一巻の絵巻物を見るがごとく、移り変わる景色が愉しめたからです。

  • 唯心山<br />唯心山の山頂では2組の陰陽石を拝むことができます。<br />山頂の平坦面の南東側にある石組みは、大きな方が陰石で高さ1.5mあります。女性の方が身長の高いカップルが仲良く寄り添う様は、なんだか微笑ましい感じがします。<br />

    唯心山
    唯心山の山頂では2組の陰陽石を拝むことができます。
    山頂の平坦面の南東側にある石組みは、大きな方が陰石で高さ1.5mあります。女性の方が身長の高いカップルが仲良く寄り添う様は、なんだか微笑ましい感じがします。

  • 唯心山<br />もう1組は、園内を見渡すための子供のお立ち台になってしまっています。<br />丸い石臼(直径70cm程)が陰石、その後方の自然石(高さ80cm程)が陽石とされています。少し意表を突かれる陰陽石ですが、かつては、この石臼でハゼの実を潰して蝋燭を作っていたそうです。

    唯心山
    もう1組は、園内を見渡すための子供のお立ち台になってしまっています。
    丸い石臼(直径70cm程)が陰石、その後方の自然石(高さ80cm程)が陽石とされています。少し意表を突かれる陰陽石ですが、かつては、この石臼でハゼの実を潰して蝋燭を作っていたそうです。

  • 蘇鉄園<br />蘇鉄は大名庭園には不可欠の植物です。造園初期から、砂原には数十株植えられていたそうです。幕末には数が減少していましたが、高崎県令が郷土鹿児島より蘇鉄の株を取り寄せ復旧したそうです。

    蘇鉄園
    蘇鉄は大名庭園には不可欠の植物です。造園初期から、砂原には数十株植えられていたそうです。幕末には数が減少していましたが、高崎県令が郷土鹿児島より蘇鉄の株を取り寄せ復旧したそうです。

  • 八橋(やつはし)<br />曲水が縦横に走る園内には、沢山の橋が架けられています。その種類や形も多彩ですが、このような木造の八橋も見られます。<br />曲水に8枚の板を渡した風雅な八橋の傍らには、杜若が植えられています。「八橋」と「杜若」の組み合わせと言えば、平安時代初期の『伊勢物語』所収の「東下り」の段を連想される方も多いのではないでしょうか。実際に『伊勢物語』の世界に因んで造られたものであり、とても風雅な情景を映しています。その斬新な構造と共に、往時の藩主の教養の高さにも脱帽です。<br />「東下り」の段は、失意の中で東国の旅に出た主人公が難渋しながら漸く三河の八橋に辿り着き、辺りの湿地帯に群生する美しい杜若の花を見て、都に残してきた最愛の妻を偲び、都での妻との生活を思い返し、遠くまでやってきたこの旅を悲しく思う場面です。<br />杜若は、6月上旬に白や紫などの見事な花を咲かせるそうです。

    八橋(やつはし)
    曲水が縦横に走る園内には、沢山の橋が架けられています。その種類や形も多彩ですが、このような木造の八橋も見られます。
    曲水に8枚の板を渡した風雅な八橋の傍らには、杜若が植えられています。「八橋」と「杜若」の組み合わせと言えば、平安時代初期の『伊勢物語』所収の「東下り」の段を連想される方も多いのではないでしょうか。実際に『伊勢物語』の世界に因んで造られたものであり、とても風雅な情景を映しています。その斬新な構造と共に、往時の藩主の教養の高さにも脱帽です。
    「東下り」の段は、失意の中で東国の旅に出た主人公が難渋しながら漸く三河の八橋に辿り着き、辺りの湿地帯に群生する美しい杜若の花を見て、都に残してきた最愛の妻を偲び、都での妻との生活を思い返し、遠くまでやってきたこの旅を悲しく思う場面です。
    杜若は、6月上旬に白や紫などの見事な花を咲かせるそうです。

  • 流店<br />木造2階建、寄棟、檜皮葺で、1691(元禄4)年頃に建てられました。1階は外壁のない四方吹き放しで、浮遊感に満ちた空間です。<br />岡山大空襲で多くの建物が焼失する中、被害を免れた貴重な建物のひとつで、簡素な佇まいを今に残しています。

    流店
    木造2階建、寄棟、檜皮葺で、1691(元禄4)年頃に建てられました。1階は外壁のない四方吹き放しで、浮遊感に満ちた空間です。
    岡山大空襲で多くの建物が焼失する中、被害を免れた貴重な建物のひとつで、簡素な佇まいを今に残しています。

  • 花菖蒲畑<br />一面に紫色の花菖蒲が咲き乱れています。

    花菖蒲畑
    一面に紫色の花菖蒲が咲き乱れています。

  • 流店<br />この一帯は水の流れを愉しむ場所だったようで、藩主が後庭園を散策した際、休憩所や来賓の接待場所として利用しました。中央に水路を引き込み、赤や青色の色彩に富んだ京洛 加茂川から運んだ高価な奇石6個を直線的に配した珍しい建物です。<br />平安時代に催された「曲水の宴」を彷彿とさせる構成ですが、残念ながらそうした史実はないようです。

    流店
    この一帯は水の流れを愉しむ場所だったようで、藩主が後庭園を散策した際、休憩所や来賓の接待場所として利用しました。中央に水路を引き込み、赤や青色の色彩に富んだ京洛 加茂川から運んだ高価な奇石6個を直線的に配した珍しい建物です。
    平安時代に催された「曲水の宴」を彷彿とさせる構成ですが、残念ながらそうした史実はないようです。

  • 流店<br />この建物には2階があります。藩主は、園内で田植えをする農民の姿を2階の窓から眺め、その苦労を知ろうとしたそうです。<br />1階には壁がなく、現在の建築基準に満たないため、再建する際には相当の無理難題が課されることでしょう。<br />

    流店
    この建物には2階があります。藩主は、園内で田植えをする農民の姿を2階の窓から眺め、その苦労を知ろうとしたそうです。
    1階には壁がなく、現在の建築基準に満たないため、再建する際には相当の無理難題が課されることでしょう。

  • 流店<br />寄棟の各屋根は、雨樋もなくすっきりしており、端部の反りがさりげなく美しく映ります。庇を受ける柱は丸太、内部の柱は角柱と拘りを見せています。床は板張りですが、元々は畳敷きだったそうです。<br />流店の北側に座ると、目の前の水の流れに加えて流店の外を流れる水が眺められ、水が創りだす景色を盛り立てています。心静かに水の流れを眺めていると、ここで憩った歴代藩主の姿が偲ばれます。<br />

    流店
    寄棟の各屋根は、雨樋もなくすっきりしており、端部の反りがさりげなく美しく映ります。庇を受ける柱は丸太、内部の柱は角柱と拘りを見せています。床は板張りですが、元々は畳敷きだったそうです。
    流店の北側に座ると、目の前の水の流れに加えて流店の外を流れる水が眺められ、水が創りだす景色を盛り立てています。心静かに水の流れを眺めていると、ここで憩った歴代藩主の姿が偲ばれます。

  • 藤棚<br />大きくはありませんが藤棚もあります。

    藤棚
    大きくはありませんが藤棚もあります。

  • 花交(かこう)の滝<br />後楽園内には、花葉の滝と花交の滝があります。<br />どちらも落差3m程の石組の滝です。<br />

    花交(かこう)の滝
    後楽園内には、花葉の滝と花交の滝があります。
    どちらも落差3m程の石組の滝です。

  • 百石島<br />花交の池に浮かぶ島を「百石島」と呼びます。<br />ある藩士が浚渫泥でこの島を築くという名案を考え、その褒美として百石をいただいたという伝説に基づいた命名です。<br />

    百石島
    花交の池に浮かぶ島を「百石島」と呼びます。
    ある藩士が浚渫泥でこの島を築くという名案を考え、その褒美として百石をいただいたという伝説に基づいた命名です。

  • 花交の滝<br />大きな音を放つように石組を施した滝です。<br />園内を巡ってきた曲水はここから一気に花交の池に流れ落ち、旭川へ戻されます。花交の由来は、築庭当時、周辺にヤマザクラや花木が植えられており、滝に花や花弁が流されてくる美しさを称えたものです。

    花交の滝
    大きな音を放つように石組を施した滝です。
    園内を巡ってきた曲水はここから一気に花交の池に流れ落ち、旭川へ戻されます。花交の由来は、築庭当時、周辺にヤマザクラや花木が植えられており、滝に花や花弁が流されてくる美しさを称えたものです。

  • 茶祖堂<br />後楽園で最も南に位置するのが茶祖堂です。築庭当時はヤマザクラや花木が混交した景色が愉しめる場所で、かつてはこの場所に「花交軒」という名の建物がありました。<br />幕末の家老の下屋敷にあった侘び茶の祖とされる千利休を祀っていた「利休堂」を明治20年に移築したものです。戦後に再建され、岡山県出身で茶を日本に伝えた栄西禅師も一緒に祀り、茶祖堂と呼んでいます。<br />待合を入れても建坪9坪ほどで、天井には伊勢神宮の神木を使い、他は北山丸太を用いています。<br />蹲に添えた茶庭型石燈篭も見応えがあります。

    茶祖堂
    後楽園で最も南に位置するのが茶祖堂です。築庭当時はヤマザクラや花木が混交した景色が愉しめる場所で、かつてはこの場所に「花交軒」という名の建物がありました。
    幕末の家老の下屋敷にあった侘び茶の祖とされる千利休を祀っていた「利休堂」を明治20年に移築したものです。戦後に再建され、岡山県出身で茶を日本に伝えた栄西禅師も一緒に祀り、茶祖堂と呼んでいます。
    待合を入れても建坪9坪ほどで、天井には伊勢神宮の神木を使い、他は北山丸太を用いています。
    蹲に添えた茶庭型石燈篭も見応えがあります。

  • 茶祖堂<br />鄙びた味わいのある待合です。<br />苔生した路地と飛石が趣を深めています。

    茶祖堂
    鄙びた味わいのある待合です。
    苔生した路地と飛石が趣を深めています。

  • 茶祖堂<br />横から見るとかなり複雑な形をしています。<br />瓦葺屋根の先端には、珍しい小舞けらばが窺えます。

    茶祖堂
    横から見るとかなり複雑な形をしています。
    瓦葺屋根の先端には、珍しい小舞けらばが窺えます。

  • 茶祖堂<br />前庭には、半ば埋められたような姿で陰陽石が置かれています。<br />手前が陰石で奥が陽石です。<br />岡山藩家老だった伊木家が明治時代に茶室を寄贈移築した際、建物と共に陰陽石も移設したものと考えられています。

    茶祖堂
    前庭には、半ば埋められたような姿で陰陽石が置かれています。
    手前が陰石で奥が陽石です。
    岡山藩家老だった伊木家が明治時代に茶室を寄贈移築した際、建物と共に陰陽石も移設したものと考えられています。

  • 慈眼堂<br />後楽園は歴代藩主を務めた池田家から岡山県へ譲渡されましたが、全てが譲渡された訳ではなく、池田家にとって重要な物は除かれています。<br />その象徴的な施設が、後楽園の鬼門に当たる北東の位置に佇む慈眼堂です。立派な山門を持つ堂宇ですが、実は本尊が納められていない空堂だそうです。元々は、綱政が還暦を迎えた時、厄払いとして厚く信仰していた観音像2体を祀った堂宇です。かつて祀られていた本尊は、池田家が管理し、非公開となっています。

    慈眼堂
    後楽園は歴代藩主を務めた池田家から岡山県へ譲渡されましたが、全てが譲渡された訳ではなく、池田家にとって重要な物は除かれています。
    その象徴的な施設が、後楽園の鬼門に当たる北東の位置に佇む慈眼堂です。立派な山門を持つ堂宇ですが、実は本尊が納められていない空堂だそうです。元々は、綱政が還暦を迎えた時、厄払いとして厚く信仰していた観音像2体を祀った堂宇です。かつて祀られていた本尊は、池田家が管理し、非公開となっています。

  • 慈眼堂<br />山門には、仁王の写真が貼られています。<br />綱政は41歳にして漸く長男 吉政を授かりますが、その吉政は18歳で逝去しました。次男 軌隆は、既に夭逝。今度こそはと地蔵堂に祈願したら三男 政順が生まれたと大喜びし、還暦の厄払いと子宝授受の感謝の意を込めて造営したのが慈眼堂です。

    慈眼堂
    山門には、仁王の写真が貼られています。
    綱政は41歳にして漸く長男 吉政を授かりますが、その吉政は18歳で逝去しました。次男 軌隆は、既に夭逝。今度こそはと地蔵堂に祈願したら三男 政順が生まれたと大喜びし、還暦の厄払いと子宝授受の感謝の意を込めて造営したのが慈眼堂です。

  • 慈眼堂<br />本尊は2体の観音像で、1体は法界院(岡山市)より寄進された伽羅木の如意輪観音像、もう1体は池田家所蔵の金銅1寸8分の如意輪観音像です。<br />「慈眼堂」の名の由来は、綱政夫人が患っていた眼の回復祈願を込めたものとも言われています。<br />毎年正月、5月、9月の22日を参詣日と決め、家老にも参拝するよう命じたそうです。この周辺は、歴代藩主の祈りの場でもあったそうです。

    慈眼堂
    本尊は2体の観音像で、1体は法界院(岡山市)より寄進された伽羅木の如意輪観音像、もう1体は池田家所蔵の金銅1寸8分の如意輪観音像です。
    「慈眼堂」の名の由来は、綱政夫人が患っていた眼の回復祈願を込めたものとも言われています。
    毎年正月、5月、9月の22日を参詣日と決め、家老にも参拝するよう命じたそうです。この周辺は、歴代藩主の祈りの場でもあったそうです。

  • 慈眼堂<br />境内には、園内No.2の巨大な陰陽石「烏帽子岩」が安置されています。池田家と領民の繁栄を願うシンボルのひとつと言われ、高さ4.1m、周囲17mあり、「大立石」に比べれば小ぶりですがそれでも堂々たる巨大な花崗岩です。<br />見る方向によって陰とも陽とも見えるのは「大立石」と同じで、こちらは36個に分割して運ばれたものだそうです。 <br />

    慈眼堂
    境内には、園内No.2の巨大な陰陽石「烏帽子岩」が安置されています。池田家と領民の繁栄を願うシンボルのひとつと言われ、高さ4.1m、周囲17mあり、「大立石」に比べれば小ぶりですがそれでも堂々たる巨大な花崗岩です。
    見る方向によって陰とも陽とも見えるのは「大立石」と同じで、こちらは36個に分割して運ばれたものだそうです。

  • 五十三次腰掛茶屋<br />この亭は江戸時代にはなく、明治16年の絵図に初めて現れていることから、幕末〜明治時代初期に建てられたものとされています。<br />現在は丁度良い休憩場所になっています。

    五十三次腰掛茶屋
    この亭は江戸時代にはなく、明治16年の絵図に初めて現れていることから、幕末〜明治時代初期に建てられたものとされています。
    現在は丁度良い休憩場所になっています。

  • 五十三次腰掛茶屋<br />茶屋の名は、東海道五十三次を描いた扁額が掲げられていたことから付けられたと言われています。<br />草葺で、クヌギの皮付き丸太を柱にした簡素なものです。<br />

    五十三次腰掛茶屋
    茶屋の名は、東海道五十三次を描いた扁額が掲げられていたことから付けられたと言われています。
    草葺で、クヌギの皮付き丸太を柱にした簡素なものです。

  • 五十三次腰掛茶屋<br />池に面した連子窓を通して見る岡山城や唯心山の景色には格別の趣があります。竹と雑木を混ぜた格子の窓越しに「沢の池」を眺める格好の場所になっています。格子を通して眺めることで、池を実際よりも広く見せる技巧です。

    五十三次腰掛茶屋
    池に面した連子窓を通して見る岡山城や唯心山の景色には格別の趣があります。竹と雑木を混ぜた格子の窓越しに「沢の池」を眺める格好の場所になっています。格子を通して眺めることで、池を実際よりも広く見せる技巧です。

  • 後楽園<br />五十三次腰掛茶屋の右横のスペースは、絶好の撮影スポットです。<br />唯心山を中心に岡山城が借景になります。

    後楽園
    五十三次腰掛茶屋の右横のスペースは、絶好の撮影スポットです。
    唯心山を中心に岡山城が借景になります。

  • 後楽園<br />名君の誉れ高い厳しい父 光正への反抗心からか、綱政の言動は父とは正反対だったようです。見栄っ張りの派手好みで、昼は蹴鞠、夜は能楽や酒宴という生活に浸り、公家の暮らしに憧れ、衣装も公家風にして有職故実の世界に浸り、武芸や儒学などには見向きもせずに和歌を詠んでいたそうです。また、無類の女好きで、下働きの女中にまで手を出し、70人もの子供を儲けています。しかし嫡男が次々と早逝するなど、家督相続には70歳まで悩まされ続けました。しかし、人には分け隔てなく優しく接し、仁愛慈悲を第一信条とする「ゆるいお殿様」ということもあり、家臣や庶民からは慕われたようです。<br />そんな2代目の破天荒が藩財政に刺激を与えたのか、結果として先代から引き継いだ干拓事業や新田開発に成功し、領内では様々な手工業も興り、備前岡山藩の財政難は見事に解消され、日本有数の豊かさを誇る雄藩となったのです。綱政は、造営事業にも熱心で、池田家の菩提寺である曹源寺を創建したことで「曹源公」とも呼ばれています。

    後楽園
    名君の誉れ高い厳しい父 光正への反抗心からか、綱政の言動は父とは正反対だったようです。見栄っ張りの派手好みで、昼は蹴鞠、夜は能楽や酒宴という生活に浸り、公家の暮らしに憧れ、衣装も公家風にして有職故実の世界に浸り、武芸や儒学などには見向きもせずに和歌を詠んでいたそうです。また、無類の女好きで、下働きの女中にまで手を出し、70人もの子供を儲けています。しかし嫡男が次々と早逝するなど、家督相続には70歳まで悩まされ続けました。しかし、人には分け隔てなく優しく接し、仁愛慈悲を第一信条とする「ゆるいお殿様」ということもあり、家臣や庶民からは慕われたようです。
    そんな2代目の破天荒が藩財政に刺激を与えたのか、結果として先代から引き継いだ干拓事業や新田開発に成功し、領内では様々な手工業も興り、備前岡山藩の財政難は見事に解消され、日本有数の豊かさを誇る雄藩となったのです。綱政は、造営事業にも熱心で、池田家の菩提寺である曹源寺を創建したことで「曹源公」とも呼ばれています。

  • 水車<br />鶴舎近くの曲水には古風な水車がゆっくりと回り、趣を湛えています。

    水車
    鶴舎近くの曲水には古風な水車がゆっくりと回り、趣を湛えています。

  • 鶴舎<br />築庭当時からタンチョウヅルが飼育されており、1844(弘化元)年には、鶴11羽(内丹頂鶴2羽)が暮らしていたようですが、戦後に絶滅したそうです。しかし、岡山の旧制第6高等学校に学んだ中国の郭沫若氏からタンチョウヅル2羽が贈られ、その後、釧路市の協力もあり、その美しい姿が園内に甦っています。現在では4組のつがいが飼育されています。<br />檻の中だけではタンチョウヅルの生活は文字通り「単調」になってしまうため、毎年1月1日と3日に園内を飛翔させているそうです。逃げてしまわないのか、気がかりなところですが…。

    鶴舎
    築庭当時からタンチョウヅルが飼育されており、1844(弘化元)年には、鶴11羽(内丹頂鶴2羽)が暮らしていたようですが、戦後に絶滅したそうです。しかし、岡山の旧制第6高等学校に学んだ中国の郭沫若氏からタンチョウヅル2羽が贈られ、その後、釧路市の協力もあり、その美しい姿が園内に甦っています。現在では4組のつがいが飼育されています。
    檻の中だけではタンチョウヅルの生活は文字通り「単調」になってしまうため、毎年1月1日と3日に園内を飛翔させているそうです。逃げてしまわないのか、気がかりなところですが…。

  • 観騎亭<br />この建物の背後には180mにおよぶ馬場が設けられ、藩主の乗馬訓練場としても利用されました。江戸時代には、家臣が馬術の上達ぶりを藩主の前で披露する行事があり、藩主はこの建物からその様子を眺めたそうです。<br />観騎亭の手前にある大きな敷石は、約300年前の絵図にも描かれており、お殿様の足跡を感じさせます。<br />また桜の時期には、馬場を桜が染め、花見の人気スポットとなるそうです。

    観騎亭
    この建物の背後には180mにおよぶ馬場が設けられ、藩主の乗馬訓練場としても利用されました。江戸時代には、家臣が馬術の上達ぶりを藩主の前で披露する行事があり、藩主はこの建物からその様子を眺めたそうです。
    観騎亭の手前にある大きな敷石は、約300年前の絵図にも描かれており、お殿様の足跡を感じさせます。
    また桜の時期には、馬場を桜が染め、花見の人気スポットとなるそうです。

  • 観射亭<br />木造平屋建、寄棟、茅葺の建物は、藩主が家臣の馬術・弓術の技を観るための建物で馬場側にも窓が開けられています。披露が終わった後には、庭を見物できるという褒美が与えられたそうです。<br />このように後楽園は、藩主の安らぎの場としてだけでなく、文武両道を怠らぬように武芸の稽古場も設けられていました。こうした行事を通じ、藩主が家臣に関心を持っていることを示し、家臣は武芸の腕を磨くことで奉公を果たすという主従の絆を深めることができたようです。<br />建物は岡山大空襲の戦禍にも大きな被害が無く、往時の姿を残しています。こうした記載を見る度に平和の大切さ、戦争に導いた当時の為政者の責任の重さを改めて感じます。安保法については、いったい誰が責任を負うのでしょう…。否、責任の取りようがないからこそ、戦争に巻き込ませてはならないのです。<br />

    観射亭
    木造平屋建、寄棟、茅葺の建物は、藩主が家臣の馬術・弓術の技を観るための建物で馬場側にも窓が開けられています。披露が終わった後には、庭を見物できるという褒美が与えられたそうです。
    このように後楽園は、藩主の安らぎの場としてだけでなく、文武両道を怠らぬように武芸の稽古場も設けられていました。こうした行事を通じ、藩主が家臣に関心を持っていることを示し、家臣は武芸の腕を磨くことで奉公を果たすという主従の絆を深めることができたようです。
    建物は岡山大空襲の戦禍にも大きな被害が無く、往時の姿を残しています。こうした記載を見る度に平和の大切さ、戦争に導いた当時の為政者の責任の重さを改めて感じます。安保法については、いったい誰が責任を負うのでしょう…。否、責任の取りようがないからこそ、戦争に巻き込ませてはならないのです。

  • 後楽園 春の幻想庭園<br />夜景を撮るならこのシーズンです。<br />実は旅行2日目の帰途、再び後楽園を訪ねました。<br />幻想庭園の一環として開催されるイベントも多々あります。<br />開催期間:2016年4月29日〜5月31日21時半まで開園<br />後楽園は日没(18時半頃)から点灯されますが、岡山城は19時の点灯でした。

    後楽園 春の幻想庭園
    夜景を撮るならこのシーズンです。
    実は旅行2日目の帰途、再び後楽園を訪ねました。
    幻想庭園の一環として開催されるイベントも多々あります。
    開催期間:2016年4月29日〜5月31日21時半まで開園
    後楽園は日没(18時半頃)から点灯されますが、岡山城は19時の点灯でした。

  • 後楽園 春の幻想庭園<br />園内のスポットライトだけでは少し物足りない感じがします。<br />兼六園などのイルミネーションを参考にされると、より良いものになるのではと思います。<br />借景の代表格が岡山城ですが、烏城と言われるように黒っぽいお城のため、なかなか彩が映えないのも悩みの種かもしれません。かと言って、けばけばしいのも興ざめです。

    後楽園 春の幻想庭園
    園内のスポットライトだけでは少し物足りない感じがします。
    兼六園などのイルミネーションを参考にされると、より良いものになるのではと思います。
    借景の代表格が岡山城ですが、烏城と言われるように黒っぽいお城のため、なかなか彩が映えないのも悩みの種かもしれません。かと言って、けばけばしいのも興ざめです。

  • 後楽園 春の幻想庭園<br />撮影スポットは、五十三次腰掛茶屋横の定番スペースです。<br />18時半頃に入園しましたが、すでに三脚部隊が数名陣取っておられました。<br />夜景の場合は三脚が必須ですのである意味陣取りは止むを得ません。ただし、頃合いを見て移動すべきと思います。

    後楽園 春の幻想庭園
    撮影スポットは、五十三次腰掛茶屋横の定番スペースです。
    18時半頃に入園しましたが、すでに三脚部隊が数名陣取っておられました。
    夜景の場合は三脚が必須ですのである意味陣取りは止むを得ません。ただし、頃合いを見て移動すべきと思います。

  • 後楽園 春の幻想庭園<br />個人的には、このくらいの控えめなイルミネーションの方がお城は美しく映えると思います。<br />もう少し暗くなるのを待ちたい気持ちもありましたが、新幹線の時間が迫っていたため19時10分で引き揚げました。待ち時間が長かったですが、撮影時間は賞味10分足らずでした。<br /><br />この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥③吉備津彦神社にてお届けいたします。

    後楽園 春の幻想庭園
    個人的には、このくらいの控えめなイルミネーションの方がお城は美しく映えると思います。
    もう少し暗くなるのを待ちたい気持ちもありましたが、新幹線の時間が迫っていたため19時10分で引き揚げました。待ち時間が長かったですが、撮影時間は賞味10分足らずでした。

    この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥③吉備津彦神社にてお届けいたします。

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